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DAKKAN
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2008/05/09のBlog
『ランボー 最後の戦場』のレビューをアップしました。
この映画に興味のある方はぜひご覧ください。

2008/05/08のBlog
7月公開となる『HOT FUZZ 俺たちスーパーポリスメン』のエドガー・ライト監督にインタビュー。いろいろゴタゴタして開始時間が10分遅れたり、5分早まったり。しかも現場に行ってみると主演のサイモン・ペッグまでもが同席することになっていた。いや、話を聞けるのは嬉しいのだが、通訳を介してのインタビューだと会話の順番が複雑で質問数が限られてしまうのだ。結局、編集者B氏が「監督だけにしましょう」との英断で事を納めてくれる。

エドガー・ライト、若い!まだ高校生のようにしか見えない!「あなたは映画の枠組みをぶっ壊したいと思ってるの?」と聴くと、「そんな恐れ多いこと、思っちゃいないよ(笑)!でも英国映画の常識は覆したいと思ってる」と返答。

タランティーノに影響を受けた世代として、今後映画ファン注目の存在となってくれそうです。

その後、ガイ・リッチー久々の新作『リボルバー』を試写。朝が早かったせいか、ところどころ記憶が無い。見せ方は巧いが、なかなか混み入った映画なのでクライマックスにかけてよく分からなくなる。僕の頭が悪いんだろうか。

六本木から虎ノ門まで歩いて坂井真紀主演の邦画『ビルと動物園』を試写。「around 30」をテーマにした映画と言われると興味もへったくれも無くなってしまうが、普通の映画として観てみて稀に見る透明感が発露した作品に仕上がっている。何かが始まりそうで始まらない。そのもどかしさ。ビル窓の清掃人がまるで動物園のように中の人間を観察しているアイディアも面白い。テンのような女性とまるでキリンのような若い男が出会い、心を通わせていく。まるで動物園のようなこの世の中で、見る側と見られる側をスイッチすることから始まる人間ドラマ。

夜、テレビを観てると、假屋崎省吾が一厘の花を見て「ほんとうに綺麗ねえ」と泣いていた。本気で泣いていた。この人には敵わないと思った。

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2008/05/06のBlog
BSで黒澤明特集を放送していた。貴重なドキュメンタリーの嵐。その最後を飾ったのが、淀川長治さんのロング・インタビューだ。黒沢監督がなくなった2週間後に撮られ、2ヵ月後には淀川さんも後を追うように亡くなった。

きっと追悼インタビューのようなものだったのだろうと思うが、そんな湿っぽさは微塵も感じない。サバサバしている。そして語られる黒澤映画へのあふれ出る想い。まるで映画の記憶装置だ。大局的なコメントに終始するかと思われたそのとき、「もう終わり?もっと聞きなさい!いい質問をたくさんしなさい!」と逆要求。「それじゃあ…」とディレクターも本腰を入れて各作品論にまで足を踏み込んでいく。すると淀川さんも作品ごとに目を見張るほどに的確な、しかも淀川さんにしか見出しえない作品の本質が口をついて語られていく。この至福の時間。ほんとうに驚いた。『羅生門』の純日本風の音楽がボレロをモチーフにしていたなんて、黒澤ファンには常識なのかもしれないが、僕は初めて気がついて床にぶっ倒れそうになった。

「どうして黒澤映画はここまで世界中の人々に愛されたんだと思いますか?」との質問には、

「黒澤さんはハリウッド映画が大好きだったのね。それを観て育ってきたから、そこで使われてる“映画の言葉”をよく知ってたの。それは世界共通の言葉。彼はそれを使って映画を撮ったから、日本語の分からない世界中の人たちも黒澤作品は充分理解することができた。映画の言葉、それに尽きると思います、はい」

黒澤作品が世界中に愛される理由をここまで端的に説明できる人を僕は知らない。しかも誰もが理解できる、とても簡易な言葉の流れ。そうか!僕らが淀川さんの解説をこよなく愛した理由がここに凝縮されている。彼の口にする言葉自体が“映画の言葉”で語られていたのだ。だからこそ、世界中の人々が黒澤作品を愛したように、日本中の人たちが淀川さんのことを愛していた。そんな時代がかつてあったのだ。

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2008/04/25のBlog
ぐるりのこと』を試写。
橋口監督とは同郷とのことで、個人的にも期待が高まる。

なにせ『ハッシュ!』以来6年ぶりの新作なのだ。主演はリリー・フランキー、木村多江。ノリやテンポに流されることなく、ワンシーン、ワンシーンがたゆたうように、しかし着実に時代の流れを刻んでゆく。

日本が経験した90年代。大きく変わっていく人、あまり変わらない人。その狭間でなんだか息苦しくなって、助けて助けて、と泣きじゃくりながらもがいている人。

・・・ほんとうにいろんな人がいる。

『ぐるりのこと』は、なにか大きな結果が得られなくても「今」を大切に、慈しみながら生きている人たちの息吹きのようなものをひしひしと感じさせてくれる。2時間20分ほどの長尺なのだが、起承転結といった展開を廃して、観客と共に「年代記」を追体験していくような手法に心底魅了される。

失われた時間はもう二度と戻ってこないが、無駄なものなどひとつも無かった。長い長い直線距離をとぼとぼと歩いていくリリー・フランキー&木村多江が本当にいい。彼らは本当の夫婦みたいだ。半分はあて書きされているのだろうが、これはふたりが主演だからこそ成立した映画だったろう。面白いところはとことん面白く、苦しいときには精神的にもとことん重苦しく圧し掛かってくる。泥臭いけれど、そこにはっきりとした手ごたえがある。

新しいようでいて、実はもうずっと前からそこにあった邦画の温もりが、映画の終わったあとにもほっこりと胸に残って、いまだ消え去りそうにない。

命をかけて作られた映画はいつもどこか手触りが違う。

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1956年のアルベール・ラモリス監督作品『赤い風船』にオマージュを捧げる形で、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)が2時間の長編映画を撮り上げた。それが『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』。

この作風がまた実に彼らしいというか、小津安二郎生誕100周年を記念して製作された『珈琲時光』(03)をも思わせる換骨奪胎ぶり。作風や展開を真似るといったありきたりの企画ではなく、もっと精神性の部分で『赤い風船』を咀嚼した作品だった。

とくにこれといったストーリーラインがあるわけではない。

観る人によっては方向性の見えない構成に苛立つかもしれない。真剣に見ているつもりがいつの間にか夢の中・・・って人だっているだろう。

しかし、研ぎ澄まされた画面構成、ワンシーンを長回しで紡ぐ周到な演出、またそれぞれの役者の存在感、彼らの抱えた胸のうちが心地よい空気を生み出していく。そこにレッドバルーンがひとつ、ふわふわと上昇し、いつしかカメラまでもが役者から役者へと浮遊を続ける。

『赤い風船』では“風船と少年”というたったひとつの絆が描かれていたのに対し、『侯孝賢のレッドバルーン』ではいくつもの人間の絆が絡み合い、またほどかれ、結びなおされていく。

その傍らには、やはり象徴的なレッドバルーンが、時代を超えてふわふわと身を揺らしている。

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ベストセラー小説を映画化した『西の魔女が死んだ』を試写。

美しい映像と外国人のおばあさんとその孫娘の命についての言葉のやり取り。
どこか宮崎アニメを思わせる。とくにラストシーンの鮮やかさが心に残る一作。

涙がこぼれそうになる素晴らしいシーンもたくさんあるが、残念な部分もある。原作の持つ魅力をそのまま映像化しようとしたのだろうが、セリフがどこか文学的だったりして、頭でその状況を理解するのにタイムラグが生じてしまう。

そしてこれは本当に微妙なところで、俳優どうしの演技の掛け合わせで生じるべき化学反応が感じられない。やはりキャラクターがセリフで語りすぎる。どうも説明的になってしまう。

だいじょうぶ、表情で分かるのだ。説明は要らない。むしろセリフを廃したシーンの方が活き活きと魅力的だった。大自然の描写は幻想的なまでに美しいし、孫とおばあちゃんの表情だって何も語らずとも柔らかな感情が流れ込んでくる。

それにラストはあんなに素晴らしいじゃないか。

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長年死んでいたこのブログですが、
放っておくのも勿体ないので、ためしに日記を書き始めることにします。

数日経てばやめてしまう単なる気まぐれごとかもしれないし、
数年、数十年続いて、自分の未知なる才能の開花にも繋がるかもしれない

・・・だなんて期待はいっさい捨てよう。

ごく無心に日々を綴るツールとしての日記。

ただそれだけだ。

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