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2008/03/31のBlog
[ 09:46 ]
[ コマゴマ ]
お早う御座います。映画の制作は細々とながら進行中。
現在喜ばしきことに、音楽は各方面から届いてきています。
それがかなりヤンチャな音でして、聴きながらほくそ笑んでいたり。
どのシーンで使おうかとか、贅沢な悩みでいっぱいです。
映画の進行状況ですが、アフレコした声をタイムラインに載せる作業が、大体3/4が終わった所。
その後効果音を選んで載せる作業が終われば、音は晴れて完成です。
今現在並行して、タイトルバック、EDの作業も行っていますので、
作品は大体四月中旬までには完成しそうです。
そして今回は前回の撮影思い出し日誌の日付からさかのぼりますが、8月8日を
振り返ってみたいと思います。
この日の撮影は、FJ君宅で。
M君と怪優K君の撮影でした。K君はこれまでも僕の作品に出ていただいた事もあるし、
また多くの監督から熱いラブコールを送られる演技派。その実力は以前の現場でも
目の当たりにしており、言ってしまえば監督にとって一番融通の効く、現場に一人は必ず欲しい、
無くてはならない俳優。
彼が出演を了承してくれた事は大変大きな出来事でした。
とはいえ今回の彼の役どころは、一言で言うと色モノ。作品の飛び道具的部分に必ず顔を覗かせる、
ある意味オイシイ役、ですが、その為か彼に今までした事の無い事を色々要求しては、
困らせる事になってしまいました。そしてその撮影は実際は彼自身のNGコードとのせめぎ合い。
彼自身もやった事の無いゲテモノな演技を要求され、戸惑いとストレスに悩まされたと思います。
彼との遣り取り一部抜粋、以下
僕「脱ぐのは?」
K君「嫌です」
僕「脱ぐのは?どうしても?」
K君、黙り込む
僕「その辺はまた改めて考え直すよ(現場の勢いで脱がせるつもり)」
K君「(その企みを察知して)絶対だめですからね?」
抜粋終わり
他にも、多忙な彼にストレスフルな事を沢山させつつも、彼が何とかそれに
応えてくれたおかげで、目指す良いカットが出来たと自負しています。
この8日はクランクインから3日間撮った後の、休みを経ての撮影で、
T君との遣り取りにも慣れてきて、
とても良い雰囲気で撮影が出来たと思いますし、部屋を貸してくれたFJ君も、
彼は寡黙ながらとても建設的な男で、自分の部屋で行われる奇妙な光景を前にしても、
決して動じることなく協力してくれました。
一言で言うと僕にとても甘い現場でした。皆様その節はどうもありがとうございました。
撮影はM君、K君の掛け合いと、K君一人のシーンを合計3シーン。
物語が不穏な様子で本格的に動き始める二人のかけあいシーンでは、
今まで以上に感情を芝居とカットで表現する事に注意して撮りました。
そして、そんなにわか監督の指示にしんしに耳を傾けて、かつ意見を出してくれる
M君K君の二人にとても救われた思いです。
この辺からでしょうか、この映画が詰まらなくても、後悔しないだろうと感じ始めたのは。
もちろん、最大限の努力をして映画を創るのですが、どうしたって失敗する事はあります。
長丁場なだけ、スタミナ切れや判断力の低下など、落とし穴は数限りなくありますが、
それ以上に独りで創っているワケじゃないと思ったりした事が、そう思うに至ったんじゃないかと。
いえいえ、何も美談を捏造しようと思っているわけじゃないです。
思い出のために創作してるつもりもありませんし、映画ではクオリティがモノを言う事も
知ってるつもりです。あくまで自分の観たい映画を、自分が生活した中での反映を
映画にしているつもりですが、自分の手の届く以上に映画が大きいのです。
映画は独りだけで掴みきれるほど小さくはないのです。
だから、ある種の諦めもありつつ、そう思い始めた気がします。
全撮影が終わった後の言葉になりますが、本当に良い現場を体験させてもらえました。
今後は撮影に関わってくれた全ての人たちに恩を返せたらとも思います。
この8月8日の撮影は、当初の予定通り、大体日付が変わって40分ほどたった頃に無事終了。
その後、片づけをしてFJ君の部屋を後にし、9日の朝に少しキャプチャをして、
8日のシーンを見返すと、とても良く撮れていた事に少し驚きました。
ではこの辺で。次回は9月の撮影を振り返ってみたいと思います。
それではお付き合いくださってどうもありがとうございました。
現在喜ばしきことに、音楽は各方面から届いてきています。
それがかなりヤンチャな音でして、聴きながらほくそ笑んでいたり。
どのシーンで使おうかとか、贅沢な悩みでいっぱいです。
映画の進行状況ですが、アフレコした声をタイムラインに載せる作業が、大体3/4が終わった所。
その後効果音を選んで載せる作業が終われば、音は晴れて完成です。
今現在並行して、タイトルバック、EDの作業も行っていますので、
作品は大体四月中旬までには完成しそうです。
そして今回は前回の撮影思い出し日誌の日付からさかのぼりますが、8月8日を
振り返ってみたいと思います。
この日の撮影は、FJ君宅で。
M君と怪優K君の撮影でした。K君はこれまでも僕の作品に出ていただいた事もあるし、
また多くの監督から熱いラブコールを送られる演技派。その実力は以前の現場でも
目の当たりにしており、言ってしまえば監督にとって一番融通の効く、現場に一人は必ず欲しい、
無くてはならない俳優。
彼が出演を了承してくれた事は大変大きな出来事でした。
とはいえ今回の彼の役どころは、一言で言うと色モノ。作品の飛び道具的部分に必ず顔を覗かせる、
ある意味オイシイ役、ですが、その為か彼に今までした事の無い事を色々要求しては、
困らせる事になってしまいました。そしてその撮影は実際は彼自身のNGコードとのせめぎ合い。
彼自身もやった事の無いゲテモノな演技を要求され、戸惑いとストレスに悩まされたと思います。
彼との遣り取り一部抜粋、以下
僕「脱ぐのは?」
K君「嫌です」
僕「脱ぐのは?どうしても?」
K君、黙り込む
僕「その辺はまた改めて考え直すよ(現場の勢いで脱がせるつもり)」
K君「(その企みを察知して)絶対だめですからね?」
抜粋終わり
他にも、多忙な彼にストレスフルな事を沢山させつつも、彼が何とかそれに
応えてくれたおかげで、目指す良いカットが出来たと自負しています。
この8日はクランクインから3日間撮った後の、休みを経ての撮影で、
T君との遣り取りにも慣れてきて、
とても良い雰囲気で撮影が出来たと思いますし、部屋を貸してくれたFJ君も、
彼は寡黙ながらとても建設的な男で、自分の部屋で行われる奇妙な光景を前にしても、
決して動じることなく協力してくれました。
一言で言うと僕にとても甘い現場でした。皆様その節はどうもありがとうございました。
撮影はM君、K君の掛け合いと、K君一人のシーンを合計3シーン。
物語が不穏な様子で本格的に動き始める二人のかけあいシーンでは、
今まで以上に感情を芝居とカットで表現する事に注意して撮りました。
そして、そんなにわか監督の指示にしんしに耳を傾けて、かつ意見を出してくれる
M君K君の二人にとても救われた思いです。
この辺からでしょうか、この映画が詰まらなくても、後悔しないだろうと感じ始めたのは。
もちろん、最大限の努力をして映画を創るのですが、どうしたって失敗する事はあります。
長丁場なだけ、スタミナ切れや判断力の低下など、落とし穴は数限りなくありますが、
それ以上に独りで創っているワケじゃないと思ったりした事が、そう思うに至ったんじゃないかと。
いえいえ、何も美談を捏造しようと思っているわけじゃないです。
思い出のために創作してるつもりもありませんし、映画ではクオリティがモノを言う事も
知ってるつもりです。あくまで自分の観たい映画を、自分が生活した中での反映を
映画にしているつもりですが、自分の手の届く以上に映画が大きいのです。
映画は独りだけで掴みきれるほど小さくはないのです。
だから、ある種の諦めもありつつ、そう思い始めた気がします。
全撮影が終わった後の言葉になりますが、本当に良い現場を体験させてもらえました。
今後は撮影に関わってくれた全ての人たちに恩を返せたらとも思います。
この8月8日の撮影は、当初の予定通り、大体日付が変わって40分ほどたった頃に無事終了。
その後、片づけをしてFJ君の部屋を後にし、9日の朝に少しキャプチャをして、
8日のシーンを見返すと、とても良く撮れていた事に少し驚きました。
ではこの辺で。次回は9月の撮影を振り返ってみたいと思います。
それではお付き合いくださってどうもありがとうございました。
2008/03/30のBlog
[ 07:03 ]
[ コマゴマ ]
早起きは三文の得なんて言いますけれど、現代風に言い換えるならプライスレスと
言わねばなりますまい。
いやいやいや、マスターカードの回しもんじゃありませんがね?
お金で買えない?価値がある?そんな世の中じゃ?ポイドゥン
今朝寝ずに散歩なんかしてたんですよ。
街灯も消えず、さりとて街灯が要るほど暗くもない。
川には靄がかかって、日はまだ完全には昇らず、明るいんだけども影が曖昧な。
そんな時間を楽しもうと歩いていました。
鴨も家族連れて川を泳ぎ、忘れられたタモが川原に転がり、季節外れの焚き火の跡が残る景色。
勝手知ったる川原なんですが、この日はちょっと特別でした。
いえね?詳しくは言えないんですが。
だって言ったら僕の得じゃなくなっちゃうじゃないですか。
でもこれだけで終わっても皆様は釈然としないものを朝からお感じになられるでしょうね。
すると皆様には「早起きは損」になっちまう、それは僕にとっては本意じゃないので。
じゃあ耳の穴かっぽじって聞いてください。幾分のタメもお許しください、だってさぁ…
屈託なく言ったんじゃ、僕には何の旨みもありゃしねぇ。
勿体ぶってもいいやん?
ハイ、言います。もう溜めません。
早起きして散歩に出掛けたら、素敵なほら穴を見つけたんですよ。
市街地から歩いて20分圏内に理想的なほら穴、これが仙台の良い所。
しかも崖に面した川側で、バス停まで徒歩五分の好立地。こんなほら穴他じゃありませんぜ?
僕が勿体ぶったワケもお分かりと思います。
ただこのほら穴、ちょっと辿り着くのにコツが要りまして、僕もこのほら穴には
前々から目を付けていたんですが、中々行き方が分からない。
いつもの僕の散歩コースから川を挟んだ向かいにあるこのほら穴、近くには橋も無く、
行く術も無くホゾ噛む思いで3年前から見つめておりました。
そしたら今日は川向かいに一人の老人が二匹の黒犬を連れて散歩なんかしておりました。
川幅は距離があり、相手の顔は伺えませんでしたが、背丈はおよそ160cm位。
その老人が、目指すべき洞穴周辺を犬を連れて慎重に、杖なんか突いちゃったりして
歩いておりました。見た所足元は悪く、足取りも覚束ない様子で、もし川に
落ちちゃったりしたらなんて、幾らか心配しながら見ておりました。
ほら穴は老人の3m程上にあり、なんであんな足場の悪いトコになんて思っていたら、
老人は一度は足場の良い場所に戻り、一安心。しかしながら、すぐ取って返して
また足場の悪い崖側に向って歩いていってる。犬も飼い主の
足取りを知らずかのん気にほら穴周辺を歩き回っています。
そしたら犬がほら穴の入り口に、おぉっと目を擦っていると老人もおっつけ入り口に。
どうやら夢ではないらしいぞと。
その後老人は10分ほどほら穴を散策しておりましたが、また元の足場の良い場所に
戻ってゆきました。
こうして僕は3年越しでほら穴に辿り着く方法を知ったのでした。
いやいやいや、クダラン事かもしれませんがね?古くはモンテクリスト伯も
ほら穴暮らし、
血気盛んなヤングはほら穴暮らしを満喫すべきじゃないですかね?
なんせ家賃タダ、自然溢れる好立地。
僕も追い出されたらあの洞穴で暮らそうと思います。
湿気はかなり凄そうだけどな。
言わねばなりますまい。
いやいやいや、マスターカードの回しもんじゃありませんがね?
お金で買えない?価値がある?そんな世の中じゃ?ポイドゥン
今朝寝ずに散歩なんかしてたんですよ。
街灯も消えず、さりとて街灯が要るほど暗くもない。
川には靄がかかって、日はまだ完全には昇らず、明るいんだけども影が曖昧な。
そんな時間を楽しもうと歩いていました。
鴨も家族連れて川を泳ぎ、忘れられたタモが川原に転がり、季節外れの焚き火の跡が残る景色。
勝手知ったる川原なんですが、この日はちょっと特別でした。
いえね?詳しくは言えないんですが。
だって言ったら僕の得じゃなくなっちゃうじゃないですか。
でもこれだけで終わっても皆様は釈然としないものを朝からお感じになられるでしょうね。
すると皆様には「早起きは損」になっちまう、それは僕にとっては本意じゃないので。
じゃあ耳の穴かっぽじって聞いてください。幾分のタメもお許しください、だってさぁ…
屈託なく言ったんじゃ、僕には何の旨みもありゃしねぇ。
勿体ぶってもいいやん?
ハイ、言います。もう溜めません。
早起きして散歩に出掛けたら、素敵なほら穴を見つけたんですよ。
市街地から歩いて20分圏内に理想的なほら穴、これが仙台の良い所。
しかも崖に面した川側で、バス停まで徒歩五分の好立地。こんなほら穴他じゃありませんぜ?
僕が勿体ぶったワケもお分かりと思います。
ただこのほら穴、ちょっと辿り着くのにコツが要りまして、僕もこのほら穴には
前々から目を付けていたんですが、中々行き方が分からない。
いつもの僕の散歩コースから川を挟んだ向かいにあるこのほら穴、近くには橋も無く、
行く術も無くホゾ噛む思いで3年前から見つめておりました。
そしたら今日は川向かいに一人の老人が二匹の黒犬を連れて散歩なんかしておりました。
川幅は距離があり、相手の顔は伺えませんでしたが、背丈はおよそ160cm位。
その老人が、目指すべき洞穴周辺を犬を連れて慎重に、杖なんか突いちゃったりして
歩いておりました。見た所足元は悪く、足取りも覚束ない様子で、もし川に
落ちちゃったりしたらなんて、幾らか心配しながら見ておりました。
ほら穴は老人の3m程上にあり、なんであんな足場の悪いトコになんて思っていたら、
老人は一度は足場の良い場所に戻り、一安心。しかしながら、すぐ取って返して
また足場の悪い崖側に向って歩いていってる。犬も飼い主の
足取りを知らずかのん気にほら穴周辺を歩き回っています。
そしたら犬がほら穴の入り口に、おぉっと目を擦っていると老人もおっつけ入り口に。
どうやら夢ではないらしいぞと。
その後老人は10分ほどほら穴を散策しておりましたが、また元の足場の良い場所に
戻ってゆきました。
こうして僕は3年越しでほら穴に辿り着く方法を知ったのでした。
いやいやいや、クダラン事かもしれませんがね?古くはモンテクリスト伯も
ほら穴暮らし、
血気盛んなヤングはほら穴暮らしを満喫すべきじゃないですかね?
なんせ家賃タダ、自然溢れる好立地。
僕も追い出されたらあの洞穴で暮らそうと思います。
湿気はかなり凄そうだけどな。
2008/03/28のBlog
[ 07:01 ]
[ ポエム ]
毛皮のコートのすそから焦げた匂いがしてる
ここが火星だからだ 君のせいじゃない
ユートピア またはフロンティア
行き先は無かったし いきさつも忘れない
ポケットにはいくつかの ラスヴェガスのコイン
消えかけたレシート もみつぶしてやった
朝だけど太陽はまっぴら 背を向けて夜にしけこみたい
影だけが数歩前を進む 影きっと全部知ってる
コインも覚えのないレシートも
ソールが減る 靴に冷たい火星 追いかけてくる太陽 殺したいな
デストピア マンモスも死んでった 虫も、雲も、人も魚も(死ねばいいとさえ思った)
空気があったら 火星から 抑えつけられてしまう
空気があったら 太陽が きっと僕をふるいおとすだろう
今日燃えて陽炎が 公園が揺らいで
軒下で煙が立ち込めた
惑星が目の端に張り付いて 進化の樹から取り残されてる
ここが火星だからだ 君のせいじゃない
ユートピア またはフロンティア
行き先は無かったし いきさつも忘れない
ポケットにはいくつかの ラスヴェガスのコイン
消えかけたレシート もみつぶしてやった
朝だけど太陽はまっぴら 背を向けて夜にしけこみたい
影だけが数歩前を進む 影きっと全部知ってる
コインも覚えのないレシートも
ソールが減る 靴に冷たい火星 追いかけてくる太陽 殺したいな
デストピア マンモスも死んでった 虫も、雲も、人も魚も(死ねばいいとさえ思った)
空気があったら 火星から 抑えつけられてしまう
空気があったら 太陽が きっと僕をふるいおとすだろう
今日燃えて陽炎が 公園が揺らいで
軒下で煙が立ち込めた
惑星が目の端に張り付いて 進化の樹から取り残されてる
2008/03/27のBlog
[ 06:16 ]
[ コマゴマ ]
人の声に耳を傾ける事はクリエイティブなんじゃないか?
最近行き詰まりを感じていて、それは生来の飽きっぽさからも由来するのですが、
それ以上に、自らの短慮があると思い至りました。
自分の読書傾向が、他の好きなものが自然とある方向に流れていってる。
撮るカットが以前のものと似ている。台詞回しに既視感がわく。
好きなもの、興味のあるものとそうでないものの峻別が早い。
→そして、その分別はある有限の自分で設定した
キーワードによってなされている、気がします。
例えば、筒井康隆という作家が好きですが、SF、エログロナンセンス、
文体のリズム感、70'sの知性、冷徹な生理感覚…といった、自分なりの
決められた価値基準で読んでいる気がします。そこから、また、「SF」という
キーワードならば、「萩尾望都」が反応し、「レイ・ブラッドベリ」が反応する。
アマゾンのリストを参照するかのように、芋づる式に色々と引っ張り出されて
行くのです。しかし、問題なのは、キーワードという言葉に代弁された、tagだと
思っていて、このtagは自分というフィルタを通して得られた結晶としての
言葉になってしまう為、中々そこから逆らう事が出来難いのだと思うのです。
そして、この結晶の精製が他のobjectとの参照を密にする反面、それ以外の
読み解き方を拒絶してしまっている恐れがあると思います。
例えば、京極夏彦という作家さんについて。
僕は「妖怪」というtagから入ったけれど、他の人は陰陽道から入ったのかもしれないし、
それらは「日本のオカルト」と大雑把に括られるかもしれませんが、また別に
「ポストミステリ」と言い換えられたりもするかもしれません。
※「ポストミステリ」は勝手に今言ってみただけです。
用は言語に落とし込む事で、ある特定の解釈に拠ってしまい、自分の中で
それが一つの根拠となっている事に澱んだものを感じているんだと思います。
ある有限個のレッテルをあらゆるものに貼り付けていっている。
そこに嫌気がさすと、あらゆる物事に自信が無くなりますし、開き直ると
それはそれであらゆるものへの暴君に自身が成り下がるように思えます。
そこで大切なのが、人の話を聞く、もっと作品を観る時に先入観を排除する、
という事なのかもしれません。あるものを観察して、それに対して人の意見を
一切のレッテルも無しに仰ぐ行為はとても難しいのかもしれませんが、相手の意見に理解を示し、
そこから更に一歩進んで相手の理解に沿う意見を投げ掛ける事は、
凝り固まっていた自らのtagに新たな解釈を与えるに違いありません。
そしてその行為は、これまで手成りで進めていた自らの価値付ける行為に
新たな側面を提示してくれるように思えます。
index的に発達した思考体系から、indexの隙間にあるものへ、或いはもっと大雑把に、
言語化に依る事無く物事に目を向ける事がこれからの自分には必要じゃないかと思ったので。
そして、ここからは牽強付会に付け加えてゆきますが、元来このような考えはネットや
コンピュータ文化がオリジナルに思えます。youtubeやニコニコ、blogni
貼られるソーシャルタグの持つ意味づけを、僕はRPGの属性に感じていたように思います。
このRPGの属性の場合は、様々なキャラクタの特性を、人間で言う血液型や生まれ年、
黄道十二星座、などなど、で現すものというよりも、じゃんけんのルールのようなもの、
例えば火は水に弱い、などのように受け取っていました。
そして、どんな強敵にもそれらの生まれ持ち合わせたプログラムによるtag付けが
為されているため、RPGを解く場合、それらの属性の勾配を利用したアプローチを
採れば良く、その部分がかつてのRPGにパズルの要素を付加していたと思えます。
しかし、それが当たり前になると、属性、などのキャラクタ固有の要素特性を
見極め、利用可能なアプローチを採れば解けると、大雑把な解釈が成り立ってからは、
僕の中で一気にゲームが醒めたように思えます。
人の場合、それは癖のようなものなのかもしれませんが、ゲームなんかの場合は
意味しかないので、癖のようなノイズは排除され、純粋に損得のみの属性しか無く、
そこに貧しさを感じてしまったのだろうと思います。
もっとも、僕がゲームを離れてからもう10年弱は経っているので、昨今のゲームの
話ではなく、もっと大雑把な先入観として眉につばでも付けて受け取ってください。
最近行き詰まりを感じていて、それは生来の飽きっぽさからも由来するのですが、
それ以上に、自らの短慮があると思い至りました。
自分の読書傾向が、他の好きなものが自然とある方向に流れていってる。
撮るカットが以前のものと似ている。台詞回しに既視感がわく。
好きなもの、興味のあるものとそうでないものの峻別が早い。
→そして、その分別はある有限の自分で設定した
キーワードによってなされている、気がします。
例えば、筒井康隆という作家が好きですが、SF、エログロナンセンス、
文体のリズム感、70'sの知性、冷徹な生理感覚…といった、自分なりの
決められた価値基準で読んでいる気がします。そこから、また、「SF」という
キーワードならば、「萩尾望都」が反応し、「レイ・ブラッドベリ」が反応する。
アマゾンのリストを参照するかのように、芋づる式に色々と引っ張り出されて
行くのです。しかし、問題なのは、キーワードという言葉に代弁された、tagだと
思っていて、このtagは自分というフィルタを通して得られた結晶としての
言葉になってしまう為、中々そこから逆らう事が出来難いのだと思うのです。
そして、この結晶の精製が他のobjectとの参照を密にする反面、それ以外の
読み解き方を拒絶してしまっている恐れがあると思います。
例えば、京極夏彦という作家さんについて。
僕は「妖怪」というtagから入ったけれど、他の人は陰陽道から入ったのかもしれないし、
それらは「日本のオカルト」と大雑把に括られるかもしれませんが、また別に
「ポストミステリ」と言い換えられたりもするかもしれません。
※「ポストミステリ」は勝手に今言ってみただけです。
用は言語に落とし込む事で、ある特定の解釈に拠ってしまい、自分の中で
それが一つの根拠となっている事に澱んだものを感じているんだと思います。
ある有限個のレッテルをあらゆるものに貼り付けていっている。
そこに嫌気がさすと、あらゆる物事に自信が無くなりますし、開き直ると
それはそれであらゆるものへの暴君に自身が成り下がるように思えます。
そこで大切なのが、人の話を聞く、もっと作品を観る時に先入観を排除する、
という事なのかもしれません。あるものを観察して、それに対して人の意見を
一切のレッテルも無しに仰ぐ行為はとても難しいのかもしれませんが、相手の意見に理解を示し、
そこから更に一歩進んで相手の理解に沿う意見を投げ掛ける事は、
凝り固まっていた自らのtagに新たな解釈を与えるに違いありません。
そしてその行為は、これまで手成りで進めていた自らの価値付ける行為に
新たな側面を提示してくれるように思えます。
index的に発達した思考体系から、indexの隙間にあるものへ、或いはもっと大雑把に、
言語化に依る事無く物事に目を向ける事がこれからの自分には必要じゃないかと思ったので。
そして、ここからは牽強付会に付け加えてゆきますが、元来このような考えはネットや
コンピュータ文化がオリジナルに思えます。youtubeやニコニコ、blogni
貼られるソーシャルタグの持つ意味づけを、僕はRPGの属性に感じていたように思います。
このRPGの属性の場合は、様々なキャラクタの特性を、人間で言う血液型や生まれ年、
黄道十二星座、などなど、で現すものというよりも、じゃんけんのルールのようなもの、
例えば火は水に弱い、などのように受け取っていました。
そして、どんな強敵にもそれらの生まれ持ち合わせたプログラムによるtag付けが
為されているため、RPGを解く場合、それらの属性の勾配を利用したアプローチを
採れば良く、その部分がかつてのRPGにパズルの要素を付加していたと思えます。
しかし、それが当たり前になると、属性、などのキャラクタ固有の要素特性を
見極め、利用可能なアプローチを採れば解けると、大雑把な解釈が成り立ってからは、
僕の中で一気にゲームが醒めたように思えます。
人の場合、それは癖のようなものなのかもしれませんが、ゲームなんかの場合は
意味しかないので、癖のようなノイズは排除され、純粋に損得のみの属性しか無く、
そこに貧しさを感じてしまったのだろうと思います。
もっとも、僕がゲームを離れてからもう10年弱は経っているので、昨今のゲームの
話ではなく、もっと大雑把な先入観として眉につばでも付けて受け取ってください。
2008/03/25のBlog
[ 07:28 ]
[ 映画 ]
ちょいと古いが「電脳コイル」を見直す機会に恵まれまして、最初から順を追って観ています。
このアニメーションはホント凄い。現実とネットワークの境界が曖昧に見える世界設定。
そこには古い情報と新しい情報が並列に並び、HDDの中のように混沌と情報が存在しています。
そんな世界の中に、都市伝説を思わせる噂に興味を示し、怯え、広める小学生たち。
並列処理された世界観を縦糸に、噂や今とさほど変わらない小学校生活を過ごす
小学生たちのドラマを横糸にして、「電脳コイル」は描かれてゆきます。
描写力の確かさ、世界観の豊かさ、シナリオのデザイン、どれを取っても見応えがあります。
中でも、最も目を見張らされているのが、その世界観。
流し見していた時には気付きませんでしたが、その世界観は独創的でありつつ
しっかりと現実を反映していて、原作脚本絵コンテ監督を手がける磯光雄さんの力量に
唸らされてしまいました。
その世界観ですが、先日後輩に見せていただいた「超芸術トマソン」(筑摩文庫)に
そのヒントがあると思ってまして、
それは赤瀬川原平さんが路上観察しながら、街で見つけた痕跡を超芸術トマソンと
名づけた所が所以です。
その痕跡とは、言ってしまえば使われなくなったガードレールやマンホールなどの公共物、
ドア、窓などを示しますが、それだけではトマソン足りえません。ではどうなれば良いのか?
それは、現在の地層、アスファルトや街路工事によって、完全には撤去されずに、
部分的に残され、もう用をなさず、使われていた痕跡を部分的にしか留められずに
放置されたものを指します。
これは現実にはちょっとした違和感を与える代物ですが、コイルの世界では
古いデータとして、駆除の対象になります。が、子どもはその旧いデータを
イタズラや独自の遊びを道具として活き活きと活用しています。
また、こうした遺物は、見慣れたものだからこそ奇異に映るだけですが、
言ってしまえば一世代前の遺跡と言っても過言ではありません。
個人的に覚えがあるのは、小学校の遊び場が元交通公園だったせいか、
線路の一部や横断歩道や信号機の跡を残して居た事。
また、かつて工事された旧いアスファルトが、年末に掘り返され、或いは
その上から新しいアスファルトで覆われる様子を見た事があると思います。
出来上がった道路は継ぎ接ぎされて、ブラックジャックのようで僕たちはその奇異な
光景を平然と受け入れています。
これが遺跡ならばまた対応が違うんでしょうが、生憎と旧くとも遺跡にするほど古くは無いので。
また、横糸に張り巡らされた「都市伝説」ですが、これもまた縦糸と密接に絡み合っていると
言えます。
何故ならば、この「都市伝説」こそが、古い遺跡と旧い痕跡を繋ぎ、新しい情報と古い情報を
繋いでいるといえるからです。
それはどういった意味か?
つまり、データが氾濫した世界では、古い情報はどんどんと淘汰されてゆきますが、
この古い情報の行く先を誰も知りません。
これらの情報は、やがてはソース元を失い、歳月が根拠を雪崩式に膨らませ、
一人歩きさせてゆき、古くは神話、伝説、説話、昔話となってゆきました。
しかし、そうはまだなっていない話もあります。それこそが「都市伝説」といった
類のものだと思います。
しかし、街がネオンと蛍光灯で、コンクリートとアスファルトで覆われ、
妖怪や民話を信じられる程住む世界の外観は同じでは居られなかったので、
かつての古くの情報は行き場を無くしてファンタジーにしかなり得なかった。
その中で、かつての神話、伝説、などの機能を有してしまったものが「都市伝説」だと
思うのです。
古すぎず、旧い情報は、跡を残さずに増殖し流布します。
それはつまり、旧い痕跡が産み出す奇妙な景色と相似形を成し、世界観の変化を
伝えると共に、変わらないもの、都市伝説が広まる学級など、を容易に
浮かび上がらせてくれます。
優れたフィクションは現実の模倣に終始せず、そこから独自のスポットライトを
その作品以降の現実に向けて照射してくれます。コイルもそんな作品の一つだと言えます。
古い情報、古い世界観、と書きましたが、僕はずっとそんな世界に惹かれている気がします。
妖怪が好きなのもその一部でしょう。
最近、矢作俊彦の作品を数作品読みました。「マンハッタンオプⅠ」(ソフトバンククリエイティブ)、
「リンゴォキッドの休日」(角川文庫)、「ららら科学の子」(文春文庫)。
どの作品も、既に死んでしまった世界、ハードボイルド、全共闘世代、を扱っていますが、
何故惹かれるか理解できないまま読んでしまいます。
死んだ世界と書いて、ハードボイルド、全共闘世代を挙げるのは語弊があるかもしれませんが、
敢えて言わせていただくと、どちらも舞台として緊張感が産まれない時点で、
現実的には死んだ世界だと思っています。
それは今では旧い痕跡に過ぎません。
しかしながら、矢作俊彦さんはその世界をとても美しく描いています。
僕は氏の文章が好きなので、こう言ってしまうのでしょうが、氏の描く世界には、
大人になって、年を重ねて浮かぶ恥や苦味があって、氏の持って回りつつも切れ味を
失わない文章の上にそれらが振り掛けられていて、苦味の中にも決して失われない清涼感を
感じてしまいます。どうしようもなく短く言うと、「敗れ去った青春」があるんです。
そしてそれは、「紅の豚」や僕が好きで読んでいたレイ・ブラッドベリの諸作品にも通じる
要素ですが、この消え行くものの持つ淡い光と影が人を、僕だけではない筈、
惹き付けているんだと思います。
ともすればアナクロと呼び捨てられてしまいそうですが、これらの作品には捨てられない
価値があると思います。
このアニメーションはホント凄い。現実とネットワークの境界が曖昧に見える世界設定。
そこには古い情報と新しい情報が並列に並び、HDDの中のように混沌と情報が存在しています。
そんな世界の中に、都市伝説を思わせる噂に興味を示し、怯え、広める小学生たち。
並列処理された世界観を縦糸に、噂や今とさほど変わらない小学校生活を過ごす
小学生たちのドラマを横糸にして、「電脳コイル」は描かれてゆきます。
描写力の確かさ、世界観の豊かさ、シナリオのデザイン、どれを取っても見応えがあります。
中でも、最も目を見張らされているのが、その世界観。
流し見していた時には気付きませんでしたが、その世界観は独創的でありつつ
しっかりと現実を反映していて、原作脚本絵コンテ監督を手がける磯光雄さんの力量に
唸らされてしまいました。
その世界観ですが、先日後輩に見せていただいた「超芸術トマソン」(筑摩文庫)に
そのヒントがあると思ってまして、
それは赤瀬川原平さんが路上観察しながら、街で見つけた痕跡を超芸術トマソンと
名づけた所が所以です。
その痕跡とは、言ってしまえば使われなくなったガードレールやマンホールなどの公共物、
ドア、窓などを示しますが、それだけではトマソン足りえません。ではどうなれば良いのか?
それは、現在の地層、アスファルトや街路工事によって、完全には撤去されずに、
部分的に残され、もう用をなさず、使われていた痕跡を部分的にしか留められずに
放置されたものを指します。
これは現実にはちょっとした違和感を与える代物ですが、コイルの世界では
古いデータとして、駆除の対象になります。が、子どもはその旧いデータを
イタズラや独自の遊びを道具として活き活きと活用しています。
また、こうした遺物は、見慣れたものだからこそ奇異に映るだけですが、
言ってしまえば一世代前の遺跡と言っても過言ではありません。
個人的に覚えがあるのは、小学校の遊び場が元交通公園だったせいか、
線路の一部や横断歩道や信号機の跡を残して居た事。
また、かつて工事された旧いアスファルトが、年末に掘り返され、或いは
その上から新しいアスファルトで覆われる様子を見た事があると思います。
出来上がった道路は継ぎ接ぎされて、ブラックジャックのようで僕たちはその奇異な
光景を平然と受け入れています。
これが遺跡ならばまた対応が違うんでしょうが、生憎と旧くとも遺跡にするほど古くは無いので。
また、横糸に張り巡らされた「都市伝説」ですが、これもまた縦糸と密接に絡み合っていると
言えます。
何故ならば、この「都市伝説」こそが、古い遺跡と旧い痕跡を繋ぎ、新しい情報と古い情報を
繋いでいるといえるからです。
それはどういった意味か?
つまり、データが氾濫した世界では、古い情報はどんどんと淘汰されてゆきますが、
この古い情報の行く先を誰も知りません。
これらの情報は、やがてはソース元を失い、歳月が根拠を雪崩式に膨らませ、
一人歩きさせてゆき、古くは神話、伝説、説話、昔話となってゆきました。
しかし、そうはまだなっていない話もあります。それこそが「都市伝説」といった
類のものだと思います。
しかし、街がネオンと蛍光灯で、コンクリートとアスファルトで覆われ、
妖怪や民話を信じられる程住む世界の外観は同じでは居られなかったので、
かつての古くの情報は行き場を無くしてファンタジーにしかなり得なかった。
その中で、かつての神話、伝説、などの機能を有してしまったものが「都市伝説」だと
思うのです。
古すぎず、旧い情報は、跡を残さずに増殖し流布します。
それはつまり、旧い痕跡が産み出す奇妙な景色と相似形を成し、世界観の変化を
伝えると共に、変わらないもの、都市伝説が広まる学級など、を容易に
浮かび上がらせてくれます。
優れたフィクションは現実の模倣に終始せず、そこから独自のスポットライトを
その作品以降の現実に向けて照射してくれます。コイルもそんな作品の一つだと言えます。
古い情報、古い世界観、と書きましたが、僕はずっとそんな世界に惹かれている気がします。
妖怪が好きなのもその一部でしょう。
最近、矢作俊彦の作品を数作品読みました。「マンハッタンオプⅠ」(ソフトバンククリエイティブ)、
「リンゴォキッドの休日」(角川文庫)、「ららら科学の子」(文春文庫)。
どの作品も、既に死んでしまった世界、ハードボイルド、全共闘世代、を扱っていますが、
何故惹かれるか理解できないまま読んでしまいます。
死んだ世界と書いて、ハードボイルド、全共闘世代を挙げるのは語弊があるかもしれませんが、
敢えて言わせていただくと、どちらも舞台として緊張感が産まれない時点で、
現実的には死んだ世界だと思っています。
それは今では旧い痕跡に過ぎません。
しかしながら、矢作俊彦さんはその世界をとても美しく描いています。
僕は氏の文章が好きなので、こう言ってしまうのでしょうが、氏の描く世界には、
大人になって、年を重ねて浮かぶ恥や苦味があって、氏の持って回りつつも切れ味を
失わない文章の上にそれらが振り掛けられていて、苦味の中にも決して失われない清涼感を
感じてしまいます。どうしようもなく短く言うと、「敗れ去った青春」があるんです。
そしてそれは、「紅の豚」や僕が好きで読んでいたレイ・ブラッドベリの諸作品にも通じる
要素ですが、この消え行くものの持つ淡い光と影が人を、僕だけではない筈、
惹き付けているんだと思います。
ともすればアナクロと呼び捨てられてしまいそうですが、これらの作品には捨てられない
価値があると思います。
2008/03/22のBlog
[ 17:10 ]
[ コマゴマ ]
本を大量処分。
うろ覚えだけど森田一義アワーで「退屈な明日を処分処分♪」という歌詞があった気がした。
僕は本を処分(血☆涙)。
昨年一部分処分した時、随分と寂寞とした思いが残った。そりゃそうだ。
ある時期に親しんだ本(主に国内新本格ミステリ)を根こそぎ処分したんだから。
CDもそう。
2000~2001年の記憶を処分。空白期間が生まれた。
今回もやっぱり処分。やっぱチョ~断腸。臥薪show time。
標的はやっぱり2000~2001.恩田陸全部。ビルドゥングスロマンな少年漫画。
高校生が読みそうな物、高校のときに親しんでたもの。趣味以外の雑誌。
全部ジェノサイた。と同時に、空箱ができたので、また本棚のリストラしなくちゃだわさ。
あっちょんぶりけ。
でも、BOOKOFFで見かけたら思わず買い戻そうとしてしまうに違いない。
一度は目に掛けた本だもの。
できれば誰かに買われててください。
甲斐性なしでごめんなさい。
人買いに大事なものを差し出した気分。大袈裟かな。大袈裟だろうな。
でも、
こうして処分した本で、また買い戻すものも多分あるんだと思います。CDは流石にない、と思いたいけど。
嗚呼、今精神的飢饉に見舞われている!!!!
うろ覚えだけど森田一義アワーで「退屈な明日を処分処分♪」という歌詞があった気がした。
僕は本を処分(血☆涙)。
昨年一部分処分した時、随分と寂寞とした思いが残った。そりゃそうだ。
ある時期に親しんだ本(主に国内新本格ミステリ)を根こそぎ処分したんだから。
CDもそう。
2000~2001年の記憶を処分。空白期間が生まれた。
今回もやっぱり処分。やっぱチョ~断腸。臥薪show time。
標的はやっぱり2000~2001.恩田陸全部。ビルドゥングスロマンな少年漫画。
高校生が読みそうな物、高校のときに親しんでたもの。趣味以外の雑誌。
全部ジェノサイた。と同時に、空箱ができたので、また本棚のリストラしなくちゃだわさ。
あっちょんぶりけ。
でも、BOOKOFFで見かけたら思わず買い戻そうとしてしまうに違いない。
一度は目に掛けた本だもの。
できれば誰かに買われててください。
甲斐性なしでごめんなさい。
人買いに大事なものを差し出した気分。大袈裟かな。大袈裟だろうな。
でも、
こうして処分した本で、また買い戻すものも多分あるんだと思います。CDは流石にない、と思いたいけど。
嗚呼、今精神的飢饉に見舞われている!!!!
[ 07:53 ]
[ コマゴマ ]
何の事かと言うと、訳語のセンスに関して。
ほらさ、日本人が英語やらフランス語やら、外国語で自身のグループ名やら作品名を
付けるやないですか?あれ。前からソコハカトナイ恥ずかしさなんか持ってました。
ンがッ!!!
今は割合腑に落ちています。
例えば、MAD capsule marketsの場合、乱暴に訳すると、
キチガイ糖衣錠市場になってしまい(mad capsule自体に俗訳があるかは不明)、
日本語で聞くと、かなり不思議さんな集まりに思える。そうなるような訳を選んでもみましたが。
そこは直接に意味を類推しないのと、英語の語感も相まって、mad capsule marketsは
「キチガイ糖衣錠市場」ではなく、mad capsule marketsなのです。
どんなに日本人が付けた名前でも、無理矢理に日本語訳をして意味を嗅ぎ取ろうとした
時点で変質しちゃうのだと思います。
例えば、有名なヒーロー「superman」ですが、彼や作品を「超男」または「超人」と訳す
日本人は居ません。そう訳したら途端ミョーチキリンな事になるからです。
結局「superman」はsupermanでしかありません。
BATMANもコウモリ男やコウモリ人ではありません。
とすると、結局、名前が多言語であろうが、母国語であろうが、名づけた瞬間に
その言語のボキャブラリや文化的背景の中に位置付けられて、その呼ばれ方しか
ありえなくなってしまいます。
宗教でも、「hallelujah」を「主を賛美せよ」とか「amen」を「その通り致します」なんて
書いてたりするけど、結局hallelujahはhallelujah。amenはamenなのさ。
それだけ。それだけ異なる文化背景を理解しようとするのは難しいって事で。
それこそ数年住んでみるのが一番かと。
大体江戸でさえ3代住まなきゃ市民権を認めてくれないのに、
国外だったらそれ以上住まなきゃ○○っ子なんて名乗れやしないんじゃないかと。
ほらさ、日本人が英語やらフランス語やら、外国語で自身のグループ名やら作品名を
付けるやないですか?あれ。前からソコハカトナイ恥ずかしさなんか持ってました。
ンがッ!!!
今は割合腑に落ちています。
例えば、MAD capsule marketsの場合、乱暴に訳すると、
キチガイ糖衣錠市場になってしまい(mad capsule自体に俗訳があるかは不明)、
日本語で聞くと、かなり不思議さんな集まりに思える。そうなるような訳を選んでもみましたが。
そこは直接に意味を類推しないのと、英語の語感も相まって、mad capsule marketsは
「キチガイ糖衣錠市場」ではなく、mad capsule marketsなのです。
どんなに日本人が付けた名前でも、無理矢理に日本語訳をして意味を嗅ぎ取ろうとした
時点で変質しちゃうのだと思います。
例えば、有名なヒーロー「superman」ですが、彼や作品を「超男」または「超人」と訳す
日本人は居ません。そう訳したら途端ミョーチキリンな事になるからです。
結局「superman」はsupermanでしかありません。
BATMANもコウモリ男やコウモリ人ではありません。
とすると、結局、名前が多言語であろうが、母国語であろうが、名づけた瞬間に
その言語のボキャブラリや文化的背景の中に位置付けられて、その呼ばれ方しか
ありえなくなってしまいます。
宗教でも、「hallelujah」を「主を賛美せよ」とか「amen」を「その通り致します」なんて
書いてたりするけど、結局hallelujahはhallelujah。amenはamenなのさ。
それだけ。それだけ異なる文化背景を理解しようとするのは難しいって事で。
それこそ数年住んでみるのが一番かと。
大体江戸でさえ3代住まなきゃ市民権を認めてくれないのに、
国外だったらそれ以上住まなきゃ○○っ子なんて名乗れやしないんじゃないかと。