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2005/08/25のBlog
[ 08:56 ]
[ 女人禁制 ]
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まずはじめに、ブログで「悟り」の論議をするとはと、熱心な仏教徒さまには叱られるかもわかりません。宗教とは関係のない全くの門外漢の戯言と笑っていただき、またご指導を賜れば非常に光栄です。あくまで門外漢の私見ですので、「悟り」とは、人それぞれの「人生」だと思いますので、ご容赦ください。また決してだいそれた「指摘」などでなく、無知な一市民からの「お尋ね」にすぎないことを、あらかじめお断りいたしておきます。
さて、私の活動方針について、かねてから釈迦の教えにある「涅槃」の心に反するのではとの悩みを持っていました。知り合いの禅師様達に尋ねても信仰は理屈じゃないと云われるばかりでした。
ブログでは、『 ★キョンタの森へ行こう♪ 』の禅語に詳しいキョンタ君に「青山元不動」を好きな言葉と書かれていましたので、コメントで尋ねました。しかしキャンプのことも書きましたので、このことにはご指導をいただけませんでした。
今回「大峯山(山上ケ岳)の「女人禁制」と「人間の尊厳」との関わりは?」について、
「飛ばないパンダ:コロコロこころ」様から、ブログのコメントで沢山のご示唆をいただき有り難うございました。
その一つ「涅槃の悟りの心」とはの Q&A の抜粋です。
Q:前のブログで修験道奥駆け修業の山上ケ岳女人禁制について、一市民としての疑問を書いています。
A:女人禁制ですが、西洋でも同じような風習があり調べたことがあります。
どうも、女性の月のもの→不浄→汚れる・・・という発想のようですが、
イスラム世界だったかどこだったかに、男子禁制の場所があったり、様々です。
Q:宗教的な戒律の問題は、伝統もあるでしょうし、当事者の自覚が必要だと思います。聞くところによると女性の修験者もおられる由、役行者の感得された最高聖地を見ずして中途半端な?修験で良しとされる心理もわかりません。習慣だと諦められている?
A:高野山に女人高野というものもありますし、自覚といったものではなく、そのプロセスで何を悟り何を得るかといった、もっと精神世界によるものではないでしょうか?
早い話が性差別ではなく、修行者の気が散ることを避けることから始まったのではないかと、私は思います(笑)
そうではないと、昔は今以上に女性の力が強かったと聞きますので、不浄だから駄目というのであれば、民衆は納得しなかっただろうと推察します。
Q:なるほど、女性の力が強かったから、修業の気が散るのを防いだ。神代の天の岩戸伝説では、たしかに女の方が強いですね。
非日常生の環境構築維持のために有効との論点が出されています。
それなら四半期に分けて、交代に修験期間を設けられてはとも思いますが、素人考えだと怒られますね。(笑い)
A:四半期に分けて、交代に修験期間・・・って無理じゃあないですか?
千日回峰のように、長期間とか一生をかけての修行ですから。
ある僧侶が「色情因縁を取り去ると人間じゃなくなる」といっていたぐらい難しいものだけに、修行に没頭できる環境作りをしたのが『女人禁制』だと思います。
Q:そうなのですか。また四国巡礼講(雑誌で見るくらいで、これもよく知りません)のように、講元が人集めされて信仰登山をされるぐらいに思っていました。
全くの不勉強で申し訳ありません。そうなると自己のための信仰修験が本来の姿、その信仰者にとって、世人の救済とは、どういう意味を持つのでしょうか。
A:どうなんでしょうね、だんだんと難しくなりますね。
浄土系の大衆仏教と、真言・天台等の密教との違いだと思います。
信仰者の数とか地域を拡大することに力を入れている宗派と、悟りというか自己完結してから教えを説くという宗派の方法論の違いではないでしょうか?
私は大学で仏教学序説は履修させられましたが、35年も前のことであまり覚えてません。
Q:中3の担任恩師(故人)が歴史の先生でしたが、その先生に手伝えと云われて「綾部の文化財」に引き込まれました。ところがこちらは経済人、歴史は好きでしたが全くの門外漢です。むしろ「まちづくり」論で資料館建設促進の組織づくりのお手伝い。現在もHPづくりのお手伝いです。そんな関係で、地元の住職様、宮司様は大体知っていますので尋ねると良いのですが、宗教って理屈じゃないんだって答えが返ってくるのが常です。
私の方針は「恐いから、判らないから、難しいから、面白い。」ですが、仏様の「涅槃の心」の正反対のようで、「涅槃」についても教えて貰えません。
A:「涅槃の心」ですか・・・。
大学出てから30年以上経ってますし、感覚的には理解してても、文章化するには無理がありますね。記憶を辿る時間をいただけるのなら、自分なりに取り組んでみますが、お急ぎなら図書館で『仏教学』関係の本を探してみて下さい。
Q::「涅槃の心」表面的な意味は大抵の解説書にありますね。釈迦の3大教えの一つ、最後の悟りの結論ですね。ところがその表面的な解釈ではただの逃げ、事を起こすな、長いものには巻かれろにしかならず、そんな教えではないと思うのですが・・、最後の悟りの境地が「涅槃」なら、そこに落ち着くまでの諸行無常なりにドロドロの足掻きがあると思うのですが・・どうなのでしょうか。
A:「涅槃の心」って、その辺りの解釈のことですか?
全ての人間的な思考思案を通り越して、その先にある『静』だとか『無』の境地を示した言葉だと思います。
有ると思えば有る、無いと思えば無い・・・という境地が「涅槃の心」だと思います。
で、そこに落ち着くまでの諸行無常なりにドロドロの足掻き・・・ですが、私自身がそこまで至っていないので分らない部分ですが、その涅槃の境地になるように修行するのに、色々なプロセス・方法があり、煩悩の最大の難問である色情因縁を断ち切るための「女人禁制」だと思います。
自分で文章を作っていながら、だんだんと分らなくなってきました(笑)
Q:大分迷いから抜けられた感じです。「涅槃」は「色即是空 空即是色」の境地ですね。
私の「恐いから、判らないから、難しいから、面白い。」は、事なかれ主義、安きに流れる心への自戒です。ミニ冒険派ですが、安全を見切ったなかでのことで楽しもうと云うものです。怪我や事故騒ぎを起こして他人に救援を求め、人に迷惑をかけない中での遊びです。宝探し的要素、達成感などもあり、釈迦の「涅槃の心」をよそにして止められません。お笑いください。
「色即是空 空即是色」には、私の名前にまつわる青春時代の「トラウマ」的な(笑い)因縁があるのです。泣き虫余話(私の名前)もう前に退会した組織での話題集の中の一話です。ご笑覧ください。
A:前略・・現在は天理教で若い方々のお世話をさせて頂いておりますので、仏教とは段々と疎遠になってきています。
ただ最近感じるのは、何教にしても、行き着く先は同じ境地になれるのではないかなぁ・・・と思えてきました。
無駄に年を取って、老化しているだけかもしれませんが・・??
Q:人それぞれに信仰の方法は多様だと書かれ、「女人禁制」は「涅槃の悟り」に専念する環境だということですね。
・悟りは、非日常の中でしか得られない。
・悟りには、日常性は関係がない。童子でも悟れる。
・悟りの公題(と云うのですか)も日常性との連続は必要がない。
ということになりそうですね。
私は、日常活動を行うこと自体が、手段でもあり目的に近づく活力だと思うのですが、日常から完全に遊離した修業に、どんな評価をするべきか判りません。
確かに開祖と伝えられる方々の「悟り」には、大変なドラマがありますね。
一市民の預かり知らぬ信仰の聖域を、尋ねること自体に無理がありそうです。
A:>悟りは、非日常の中でしか得られない…は、仏教では「死後の世界=極楽浄土」という教えがあり、まだ見ぬ世界への憧れともいうか、そのために邪念を払い無我の境地になり易い環境整備のために「女人禁制」という手段をとったのではないかと思われます。
しかし、「この現世こそが極楽」と言われたら、悟りを得るための修行の方法も大きく違ってきたのではないでしょうか?
そもそも「悟り」の存在さえ無用になり、「現世でどう考えどう生きるか」だけが人生のメーンテーマになります。
>日常から完全に遊離した修業…というものが、不必要と思わざるを得なくなりました。
この考えを知ってから真言の行から離れ、天理教に大きく深く傾倒して行くことになりました。
それに、どの寺社仏閣に行っても不浄霊しか見えなかったのが、天理教本部神殿で親神様のお姿を拝したことも、傾倒の一要因になったことも事実ですが…。
Sub:「知的なターザン:アクティブシニア」様
3ヶ月の修行頑張ってください。何よりのトレ-ニングですね。
夜遊びもなしの筋トレ?失礼。精神トレですね。
私も地元に大本大道場があり5日間トレ(亀岡・綾部)ですが、行きたくても時間の余裕がなく参加できていません。もち信者でなくても参加可能。貴殿は信者さん?
Q:たった5日間の亀岡・綾部の修行道場ですが、心の洗濯と王仁三郎聖師の悟りの場を拝観したいと思ってるのですが、その余裕もない駄目人間です。
聖師:出口王仁三郎
≪高熊山での修行≫明治31年(1898)旧2月、郷里の霊山・高熊山にて1週間の霊的修行を行う。霊界の秘奥をきわめ、天眼通、天耳通、天言通、宿命通、自他心通などの高度な霊能力を体得。救世の大使命を自覚。
大本大道場長日記の(ようこそ、まさとんち:出口真人師)には、綾部でお出あいし霊界の話などを伺いました。
大本聖地の弥仙山のことなどもあり、コメントでは収まりませんのでブログ記事にしたいと思います。
A:3ケ月の修行(実際は修行ではない)ですが、人間の意志によってだけその生活に入られる方はごく僅かで、多くの方は『突然』道が開けるもので(私の場合もそうでした)、思い念じていてもなかなか修養生活には入れません。
その期間が3ヶ月であれ5日間であれ、同じことが言えると考えます。
駄目人間と決め付けるのではなく、また、思い切りがつかないという人間の意志ではなく、まだ機は熟していないのだと考えられるほうがいいのではないのでしょうか?
Q:>まだ機は熟していないのだと・・
なるほど、そういう運命論で考えても良いわけですね。
「恐いから・・・面白い」主義は、逆に常に仕掛け人たろうとしてしまうのです。そこらを「涅槃」の教えの反逆者だと感じるわけなんです。
A:人生はすべて選択できるように錯覚をするのが人間の性ですが、実はビックバンの時から、あるいはそれ以前から、すべて決まっているように感じてきました。
その分岐点に思える箇所で、どう思案しどのような心遣いで定めの道を歩んでいくか?…ということではないでしょうか?
その思案が『涅槃の心』でするのか、『邪気の心』でするのかで、こみ上げてくる喜びとか嬉しさの強弱が大きくかわるように思います。
生きている=当たり前:生かされている=感謝…ということになりませんか?
Q: 物事決定の動機が、善意でするか、悪意から行うかは大切なことですね。常に「生かされている」という「感謝の心」も大切ですね。
以下、省略します。
まずはじめに、ブログで「悟り」の論議をするとはと、熱心な仏教徒さまには叱られるかもわかりません。宗教とは関係のない全くの門外漢の戯言と笑っていただき、またご指導を賜れば非常に光栄です。あくまで門外漢の私見ですので、「悟り」とは、人それぞれの「人生」だと思いますので、ご容赦ください。また決してだいそれた「指摘」などでなく、無知な一市民からの「お尋ね」にすぎないことを、あらかじめお断りいたしておきます。
さて、私の活動方針について、かねてから釈迦の教えにある「涅槃」の心に反するのではとの悩みを持っていました。知り合いの禅師様達に尋ねても信仰は理屈じゃないと云われるばかりでした。
ブログでは、『 ★キョンタの森へ行こう♪ 』の禅語に詳しいキョンタ君に「青山元不動」を好きな言葉と書かれていましたので、コメントで尋ねました。しかしキャンプのことも書きましたので、このことにはご指導をいただけませんでした。
今回「大峯山(山上ケ岳)の「女人禁制」と「人間の尊厳」との関わりは?」について、
「飛ばないパンダ:コロコロこころ」様から、ブログのコメントで沢山のご示唆をいただき有り難うございました。
その一つ「涅槃の悟りの心」とはの Q&A の抜粋です。
Q:前のブログで修験道奥駆け修業の山上ケ岳女人禁制について、一市民としての疑問を書いています。
A:女人禁制ですが、西洋でも同じような風習があり調べたことがあります。
どうも、女性の月のもの→不浄→汚れる・・・という発想のようですが、
イスラム世界だったかどこだったかに、男子禁制の場所があったり、様々です。
Q:宗教的な戒律の問題は、伝統もあるでしょうし、当事者の自覚が必要だと思います。聞くところによると女性の修験者もおられる由、役行者の感得された最高聖地を見ずして中途半端な?修験で良しとされる心理もわかりません。習慣だと諦められている?
A:高野山に女人高野というものもありますし、自覚といったものではなく、そのプロセスで何を悟り何を得るかといった、もっと精神世界によるものではないでしょうか?
早い話が性差別ではなく、修行者の気が散ることを避けることから始まったのではないかと、私は思います(笑)
そうではないと、昔は今以上に女性の力が強かったと聞きますので、不浄だから駄目というのであれば、民衆は納得しなかっただろうと推察します。
Q:なるほど、女性の力が強かったから、修業の気が散るのを防いだ。神代の天の岩戸伝説では、たしかに女の方が強いですね。
非日常生の環境構築維持のために有効との論点が出されています。
それなら四半期に分けて、交代に修験期間を設けられてはとも思いますが、素人考えだと怒られますね。(笑い)
A:四半期に分けて、交代に修験期間・・・って無理じゃあないですか?
千日回峰のように、長期間とか一生をかけての修行ですから。
ある僧侶が「色情因縁を取り去ると人間じゃなくなる」といっていたぐらい難しいものだけに、修行に没頭できる環境作りをしたのが『女人禁制』だと思います。
Q:そうなのですか。また四国巡礼講(雑誌で見るくらいで、これもよく知りません)のように、講元が人集めされて信仰登山をされるぐらいに思っていました。
全くの不勉強で申し訳ありません。そうなると自己のための信仰修験が本来の姿、その信仰者にとって、世人の救済とは、どういう意味を持つのでしょうか。
A:どうなんでしょうね、だんだんと難しくなりますね。
浄土系の大衆仏教と、真言・天台等の密教との違いだと思います。
信仰者の数とか地域を拡大することに力を入れている宗派と、悟りというか自己完結してから教えを説くという宗派の方法論の違いではないでしょうか?
私は大学で仏教学序説は履修させられましたが、35年も前のことであまり覚えてません。
Q:中3の担任恩師(故人)が歴史の先生でしたが、その先生に手伝えと云われて「綾部の文化財」に引き込まれました。ところがこちらは経済人、歴史は好きでしたが全くの門外漢です。むしろ「まちづくり」論で資料館建設促進の組織づくりのお手伝い。現在もHPづくりのお手伝いです。そんな関係で、地元の住職様、宮司様は大体知っていますので尋ねると良いのですが、宗教って理屈じゃないんだって答えが返ってくるのが常です。
私の方針は「恐いから、判らないから、難しいから、面白い。」ですが、仏様の「涅槃の心」の正反対のようで、「涅槃」についても教えて貰えません。
A:「涅槃の心」ですか・・・。
大学出てから30年以上経ってますし、感覚的には理解してても、文章化するには無理がありますね。記憶を辿る時間をいただけるのなら、自分なりに取り組んでみますが、お急ぎなら図書館で『仏教学』関係の本を探してみて下さい。
Q::「涅槃の心」表面的な意味は大抵の解説書にありますね。釈迦の3大教えの一つ、最後の悟りの結論ですね。ところがその表面的な解釈ではただの逃げ、事を起こすな、長いものには巻かれろにしかならず、そんな教えではないと思うのですが・・、最後の悟りの境地が「涅槃」なら、そこに落ち着くまでの諸行無常なりにドロドロの足掻きがあると思うのですが・・どうなのでしょうか。
A:「涅槃の心」って、その辺りの解釈のことですか?
全ての人間的な思考思案を通り越して、その先にある『静』だとか『無』の境地を示した言葉だと思います。
有ると思えば有る、無いと思えば無い・・・という境地が「涅槃の心」だと思います。
で、そこに落ち着くまでの諸行無常なりにドロドロの足掻き・・・ですが、私自身がそこまで至っていないので分らない部分ですが、その涅槃の境地になるように修行するのに、色々なプロセス・方法があり、煩悩の最大の難問である色情因縁を断ち切るための「女人禁制」だと思います。
自分で文章を作っていながら、だんだんと分らなくなってきました(笑)
Q:大分迷いから抜けられた感じです。「涅槃」は「色即是空 空即是色」の境地ですね。
私の「恐いから、判らないから、難しいから、面白い。」は、事なかれ主義、安きに流れる心への自戒です。ミニ冒険派ですが、安全を見切ったなかでのことで楽しもうと云うものです。怪我や事故騒ぎを起こして他人に救援を求め、人に迷惑をかけない中での遊びです。宝探し的要素、達成感などもあり、釈迦の「涅槃の心」をよそにして止められません。お笑いください。
「色即是空 空即是色」には、私の名前にまつわる青春時代の「トラウマ」的な(笑い)因縁があるのです。泣き虫余話(私の名前)もう前に退会した組織での話題集の中の一話です。ご笑覧ください。
A:前略・・現在は天理教で若い方々のお世話をさせて頂いておりますので、仏教とは段々と疎遠になってきています。
ただ最近感じるのは、何教にしても、行き着く先は同じ境地になれるのではないかなぁ・・・と思えてきました。
無駄に年を取って、老化しているだけかもしれませんが・・??
Q:人それぞれに信仰の方法は多様だと書かれ、「女人禁制」は「涅槃の悟り」に専念する環境だということですね。
・悟りは、非日常の中でしか得られない。
・悟りには、日常性は関係がない。童子でも悟れる。
・悟りの公題(と云うのですか)も日常性との連続は必要がない。
ということになりそうですね。
私は、日常活動を行うこと自体が、手段でもあり目的に近づく活力だと思うのですが、日常から完全に遊離した修業に、どんな評価をするべきか判りません。
確かに開祖と伝えられる方々の「悟り」には、大変なドラマがありますね。
一市民の預かり知らぬ信仰の聖域を、尋ねること自体に無理がありそうです。
A:>悟りは、非日常の中でしか得られない…は、仏教では「死後の世界=極楽浄土」という教えがあり、まだ見ぬ世界への憧れともいうか、そのために邪念を払い無我の境地になり易い環境整備のために「女人禁制」という手段をとったのではないかと思われます。
しかし、「この現世こそが極楽」と言われたら、悟りを得るための修行の方法も大きく違ってきたのではないでしょうか?
そもそも「悟り」の存在さえ無用になり、「現世でどう考えどう生きるか」だけが人生のメーンテーマになります。
>日常から完全に遊離した修業…というものが、不必要と思わざるを得なくなりました。
この考えを知ってから真言の行から離れ、天理教に大きく深く傾倒して行くことになりました。
それに、どの寺社仏閣に行っても不浄霊しか見えなかったのが、天理教本部神殿で親神様のお姿を拝したことも、傾倒の一要因になったことも事実ですが…。
Sub:「知的なターザン:アクティブシニア」様
3ヶ月の修行頑張ってください。何よりのトレ-ニングですね。
夜遊びもなしの筋トレ?失礼。精神トレですね。
私も地元に大本大道場があり5日間トレ(亀岡・綾部)ですが、行きたくても時間の余裕がなく参加できていません。もち信者でなくても参加可能。貴殿は信者さん?
Q:たった5日間の亀岡・綾部の修行道場ですが、心の洗濯と王仁三郎聖師の悟りの場を拝観したいと思ってるのですが、その余裕もない駄目人間です。
聖師:出口王仁三郎
≪高熊山での修行≫明治31年(1898)旧2月、郷里の霊山・高熊山にて1週間の霊的修行を行う。霊界の秘奥をきわめ、天眼通、天耳通、天言通、宿命通、自他心通などの高度な霊能力を体得。救世の大使命を自覚。
大本大道場長日記の(ようこそ、まさとんち:出口真人師)には、綾部でお出あいし霊界の話などを伺いました。
大本聖地の弥仙山のことなどもあり、コメントでは収まりませんのでブログ記事にしたいと思います。
A:3ケ月の修行(実際は修行ではない)ですが、人間の意志によってだけその生活に入られる方はごく僅かで、多くの方は『突然』道が開けるもので(私の場合もそうでした)、思い念じていてもなかなか修養生活には入れません。
その期間が3ヶ月であれ5日間であれ、同じことが言えると考えます。
駄目人間と決め付けるのではなく、また、思い切りがつかないという人間の意志ではなく、まだ機は熟していないのだと考えられるほうがいいのではないのでしょうか?
Q:>まだ機は熟していないのだと・・
なるほど、そういう運命論で考えても良いわけですね。
「恐いから・・・面白い」主義は、逆に常に仕掛け人たろうとしてしまうのです。そこらを「涅槃」の教えの反逆者だと感じるわけなんです。
A:人生はすべて選択できるように錯覚をするのが人間の性ですが、実はビックバンの時から、あるいはそれ以前から、すべて決まっているように感じてきました。
その分岐点に思える箇所で、どう思案しどのような心遣いで定めの道を歩んでいくか?…ということではないでしょうか?
その思案が『涅槃の心』でするのか、『邪気の心』でするのかで、こみ上げてくる喜びとか嬉しさの強弱が大きくかわるように思います。
生きている=当たり前:生かされている=感謝…ということになりませんか?
Q: 物事決定の動機が、善意でするか、悪意から行うかは大切なことですね。常に「生かされている」という「感謝の心」も大切ですね。
以下、省略します。
2005/08/24のBlog
[ 11:20 ]
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「恐いから、判らないから、難しいから、面白い。」
上記は私自身の活動方針です。三歳の時に慢性中耳炎にかかり、大阪心斎橋の牟田病院に入院、当時はペニシリンなどなく不治の病となりました。小学3年生の時に綾部に疎開してきて、耳が悪く、腺病質で病気がちで、背も前から3番目と低く、泣きべそで、恥ずかしがり屋で・・人に話しかけられると「なに」としか返事できず、(低脳児)と疑われて(特殊学級)に入れられていました。注:今はこの(言葉)は使われません。劣等感の固まりのような、そんな自分でしたが、高校生位から背丈が伸び始め何とか健康になりました。福井で学卒後、富山で社会人になり、綾部に連れ戻され結婚。人口4万足らずの地方小都市のこととて否応なしに「まちづくり」の活動組織の一員になり、出会う同級生からは「あのおとなしい人が」と云われながら、皆様に助けられて役目をこなしました。
もう退会しましたが、RCの会長を務めるに当たり、自分自身の活動方針としたのが、表記です。事なかれ主義、安きにつく、長い物に巻かれろ、消極的、恥ずかしがり・・を戒め、自分から仕掛け人として行動を起こす気持ちを込めたものです。
内容は読んで字のごとく単純なことです。スキーで北の壁の上に立ち下を覗き込むと絶壁で足がすくみますが、斜面に入ってしまえばどうってことはありません。コブコブ斜面を上級者のように滑る足技はありませんが、危険を見切ってしまえば、これほど面白いものはありません。怪我して人に迷惑を掛けるならやりませんが、そこは自分の限界の中で楽しめます。里山散策(藪こぎ)にしても、目指す山頂に立てるのか、どこに行き着くのか判らない、ミニ冒険的な面白さがあります。パソコン技術でも未知の謎解き要素があれば、出来たときの達成感が得られます。独学でプログラムを組む努力をしたときに、判らないままに色々とやり、がむしゃらに不確実な情報量が増えたある時点で、壁の向こう側に到着していることを知った喜びは、その技術が自分のものになったという喜びでした。 つづく
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2005/08/23のBlog
[ 20:31 ]
[ 福祉 ]
テーマ「福祉のまちって、どんなまち?」
★進 行:桂 三扇(かつらさんせん)
●本名 山中久美子
昭和45年生まれ。福知山市出身。大学在学中、枝三枝に入門。上方落語では、露の都(露の五郎門下)、桂あやめ(桂文枝門下)に次ぐ、3人目の女流落語家。ママさん落語家として活躍中。趣味は三味線、特技は南京玉すだれ・バルーンマジックなど。落語以外にもイベントの司会・講演会など様々な活動を展開中。「FMいかる」のパーソナリティとしても活躍中。
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昭和45年生まれ。福知山市出身。大学在学中、枝三枝に入門。上方落語では、露の都(露の五郎門下)、桂あやめ(桂文枝門下)に次ぐ、3人目の女流落語家。ママさん落語家として活躍中。趣味は三味線、特技は南京玉すだれ・バルーンマジックなど。落語以外にもイベントの司会・講演会など様々な活動を展開中。「FMいかる」のパーソナリティとしても活躍中。
★参加者の紹介
NAさん:綾部小6年、将来の夢は「医者・学校の先生・スタイリスト・プロデューサー」)
UYさん:綾部小6年、将来の夢は「警察官」
SRさん:中筋小6年、将来の夢は「郵便局員」
SRさん:中筋小6年、将来の夢は「お笑い芸人」
SKさん:吉美小6年、将来の夢は「声優」
IYさん:吉美小6年、将来の夢は「獣医」
SAさん:西八田小6年、好きな動物は「ぶた」
MJさん:西八田小6年、将来の夢は「プロ野球選手」
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UMさん:豊里小6年、将来の夢は「看護師・介護師」
ORさん:豊里小6年、好きな食べ物は「カレーと焼肉」
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KYさん:志賀小6年、好きな食べ物は「チーズケー牛」
KNさん:上林小6年、将来の夢は「看護師」
KYさん:上林小6年、将来の夢は「ガソリンスタンドの店員」
さあ、楽しい教室をお楽しみください。
KSさん:物部小6年、将来の夢は「医者・自分の会社をつくる」
OHさん:志賀小6年、将来の夢は「パティシエ」
KYさん:志賀小6年、好きな食べ物は「チーズケー牛」
KNさん:上林小6年、将来の夢は「看護師」
KYさん:上林小6年、将来の夢は「ガソリンスタンドの店員」
さあ、楽しい教室をお楽しみください。
[ 19:53 ]
[ 福祉 ]
同じく挨拶される、福山保孝綾部市社会福祉協議会会長
決議文
近年の急速な少子・高齢化、核家族化の進展に伴う人口構成や地域社会の変化など、市民の生活や福祉を取り巻く環境は大きく変化しており、福祉ニーズは増大・多様化しています。また、社会福祉の基礎構造改革により、従来の措置からサービスを自ら選択できる利用者本意の社会福祉制度の確立へと大きな変革が図られました。
このような中、平成15年度には綾部市社会福祉協議会において、“ふだんのくらしをしあわせに みんなでつくる おたがいさんのまち綾部”を目指した「綾部市地域福祉活動計画」が、平成16年度には、綾部市において、“みんなで築こう新しい向こう三軒両隣”を目指した「綾部市地域福祉計画」が策定されました。
全ての人々が将来に希望を持ち、住み慣れた地域や家庭で安心して生活できる地域社会づくりを進めていくためには、市民の主体的な参加とともに、行政、社会福祉協議会、社会福祉団体、民生委員・児童委員、ボランティアなど様々な関係機関や団体が相互の連携を深め、互いに協力していくことがますます重要になっています。
私達は、この大会を契機に、改めて日頃の活動と二つの計画の重要性を認識し、市民、社会福祉関係者、行政が共に力を合わせて市民一人一人がいきいきと暮らせる地域社会の実現を目指して努力していくことを決議します。
平成17年8月23日
第33回綾部市社会福祉大会
決議文
近年の急速な少子・高齢化、核家族化の進展に伴う人口構成や地域社会の変化など、市民の生活や福祉を取り巻く環境は大きく変化しており、福祉ニーズは増大・多様化しています。また、社会福祉の基礎構造改革により、従来の措置からサービスを自ら選択できる利用者本意の社会福祉制度の確立へと大きな変革が図られました。
このような中、平成15年度には綾部市社会福祉協議会において、“ふだんのくらしをしあわせに みんなでつくる おたがいさんのまち綾部”を目指した「綾部市地域福祉活動計画」が、平成16年度には、綾部市において、“みんなで築こう新しい向こう三軒両隣”を目指した「綾部市地域福祉計画」が策定されました。
全ての人々が将来に希望を持ち、住み慣れた地域や家庭で安心して生活できる地域社会づくりを進めていくためには、市民の主体的な参加とともに、行政、社会福祉協議会、社会福祉団体、民生委員・児童委員、ボランティアなど様々な関係機関や団体が相互の連携を深め、互いに協力していくことがますます重要になっています。
私達は、この大会を契機に、改めて日頃の活動と二つの計画の重要性を認識し、市民、社会福祉関係者、行政が共に力を合わせて市民一人一人がいきいきと暮らせる地域社会の実現を目指して努力していくことを決議します。
平成17年8月23日
第33回綾部市社会福祉大会
2005/08/22のBlog
[ 19:41 ]
[ 山野草・滝(ふじもと様投稿) ]
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「キツネノカミソリ」です。今回は舞鶴~大江にかけて由良川右岸の路肩のあちこちに
今咲いています。
ふじもと様、季節の花、有り難うございました。「ヒガンバナ属・ヒガンバナ科」の花だそうですね。
「キツネノカミソリ」です。今回は舞鶴~大江にかけて由良川右岸の路肩のあちこちに
今咲いています。
ふじもと様、季節の花、有り難うございました。「ヒガンバナ属・ヒガンバナ科」の花だそうですね。
2005/08/21のBlog
[ 12:00 ]
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[ 11:45 ]
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京都市歴史資料館テーマ展
城郭と寺社 ・ 大工頭中井家の絵図から・・・・・前ブログにつづいて四方續夫事務局長提供資料からのOCR収録です。解説のかなりの部分を省略しました。
■中井家絵図について
大工頭中井家は江戸幕府の旗本で、代々京都に居住した。現上京区寺町通丸大町上る・同志社新島会館敷地がその旧地である。
中井家はもともと法隆寺(奈良県)の宮大工の家であるが、旗本初代大和守正清(1565~1619)が五畿内・近江の大工等支配を命じられた時以来、徳川家の大工として重要な建築工事にたずさわってきた。とくに初代正清は徳川家康の絶大な信頼を受け、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城、増上寺、大仏殿方広寺、久能山東照宮、日光東照宮などの大工事を担当した。
中井家では業務の必要に応じさまざまな図面が作成された。それらの絵図類は、現在宮内庁(書陵部)、京都大学(附属図書館)、京都府立総合資料館に分蔵されている。今回展示した絵図類は中井家に伝えられたもので、京都市歴史資料館に寄託されている581点の一部である。
京都市歴史資料館寄託絵図頼については、大阪市立大学の谷直樹氏により総合調査が行われ、その成果は、谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』(2003年思文閣出版刊)として刊行された。詳細は同書に譲るが、中井家絵図は建築史だけではなく、歴史学の貴重な資料でもある。とくに二条城、知恩院などの城郭や寺社の指図(平面図)や立地割図(断面図)や鳥瞰図は、京都の歴史にとっても重要であることはいうまでもない。
今回の展示では、中井家絵図の中から、城郭絵図と寺社絵図を選んで展示した。とくに二条城とその周囲の図をまとめて展示した。
■解説
1.水口城御指図
水口(現滋賀県甲賀郡)は、東海道に而して位置する城下町である。水口城は、寛永十一年(1634)の三代将軍家光の上洛に際し、宿泊用の施設として造営された。寛文十年(1670)の年紀があるこの図面からは、堀で囲まれた本丸と、その西北部に位置する二の丸で構成されており、天守は設けられていなかったことが分かる。
京都市歴史資料館テーマ展
城郭と寺社 ・ 大工頭中井家の絵図から・・・・・前ブログにつづいて四方續夫事務局長提供資料からのOCR収録です。解説のかなりの部分を省略しました。
■中井家絵図について
大工頭中井家は江戸幕府の旗本で、代々京都に居住した。現上京区寺町通丸大町上る・同志社新島会館敷地がその旧地である。
中井家はもともと法隆寺(奈良県)の宮大工の家であるが、旗本初代大和守正清(1565~1619)が五畿内・近江の大工等支配を命じられた時以来、徳川家の大工として重要な建築工事にたずさわってきた。とくに初代正清は徳川家康の絶大な信頼を受け、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城、増上寺、大仏殿方広寺、久能山東照宮、日光東照宮などの大工事を担当した。
中井家では業務の必要に応じさまざまな図面が作成された。それらの絵図類は、現在宮内庁(書陵部)、京都大学(附属図書館)、京都府立総合資料館に分蔵されている。今回展示した絵図類は中井家に伝えられたもので、京都市歴史資料館に寄託されている581点の一部である。
京都市歴史資料館寄託絵図頼については、大阪市立大学の谷直樹氏により総合調査が行われ、その成果は、谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』(2003年思文閣出版刊)として刊行された。詳細は同書に譲るが、中井家絵図は建築史だけではなく、歴史学の貴重な資料でもある。とくに二条城、知恩院などの城郭や寺社の指図(平面図)や立地割図(断面図)や鳥瞰図は、京都の歴史にとっても重要であることはいうまでもない。
今回の展示では、中井家絵図の中から、城郭絵図と寺社絵図を選んで展示した。とくに二条城とその周囲の図をまとめて展示した。
■解説
1.水口城御指図
水口(現滋賀県甲賀郡)は、東海道に而して位置する城下町である。水口城は、寛永十一年(1634)の三代将軍家光の上洛に際し、宿泊用の施設として造営された。寛文十年(1670)の年紀があるこの図面からは、堀で囲まれた本丸と、その西北部に位置する二の丸で構成されており、天守は設けられていなかったことが分かる。
2.豊臣時代大坂城指図
天正十一年(1583))に豊臣秀吉が築いた大坂城は難攻不落を誇ったが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で落城した。徳川氏による再建は、豊臣氏の大坂城にかぶせるように築かれ、城は大きく姿を変えた。この図は豊臣時代の大坂城の姿を伝える貴重な指図である。昭和34(1959)の調査で発見された石垣が本図の記載内容と一致したため、内容の信頼性が高まり注目を巣めた。
3.行幸御殿井古御建物御取解不相成以前二条御城中絵図 解説を省略
4.御城之図(二条城) 解説を省略
5.二条御城惣御指図 解説を省略
6.御本丸之図 解説を省略
7.二条御城御本丸地坪数絵図
8.二条御城二之御丸地坪数絵図
9.二条御城外曲輪地坪数絵図
三点とも享保十三年(1728)八月に作られた指図で、本丸・二の丸・外曲輪の敷地の形状と規模などを示している。本丸は約五千五坪、周囲の塀四千八百七十七坪などを加えると、総敷地は約一万五十二坪(約三万四千平米)。二の丸は総敷地九千六百三十三坪、外曲輪(御城外御撰)は約四万四千三百七十八坪(約百四万六万四千平米)という広大な規模である。
10.二条御城内御預り所絵図 解説を省略
天正十一年(1583))に豊臣秀吉が築いた大坂城は難攻不落を誇ったが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で落城した。徳川氏による再建は、豊臣氏の大坂城にかぶせるように築かれ、城は大きく姿を変えた。この図は豊臣時代の大坂城の姿を伝える貴重な指図である。昭和34(1959)の調査で発見された石垣が本図の記載内容と一致したため、内容の信頼性が高まり注目を巣めた。
3.行幸御殿井古御建物御取解不相成以前二条御城中絵図 解説を省略
4.御城之図(二条城) 解説を省略
5.二条御城惣御指図 解説を省略
6.御本丸之図 解説を省略
7.二条御城御本丸地坪数絵図
8.二条御城二之御丸地坪数絵図
9.二条御城外曲輪地坪数絵図
三点とも享保十三年(1728)八月に作られた指図で、本丸・二の丸・外曲輪の敷地の形状と規模などを示している。本丸は約五千五坪、周囲の塀四千八百七十七坪などを加えると、総敷地は約一万五十二坪(約三万四千平米)。二の丸は総敷地九千六百三十三坪、外曲輪(御城外御撰)は約四万四千三百七十八坪(約百四万六万四千平米)という広大な規模である。
10.二条御城内御預り所絵図 解説を省略
11.二条御城御天守
寛永三年(1626)の後水尾天皇行幸以前に完成した五層の天守の軸組図で南妻面を示す。この天守は寛延三年(1750)の落雷で焼失した。
12.御城内御本丸二之御丸御殿向絵図 解説を省略
13.二条御城中二之御丸御庭蘇鉄有所之図
14.二条御城中二之御丸御庭蘇鉄之図 以上の解説を省略
15.東大御番頭小屋絵図 解説を省略
16.西大御番頭小屋絵図 解説を省略
17.二条御城内東御番衆小屋絵図拍
18.二条御城内東御番頭小屋井与力同心小屋絵回拍
19.二条御城内西御番頭小屋絵図拍
20.二条御城内西御番衆小屋井同心小屋絵図拍 以上の解説を省略
21.二条御城廻り御役屋鋪絵図
22.二条御城廻り絵図
23.二条御城廻絵図
24.二条御城廻絵図 以上の解説を省略
25.所司代屋敷絵図 解説を省略
26.御所司上屋鋪表座敷之図 解説を省略
27.御評定所図(京都所司代)
京都市中の裁判は、町奉行の管轄であったが、正徳四年(1714)に水野和泉守が所司代に就任すると、邸内に評定所を新設し、町奉行では手に負えない訴訟をそこで裁断することになった。評定所は、享保二年(1717)に水野から松平伊賀守に所司代が交代すると取り壊された。
28.東御役屋敷絵図(京都町奉行所)
29.西御役屋敷絵図(京都町奉行所)
東西の町奉行の役宅図。奉行の邸宅と具に敷地の大半を占めているのが奉行所(役所)である。そこには、公事方、勘定方、証文方などの与力・同心が勤務する事務所や、白州、公事入居所(訴訟をする人の待合室)などの裁判施設などが配置されている。他にも馬場や池、稲荷社までも備えた広大な敷地は、東町奉行が約5327坪、西町奉行が約3886坪であった。
30.牢屋敷絵図
これは六角牢屋敷(正式には三条新地牢屋敷)として知られる牢屋敷でニ条城の南、六角通大宮西入に位置した。天明8年(1788)の年記があり、天明8年の京都大火焼失後の復興に関連して作成されたと考えられる。牢屋敷の管理は町奉行配下の雑色がおこなっていた。
31.守護職上屋鋪絵図 解説を省略
32.伏見古御城絵図 解説を省略
33.山州淀御城御天守木口指図 解説を省略
34.江戸御天守
35.江戸御天守
江戸城天守の軸組図。最初の天守は慶長十二年(1607)に完成したが、その後も元和・寛氷期に改築された。本図は元和期の改築のものであると考えられる。江戸城天守は、明暦三年(1657)に焼失後、再建されることはなかった。
寛永三年(1626)の後水尾天皇行幸以前に完成した五層の天守の軸組図で南妻面を示す。この天守は寛延三年(1750)の落雷で焼失した。
12.御城内御本丸二之御丸御殿向絵図 解説を省略
13.二条御城中二之御丸御庭蘇鉄有所之図
14.二条御城中二之御丸御庭蘇鉄之図 以上の解説を省略
15.東大御番頭小屋絵図 解説を省略
16.西大御番頭小屋絵図 解説を省略
17.二条御城内東御番衆小屋絵図拍
18.二条御城内東御番頭小屋井与力同心小屋絵回拍
19.二条御城内西御番頭小屋絵図拍
20.二条御城内西御番衆小屋井同心小屋絵図拍 以上の解説を省略
21.二条御城廻り御役屋鋪絵図
22.二条御城廻り絵図
23.二条御城廻絵図
24.二条御城廻絵図 以上の解説を省略
25.所司代屋敷絵図 解説を省略
26.御所司上屋鋪表座敷之図 解説を省略
27.御評定所図(京都所司代)
京都市中の裁判は、町奉行の管轄であったが、正徳四年(1714)に水野和泉守が所司代に就任すると、邸内に評定所を新設し、町奉行では手に負えない訴訟をそこで裁断することになった。評定所は、享保二年(1717)に水野から松平伊賀守に所司代が交代すると取り壊された。
28.東御役屋敷絵図(京都町奉行所)
29.西御役屋敷絵図(京都町奉行所)
東西の町奉行の役宅図。奉行の邸宅と具に敷地の大半を占めているのが奉行所(役所)である。そこには、公事方、勘定方、証文方などの与力・同心が勤務する事務所や、白州、公事入居所(訴訟をする人の待合室)などの裁判施設などが配置されている。他にも馬場や池、稲荷社までも備えた広大な敷地は、東町奉行が約5327坪、西町奉行が約3886坪であった。
30.牢屋敷絵図
これは六角牢屋敷(正式には三条新地牢屋敷)として知られる牢屋敷でニ条城の南、六角通大宮西入に位置した。天明8年(1788)の年記があり、天明8年の京都大火焼失後の復興に関連して作成されたと考えられる。牢屋敷の管理は町奉行配下の雑色がおこなっていた。
31.守護職上屋鋪絵図 解説を省略
32.伏見古御城絵図 解説を省略
33.山州淀御城御天守木口指図 解説を省略
34.江戸御天守
35.江戸御天守
江戸城天守の軸組図。最初の天守は慶長十二年(1607)に完成したが、その後も元和・寛氷期に改築された。本図は元和期の改築のものであると考えられる。江戸城天守は、明暦三年(1657)に焼失後、再建されることはなかった。
36.洛東清水寺惣絵図
門前町を舎む清水寺境内を南側から望んだもので、中井家の絵図には珍しい鳥瞰図。僧坊の有無などにより景観年代は江戸時代の終わり頃と考えられる。本堂(清水の舞台)などの主要な堂舎は、寛永六年(1629)の火災の後、寛永十年に復興整備され、多くが現存している。子安の塔(秦産寺)は明治43年までは本図に描かれた仁王門前にあったが、現在は、谷を挟んで本堂の向かいに移転している。【図は表紙】
門前町を舎む清水寺境内を南側から望んだもので、中井家の絵図には珍しい鳥瞰図。僧坊の有無などにより景観年代は江戸時代の終わり頃と考えられる。本堂(清水の舞台)などの主要な堂舎は、寛永六年(1629)の火災の後、寛永十年に復興整備され、多くが現存している。子安の塔(秦産寺)は明治43年までは本図に描かれた仁王門前にあったが、現在は、谷を挟んで本堂の向かいに移転している。【図は表紙】
37.知恩院絵図
知恩院境内(背後の華頂山も含む)を描いた図。各堂舎が正面の方向を向いた、中世以来の境内図の伝統を引く描写である。左端の黄色で描かれた部分は門前の町家。東西に並行する二本の通りは、北(上)が古門前通、南(下)が新門前通で、その中を白川が流れている。中央部下方に山門が見える。境内の堂舎は寛氷期(1624)~44)に復興整備されたが、図は門前の町名や堂舎の状況から寛文五年(1665))から宝永七年(1710)までの景観を描いている。
38.知恵院宮様御入室二付寺内御道筋絵図拍 解説を省略
39.泉涌寺御再建絵図 解説を省略
40.泉涌寺伏見街道人ロヨリ御廟所迄仮建物竹矢来絵図 解説を省略
41.般舟院惣絵図 解説を省略 ゛’゛`ど宍’゛
42.上使被為入候絵図(本圀寺)
43.上使御対面座席絵図(本圀寺)
44.三使御饗応座席絵図(本圀寺)
朝鮮通信使は江戸へ下向する途中に京都で宿泊することが恒例であり、本圀寺が宿舎になることが多かった。この絵図は正徳元年(1711)9月28日、徳川家宣の将軍就任を賀するために来目した通信使の応接図で、到着時(42)、上使松平紀伊守との対面(43)、饗応の席次(44)をそれぞれ記す。「正使」「副使」「従事」とあるのが通信使側、対馬藩主で朝鮮外交を任されていた「宗対馬守」、本圀寺の「長老」二人が日本側である。
45.方広寺大仏殿諸建物井三十三間堂建地割図 解説を省略
46.北野天満天神御社立地割弁社堂間数目録 解説を省略
47.吉田社建地割 解説を省略
テーマ展「城郭と寺社」展示目録 省略します。
・会期 平成17年6月3日(金)~8月28日(日)
・休館日 月曜 祝日
・編集・発行
京都市歴史資料館
602-0867京都市上京区寺町通荒神口下る松蔭町138-1
Tel.075-241-4312
知恩院境内(背後の華頂山も含む)を描いた図。各堂舎が正面の方向を向いた、中世以来の境内図の伝統を引く描写である。左端の黄色で描かれた部分は門前の町家。東西に並行する二本の通りは、北(上)が古門前通、南(下)が新門前通で、その中を白川が流れている。中央部下方に山門が見える。境内の堂舎は寛氷期(1624)~44)に復興整備されたが、図は門前の町名や堂舎の状況から寛文五年(1665))から宝永七年(1710)までの景観を描いている。
38.知恵院宮様御入室二付寺内御道筋絵図拍 解説を省略
39.泉涌寺御再建絵図 解説を省略
40.泉涌寺伏見街道人ロヨリ御廟所迄仮建物竹矢来絵図 解説を省略
41.般舟院惣絵図 解説を省略 ゛’゛`ど宍’゛
42.上使被為入候絵図(本圀寺)
43.上使御対面座席絵図(本圀寺)
44.三使御饗応座席絵図(本圀寺)
朝鮮通信使は江戸へ下向する途中に京都で宿泊することが恒例であり、本圀寺が宿舎になることが多かった。この絵図は正徳元年(1711)9月28日、徳川家宣の将軍就任を賀するために来目した通信使の応接図で、到着時(42)、上使松平紀伊守との対面(43)、饗応の席次(44)をそれぞれ記す。「正使」「副使」「従事」とあるのが通信使側、対馬藩主で朝鮮外交を任されていた「宗対馬守」、本圀寺の「長老」二人が日本側である。
45.方広寺大仏殿諸建物井三十三間堂建地割図 解説を省略
46.北野天満天神御社立地割弁社堂間数目録 解説を省略
47.吉田社建地割 解説を省略
テーマ展「城郭と寺社」展示目録 省略します。
・会期 平成17年6月3日(金)~8月28日(日)
・休館日 月曜 祝日
・編集・発行
京都市歴史資料館
602-0867京都市上京区寺町通荒神口下る松蔭町138-1
Tel.075-241-4312
[ 11:44 ]
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綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長から預かりました文書、HP収録の下準備です。
中井家文書
江戸幕府の京都御大工頭の中井家に伝わった、内裏・城郭など幕府作事に関する文書、597点926通。中井家は関ケ原合戦の後、徳川家から五畿内および近江の大工・杣・木挽の三職の支配を許され、近世を通じて、ほぼ500石40人扶持でその職を勤めた旗本の家柄である。元禄六(1693)年ごろ、自分の屋敷内に中井役所を設け、以前は中井家の負担で行なわれていた建物の破損見分・仕様帳等、あるいは絵図の作成まで作事に伴う手続事務を幕府経費で行なうようになり、役所は公的側面をもち、文書保管機能は強化されることになる。これにより多量の文書が残ったのである。この文書群の特徴は夥しい量の絵図が含まれていることで、とくに宝氷期(1704~11)以前の絵図は、ヘラ押計線の台紙に、色紙で要件を表記する、いわゆる貼絵図のものが多い。中井家が五畿内・近江の大工等を支配したことから、文書も山城、摂津、河内、近江等にわたり、その作事対象も、内裏御所、公家屋敷、城郭并武家屋敷、寺院、神社、洛中、公家町、河川、お土居など多岐にわたっている。内裏御所関係の文書は、86点224通あり、慶長、承応、寛文、延宝、宝氷、寛政、安政の各造営度のうち、宝氷度のものが一番充実している。公家屋敷に関する文書は、32点39通で、近衛家に仮内裏がおかれた時の指図や九条家、徳大寺家をけじめ20家分かある。武家関係文書は、城郭(伏見城、二条城、永原茶屋、水口城)分109九点175通、京都所司代分22点30通、火消屋数分7点8通、武家屋敷分31点33通、それに幕末京都警固(幕末期に京都の治安維持を目的に上洛した武士の屋敷建築のための手続文書等)分8点22通がある。そのうち、伏見城は元和年間(1615~24)の材木帳が12点。二条城は、創建期の慶長七(1602)年から同一〇年のもの、元和年間の秀忠上洛時の作事に関するもの、寛永年間(1624~44)の後水尾行幸・家光上洛時のもの、貞享・元禄期(1684~1704)の本丸、二之丸の修理時のもの等の作事に関係したものが、全体で60点127七通ある。永原茶屋分は33点。水口城は3点残っている。寺院関係の文書は、大部分が山城のもので、全体で56カ寺、127点179通。神社関係としては、18社分、70点90通ある。そのほか、洛中絵図が4点7通、公家町絵図が13点14通。加茂川をはじめとする河川に関係した文書が26点30通、お土居に関するものが5点残っている。
以上、当館が所蔵する分の中井家文書の概略であるが、ほかに中井家、中井家の菩提寺である長香寺(現在、京都大学へ寄託中)、宮内庁書陵部、京都大学附属図書館にも分れて所蔵されている。当館所蔵分については、昭和56年(1981)年、当館発行の『資料館紀要』第10号「史料紹介・総合資料館蔵の中井家文書について」で、解説を行なうと共に一点宛の目録を付した。
綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長から預かりました文書、HP収録の下準備です。
中井家文書
江戸幕府の京都御大工頭の中井家に伝わった、内裏・城郭など幕府作事に関する文書、597点926通。中井家は関ケ原合戦の後、徳川家から五畿内および近江の大工・杣・木挽の三職の支配を許され、近世を通じて、ほぼ500石40人扶持でその職を勤めた旗本の家柄である。元禄六(1693)年ごろ、自分の屋敷内に中井役所を設け、以前は中井家の負担で行なわれていた建物の破損見分・仕様帳等、あるいは絵図の作成まで作事に伴う手続事務を幕府経費で行なうようになり、役所は公的側面をもち、文書保管機能は強化されることになる。これにより多量の文書が残ったのである。この文書群の特徴は夥しい量の絵図が含まれていることで、とくに宝氷期(1704~11)以前の絵図は、ヘラ押計線の台紙に、色紙で要件を表記する、いわゆる貼絵図のものが多い。中井家が五畿内・近江の大工等を支配したことから、文書も山城、摂津、河内、近江等にわたり、その作事対象も、内裏御所、公家屋敷、城郭并武家屋敷、寺院、神社、洛中、公家町、河川、お土居など多岐にわたっている。内裏御所関係の文書は、86点224通あり、慶長、承応、寛文、延宝、宝氷、寛政、安政の各造営度のうち、宝氷度のものが一番充実している。公家屋敷に関する文書は、32点39通で、近衛家に仮内裏がおかれた時の指図や九条家、徳大寺家をけじめ20家分かある。武家関係文書は、城郭(伏見城、二条城、永原茶屋、水口城)分109九点175通、京都所司代分22点30通、火消屋数分7点8通、武家屋敷分31点33通、それに幕末京都警固(幕末期に京都の治安維持を目的に上洛した武士の屋敷建築のための手続文書等)分8点22通がある。そのうち、伏見城は元和年間(1615~24)の材木帳が12点。二条城は、創建期の慶長七(1602)年から同一〇年のもの、元和年間の秀忠上洛時の作事に関するもの、寛永年間(1624~44)の後水尾行幸・家光上洛時のもの、貞享・元禄期(1684~1704)の本丸、二之丸の修理時のもの等の作事に関係したものが、全体で60点127七通ある。永原茶屋分は33点。水口城は3点残っている。寺院関係の文書は、大部分が山城のもので、全体で56カ寺、127点179通。神社関係としては、18社分、70点90通ある。そのほか、洛中絵図が4点7通、公家町絵図が13点14通。加茂川をはじめとする河川に関係した文書が26点30通、お土居に関するものが5点残っている。
以上、当館が所蔵する分の中井家文書の概略であるが、ほかに中井家、中井家の菩提寺である長香寺(現在、京都大学へ寄託中)、宮内庁書陵部、京都大学附属図書館にも分れて所蔵されている。当館所蔵分については、昭和56年(1981)年、当館発行の『資料館紀要』第10号「史料紹介・総合資料館蔵の中井家文書について」で、解説を行なうと共に一点宛の目録を付した。
2005/08/20のBlog
[ 11:51 ]
[ 文化財を訪ねて ]
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投稿者: 事務局:四方續夫氏
「京都府総合資料館」には、綾部の文化財をを守る会の会報第1号から60号までをそろえて置いてあります。
8月18日に担当の楠久美さんにお会いし、故・山下潔己副会長兼事務局長の研究途中の中井家・幕府京都御大工頭との関係を一緒に2時間弱をも調査してもらったのですが不明でした。只、中井家いくつもあり、関白豊臣秀次に700石の高禄で仕えた初代中井藤右衛門正清の同腹の弟松野忠助、中井半兵衛(孫太夫)など豊臣家に多くの中井の姓で仕えた者や正清の弟・正純や従兄弟の利次等すぐれた大工が育ち、2・3代目の後見役を務めている。その方の系図は不明であるので、この方の系統と考えられる。次に訪れた「京都市資料館」で中井家の多くの地図が特別展で展示されていた、例えば、伏見城、二条城、知恩院等有名な城郭や寺社の設計図が多数であるが、館員の方の話では本家は幕末の14代まで続くが本家の「銘」は絶対に出ないそうです。両館にお願いし判明すれば「掲示板」で報告頂くことになっています。
尚、幕府御大工頭は4名で、内、木原・鈴木・片山家の3家は主として江戸及び関東一円の作事をしたが、知行高は享保期以降は80石・役扶持20人の旗本であり、初代京都御大工頭の中井藤右衛門正清は徳川家康から始め200石、そして500石に加増、大阪の陣の時は大阪城へ派遣され見取り図の作成や騎馬30騎及び配下を連れ参戦、旗本禄高1,000石従四位下大和守に登る。三代目正知から500石20人扶持と御役扶持となり、さらに20人扶持をうけた特別の家柄であった。正清が1,000石をもらったのは一代限りの功績と言われている。つまり四代目正豊では主水となっている。中井家の先祖は巨勢氏を称し、代々大和国三輪大明神の神職であり、当初、筒井家に父、孫太夫(正吉)は仕えていて、その後、辞任し、筒井家をはばかり中井の姓を名乗るようになった家柄で上記江戸幕府の他の3家とは格段の上位にあった。
投稿者: 事務局:四方續夫氏
「京都府総合資料館」には、綾部の文化財をを守る会の会報第1号から60号までをそろえて置いてあります。
8月18日に担当の楠久美さんにお会いし、故・山下潔己副会長兼事務局長の研究途中の中井家・幕府京都御大工頭との関係を一緒に2時間弱をも調査してもらったのですが不明でした。只、中井家いくつもあり、関白豊臣秀次に700石の高禄で仕えた初代中井藤右衛門正清の同腹の弟松野忠助、中井半兵衛(孫太夫)など豊臣家に多くの中井の姓で仕えた者や正清の弟・正純や従兄弟の利次等すぐれた大工が育ち、2・3代目の後見役を務めている。その方の系図は不明であるので、この方の系統と考えられる。次に訪れた「京都市資料館」で中井家の多くの地図が特別展で展示されていた、例えば、伏見城、二条城、知恩院等有名な城郭や寺社の設計図が多数であるが、館員の方の話では本家は幕末の14代まで続くが本家の「銘」は絶対に出ないそうです。両館にお願いし判明すれば「掲示板」で報告頂くことになっています。
尚、幕府御大工頭は4名で、内、木原・鈴木・片山家の3家は主として江戸及び関東一円の作事をしたが、知行高は享保期以降は80石・役扶持20人の旗本であり、初代京都御大工頭の中井藤右衛門正清は徳川家康から始め200石、そして500石に加増、大阪の陣の時は大阪城へ派遣され見取り図の作成や騎馬30騎及び配下を連れ参戦、旗本禄高1,000石従四位下大和守に登る。三代目正知から500石20人扶持と御役扶持となり、さらに20人扶持をうけた特別の家柄であった。正清が1,000石をもらったのは一代限りの功績と言われている。つまり四代目正豊では主水となっている。中井家の先祖は巨勢氏を称し、代々大和国三輪大明神の神職であり、当初、筒井家に父、孫太夫(正吉)は仕えていて、その後、辞任し、筒井家をはばかり中井の姓を名乗るようになった家柄で上記江戸幕府の他の3家とは格段の上位にあった。
[ 11:41 ]
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[関連したBlog]
投稿者: 綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫さまです。
故・山下潔己氏の記事の件ですが、山川出版社発行「新全国歴史散歩シリーズ第26巻の京都府の歴史散歩50頁」によると次のように出ています。
{高倉通松原下ルに「長香寺(浄土宗)」がある。慶長年間(1596~1615)に徳川家康の側室於古知也(おこちや)(法号長香院)の本願により、信誉称阿(しんよしょうあ)を開山として創建された。建立は京都所司代板倉勝重、大工頭中井家初代正清、金座の後藤庄三郎らが参画した。~略~中井家は江戸時代を通じ、畿内60ヶ国の大工・大鋸職(のこぎりしょく)を支配した幕府御大工頭の家柄で、長香寺は中井家の菩提寺で代々の墓がある。}と記されています。
小生は問い合わせては居ませんが、此の中井家の承認がないと神社・寺等は建設できないので、これは間違いないと思います。必要でしたら寺へ直接問い合わされると良いでしょう。関連HP http://www.ayaco.net/bunka/kaiho/bfor/nakai.htm
投稿者: 綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫さまです。
故・山下潔己氏の記事の件ですが、山川出版社発行「新全国歴史散歩シリーズ第26巻の京都府の歴史散歩50頁」によると次のように出ています。
{高倉通松原下ルに「長香寺(浄土宗)」がある。慶長年間(1596~1615)に徳川家康の側室於古知也(おこちや)(法号長香院)の本願により、信誉称阿(しんよしょうあ)を開山として創建された。建立は京都所司代板倉勝重、大工頭中井家初代正清、金座の後藤庄三郎らが参画した。~略~中井家は江戸時代を通じ、畿内60ヶ国の大工・大鋸職(のこぎりしょく)を支配した幕府御大工頭の家柄で、長香寺は中井家の菩提寺で代々の墓がある。}と記されています。
小生は問い合わせては居ませんが、此の中井家の承認がないと神社・寺等は建設できないので、これは間違いないと思います。必要でしたら寺へ直接問い合わされると良いでしょう。関連HP http://www.ayaco.net/bunka/kaiho/bfor/nakai.htm