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スポンタ通信。 …スポンタ中村です。21世紀のテーマは「ステークホルダー主導時代の終焉」です。
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2006/05/11のBlog
具体的には、ウッチャンナンチャンの司会でやっていた一発芸の100万円獲得番組の審査制度を、来たる陪審員制度に取り入れるのだ。

番組を見たことがない人に説明をすると、芸人が短い芸をするのだが、審査員は確か6名(間違ってたら御免)。審査員は出演者芸人が引くスロットルで決定され、審査される芸人は勿論、審査員になった本人も自分が審査員であることは知らされていない。
だから、芸人は、審査員の傾向にそった芸をつくることもできない。
審査員も、自分の役割に緊張して、甘くなって笑い過ぎたり、逆に緊張して笑わなかったりということはない。望遠レンズで撮影された映像で、審査員になった人間が全員笑ったなら合格。そうでないなら、不合格。そこに人事評価で問題になるハロー効果(審査する個の影響による客観性の欠落)はない。



聞く所によると、死刑執行のボタンを押す人間は複数いて、どちらの信号が実際の死刑執行につながっているかは、知らされていないという。そのようにして、死刑執行人の心のケアがなされているという。

陪審員制度も同じことに配慮しないといけないと思う。量刑の多少はあるが、裁く側の心の負担を捨象してはならないのだ。
「十二人の怒れる男」という戯曲は映画にもなったし有名であるが、あの映画は被告が無実だったから爽快感があるエンディングが成立したのだ。現実はそうではない。
たとえ真実を主張したとしても、それが量刑を増やす方向に進めば、陪審員が背負う個の精神的負担は大きいに違いない。



結局のところ、私が何でインターネットで、個の時代を説く言論を展開しているかといえば、もうじきやってくる陪審員制度なんですよ。
人を裁くに足る個の自立が日本にできていない日本人たちに、陪審員制度を持ってくるのは間違っている。
それは、多神教の民族に二大政党制を持ち込んだのと同様、きわめて窮屈な社会のかたちを生み出すに違いないということだ。




今回のM氏、泉氏、R30氏の一件をソシアルトライアルとして学ぶならば、
法廷での容疑者の体温に流されてしまって、刑を軽くする。もしくは、妥当な判断をしたのに、他者を裁いてしまった自分を許すことができずにノイローゼになる。そして、そういうことが、秘守義務によって外に出てこない。
そういう時代が来る。
秘守義務はあったとしても、個の悩みはつきぬから、匿名やワンコメントでの情報流失は避けられない。裁く辛さよりも裁かれるほうがせいせいする。そういう気持ちも日本人なら理解できるはずだ。

*

市民は裁判についてステークホルダー(利害関係者)ではない。だが、市民が陪審員になったとたん、ステークホルダーになる。自らの心の負担を軽くする方向に流されてしまう。だから、お笑い芸一発賞金番組のようなスマートなシステムが必要なのだ。
2006/05/10のBlog
今回の件が世の中的にどの程度注目されているかどうかは分からない。ただ、マスコミ関係者がブログをはじめようとするときには、必ず湯川氏の蹉跌を思い浮かべるだろうし、市民参加型ジャーナリズムの運動を自分で始めようとするとき、Gripblogをリファレンスにしないのはモグリだと思う。
経済系のメディア人が個人ブログを運営する場合もR30氏の顛末を参考にしない手はない。そういう意味では、社会の表舞台でけっして話題にならなくても、とても重要なことだと思う。
そのようにして、ブログムーブメントはヒートダウンしていく…。



NHK「そのとき歴史は動いた」によれば、ルネサンス期の天文学者ガリレオ・ガリレイは、「論争を書き留めねばならぬ。風に吹き飛ばしてはならぬ」と裁判の渦中で述べたそうだが、インターネットのログ機能は、そのことを実現している。ガリレオの言葉の真意は分からぬが、いま、このときの議論が、未来に生きる人々の参考になる日がくるに違いないと確信していたのかもしれない。自分と同じような苦渋を二度と味わう人をつくってはならぬという彼のやさしさでもある。



私が今回のことで危惧するのは、ブログで有名になるのはやばいことだと多くの人が思うことだ。
結果、男たちはサッカーや趣味などの当たり障りのないことをブログでしかかかなくなること。女たちも常識をなぞった自己肯定感で自分の日常を語ることしか、しなくなることだ。

でも、違うんだよ。ステークホルダー(利害関係)な分野についてコメントするから問題が起きているだけなんだよ。ステークホルダーな分野に言説しなければいいんだ。
私は昔、知り合いの高校生を引き合いに出した記事をライブドアPJに書き、罵倒されたことがある。ステークホルダーというほどのことはないが、知人をよいしょしようとするほんのちょっぴりの気持ちが墓穴を掘る原因となった。…反省している。

http://d.hatena.ne.jp/wetfootdog/20050316/p2

実は、今回のことも、そういう要因はあったのだと思う。泉氏も湯川氏もきっかけはそんなささやかな隣人愛、相手の体温に流されてしまっただけのことだと思う。
そして、湯川氏はその危うさに気づき、一定の説明責任を終えると、リアルな世界のさまざまな要因から沈黙にはいった。
泉氏はその危うさに気づくこともできず、制止するリアルな要件もなかったから、隣人愛と相手の体温に流されることが自らのアイデンティティーと開き直った。そのようにして企画されたのが、今回の「季節外れのオウム座談会」である。

今回の出席者の発言は、メイル問題で本物の擁護論陣を張った民主党の河村たかし氏と同じである。彼はことの真偽などどうでもいい。民主党の同胞の立場を擁護できればそれでいい。つまりはディベートだ。ディベートだから、彼は敗れても悪びれない。
R30氏も佐々木氏もディベートをしてしまったのだろう。考えてみれば、経済誌の記者だった人はエバンジェリック(業界擁護)な言説が身についている。立場を決めてもらえれば、テクニックでマス目や埋めることができる。だが、そういうものを市民感情は許さない。
そして、それ以上のステークホルダ(利害関係者)であるとするなら、つまり、オウム関係者であったり、オウム支援者だったりするなら、市民はもっと許さない。そういうことだと思う。

自分のステークホルダーについては語ってはならぬ。
それは、自己主張を嫌う日本人たちにけっして難しいことではないと思えるのだ。
2006/05/09のBlog
[ 09:45 ] [ インターネットでわしも考えた ]
議論のやり方を議論するのがメタ議論というらしい。
その実態は、議論のための議論以外の何物ではないから、不毛の極地に見える。だが、ルールがないと議論は有効にすすんでいかない。そういうジレンマがある。そして、やっかいなのは、メタ議論をする場が、まだルールの定まらない議論の場そのものということだ。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050725/1122250823

日本で市民参加型ジャーナリズムが一向に盛り上らない原因は、市民たちの言論を掬い取るルールがいまもっておぼつかないことだ。

だが、そのことを議論しても、議論好きの議論にしか見えない。だから、メタ論議と批判されることになる。

そして、あれだけIBMが、インターネットは全世界に情報を発信することだ。と、喧伝していたのに、観衆の反応をまったく予測しないままに、情報の発信がなされていること。

無名の一般人にはパブリックという概念はないから、プライベートという概念もない。
プライベートといえるのは小泉さんやキムタク…。と書いてきた私だが、インターネットはそれを許さない。私はメディアの裏方で20年以上仕事をしてきたから、楽屋話とカメラが回っているときに話すことの違いが明確に分かっている。それでも、たびたび失敗を犯す。
泉氏もR30氏も、そのあたりについて、あまりにも無自覚だったと思えてならない。湯川氏が沈黙を通しているのも、私が培ってきたメディア感覚としては至極当然のもの。
もし、本当に彼に話がしたければ、彼の会社を訪ねればいい。
彼はきっとキャラメルマキアートのLサイズを奢ってくれるだろう。(私は遠慮してSサイズを頼んだが…)



私は、有効なメタ議論をしたいと思う。だが、メタ議論は不毛な議論に陥りがちだ。そこで、私は自分の経験を提出する。それが「幻想の市民参加型ジャーナリズム」である。
酔狂なトリル氏以外、私の350枚につきあってくれないのかもしれぬ。だが、メタ議論がネットでの禁じ手のひとつならば、しかたのないこと。

そう思って、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」のエントリーをあげていくことにする。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/68466
2006/05/08のBlog
グリップブログについて私は言及している。

先方のメディアの文脈的に、ヘタレる訳にもいかないので、断定調に書いたら、案の定、「偉そう」と指摘された。

「…な感じ。」と文末に書くことも、重要なのかもしれぬ。

あと、最後のパラグラフで、市民参加型ジャーナリズムの一般論に持っていったのは、強説するイメージを弱めようとして書いたのだが、これも自分が正義の側にいるという自己肯定感を強調する方向に作用したようだ。

やはり、私には国語力が欠乏しているようだ。


http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/__c076.html


GripBlog コメント-01
多数の犠牲者を生んだ集団の関係者として、松永氏は被害者や遺族たちに言論すべきことがあると思っています。そのことを捨象して、殺人事件と信仰の折り合いなどと、まるで井戸端会議のように語る人々に憤りを感じます。

もし、私が今回のようなインタビューの機会を持つならば、まず最初に坂本弁護士家族などの霊たちに黙祷をささげます。それからでないとインタビューを始める気になどなりません。
ここに書かれたひとつひとつの昔話が多くの人の命を抹殺することにつながっていった。そして、まだ後遺症に苦しんでいる人たちがいる。そのことに思いをいたさずに対話を続ける人たちに、冷血を感じない人がいるでしょうか。

松永氏に対する批判のほとんどは、彼の社会活動そのものではなく、社会活動を再開する前に遺族や社会に対して行うべきことがあるだろう。ということ。彼らは被害者たちに祈りを捧げているのだろうか。懺悔をしたのだろうか。私には、そんな社会の構成員として当然のことさえしていないような気がするのだが…。

投稿 スポンタ | 2006/04/24 20:08:51



GripBlogコメント-02
尼崎脱線事故を起こしたJR西日本の社員は、被害者に対しては勿論、社会全体に対しても、自分の属する集団の過ちを認め謝罪する姿勢をとっています。それをしない松永氏をどう思いますか。そして、それを求めないインタビューに加わった自分とあなたの友人たちをどう捉えますか。
BigBangさんは「カーテンがあがったのだからいい」と言いますが、あの軽薄な会話はインターネットという空間でパブリックになっているのですよ。けっして井戸端会議じゃない。だから、松本サリン事件で報道被害を受けて、いまもその後遺症で悩んでいる奥さんの世話をしている河野さんが読む場合もある。また、病床にいる多くの被害者の唯一の楽しみかもしれないインターネットで読んでいる可能性もある。そして、確実に湯川さんのサイトの件でスポンサーにメイルを送っている人は読んでいるはずだ。
そういう人たちに、謝罪や弔意のないエントリーを読ませる意図はなんなんですか。

私はかねてから、「取材対象との距離を求められるジャーナリズムは、他者の悲しみさえも自分の悲しみとする市民感情とは相容れない」と、書いています。
泉さん。あなたは後遺症に苦しむ被害者たちの前で、オウムの教義について歓談できるのですか。たとえインターネットとはいえ、そういうことをしているのですよ。
今回の件がゴシップ的な興味を煽るのなら、それもよしかもしれぬが、ゴシップで成立する女性週刊誌でも、被害者の視点は忘れない。

私は、ライブドアのパブリックジャーナリズムから拒絶され、JANJANに絶望し、市民参加型ジャーナリズムの場はどこにあるのかと模索しています。そして、「自由な言論は2ちゃんねるにしかない」と言って、湯川さんに失笑をかっています。
そして、私は市民参加型ジャーナリズムが盛り上らない原因は、運営者の側だけではなく、市民の側にもあると感じ始めています。そういう雰囲気を少しづつ変えていくために、このようにコメントをここに残しています。

いま、ネットの誕生から約10年。2006年は、エバンジェリックな言論者たちが退場していく時期です。簡単にいえば、印刷屋さんが新聞をつくっていた時代から、言論人が新聞をつくる時代へ移行する時期です。ブログというのは、まさにそのことを実現したメディアです。
早く良質な言論がインターネットを闊歩する時代になってほしいものです。

投稿 スポンタ | 2006/04/25 9:13:36




2ちゃんねるコメント
たしかに、イデオロギーは洗脳であるし、我々が感じている公序良俗というのも洗脳の結果である。
だが、たとえ世の中の公序良俗が認めている死刑・戦争であっても、良識ある個は悩む。悶絶する。
それがないのが松永氏だと思っている。

そして、彼らが人を殺すときに殉じたのは、その教義ではなく、閉じた集団の歪んだ人間関係が引き起こした心理の結果だと思う。
つまり、ここで人を殺さなければ、次に殺されるのは自分の番だということを実行犯たちが経験として分かっていたこと。
昔、廃棄物処理業者が、洪水警報が発せられても、丹沢湖に近い川の中州から非難しないため、大惨事になった。
それと同じ心理が働いたに違いない。ボスの一声で気の弱い連中は動くに動けなかったのだ。

私は、宗教談義に5つのエントリーをあげるよりも、閉ざされた集団の心理について誠実に答えるべきだったと思う。
そして、このインタビューに連座したひとの市民感覚を私は疑ってやまない。
なぜなら、インテビュワーのそれぞれがステークホルダーだとは思えないからだ。
もし、彼らがステークホルダーなら仕方のないことと諦めるが、それこそ、多くの人が推測していることを証明していることになる。
2006/05/07のBlog
幻想の市民参加型ジャーナリズム

「本を書きます」と湯川鶴章氏が表明し、「ネットは新聞を殺すのか」ブログで原稿をエントリーにあげながら、コメンター諸氏の意見を求めるという作業が昨年春から続いていた。その作業の中でさまざまなコメント者たちが意見を述べてきた。

コメント者とのやりとりで最初に現れた現象は、語句の間違いなどを指摘するものだった。私はコメント者のひとりとして、「そういうものは編集者に任せておけばいい」と書き込んだ。
その後、そういう国語的な指摘は陰を潜め、さまざまな議論がなされるようになった。そういうコメントの交流の中に、今回アルファコメンターと言われる人たちも存在していたと思う。
そして、今年の1月。湯川氏は、自身のブログの主だったコメンターたちに本への寄稿を促す連絡をとった。
私もコメンターとして寄稿を依頼されたので、数ヶ月ぶりに湯川氏と会った。
同時期、湯川氏は他のコメント者たちにも寄稿を依頼したようだが、私以外のコメント者は誰一人として記事を書く意志を示さなかったらしい。

私は、ライブドアのパブリックジャーナリズムでの経験を何らかの形で発表し、市民参加型ジャーナリズムの難しさについて明らかにしなければならないと思っていたので、仕事の合間の3週間ほどで350枚ほどの原稿を書き上げた。
原稿ができあがってみると、その分量は寄稿というには多すぎる。また、コメント者として原稿を書くのが私だけでは本の構成としてアンバランス。結果として、私の原稿は宙ぶらりんのままとなった。



インターネットでアクセスしたり、つてを辿ってみたが、無名の人間の原稿が本になることはなかなか難しいようだ。とはいえ、そのときどきの思いは、そのときどきに放散しておくべきであるという気分もある。
思いあがりかもしれぬが、挫折を経験したものとして、日本に上陸するオーマイニュースを見殺しにすることもできぬ。そこで、ネットに関する議論をネットですることの不毛さを十分理解している私だが、そういう不毛さも覚悟して、この原稿をリリースとすることにした。



タイトルは「幻想の市民参加型ジャーナリズム」としたが、これは市民参加型ジャーナリズムを幻想にしてはならぬ。という警句である。
幻想と書いたのはレトリックでしかない。「ネットは新聞を殺すのか…」とタイトルをつけた湯川氏と同じ技法だ。



私は、この原稿を、
・市民参加型ジャーナリズムがやってきて欲しいと思う人に、読んでもらいたい。
・市民参加型ジャーナリズムがやってきて欲しくない人にも、読んでもらいたい。
・web2.0がやってこないと思う人も、web2.0でビジネスをしたいと思う人にも読んでもらいたい。
・日本が健全な民主主義の世の中になって欲しいと願う人たちに読んでもらいたい。




本書の内容は、昨年3月からはじまったライブドアの市民参加型ジャーナリズムの登録から始まる私の心の記録である。時系列を追って個人ブロガーだった私の思いがいかに変化していったか。それをやじ馬として楽しんでいただければ幸である。



原稿を書いたのは、2006年2月の時点である。したがって、今回のJANJANの市民記者交流会で泉あい氏と会う前に書き終えている。その後、ポッドキャストの渦があり、2006年4月21日の私の考えは当時と変容しているかもしれない。