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2008/05/11のBlog
[ 14:13 ] [ そうさく。 ]
『そうさく。』

ああ、知らなかった。知らなかった。
あの扉の向こうに
こんな世界が広がっていたなんて。

いいえ。私は知りたくはなかった。
知っていてドアノブから遠ざかっていたのだわ。

だって私が扉を開けたら
もう帰れないし戻れない。
あの人を置いてけぼりにしてしまう。

私は知っていた。この世界を。
ずっと私の内側にあり
ずっと私と共に育っていき
ずっと私を待っていた。

ああ、でもあの人がひとりぼっちになってしまう

扉は一度しか開かず
一度開いたら永久に閉まる
彼はこちらに入れない

音楽が私を呼んだ
未来が私を呼んだ
過去が私を呼んだ
時が私を呼んだ

皆が私を待っていた。

ああ、貴方。ごめんなさいごめんなさい

私は私に呼ばれて
貴方の叫び声を無視してしまった

ああ、ごめんなさい。
私は貴方を、貴方を、貴方を、連れてはいけなかった。

私はもう扉をくぐってしまった。
貴方が言うように、そこは地獄ではなかったわ。
貴方は私を行かすまいと
いいえ。私と離れたくなかったのね。

私は知っていて、貴方を置いてけぼりにした。

扉の向こうのこちらは
ええ。貴方が言うように地獄でした。地獄でしたわ…。

貴方に嘘すらつけやしない。

扉の向こうで貴方は一人。
私は貴方を救えない。

ああ、どうか神様
彼に新たな扉を与えんことを…
彼の行ける彼自身の扉の向こうの世界と共に。

パタン。
2008/05/09のBlog
[ 08:49 ] [ そうさく。 ]
たまに私は赤い靴を履いている。

童話のそれと同じように
赤い靴を履いている間は
狂ったように踊りつけなくてはならない
恩人を蹴飛ばして
いたいのに飛び出して
ぐるぐるぐるぐるくるくるくるくる
踊り続けなくてはならない

首切り役人が私の足を切るまでは

赤い靴は呪いの靴で
だけど履いたのは他でもない自分の意思で
呪いをかけられたのは軽はずみな心のせいで

哀れというには勝手すぎる物語。

誰か私の足を切ってください
と私は口が裂けても言えないから
誰か私と踊ってください

身勝手な身勝手な赤い靴の物語
2008/05/08のBlog
[ 01:26 ] [ どろり。 ]
『どろり。』

メンソールの細い細い煙草の
最後の一本を、今吸っている。
吸いやすくて、それなりに吸いごたえがあり、私はそれなりに気に入っていたけれど、味にうるさい君は、私から一本もらい吸ってみたこの煙草を苦手だと言う。
そしたら急にこの煙草が不味く思えて、早く吸い終えたくて堪らなかったよ。

仕事を終え、ビジネスホテルのお風呂にお湯を溜める。
最近の楽しみは入浴剤で、
今日は久しぶりの泡風呂
最初に泡立てるのを忘れて
慌てて溜ったお湯の上に粉末を振りかけ、シャワーで適当に泡立てる。
表面上だけ泡が出来たと安心していたら
お風呂場の鏡に映った自分に会う。

1つ、2つ、、5つもある。
君が私につけた痕跡。

この間は、首筋に濃くなかなか消えないものをつけられ、
隠すのが難しかったことに比べれば、可愛いものだ。

君の痕跡は、私の生活に、私の日常に、私の中に、私に、確実に数を増やしていく。

それがなんだか悔しくて
それがなんだかおかしくて
仕返しに君の首筋に小さくつけた、私の痕跡を、君はどう思っているのかな。
2008/05/07のBlog
[ 13:31 ] [ 過去ログさるべーじ。 ]
昨日、村上春樹訳の『グレート・ギャッツビー』を読み終えた。
その話は今日の本題ではないので、これでおしまい。

かつて、私が違うブログ名でここでrakuと名乗り始めた時、
私はヒキコモリをしていて、本を読むことが、出来なかった。
それは精神的な抑圧もあったのだが、ここでrakuとして
生きていくうちに、ようやく本が再び読める時が来たのだ。
その本が、村上春樹作『ノルウェーの森』だったわけだ。

更新日時:2004/07/09 21:41

ほとんど始めたばかりの頃。
過去ログの中でも最も古い部類。
そして、最も長い部類の文だ。
流れるように流すように読んで頂ければ、幸いだ。

***************

 『本の話を、させて下さい。 』

たぶん、「本」の話をするのは、これが最後。
最後と言うことは、始まりということ。
これからは、本の話をするのではなく、
日常の話をすることにしよう。

本を読むことは、若く愚かだった私が思っていたように
水を飲むことや、空気を吸うこととは違っていたけれど
夢を見ることと似ているのかもしれない。
見るときは勝手に見るし、見ないときは見ない。
覚えている時は覚えているし、忘れるときは忘れる。
それは、私が決めることでも自然にすることでもなく
きっとそのままで自然なことだから。日常だから。

だから、本の話をさせて下さい。

今、ノルウェイの森を読み終えたばかり。
ハープのノルウェイの森を聞きながら。
私にはこの曲は、泣きながら笑い
ねぇ、どうしよう?どうしよう?どうしよう?
と話しかけているように聴こえる。
それは深い森の深い井戸ではなく、
森の出口にいて、光差す出口に戸惑っているのだ。
あまりに森に迷いすぎて、出口が信じられない。
光が見えて嬉しいけれど、怖い。
だから、どうしよう。
このまま、森にいた方が、楽かもしれない。
だけど、どういしょう。
笑いながら泣いて出口にいる人に話しかける。
ねぇ、どうしよう?

曲が変わった。元々ランダムなクラッシックのCDなのだ。
直子が死ぬ直前ぐらいからずっと
エンドレスでノルウェイの森だけを聴いていた。
彼女の死は、悲しかったが泣かなかった。
最初から最後まで、悲しかったが泣かなかった。
今、曲がようやく変わった。

村上春樹の、この間読んだばかりの
短編二作については既に語ったように、
私はでてこない。春樹の中に私はいない。
とても読みにくく、とても解かりずらい。
でも、ノルウェイは、読みやすかった。
途中でご飯を食べに行くのがもどかしいぐらい
集中して読むことができた。
それは、私を見つけたからだ。
直子、緑、ハツミ、レイコ。皆に私はいた。

ノルウェイの森を、初めて読んだ5年前の感想を、
思い出した。
17歳だった私は、酷く主人公に腹を立てた。
このクソ野郎と思った。
理解できなかったからだ。何もかも。
きっと今でも、それは変わってないのかもしれない。
だが、人は変わる。
17歳の私は、既に私ではない。
ここにいるのは21歳の私。
今の私は、ワタナベのことを理解しないでもいいと
思っている。

ねぇ、ワタナベ君。私は貴方が嫌いだったの。17の時。
何でだか、わかる?
それはね、貴方が大人だったからだよ。
そして貴方が、普通だと言い張ったからだよ。
最後に貴方が、レイコと寝たからだよ。

理解できないものを嫌うのは、幼さの証拠。
理解できるものしか愛せないのは、愚かの証明。
私はずっと私を求めてやってきた。
私は私しか、愛せない。
私は私しか、愛せなかった。
だから、私は私を見失う。
おかしいでしょう。ワタナベ君。
わからないでしょう。直子が死んだ理由が。

 完璧な文章は存在しない。
 完璧な絶望がないのと同じにね。


それでもね、人は完璧な絶望をあると「思う」。
本当はないんだよ。でも、あると「思う」の。
「思って」しまうの。
どういう時だと、思う?ワタナベ君。
それはね、「未来」が「見えなくなった」時。
違うの、「未来」はいつでもあるんだよ。
何をしなくても時は過ぎ行くし、
未来はいつでもないと言えば、ない。
でも、「見えなくなる」こともあるんだよ。
知ってた?
絶望的な未来が見えるうちは、まだいい。
違うの。「見えなく」なるの。
そうするとね、楽になるんだよ。
一つしか「今」するべきことはないもの。
それが、「死ぬ」こと。
嘘だと思う?嘘だよ。嘘だよ。

貴方が直子に書いた手紙は、素敵だった。

ねぇ、ワタナベ君。嬉しいんだよ。本当に。
暗い森で出口が見えたら、光が差し込んだら
本当に嬉しいんだよ。
でもね、怖いの。怖い。嬉しいからこそ怖い。
暗い森にいたものは、混乱してしまうんだよ。
暗い森にいたものは、目が開けられなくなるの。
暗い森にたものは、怖くなるの。たまらなく。

理解したい、という気持ちは人なら当然ある。
恋すれば、尚のことある。
だけれど、それは、不可能だ。
理解したいという力は、双方が思うことは可能だ。
そして、理解したと感じることも可能だ。
それでも、それは、不可能だ。
でも、それでいい。
理解したいと思う。それだけで、いい。
理解できなくても、可能なことはたくさんあるから。

× × ×

村上春樹の作品を読んで、
私が主人公と同調しない理由。
理由というより、違和感というのか。

 彼は男で、私が女だから。

単純な答えだった。
馬鹿馬鹿しい。実に。
でも、それが本当のところだ。
私はだいたい精神世界にいるとき、
本を読んでいる時、ひいては日常生活を過ごす時、
自分の性、つまり女であることを意識することは
少ない。あまりない。
特に男性的だというわけでもないが、
精神上では男女というのはあまり必要はない。
というのが持論だった。
ネットの人間関係というのもそうだ。
男も女も関係ない。年齢は少し関係するけれど。
男かと思って話せば女だったりするし、その逆もある。
だが、ネットでも一部ではそれこそが
重要であったりもする。

俗に言う出会い系ではないが、
私は少し回復すると現実の友人関係を求めない代わり
メル友を募集することがままあった。
私の情報は「21歳、女」である。
そう、私はそれだけのものだ。21歳の女。
その情報だけで、私を求める男たちが山ほどいる。
本当に山になってしまうほど、いる。
誰かの文章に、ネットでは「女」として
自分を扱ってくれるからネットがやめられない。
というのを見たことがある。全くそのとおり。

私は本や漫画は、幅広いジャンルを読む。
少女マンガから哲学書、暴力漫画も大好きだし、
ふわっと心温まる妊娠出産漫画も好きだ。
友人も男女年齢あまり気にしない。
男だろうが女だろうが、気が合えば友人だ。
それらを凄く気にする人がいることは知っているし、
それを否定するつもりは毛頭ない。
むしろ、羨ましくすらある。

とにかく、
この世には男と女、二種類いることを、
私は時々忘れる。
ところが、春樹の書く本の中には、
はっきりと分かれているのだ。
そこに出て考え発言する人物は、男だ。
考え自体に違和感を覚えるわけではないのだ。
むしろ、深く考えさせたり同意する部分も多々ある。
だけれど、出てくる人物は皆男だ。
もちろん、女もでてくる。
不思議なことに春樹は二種類書き分ける。
「女のこ」と「女性」。
このうち、「女のこ」というのがどうもくすぐったい。
なんというか、全く違う生物のように、描く。

そして私を思い出すのだ。
ああ、そういえばこの世に二種類人間がいた。
そして私は、「女のこ」だったのだ。
それはとても不思議な体験だ。
「女のこ」としての自分がいることに。
不快ではなくくすぐったいのだ。
最近化粧をするようになって
外出先の鏡で自分を見つけられない時がある。
もちろん、一瞬だ。
だけれど確かに私は化粧した私を見失う。
そして、思い出す。
そうそう、私は「女のこ」だったんだ。
それまで「男」だと思っているわけではない。
どちらかというと、そう、「子ども」だ。
性があやふやなのだ。未だに。

もう一つ春樹の描く違和感。
それは性が当たり前に受け入れていること。
性というのは、酷く葛藤して手に入れるものだ。
それまでの自分に一旦さよならしなくては
ならない。男であろうと女であろうと。
いやおうなしに第二次成長期に自分の体が変わる。
その葛藤が、春樹の描く主人公にはない。
まるで初めから大人だったようだ。
それが私には不思議。むしろ、悔しい。
それはまるで、女のこが最初に思う疑問。
「どうして私にはおちんちんがついてないの?」
と同じだ。
男とは最初からその疑問をしなくてすむ。
疑問に思わない女の子はいる。
むしろ、そちらの方が多いかもしれない。
でも、私は幸か不幸か疑問に思う「女のこ」だった。
そして、考える「女のこ」だったのだ。

 どうして私にはおちんちんがないのか。

それは私が男ではないからだ。それが、悔しい。
だってそれしか答えないのだから。
考えても手に入らない。理解できない。
する必要がない。おちんちんの代わりのものを、
私は既に持っているのだから。

それが、理解しないということ。

人は変わる。変わることができる。
人が死にすぎる小説だった。
キズキが死に、緑の父親が死に、ハツミさんが死に、
そして直子が、死んだ。

私は、泣かない。ただ、哀しい。そして悔しい。

だって生きている。私は生きている。
これからも生きる予定だ。死ぬかもしれないけど。
そして、ワタナベ君もレイコさんも永沢さんも
皆生きている。突撃隊も、きっとどこかで生きている。

理解することは、不可能だ。
だけど、理解しないだままでも可能なことは、ある。



 私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。
 私もあなたも」


[ 更新日時:2004/07/09 21:41 ]



[ 12:48 ] [ にちじょう? ]
んふー。午後出勤でこれから通常の業務に戻ります。。

しかし、充実したGWをなんだかんだで過ごしました(〃▽〃)
ガンバル・ウィークの方も絶好調で、3年やってきた中で
自分至上最高売り上げも達成したしー。
お客様としてスペシャル☆ゲストさんが職場に遊びにきてくれたしー。

てわけで、第一回。GWのおもひで。
(時系列バラバラです)

 中央線飲み屋での出会い

5日の子供の日に、泊まり仕事明けでクタクタになったまま
同じよーな同僚二人と昼酒をすべく、そのまま中央線沿線上の
ちょっと有名な、開店前から結構な行列ができてるような、
名前だけ知っていた焼き鳥やさんに連れて行ってもらいました。

そこで二人で、えーと、、結局6時間以上グダグダ
飲んでたんです。仕事のことや自分たちのことを
際限なく語って。焼き鳥つつきながらね。
(ここ餃子やシュウマイまじうまかった!)

お酒は、私は始めてやってみたんだけれど、
焼酎のお湯わり。いいね。お湯割り。飲みやすいし旨い。
チューハイや梅酒もガブガブあほみたいに飲んで。
もうね、止まらん止まらん。際限なく会話もお酒も。

そんで、3時間ぐらいたったところかな?
隣の席に一人のおじいちゃんが座ったのよ。
お世辞にもよい身なりじゃございません。
中央線沿線飲み屋によくいる感じの、一人身の。

構わず二人でガブガブ、ゲラゲラやっていたらさ
おじーちゃんが、何事か話しかけてくるの。ボソボソと。
ん?と思って聴いてみると「何を飲んでるのか?( ´Д`)」と。
焼酎のお湯割りってことを教えてあげて
おじいちゃんの飲んでる瓶の酒は何か聞いて
一通り話をしたら、また二人の会話に戻っていたんだけれど
こういうやりとりが何度も続くのねん。
つまりうちらの会話を聞いていて、ちょろっと口をはさみ。
みたいな。んでじいさんの話し方が、また中央線民で
バリバリの日本語英語を使ってくるんだよね(笑)

「グラッドグラッド!( ´Д`)」「サンキュー( ´Д`)」「メイビー( ´Д`)」

んで、グダグダ二人の会話中心で時々じいちゃんに構う。
みたいな。そんな感じでグダグダ3時間。
「アンタ、今いいこと言った。もう一度言いなさい( ´Д`)」
「んー。んぁはっはっは。そりゃそうだよ( ´Д`)」
なんてチャチャがじいちゃんから入るわけだ。

んでじいちゃんのが早く帰るってことで、
酒いるか?とか(たぶんウィスキー)
バラバラにした焼き鳥の残りをくれようとしたり(いやいらんw)
またさっきじいちゃんが感動したイイコトとやらを
語ってくれと頼まれたり。
もう帰るのが名残惜しいみたいで、グズグズグダグダ
席から立てないみたいでね。でもお店も混んでるから
とうとう席を立たなくてはいけない時がきて

「もーう、あんたたちと、会えないんだろうなぁー・・・( ´Д`)」

って何度も言うんだよ。それで握手求められて
「いんや。あたしたちも中央線民で、昼間から
こうやって焼酎のお湯割りガブガブのんでグダグダしてますから
また会えますよー」
って二人で笑って見送って、手までふってくれて、
それでじいちゃんなんて最初っからいなかったように
また二人でグダグダ飲み初めて。

たぶん、もう二度と同じじいちゃんには会えないことを
私たちも知ってる。

私たちもほどなくして席をたち、私んちで宅飲みすることになり
私の家で、CDをかけた。

中古で500円で買った、スピッツの曲を色んな人が
カバーしまくってる「一期一会」ってアルバム。
それを聴きながら、自宅で芋焼酎を二人でちびちびやって
じいちゃんの顔を思い出そうとしたけれど、思い出せなくなっていた。
2008/05/04のBlog
[ 20:03 ] [ めもがき。 ]
『めも。』

人が遊ぶ時に働く…('A`)
サービス業の人間にとって、

GW は

ガ ン バ ル ウ ィ ー ク
と、読みます(`・ω・´)

てわけで、この仕事して3年目になりますが、GWが一番の繁栄時(;´д`)
いつもの3倍?6倍?いや12倍ほど忙しいよう(>_<)

救いはお客様も楽しむ気が満載なので、売り上げ好調♪怒らない(クレームを言われない)方が多い(^-^;

やれやれ、夜は少しは落ち着くかなあ?

これから仕事場にスペシャル☆ゲストを迎え撃つ…じゃなくて歓迎する準備をします(*´▽`*)

さ♪まだまだガンバルウィークを続けますぞ(^-^)/
2008/05/02のBlog
[ 02:41 ] [ 過去ログさるべーじ。 ]
更新日時:2005/10/17

『待つということ。 』

待つ、ということぐらい精神力を使うことはないと思う。

時間も人も耐えず流れるのが世の理。
現代では特に早く感じるのは私だけではあるまいて。
時間に身を委ねている時でさえ、ごうごうとした時の流れに巻き込まれ、
変化せずにはいられないわが身の有様なのに、
それをあえて、待つという選択をするのは辛いことだ。

人は、時として動けない、戻れない、立ち止まる時がある。

動きたくても動けない。
戻りたくても戻れない。
歩き出したくても歩き出せない。
ただ、時が過ぎるのを固まった状態で過ごし、
何かに許された時にようやく進みだそうとすると、
もう、行こうとした場所は変わっているのだ。人も。

ああ、自分は時に置いてかれたのだ。

そんな思いに囚われそうになる。
「時と人」の複雑な関係については、私の駄文を読むより
北村薫さんの三部作「スキップ」「ターン」「リセット」(新潮社より)
を読んで頂いた方が早い。

 誰か、教えてください。
 時は繰り返すことが出来るのですか。
 『スキップ』より

 「ねえ、こころがこんなにも切なく<待って>と頼んでるのに、
 体はどうして、耳もかさずに足早に行ってしまうのかしら」
 『ターン』より

 ただ一度、二度とない、この時を生きて、
 人は絶えることなく、それぞれの物語を、各々の言葉で語り続ける。
 『リセット』より






時に置いてかれた側は、それを受け入れるしかない。
いくら辛くても、情けなくても、哀しくても、それはもう起こってしまったのだから。
その遅れは取り戻せなくても、戻った時の流れに再び溶け込まなくてはいけない。

だけれど、もし、その立ち止まってる人を、他の人が待とうとしたら、どうだろう。
立ち止まってる人自身は、動けない。会えない。わからない。
いつまでかかるか予想もつかない。ずっとずっとこのままかもしれない。

でも待つ側は違うのだ。
春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がきて、また春が来る…
その季節の移り変わりには、人や物やたくさんの出会いがあり、
気付かないでも変わらざるをえない。変わりたくなくても。
変わりたくても変われない待たれる側と同じように。

思い出は薄れ、面影は消え、誓いはゆるみ、誘惑が顔を出す。

それでも、待つと決意したのなら、一体何が頼りとなるだろう?
お恥ずかしいことに、私は想像がつかない。
一つできることは、相手の存在をその時は忘れてしまうことだ。
そうすれば、自分は時に身を委ね、相手が戻れる状況になったら思い出し、
相手が求めれば、それに答える。それでいい。それがいい。
時が流れるのは仕方のないものだ。相手に止まるように強要するものではなく、
仕方がないと受け入れる方がずっと楽だ。
もしくは、待たれない方が、気が楽なのだ。
待たれることは、プレッシャーになり、動けない上に更に重しを感じる場合もある。

お互いが想い続けつつも、同じ時を過ごしつつも二十年が経ち、
2人とも別々の家庭を持ち、別々の子の親になった。
小説でさえ、そういう結末を迎える場合もある。(藤沢周平『蝉しぐれ』)

 待っていて・・・私を。
 待っていたよ。君を・・・
 『ターン』より


こんなことが、現実に、ありうるかどうか。
私は本の中の世界でしか、今は、ないと思う。
だから、私は言っている。
もし私がまた再び、立ち止まることがあるとしたら、

「私を、待たないで。待たれたくない。」

待と時と侍は全部似ているね。精神力の世界です。
私は、弱いのです。