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スポンタ通信。 …スポンタ中村です。21世紀のテーマは「ステークホルダー主導時代の終焉」です。
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2006/03/28のBlog
タイトルの英語?は、勿論、矢沢永吉氏の歌のタイトルである。孤児同然で育った彼が、学校で英語を勉強することなどできなかったろうから…。と、苦笑していたが、最近そうではないことに気がついた。
最近、彼のコンサートのドキュメンタリーをNHKでやっていた。すると、彼のバンドには外人のメンバーがいた。そして気づいた。リハーサルルームに入ったときに、矢沢氏がグッドモーニングと言ったのは、かっこつけたロッカーのセリフではなく、Non-Japaneseに対する配慮だったのだ。
そう考えてくると、J-popの見方も変わってくる。古くは、尾崎亜美ぐらいかもしれぬが、英語が混じった歌詞も、インターナショナルな楽曲として成立するために、混じらせたのかもしれない。単に英語がカッコいいという理由からだけではない。そう思えてくる。勿論、最初は英語がかっこよかったからかもしれぬ。そして、日本語ではストレートすぎて、素直に英語でないと自分の感情を表現できない。そういう気分もあったのかもしれない。(たとえば、紀子さまの英語を聞いていると、日本語では表現していない彼女の思いが伝わってくるようでおもしろい…)

では、我々が目指すべきインターナショナリズムとは何か。
それは簡単なことである。話の輪の中にNon-Japaneseが一人でもいたら、みんなで英語で会話することである。
娘の親友にドイツ人のハーフがいる。お父さんはドイツ人。お母さんは神奈川の人だ。その家族と一緒にご飯を食べるとき、普段はドイツ語で語り合っている夫婦が英語で会話をしてくれる。勿論、私への配慮だ。とはいえ、小学生の娘はドイツ語と日本語しか解らないから、ドイツ語も混じる。娘と女の子の間は日本語。私も極力英語で話そうとする。そして、1年ほどならったドイツ語を披露すると、ハーフの子から、私のドイツ語は分からないと文句がでる。それでも、怯みながらもコミュニケーションをつづける。そういう父親の姿を見続けていれば、娘のコミュニケーション観というものもオープンマインドになっていくに違いない。

ESLという言い方がある。English as second languageの略である。
アメリカなどの留学先でも、ESLとしてカリキュラムをつくって、非英語圏の人たちに英語を教えている。
私たち日本人が得るべきは、ESLであって、間違っても、English as mother languageではない。

仕事で出会った人が、子弟をインターナショナルスクールに通わせていて、英語も日本語も中途半端になったと嘆いていたが、彼が子弟をインターナショナルスクールに通わせてしまった原因は、そういう配慮のなさだったかもしれない。



永ちゃんの英語でいい。長嶋茂雄の英語でいい。私は、そう確信している。
自分からコミュニケーションを閉じてはならぬ。ただ、それだけのことだ。勿論、コミュニケーションして、不毛や危険を感じたら脱兎のごとく逃げる。それも処世の重要な部分ではあるが…。

蛇足:
私は赤い鳥の「翼をください」が嫌いだ。自分が欲しいものをねだってどうする…。と、思うからだ。同じように、高村光太郎の「道程」が嫌いだ。
自分を守って欲しいなどと、懇願してどうする。
そして、「♪~友達になるために 人はめぐり合うんだ~」

ばかもん。である。
友達になるために努力をする。人はめぐり合うのではなく、たどりつくのだ。
なんで学校で教える歌は、こうも甘ちゃんのものばかりなのだろうか。
2006/03/27のBlog
王ジャパンの日本凱旋のニュースを、みのもんたの朝ズバを観ていてびっくりした。あのみのもんたにも、テレビで言えないことがあったのだ。
ことの仔細は次のよう。
大沢親分「イチローは、井口や松井とは格が違うな」
みのもんたが、苦笑の表情をつくる。
その表情をくみとった大沢親分は、「俺が言うのはかまわないんだよ」。

オールジャパンの韓国との苦戦を観ていたWBCの前半戦、松井、城島、井口がいたら…。と、思わなかった人はプロ野球ファンではない。そして、その思いが、日本プロ野球優勝のあとに、松井、城島、井口なんて…。という言説になって当たり前だ。だが、そのことを指摘できるのは、テレビカメラの前のポジションでは、大沢親分だけ。ということだ。

そういえば、3塁に暴走する福留選手を、あの気持ちは重要ですね。とたたえたアナウンサーを、解説者の星野仙一氏はたしなめた。処世にたけた栗山英樹や衣笠幸男だったら、なんと受けたのだろうか…。



私には、テレビカメラのレンズが向けられていないから、松井ってダメな奴だ。と言える。言説によって生活に影響がない無名な人間とはそういうものだ。レンズを向けられても、捨てるものがない人間は、同じことが言える。NHKの「しゃべり場」に出てくる若者たちはそういう類。
だから、言論を封じられたマスコミ人たちは、自分たちは安全なところに隠れていて、巧妙に代理戦争を仕掛ける。雪印の西宮冷蔵の社長の件などは、その典型だ。
毎日新聞には日本のスイッチがある。
これも、同じような意味である。設問の仕方をみれば、新聞人の意図が明確に読み取れるはずだ。

誰も何を言えなくなっている。それが今の日本である。それが今の一番の問題だ。
文部科学大臣賞の選考委員たちの多くがそのことを痛感しているから、爆笑問題に一票を投じたのだろう。
問題発言を繰り返す太田。彼のようなキャラクターをお偉いさんたちも望んでいるのだ。



だが、私はそんな日本に絶望してはいない。
朝のフジテレビでカトゥーンのインタビューを見た。メンバーの話題に、つまらない意見がでると、一人がツッコンだから、もうひとつはボケろ。と、亀梨くんは指摘する。それがカッコいい。
そういうムーブメントが言論の多様性につながらないとも限らない。と、感じている。

そうそう。成田のホテルで、荒川静香と安藤美姫を間違えた王監督のコメント。誰かつっこんであげて欲しかった。つっこんであげれば、王監督も明るく受け流し、談笑の輪が会場に広がったことは間違いないのだから…。

追記:
私が主張しているのは、ステークホルダーは発言できないということ。その意味ですべての社会人は納税者であり、ほとんどのエスタブリッシュは節税対策を行っている。だから、税務に関する言論は、ほとんどがヘタレにならざるをえない。
だから、太田氏が、実は、今回の件が税務査察への入り口ではないかと、ギャグをかましている。
ステークホルダーでも発言をする。その太田氏の度量が評価されたのだ。

私は、太田氏のような傑物を言論人全員に求めるのは無理なのだから、自分がステークホルダーでない分野について発言権を持てる世の中になれば、世の中はあるべき方向にすすむというもの。

危機感を感じている方々は、爆笑問題に賞を与えることで満足してはならない。やるべき具体的な施策は存在するのだ。
2006/03/26のBlog
[ 17:59 ] [ インターネットでわしも考えた ]
歌田明弘の『地球村の事件簿』060317のブログに書き込みをした。

本論は、「誰もが情報操作を始められる時代」と、きっこの日記を話題にしていた。

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コメント

「誰もが情報操作を始められる時代」ではなく、すべての情報が現実との一定の距離があり、その情報化にあっては、何らかの変容がなされることだと思う。

メディアリテラシーとは、正しい情報を選ぶことだと言われているが、正しいという語の虚妄さを考えれば、メディアリテラシーとは、情報の受け手が、送り手の都合や意図を踏まえたうえで、コンテンツを受け取ることだと思う。

情報操作を厳密に排除していったら、現実のテキスト化など無理なのだから…。

名前: スポンタ | 2006年3月17日 午前 11時53分
梅田氏のブログへのスポンタのコメントを採録しています。


ある教科書に次のような文章が載っていた。
「かつて、必要は発明の母といわれていたが、いまは発明は必要の母の時代である」。
この指摘を肯定する思想が梅田氏の本には流れていると私は感じる。教科書の本意は分かりかねるが、現状を暗に批判して書かれたものだろう。

ITイノベーションをアヘン戦争と比べるのは唐突だろうか。
お茶を中国から輸入していたイギリスは、貿易不均衡に陥り、中国人たちにアヘンを教えた。結果、中国人にはアヘン窟が現れ、人々は疲弊していき、戦争にも敗れた。日本がアメリカに輸出する自動車・電気製品。それに対抗して輸入されてくるインターネットやシステム。日本の若者たちはインターネットに没頭して、フリーター化する…。
まぁ、これは戯言に過ぎないが、発明されたものに振り回されていいわけがない。
アメリカの風土と事情によって開発されたものが、ほとんどローカライズされぬまま日本に導入されている。そういうことを勘案せずに、乱暴に「これが世界の明日であり、日本の明日だ」と言説することに危惧を憶えるのである。

ダンさんも梅田さんも、ITの世界の人たちなので、私とはまったく違う現実を見ているのかもしれない。しかし、お互いの意見を交わしたり、思いを共有できないとは考えにくいのですが…。

060326

sqr70さま

書かれていることは、とても納得することです。

唐突ですが、WBCの日本の優勝によって、マスコミたちは、ベースボールと野球は違うものであり、日本の野球かアメリカのベースボールに必ずしも劣るとも限らない。という論調が大手を振るっています。つい、この間には、アメリカ式の野球をしなければならないと言っていた。そして、日本的な勝つための野球を、姑息な手段とでも言うように卑下してもいた。四番がバントをするのは、悲観主義であり、臆病ものだと…。

75年前、正力松太郎氏は、「アメリカに追いつけ、追い越せ」をスローガンに巨人軍を立ちあげましたが、世界一になったときに、気がついたことは、日本風のベースボール(野球)をすればいい。ということです。

仰るように、日本民族がアメリカに即時にキャッチアップすることは能力的に可能でしょう。しかし、それが日本人を幸福にすることにつながるのか。日本を世界一にすることにつながるのかといえば、疑問だと思えてなりません。

横コメントで失礼いたしました。
自分のブログに日記風小説を書いた人が、小説の舞台になった会社から訴えられた。(このブログはすごい。060321
小説は架空の設定で架空の個人名・会社名で書かれていたが、著者は実名であり、その実名からたどっていくと、架空で書かれている個人や会社がかんたんに読者に読み取られてしまうのだという。
そして、裁判所は、ブログの主に100万円を支払えという判断をしたという。裁判費用を考えれば、200万円ぐらいの出費を強いられたことになる。そして、精神的なダメージやそれについやした時間を考えれば、500万円ぐらいのダメージを受けたことになる。
もし、作者があらかじめ、500万円払いますから小説を発表しますか? と提案されたら、即座に拒否していただろう。
普通ブログの個人が、500万円の影響力を覚悟してブログを書いているかといえば。そんなことは殆どないだろう。そのことの危うさを多くのブロガーが知るとともに、そのための安心互助システムの構築がもとめられていると感じている。

因みに、私はマスコミ周辺の状況を理解しているので、言説には明確な線引きがある。そして、その傾向は2ちゃんねるバッシングを経験して、より明確になっている。



もう一つの視点としては、書くことで、公益性があったのかどうか。
当該の個人や会社に打撃を与えるのではなく、それを拡張させて、社会をよりよき方向に導くことができるか、夢想できるか。ということである。
雪印のときの西宮冷蔵の社長は、私怨ではなく、社会正義のために情報を発信したのだと思う。彼の発言をきっかけにして、一流企業に対する社会の見方も変わったし、時代を変革させていく一因になっていったのだと思う。

私は、当該のブログ小説を読んでいない。ということは、話題にもなっていない。とすれば、エンタテイメント性にも書け、社会的意義も薄いものなのかもしれない。勿論、今回裁判が話題になったことで、内容が多くの人に評価されるようになれば話は別で、私がいま書いている言説も、「すんません。読まないで書きました。読んでみたら凄かったです。反省してます」と、撤回しなければならなくなるかもしれない。
そして、私としては、そうなることの方が好ましいことと思っている。



ブログは日記であると、普及を狙ったエバンジェリックな人たちが言説しているけれど、こういう裁判が起きると、ブログは日記ではない。そのことをすべてのブロガーが念頭においてものを書くべきだと思えてならない。
交通遺児基金の代表だった人は、「私怨を公憤に高める」ことの必要性を説いた。
交通事故は加害者のほとんどは魔がさしたものがほとんどで、その加害者を責めても虚しさだけが残る。かといって、自分の中の恨みの気持ちがなくなるわけではない。だから、私怨を公憤に高めることが必要なのだ。
キリスト者の曽野綾子氏は、被害者の遺族は、「許す」という十字架を背負わされて生きていかなければならないことを、社会は忘れてはいけない。と、語っている。他者の罪を許すことなど、キリストをしてなしえられたことで、凡夫にはできぬことだ。
かといって、そういう怒りや恨みの巣窟にブログがなっていくことだけは、御免こうむりたいものだ。

否定形は肯定形・提案する形に。
批判したい場合は、依頼する形に。
意見するのではなく、自分の体験で語るスタイルに。

ブログに限らず、すべての言説がそのようにありたいものです。

追記:
中学生の教科書のディベートでは、相手の意見に反論するやり方が書いてある。
だが、実社会のコミュニケーションの基本は Yes...butである。まず、相手の意見をある程度認めてから、自説に移行する。でないと、議論をした双方が傷ついてしまう。

相手の意見を否定することを学校で体得したこどもたちがこれから世の中に出で来ることを夢想すると、暗澹たる気分になる…。

とんがることを推奨されて世の中に出ても、とっがっているとまわりから削られる。そんな理不尽の世の中であっていいのだろうか。個の言説を自由にする保険制度が必要だと思われてならないし、それは、それぞれの個のためだけでなく、日本の民主主義のためにも必要なことだと感じている。