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トールキン関連本を読む ( トールキン作品のネタバレ有 )
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2006/08/19のBlog
[ 12:20 ] [ トールキン随想 ]
「Blackwelder氏記念論文集」中のRichard C. West 氏による Her Choice Was Made and Her Doom Appointed - Tragedy and Devine Comedy in the Tale of Aragorn and Arwen を読んでいたら、ちょっと面白い仮説が紹介されていた。

「指輪物語は総じていえば決して幸福な印象をもたらす本とは言いがたいけれども、
とりわけアルウェンの孤独な死はもっとも悲劇的なものだと私は思う」という記述に
以下のような注がついている。

「アルウェンの死が実はそれほど孤独なものではなかったかもしれないことを暗示する一つのヒントがある。物語の前のほうで、アラゴルンについて以下のように言われていた。

「かれはケリン・アムロスの丘を去りました。そしてアラゴルンは、現身の人間としては二度とここに戻っては来なかったのです。」

この記述は彼がその死後、霊というかたちでなら、そこを訪れることは許されたということをもしかしたら暗示してはいないだろうか?そうであってみれば、ケリン・アムロスの丘で一人ぼっちで死の床に横たわる彼の妻を慰めるこれ以上の機会はないのではないか?もちろんこれはただの憶測に過ぎないけれども、このことを(ためらいがちではあるが)示唆してくれたGary Hunnewell 氏に感謝する。」

「現身の人間としては二度と~」という言い方には、アラゴルンが指輪戦争を生き抜くことができないのではないかという不吉さがあり、初読のさいには彼の将来について大いに気を揉んだ一文だった覚えがある。その後このくだりを読むときはサスペンスを盛り上げるための思わせぶりか?というようなぬるい読み方しかしてこなかったのだが、このHunnewell & West 説では、ここにはただの思わせぶり以上の意味がじっさいにあったことになる。

West 氏も認めるように、この解釈はあくまでも憶測の域を出ることはないけれども、LotR中に含まれたアラゴルンとアルウェンの関係の、ウカウカと読み流してしまいそうないくつもの隠された伏線の張り方を鑑みれば、これまたトールキンならやりかねない周到な企みの一つだったかもと思わずにはいられない。
2006/06/23のBlog
[ 20:01 ] [ トールキン関連本 ]
前出のBlackwelder氏記念論文集 の寄稿者の一人でもある John D. Rateliff 氏による「The History of The Hobbit」がついに完成するらしい。

この本、「Mr.Baggins 」というタイトルでずいぶん前(たぶん10年以上前)からアマゾンにも近刊予告が出ていて刊行を心待ちにしていたのだが、いっかな出る気配がないので永遠に完成しない幻の本になるかと危ぶんでいたのです。前出の本の寄稿者一覧のRateliff 氏の項に「He is currently completing The History of The Hobbit, a critical edition of the original manuscript of Tolkien's book.」とあり、これは近いうちに刊行されることを期待しても良さそうだ。
「ホビットの冒険」の執筆過程はHoME でも丸ごとオミットされていたので、本書の刊行によって、中つ国創造過程における空白の歴史も埋まることになるのだろう。The Annotated Hobbit とはまた違った切り口の研究書になるはずなので、刊行が愉しみである。(そういえばミスターアンダーソン編集のトールキン・インタビュー集はどうなったのかしらん)

ためしに検索したら、Amazonに書影付きでリストに載っていた。
http://www.amazon.co.uk/exec/obidos/ASIN/0007235550/203-1039236-0071128
刊行予定日を見たら来年の五月。ありゃりゃずいぶん先の話でした。
2006/06/02のBlog
[ 21:24 ] [ トールキン関連本 ]
こんな本が出ているのを知り、注文してみた。

The Lord of the Rings 1954-2004:
Scholarship in Honor of Richard E. Blackwelder

http://www.marquette.edu/library/information/news/2006/jrrt_proceedings.html

Blackwelder 氏の名前は、A Tolkien Thesaurus というLotRに使われている主な単語をピックアップした語彙辞典の編纂をした人として知っていた。
これはThe complete guide to Middle-earth のような固有名詞便覧ではなくて、たとえばLotRの中で restless という単語がどういう文脈で使われているかなどという疑問を持った場合、この本で調べれば該当のページがわかるというような使い方ができる語彙辞典である。シッピィ先生も名著The Road to Middle Earth の中で、ある単語がLotR中に何回使われているかを調べるのにこの語彙辞典が役立ったと書いていた。

まあトールキンについて論文を書くような人でもなければ(つまり私のようなアマチュアファンは)持っている価値はほとんどなさそうな本だが、それでもLotR中に使われている単語をすべて網羅的に調べ上げるという、これはある意味、一種の奇書かもと思い、そこそこの値段なら買いたいと思って調べてみたらすでに絶版で、以来、たまにネット古書店に売りに出ているのを見かけるものの、100ドル以上するので今のところ手が出ない。

このBlackwelder氏が亡くなって、氏の業績を称えるためにマルケット大学で開かれた記念講演集を集めたのが本書である。
寄稿しているメンバーを見ると、錚々たるトールキン研究家の名前が綺羅星のごとく並んでおり、トピックもなかなか興味深そうだ。トールキンが使った単語に拘ったBlackwelder氏にあやかったものか、論文もトールキン世界における言語という側面にスポットを当てたものが多い様子。

表紙の写真はBlackwelder氏の近影だが、後ろの壁にはトールキンの写真やら絵やらがやたら張りつけてあり、一挙に親近感を持ってしまいました。
2006/04/03のBlog
[ 06:56 ] [ うた・歌・詩 ]
Though here at journey's end I lie
in darkness buried deep,
beyond all towers strong and high,
beyond all mountains steep,
above all shadows rides the Sun
and Stars for ever dwell:
I will not say the Day is done,
nor bid the Stars fawewell.
(RK BOOK SIX Ⅰ)

サムがキリス・ウンゴルで口ずさむこの歌がトールキン・アンサンブルのCD(An Evening in Rivendell)に入っているのだが、これが底光りするような渋い名曲で、たまに聴きたくなる。

「たとえこの身はここ旅路の果てに倒れて 暗闇の底に埋もれようとも・・・」う~ん、サム渋過ぎ。

ところでサムのこの歌に受け答える形でフロドが自分の居場所を知らせるという、歌の応酬による相手の居場所の発見という設定はずいぶんノンキというか、いかにも中世説話的な印象を持つけれども、LotR リーダーズコンパニオンによると、これには獅子心王リチャードⅠ世とその吟遊詩人ブロンデルの伝説というのが元にあるらしい。

十字軍遠征の帰途、捕囚の身となったリチャード王を、忠臣ブロンデルは城から城を探して歩き、王の居場所がわからないブロンデルは王が好きだった歌を歌い、その歌に途中から王が加わることで、王の居場所がわかったという伝説だそうだ。

トールキンはこの歌の応酬による囚人の発見いう設定をシルマリルでもフィンゴンによるマエズロス救出、ルシアンによるべレン救出でも用いており、よほどこの設定が気に入っていたようですね。
2006/03/07のBlog
[ 23:54 ] [ C.S. ルイス ]
Johnnycakeさん、いつもコメントありがとうございます。コメントが長くなってしまいコメント欄に入り切らないのでこちらへ書かせてもらいます。

(以下、ネタバレ有り。「ライオンと魔女」映画未見&原作未読のかたは注意してください)

ピーターは長男としての責任感からなんでしょうが、あんなに頭ごなしに怒鳴らなくてもいいじゃんかと次男坊の自分はエドマンドに同情しました。(まあ本人も後で反省してましたが)

自己犠牲の精神に関してなんですが、たとえばガンダルフが旅の仲間を救うために自ら命を投げ出してバルログと戦ったり、フロドが指輪所持者を自らの意思で請け負うっていうのはとくにキリスト教の教義を持ち出さなくても理解可能な自己犠牲だと思うんですが、アスランの場合は戦わずに自らを生贄にし、それでいて現実の状況はさっぱり改善されていない(魔女はアスランが身代わりに死んだからといって征服を止めるつもりはないですし)という、ちょっと特殊な自己犠牲のかたちだと思うんです。

Deep Magic とは、宇宙の法則としての正義というものがまず前提としてあって、だれかがその正義を損なった場合、他の誰かがその正義の修復のために罪を肩代わりすることで正義の損失がチャラにできるという、それ自体、かなり特殊な道徳観念ではないでしょうか。そしてDeeper Magic になると、そこで犠牲になった死は振り出しに戻るという、さらに特殊な魔法が働いている。たぶんこの辺の考え方がキリスト教の奥義であるとも思うのですが、そういう考え方に慣れていない人間にとってわりと異様な考えかなと思うのですがどうでしょう。

しかし、こういった理屈は物語を読んでるときには思い浮かばなかったですし、アスランの自己犠牲と復活という物語を感情的に体験することこそルイスの眼目だと思うので、映画はその辺はじゅうぶん感動的に描いてくれてたと思います。

中間世界、私もよくわからないです(笑。特にアスランの国と中間世界の関係が未だによくわかりません。あの設定はファンタジーよりもSFのパラレルワールドに近いような印象を持ちました。(チャーンの都は映画化されたらどんな映像になるのか愉しみではあります。)
2006/03/05のBlog
ナルニア、初日に行って来ました。夜の回だったからか、子供の姿はほとんど見当たらず、観客の年齢層が高いのが目についた。

映画は原作の雰囲気をよく伝えていたと思う。映画向きに脚色された部分もさほど気にならず、見終わった後、LOTR映画のときのような、ビジュアル的興奮とは裏腹に映画独自の脚色に文句を言いたい気持ちに引き裂かれることもなく、とても満足した気分で劇場をあとにすることができた。

私は原作のアスランには実はあまり感情移入できなかったのだが、映画のアスランは男性的魅力(セクシーだという感想が多いらしいのも肯ける)と共にライオンという猫科動物特有の可愛らしさもあり、魔女との密談の後に一人しょぼんとした表情で佇む姿をルーシーが眺めているところではちょっと涙腺がゆるみました。

(以下、ネタバレ有り。原作未読のかたは注意してください)

「世のはじめからの魔法」と「世のはじまりより前からのもっと古い魔法」に関する説明はやはり難しいですね。クリスチャンではない観客にとって、この物語の一番の虚構性は、ナルニアという異世界の存在ではなく、「罪のない者が罪人のために犠牲になった死は振り出しに戻る」という魔法であるかもしれません。

とりあえず二作目の製作も決まったということで、このクオリティーでぜひ「さいごの戦い」まで作って欲しいものです。

いちおう記念として、ランプポストの下にルーシーが佇む絵とタムナスさんが描かれたマグカップを買ってきました。
2006/02/15のBlog
弱冠26歳で自らの命を断った編集者の女性が亡くなる直前まで日々の思いを綴った「八本脚の蝶」というウェブサイトをご存知だろうか。そのサイトの日記が生前の彼女を知る人たちの回想を綴った文章と共にこのほど出版された。(『八本脚の蝶』二階堂奥歯 ポプラ社)

自らの死をネット上の公開日記で告知するということの是非については多くの意見があると思うけれども、そういった衝撃性を抜きにして、私はこの人の文章のファンであり、活字になった彼女の文章を今回改めて読み直して、幻想文学やファンタジーを読むということの意味、とりわけ非現実世界の描写を通して、この現実世界自体をある特殊な光線で照らし直すという側面について考えさせられるものがあった。たとえば以下のような部分。

「遠くを見ている歌が読みたいのです。
(遠くを見ているポーズを惰性で取って詠んだ歌ではなく、センチメンタリズムに流された歌でもなく)。
ただ一度だけ垣間みてしまった何かを詠んだ歌。

一筋の光によってラピュタのありかを指し示す小さな飛行石のように、読み手の手のひらの中から遙か遠いここではないどこかを指し示してくれる歌。
31文字で精緻に組み立てられた小さな鍵。おそらくその示す先は楽園ではないのです。身を切るような異質さに震えながら、表面温度を下げた私の皮膚が金属の光を宿すようなそんな歌。

そして、そんなどこかを感じ取った後で振り返ったとき、この世界もまた漂わせているはずの異境の気配をうたう歌。一度限りの世界に滞在している居心地の悪さと幸福感。不安、おそろしさ。美しさ。

頭の中や携帯のモニターの中に、肌身離さず持って歩けるような小さな言葉のひとまとまりを探しています。」

「この世界もまた漂わせているはずの異境の気配をうたう歌」を自分も探しており、そういう歌声をルイスやトールキンの作品の中に聴き取った気がしたゆえに、私はこれらの作家に惹かれたのではなかったか。

しかし「おそらくその示す先は楽園ではないのです」という言葉があらわすように、彼女は「信仰」というものの中への逃避を自らに許さず、この世界という異境の中で「身を切るような異質さに震えながら、表面温度を下げた私の皮膚が金属の光を宿す」ことを目指し、力尽きた。とかくロマン主義的なものに惹かれ、ずぶずぶのセンチメンタリズムに流されがちな私は、<存在>の荒野の中で寒さに耐えながら金属の光を宿す皮膚を求めて儚く散っていった若い精神を思うと深く首をうな垂れるしかない。

2002年10月31日の日記から。

「そうか、それでわかりました。
あなたは児童文学を読んでいた子供だったんですね。
だから信じるんだ。

児童文学を読んでいた子供は信じています。何かを。
世界には恐怖や危険や悪や絶望があるけれども、大切なもの、愛おしいもの、美しいもの、かけがえのないものが必ずあるということを。
その大切なものを、勇気や知恵や友情や愛で守ろうと決心したことがきっとあるはずです。」

ちなみに彼女のお気に入りのファンタジーは「九年目の魔法」「グリーン・ノウ」「ふくろう模様の皿」「見えない都市」「鏡の中の鏡」「最後のユニコーン」「サロメ」「ナルニア」「幻獣の書」だとのこと。トールキンにたいして彼女がどんな意見を持っていたのかも読んでみたかった。

(トールキンに関して触れている文章が一つあったのを思い出した。以下、その部分の引用。
「そういえば私の先代の図書委員長はSF研の部長で、ファンタジーが好きな人でした。トールキン好きで瞳が美しい人でした。(近眼だし)。彼女はSF研の見学に行った初対面の私に対し上品に微笑みながらいきなりエルフ語で自分の名前を書いてくれたのでした。・・・」

深読みすれば、トールキンファンの先輩の瞳が美しかったというこの逸話に彼女なりの批評が含まれている気がしないでもない(笑)。)
2006/01/29のBlog
[ 12:03 ] [ うた・歌・詩 ]
When you’re weary, feeling small,
When tears are in your eyes, I will dry them all;
I’m on your side. When times get rough
And friends just can’t be found,
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.

When you’re down and out,
When you’re on the street,
When evening falls so hard
I will comfort you.
I’ll take your part.
When darkness comes
And pain is all around,
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.

Sail on silvergirl,
Sail on by.
Your time has come to shine.
All your dreams are on their way.
See how they shine
If you need a friend
I’m sailing right behind.

Like a bridge over troubled water
I will ease your mind.

S&Gの「明日にかける橋」はそれ自体で聞いても感動的な名曲だけれども、
サムからフロドへあてた詩として読むと、また違う感動がこみあげてきますね(笑。

三番の詩が船出を歌うのも良い。Your time has come to shine. All your dreams are on their way.というところは、"wanderlust"にとらえられたフロドが最終的にエレッセアに旅立つことで彼の心の奥底の願望を成就したと解釈したい。
2006/01/26のBlog
滅びの罅裂でフロドが指輪の誘惑に屈する場面はLOTRリーダーズ・コンパニオンで3ページにも及ぶ長い注釈になっているが、
そこでKatharyne Crabbeという人 の評論が引用されている。以下、その引用部分を私訳してみる。

「(指輪の持つ)悪の潜行的性質は、トールキンの自己犠牲的なヒーローを、その先行する神話伝説的原型(アーキタイプ)よりもずっと痛切で感動的なものにしている・・・(訳者による中略)・・・すなわち、滅びの罅裂のきわで、指輪はフロドをホビット版サウロンに作り上げることに成功したのだ。フロドは指輪が自分のものだと宣言し、そして第二紀の終わりにサウロンから指輪が取られたのと同じやり方、指を切り取られるという仕方で指輪を奪われる。
このフロドとサウロンの相似は人間の二面的性質を示唆するだけでなく、命をかけて倒そうとしてきた当の敵に、フロド自身がいかに近い存在になっていたかを示唆している。畢竟、LotRにおける究極の敗北とは、悪との戦闘において単に敗北するというだけでなく、その悪に取り込まれるということでもあった。」[J.R.R.Tolkien, rev. edn, p.87]

「怪物と戦うもの自らが怪物になる危険」は最近だとSWのアナキンの堕落を連想してしまうけれども(クライマックスの舞台を火山の星に設定したのもLotRのはるかな影響を勘ぐらないではいられない)、それとは別にこのくだりを読んでいて思ったことがある。

フロドは自力で指輪を捨てることができず、最終的にはゴクリの存在によって使命をまっとうすることを助けられたという構図がまずあり、ゴクリはフロドを最後には裏切ったものの、フロドの(そして以前にはビルボの)ゴクリに対する情けがめぐりめぐってフロドを助けることになったというのがこの場面のドラマ的な柱だろうし、そのように受け取ってきた。だからフロドは指輪の誘惑に屈してしまったものの、ゴクリの予期せぬ「贖い」的行為によって究極的には救われたという、まあめでたしめでたし、とはいかないまでも、ギリギリのところで首尾よく行ったのではないかというような感慨を持っていた。

物語の因果論的な結末としてはそれでいいのだろうが、そのような運命の歯車を回す役割を担ったフロド個人の内面を考えてみると、それだけでは済まないかもしれない。

フロドは単に指輪を捨てられなかっただけではなかった。滅びの罅裂のきわで、指輪をどうしても手放せないで逡巡しているときに指輪を奪われたのではなく、自ら指輪王宣言をした後に、指輪を奪われたわけである。どちらにしても指輪が破壊されたことに変わりはなく、あとはフロドの名誉の問題くらいにも思えるけれども、出来事の一連の経過をフロドの心理に焦点を当てて考えてみた場合、フロドが指輪王宣言をした後に指輪の破壊があったというのは、フロドのその後の心の傷の深さに大きな違いが出てくるのではないか。

変な喩えになるが、この女とつきあっていたらダメになるぞと自分でも思い、周りの人もあれは悪い女だから別れろとずっと云われ続けて、でもなかなか別れられないでいて、いろいろ追い詰められた結果、「いや、俺は誰がなんといおうとこの女が好きだ。おれはこの女と結婚する!」と決心した瞬間、その相手が殺されてしまった・・。まだ逡巡しているときに相手が殺されたとしても相当なショックは受けるだろうが、そのときの魂の姿勢とでもいうか、実存的な選択が行われた前と後とでは、受ける衝撃の度合はかなり違うだろう。

そう考えてみると、フロドは指輪の喪失だけでなく、ギリギリの場面での自分の選択自体によってもさらにダメージを受けていたはずで、彼の受けた精神的ダメージは見かけ以上に深いものだったのかもしれない。
2005/11/28のBlog
[ 02:50 ] [ 今日のアンダーライン ]
ビルボが馳夫さんのために書いた詩の冒頭ですが、
LOTRリーダーズコンパニオンでこの詩の注釈を読むと以下のように書いてあった。

All that is gold does not glitter.

伝統的なことわざである"all that glitters is not gold."(光るものすべてが金とは限らぬ)と比較せよ。(シェイクスピア「ベニスの商人」にも"All that glisters is not gold."の台詞有り)」

そう言われてみれば、光るものすべてが金ではない。という文句ははるか昔、英文法の例文集の部分否定を扱う例文で読んだような気がするが、すっかり忘れてた。

金はすべて光るとは限らぬ、とは高貴な血筋を隠して野伏に身をやつしているアラゴルンにあてた詩としてかっこよく決まっているのですんなり受け入れていたけれど、これは一種、有名な言い回しのパロディでもあったというわけですね。

コンパニオンの索引を見ると、Proverbs, sayings, platitudes の項目があり、他にもことわざ・箴言の類がたくさんピックアップされており、「中つ国のことわざ」というテーマで調べてみたりするのも面白いかも。
2005/11/18のBlog
Splintered LightA Question of Time に続く、Flieger教授のトールキンに関する三冊目の本。
一冊目がトールキン作品における言語哲学、二冊目は時間論、本作ではトールキンの神話体系が出来上がっていく過程を辿っており、The Making of Tolkien's Mythology という副題が示唆するように HoMeの研究本といった感じである。

タイトルはイルーヴァタアルの主題がメルコオルの不協和音によって主題の変更を余儀なくされたのと同じく、トールキンの当初の構想もまた大きく変更され、それはついに最終的な完結を見ることがなかったという事情をさしている。

この本のユニークなところは既に多くの研究がある神話や物語の原典探しや物語の解釈などよりも、その神話体系を語るための「容れもの」、「外枠」の問題をどうするかについて、トールキンの構想がどのような軌跡を辿っていったかに焦点を当てたところではないだろうか。

「シルマリル神話」というテキストがどのような形で後世に伝わったのかという外枠の問題にトールキンは多大な労力を割き、ある段階では一種のSF小説という枠組みで神話を語ることさえ考えた。そのさい導入された仕掛けが輪廻転生と記憶遺伝という(カトリック作家としては異端的?)アイディアで、トールキンはそういったオカルト的な考えをなかば本気で信じていたフシもあるようだが、結局のところそれらの試みは最終的な形をとるには至らず、外枠の問題は棚上げにされたままになってしまった。

クリストファー・トールキンはThe Book of the Lost Tales の序文で「シルマリルの物語」を出版するさい、それら未解決のままの外枠の問題を一切省き、首尾一貫性を持たせるために(とりあえず物語世界の中で)シルマリルの物語が誰によって書かれ、どのような経緯で後世に伝わったのかについて何の手がかりも情報もない形で出版してしまったことを後悔していたけれども、「終わらざりし物語」のような未完成原稿を含めたシルマリルの物語が最初に出たほうが良かったのかどうかは今となってはなんともいえない。

本書を読むまで「失われた道」「ノーションクラブ忘備録」といった作品でトールキンが何をしようとしていたのかあまりピンとこなかったのだが、あれらは自身の神話が後世にどうやって伝えられたかを説明するための外枠を作る試行錯誤だったと教えられ、とても納得がいったように思う。

他にもトールキンがモデルにしたのはエッダなどの北欧神話の物語内容だけでなく、カレワラを編纂したリュンロートの役割をトールキンは自身の神話の編纂者になることで演じようとしたとか、「妖精物語について」が同時代の思潮へのトールキンなりの反論として書かれた部分の指摘など、いろいろ教えられることが多かった。
2005/11/12のBlog
前の記事で書いた LotR A Reader's Companion( ハーパーコリンズ版のペーパーバック)が本日到着した。
900ページという分厚さに細かい活字がビッシリで凄いボリュームです。
まだペラペラと拾い読みしただけですが、期待した以上に凄い本になってます。
本書の眼目である注釈部分はこれからじっくり愉しませてもらうとして、それ以外の部分で注目したところ。

・今まで完全な形では読めなかったLotR初版の序文(HoMEに抜粋有り)。

・有名なMilton Waldman書簡で省かれてた、トールキン自身によるLotRのレジュメ。
これはトールキンがコリンズ社にLotRの売り込みをするために書いた一世一代の長い書簡で、この機を逃したら永遠に日の目を見ることはないかもしれないLotRが自身にとっていかに渾身の力作であるかを必死に伝えようとしているトールキンの姿がうかがえます。第一紀から第二紀の説明にあたる部分はすでに書簡集に入ってましたが(新版「シルマリルの物語」にも再録)、LotRのエンディングに関する部分でHoMEに一部抜粋されていたものの、今回初めて省略されていた部分の全文が読めるようになりました。
(トールキンが書きながら涙したと告白してるくだりとは?)

・A Tolkien Compass 旧版に収録されてたトールキンによる「翻訳の手引き」。

・27ページにわたるLotR執筆の経緯と出版後の反響など。これは出版が待たれるCompanion and Guide でさらに詳細な記述が読めるとのこと。

・謝辞のところに赤龍館の高橋誠氏とKenzo Sasakawa氏という日本人お二人の名前を発見!

内容に関する詳しいレビューはTolkien Library の記事が参考になります。

これだけの内容が詰まって邦貨で1400円ちょいっていうのは安い!

本書がこれから先The Complete Guide to Middle-earth等と共に LotR愛読者の座右の書になることは間違いないでしょう。

(後記)
とりあえず中身のほうが気になって、物語本文を参照せずに注釈のみを拾い読みするという蛇道な読み方をしているが、案外それでも読めてしまい、物語を読みながら注釈(場合によっては数ページにもおよぶ)を読んでいたらぜったい物語には没頭できないので、こういう読み方のほうが実は適っているのかもしれない。
注釈の多くは該当するテキストに関係するトールキン自身の考察を書簡集から引用したり、HoMeのLotRメーキングからの引用で、基本的に物語の舞台裏に属する事柄が多く、映画を見ながら監督や評論家のコメンタリーを始終聞かされているのに近い感覚である。物語を初めて読む人はもちろん、作品の舞台裏には興味がないという人には向いていないだろう(作品中の難語の解説や「翻訳の手引き」など、資料的価値は盛りだくさんなので持っていて損はないと思うけれども)。
しかしHoMeのLotRメーキングの巻を愉しんで読めてしまう向きにはまさしく薀蓄の嵐で、LotR刊行以来ここ50年間の指輪学の結晶のような本であり、興味は尽きない本だと思う。私は面白い注釈や新たな発見に付箋紙をはさんでいたのだが、あっという間に付箋紙だらけになってしまった。
2005/11/08のBlog
「西境の先の塔山には、遠い遠い大昔のエルフの塔が三つ、今なお立っているのが望めた。それらははるけく月明に輝いた。
一番高い塔が一番遠くにあり、緑の小山の上にぽつんと一つ立っていた。西四が一の庄のホビットたちによれば、その塔の頂きに立つと海が見えるそうだった。しかしいまだかつてその塔に登ったホビットのあることは知られていない。」

これら三つのエルフの塔はホビット庄からはどんなふうに見えたのだろう。アルゴナスやオルサンクなどのヌメノール風巨大建築物件もかなりインパクトがあるけれど、それらは遠い山並みのはるか向こう側に存在し、ほとんど神話的領域に属しているが、このエルフの塔はホビット庄の生活空間に近いところに立っていて、西境のほうへ遠出をしたときには、丘陵地のてっぺんににょっきりと聳える姿が見えたはずだ。昔千住の辺にあったという「おばけ煙突」ではないけれど、丘の上に立つ三つの塔が夕日を背に長い影を落としていたり、月の光を浴びて浮かび上がっていたりするさまは幻想的かつシュールな光景であったに違いない。

昔の団地に付き物であった給水塔であるとか、高圧電線の鉄塔(q.v.「ジュンと秘密のともだち」)であるとか、塔上の物件というのは独特の存在感で風景にアクセントを加えるものだが、ホビット庄の田園風景と隣接しているこのエルフの塔のイメージが初読以来、頭の片隅に棲みついてしまっている。
(最近は地方へ出かけたおりなど、遠くの山の上に白亜の塔のような面妖な建物が建っているのが見えておやっと思いますが、たいていはどこかの宗教団体の建物だったりしますね)

「不意にかれは、自分がひらけた野原にいることを知りました。木が一本もありません。暗いヒースの野にいたのです。空気は嗅ぎ慣れない潮の匂いがしました。目を上に移したかれは、自分の前に高い白い塔が立っているのを見ました。
それは聳え立った山の背にぽつんと一つ立っていました。かれはその塔に上って海を見たいという強い望みに不意に襲われました。
かれは塔に向かって、山の背を登り始めました。しかしその時突然空を閃光が照らし、雷の音が聞こえました。」

フロドは堀窪の家でこの塔の夢を見る前に西境にあるエルフの塔を遠目からでも眺めたことがあったのだろうか。
HoMEの Making of LotR によれば、フロドの前身であるビンゴは一度だけエルフの塔を見たことがあると証言しているが、この設定がフロドにも当てはまるかどうかははっきりしない。
フロドの夢に出てくる塔は西境のエルフの塔の噂から自分でイメージした夢想の塔であったのかもしれないが、同時にまた一種の予知夢のような、神秘なビジョンが介入しているような雰囲気もある。

「シルマリルの物語」によると、この三つのエルフの塔はギル=ガラドが盟友エレンディルのために建造したものだという。エレンディルは北方王国にあった三つのパランティアのうちの一つを三つの中でいちばん高く海寄りに立つエロスティリオンという名の塔に置き、この石は他のパランティアのように石同士の伝達のためには使えず、ただエレスセアを望見するために用いられた。エレンディルは故国喪失者であることに倦んだとき、この塔に上り、はるか西にあるエルフの島を石の中に覗き見て慰めを得たという。(この西方を見る石の力を "Straight Road"ならぬ "straight sight" と言ってるところが面白い。)

ところでこの石は指輪所持者たちが西方へ渡っていくとき、キアダンがエルロンドに渡して西方へ戻されたという。
石の所有権はアラゴルンにあるはずだのに、どうしてエルロンドが持っていくんだろうと不思議に思ったのだが、エルフの時代の終焉とともに、中つ国に残された西方との最後のパイプラインでもあるパランティアもまた取り除かれねばならないという、そんな上からの指令があったのかもしれない。

なだらかな丘陵地帯の西のほうに立っている三つの塔。そのいちばん高い塔に登ると海が見える。自分も海の見えない内陸に育ったせいもあるのか、内陸性の物語であるLotRの中でたまにその存在を垣間見させる海の描写には妙に心騒がすものがあります。
2005/11/02のBlog
前のブログに書いたポーリン・ベインズ版の地図、部屋のソファの正面の壁にかかっているので、ぼけ~っとしてるときは嫌でも目に入るのだが、
今日たまたまぼーっと眺めていたら、地図の下の欄外にある Goege Allen & Unwin Ltd 1970 の文字が目に入ってきた。
1970年?あら?「ホビットの冒険」の翻訳ってもっと前じゃなかろうか?そう思って調べてみると、ハードカバーの邦訳本が出たのは1965年となっている。
ポーリン・ベインズ版の地図が最初に世に出た年を確認するためにハモンド氏の Tolkien Bibliography で調べてみたところ、この地図が出版されたのは1970年であるのは間違いないようだ。

とすると、前のブログで書いた「寺島氏はゴクリの絵を描くときに、この地図にベインズさんの描いたゴクリを参考にした」という推理は間違っていたことになる。しかし、この半魚人ゴクリ、偶然似ていたと言うにはそっくり過ぎるので、ベインズさんは1965年以前に、この地図以外の場所でもすでにゴクリの絵を描いていて、それを寺島氏が参考にしたのだろうか。
そこでアンダーソン氏の「注釈ホビット」を開いてみると、ベインズさんは1961年に Puffin 版ペーパーバックの装画を描いていたことがわかる。「注釈ホビット」にはこのPuffin 版の装画写真も載っていて、表紙と裏が一続きになった、灰色山脈の峠を越えていく一行の絵を見ることができるのだが、ここにはゴクリの姿は見られない。この版の中にベインズさんが描いたゴクリがあるのだろうか。しかしその可能性も薄そうだ。装画はともかくペーパーバックの中身の挿絵まで新しく描き下ろすというのはちょっと考えにくいし、もし中にオリジナルの挿絵があるなら「注釈ホビット」で紹介されている様々な挿絵の中に一部紹介されているはずだ。
う~ん。
どうにもこれ以上は調べる術もなく、寺島半魚人ゴクリ=ベインズ原型説は棚上げにするしかなくなってしまった。

(そういえばハモンド&スカル夫妻は次のプロジェクトとしてポーリン・ベインズさんに関する本を書く予定だとか。その本が出たらこの謎も解明するかしらん)
2005/11/01のBlog
[ 10:43 ] [ トールキンをめぐる人々 ]
カーペンターとトールキンとの数十年にわたる関わりをアンダーソン氏が追悼文の中で跡付けてくれており、これがなかなか面白い。

カーペンターとトールキンの出会いは氏が10歳ごろにLotRを読んだときに始まった。
彼はLotR刊行から数年後、図書館で三巻本を借り出し、四日のうちに読了した(コリン・ウィルソンは三日で読了したという報告もある)。彼は18歳のときにもう一度読み返し、その再読が”his first real reading of the book" となる。
その3年後、カーペンターはオックスフォードのニューカレッジスクールで生徒たちによる「ホビットの冒険」の舞台上演用の脚本を書くことになった。(この舞台上演のための許可をとるためにトールキンを訪れた体験が伝記冒頭の「訪問」の元になったらしい。)
この「ホビットの冒険」の舞台上演は作品に出てくる詩に曲をつけたミュージカル仕立てで、カーペンターは脚本を書いただけでなく、上演のさい、オーケストラのダブルベースの演奏も担当していた。上演最終日に舞台を見学に来たトールキンは最前列に座り、カーペンターは舞台上から教授の反応を観察していた。

「トールキンはナレーションと台詞が原作に忠実である限り満面の笑みを浮かべていたが、少しでも原作から離れるとしかめっ面をしていた。」

PJ映画を見ているトールキンの表情を想像せずにはおれない。きっと凄い百面相が拝めたことだろうと思う。(つづく)