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2005/09/06のBlog

 友人がTBS系列で放映されている長寿時代劇の『水戸黄門』に狂って、留守電になぜか「この紋所が目に入らぬかぁ」とまで入れるようになってしまったので、『水戸黄門』論を一席。

 水戸黄門の存在は天皇の隠喩ではないか。というのも水戸黄門の漫遊はあたかも天皇の国内巡幸であるかのようだからだ。水戸黄門は民衆に優しい言葉を投げかけ、そして悪代官を懲らしめ、問題を解決していってくれる。

 水戸黄門の話の構造は以下の通りである。
「水戸黄門、漫遊中旅先で事件に遭遇>苦しむ民衆(ここで抵抗することもあるが必ず失敗する)>水戸黄門民衆のために戦う>問題解決>水戸黄門旅立つ」
由美かおるのお色気シーンやうっかり八兵衛のうっかりがあったりするが、基本的にはこのパターンが毎回繰り返されることになる。

 明治以降、天皇は代々全国を巡幸して回っているが、水戸黄門との相似性から注目されるべき巡幸は戦後の全国巡幸だとおもわれる。ここでの天皇の巡幸パターンとしては
「天皇、事件に遭遇(敗戦という全国一律の問題)>苦しむ民衆>天皇、国民を励ます>励まされた国民は懸命に働き、敗戦を克服>天皇は旅立つ」
といったものが抽出できるだろう。どうだろう、水戸黄門の物語と相似型ではないだろうか。

 水戸黄門と天皇巡幸の物語パターンとして重要なのは、民衆は常に失敗し/もしくは自力での状況の克服は困難であり、必ずお上による救済によって助けられるということである。またたまに登場する藩主の無能さ──自分の部下の把握も出来ず最後のチャンバラシーンの後処理にしか役に立たない──は、地方権力の無力さと、そして超然として立つ水戸黄門の姿は中央権力の権威を見せつけてくれる。
 水戸黄門と天皇を結びつける存在はまだある。それはうっかり八兵衛の存在だ。というのも彼は道化──王の影として王の隠れた本音、欲望を表明する存在──として登場しているからだ(彼は常に旅先の観光を率先して行おうとし、食事への欲望は人一倍豊富でもある。そしてこの彼が表明する欲望は、どうせ水戸黄門の旅は全国観光旅行なんだろうと指摘している)。そもそも天皇は日常的中心と非日常的周縁のせめぎ合いの中に立っていた存在であり、自己の影の表明回路には事欠かない存在であった。水戸黄門とうっかり八兵衛の関係はまさに日常的中心と非日常的周縁の場所ではないだろうか。こう考えていくと水戸黄門はあたかも戦後、天皇が占めていたはずの場を埋めるために登場しているかのようだ。なお『水戸黄門』公式サイトにはうっかり八兵衛のプロフィールが掲載されている。


 絶対無謬の中央権力としての水戸黄門、抵抗すれども失敗し、結局はお上の救いを求める民衆、そして無能な地方権力。『水戸黄門』がドラマの中で見せてくれる世界は優れて日本社会を映し出すものであったとは言えるのではないか。


うまくまとまっていないので、この項後日修正予定。
2005/08/17のBlog
[ 14:09 ] [ Book review ]

 大澤真幸が『中学生の教科書』っていう本の中で言ってることなんだけど、近代社会がスタートしたときに人間は「自由な社会」っていう理想と「平等な社会」っていう理想を発見して、そのうち「平等」を追求したのが共産主義圏で「自由」を追求したのが資本主義圏だった(無論どちらもその目標を徹底したわけじゃなく、ミックスしていたので純粋にそのものではない)。冷戦はその理想同士の戦いで、結局戦火を交えることなく共産主義圏は崩壊したわけだけれど、ここからいえることは「自由な社会」の魅力は「平等な社会」の魅力に勝るということ。だから20世紀をかけた実験が問いかけるのは本当の「自由な社会」とはいったい何かということとなる。そりゃ、スタート地点――たとえば生まれた家とか人種とかね――から不平等なら、自由な競争なんてありえないわけだから、その自由さの担保をどこからもってくるかっていう問題が生まれる。
 大澤は自由の担保に責任をおく(*1)。だけど、自由な社会が自己決定を保証されていれば確立されるわけじゃない。自己決定によって責任の主体が明らかになるかといえばそうじゃなしに、果てしなく拡散する責任なわけだ。

 自己決定論の流行が示しているように、私たちの社会は、責任の所在を透明なものとして、より厳格に責任を問いたいという強い欲望に取り付かれているように見える。つまり、私たちは、「責任」という爆弾をしかるべき人に正確にぶつけたい、と熱望しているのである。ところが、他方で、そういう欲望が強ければ強いほど、責任は人々の間を巡回し、ついには消え去ってしまうのである。簡単に言えば、正確に狙いを定めて射出したはずの「責任」という概念は、どこにもあたらず、不発に終わるのだ。(大澤ほか 2001)

 その自由の担保が責任なわけだけれど、その責任を保障する価値観を決定付けする「第三者の審級」/「超越的な第三者」(大きな物語とか、留保をつけてだけれど象徴界(*2))が壊れてしまっている。

 要するに、現代社会において、責任の概念が危機に瀕しているのは、かつてどのような社会も保有していた、あの「超越的な第三者」が、いまや存在しないからである。私たちが何かを選択するということ、自分の自由の名において選択するということ、それは、あの「超越的な第三者」の存在を前提にし、その「超越的な第三者」の観点から見て適切であろうとするところのものを選択するということだったのである。だが、超越的な第三者が存在していなければ、選択というものはまったく実質の無いものになり、ただの盲目の飛躍と同じものになってしまう。そのような空虚な選択に対しては、人は、責任を引き受ける覚悟を持つことができないだろう。(大澤ほか 2001)

 『<自己責任>とは何か』で、桜井哲夫は「家」のアジール性(*3)を称揚して、市場経済とは異なった価値観が家のなかにはあるとしている。たぶんその価値観こそが責任の根本をなしてきた「超越的な第三者」なのだと、何の保障もないけどぼくは思う。桜井は「家」を死守せよと主張するけど、そしてそれは魅力的な提起でもあるのだけれど(*4)、それを選び取ることはもう不可能だ。桜井が家の崩壊の象徴として指摘している子どもの「個食」を、それは単に親の欲望=市場の論理とはまた違う価値観が成長していく過程にあるのではないかなんて楽観的なときのぼくはおもう。
 新しい価値観にあわせたフレキシブルな形態の「それ」なんていうと、資本が主張する新しい労働の枠組みとぴったり一致してしまう危険性はあるけど、大澤の指摘する新しい「責任」の可能性をみるときぼくは「それ」に希望を抱いてしまうのだ。

 私たちが知ったことは、責任を可能なものにしている条件と許しを可能なものにしている条件は、同じもの、同じ逆説である。ということだ。そうだとすれば、赦しという経路を通って、真の赦しを再確立することを通じて、責任を再生させることができるはずではないか。もし、私たちが、絶対に赦すことができないという認識を保ったまま、それを赦すことができるとすれば、そのとき同時に、責任という観念が生き返るのである。なぜならば、許しが因果関係を乗り越えるその同じやり方だけが、責任という感覚を生み出すことができるからである。(大澤ほか 2001)


(*1)興味深いのは大澤が責任と原因を弁別している点だ。原因を問うことによって、因果の連なりによって成立している世界においては無限に原因を遡及することができるから、原因はどこまでも拡散してしまうのだ。だから彼は責任を応答可能性を置いてしかありえないとする。自らが原因でないことについて、あえて自らが原因であるかのようにそれを引き受けることでしか責任は生まれることができないからだ。

(*2)ちょっと前に東浩紀と斉藤環が象徴界について論争していたけれど、斉藤が指摘するに、「象徴界は、ほぼ言語のシステムと同義であり、それは主体の外部にあって「大文字の他者」と呼ばれる」のだから、言語システムという思考の前提が崩壊してしまうというのはお題の立て方自体が間違っている。対して東の主張は大体、近代が前提としてきた神の審級が崩壊してしまったっていう主張で、用語に与える意味内容自体がぜんぜん違うところにあった。その論争はすれ違い自体を楽しんでいるような感じがあったのだけれど、まあそういう意味で一定の留保をおいてみた。

(*3)市場の野放図な価値観から個人を守る緩衝材としての「家」

(*4)家の生き苦しさはあっても家族解散>新しい形態へと離散していく過程においてアジールとしての特権性が失われる可能性は否定しきれない。
2005/06/16のBlog
[ 19:00 ] [ News ]
●新宿セミナー@Kinokuniya /
「マンスリーセミナー『書物復権』」第3回
「学力崩壊時代に読書と教育を問う-〈理想の教室〉とは何か」


出演 亀山郁夫、小谷真理、佐藤良明、巽孝之
日時 6月30日(木) 19:00開演
入場料金 1,000円(全席指定・税込)
ご予約・お問合せ 紀伊國屋書店事業部 03-3354-0141(受付時間:10:00~
18:30)

@『国家とはなにか』(以文社)刊行記念
萱野稔人+ゲスト 酒井隆史トークショー


2005年6月19日(日)15:00~17:00(14:30開場)
これまで『現代思想』誌上で重要な国家論を発表し続け、昨年、柄谷行人氏と
国家についての重要な議論を闘わせた著者(萱野)と、2001年に『自由論』で
衝撃的なデビューを飾り、その後も現代の政治的・社会的な問題を鋭く抉り出
し続ける酒井隆史氏との初顔合わせ。思想の次代をうらなううえでも必聴の対
談。
受付開始:2005年5月18日(水)10:00~


クォータリー「at」0号発刊記念シンポジウム
「グローバリズムを遠く離れて」ライブ版
田中優 (未来バンク事業組合理事長.ap bank顧問)

2005年6月22日(水)19:00~21:00(18:30開場)
岩崎ゆう子(コミュニティシネマ支援センター事務局長)
堀田正彦 (株式会社オルター・トレード・ジャパン代表)
http://www.altertrade.co.jp/topics/topics07.html http://www.altertrade.co.jp/04/04_01.html会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
定員:100名様
入場料:¥500(税込)電話予約の上、当日精算
電話予約&お問い合わせ電話:03-5485-5511
2005/05/21のBlog
最近、当てどもなく考えたよしなしごとを。

 アメリカは常に「対象a」(ラカン理論の概念で簡単に言ってしまえば欲望の原因)を僭称しようとする。

 アメリカの欲動装置は「欲望とは他者の欲望である。他者に欲望されたいとする欲望である」(by ラカン)という余りに人口に膾炙したシステムそのものだ。だからこそ常にアメリカは自らのシステムが最高のものなのだと主張する。
 『歴史の終わり』に象徴的に見られるような言説はアメリカの歴史上、何度も見られた。いわくアメリカのシステムこそは最高のシステムであり、これ以上の変革など存在し得ない。
 
 これこそアメリカだ。その点では確かにアメリカは「誤発見」を繰り返す。
 
 アメリカは常に「対象a」でなければならない。アメリカが「対象a」でなくなったとき、アメリカは空中分解するだろう。バージニア植民地成立当初ならまだしも、アメリカが大量の移民を受け入れ始めたころ、すでにアメリカは「対象a」化していたことだろう。アメリカは「対象a」によってアメリカになったのだ。

 だからこそ、アメリカにとって空虚はなじみの病だ。経済でキャッチアップに成功した日本が「対象」としてきたアメリカを追い越した時、単に経済的(それもほんの一部だけ)だったにもかかわらず、感じた途方にくれた状態を考えるに、アメリカの抱え込んだ空虚は想像を絶する(アメリカの中産階級の抱える病を描いた『アメリカン・ビューティ』は、アメリカの病理を垣間見せてくれる)ものがある。アメリカのファンダメンタリストの数は総人口の18%を数え、カルト宗教は数あまた、テレビ宣教師は巨大な影響力をもつ(テレビ宣教師という存在は非常に興味深くていずれ詳しく調べてみようと思う)。
 空虚さに耐えかねる人は神に救いをもとめたのだろうか?

 ブッシュのテロリズムへの反応は、ぼくには悲鳴に聞こえる。それはプーチンのチェチェン人テロへの非難とも、シャロンのパレスティナ人自爆テロへの罵声ともちがう、もっと切実な響きを持つ。ビンラディン(仮に彼が9.11の首謀者だったとして)、彼は正しくアメリカの急所を打ち抜いた。それは世界にアメリカ的システムの不完全性を示すのに十分な一撃だったのだ。「対象a」でないアメリカはアメリカではない。それゆえブッシュはヒステリックなまでに叫ぶのだ。「war against terror」と。
2005/05/19のBlog
『永遠のハバナ』

初公開 2003年
上映時間 84 min
製作国 キューバ=スペイン
配給 Action Inc.

監督 フェルナンド・ペレス
製作 ホセ・マリア・モラーレス(スペイン) カミロ・ビベス(キューバ)
撮影 ラウル・ペレス・ウレタ
編集 フリア・イップ
音楽 エデシオ・アレハンドロ エルネスト・シスネロス
録音 ホルヘ・ルイス・チホナ
音響 エデシオ・アレハンドロ フェルナンド・ペレス


あらすじ
キューバの都市、ハバナに朝がやってきた。ダウン症の少年フランシスキートは、祖母と朝食をとり学校へ向かう。父親のフランシスコは、ダンサーのエルネストの家へ修復工事に出かけた。40歳のエリベルトは自転車で鉄道工事の仕事へ向かい、ホアン・カルロスはピエロのバイトへ。病院に勤務するイヴァンは、夜は女装パフォーマーとして観客を沸かせ、会場で「粋な男」と呼ばれるフリオは、昼間は靴修理屋だ。ハバナに暮らす人々の一日が、ゆっくりと過ぎていく。そしてまた新しい朝がやってくる。
―――――


 「ゲバラもジョン・レノンも、もういない でも、わたしたちの人生は、ここにある」というキャッチフレーズに惹かれて、渋谷のユーロスペースでレイトショー中の『永遠のハバナ』を観に行った。
 キューバの首都ハバナに生きる、ごく普通の人びとを描いた本作は、『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』のようではない、華やかさなどとは程遠いキューバの現実を浮かび上らせている。キューバを去る若者、明日への希望など無いかのように見える貧しい老女、建物は朽ち、水も十分には供給されない街。それが革命後40年を経たキューバの姿だ。一見、革命は裏切られているかのようにも見える。
 しかし、革命はその地に根付き、ひそやかに生き延びている。
 街行く人はみんな励ましあって生きているように見える。事あるごとにハグし、手を打ち鳴らしあって励ましあう彼らの姿、それは隣組のような鬱陶しさではなく、ただすれ違っただけであっても助け合うことが出来る人びとの日常を映し出している。そしてエンディングで流れる人々のささやかな願い、それは普通に生きるということの切なさと愛おしさを見事に描き出している。
 しかし残念な点もある。それは登場する人々から言葉が奪われていることだ。BGM――とてもいい音楽なのだが――が彼らの言葉を奪い、身振りのみが彼らに可能な表現となる。それは「言葉より映像の方が、ウソをつかない」というフェルナンド・ペレス監督の信念がそうさせたのだろう。だが、劇中わずかに語られる言葉は、明らかにこの映画に物語を導いている。あたかもシナリオに沿って人びとは人生を演じているかのようにも読み取ることができなくも無い。いっそのこと、一切の言葉を排除してしまったほうが完成度は高くなったのではないかと思う。
2005/05/18のBlog
上野千鶴子講演会
 「ジェンダー/セクシュアリティ研究に何ができるか?」

日時:5月27日(金)12:30~14:30(質疑応答あり)
場所:ICU 旧D館オーディトリアム



『現代思想 2005.vol.33-5』青土社.
今月号の現代思想の特集は「公共性を問う」。都市のジェントリフィケーションを中心にとても興味深い議論が展開されている。公共性とか、都市論とかに興味がある人はぜひ。

呉文二, 島村高嘉,2000,『金融読本 第23版』東洋経済新報社.
広岡隆,1995,『法と社会』ミネルヴァ書房.
栗本薫,1984,『ぼくらの世界』講談社.
栗本慎一郎,1981,『法・社会・習俗――法社会学序説』同文館.
中谷厳,1993,『入門マクロ経済学 第3版』日本評論社.
野田正彰,1998,『戦争と罪責』岩波書店.
小田祐司,2002,『反グローバリズム労働運動宣言』彩流社.
大澤真幸,2004,『帝国的ナショナリズム』青土社.
ロバート・ケーガン,山岡洋一訳,2003,『ネオコンの論理』光文社.
山本吉宣,1989,『国際的相互依存』東京大学出版会.
2005/05/04のBlog
[ 18:16 ] [ つれづれ ]
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 ぼくも、Garbageさんにいう「残業は一切認めない」方向に向かって欲しいのですが、残念ながら現状、その方向には向かっていません。それが「時間外割増なし」という施策に現れています。

 労働規制のあり方は大まかに分けて二つ――ヨーロッパ大陸諸国のように、労働時間の長さ自体を直接規制する方法と、アメリカ合衆国のように、時間外労働に上限を設けたり処罰の対象としたりせずに、割増賃金を支払わせることによって、コスト面からの圧力をかける方法――があります。日本の場合、外形的にはヨーロッパ型の直接規制型を取っていますが(36協定に代表されます)、実態的には、サービス残業の常態化からも分かるとおり、形骸化しているものと考えてよいと思います。

 そもそも日本の法的な残業割増である25%というのは――アメリカ合衆国ですら50%に設定――京都大学の久本憲夫によると「残業割増率の基礎となる1時間あたりの賃金には、ボーナスや社会保険料の企業負担部分、企業年金などが含まれていない」ため、実のところ、企業にとっては割引賃金となっているといるのです(なお、彼の試算によると71%までは、新規に人を雇うより、残業させた方が企業にとって特になるとのこと)。その低廉なコストですら、労働者にサービス残業をさせることで、労働者に転嫁してしまいがちな企業が、さらに割増賃金をなくしてしまおうというのですから、ようするに、「まあとりあえず、おまえら死ぬまで働いとけや」とでもいいたいのでしょうね。
2005/05/02のBlog
[ 23:29 ] [ つれづれ ]

 ぼくが毎朝、通勤で使っている東京メトロ半蔵門線の最後部に、ゴールデンウィーク明けから女性専用車両が導入されるのだそうだ。ぼくは最後部車両は混むため、もともと乗っていなかったからさして影響は無いのだが、しかし、この最近流行の女性専用車両というシステムには少し疑問がある。それは、女性専用車両が逆説的に、ちかんの正当化に繋がらないかということだ。つまりそこに女性の身体があるからちかんするのだという論理に。

 女性をある特定の車両に隔離することで、ちかんを防止しようとする試みは確かに成功しているのだろうし、だからこそ、東京メトロも導入するのだろう。そしてその背後には、女性の身体は、男性に対して性的に魅力的すぎ、導淫剤として機能するからこそ、女性は隔離して保護しなければならないという論理が働いているのだろう。しかし、それはちかんの論理を正当化するものでもある。女性が男性の欲望の対象として見られることを、匿名の存在に貶め、肉として扱われることを肯定するものでもある。

 女性専用車両は一種のアファーマティブアクションだ。それは女性を性的被害から保護し、社会進出を補助する役割を果たしている。しかし、ぼくにはこのやり方は、逆に女性が保護される存在であることを明示化し、逆に「劣った」存在であると宣言しているように見える。そして、これは常に女性に付いてまわる常に被~体とするという徴付けの一環なのだ。

 女性専用車両をつくり、女性を隔離することで、女性をちかんから保護するというやり方は確かに容易だし、実効もあるだろう。だが、それは肉体のスティグマとして女性に付いてまわる。だから、ぼくはたとえ迂遠であっても、現状の男女相乗りの車両の中でちかんを摘発しやすいシステムを構築するべきではないかと思う。
2005/04/29のBlog
4月27日付の日経一面に「「残業代ゼロ」一般社員も」と題された記事が掲載されていた。Web上にも一部掲載されていたので、引用しておく。

「残業代ゼロ」一般社員も・厚労省方針、労働時間重視を転換
 厚生労働省は、休日や週40時間を超える労働に割増賃金を支払う規制について、適用除外の範囲を拡大する方針だ。現在の除外の対象は管理職のみだが、一部のホワイトカラー社員などにも広げる。働き方の多様化で成果を勤務時間で評価しにくくなっているため。労働時間を最重視した日本の労働政策の転換を意味しており、残業の取り扱いなど企業の賃金政策に影響を与えそうだ。
 28日に有識者による研究会を設置する。労働時間を規制した労働基準法の見直しを進め、2007年の国会に改正案の提出を目指す。 (07:00)


なお、ここで言及されている「有識者による研究会」は厚生労働省の「今後の労働時間制度に関する研究会」のことだ。以下にその開催要綱の一部を引用しておく。

厚生労働省:今後の労働時間制度に関する研究会第1回開催について
今後の労働時間制度に関する研究会開催要綱
1. 趣旨・目的
 労働時間制度については、これまで、産業構造・企業活動の変化や労働市場の変化が進む中で、裁量労働制等弾力的な労働時間制度の導入などにより対応してきたところである。
 しかしながら、経済社会の構造変化により、労働者の就業意識の変化、働き方の多様化が進展し、成果等が必ずしも労働時間の長短に比例しない性格の業務を行う労働者が増加する中で労働者が創造的・専門的能力を発揮できる自律的な働き方への更なる対応が求められるなど、労働時間制度全般に係る検討を行うことが必要となっている。特に、労働時間規制の適用除外については、平成16年の裁量労働制の改正に係る施行状況を把握するとともにアメリカのホワイトカラー・エグゼンプション等について実態を調査した上で検討することが求められている状況にある。
 一方、週労働時間別の雇用者の分布をみると、いわゆる「労働時間分布の長短二極化」が進展するとともに、年次有給休暇の取得日数の減少及び取得率の低下傾向が続き、過重労働による脳・心臓疾患の労災認定件数も増加している。こうした状況の中で、今後の労働時間制度について研究を行うことを目的として、「今後の労働時間制度に関する研究会」(以下「研究会」という。)を開催する。
2. 検討事項
 本研究会においては、次に掲げる事項を中心として調査・研究を行う。 ・ 弾力的な働き方を可能とする労働時間規制のあり方
・ 年次有給休暇の取得促進
・ 所定外労働の抑制


 以後の研究会議事録を注意深くウォッチしていく必要があるが(この研究会の前段階として、労働政策研究・研修機構から「諸外国のホワイトカラー労働者に係る労働時間法制に関する調査研究」という研究論文が発表されている。この研究報告の執筆者と研究会のメンバーにかなりの重複があるので、この論文を読むことで、今後の研究会の行方が見えてくるかもしれない。まだ概要しか読んでいないのだが。)、厚生労働省はなにか勘違いしているのではないか。
 サービス残業がここまで蔓延っている情勢下で、まずやるべきはサービス残業の撤廃であって、そのための労働基準監督官の大幅増員(労働基準監督官の数は全国で約3600人。それで法人だけで260万以上ある国内の企業を監督している。目が届かなくて当然のことだろう。)に他ならない。そして、残業への割増賃金をなくせというニーズが一体どこから来ているのかといえば、それこそサービス残業をさせている企業側からやってきているのではないか。法が不法に道を譲るという一応は法治国家として機能している国にあってはならないことなのではないだろうか。
2005/04/16のBlog
紀伊国屋で面白そうなセミナーをいくつか行なっているので、その辺をご紹介。ぼくは、天皇論がかなり気になるトピックなので予約が取れれば行く予定。
ちなみに先日の北田暁大 + 鈴木謙介 トークショーは鈴木謙介が急病で東浩紀(かなり太っている)が代役で出てきたり、宮台真司が出てきて東に反論していたりして結構面白かった。

紀伊國屋書店-イベント情報-より。

マンスリーセミナー『書物復権』 第1回
いま天皇・皇室を語る――『岩波 天皇・皇室辞典』刊行に際して
小熊英二×島田雅彦×原武史


■日時 4月23日(土) 19:00開演(18:30開場)
■料金 1,000円(全席指定・税込)
■会場 紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店新宿本店4F)
■前売取扱所 キノチケットカウンター(紀伊國屋書店 新宿本店5F)
■ご予約・お問合せ 紀伊國屋書店事業部 03-3354-0141(受付時間:10:30~18:30)


『メディア・ビオトープ メディアの生態系をデザインする』刊行記念
水越 伸さん×岩井俊雄さんトークセッション 「メディアの未来に灯をともす』


■日時 4月27日(水) 19:00開演(18:00開場)
■料金 1,000円(全席指定・税込)
■前売 3月24日(木)発売開始
■会場 紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店新宿本店4F)
■前売取扱所 キノチケットカウンター(紀伊國屋書店 新宿本店5F)
■ご予約・お問合せ 紀伊國屋書店事業部 03-3354-0141(受付時間:10:30~18:30)


『東京スタディーズ』(紀伊國屋書店)刊行記念
吉見 俊哉×若林 幹夫×北田 暁大
「東京論の逆襲」ふたたび書をもって、街へ出よ!


■日時 5月8日(日) 18:30開演(18:00開場)
■料金 1,000円(全席自由・税込)
■前売 4月9日(土)発売開始
■会場 紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店新宿本店4F)
■前売取扱所 キノチケットカウンター(紀伊國屋書店 新宿本店5F)
■ご予約・お問合せ 紀伊國屋書店事業部 03-3354-0141(受付時間:10:30~18:30)
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