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なべちゃんの散歩道
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2007/05/12のBlog
A:東神宮寺、B:中神宮寺、C:,明智町、D:,西神宮寺、E:月見町(当番自治会)
首記の件、恒例になっております「4ブロック対抗ソフトボール大会」が下記の要領に於て開催されます。
皆様におかれましては日頃大変ご多忙の事と思いますが、ご協力を宜しくお願い申し上げます。
開催日程:平成19年6月3日(日曜日)
場 所:綾部中学校グランド(雨天中止⇒当日am7時に会長へ連絡)
時 間:am8:30開会・開始9:00~終了pm1:00(予定)
参加人員:中神宮寺自治会選手]5名程度(予定)
参加資格:選手は社会人(但し中学生・高校生2名まで可能)
試合要領:①試合は7回戦又はT時間以内
②自治会3役の中1人は必ず1イニング出場する。
③順位は高勝率順・同率の場合は得失点差の多い順ぐ=伺点の場合は、最終出場選手9人によるジャンケンで決める。
④金属スパイクは使用禁止
試合開始:am9:00 第1試合・B中神宮寺自治会=A東神宮寺自治会(中神)
 10:10 第2試合・B中神宮寺自治会=C明智自治会
接 待::当日参加者全員に昼食(弁当)を支給致します。(参加登録者)
申込期日:5月20日pm7:00⇒体育部長までお願い致します。
平成19年5月7日
中神宮寺自治会
自治会長:由良 嘉則、体育部長:四方 良昭
[ 10:20 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
綾部市が主管して開催される第55回 四都市体育大会がいよいよ明13日(日)にせまった。テニス競技の会場は、福知山市市民テニスコ-ト(和久市)である。これはソフトテニス競技種目と隔年で高倉公園の大会コ-トを使用するため、テニス競技種目が今年は他市の大会コ-ト借用(8面以上必要)となった。
我が綾部市の代表選手団は次の通り、健闘を祈ります。
監 督:小林 修 コ-チ:梅林憲道 マネ-ジャ-:四方まき子 主将:真下一也
一般男子選手:真下一也、梅林憲道、岩本辰弘、川島稔久、塩見勲生、大志万知之、山本英和、足立尚哉、井上幸紀、吉田虎司
女子選手:足立真理子、青木利子、村山知世、高嶋加代子、相根悦子、村山末世
壮年選手:塩尻秀和、西村善和、諏訪好晴、小林 修、角野敏夫、梅垣和男
2007/05/11のBlog
[ 08:36 ] [ 山野草・滝(ふじもと様投稿) ]
[関連したBlog]
舞鶴市在住のふじもと様から山野草の写真をいただきました。
若・丹国境尾根(若狭:福井県、丹波:京都府の府県境に走る山嶺)に住む天狗さんも、あっと驚く、ふじもと様の俊足ぶりです。
写真:イワカガミ
ヒメハギ
イカリソウ(堀越峠)
イカリソウ(白)
2007/05/10のBlog
[ 11:58 ] [ テニス 綾部市テニス協会 ]
GW前に「ヤマシャクヤク」を見に軽い登山をして、嫌やと云うほど運動不足を味わったので一身発起、「綾部テニス教室」に参加した。スキーで体を痛めてから、もう5年ほども所属している「綾部ローンテニスクラブ」の練習会をさぼっているので、テニス再起動である。現在も「大会試合」にだけは練習不足のまま参加していたが、練習不足では好成績のあげようもなかったので、新規巻き直しではある。計10回の教室に皆出席するだけでなく、土日のクラブ練習にも参加して体力増進をはかり、ふじもと様との「登山・スキー行き」に遅れを取らぬようにしたいと思う。これも今年やっと、テニス協会の役員を辞退させていただけた余禄ではある
パンジー
2007/05/09のBlog
[ 09:34 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
GW前半は末娘が乳児をつれて帰省。豊中の親元に出かけるのと入れ替わりに、千葉から長女一家が孫と帰省。元気いっぱい川遊びに行き「亀」を捕まえて帰ってきた。大きなスッポンもいたそうで噛まれでもしたら大変。次女も孫3人を連れて帰省。中学生になった孫は1人で寝ると云い出し、急遽部屋を空けて移動。5日夕食は子供4家族全員で自宅で会食だった。6日には全員引き上げ夫婦二人暮らしに戻ったが、末娘亭主親戚のご不幸があり、乳児を連れて末娘が再度帰省中(市内の近くに在住)
我が家には、まだGWが続いている感じである。
黒亀・茶亀・子亀。かめ・カメ・甕
かめさんだっ
こがめだぞっ
沢蟹(さわかに)だっ
2007/05/08のBlog
鼻高の舞(王の舞)
木鉾先に小鈴を付けて持つ。木鉾は、素手で掴んではならない。
第一動作 参拝: 神輿の前に進み、足を広げて立ち、各神輿に参拝。これを三回・計九回行なう。
第二動作 捜す: 鉾で四方の地上を打つように。最後は雫を落とすように突き出す。
第三動作 地固め: 鉾を持って北方から地上を掻き回し、掃き均した後、此処彼処と足で踏み固める。北、南から二回
第四動作 舞: 鉾を神輿に面して立てる。大いに悦ぶ客姿で首を傾け。 透かすように鉾を見つつ五六歩後に退き。足摺りで鉾の下に進む。北、南から二回
第五動作 参拝: 神輿に向かい一礼する。 以上
現在は最後に子供太鼓をほうのうしている。又、祭礼終了後、「舞楽殿」にて行列参列者は「宮座」の決まった場所で昼食「講」をする。
(参考資料)綾部歴史のみち(綾部資料館発行)、郷土誌・東八田、神社昇格願い(昭和二年発行・相根久左衛門)、於与岐区史(第二章・沿革の部)綾部史談会報第七八号(村上祐二氏)同上一二五号(植木行宣氏)丹波誌何鹿郡之部、会報「綾部の文化財第五五号」等(写真)綾部の文化財を守る会事務局
於与岐八幡宮 宮司 稲葉達夫
於与岐八幡宮祭礼芸能保存会 代表 吉田 晟
獅子頭之舞
一、北方に向かって三拝
二、神輿の一の宮に三拝
三、二の宮に三拝
四、三の宮に三拝
五、御休憩所の注連縄の内を、太鼓の音に合わせて、並みの歩調で一回りする。
六、各神輿に一拝し、早々歩調で一回りする。
七、各神輿に一拝し、走り歩調で一回りする。
八、終わりに一拝し、拝殿に戻る。
平成十八年御旅順序(これは毎年変わる)
 一、白弊 吉崎正博
 一、鳩形 吉崎薫登、吉崎大晟
 一、田楽 吉崎侑仁、田中慎二、吉崎萌里、坂田奈穂
 一、旗 若干名 参拝者より
 一、金幣 滝花五郎
 一、弓矢 吉崎文敏
 一、鉾 吉崎敏明
 一、太鼓 吉田侑弘、井上充
 一、獅子 吉田晟、吉田輝義
 一、鼻高 吉田剛二
 一、宮司 稲葉達夫
 一、一の宮 上野和雄、大久保静雄、岡林孝二、吉田高司
 一、禰宜 上野司
 一、二の宮 坂田幸治、坂田勉、吉田茂実、吉田豊
 一、三の宮 吉崎耕二、吉田成信
 一、禰宜 山口吉隆
 一、饌炊 吉崎文夫(以上三十一名であるが、三基の神輿が重いので、数名が援助している。)
2007/05/07のBlog
一.於与岐八幡宮祭礼芸能について
 一、於与岐八幡宮の祭礼の特色は、祭礼が氏子の株組織と密着して宮座の形をとって伝承されてきたことである。戦後そのしきたりがすたれたが、宮座を残したものとして注目される。祭礼は陰暦では八月十五日であったが今は、十月十五日に近い日曜日に行なわれる。昔は祭礼の三日前打ち合わせの口あけ講をし、禰宜役二名が舞鶴に出向き身を清め証拠に海藻を持ち帰り、他の役は昔あった「いみ屋」で祭日まで精進潔斎をしていたという。今は九月三十日夜八時半頃、一の瀬の「小社」に宮司と神社総代四名が「宮迎えの行」をしている。
 一、大祭当日は朝八時於与岐町の四ヶ村に「ふれ太鼓」でまわる。九時半頃本殿において祭典が宮司、禰宜二名、神社総代、自治会長、棒頭(神輿の責任者)が参加して祭典が行なわれ、三柱の神を神輿に移す「御霊遷(みたまうつし)の儀」がありその時は、幕とじ一般の人はこの儀式は見ることが出来ない。その間、楽殿では「宮座」の形、すなわち一の瀬に創始した時の祭礼役・六役がそれぞれ同族に世襲されている。即ち禰宜役は吉田、上野の二家に鼻長役は吉田株二家へ、獅子役(獅子舞)吉田、吉崎、坂田株四家へ、庭雀役(ムシロを敷いて迎える役)は坂田株一家へ、御饌役(おせん・神にお供えする食事)を炊き奉った者を御饌炊と称し、吉崎株へ、初めて神輿を担いだ者を駕篭丁と称し、山口、吉崎、吉田、井上、滝花、野瀬井、坂田、大久保の十一株へ伝わり、又、昔は奉行役は古小袴と称し、相根・吉崎、吉田株に伝わっていましたが、今は区長、氏子総代が勤めている。
 これらは吉美地区の式内社・高倉神社では宝暦十三年(1763)の記録では有岡町のみが出すのが笛役、太鼓を打つ役、ヒヤソ踊の「ビンササラ」役五名、多田町のみが出す役、天満宮太鼓と打ち手、担ぐ役、「ビンサラサ」役 五人、ビンササラ役は他に、里町七人、小呂町四人、星原町三人の合計二十四人で各自のビンササラは二十四本で首にかけて、一踊り毎何番ソーレと声をかけるのが今でもしきたりである。
 さて、吉美のことはさて置き、儀式が終わり、着替えが終わった頃に、禰宜が舞楽殿へ来て御祓いをし、神社拝殿前に順次そろい、行列を組み、現在では神社の周囲を三回まわる御旅をする。終わって、庭の東方に神輿三基を塀並行に安置し、その前で獅子舞・鼻高の舞が奉納される。獅子舞は二人立ちで伎楽系のものである。鼻高の舞は一人が演ずるもので、白衣を着て天狗の面をかぶり、小鈴をつけた木鉾を持って舞う。鉾で地面をかきならしたり、足でふみしめたりする所作は国生みの神話を形どっている。田楽は、ビンササラ一人、太鼓三人の編成で、神輿の御旅をはやしながら先導するものである。(ア、オーハト)いずれも風化が著しいが、王舞・獅子・田楽をセットとする祭礼芸能を伝えている。この祭礼芸能のあり方は鎌倉時代に京都を中心に盛行したもので、その形を伝えていて貴重である
一.沿革(由緒)
一、伝承によると武内宿祢の遠裔の吉田七朗兵衛なるものが発起し、西暦710年人皇四三代・元明天皇の和銅三年に豊前の国宇佐神社より御分霊を拝受し、勧請し、一の瀬に祀る。
 当時氏子は何(い)鹿郡(かるがぐん)(現・綾部市)の味方村以北、下八田、淵垣中村、安国寺、梅迫、上杉、於与岐に至る七ヶ村の惣社であった。その根拠は現味方町の旧道を綾部側から鉄道のトンネルを越えていくと右手に大正元年八月建立の「於与岐八幡宮第一の鳥居跡」の高さ1.7メートル、方25センチメートルの碑がある。又旧道の淵垣町の二の宮神社の幟立ての横に同様の「於与岐八幡宮第二の鳥居跡」の碑がある。そして、上杉町鳥居野公民館前の左手に大正七年十月再建の「於与岐八幡宮第三の鳥居跡」の碑が現存しています。
 鎌倉時代は幕府の功臣・勧修寺重房が、京都より宗尊親王を将軍として迎えた功より上杉の姓を授与され、そのバックアップにより、又娘・清子を足利貞氏の家女房として迎え、初代将軍足利尊氏をもうけて何鹿郡(いかるがぐん)味方村から舞鶴の田邉までをもその勢力に抑えていたと思慮される。又、渕垣八幡宮は社殿によると1343年(康永二年)造営と記している。当時は足利尊氏が綾部安国寺を建立した時であり、於与岐八幡宮の分霊であるともいわれている。
 一、1441年(嘉吉元年)社殿大火にあう。
 一、1462年(寛正三年)八幡宮薬師如来再興。
 一、1551年(天文十九年)一の瀬八幡宮大水害にあう。(七ヶ村分離する。五ヶ村等にて八幡宮再建)。
 一、1715年(正徳五年)八幡宮社殿再々建(このとき、上杉村以南が分離・於与岐一村の村社となる。)現存する一の瀬の旧祀所の祠は、元お旅所の鳥居野の小社を移したものである。
 一、1748年(寛延元年)薬師如来修 理。
 一、1856年(安政三年)赤獅子頭奉納。
 一、1892年(明治二五年村社に決定、相根久兵衛記録から。)
 一、1898年(明治三一年、相根久兵衛・渡行祭礼護録を記す。)
 一、1907(大正元年)味方町に第一の鳥居跡の碑、渕垣町に第二の鳥居跡の碑を建立する。
 一、1914年(大正七年)指定神社の碑奉納(新五朗、吉美村星原・今井正三郎先生)
 一、1918年(大正七年)上杉町鳥居の公民館に第三鳥居跡の碑建立。
 一、1935年(昭和十年)八幡宮改築。