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なべちゃんの散歩道
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2006/03/11のBlog
芸術の郷(さと)1 -土の造形芸術-
 幼い頃、土いじりして、顔から着物まで泥だらけになって遊びほうけ、お母さんに叱られた懐かしい思い出を誰もが持っている。人間には肌でじかに土に触れたいという強い本能的な欲求があるからだろう。
 「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹き入れられた」と創世記に述べてあるが、神様でさえ土いじりして人間をこしらえたのだから、子供が泥んこで土いじりに夢中になるのはやむを得ない。
 ところで、神の土いじりからできた秀作品が人間だが、人間が土をいじって物する傑作は何だろう。それは火の精、土の芸術である陶芸だと思う。それは土と水という根源的な原材料に火と人の力が加わって造り出されるものである
 この土の造形芸術は、わが国では数千年前の縄文時代にさかのぼることが出来るが、どの国よりも早くから盛んに数多くの優れた壺などがつくられた。そしてそれらの土器は、縄文文化の担い手ともいえる美意識において敏感ですぐれた女性たちの生活経験をとおして発明され、いろいろな技法が工夫されたものに違いない。これらの土器によって原始の生活が豊かに彩られたことであろう。
 日本のこの時代における縄文土器は芸術的評価の点で、また技術的な面から見ても優れたものである。まったく自由奔放で、見ていて楽しく作った人たちの歓びの声が聞こえてくるかとさえ思われる。
 今日、日本の陶芸は世界的に注目されるに至ったが、それは造形美と共に独自の豊かな芸術性が民族性の違いを越えて、強く世界の人々の心をうつからであり、その源泉が実に数千年昔の縄文文化を担った人々の手にあったことを見逃すことは出来ない。
 縄文文化についで稲作栽培が大陸半島を経て入ってきたが、このことは社会に大きな変化をもたらし、土器の面でも著しい進歩を与えた。
 古墳時代には、丸底の壺や甕などの実用品である「はじ」のうつわが焼かれたが、一方大陸の製陶技術が入り陶質の「すえ」のうつわが丘陵の傾斜を利用して縦穴を堀り、簡単な天井をつくって焼かれた。
 それまでのより硬質で耐久力があり、食膳用、保存用、携行用など用途も広く、形も大小さまざまで種類も増え、人々の生活を一段と豊かにした。のびのびとした思い思いの作品は、今見ても面白い。
平和のとりで2 -大戦の犠牲者を偲び世界恒久平和を祈念して(なべちゃん)-
 開教以来の一貫したこの反戦平和の主張は、弾圧、敗戦という大峠をこえた直後の昭和20年12月、鳥取市吉岡における王仁三郎の談話にうけつがれ、より具体的に示されている。
 「いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命がふくまれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある」と。
 そしてこの中で「民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただ本当の存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化し、これを国民に無理に崇拝させたことが日本を誤らせた。ことに日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀つていることが間違いの根本だった」と指摘した発言が注目される。
 昭和27年(1952)に人類愛善会は再発足した。そして、昭和29年4月ビキニの水爆実験に抗議し、全国に先駆けて立ち上がり、2百万余の署名を獲得して内外の首脳や国連に原水爆の禁止を訴えた。
 原水爆禁止大会や平和行進には率先して参加し、世界連邦アジア会議宗教世界会議をみろく殿で開催した。
 平和のための宗教協力や世界連邦運動を積極的に推進し、市民一体となって綾部に日本で初めての世界連邦平和都市宣言を実現したことは記憶に新しい。
 昭和35年(1960)新安保条約の批准によって平和運動は新しい事態に当面した。平和と民主主義の大黒柱である平和憲法を守る戦いが始まったのである。
 人類愛善会は平和を願う多くの大衆と協力し、「平和憲法の精神を生かし世界軍備の全廃を求める」運動を全国で展開した。
 真剣に祈り果敢に実践する宗教者としての行動は、宗教界に共鳴を呼び、やがて宗教者平和会議が組織されてゆく。
 この輝かしい実績はまた明日への実践につながる。平和への祈り平和へのたたかい、それは2回にわたる権力の弾圧に耐えて平和を勝ち取ってきた大本、その大本を支えてきた綾部が歩み行くべき道でもある。
 目を上げれば白雲が流れゆくかなた、美しい松と桜とつつじの緑に包まれてたつ、紫水ケ丘の平和の塔は、平和への決意を静かに語りかけている。民衆の都あやべは、平和のメッカとならねばならぬ
2006/03/10のBlog
平和のとりで1 -東京大空襲の犠牲者を悼んで(なべちゃん)-
 平和は全人類の願いである。綾部の未来像も平和あってこそはじめて実現される。だが現実は厳しい。今世紀(20世紀)になって二度も大戦を経験し、戦争の悲惨をなめさせられた人類は、今日なおその恐怖から逃れることができない。こんなばかげたことが許されてよいものだろうか。
 今こそ「国同志の人の殺し合いといふやうなこんなつまらん事はないぞよ。一人の人民でも神からは大事であるのに・・・こんな大きな天地の罪犯して、まだ人の国までとろうといたしておるのは向先(むこさき)の見えぬ悪魔の所作」として戦争を否定し、「世界の戦いは運不運(うんぶ)をきらいたもう天帝の大御心にかなわぬ」と厳しく戒められた神の言葉に耳を貸すべきである。
 そして戦争と軍備は「世界数多の地主や資本家のため」にあるもので、「軍備や戦争のために徴兵の義務を負わざるべからず、一つよりなき肉体を捨てて血の河、骨の山をつくらねばならざるなり、多くの税金を政府へ払わざるべからず」。
 つねに犠牲をしいられる民衆にとっては、何一つ益のない事実をよくよく噛みしめるべきである。
 政府や「死の商人」たちは、自己の野望を隠して、戦争と軍備を合理化するため「国を守る」ためという。果たして戦争と軍備が平和の番人となりうるだろうか。
 王仁三郎は、天が下のおだやかに治まる道は、国民が神を厚く信じて誠の道をまもり、その品行のうるわしきによると主張し、「風俗うるわしからず、国民の心一致せぬ時は、幾千万の兵ありとてすぐに破れほろぶものである。ゆえに兵士や戦道具では国は治まらぬ」と断言している。
生活の革新8 -天則と自然を無視した、悪食、悪衣、悪居のなかに生活-
 また日本の場合、理想とする都市人口は10万人を基準とし、その居住地は、草木がよく繁茂する高原地帯で、よい水の湧く日当たりの良いところに、平屋建ての木造建築に住むことが、気候風土にあった最もふさわしい所であると説く。家屋の用材についても詳しく教えている。
 こうして見ると、みずから招いた災いとはいえ現在の人々が、いかに天則と自然を無視した、悪食、悪衣、悪居のなかに生活しているかがわかる。これでは病気をしないのが不思議というほかはない。
 そこには、人生の理想と物の本質を見失った人間の無智がある。人智と技術と欲望におぼれた人間の奢りがある。だがその根底を探れば、民衆の生命と生活を犠牲にして、巨大な富を蓄積している国家独占資本と大企業群のあくなき野望にゆきあたる。
 正食、正衣、清居が良いことだと判っていても、巨大なメカニズムのなかで、民衆が手にし実行することは難しい。
 社会の変革と救済をとなえる民衆の宗教が、この矛盾にみちた現実に当面して、生活の革新に熱情をそそぐのは急務である。まず生活の悪弊をうち破って、正食、正衣、清居の理想と原則に立ち、天則と技術と人間の調和した社会をみずからの内に実現する。それは生活センタ-を通して民衆のものとなる。
 綾部は豊かな自然に恵まれている。この地域共同体のなかで、生産、流通、消費の分野にわたり、自主的な打開の道はないものか。重化学工業化しつつある風潮のなかで、あえて生活関連産業、軽工業、平和産業に誇りを持ち、育成してゆく方策はないか。
生活の革新7 -清居とは-
 最後に、清居の問題にふれておこう。今日、土木、建築技術と建築材料の発達は、目を見張らしめるものがある。たちまちのうちに山を削り、海岸や凹地を埋め、住宅群が出現する。高層住宅がニョキニョキと立ち並び、プレハブ住宅化が進行する。
 何処を見てもコンクリ-トと鉄の冷たい色が跳ね返ってくる。だが果たしてこれでいいのだろうか。王仁三郎は次のように主張する。

 「天地は呼吸している。万物一切はイキ物である。したがって大地もまたイキ物である限り呼吸している。人間も地気をうけて生活しなければならない。地上をコンクリ-トで塗りつぶすと地気が昇らないから、土をはなれた生活様式は人間の健康にいつとなく害を及ぼし、地気がうっせきしてきた時には、災害の導因となることがある。とくに住居の下などは赤土などのねん土に石灰をまぜたタタキにすれば気も通って良い。人間の住居は、本来3階以上に住むことは不適当である。その理由は、大地の霊衣は地上三尺であるから、地上を高く離れれば離れるほど、地の霊気が薄くなる。人間は、天と地の霊気が交流する接点に生活するように創られている」と。
生活の革新6 -正衣とは-
 次ぎに正衣とは何であろう。正食の場合と同様に、身土不二の天則に従って、理想としては日本の国土に算出する生糸や植物性の糸を草木染にして織り上げ、愛情を込めて縫い上げたものがよいとされる。
 大量生産、大量消費が支配している今日、この正衣は高嶺の花となったが、じつは先人が日常の生活の中で考え、織りあげ身に着けていた生活の知恵なのである。
 たとえば紫根(しこん)、藍、紅(べに)花、鬱金(うこん)など、すべて植物で染め上げた織布は、見た目が美しいばかりでなく、健康のためにも良く、医学的に見ても薬用効果がある。
 たとえば昔から乳児には鬱金で染めた着物を着せたが、これは乳児が着物をしゃぶっても、鬱金が腎臓の薬となるからである。
 これに反して化学繊維、化学染料の多くは、衣料公害をひきおこす「悪衣」と云うべきであろう。先般西ドイツの染料会社バイエル社が世論に屈して、数百類におよぶ化学染料の製造を中止したという事実に照らしても明かである。
2006/03/09のBlog
生活の革新5 -正食の特性と悪食-
 食べ物に特性があり、薬効があることも知っておくべきであろう。たとえば「米は陽性のもので、是を常食すれば勇気が出る。野菜を食えば仁の心が養われる。魚類を食えば智恵がわく」「肉類、魚類には多大の栄養分があるように思っているが、かなり大きい鯛と大きな大根1本と相当する位のものである」
 「動脈硬化症より免れようとするものは、断然肉食をやめて、菜食に移らねばならない。魚類もなるべく避けた方がよい。ことに刺身の類はよろしくない。たまにあっさりした川魚ぐらいは食べてもよい」「毒ガス除けには、らっきょうと梅干し、松の葉をかむこと、大根やねぎを生で食べるとよい」など、数多の説示がある。
 一方、悪食については、肉食の害がまずあげられる。「獣、鳥、魚などの肉は、いったん食べ物として消化されたものが肉となったのであるから、それを摂取してもあまり益はない。獣肉をたしなむと精欲が盛んになり、性質が獰猛になる。獣食する人は、本当の慈悲の心は持たない。神に近づくときは肉食してはよくない。霊覚を妨げるものである」。
 つぎに、今日流行している食品添加物を上げねばならない。添加物本来の目的は、食生活の健全化を計るためのものであるが、実際は、原因不明の慢性疾患の原因として、いつの間にか人体をむしばんでいる。
 着色剤、防腐剤、漂白剤、人工甘味料などであるが、自然の動植物を原料としているものは少なく、主に石油、石炭が原料となっているからである。その他、白米、白砂糖、白パンの「三白」や化学肥料、農薬による弊害など枚挙にいとまがない。
生活の革新4 -身土不二の思想-
 正食は天地の大恩を知ることから始まる。これは正衣、清居の場合も同じである。人間及び動物は、植物をとおして、太陽、月、空気、水、大地の気のミックスされた精気、エネルギ-を摂取して生きているのだから、この植物中にあるエネルギ-を出来るだけ効果的に多くとり入れ、同化し、血となし肉とするところに正しい食生活の原理がある。
 開祖や二代教主は、つねに神恩を感謝し、お土を大切にし、大根の葉一枚でも上手に料理して美味しく食されていたが、食物が氾濫し食生活が乱れている今日こそ、この天恩を無駄にしない食事法や料理の原則は、改めて見直されねばならない。
 また東洋には古来、身土不二の思想があり、住む土地にできるものが、肉体生命を真に養う食べ物だと考えてきた。
 王仁三郎は、日本の天から与えられた食べ物は、穀菜食であると唱え、この天則を守らなければ天寿を全うすることが出来ず、罪を犯すことさえあると説いている。
 もともと日本人は、米、麦をはじめ、あわ、ひえ、大豆、小豆などの穀物をとり混ぜて主食とし、豊かな酵素、ビタミン、ことに野生酵母を多く含む野菜、山菜、根菜などを常食として、血液を清らかに保ち、健康を増進してきた。
 また河海の魚介や海草などを摂って強壮にし、様々な加工品をつくって食生活を豊かなものとした。大豆からつくった「とうふ」「なっとう」「ゆば」「みそ」「しょうゆ」などは、日本の味を代表するものとして食卓に欠かせない。
生活の革新3 -正食、正衣、清居の必要性-地産地消の原点(なべちゃん)
 この方策は、資本主義的経済組織を根底からゆさぶり、生産、流通、分配、消費の各分野にわたって変革が要請される。
 「新(さら)つの世」を志す神の警告は、生活様式にたいしても、極めて厳しい。「衣類、食物、家屋倉庫(いえくら)までも変へさして、贅沢な事はいたさせんぞよ」「贅沢三昧は何うしても出来ぬように厳しく変わるぞよ。今迄のやうな生活方法(やりかた)では、世界中がモウ立行かんから、明治25年から筆先に出してある通りの心の持方をいたして居らぬと、大変に困窮事(こまること)が出来するぞよ」と、繰り返し戒められている。
 衣食住が経済や生活の基本であることは言うまでもなく、衣食住の乱れが、社会混乱の原因となっていると云っても言い過ぎではない。
 王仁三郎も「食制の改革が社会改造の第一義」と述べ、正食、正衣、清居の必要性を繰り返し説いているが、日常欠かせぬ事だけに、その影響と結果の違いは、極めて大きい。
 なぜ正食が必要なのであろうか。端的に言って、「食べものは人間の肉体ばかりでなく心まで支配」し、「正食は肉体の栄養になると同時に精神に活力を与え、魂の食物になる」からである。
[ 17:29 ] [ 丹(に)の国・綾部 ]
生活の革新2 -天産物自給(おつちからあがりた)
 そのため「神さまが世界の人民を保護しておられるのを無にして、神の子たる多くの人民を苦しめて世界の地所、資本を独占」してはばからない「世に出ている悪人」「餓という虫」どもが横行し、「世界一切の生産物は一人一人の私有(もの)で無く、皆天地の所管(もの)で、世界の人民が安心と幸福をうけるために神さまのお造り遊ばしたものにかかわらず、世界の宝を横領し、世の中の難儀を高見から見物いたす厄介者、蛆虫人間」の存在を許すに至ったのである。
 そこで、「今の世界のこの有様、神はもう黙っては居れん事になりた」と愛なる神の怒りが爆発する。世界の蛆虫人間や厄介物をたいらげ、「これまでの世の行(や)り方、法律」「これまでの習慣制度(やりかたほじつ)をさつぱり革新(かえ)て了ふ」と宣言して、
 「金銀を余り大切にいたすと、世は何時までも治まらんから、艮の金神の天晴(あつぱれ)守護になりたら、天産物自給(おつちからあがりた)其国々の物で生活(いけ)る様にいたして、天地に御目にかける仕組がいたしてある」と、救済への構想を明示される。
 土地為本、天産物自給の方策が、具体的にどの様なことになるのか、今後の研究に待たねばならないが、基本的には、お土を大切にし、国土、季節、民族性を統一的に把握して、夫々の個性を尊重する理念に根ざし、天産物を開発して、天恵無尽の利沢を人生に均霑せしめることを目的としている。