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なべちゃんの散歩道
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2006/07/05のBlog
下鴨神社の摂社、末社、方丈記の作者:鴨長命が住んでいた方丈などを拝観して回る会員の一行
三井社(みついしゃ)
御祭神
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
姫神様とそんp御両親をお祀りしたお社は、家族の平安を守ってくださる神様です。
この鳥居をくぐり「瀬見(せみ)の小川」沿いにつづく「糺の杜」の参道に入る
枯れた御神木が祀られている
舟がおかれたお社
2006/07/04のBlog
鴨 長明
久寿二年(1155)下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)七歳のとき下鴨神社の第六回遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で特に歌道に優れていた。安元元年(1175)二十一歳、高松女院歌合わせに和歌を献じて注目を集めた。治承四年(1180)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都に赴いたが、八月源の頼朝の反乱により平家は滅亡し、再び平安京に遷都され帰洛した。
正治二年(1200)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌建仁元年(1201)和歌所の寄人に任ぜられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(1204)五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月「新古今和歌集」
石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてやすむ
をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(1212)三月「方丈記」についで「無名抄」を著した。建保四年(1216)閏六月八日、六十二歳で没した。

長明の方丈
鴨長明は、五十歳のとき、すべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)五十八歳のころ(現在京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この方丈である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。
広さは一丈(約三メ-トル)四方、約2.73坪、畳、約五畳半程度、間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台上のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた、土居桁の構造である。この構造は建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。(駒札から集録)
参拝する会員
重要文化財申請社殿
貴布禰神社(きふねじんじゃ)
御祭神 高龗神(たかおかのかみ)
天地に恵みを与える雨をつかさどり、祈雨・止雨に霊験あらたかな神様です
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で、水の神として有名。

重要文化財申請社殿
任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)
御祭神 八咫烏命(やたがらすのみこと)
神武天皇を勝利に導いた神様は、サッカ-教会のシンボルマ-クに描かれている事で有名です。
河合神社創祀のときよりまつられている社である。古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。
昭和六年(1931)御祭神の八咫烏命が、日本の国土を開拓した神の象徴として日本サッカ-ボ-ル協会のシンボルマ-クとなって以来、サッカ-必勝の守護神として有名である。
鴨河合坐小宅神社(かものかわあいにますおこそやけのじんじゃ)
御祭神 玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
日本国を建てられた神武天皇の母神様は、子供の成長をお守りくださいます。

重要文化財申請社殿
三井社(みついしゃ)別名:三塚社
中社 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
西社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
東社 玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
古い時代の下賀茂神社は、古代山城国、愛宕(おたぎ)、葛野郷(かづぬごう)を領有していた。その里には下鴨神社の分霊社がまつられていた。この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社としてまつられていた神社である。摂社三井神社「風土記」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)「鴨社」の条の「蓼倉里(たてくらのさと)三身社」とは別の社である。
展示館
河合神社 下鴨神社の摂社
祭神 玉依姫命 祭神は神武天皇の御母神
例祭日 十一月十五日
神徳 神武天皇とともに御母神として日本の建国に貢献された内助の御神徳は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産、育児、縁結び、学業、延命長寿の守護神として広く知られている。
由緒 鎮座の年代は不詳であるが、神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に鴨河合・・(駒札より集録)
参観の綾部の文化財を守る会一行
河合神社の参観
参観の一行
糺の杜(ただすのもり)の名所(摂末社(せつまつしゃ)など
河合(かわい)神社と鴨長明(かものちょうめい)
 玉依媛命(たまよりひめのみこと)(初代の天皇・神式天皇の御母神、本宮のご祭神とは同名異神)をまつっています。古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されています。
 『方丈記』の著者、鴨長明はこの河合神社の神官の家に生まれましたが、いろいろの事情によって、この重職を継ぐことができませんでした。
 このこと方ら強い厭世観を抱くようになり、やがて『方丈記』を書くにいたったといわれています。復元された方丈が現在展示されています。
 末社には任部社(とべしゃ)とよび八咫烏(やたのからす)をまつるお社があり、昭和六年(1931)日本サッカー協会設立時より現在のJリーグにいたるまで、ご祭神の姿をシンボルマークとしています。(入場パンフレットより集録)
[ 08:03 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
下鴨神社の摂社・河合神社;方丈記の鴨長明でも有名の駒札、パンフレットからの集録に大変手間取っている。毎日少しづつすすめるしかない。
赤い花
赤とピンク
紫にピンク
良く見ると虻が止まっている。梅雨の晴れ間のブログ中休みも、これでおしまい
2006/07/03のBlog
紫の袋のような花 りんどうの一種?
花が終わり棘だらけのみが出来ている
棘だらけの種になる前の花
芹の花?
鶏頭の一種か?
[ 06:44 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
このところ日曜日の天候が気になっている。というのは市民総体テニス選手権大会が開催中なのだ。水無月まつり協賛大会を兼ねるので、毎年梅雨時に開催する。
一日目の男子、女子の各シングルスは先々週に小雨模様の中で終了。昨日曜日は、男子、女子の各ダブルス試合の予定。朝からの降雨で順延かと思われたが幸い雨が上がり、試合開始時間を11時にづらして実施された。日の長い時節と1昨年完成した夜間照明も利用できるので、この点大変便利になった。
来日曜日は、この大会の予備日コ-トを利用して、テニスの催しをおこなう予定。そして来々週の日曜日は我が家の余儀ない予定がある。
もし雨が降れば次々に順延して来るので、それで日曜日のテニス行事の試合消化が気になっている理由である。
青い花、白もある
赤と白も混じる
白の縁取りがきれい
白いしっぽみたいな花
2006/07/02のBlog
[ 21:40 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
このところ毎週のように知人の告別式に参列している。こう蒸し暑いと高齢者の方は大変だなと思う。人間は暑さ寒さに弱い生き物かも・・。
今日は母の百ケ日もかねてお寺の住職様に来ていただいて初盆をした。自宅周辺および自宅の公共下水路への排水接続工事がやっと一段落。初盆には少し早いが、八月盆にはお寺で新仏の施餓鬼法要が営まれるそうだ。
文化財研修旅行記の資料の整理、パンフレットをスキャナ(OCR)でとっても殆ど文字の再入力になり、また現地の駒札の写真から筆記で書き出して、文字入力するのも大変な根気仕事だ。
息抜きに自宅周辺に咲く花を撮りまくってきたので、順不同、花名不詳で並べるのでご容赦願いたい。
これは白
楼門(重文)前で権禰宜・村松晃男さまを囲んで記念撮影、1号車の皆様
記念写真は事務局から参加者全員、お世話になった宮司さま、京都SKY観光ガイド協会の皆様にお送りしました。
高倉殿(重文)、神宝展が行われているようで、本殿参拝を終えた一行が次々と入って行かれる
白い祭幕の張られた本殿・権殿参拝の入り口。参拝者はその手前の廊下に上がり下足を預け、白い襷を首に掛け左手の控え室に入っていく。2号車一行は入ってかなり時間が経つがまだ出てこない。心配そうに幕の前で待つ四方事務局長。案内をしていただいた祢宜さまが出てこられたが、交代で入る肝心の1号車の会員の姿がない。
ここで「献上・紀州梅道中」の一行が登場。予期せぬハプニング1号車の会員の姿も行列見物の向こう側に垣間見えるが、私は続いて楼門内の撮影に回ったので連絡のとりようなし。
立砂のみえる細殿(重文)
このあとにわかに北山時雨が降り出し、参道を一ノ鳥居、のバスまで急ぐ。
2006/07/01のBlog
祭 祀
賀茂祭(葵祭)勅祭 五月十五日
 欽明天皇の御代(六世紀)天下風雨順ならず、庶民大いに嘆いたので勅してうらなわしめ給うたところ、賀茂大神の崇りであると判った。そこで馬に鈴をかけ走らせ祭祀を行った結果、五穀成熟して天下奉平となった。
このことにより毎年国家的な行事として祭が行われるようになった。これが賀茂祭の起源である。
 神前に葵を献じ、全部の社殿には葵を飾り、奉仕員全て葵を着けるので葵祭ともいう。平安時代は殊に盛んであって、「まつり」と言えば葵祭を指すほどであった。現今は五月十五日、皇室より勅使を御差遣になり旧儀によリ行われる。その行列は近衛使代を中心に牛車、花傘、斉王代(さいおうだい)列など総勢五百名、列の長さは八百メートルに及ぶ。
 先づ、午前京都御所を出発、下鴨神社にて祭儀を行った後、再び行粧を整えて、賀茂川の堤を北上し、午後当神社に到着。勅使の御祭文奏上、牽馬(ひきうま)、東游(あづまあそび)、走馬等の儀が約二時問にわたり、古儀のまま行われる。清らかな流れと、新緑の境内で行われるこの祭儀の有様は、さながら王朝絵巻を見るが如くである。(入場パンフレットより)
競馬会神事 五月五日
 稲沢天皇の寛力士年二〇九三年)に始まる。早朝より頓言遷御、菖蒲の根合せ等が行われる。見尻(騎手)は左右口分れ、左方は打毬、右方は柏餅の舞楽装束を善げ、馬口見って社頭口参進する。
 勧盃、日形見、月形見、修祓、奉幣の儀を行い、次いで馬場にて順次競脂する。号の様子は『徒然草』などにもよく書かれている。蓋し天下の壮観である。京都市登録無形民俗文化財。これ口先仁志、五月コ已には、五日の競馬に出場する馬足の、優劣を定める足汰式がある。

烏相撲 九月九日
 菊花を献じ無病息災を祈願する重陽神事を了えて後、細殿の前庭にて童子二十人をして相撲(すま)わしめ神覧に供する。その問、刀禰が烏鳴き、烏の横飛びなどをして、頗る興趣のある行事である。烏の行事は八咫烏(やたがらす)伝説に由来し、細殿にて葵祭に奉仕された斎王代が御覧になる。
権禰宜・村松晃男さまの説明
川尾社に向かって拝礼する一同
癒しの神様、精神安定、傷ついた心を癒していただける神様
やっと楼門前に1号車一行が到着、集合写真を撮るが、楼門の中には入らずに他に向かわれた。ならの小川にからる玉橋(重文)越しに撮っていて、制止縄が両側に張られ渡れないので、またカメラ道具の後始末で何処に行かれるのか聞く余裕がなかった。
権禰宜・村松晃男さまの説明を拝聴する1号車一行
ならの小川の橋の上で
岩上(がんじょう)
賀茂祭(葵祭)には、宮司この岩の上に蹲踞(そんきょ)勅使と対面し、御祭文(ごさいもん)に対して神の御意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を申す神聖な場所である。 太古、御祭神が天降りされた秀峰神山(こうやま)は、本殿の後方約2kmの処に在り、頂きには降臨石(こうりんせき)を拝し、山麓には御阿礼所(みあれしょ)を設け、厳粛な祭祀が斉行されてきた。
 この岩上は神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を今に伝える場所である。神と人との心の通路(かよいじ)でもあり、「気」の集中する場所である。(駒札から集録)
片山御子神社(片岡社・重文)?を参観
片岡橋(重文)を渡る一行