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スポンタ通信。 …スポンタ中村です。21世紀のテーマは「ステークホルダー主導時代の終焉」です。
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2006/06/05のBlog
ガ島氏のブログによれば、「デジタル・ジャーナリズム研究会」連続討論がスタートしたという。
記念すべき第一回の出席者は、運営者として上智大学の橋場義之氏、ジャーナリストの佐々木俊尚氏、ジャーナリストの歌田明弘氏、ダンギルモアの「ブログ 世界を変える個人メディア」を邦訳した平氏、御手洗氏、徳力氏、R30氏、泉氏、オーマイニュースの方、出版社の方など15人と言う。


話題の泉氏、R30氏、佐々木氏などがメンバーに加わっているので、この討論会を契機にネットジャーナリズムなるものをぶち上げようとしているのではないか。との憶測もある。
この会に、時事通信の湯川氏が加わっていないが、彼はオープンソースジャーナリズムなどという語を提起している。そのような方向で新しいネットメディアを構築しようというのか。

私には、この討論会の発足の経緯が容易に想像できる。JANJAN、ライブドア、ツカサ、GripBlogと続いたネットジャーナリズムの不調を憂慮し、自分たちで何かをなすことができぬものかと思ったのだろう。

だが、第一回の様子を垣間見ただけで、彼らが、現在のネットジャーナリズムの惨憺たる状況を打破する術を何ら持たないことを確信する。
勿論、失敗に学ぶことは重要だ。だが、失敗に学ぶことよりも、成功をまねることが、成功への近道であることは間違いない。

繰り返して言うまでもないが、
日本には、ネットジャーナリズムとして成功しているものがすくなくとも3つある。

それらは、「2ちゃんねる」「価格コム」「みんなの就職活動日記」だ


私が主張するのは、

「市民参加型ジャーナリズムは、グリコのおまけだ」

ということ。

精妙に出来ている高価なおもちゃや、大人のおもちゃに関心のある人たちは速やかに退場していただきたい。そう心から思っている。

情報のコモディティー化(日用品化)に耐える言論に能書きはいらぬ。

ハイもイイエもない言説を言論とは言わぬ。
グルメ批評の究極は、「食うべきor食わぬべき」でいいし、映画評の究極は「見なくていいor見るべき」でいい。政治も、「やるべきorやらぬべき」 でいい。

うまいもまずいも、おもしろいもおもしろくないも、ただしいもただしくないも必要ない。それらを論ずることに意味はないし、それに精を出すやからは、フェティッシュ(テキストそのものの愛好家)なだけだ。


毛語録を読んで、すばらしい文章だと浸っているような輩は革命家ではない。

グリコのおまけ説については、今後述べていくことになるだろう。

2006/06/04のBlog
ハイティーンの若者たちが引きこもったり・逆ギレする原因は、サービスする側(サーバー)になることに耐えられない自尊心が原因だと思っている。生まれたとき、人間は一方的にサービスされる側(クライアント)である。
だが、物心がついていくと、「自分のことは自分でやりなさい」としつけられる。この言葉の表面にあるのは自立という概念だが、その実体は、自分がクライアントではない。という屈辱を幼い心に刻み付けることでもある。
だが、次第に、「新聞を取ってきてくれ」「御茶碗を洗ってね」と両親から言われ、いつしかサービスする側になっていく。
私が「新聞を持ってきて」と命令するとは、娘は玄関の外に出て、新聞を持ってきてくれる。その様子を見ていると、けっして不機嫌ではないことを感じる。自分がサービスする側なのだけれど、そのことを楽しんでいる。父親に喜ばれることに満足している。「リアルままごと」のようなものだが、サービスすることの喜びを知っているに違いない。
だが、食事のあと、カミサンが「御茶碗を洗ってね」と言うと、へそを曲げる。けっして洗おうとしない。冷たい水で食器を洗っていた昔とは違い、いまはお湯で洗うのだからまったく苦痛ではない。ましてや、水遊びが好きだった娘である。

私には食器洗いをがんとして行おうとしない、彼女の気持ちが分からないでいた。だが、サーバーということを考えれば分かりやすい。彼女は自分がサーバーであることに抵抗しているのだ。そんなことに屈辱を感じないで、楽しんでやっちゃえばいいじゃないか。47歳の私は、そう素直に考えることができる。だが、この私も10代の頃は、サーバーである屈辱感を感じていたのであろうか、たまにしか自分の茶碗を洗うことをしなかった。
いまは、自分がサーバーであることに屈辱感はないし、サーバーであることに誇りを持っている。それが親というものだろう。



さて、職業人であることはサーバーとしての誇りを持つことである。
料理人はサーバーだから、自分がつくった料理を客が満足することで、満足する。それが真っ当。だから、自分の料理を不味いと言う客を認めない料理人はクライアントであり、本質的には職業人ではない。

客を罵倒するなどもっての他。客として相手を認めないならば、今後の出入りを禁止すべきことであって、サーバーとクライアントの関係が続いている状況では、その関係に縛られなければ、職業人としての見識が疑われる。また、自分と同じ立場の客が罵倒されている状況を他の客も見ているのだから、明日は我が身との心理になる。そこから、店の評判が落ち、客離れがはじまったとしても、仕方のないことだ。



私は、自尊心を持たぬことに自尊心を持つ。などと、理屈っぽいことを書いたが、私をそのような考えに至らせた理由は単純だ。私の助監督(AD)としての経験である。
作品のためなら何でもする。奴隷にでもなる。そういうストイシズムが、薄給の助監督の誇りである。
女優が冷たい池に入るシーンの撮影では、まず助監督が冷たい池に入って見本を見せる。そんなことは当たり前だ。

今村昌平監督の代表作「日本昆虫記」には、北村和夫演ずる農夫が肥料(糞尿)の具合を調べるために舐めてみるシーンがあったという。豊作のためには何でもする。そういう農民の真剣さ・切実さを表現するには、素晴らしいシーンだと思う。
私がもし、今村昌平監督の現場に助監督としてつく名誉があったならば、役者に先んじて糞尿の味を確かめ、演技者の北村氏に、「ちょっとしょっからいけど、大丈夫です。本番いきましょう」と報告し、大きな笑顔をつくったに違いないのだ。



そのように、私はスタッフであることに誇りを持っている。私の文章から一般ピープル蔑視を読み取った人がいるが、それは私の本意ではない。イベントや撮影の現場において、私はつねにサーブする側を意識している。だから、私がなりたかったものはスタッフ(サーバー)。スポットライトを浴びるキャストではなく、あくまでスタッフなのです。
そして蛇足をあえて言うなら、キャストが自らがサーバーであることを忘れてしまったら、その価値はない。
私は、素晴らしい演技やパフォーマンスのためなら、奴隷にでもなるが、出来上がる作品に価値がないと悟ったら、そうそうと立ち去る。そのようにして、さまざまな制作の場を彷徨ってきた。



あの夜、私に「アウェーの気分なの」と言った若い女性の言語感覚は目を見張る。だが私は、ホームでもアウェーでもなかった。言い換えれば、サーバーでもクライアントでもなかった。
私は、ブロガーでもある有名人とそこに集ったブロガーたちのオフ会に接して、自らが模索する市民参加型ジャーナリズムへヒントを得ようとしていた。だから、ある意味、報道陣だったのだといえる。
もの言わぬ観客に代わって報道陣が語ることはよくあること。そんなことだったと私は述懐する。
ラジオの公開録音のような構成がオフ会にふさわしいものであるはずもなし…。



私が構築をめざす市民参加型ジャーナリズムの中で、私がどういう立場を目指すかといえば、あくまでサーバーであって、コンテンツメーカーではない。そこに、私がメタ議論を繰り返すという批判が当然でてくる。私はそういう批判と辛抱づよく対応しなければならないのだ。

マイクロソフトはコンテンツには手を出さない。だから、ニュースサイト構築において、毎日新聞と提携した。私の野望も、それに同じといえば、イメージできるかもしれない。
2006/06/03のBlog
誰でも、ものが言える時代。

市民参加型ジャーナリズムの目指すものはこれしかない。

GripBlogあたらめAi's eyeの泉氏がフォトジャーナリストとの言葉を込めて語るような、「誰もが他人のことを報告できる時代」ではない。

勿論、
「誰もがものを言える時代」 ⊃ 「誰もが他人のことを報告できる時代」
~ではある。


BigBang氏のブログ周辺を読み解くと、泉氏が標榜するものは個人ジャーナリズムであり、KNN神田氏の亜種だということが分かってきたようだ。

以下は、「ネットは新聞を殺すのか」のコメント欄のけろやん氏のコメントに触発されて書いたものである。けろやん氏に感謝している。ありがとうございました。



市民参加型ジャーナリズムは、「ものを言うこと」の空虚さを発信者に感じさせるものであってはならぬ。
もの言えば唇寒し…。では、いけない。
怒りん坊や目立ちたがり屋さんの言説ばかりでは、世の中は間違った方向にすすんでいく。

そこで、私が提出したのが、市民参加型ジャーナリズムの5つのフェイズ(段階)。

1. オープン(誰でも参加できる。新たに加わった人を最優先する)、
2. トランスペアレンシー(運営や編集の都合が外部の人にも分かる)、
3. インテグレート(集まった記事をそのままほったらかしにするのではなく、それぞれを比較・対照・総合することによって情報の価値を高める)、
4. オーソライズ(集まった情報を、メディアの御墨付きとして発信する、情報のよりどころとなる)、
5. アクション(情報が社会に機能するための努力をする。働きかけをする。)


ジャーナリズムの定義はさまざまだが、ニュースや報道など、ただ伝えることだけではゴシップと変わらない。興味の引く固有名詞を伏字にしても、情報の価値が薄れないものだけが、社会にとって価値のある情報である。勿論、娯楽としてのニュースを否定するものではないが、それが言論の希釈作用をもたらすならば、否定せざるをえない。



そして、ほとんどすべての人間の発信を可能にする、3つの言論の最小単位。

主体:実名・固定ハンドルネームが必要。
 …つまり、棄てハンドルネーム・匿名でないことが求められていた。
文体:国語力を必要とする。
 …国語力がないものは事実上発信できない。
意志:未来への意思表示。Yes or No.
 …賛成・反対だけの意見は言論として認められなかった。

※従来のメディアでは、基本的にこの3つの要素を兼ね備えることが情報発信者に求められていた。また、表面的な摩擦を恐れて、意志を表示しない発信も多く、言論の希釈効果に一役かっていた。
3つのうちどれか一つさえあれば、発信できる。…私は理想を語っているのではない。リアリズムなのだ。


ライブドアPJは実名を名乗ることを市民記者に強いた。そのことで、私も同胞たちも痛い思いをした。
JANJANは「市民記者を育てる」と言って憚らない。彼らは市民がそのままでは発言が許されないことを暗にうたっていることに気づいていないようだ。
日本の民主主義は、匿名で文体を必要としない選挙によって成り立っている。郵政民有化の議案において国会が民意を反映しなくなったのは、国会が記名投票だったからである。



インテグレート(情報の比較・対照・総合)における媒体のバイアス(偏向)の発生における諸問題については次のように解説している。

多様なバイアスが複数存在すれば、バイアスは捨象できる。

たとえば同じ商品価格でも、消費者はもっと安ければいいと思い、生産者はもっと高ければいいと思う。問題は、立場(バイアス)を明らかにすべきことであって、消費者の立場なのか生産者の立場なのか分からない、折衷的なものを中立・客観・公平などといって誇るべきではない。
土台、この世に生きている限り、第三者にはなれないんだから、客観なんて無理なのだ。
たしかに言論の多様性をすすめることで、特定のバイアスを消すことはできる。だが、それによって、言論が拡散してしまう。インテグレートの障害ともなる。

実は、特定のバイアスを消す方法はもうひとつあって、それは、すべての発信者がステークホルダーを明確にすること。それによって、受け手はバイアスを明確に把握できるから、受け手のメディアリテラシーも向上する。

報知新聞読んで、巨人の讃美記事に憤慨する奴はいない。デイリースポーツ読んで、巨人の記事が少ないと文句を言う人はいない。
ほんとうは、巨人ファンのための報知新聞。阪神ファンのためのデイリースポーツと明確にうたうべき。

朝日新聞も、自分たちの思想がサヨクに近いとはっきりうたうべきなんです。それが読者を失う可能性があり、できないから公平中立などという空虚なスローガンを持ち出すのです。そのサヨク思想にしても、権力によって去勢されたものであって、社会を根幹から覆すようなものではない。でなければ記者クラブ制度を温存しているはずもない。

とはいえ、ステークホルダー(利害関係者)であることは悪いことじゃない。自分のために行動する人間を批判などできない。ただし、堂々としよう。それが健全な言論空間の創造につながると信じている。


メディアリテラシーが重要などといって、信じたほうが悪いなどという理不尽な論調が増えている。
情報メディアは自らのメディアの都合を明らかにし、受け手のメディアリタラシーの向上に努めるべきである。


追記:
ガ島氏のブログにトラックバックした。
デジタル・ジャーナリズム研究会」連続討論スタート

私の言説との乖離に唖然とする。

>「ジャーナリズムの本質は「いま言うべきことを、いま、言う」である。

言うことで完結する発言はコミュニケーションではない。それがジャーナリズムの定義ならば、自己満足だ。
デジタル・ジャーナリストたちが言うことだけに終始し、インテグレートするシステムがなかったら、それは言論の希釈作用に寄与するものでしかない。社会を動かすような要因にはならない。→既得権者に都合のいい世の中であり続ける。

>次回からは観客としての参加もできることになりそうです。関心がある方がいらっしゃったらご連絡ください。

私がその討論の場に行って、日本のジャーナリズムの特色は、言論の希釈作用をめざしていること。などと言ったら、研究会の前提から狂ってくる。
何故、言うことで完結するジャーナリズム論が展開されるのか、それこそ、ジャーナリストたちが、アクティブになろうとしていない。つまり、言論の希釈作用しか期待していないことの現われに違いないのだ。

私は関心があることを表明する。リアルな場で行われるデジタル・ジャーナリズム討論というものも、興趣をあおる。ただ、そこに私の観客としての居場所があるのか。ガ島さんに判断して欲しい。私が観客の場合の御行儀の良さは、改めて言うべきもないでしょう。www

とりあえず第二土曜日の午後はスケジュールはいれないことにします。
ガ島さん、泉さん、佐々木さん、歌田さんなど、有名諸氏の尊顔を拝せるだけでも光栄というものです。


どう考えても、私が確信する日本型市民参加型ジャーナリズムと、この討論会には接点はない。何故なら、討論者たちが抱えるステークホルダー(個人的な利害)なるものがほのかに見え隠れするからだ。
しかし、意見が乖離しているものの間で行われるのがコミュニケーションである。他者の中に自分と同じ意見を見つける作業は、コミュニケーションではない。
その意味を込めて、結論や宣言を導き出す必要のない、討論という形式をとったのだろう。
2006/06/02のBlog
フジテレビは、テレビ寺子屋は吉岡たすく氏の講義がなつかしいので、早朝派の私はなんとなく見てしまう。だが、最近は?と思う講師の言説に多くぶちあたる。今朝もそのひとつ…。



子どもに挨拶の習慣をつけようと、泉アキ氏がテレビ寺子屋で説いていた。
誰に対しても、条件反射のように挨拶する習慣をつけることが重要だと説いている。
ありがとう、おはようができる子どもが素晴らしいと説いている。
あいさつをすることで、誰からも愛されるこどもにしたい。だから、挨拶が重要だ。
ありがとうを言うと、得なんだから、しよう。とまで言う。
ありがとうの言えない子は、人から愛されない。何を言われても「アー、エー…」などという子はダメだ。


番組では、彼女の言説にうなづく観衆の映像が多く挿入されていた。
きっと、あの会場で泉氏が指摘したことが、良好なコミュニケーションのためのアプローチのひとつであり、そのアプローチには危険性もはらんでいることに気がついている人はほとんどいなかったのではないだろうか。もし気づいている人がいたとしても、有名人のオフ会で私がとったのと同じような行動をとったに違いない。



私は無名な演劇関係者である。演劇の手法でいえば、形から入るか、心から入るかというふたつがある。

泉氏が提案したのは、形から入るアプローチ。明るく元気に声(挨拶)をかければ、自分の心も相手の心も明るくなる。ということ。
もうひとつあるのは、心から入るアプローチ。まず自分の心を明るく保つ。そして、その心で相手に接すれば相手の気持ちも明るくなる。

ふたつのアプローチが到達すべき目標は、心をともなった形である。
そして、重要なことは、心だけあって形がないことは誤解を生むけれども許される。「あの人はああいう人なのよ」と、時がたつにつれて個人の行動パターンとして理解されていく。だが、心がない形だけのものは、時を経て、「あの人って…」と次第に批判にさらされていくことだ。


コミュニケーションの実際を考えてみれば、よく分かる。その場にそぐわないtoo muchな明るい挨拶は、相手の反発をかう。もし、深刻な話題について真剣に話しているときに、そのようにして入ってくる人がいたら、その挨拶から読み取れるメッセージは、「私の前では暗い話はしないで頂戴。私は、そんな辛気臭いことは嫌いよ」ということ。
心から入るアプローチならば、相手の表情をとっさに読み取り、簡素な挨拶にする。そして、話題にすこしづつ加わりながら、相手に心を寄せ、自分のできる範囲で話題を明るく、解決の方向に仕向けていく。そういうコミュニケーションを紡ぎ出すことができる。



私は、地域でたむろしている高校生か社会人なりたての男の子たちに会う。ひきこもっていないし、繁華街に出奔しているのでもないから、格好はとんがっていても、愛すべき奴らだ。だが、だいたいがろくな挨拶もできない。
だが、私はそういう個を批判したいとは思わない。逆に、自分の気持ちに素直な個であったり、相手に対してやさしい個だと思う。だから私も、相手の暗さを圧倒するような大きな明るい挨拶は、相手を問答無用と一刀両断にするようなものだと感じて、極めて曖昧な挨拶をする。

その場その場にあった挨拶をすべきだし、何よりも相手の心に、自分の心を寄せる。そのことが重要だと感じている。
だから、挨拶できぬこともある。挨拶することで相手にコミュニケーションの糸口があると錯覚させることは、いらぬ摩擦を呼ぶことでもあるからだ。
良好なコミュニケーションが構築できないのならば、ディスコミュニケーション(コミュニケーションしないこと)のほうがまし。…と、腹を括るしかないのだ。

追記:
私は、彼女のように純粋律を訴えて、会場の共感を呼ぶことがデマゴーグ(煽動)であると思う。教養ある知性のすることではない。
2006/06/01のBlog
公立中学校で、邦楽が取り入れられているというニュースは知っていた。和楽器の普及版がつくられて、中学生が邦楽に目覚めることはすばらしいことだと思っていた。だが、現場では誤解や摩擦があるようだ。
ある掲示板の質問には、中学校の邦楽の授業にかりだされるという尺八の演奏家が悩みを打ち明けていた。

曰く、教科書に掲載されている曲とは別に、邦楽曲ではない曲を演奏することを求められることが多い。
だが、邦楽は、7音階ではなく5音階だし、平均率とは違う音程感を持っている。演奏者としては、将来の邦楽の継承者(演奏者&鑑賞者)であるこどもたちには、日本独特の音楽観を伝えることが重要だと思っているのですが…。

以下は、私の回答。

平均率でさえ妥協の産物でしかないのに、それを絶対視する教員もいますから、現場は混乱していますよね。

私は、素人ですが、小学生の娘がいたり、こどもたちとバンド活動をしています。そこでやっていることは、クラッシック音楽とバンド音楽が違うということ。クラッシックはテンポが揺れるけれど、バンドのビートは崩れてはならぬ。そういうことを語らぬ学校の音楽教育に疑問を感じています。

邦楽についても、同じことがいえるでしょうね。

ただし、日本の音楽は5音階で西洋音楽はオクターブというふうに対比して教えるのではなく、演奏者が、演奏を通じて、観客に何かを伝えたい・表現しようということでは同じであるというアプローチが重要なのではないでしょうか。

私は門外漢なので、尺八の演奏が伝えようとする幽玄の世界といったものをうまく言葉にできませんが、そういうことではないかなぁ。

日本の音楽と西洋の音楽が違うものだとしても、同じものを目指していることを指摘してから、違うところを解説する。そのことが重要ではないかと思います。

尺八には喉があることとか、音階が違うことなど、知識としては重要かもしれませんが、学者や専門家をつくるのでもなし、良質な鑑賞者をつくるのたとすれば、それが一番なんじゃないのかなぁ…。

そして、生徒の中の一人でも、「おれ、尺八の演奏がわかるんだぞ」と、自慢できる鑑賞者が現れれば、それでいいんじゃないでしょうか。

うれしさや楽しさだけを表現するのが、音楽ではない。
ベートーベンは人生を表現した。
だが、邦楽の中には、人間を越えた、存在、自然といったものまで表現することができる。
日本の音楽って、素晴らしいな。

そんなことを言ったら、言いすぎですか。褒めすぎですか?


国連とアメリカが対立しているようです。そのような情勢に接し、呑気な日本人にも、それまでインターナショナリズムだと思っていたことが、実はアメリカニズムだということが分かってきました。
同様に、日本が追随してきた西洋文明も、実は世界の中のひとつの文化の形に過ぎないことに気がつくべきときがきているのかもしれません。
西洋、中近東、東アジア、アフリカ…。他国の文化に触れることは重要です。しかし、それが自らを省みることに使われないなら、空虚であると思うのです。