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2004/05/31のBlog
[ 08:49 ]
[ 今日竜馬は? ]
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月中●
・『長岡謙吉による『閑愁録』を発表』
海援隊の書記のような役目をしていた隊士の
長岡が竜馬らの論説をまとめたもの。内容は信教
問題に触れ、日本古来の、仏教、神道の宗教や
文化が崩壊すると、危機感を説いた論集。竜馬
ばかりでなく隊士たちが論じ合ったものを書いた
のだろう。
この月の竜馬はいろは丸事件の真っ只中! よくこんな論集をまとめられたもの。長岡の才能によるものかもしれない。また、竜馬が宗教的なことに感心があったというのは、ちょっと意外な感じがする。さらに時代を変えようと考えていた竜馬が宗教に関しては保守的であったというのも意外! だがもっと先の将来を見据えていたと考えると当たり前のことであったのかもしれない。
・『長岡謙吉による『閑愁録』を発表』
海援隊の書記のような役目をしていた隊士の
長岡が竜馬らの論説をまとめたもの。内容は信教
問題に触れ、日本古来の、仏教、神道の宗教や
文化が崩壊すると、危機感を説いた論集。竜馬
ばかりでなく隊士たちが論じ合ったものを書いた
のだろう。
この月の竜馬はいろは丸事件の真っ只中! よくこんな論集をまとめられたもの。長岡の才能によるものかもしれない。また、竜馬が宗教的なことに感心があったというのは、ちょっと意外な感じがする。さらに時代を変えようと考えていた竜馬が宗教に関しては保守的であったというのも意外! だがもっと先の将来を見据えていたと考えると当たり前のことであったのかもしれない。
2004/05/30のBlog
[ 08:30 ]
[ 海援隊 ]
砲術の名人で、操船も得意という海援隊士がいる。
それが野村辰太郎(1844年~1903年、別名・野村要輔・野村維章)だ。
野村は、土佐国土佐郡小高坂村(現在の高知市大膳町)で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男として誕生している。野村家は砲術方の家柄で、万延元年父・亀四郎に従い江戸に出て、江川太郎左衛門の門に入り高島流西洋砲術を学んでいる。文久二年三月藩の砲術教授役となり、元治元年十月藩船南海丸に乗り込み長崎に渡航し、長崎の何礼之塾(がのりゆき・じゅく、れいしと読む資料もあり)で英語を学んでいるうちに、竜馬と知り合いになり、神戸勝塾への入門を誘われている。だが、さまざまなしがらみで果たせなかった。
このため、野村は慶応二年6月に脱藩して亀山社中に参加している。『千里駒後日談』に「坂本清次郎とともに土佐を脱出してきた」とこのときの模様が記されてある。参加してすぐに、亀山社中が購入した大極丸に、何礼之塾で一緒に英語を学んだ白峰駿馬と共に、船長として乗り組んでいることから、操船技術に対しても竜馬の信頼は高かったに違いない。
翌慶応三年四月に改編された海援隊に参加し、幹部として活躍している。
慶応三年十一月、竜馬と中岡慎太郎暗殺の報を大坂で聞き他の海援隊士らと上京、葬儀に参列している。翌年慶応四年一月、海援隊による長崎奉行所の占拠に参加し、その際、海援隊士が薩摩藩士川端平助を誤殺する事件があり、其の責を負うて切腹して果てた沢村惣之丞の最期に立ち会い、無念の別れ酒を酌み交わしたという。
同年閏四月に海援隊は解散。同年七月には長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、奥羽鎮撫総督府の参謀添役を勤め、奥羽方面で戦功を挙げている。
維新後は新政府に出仕し、佐賀縣権参事や茨城縣権令を勤めたのち司法官に転じ、宮城・東京・大阪・函舘などの控訴院検事を歴任し、その後控訴院検事長にまで進んでいる。
明治三十六年五月七日逝去している。享年六十歳。 男爵を授けられている。墓は東京都港区南青山二丁目の青山霊園内にあるという。
野村は海援隊士出身としては立身出世した人。しかし、波乱万丈の人生であることはたしかだ。
それが野村辰太郎(1844年~1903年、別名・野村要輔・野村維章)だ。
野村は、土佐国土佐郡小高坂村(現在の高知市大膳町)で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男として誕生している。野村家は砲術方の家柄で、万延元年父・亀四郎に従い江戸に出て、江川太郎左衛門の門に入り高島流西洋砲術を学んでいる。文久二年三月藩の砲術教授役となり、元治元年十月藩船南海丸に乗り込み長崎に渡航し、長崎の何礼之塾(がのりゆき・じゅく、れいしと読む資料もあり)で英語を学んでいるうちに、竜馬と知り合いになり、神戸勝塾への入門を誘われている。だが、さまざまなしがらみで果たせなかった。
このため、野村は慶応二年6月に脱藩して亀山社中に参加している。『千里駒後日談』に「坂本清次郎とともに土佐を脱出してきた」とこのときの模様が記されてある。参加してすぐに、亀山社中が購入した大極丸に、何礼之塾で一緒に英語を学んだ白峰駿馬と共に、船長として乗り組んでいることから、操船技術に対しても竜馬の信頼は高かったに違いない。
翌慶応三年四月に改編された海援隊に参加し、幹部として活躍している。
慶応三年十一月、竜馬と中岡慎太郎暗殺の報を大坂で聞き他の海援隊士らと上京、葬儀に参列している。翌年慶応四年一月、海援隊による長崎奉行所の占拠に参加し、その際、海援隊士が薩摩藩士川端平助を誤殺する事件があり、其の責を負うて切腹して果てた沢村惣之丞の最期に立ち会い、無念の別れ酒を酌み交わしたという。
同年閏四月に海援隊は解散。同年七月には長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、奥羽鎮撫総督府の参謀添役を勤め、奥羽方面で戦功を挙げている。
維新後は新政府に出仕し、佐賀縣権参事や茨城縣権令を勤めたのち司法官に転じ、宮城・東京・大阪・函舘などの控訴院検事を歴任し、その後控訴院検事長にまで進んでいる。
明治三十六年五月七日逝去している。享年六十歳。 男爵を授けられている。墓は東京都港区南青山二丁目の青山霊園内にあるという。
野村は海援隊士出身としては立身出世した人。しかし、波乱万丈の人生であることはたしかだ。
2004/05/29のBlog
[ 09:02 ]
[ 今日竜馬は? ]
●竜馬30歳・元治元年(1864年)5月29日●
・『徳川幕府、神戸海軍操練所建設の覚書を発す』
竜馬はこの年、勝海舟の念願であった海軍操練所の
発足に奔走して、ようやく幕府からこの日、建設の許可
が降りたということだ。至福のときだったに違いない。
また、この年の5月は竜馬と楢崎龍(お龍)と出会って
いる。人生のうちでいちばん楽しい時期だったかもしれ
ない。
●竜馬31歳・慶応元年(1865年)5月29日●
・『木津之宿に宿泊』
竜馬は薩長同盟のために奔走。薩摩の説得のあと
で、長州へ向かうところ。昨日、三条実美らとの謁見
をした大宰府から出立したところ。
●閏5月29日●
・『中岡慎太郎と共に下関から京都へ出立』
この年は閏月があり、ややこしい。同じ年の二度目
の同じ月の同じ日に、西郷が長州での会談を無視し
て、京都へ向かってしまったので、竜馬は怒りと共に
京都へ向かうところだ。
●竜馬32歳・慶応二年(1866年)5月29日●
・『西郷隆盛(吉之助)らと面談』
この月の5月の初めに薩摩藩士・西郷らの援助により
手に入れた帆船・ワイルウェフ号を嵐によって失ってしま
った。この始末について西郷と話したのではないだろうか。
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月29日●
・『いろは丸事件の賠償額について調査不十分を理由に仲介者五代才助への対応を保留する』
・『小谷耕蔵・渡辺剛八らにいろは丸事件の交渉成立を伝えた手紙を書く』
ついに竜馬はいろは丸事件の完全勝訴を勝ち
取っている。この日、あとは賠償金額だけという
段階になった。小谷や渡辺は海援隊士で、その
状況を説明して、軽挙妄動を慎むようにしたよう
だ。
この日の竜馬は、いろいろと忙しい。
・『徳川幕府、神戸海軍操練所建設の覚書を発す』
竜馬はこの年、勝海舟の念願であった海軍操練所の
発足に奔走して、ようやく幕府からこの日、建設の許可
が降りたということだ。至福のときだったに違いない。
また、この年の5月は竜馬と楢崎龍(お龍)と出会って
いる。人生のうちでいちばん楽しい時期だったかもしれ
ない。
●竜馬31歳・慶応元年(1865年)5月29日●
・『木津之宿に宿泊』
竜馬は薩長同盟のために奔走。薩摩の説得のあと
で、長州へ向かうところ。昨日、三条実美らとの謁見
をした大宰府から出立したところ。
●閏5月29日●
・『中岡慎太郎と共に下関から京都へ出立』
この年は閏月があり、ややこしい。同じ年の二度目
の同じ月の同じ日に、西郷が長州での会談を無視し
て、京都へ向かってしまったので、竜馬は怒りと共に
京都へ向かうところだ。
●竜馬32歳・慶応二年(1866年)5月29日●
・『西郷隆盛(吉之助)らと面談』
この月の5月の初めに薩摩藩士・西郷らの援助により
手に入れた帆船・ワイルウェフ号を嵐によって失ってしま
った。この始末について西郷と話したのではないだろうか。
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月29日●
・『いろは丸事件の賠償額について調査不十分を理由に仲介者五代才助への対応を保留する』
・『小谷耕蔵・渡辺剛八らにいろは丸事件の交渉成立を伝えた手紙を書く』
ついに竜馬はいろは丸事件の完全勝訴を勝ち
取っている。この日、あとは賠償金額だけという
段階になった。小谷や渡辺は海援隊士で、その
状況を説明して、軽挙妄動を慎むようにしたよう
だ。
この日の竜馬は、いろいろと忙しい。
2004/05/28のBlog
[ 08:26 ]
[ 今日竜馬は? ]
●竜馬31歳・慶応元年(1865年)5月28日●
・『安芸守衛と共に太宰府を出立する』
竜馬は、薩摩から長州へ向かう途中、三条実篤ら
五卿と面談。薩長同盟について語ったと思われる。
そして今日はいよいよ長州へ旅たった。
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月28日●
・『伊藤九三に長崎での世論が海援隊に有利な事と他二通の手紙を書く』
・『(楢崎)お龍に近況を報告し、下関に立ち寄れない事を詫び、他一通の手紙を書く』
・『紀州藩、薩摩藩士五代才助(友厚)に調停を依頼する』
・『紀州藩士岡本覚十郎・高柳楠之助と共に竜馬襲撃のため、僚喰町の宿をたずねるも不在のため断念』
いろは丸事件の処理で奔走する竜馬だ。竜馬自身
は手紙などを書いていたようだが、注目すべきは、
紀州藩士が竜馬の暗殺を狙っていること。宿に居なか
ったために難を逃れている。かなり危険な談判であっ
たことが覗われる。高柳は明光丸の船長。彼も藩から
責められていたことが覗える。
竜馬の今日のポイントは、いろは丸事件にまつわる紀州藩士による竜馬暗殺の失敗だろう。このあたりのことから、謎が残る竜馬の暗殺が紀州藩士かも!?といわれるゆえんである。
(写真は、五代友厚)
・『安芸守衛と共に太宰府を出立する』
竜馬は、薩摩から長州へ向かう途中、三条実篤ら
五卿と面談。薩長同盟について語ったと思われる。
そして今日はいよいよ長州へ旅たった。
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月28日●
・『伊藤九三に長崎での世論が海援隊に有利な事と他二通の手紙を書く』
・『(楢崎)お龍に近況を報告し、下関に立ち寄れない事を詫び、他一通の手紙を書く』
・『紀州藩、薩摩藩士五代才助(友厚)に調停を依頼する』
・『紀州藩士岡本覚十郎・高柳楠之助と共に竜馬襲撃のため、僚喰町の宿をたずねるも不在のため断念』
いろは丸事件の処理で奔走する竜馬だ。竜馬自身
は手紙などを書いていたようだが、注目すべきは、
紀州藩士が竜馬の暗殺を狙っていること。宿に居なか
ったために難を逃れている。かなり危険な談判であっ
たことが覗われる。高柳は明光丸の船長。彼も藩から
責められていたことが覗える。
竜馬の今日のポイントは、いろは丸事件にまつわる紀州藩士による竜馬暗殺の失敗だろう。このあたりのことから、謎が残る竜馬の暗殺が紀州藩士かも!?といわれるゆえんである。
(写真は、五代友厚)
2004/05/27のBlog
[ 09:31 ]
[ 今日竜馬は? ]
●竜馬29歳・文久二年(1862年)5月27日●
・『京都福井藩邸にて中根雪江と面談』
中根は藩主・松平春嶽の教育役として活躍した藩
士で、幕末の藩や春嶽の行動に影響を与えた。竜馬
も得るものが多かったに違いない。
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月27日●
・『楢崎龍の弟黒沢直次郎に高柳楠之助にあてた手紙を持たせ、英国海軍提督との面談時間を指定する』
・『高柳楠之助より返答が届き、手紙を書く』
・『交渉が順調な事を知らせる手紙を伊藤九三にあて書く』
今日もいろは丸の後処理に忙しい竜馬であった。
伊藤は竜馬の下関の支援者。おそらくお龍が自然堂で
世話になっているので、そのあたりのことを含め
て、談判が順調であることを手紙に書いたのだろう。
気配りをいろいろとしている竜馬の姿が浮かんでくる。行動も早いなぁ~
(一番左が伊藤九三。真ん中は竜馬だ)
・『京都福井藩邸にて中根雪江と面談』
中根は藩主・松平春嶽の教育役として活躍した藩
士で、幕末の藩や春嶽の行動に影響を与えた。竜馬
も得るものが多かったに違いない。
●竜馬33歳・慶応三年(1867年)5月27日●
・『楢崎龍の弟黒沢直次郎に高柳楠之助にあてた手紙を持たせ、英国海軍提督との面談時間を指定する』
・『高柳楠之助より返答が届き、手紙を書く』
・『交渉が順調な事を知らせる手紙を伊藤九三にあて書く』
今日もいろは丸の後処理に忙しい竜馬であった。
伊藤は竜馬の下関の支援者。おそらくお龍が自然堂で
世話になっているので、そのあたりのことを含め
て、談判が順調であることを手紙に書いたのだろう。
気配りをいろいろとしている竜馬の姿が浮かんでくる。行動も早いなぁ~
(一番左が伊藤九三。真ん中は竜馬だ)
