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なべちゃんの散歩道
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2006/01/09のBlog
[ 13:44 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について6
覚応寺の金剛力士(仁王像)について
右掲載の旭町「覚応寺」の仁王像の写真を参照ください。
 現在、京都国立博物館に保管されほぼ、十年に一回陳列展示される。
(1)金剛力士像(阿形)・覚応寺伝来
 木像彩色・鎌倉時代
 京都府綾部市の覚応寺に伝来。筋骨などの部分を誇張しながら穏健にまとめ上げている。丹波地方を代表する仁王の一例。
(2)金剛力士像(吽形)・覚応寺伝来
 木像彩色・鎌倉時代
 口を結ぶ阿形に比べて力感表現を主とし、それ故に全体のまとめ方に失敗した感もある。力み過ぎが一種の滑稽味を生んだ。(いずれも京都国立博物館の解説による。)
[ 13:40 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について5
(4)覚応寺の金剛力士(仁王像)について
 もと願成寺と言ったが、廃寺同然となっていたものを、第二代藩主衛政が谷家の菩提寺として小さいお堂を改修し、塩谷山覚応寺と命名した。第三代藩主広公の帰依厚く、方丈、庫裏、阿弥陀堂、仁王門、鐘楼を造営し寺観を整えた。阿弥陀堂は明治三十年大改修を行ったが、その後、堂の守りが難しく、福知山市興の人・日本茶道会の田中仙氏に買われ、現在も汽車から見える青い屋根の「法輪殿」として大切に保存されている。
 仁王門にあった金剛力士像は願成寺の遺物で、運慶の作と伝えられているが、昭和四十四年危うく海外流出となるところ、京都国立博物館に買い上げられ保存されている。事実この仁王像の事件を契機として「綾部の文化財を守る会」が結成されたと聞いている。イギリスには「国立美術品蒐集保存基金」があり美術品の海外流出を防いでいると聞く。綾部にもこのような公的基金が必要なのではなかろうか。
2006/01/08のBlog
[ 13:50 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像4
(3)山家唯一の武家屋敷
 城址公園への手前左側に道家邸がある。もと添田邸であったが、道家勧氏が買い取り、さいわい長男の嘉之助氏が一級建築士であったため原型に忠実に修復された。
 山家藩の高級武士の邸宅がどのようなものであったかを如実に知ることができる。
 しかし、維持管理には相当の困難が伴うと思われるので、「文化財を守る会」が中心となって文化庁等の補助金の交付を働きかける等、その保存に協力する必要があるのではないかと思われる。
(注)山家谷藩道家家の上席家老を示す「一番槍」左上の写真の一番槍の上部の「金の蕪巻(かぶらまき)」がそれを示している。
[ 13:32 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について3
慶長五年(1600)関ヶ原の役が始まると谷衛友は西軍の一翼として舞鶴田辺城に細川藤孝(幽斎)を包囲したが、かねてから幽斎と親交があったらしく、弾丸を込めず空砲を撃った。「谷の空鉄砲」と呼ばれている。
 古今伝授の継承者である幽斎の戦死を恐れた朝廷からの勅使の勧めにより西軍は囲みを解いた。東軍勝利の後、細川氏のとりなしによって谷氏は所領を満額安堵された。
以後、細川氏と谷氏との間に親交が続き、細川氏が豊前中津へ転封になった時、細川氏自らが資材を持参して山家城下の橋を掛け替えて通り、その後、度々橋が流失した時、肥後の細川氏から資金の援助があった模様で、谷藩ではこれに感謝の意を表すためこの橋を「肥後橋」と呼ぶようになり、今日に至っている。肥後橋から城に通じる坂道も「肥後坂」と呼ばれている。
 谷衛友は一万六千石の内、六千石を三人の子供に分け与え、上杉二千五百石、十倉二千石、梅迫一千五百石の旗本として分家させ徳川幕府への忠勤を示した。上杉二千五百石は子供が無く絶えたが、他の二分家は陣屋を持ち明治維新まで続いた。
 衛友の肖像画が残っているが、農民か木樵のような服装であり、極めて質素な生活ぶりがうかがえる。歴代藩主は家臣団や領民への気配りも怠らず、家臣に与えた自作自筆の和歌や絵画、領民の高齢者を表彰して与えた軸もの等が残っている。
 このような幕府や家臣団、領民への配慮があってか、山家藩は豊臣秀吉以来明治維新まで、減封、転封も無く、ずっと一万石のまま続いた。これは希有のことである。
2006/01/07のBlog
[ 13:24 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について2
(2)谷氏館跡(現在の城址公園一帯)
 谷衛友(もりとも)が天正十年(1582)秀吉より丹波國何鹿郡の内、一万六千石をもって山家郷に封ぜられたに始まる。此の内訳は奧上林、口上林、山家、東西八田、位田、吉美、志賀郷、と何鹿郡内全域の山からの運上金であった。知行目録は「山家資料館」にある。 
 この地は上林を通っての若狭ルートと横峠を経ての丹後ルートの合流点であり、丹後から京に通じる主要道路を扼する戦略上重要な地点であった。
 その城構えを見るに、上林川、和知川を外堀とし、西側は上林川からそびえ立つ急斜面であり、敵襲のとき逆茂木とするため樫の木が植えられていた。その一部は今も西北の隅に残っている。北側は空堀を堀り、高い石垣を巡らしている。東側は石垣の外に上林川に通じる二本の堅堀を備えている。 
 当時の武器をもってしては難攻不落の要害であった。
2006/01/06のBlog
[ 13:19 ] [ あやべの文化財 ]
山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について1
山家資料舘々長・常任幹事 塩見光夫
(1)左衛門屋敷跡
広瀬町伊也神社から徒歩約30分、甲ヶ峯の頂上にあり、戦国時代和久左衛門佐の居城跡である。屋敷跡、空堀跡、和久氏の氏寺であった照福寺跡がある。
 現在は桧の植林地となっており視界は遮られているが、以前は遠く綾部の町並みまで見渡せる一大パノラマが開け、眺望絶佳であった。明智光秀が丹波を平定した時、城の破却を命ぜられたが、和久氏は寺であるとして応じなかったため追討され、和久氏は滅亡した。天正八年(1580)六月照福寺は、その後、馬場町に移り、さらに現在地の鷹栖町小丸山三三に移った。照福寺は代々和久氏を名乗っている。
2006/01/05のBlog
今年は戌年とあって犬に因んだ訓話がたくさん出るようだ。
1日:元旦初日の出・寺山平和祈願国旗掲揚式
桃太郎の話:桃太郎の鬼退治で重要な役割を果たす三匹の家来。犬・猿・雉子の役割は、雉子:情報力、猿:企画力、犬:行動力を分担している。今年は戌年、行動力を充分に発揮する年である。(四方八洲男綾部市市長談)
3日:(財)綾部商工会議所新年互例会、下記資料配付
南総里見八犬伝
時は不詳なれど、物語は安房の国の城主、里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間に生まれ出た、八つの徳を持つ八つの玉に端を発す。八つの徳玉とは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌
然れど「伏姫」の死と共に、この八つの徳の玉は八方に散り消えたのである。
時は流れ、この八つの徳の玉は何処でか玉を持って生まれた八犬士に受け継がれた。
やがて成長した八犬士たちは、正義を重んじ苦難を乗り越え、因縁の糸で結ばれながら合い集い、主君への忠義を尽くし、勧善懲悪の理念を貫き通すと言う。江戸の戯作家、滝沢馬琴の大活劇物語である。梅原陽介編(財・綾部商工会議所専務理事)
コメント要旨:現在これらの徳が、政治、経済、文化、暮らし・・、すなわち産業界、学会、職場、家庭・・など全ての場で軽んじられている。社会が病んでいる。戌年の今年は八犬伝にあやかって、これら八つの徳の尊ばれる社会を構築しよう。・・
2006/01/04のBlog
[ 19:54 ] [ あやべの文化財 ]
大原の産屋
帰りの車中で家内と「誰か地元の勇気のある女性が実際に、この産屋で出産されれば、凄い村おこしきじになるのだが」と話した。今時の日本では自宅出産も恐らく行われないのでは、ホテルのような整った産院で、至れり尽くせりの出産が当たり前。
でも一昔前はこの産屋での出産があったから、産屋が残っているのでは?勿論、衛生上の万全の対策をきちんとやり、救急車や医者にも待機して貰っての「産屋出産」である。全国の報道機関が取材に集まり、世紀の出産報道が行われるのは間違いがない。ジャングルのアマゾン、南洋諸島ならいまでも産屋出産があるのでは。
生まれた子供は、すえながく大原の宝、申し子として人望を担って成長するであろうし・・・と馬鹿な話しをしている内に池に帰り着いた。
全国に産屋はたくさんある。何処かで産屋出産の勇気ある女性があったのかも・・と思う。
大原村落を流れる川の右岸の平地に産屋がある(R123に挟まれた平地の川側)。左手奧に大原神社の巨木が聳えている。その付近一帯の高台が大原神社境内。
大原神社絵馬堂
絵馬堂の中の絵馬の一枚。
三和町指定有形文化財
大原神社絵馬35点
慶長四年(1599)
奉納の神馬図2面をはじめ、生業図、風景図、句額、弓術額などがある。三和町教育委員会
京都府指定文化財
大原神社 末社 水門神社本殿(江戸時代)京都府教育委員会
[ 19:35 ] [ あやべの文化財 ]
大原神社拝殿の欄間の彫り物
大原神社本殿(向かって左面)
火防の社 火之神神社
大原の大杉 樹齢:約700年、幹周:8m
七社
祇園社:素戔嗚尊(すさのおのみこと)
木神社:久々能知命(くくのちのみこと)
若宮:若宮比売命(わかみやひめのみこと)
八幡宮:譽田別命(ほんだわけのみこと)
そう神社:宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)
?山媛社:植山比売命(はにやまひめのみこと)
飛瀧峯社(ひろうほうしゃ) 祭神:鮭魚化神(さけのけしん)
大原神社、此の池に御遷座の時、此の山裾を流れる水門(みなも)の淵に鮭魚浮び出て、吾此の水底に住みて、此の山を守ること数千年、此の山嶺に白和幣(にぎて)青和幣ありて、常に光を放つ。実に大神の鎮まり給うべき霊地なりと申し、此の地に悪しき事あるときは、鱒現れ、又、不浄のことあれば、鮭魚浮かび出る伝え、齋き祀りて飛瀧峯明神と号す。
関連:綾部に伝わる杵の宮伝説
五社
恵比須神社:事代主命(ことしろぬしのみこと)
玉政権現:磐筒男神・磐筒女神(いわづつおのかみ・めのかみ)
大河大明神:?象女神(みづはのめのみこと)
稲荷大明神:倉稲魂大神(くらいねみなのおおかみ)
牛王神社:小童命(おわらべのみこと
2006/01/03のBlog
[ 16:49 ] [ あやべの文化財 ]
親馬鹿の極致かもと思いながら、末娘夫婦の懐妊を祈願するために、肋骨骨折5本の傷みに耐えながらの家内を乗せて、R173質山トンネル向こうの三和町大原村の大原神社(安産祈願で知られる)まで足を延ばし参拝してきた。長女、次女とも、この神社に安産祈願を懸け、合わせて男子四人をもうけている。田野町の松寿苑に母の見舞いもかねてで、丁度一山向こうに当たる。
大原神社本殿
神社の横の急すぎるぐらいの坂を登ると駐車場がある。初詣の参拝者で賑わっていた。若い夫婦連れ、赤ちゃんを抱いた夫婦(お礼参り)も見られる。
一寸した雨模様の参拝。
参拝風景。
安産祈願には受付で申し出ると、祭殿に上がり宮司の祈祷を受ける。帯などの安産のお下がりをいただく。両親の同行参拝も歓迎される。
今回は参拝だけにした。家内はお神籤を引き、大吉だとおお喜びしていた。
今年は戌年である。大きな犬の夫婦の石像が置かれていた。犬は多産・安産の象徴かも。