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2008/10/08のBlog
[ 00:36 ]
[ トールキン随想 ]
"Tom Shippey's J.R.R. Tolkien: Author of the Century and a look back at Tolkien criticism since 1982." by Michael D. C. Drout and Hilary Wynne (11/10現在、リンク先、閉鎖中)
プリントアウトして、じっくりと、舐めるように読んだ。
タイトルを見ると、シッピー著 Author of the Century の書評がメインのようだが、大部分は過去二十年間に発表されたトールキン論を分析した長文エッセイで、メジャーマイナー問わず、発表された論文のほとんど全てに目を通しているらしい二人によるトールキン批評の分析は読み応えがあった。なぜ1982年以後からかと言うと、シッピー先生のThe Road to Middle-earth が刊行されたのがその年で、この著こそがその後のトールキン批評を変えた分水嶺だという認識に基づいている。
膨大な数にのぼる論文に目を通していると、まず目に付くのはやたらに同一テーマの繰り返しが多いことだそうで、誰も他人が書いた論文を読んでないのではないかという疑念が湧いてきたりもするらしい。
よく取り上げられる三大人気テーマは以下の通り。
・トールキン作品のソース(元ネタ)研究 Source Study
・善と悪の問題 Good and Evil in Tolkien
・「英国人のための神話」 A "Mythology for England"
これらのテーマで論文が書かれるさいの問題点なども考察されており、これからトールキンで論文を書こうと思っているような人がいたら、いろいろ参考になるのではないかと思います。
エッセイの付録としてかなり詳しいビブリオグラフィーがついているので、参考文献を探すのにも役立ちそう。
プリントアウトして、じっくりと、舐めるように読んだ。
タイトルを見ると、シッピー著 Author of the Century の書評がメインのようだが、大部分は過去二十年間に発表されたトールキン論を分析した長文エッセイで、メジャーマイナー問わず、発表された論文のほとんど全てに目を通しているらしい二人によるトールキン批評の分析は読み応えがあった。なぜ1982年以後からかと言うと、シッピー先生のThe Road to Middle-earth が刊行されたのがその年で、この著こそがその後のトールキン批評を変えた分水嶺だという認識に基づいている。
膨大な数にのぼる論文に目を通していると、まず目に付くのはやたらに同一テーマの繰り返しが多いことだそうで、誰も他人が書いた論文を読んでないのではないかという疑念が湧いてきたりもするらしい。
よく取り上げられる三大人気テーマは以下の通り。
・トールキン作品のソース(元ネタ)研究 Source Study
・善と悪の問題 Good and Evil in Tolkien
・「英国人のための神話」 A "Mythology for England"
これらのテーマで論文が書かれるさいの問題点なども考察されており、これからトールキンで論文を書こうと思っているような人がいたら、いろいろ参考になるのではないかと思います。
エッセイの付録としてかなり詳しいビブリオグラフィーがついているので、参考文献を探すのにも役立ちそう。
2008/09/24のBlog
[ 11:13 ]
[ C.S. ルイス ]
空と海おちあうところ、
波かぐわしくなるところ、
夢うたがうな、リーピチープ、
もとめるものを見つけるは、
ひんがしのいやはての国。
中つ国では海は西方に広がり、エルフと神々の国は西の最果てにあるので、いきおい西方の心理的価値が高いが、一方、ナルニアでは海が東に開け、アスランの国は太陽が昇る最果ての東 The Utter East の彼方になるので、ミドルアースのメンタルマップに親しんだ後、ナルニアを読むと、北半球から南半球に移住した人のような方角的混乱がありそうだ。
前のブログ記事に書いたMythlore 100号の Charles A. Huttar “Deep Lies the Sea-Longing”: Inklings of Home という論文を読んでいたら、西欧では、聖ブレンダン伝説を筆頭に、楽園的な幻想の島や国は西方、大西洋の方角と相場が決まっており、その点、トールキンはヨーロッパの伝統に即しているけれども、対してナルニアが東に海を持つのは、海が東側に開けているアイルランドのベルファスト生まれのルイスが、幼少の時分から日の出る方角に海を見ていたことにあるのではないかと推理しており、ああ、そういう子どもの時に見ていた原風景の影響というのは大きいかも、と思った。
個人的な話になりますが、私は一番近場の海まで車でゆうに3時間はかかる内陸生まれで、本物の海(この時は太平洋)を見たのは物心ついてからでしたが、指輪物語の舞台が基本的に内陸で、ホビットたちは海をほとんど知らない内陸人であるという設定も個人的に感情移入しやすい地理的設定ではありました。
2008/07/16のBlog
[ 09:27 ]
[ トールキン関連本 ]
告知されていた発売予定日から数ヶ月遅れましたが、無事発売されました。
総ページ数は320ページ。本の大きさはThe Children of Hurin のハードカバーとほぼ同型で、厚さもほとんど同じくらいです。
私の持っているThe Children of Hurin はホートンミフリン版 で、ハーパーコリンズ版より一回り小さいようなので、ハーパーコリンズ版のサイズと本書はぴったり同型になるのではないかと思います。
本書の内容については Tolkien Library の著者インタビューで詳しく紹介してくれており、これを読むのが手っ取り早そう。
テーマ的には同じくFlieger教授が編集解題をしている「増補版かじや」の隣に並べて置くのがふさわしいかもしれません。
物語よりは食いつきが悪いので、読むのにずっと時間がかかりそうですが、まあ気長に読んでいきたいと思います。
総ページ数は320ページ。本の大きさはThe Children of Hurin のハードカバーとほぼ同型で、厚さもほとんど同じくらいです。
私の持っているThe Children of Hurin はホートンミフリン版 で、ハーパーコリンズ版より一回り小さいようなので、ハーパーコリンズ版のサイズと本書はぴったり同型になるのではないかと思います。
本書の内容については Tolkien Library の著者インタビューで詳しく紹介してくれており、これを読むのが手っ取り早そう。
テーマ的には同じくFlieger教授が編集解題をしている「増補版かじや」の隣に並べて置くのがふさわしいかもしれません。
物語よりは食いつきが悪いので、読むのにずっと時間がかかりそうですが、まあ気長に読んでいきたいと思います。
2008/05/24のBlog
[ 02:36 ]
[ 映画 ]
レイトショーで観たのだが、入りはガラガラ。公開間もないゆえ、多少の混雑を予想していたのに拍子抜けした。
原作シリーズでは前作「ライオンと魔女」よりも本作のほうが好きでもあり、映画としても前作より面白くなるのではという期待を持って観に行った。
しかし。映画は自分が期待したものとは違っていたかなあ。2時間半近い長尺で、上映時間はたっぷりあったにもかかわらず、自分が観たいと期待しているようなシーンがなかなか現れてくれないもどかしさ。
良かったところはいっぱいある。
駅に電車が入ってきた須臾の間に起こるナルニアとこちらの世界との往還。これはラストで、本当に夢から醒めたような気分になった。
トランプキンが溺死させられそうになるところに飛ぶスーザンの矢。バーンと盛り上がる音楽の効果もあるんでしょうが、伝説の四王の帰還!ってなノリで燃える。
スーザンの持つ角笛の絵や、四人兄弟の統治が壁画になっているところもいい。彼らの統治した黄金時代が歴史にうずもれ、もはや神話になってしまっているという設定こそが本作のとくに魅力的な要素だし。石舞台が聖所として神殿ふうになっているところなども、やや豪華過ぎたけど、おお~っていう感慨はあった。傘をさすタムナスさんとルーシーの壁画は嘘くさかったが、まあこの瞬間がナルニアの歴史的にも、作者に最初に宿ったイメージとしても、全ての始まりであり、一つのイコンとなっていてもいい。
エドマンドがかっこよくなってましたね。ジェイディスに昔の借りを返すところ、ミラースに一騎打ちの果たし状を持っていった時の余裕しゃくしゃくな感じもよかった。「自分もいちおう王なんですけどね。わかりづらいよね。ただの王」とか言って。
リープに関する見せ場はほぼ原作通りに用意されていて、リープファンはわりと満足したのではないだろうか。まあ、ああいう喋りかたのねずみをリアルな映像で観るのは、かなりくすぐったいものがありましたが。声はもう少し低い人があてたほうがイメージだったかな。そういえば映画ではねずみ達がなぜ喋れるようになったかアスランの説明ありましたっけ?
戦闘シーンは前作以上に力が入っており、アスラン塚前の決戦では一応戦略的な奇策なども用意されていて、おぉ~って思うところもあるのだけども、グラディエーターばりに戦うピーターとミラースの一騎打ち、ミナスティリス攻防戦のような派手な戦闘が延々と続くのでややもたれ気味になった。こういう見せ場ももちろんあっていいのだが、もっとまったりした場面もあいだに欲しいというか。
カスピアンは本作ではあまり活躍できなかったのは仕方ないか。原作のイメージよりも年長にしたこともあってか、ピーターとのあいだに確執のようなものがあったのは残念。その原因になったのが、映画オリジナルエピソードのミラースの城への攻め込みだが、これはなくても良かったかなあ。結果的には作戦が失敗に終わることで、古いナルニアの救い主として召還されたピーター達の存在の意味がわかりにくくなってしまった。この戦闘で時間を使うよりは、カスピアンが幼少時代に古いナルニアの話を乳母や博士から聞き、その時代に憧れるエピソードを描いてくれたほうが良かった。
原作からカットされたシーンといえば、アスランは初めはルーシーにしか見えず、だんだん他の兄弟にも見えてくるくだり、あそこはルーシーがアスランに従うか、兄弟を取るかの選択を迫られるところはあって欲しかった気がする。映画のアスランは「一度起こったことは二度と起こらない」となにやら託宣めいた言い方でのたまうけれど、なぜこの台詞に力点が置かれたのか意味がわからなかった。
バッカスのお祭り騒ぎがもたらしていく抑圧されたナルニアの解放は、そのまんま映画にするのは難しそうだったから、まあ川の神とエントばりの森の木の活躍でも良かったか。
個人的にこの映画で一番観たかったのは、懐疑主義VS信仰という構図だったと思う。たとえば「あんな昔話を信じているのか?」というトランプキンの問いに、「わたしたちは忘れたことがない。一の王ピーターそのほかの、ケア・パラベルで国をおさめられたかたがたを信じ、アスランその方をかたく信じている。」という松露とり。こういう「信仰の堅持」の持たらす感動は、「銀のいす」で、にがえもんと緑の魔女とのあいだで交わされるナルニアの存在の信憑性をめぐる問答で劇的に描かれているけれど、それと同じことがカスピアンの生きる時代の精神風土にも言えることだ。
こういう部分をもってして宗教的プロバガンダと批判されるのだけれども、自分にとってナルニアの魅力は本質的に宗教的なものなので、それが描かれていないナルニアはただのよくありそうな異世界ファンタジーになってしまう。1000年以上も昔の神話的出来事を「真実」と信じること、懐疑主義と無神論がはびこる世の中で、アスランへの忠誠を誓い、アスランという錦の御旗により集う少数の忠誠者たち、
こういう宗教的レジスタンスとでもいう設定に燃えるというか。(もとナルニア側も、懐疑主義者トランプキン、パワー至上主義者ニカブリクなど、決して一枚岩ではなく、彼らの議論をもう少し観たかった。)
そしていよいよ万策尽きたという時に吹かれる魔法の角笛。(映画では角笛吹くの早すぎた。)
そこで現れる伝説の四兄弟の王。
こういう単純なストーリーラインだけでも、亡国の危機に復活すると予言されるアーサー王の帰還もかくやというような神話的感動があると思うし、またそういう映画を期待してしまったのだが、結局のところ、こちらの脳内の妄想と映画スタッフとのあいだに基本的な力点の置き場所でズレがあり、そのズレは最後まであまり重なってくれなかったようだ。
原作シリーズでは前作「ライオンと魔女」よりも本作のほうが好きでもあり、映画としても前作より面白くなるのではという期待を持って観に行った。
しかし。映画は自分が期待したものとは違っていたかなあ。2時間半近い長尺で、上映時間はたっぷりあったにもかかわらず、自分が観たいと期待しているようなシーンがなかなか現れてくれないもどかしさ。
良かったところはいっぱいある。
駅に電車が入ってきた須臾の間に起こるナルニアとこちらの世界との往還。これはラストで、本当に夢から醒めたような気分になった。
トランプキンが溺死させられそうになるところに飛ぶスーザンの矢。バーンと盛り上がる音楽の効果もあるんでしょうが、伝説の四王の帰還!ってなノリで燃える。
スーザンの持つ角笛の絵や、四人兄弟の統治が壁画になっているところもいい。彼らの統治した黄金時代が歴史にうずもれ、もはや神話になってしまっているという設定こそが本作のとくに魅力的な要素だし。石舞台が聖所として神殿ふうになっているところなども、やや豪華過ぎたけど、おお~っていう感慨はあった。傘をさすタムナスさんとルーシーの壁画は嘘くさかったが、まあこの瞬間がナルニアの歴史的にも、作者に最初に宿ったイメージとしても、全ての始まりであり、一つのイコンとなっていてもいい。
エドマンドがかっこよくなってましたね。ジェイディスに昔の借りを返すところ、ミラースに一騎打ちの果たし状を持っていった時の余裕しゃくしゃくな感じもよかった。「自分もいちおう王なんですけどね。わかりづらいよね。ただの王」とか言って。
リープに関する見せ場はほぼ原作通りに用意されていて、リープファンはわりと満足したのではないだろうか。まあ、ああいう喋りかたのねずみをリアルな映像で観るのは、かなりくすぐったいものがありましたが。声はもう少し低い人があてたほうがイメージだったかな。そういえば映画ではねずみ達がなぜ喋れるようになったかアスランの説明ありましたっけ?
戦闘シーンは前作以上に力が入っており、アスラン塚前の決戦では一応戦略的な奇策なども用意されていて、おぉ~って思うところもあるのだけども、グラディエーターばりに戦うピーターとミラースの一騎打ち、ミナスティリス攻防戦のような派手な戦闘が延々と続くのでややもたれ気味になった。こういう見せ場ももちろんあっていいのだが、もっとまったりした場面もあいだに欲しいというか。
カスピアンは本作ではあまり活躍できなかったのは仕方ないか。原作のイメージよりも年長にしたこともあってか、ピーターとのあいだに確執のようなものがあったのは残念。その原因になったのが、映画オリジナルエピソードのミラースの城への攻め込みだが、これはなくても良かったかなあ。結果的には作戦が失敗に終わることで、古いナルニアの救い主として召還されたピーター達の存在の意味がわかりにくくなってしまった。この戦闘で時間を使うよりは、カスピアンが幼少時代に古いナルニアの話を乳母や博士から聞き、その時代に憧れるエピソードを描いてくれたほうが良かった。
原作からカットされたシーンといえば、アスランは初めはルーシーにしか見えず、だんだん他の兄弟にも見えてくるくだり、あそこはルーシーがアスランに従うか、兄弟を取るかの選択を迫られるところはあって欲しかった気がする。映画のアスランは「一度起こったことは二度と起こらない」となにやら託宣めいた言い方でのたまうけれど、なぜこの台詞に力点が置かれたのか意味がわからなかった。
バッカスのお祭り騒ぎがもたらしていく抑圧されたナルニアの解放は、そのまんま映画にするのは難しそうだったから、まあ川の神とエントばりの森の木の活躍でも良かったか。
個人的にこの映画で一番観たかったのは、懐疑主義VS信仰という構図だったと思う。たとえば「あんな昔話を信じているのか?」というトランプキンの問いに、「わたしたちは忘れたことがない。一の王ピーターそのほかの、ケア・パラベルで国をおさめられたかたがたを信じ、アスランその方をかたく信じている。」という松露とり。こういう「信仰の堅持」の持たらす感動は、「銀のいす」で、にがえもんと緑の魔女とのあいだで交わされるナルニアの存在の信憑性をめぐる問答で劇的に描かれているけれど、それと同じことがカスピアンの生きる時代の精神風土にも言えることだ。
こういう部分をもってして宗教的プロバガンダと批判されるのだけれども、自分にとってナルニアの魅力は本質的に宗教的なものなので、それが描かれていないナルニアはただのよくありそうな異世界ファンタジーになってしまう。1000年以上も昔の神話的出来事を「真実」と信じること、懐疑主義と無神論がはびこる世の中で、アスランへの忠誠を誓い、アスランという錦の御旗により集う少数の忠誠者たち、
こういう宗教的レジスタンスとでもいう設定に燃えるというか。(もとナルニア側も、懐疑主義者トランプキン、パワー至上主義者ニカブリクなど、決して一枚岩ではなく、彼らの議論をもう少し観たかった。)
そしていよいよ万策尽きたという時に吹かれる魔法の角笛。(映画では角笛吹くの早すぎた。)
そこで現れる伝説の四兄弟の王。
こういう単純なストーリーラインだけでも、亡国の危機に復活すると予言されるアーサー王の帰還もかくやというような神話的感動があると思うし、またそういう映画を期待してしまったのだが、結局のところ、こちらの脳内の妄想と映画スタッフとのあいだに基本的な力点の置き場所でズレがあり、そのズレは最後まであまり重なってくれなかったようだ。
2008/04/03のBlog
[ 08:31 ]
[ 映画 ]
「さいごの戦い」つながりでもう一つ。
先日、ホビットの冒険の映画化で監督候補であるデル・トロ監督の「パンズ・ラビリンス」のDVDが出た。
私は日本版が出るのを待ちきれずにアメリカ版のDVDを取り寄せて見てしまったのですが、ラスト近くでパンがオフェリアに言う台詞、英語字幕の "Well done" のところでぶわっと涙腺がゆるみながらも、この感じはどこかで読んだぞと思い、「さいごの戦い」のペーパーバックをめくって見ると、アスランがチリアンに言うこんな台詞がありました。
"Well done, last of the Kings of Narnia who stood firm at the darkest hour."
「よくぞやった。もっとも暗い時のあいだに、けなげにもしっかりと立ちつくしていた、わがナルニアのさいごの王よ。」(岩波少年文庫p237)
stood firm の訳に「けなげにも」という一語を入れた瀬田氏の心意気が泣かせてくれます。
「パンズ・ラビリンス」はファンタジーの皮をかぶった児童虐待映画ではないかと言われるほど、苛酷な世界に投げ込まれた少女の運命を描いており、幻想シーンの印象も、モダンファンタジーというより「本当は恐ろしい○○童話」というような、子捨てやカニバリズムが横行するような古い民話の悪夢を感じましたが、この「さいごの戦い」にも通じるクライマックスにおいて、ファンタジーの正統に連なる作品になったという気がしました。
先日、ホビットの冒険の映画化で監督候補であるデル・トロ監督の「パンズ・ラビリンス」のDVDが出た。
私は日本版が出るのを待ちきれずにアメリカ版のDVDを取り寄せて見てしまったのですが、ラスト近くでパンがオフェリアに言う台詞、英語字幕の "Well done" のところでぶわっと涙腺がゆるみながらも、この感じはどこかで読んだぞと思い、「さいごの戦い」のペーパーバックをめくって見ると、アスランがチリアンに言うこんな台詞がありました。
"Well done, last of the Kings of Narnia who stood firm at the darkest hour."
「よくぞやった。もっとも暗い時のあいだに、けなげにもしっかりと立ちつくしていた、わがナルニアのさいごの王よ。」(岩波少年文庫p237)
stood firm の訳に「けなげにも」という一語を入れた瀬田氏の心意気が泣かせてくれます。
「パンズ・ラビリンス」はファンタジーの皮をかぶった児童虐待映画ではないかと言われるほど、苛酷な世界に投げ込まれた少女の運命を描いており、幻想シーンの印象も、モダンファンタジーというより「本当は恐ろしい○○童話」というような、子捨てやカニバリズムが横行するような古い民話の悪夢を感じましたが、この「さいごの戦い」にも通じるクライマックスにおいて、ファンタジーの正統に連なる作品になったという気がしました。
[ 07:45 ]
[ C.S. ルイス ]
辞書を引いていたら、ass in a lion's skin という表現を見つけた。虎の威を借る狐、という意味で使うらしい。「さいごの戦い」の偽アスランは、黙示録に書かれたこの世の終わりに出現するという偽預言者から来ているとは何かで読んだ覚えがあるが、英語にこんな言い回しがあるとは知らなかった。
2008/02/10のBlog
[ 01:01 ]
[ C.S. ルイス ]
積読になっていたインクリングズ研究の新刊「The Company They Keep : C.S. Lewis And J.R.R. Tolkien As Writers in Community 」by Diana Pavlac Glyer を読み始めた。カーペンターの「インクリングズ」以降、30年の研究成果をぎっしり詰め込んでいる感じで、参照している文献の量は凄いものがありそうだ。紹介される引用部分も一つ一つが面白く、注の隅々まで読む気にさせてくれる。
注の一つで、M・A・Manzalaoui という人が、ナルニアに影響を与えたとおぼしい古典作品を列挙しているのが紹介されていた。
まず福音書の存在は別格として、以下、引用してみると、
「ホーマー、プラトン、ウェルギリウス、アラビアンナイト、ベオウルフ、中世英語のロマンスたち(Sir Orfeo、 サー・ガウェインと緑の騎士、Havelock, マロリーのアーサー王の死)、チョーサーによる詩少なくとも三篇、ダンテ、シェイクスピア、ミルトン、ワグナー、不思議の国のアリス、ハックルベリー・フィン、Richmal Cromton の Williams シリーズ、そしてルイスの友人のチャールズ・ウィリアムズとトールキン」だそうです。
Havelock とRichmal Cromtonは聞いたこともなかった名前だが、リーダーズ英和には載っていた。ルイスの好みだったマクドナルドや、ネズビット、ケネス・グレアムなどはリストに入らないのだろうか。
こう並べられてみると、ナルニアというのはルイスの好きなものをふんだんに詰め込んだ、かなり趣味的な世界でもあったという感じがする。
趣味的ということでいえば、トールキンの中つ国もそうとう趣味的な世界だとは思いますが、あちらはもっと審美的に統一された趣味的な世界というか。。
しかしまあ、トールキンほど厳しい審美的基準を持たないわれわれにとって、ナルニアを読む愉しみには、ルイスのフィルターを通した、西洋古典文学のいろいろ美味しいエッセンスを味わえるということもありそうだ。
注の一つで、M・A・Manzalaoui という人が、ナルニアに影響を与えたとおぼしい古典作品を列挙しているのが紹介されていた。
まず福音書の存在は別格として、以下、引用してみると、
「ホーマー、プラトン、ウェルギリウス、アラビアンナイト、ベオウルフ、中世英語のロマンスたち(Sir Orfeo、 サー・ガウェインと緑の騎士、Havelock, マロリーのアーサー王の死)、チョーサーによる詩少なくとも三篇、ダンテ、シェイクスピア、ミルトン、ワグナー、不思議の国のアリス、ハックルベリー・フィン、Richmal Cromton の Williams シリーズ、そしてルイスの友人のチャールズ・ウィリアムズとトールキン」だそうです。
Havelock とRichmal Cromtonは聞いたこともなかった名前だが、リーダーズ英和には載っていた。ルイスの好みだったマクドナルドや、ネズビット、ケネス・グレアムなどはリストに入らないのだろうか。
こう並べられてみると、ナルニアというのはルイスの好きなものをふんだんに詰め込んだ、かなり趣味的な世界でもあったという感じがする。
趣味的ということでいえば、トールキンの中つ国もそうとう趣味的な世界だとは思いますが、あちらはもっと審美的に統一された趣味的な世界というか。。
しかしまあ、トールキンほど厳しい審美的基準を持たないわれわれにとって、ナルニアを読む愉しみには、ルイスのフィルターを通した、西洋古典文学のいろいろ美味しいエッセンスを味わえるということもありそうだ。
2008/01/19のBlog
[ 00:50 ]
[ トールキン関連本 ]
序文によれば、本書はシルマリル刊行30周年を記念して、現在は絶版になっている Rhona Beare のシルマリル論を復刊させるという企画から始まったものらしい。Roana Beare といえば、グロールフィンデルが馬に乗るのに轡をつけているのはエルフの乗馬方法に反していると手紙で指摘して、トールキンがそのくだりを書き変えたという逸話で有名ですが、その後、シルマリルの入門的なパンフを出版していたんですね。たしかSF系の入門シリーズで、ずいぶん前に取り寄せて読んでいるのですが、どんな内容だったのかほとんど忘れてしまっており、今回の改訂版をじっくり読み直したいと思います。
その他の論文も、シルマリル刊行三十年記念ということで、まずクリストファー編集による、77年版シルマリルという書物の持つ特殊性について焦点を当てているようだ。すでにHoMeという原資料がある今、77年シルマリルがどのような編集上の処理を経てあの形になったのか、つまりクリストファー(とガイ・ケイが)何を取捨選択し、あるいは書き足したのか、逐一調べようと思えば調べられるわけで、すでにそういった比較研究も出始めているようだが、本書ではそこまで細かくは踏み込まず、
77年版が持っていたインパクトや、77年版の持っている独自の価値についての考察がなされているようだ。(版元の紹介文はこちら)
寄稿者の一人であるJason Fisher 氏が自身のブログで本書を紹介しており、掲載論文の目次を書いてくれているので参考までに。(ところで本書の表紙になっている絵は何のシーンかお分かりになる人がいたら、相当なシルマリル通です。私はわかりませんでした。答えは Fisher 氏のブログにあります。)
まず最初に読み始めたMichael Drout氏のエッセイが面白い。シルマリルの物語の持つパワーを分析するために、自分が初めてシルマリルを読んだときの個人的体験を掘り下げるという、実存的な読み方を提示。Drout氏はシルマリル刊行の翌年に読んだそうだが、彼はそのとき、まだ9歳だったという。その歳でもうシルマリルを読んでいるということにも驚くが、特に理由もなくシッピー先生などとそう変わらないくらいの年代の人かと思っていたら、自分より4歳も若い人だったのにびっくりした。
Drout 氏にとって、シルマリルを読んだ78年というのは個人的にも世相的にも暗い年だったそうで、第一紀の救いのない暗さ、苛酷さと無常さが、肌身に沁みるような読書体験だったという。
However, my paticular sadness as a nine-year-old, which was, as one would expect, inchoate and unclear, was forever changed by reading the work of Tolkien .For in The Silmarillion, Tolkien transmuted sadness into beauty, giving shape to grief, making loss and longing into art.
うーむ「哀しみを美へ変容させた」というのが泣かせてくれます。
その他の論文も、シルマリル刊行三十年記念ということで、まずクリストファー編集による、77年版シルマリルという書物の持つ特殊性について焦点を当てているようだ。すでにHoMeという原資料がある今、77年シルマリルがどのような編集上の処理を経てあの形になったのか、つまりクリストファー(とガイ・ケイが)何を取捨選択し、あるいは書き足したのか、逐一調べようと思えば調べられるわけで、すでにそういった比較研究も出始めているようだが、本書ではそこまで細かくは踏み込まず、
77年版が持っていたインパクトや、77年版の持っている独自の価値についての考察がなされているようだ。(版元の紹介文はこちら)
寄稿者の一人であるJason Fisher 氏が自身のブログで本書を紹介しており、掲載論文の目次を書いてくれているので参考までに。(ところで本書の表紙になっている絵は何のシーンかお分かりになる人がいたら、相当なシルマリル通です。私はわかりませんでした。答えは Fisher 氏のブログにあります。)
まず最初に読み始めたMichael Drout氏のエッセイが面白い。シルマリルの物語の持つパワーを分析するために、自分が初めてシルマリルを読んだときの個人的体験を掘り下げるという、実存的な読み方を提示。Drout氏はシルマリル刊行の翌年に読んだそうだが、彼はそのとき、まだ9歳だったという。その歳でもうシルマリルを読んでいるということにも驚くが、特に理由もなくシッピー先生などとそう変わらないくらいの年代の人かと思っていたら、自分より4歳も若い人だったのにびっくりした。
Drout 氏にとって、シルマリルを読んだ78年というのは個人的にも世相的にも暗い年だったそうで、第一紀の救いのない暗さ、苛酷さと無常さが、肌身に沁みるような読書体験だったという。
However, my paticular sadness as a nine-year-old, which was, as one would expect, inchoate and unclear, was forever changed by reading the work of Tolkien .For in The Silmarillion, Tolkien transmuted sadness into beauty, giving shape to grief, making loss and longing into art.
うーむ「哀しみを美へ変容させた」というのが泣かせてくれます。
2008/01/12のBlog
[ 00:42 ]
[ トールキン関連本 ]
Mythopoeic Society の機関誌、Mythlore の最新号を入手。以前に一時、会員だったこともあるのだが、更新手続きの送金が面倒で放置したまま、自然脱会の形になってしまっていた。(*)
今回はたまたま最新号の目次がアップされているのを見て、興味をそそられるタイトルのものがいくつかあったので、非会員の、雑誌のみ購入という形で注文してみた。
とりあえず、読み始めたのが Letters to Malcolm and the Trouble with Narnia: C.S. Lewis, J.R.R. Tolkien, and Their 1949 Crisis by Eric Seddon という論文。
トールキンがナルニアを全く受け付けなかった話は有名だが、その理由としてよくあげられるものは、
一、ギリシャ・ローマ神話系のフォーンやニンフから、北方系のドワーフ、はてはサンタクロースまで登場するような何でもありの神話的ちゃんぽんはトールキンには我慢のならないものだった。
一、まだ未発表のLotRの原稿を読んだルイスが似たような異世界ファンタジーをサクサクと書いて先に発表してしまったことへの怒り。
というようなもので、特に後者の理由などは、ナルニアを認めないのはトールキンの狭量さが原因であるかのような印象すら与えかねないが、Seddon 氏によれば、トールキンがナルニアを嫌った最大の理由は、ルイスの中にあるカトリック的伝統への軽視(さらにいえば蔑視)にあるという。
ナルニアにはアスランの死と復活はあっても、カトリックが神との関係において重要視する教会もなければ、ミサもない。(そもそも最後の晩餐がないので、当然、聖体拝領もない。)アスランの国は物質を超越したプラトン的世界として描かれ、カトリックが説く、「物質であるこの肉体」の復活がない。。
なるほど、考えてもみなかったが、教会という仲介的存在を必要とせず、ダイレクトにアスランという神と遭遇できるという設定は、たしかにプロテスタント的とも言えそうだ。
同時にルイス最後の神学的著作である「神と人間との対話―マルカムへの手紙」を引き合いに出しながら、トールキンがなぜ「マルカム」を読んで「悲惨であり、一部ぞっとさせる」と嫌悪したのか、そこに潜む英国教会徒ルイスによる遠回しのカトリック批判と、それを敏感に察したであろうトールキンの思いを想像するくだりは読んでいて思わず緊張する。後年になってからの二人の友情の溝は、伝記などからはトールキン側からの一方的な敬遠であったかのような印象を持つが、しかしその原因の一つはルイスの中に根強くあったアンチ・カトリック的態度であり、そういう二人の神学的な立場の違いがトールキンのナルニア評価に影を落としているという指摘は新鮮だった。
(しかしながら、ルイス学者のうち、第一人者であるHooperを始めとして、ルイス伝を書いたSayer、他にもルイスに関する研究書をものしているPurtill、Kreeftらはカトリックのはずだが、少なくともナルニアに関してカトリック的立場から苦言を呈しているようなものを読んだ覚えがなく、ナルニアがカトリック一般に受け入れがたいということはなさそうだ。)
(* Society の会員だった時に送られてきた会員名簿を見ていたら、その時期(ほぼ10年前)の日本人会員は二人しかおらず、私ともう一人は「エルフ語を読む」の伊藤 先生だった。現在はどうなっているのかわからないが、本家のTolkien Society と比べたら、かなり淋しい感じではある。)
今回はたまたま最新号の目次がアップされているのを見て、興味をそそられるタイトルのものがいくつかあったので、非会員の、雑誌のみ購入という形で注文してみた。
とりあえず、読み始めたのが Letters to Malcolm and the Trouble with Narnia: C.S. Lewis, J.R.R. Tolkien, and Their 1949 Crisis by Eric Seddon という論文。
トールキンがナルニアを全く受け付けなかった話は有名だが、その理由としてよくあげられるものは、
一、ギリシャ・ローマ神話系のフォーンやニンフから、北方系のドワーフ、はてはサンタクロースまで登場するような何でもありの神話的ちゃんぽんはトールキンには我慢のならないものだった。
一、まだ未発表のLotRの原稿を読んだルイスが似たような異世界ファンタジーをサクサクと書いて先に発表してしまったことへの怒り。
というようなもので、特に後者の理由などは、ナルニアを認めないのはトールキンの狭量さが原因であるかのような印象すら与えかねないが、Seddon 氏によれば、トールキンがナルニアを嫌った最大の理由は、ルイスの中にあるカトリック的伝統への軽視(さらにいえば蔑視)にあるという。
ナルニアにはアスランの死と復活はあっても、カトリックが神との関係において重要視する教会もなければ、ミサもない。(そもそも最後の晩餐がないので、当然、聖体拝領もない。)アスランの国は物質を超越したプラトン的世界として描かれ、カトリックが説く、「物質であるこの肉体」の復活がない。。
なるほど、考えてもみなかったが、教会という仲介的存在を必要とせず、ダイレクトにアスランという神と遭遇できるという設定は、たしかにプロテスタント的とも言えそうだ。
同時にルイス最後の神学的著作である「神と人間との対話―マルカムへの手紙」を引き合いに出しながら、トールキンがなぜ「マルカム」を読んで「悲惨であり、一部ぞっとさせる」と嫌悪したのか、そこに潜む英国教会徒ルイスによる遠回しのカトリック批判と、それを敏感に察したであろうトールキンの思いを想像するくだりは読んでいて思わず緊張する。後年になってからの二人の友情の溝は、伝記などからはトールキン側からの一方的な敬遠であったかのような印象を持つが、しかしその原因の一つはルイスの中に根強くあったアンチ・カトリック的態度であり、そういう二人の神学的な立場の違いがトールキンのナルニア評価に影を落としているという指摘は新鮮だった。
(しかしながら、ルイス学者のうち、第一人者であるHooperを始めとして、ルイス伝を書いたSayer、他にもルイスに関する研究書をものしているPurtill、Kreeftらはカトリックのはずだが、少なくともナルニアに関してカトリック的立場から苦言を呈しているようなものを読んだ覚えがなく、ナルニアがカトリック一般に受け入れがたいということはなさそうだ。)
(* Society の会員だった時に送られてきた会員名簿を見ていたら、その時期(ほぼ10年前)の日本人会員は二人しかおらず、私ともう一人は「エルフ語を読む」の伊藤 先生だった。現在はどうなっているのかわからないが、本家のTolkien Society と比べたら、かなり淋しい感じではある。)
2007/12/24のBlog
[ 23:45 ]
[ トールキン随想 ]
100円ショップ(ダイソー)で来年のカレンダーを見ていたら、世界の山の写真のものがあり、見覚えのある裂け谷の絵に似た谷間の写真が載っていたので買ってきた。
トールキンがホビットの冒険のために描いた挿絵も構図は同じだけれど、このカレンダーの写真を見て連想したのは、トールキンのオリジナルをハイパーリアリズムのタッチでトレースして描いたネイスミスの絵のほう。このネイスミスの絵はTolkien's World という画集で初めて見たのだが、様式的に描かれたトールキンのオリジナルを実写したかのようなリアルな描写に思わずのけぞった覚えがある。
ネイスミス描くゴンドリンの絵もそうですが、この人は視界の開けた広大な景色の空気感を描くと凄い迫力ですね。
トールキンがホビットの冒険のために描いた挿絵も構図は同じだけれど、このカレンダーの写真を見て連想したのは、トールキンのオリジナルをハイパーリアリズムのタッチでトレースして描いたネイスミスの絵のほう。このネイスミスの絵はTolkien's World という画集で初めて見たのだが、様式的に描かれたトールキンのオリジナルを実写したかのようなリアルな描写に思わずのけぞった覚えがある。
ネイスミス描くゴンドリンの絵もそうですが、この人は視界の開けた広大な景色の空気感を描くと凄い迫力ですね。
2007/12/12のBlog
[ 01:32 ]
[ うた・歌・詩 ]
前出のBeversluis の本で、ルイスのJoy の概念について検討しているくだりがあり、Joy という概念に通じる身近な例として、Peggy Lee の歌う「Is That All There Is?」という歌が紹介されていた。題名から はどんな歌なのか思いつかなかったので、検索して見つけた歌詞全文を読んでみる。
人生の様々な局面での夢想と現実のギャップというか、人生への期待値と、この世の現実が与えてくれるものとのギャップに失望を繰り返していき、そのつど人生という果実から得られるものは「これで全てなの?」と歌う、ペシミスティックではあるものの、深刻な絶望とも違う、不思議な魅力を持った歌ですね。
Beversluis の本では、ルイスのJoyと同じく、世界に対するこの種のないものねだりの態度は欲求不満を引き起こすだけの、およそ子どもじみた精神であると一蹴されており、まあそういう見方も一理あるとは思うけれども、ルイスのロマン主義のほうに共感してしまう身としては、これもまたこの存在宇宙を超えた、超越的なるものへの憧れをそれと知らずに歌っていると深読みできなくもなく、そう思って聴くと、なかなか味わい深い歌なのだった。
人生の様々な局面での夢想と現実のギャップというか、人生への期待値と、この世の現実が与えてくれるものとのギャップに失望を繰り返していき、そのつど人生という果実から得られるものは「これで全てなの?」と歌う、ペシミスティックではあるものの、深刻な絶望とも違う、不思議な魅力を持った歌ですね。
Beversluis の本では、ルイスのJoyと同じく、世界に対するこの種のないものねだりの態度は欲求不満を引き起こすだけの、およそ子どもじみた精神であると一蹴されており、まあそういう見方も一理あるとは思うけれども、ルイスのロマン主義のほうに共感してしまう身としては、これもまたこの存在宇宙を超えた、超越的なるものへの憧れをそれと知らずに歌っていると深読みできなくもなく、そう思って聴くと、なかなか味わい深い歌なのだった。
2007/12/06のBlog
[ 01:17 ]
[ C.S. ルイス ]
C.S. Lewis and the Search for Rational Religion by John Beversluis という、ルイスのキリスト教護教論に対して反駁を試みる本の新版が出た。
ルイスは「キリスト教の精髄」の中で、「理性的な検証によってキリスト教が正しいと思えないのであれば、私は誰にも信仰を持つことを求めない」という発言をしており、これは宗教を通常、理性に反する、もしくは理性を越えたものとする世間的風潮からすれば、かなり挑発的な発言ともいえる。本書では、ルイスのこの主張を文字通りに受け取り、ルイスがキリスト教の正当性として説いている論拠を一つ一つ検討していき、ルイスが主張する、理性によるキリスト教の弁証(rational religion)は失敗しているとする。
本書がPrometheus Books という、アンチ宗教をテーゼとする本を出している版元から出たことでもわかるように、ルイスの思想に対する建設的批評ではなく、偶像破壊的な意図でもって書かれている印象はぬぐえないけれども、総じて議論の運び方はフェアであり、私などは著者のルイス批判を通して逆にルイスのキリスト教の異形性(著者によれば、ルイスの思想はプラトン主義と合体した鵺的なキリスト教であり、聖書に基づくパウロ的な伝統からかけ離れている)など、なるほどと思うところも多かった。
ルイスは「キリスト教の精髄」の中で、「理性的な検証によってキリスト教が正しいと思えないのであれば、私は誰にも信仰を持つことを求めない」という発言をしており、これは宗教を通常、理性に反する、もしくは理性を越えたものとする世間的風潮からすれば、かなり挑発的な発言ともいえる。本書では、ルイスのこの主張を文字通りに受け取り、ルイスがキリスト教の正当性として説いている論拠を一つ一つ検討していき、ルイスが主張する、理性によるキリスト教の弁証(rational religion)は失敗しているとする。
本書がPrometheus Books という、アンチ宗教をテーゼとする本を出している版元から出たことでもわかるように、ルイスの思想に対する建設的批評ではなく、偶像破壊的な意図でもって書かれている印象はぬぐえないけれども、総じて議論の運び方はフェアであり、私などは著者のルイス批判を通して逆にルイスのキリスト教の異形性(著者によれば、ルイスの思想はプラトン主義と合体した鵺的なキリスト教であり、聖書に基づくパウロ的な伝統からかけ離れている)など、なるほどと思うところも多かった。
2007/11/17のBlog
[ 15:59 ]
[ C.S. ルイス ]
「何度も読みかえすかどうかということ、それはもちろん、どの本の、どの読者にとっても、よい試金石です。文学的ならざる読者とは、本をたった一度しか読まない人間と定義してもいいでしょう(※1)。マロリーやボズウェル、トリストラム・シャンディやシェイクスピアのソネットを一度も読んだことのない人間には望みがあります。けれども「もう読んだ」といってすましている人間、つまり一度だけ読んで、能事おわれりとしている人間はどうしようもないではありませんか。(中略)
もしも大衆的なロマンスの読者が―彼自身がいかに無教養であろうとも、また本そのものがどんなに下らなかろうと―昔からの気に入りの本を何度も読みかえすとすれば、それはその本が彼にとって一種の詩であるという、かなりはっきりした証拠になるわけです。」(C・Sルイス『別世界より』~「物語について」p35中村妙子訳)
たしかに「次はどうなるんだろう、主人公の運命やいかに?」という引きで、ぐいぐいと読者に先を促していく物語はそれだけでも出来のよい物語であるだろうが、先の展開がわかってしまったら、もう二度と読み直さない本というのも確かにあって、先の展開がわかっているにもかかわらず、何度も読みかえしたくなるお話には、ルイスのいう「一種の詩」、そのえもいわれぬ感覚を何度でも味わいたくなる、というのは愛読書を持っている人間なら誰でも身に覚えのあることだろう。そういう感覚がいつも「詩」とか「詩情」と云えるものかどうか、人によっていろいろな言い表し方があると思うけれども、そこにはストーリーの先がわかっていても、何度もくり返し味わいたい「あの感じ」というものが確かにあるはずだ。
(しかし、何かに「一種の詩」を見出すということは、本というメディアだけではなく、あらゆる芸術に、もっといえば、スポーツや趣味なども含めた、人を惹きつける営みすべての「行間」に潜在しているものかもしれない。)
「いやしくも物語であれば、一連の出来事を記述しなければならないでしょう。しかし、この出来事の連続―いわゆる筋―は、じつは何か他のものをそれによって捉える網に過ぎないのです。真の主題は通常、その中に何の関連もないもの、つまり単なる過程以上のもの、というより、ある状態、もしくは性質といったものであるともいえます。たいていはそのようです。(たとえばおとぎ話やSF小説などで経験されるような)巨人らしさ、人間と質の異なるものの感じ、漠たる空間の印象といったものが私たちの行く手をおりにふれて横ぎるのです。」(前掲書p37)
しかし物語とは、読者を先に引っ張っていくためだけの馬の鼻先にぶら下がった人参の役割以上の価値、たまさかにふと鼻先をよぎる詩情を捉えるための網に過ぎないのだろうか。たとえばトールキンのいわゆるユーカタストロフィが顕現する瞬間が訪れるためには、そこに至るまでの「一連の出来事の記述」があってこそのカタルシスではないだろうか。
ルイスの物語論はストーリーから垂直方向に瞬間的に屹立する詩学であって、そこには物語の持つドラマ性の感覚が欠けているように思う。たとえば「ナルニア」を読んでいて、世界の果ての海、チャーンの都の終末後の世界、あるいは北方の荒地で巨人たちが人間には目もくれず、石を投げているグロテスクな光景―これらのエピソードは一度読んだら脳裏に焼きつくような鮮烈なイメージではあるが、必ずしもドラマ的必然性のあるエピソードとはいえないものがけっこうある。そこには「巨人らしさ、人間と質の異なるものの感じ、漠たる空間の印象といったものが私たちの行く手をおりにふれて横切る」ものの、エピソード同士の繋がりはさほど緊密ではなく、物語の中の一つ一つのエピソードが、必ずしもストーリーの展開に寄与していないというような。そういう特徴の背景には、こういったルイスの物語観がいくらか関係していたのかもしれない。
瞬間の詩学の「喜び」の中に「永遠」へ道標を捉えようとしたルイスと、歴史というものが一つの交響曲であり、出来事の一連の経過というドラマの中に顕現する「喜び」を見出すトールキン。この感性の違いが、「ナルニア」と「LotR」の魅力の違いとなっても現れているような気がする。
※1 とはいうものの、トールキンは一度読んだ本を読み返すということはめったになかったと手紙で語っている。それに比べルイスははるかに読書欲旺盛で、好きな本は何度でもくり返し読んでいる様子がアーサー・グリーヴズ書簡などから伺える。
もしも大衆的なロマンスの読者が―彼自身がいかに無教養であろうとも、また本そのものがどんなに下らなかろうと―昔からの気に入りの本を何度も読みかえすとすれば、それはその本が彼にとって一種の詩であるという、かなりはっきりした証拠になるわけです。」(C・Sルイス『別世界より』~「物語について」p35中村妙子訳)
たしかに「次はどうなるんだろう、主人公の運命やいかに?」という引きで、ぐいぐいと読者に先を促していく物語はそれだけでも出来のよい物語であるだろうが、先の展開がわかってしまったら、もう二度と読み直さない本というのも確かにあって、先の展開がわかっているにもかかわらず、何度も読みかえしたくなるお話には、ルイスのいう「一種の詩」、そのえもいわれぬ感覚を何度でも味わいたくなる、というのは愛読書を持っている人間なら誰でも身に覚えのあることだろう。そういう感覚がいつも「詩」とか「詩情」と云えるものかどうか、人によっていろいろな言い表し方があると思うけれども、そこにはストーリーの先がわかっていても、何度もくり返し味わいたい「あの感じ」というものが確かにあるはずだ。
(しかし、何かに「一種の詩」を見出すということは、本というメディアだけではなく、あらゆる芸術に、もっといえば、スポーツや趣味なども含めた、人を惹きつける営みすべての「行間」に潜在しているものかもしれない。)
「いやしくも物語であれば、一連の出来事を記述しなければならないでしょう。しかし、この出来事の連続―いわゆる筋―は、じつは何か他のものをそれによって捉える網に過ぎないのです。真の主題は通常、その中に何の関連もないもの、つまり単なる過程以上のもの、というより、ある状態、もしくは性質といったものであるともいえます。たいていはそのようです。(たとえばおとぎ話やSF小説などで経験されるような)巨人らしさ、人間と質の異なるものの感じ、漠たる空間の印象といったものが私たちの行く手をおりにふれて横ぎるのです。」(前掲書p37)
しかし物語とは、読者を先に引っ張っていくためだけの馬の鼻先にぶら下がった人参の役割以上の価値、たまさかにふと鼻先をよぎる詩情を捉えるための網に過ぎないのだろうか。たとえばトールキンのいわゆるユーカタストロフィが顕現する瞬間が訪れるためには、そこに至るまでの「一連の出来事の記述」があってこそのカタルシスではないだろうか。
ルイスの物語論はストーリーから垂直方向に瞬間的に屹立する詩学であって、そこには物語の持つドラマ性の感覚が欠けているように思う。たとえば「ナルニア」を読んでいて、世界の果ての海、チャーンの都の終末後の世界、あるいは北方の荒地で巨人たちが人間には目もくれず、石を投げているグロテスクな光景―これらのエピソードは一度読んだら脳裏に焼きつくような鮮烈なイメージではあるが、必ずしもドラマ的必然性のあるエピソードとはいえないものがけっこうある。そこには「巨人らしさ、人間と質の異なるものの感じ、漠たる空間の印象といったものが私たちの行く手をおりにふれて横切る」ものの、エピソード同士の繋がりはさほど緊密ではなく、物語の中の一つ一つのエピソードが、必ずしもストーリーの展開に寄与していないというような。そういう特徴の背景には、こういったルイスの物語観がいくらか関係していたのかもしれない。
瞬間の詩学の「喜び」の中に「永遠」へ道標を捉えようとしたルイスと、歴史というものが一つの交響曲であり、出来事の一連の経過というドラマの中に顕現する「喜び」を見出すトールキン。この感性の違いが、「ナルニア」と「LotR」の魅力の違いとなっても現れているような気がする。
※1 とはいうものの、トールキンは一度読んだ本を読み返すということはめったになかったと手紙で語っている。それに比べルイスははるかに読書欲旺盛で、好きな本は何度でもくり返し読んでいる様子がアーサー・グリーヴズ書簡などから伺える。
2007/10/10のBlog
[ 23:22 ]
[ トールキン随想 ]
オークションに出ているトールキンの手紙が Tolkien Library で紹介されている。
手書きの書面は達筆過ぎてまるで読めないので(笑、トランスクリプトを読む。
”stern gentleness ”、ガンダルフの人格的魅力を端的に表していますね。これが子どもにとって、もっとも安心感のあるものだというのも、するどい教育者的洞察のように思えます。
(しかし、その両面を兼ね備えた大人になるのはなかなか難しい。)
なるほど、ピピンがガンダルフの懐で安らかに眠りこけたのも納得です。それは守護天使に抱かれているのと同じ安心感だったんですね。
手書きの書面は達筆過ぎてまるで読めないので(笑、トランスクリプトを読む。
”stern gentleness ”、ガンダルフの人格的魅力を端的に表していますね。これが子どもにとって、もっとも安心感のあるものだというのも、するどい教育者的洞察のように思えます。
(しかし、その両面を兼ね備えた大人になるのはなかなか難しい。)
なるほど、ピピンがガンダルフの懐で安らかに眠りこけたのも納得です。それは守護天使に抱かれているのと同じ安心感だったんですね。
2007/10/07のBlog
[ 00:39 ]
[ トールキン関連本 ]
シッピィ先生、「Author of the Century」以来のトールキン本で、今回はあちこちに発表されたものを集めた論文集になっている。mythsoc に目次内容がアップされており、それを見ると、これまたそそられるタイトルの論文が多い。
すでに持っているトールキン論集(Tolkien Studies 等)に収録されていてダブってしまうものも一部あるが、未読のもののタイトルもやはり面白そうで、結局、注文してしまった。
8. Fighting the Long Defeat: Philology in Tolkien’s Life and Fiction
「The Road to Middle-earth 」で言われていた大学内カリキュラムでの言語学派VS文学派の派閥争いを指しているのかな?これは言語学派にとってはいつも負け戦だったということでしょうか。
21. Allegory versus Bounce: (Half of) an Exchange on Smith of Wootton Major
「かじや」の解釈をめぐって、シッピィ教授とFlieger 教授との間で論争があったという話をどこかで読んだ覚えがあるが、その論争の半分、ということはシッピィ先生側の応答だけが収録されているということかな。トールキン学者を代表するこの二人がどんなバトルを繰り広げたのか興味津々。
22. Blunt Belligerence: Tolkien's Mr. Bliss これはブリスさん論でしょうか。なまくらな好戦性??なんのことだがわからないですが、読んでみたい。
18. “A Fund of Wise Sayings”: Proverbiality in Tolkien トールキンには一種の格言に見立てたくなるような名台詞が多いわけですが、 Proverbiality という言い方が面白い。一種の格言癖、エルロンドとかガンダルフとかを筆頭に、口に出す言葉がいちいち格言になってしまう症候群?を指しているのではないかと想像し、これまた読んでみたい。
この本を出している Walking Tree Press という、トールキニアンな名前を持つこの出版社は、他にも興味を引くタイトルのラインナップを持っており、この手の出版物としてはけっこう安い値段なので、そのうち他の本も試してみたい。
すでに持っているトールキン論集(Tolkien Studies 等)に収録されていてダブってしまうものも一部あるが、未読のもののタイトルもやはり面白そうで、結局、注文してしまった。
8. Fighting the Long Defeat: Philology in Tolkien’s Life and Fiction
「The Road to Middle-earth 」で言われていた大学内カリキュラムでの言語学派VS文学派の派閥争いを指しているのかな?これは言語学派にとってはいつも負け戦だったということでしょうか。
21. Allegory versus Bounce: (Half of) an Exchange on Smith of Wootton Major
「かじや」の解釈をめぐって、シッピィ教授とFlieger 教授との間で論争があったという話をどこかで読んだ覚えがあるが、その論争の半分、ということはシッピィ先生側の応答だけが収録されているということかな。トールキン学者を代表するこの二人がどんなバトルを繰り広げたのか興味津々。
22. Blunt Belligerence: Tolkien's Mr. Bliss これはブリスさん論でしょうか。なまくらな好戦性??なんのことだがわからないですが、読んでみたい。
18. “A Fund of Wise Sayings”: Proverbiality in Tolkien トールキンには一種の格言に見立てたくなるような名台詞が多いわけですが、 Proverbiality という言い方が面白い。一種の格言癖、エルロンドとかガンダルフとかを筆頭に、口に出す言葉がいちいち格言になってしまう症候群?を指しているのではないかと想像し、これまた読んでみたい。
この本を出している Walking Tree Press という、トールキニアンな名前を持つこの出版社は、他にも興味を引くタイトルのラインナップを持っており、この手の出版物としてはけっこう安い値段なので、そのうち他の本も試してみたい。
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