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2008/04/15のBlog
[ 19:11 ]
[ 花だより ]
[ 19:01 ]
[ 花だより ]
[ 14:11 ]
[ 花だより ]
2008/04/14のBlog
[ 15:57 ]
[ 文化財を訪ねて ]
槇山砲台跡の赤煉瓦建造物横の段を上がると少し傾斜した平地があり、ハングライダ-が飛び立てる板が敷かれている。うっかり傾斜面を下に引き込まれそうな感覚を覚えながら展望写真を撮る。
京都市北部、北山の芦生に水源発する大河:由良川の河口が見える。はるばる美山、和知、綾部、福知山を流れ下り、Uタ-ンして大江、舞鶴に向かう由良川の河口である。河口の向こうが丹後由良海水浴場、栗田(くんだ)半島、その向こうに隠れて栗田湾、天の橋立、伊根の船宿で有名な宮津湾があり、遠く丹後半島が見渡せる。
河口のこちら側は、舞鶴市の神崎海水浴場。この槇山に雲がかかって来ると海水浴場に雨が降り出すのを経験したものである。
京都市北部、北山の芦生に水源発する大河:由良川の河口が見える。はるばる美山、和知、綾部、福知山を流れ下り、Uタ-ンして大江、舞鶴に向かう由良川の河口である。河口の向こうが丹後由良海水浴場、栗田(くんだ)半島、その向こうに隠れて栗田湾、天の橋立、伊根の船宿で有名な宮津湾があり、遠く丹後半島が見渡せる。
河口のこちら側は、舞鶴市の神崎海水浴場。この槇山に雲がかかって来ると海水浴場に雨が降り出すのを経験したものである。
[ 09:48 ]
[ 文化財を訪ねて ]
旧舞鶴要塞 槇山砲台 明治33年
いつも山・山野草などの便りをいただく、舞鶴市の ふじもと様が3月に登られた時は、自衛隊のパラボラ分岐から先は積雪が30cmほどあったとのことである。
車で上れるとのことで行って来た。
引用1>西舞鶴市街から北へ約6km、舞鶴湾の入口部にある標高483mの槇山山頂、旧海軍の槇山砲台跡地の風致公園です。頂上からの眺望は極めて美しく、若狭湾国定公園のダイナミックな景観をぞんぶんに堪能することができます。由良金ヶ岬上福井線から分岐し頂上へは約5kmです。
引用2> 日清戦争以後、日露の対戦は必至と見て海岸防備を急いでいた時代です。明治30年3月、舞鶴軍港の着工と同じくして、陸軍も同年11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と葦谷砲台の起工を行いました。続いて浦入、金岬、槙山の各砲台、建部山、吉坂両保塁の設置に着手、同36年10月までに全工事を完成しました。
舞鶴湾を挟んで東岸西岸側に、各砲台、保塁、弾丸本庫などを配置しました。海軍が主力であったため、その軍港施設を守るという性格上、こうした施設は湾口の岬、市内への進入路を見下ろす山の頂上に築かれていましたので、戦後無用となってからは、人が訪れることも少なく、長い間放置されたまま当時の姿を今も留めています。
今日では、槇山がTVや各種無線の基地となって山頂まで道路が整備され、またこの槇山砲台跡からハンググライダーを楽しむ人が飛び立つ場所としても利用されています。
いつも山・山野草などの便りをいただく、舞鶴市の ふじもと様が3月に登られた時は、自衛隊のパラボラ分岐から先は積雪が30cmほどあったとのことである。
車で上れるとのことで行って来た。
引用1>西舞鶴市街から北へ約6km、舞鶴湾の入口部にある標高483mの槇山山頂、旧海軍の槇山砲台跡地の風致公園です。頂上からの眺望は極めて美しく、若狭湾国定公園のダイナミックな景観をぞんぶんに堪能することができます。由良金ヶ岬上福井線から分岐し頂上へは約5kmです。
引用2> 日清戦争以後、日露の対戦は必至と見て海岸防備を急いでいた時代です。明治30年3月、舞鶴軍港の着工と同じくして、陸軍も同年11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と葦谷砲台の起工を行いました。続いて浦入、金岬、槙山の各砲台、建部山、吉坂両保塁の設置に着手、同36年10月までに全工事を完成しました。
舞鶴湾を挟んで東岸西岸側に、各砲台、保塁、弾丸本庫などを配置しました。海軍が主力であったため、その軍港施設を守るという性格上、こうした施設は湾口の岬、市内への進入路を見下ろす山の頂上に築かれていましたので、戦後無用となってからは、人が訪れることも少なく、長い間放置されたまま当時の姿を今も留めています。
今日では、槇山がTVや各種無線の基地となって山頂まで道路が整備され、またこの槇山砲台跡からハンググライダーを楽しむ人が飛び立つ場所としても利用されています。
赤煉瓦で作られた待避壕が、いくつも車道に沿って頂上付近に並んでいる。建物の側面などに階段があり上に出られる。出ると海に向かって緩いスロ-プの平地がひろがり、崖縁にはハンググライダ-が飛び立てる木製の平面ベ-スが設けられている。三カ所の飛翔基地があった。この平地からは素晴らしい展望が開けている。
[ 08:40 ]
[ 花だより ]
2008/04/13のBlog
[ 17:25 ]
[ 花だより ]
4月9日(水)の朝日新聞朝刊に大きな写真入りで「老若美の競演、吉田の瑠璃寺のしだれ桜」が掲載されていた。それを見て早速、家内が友人と3人で見に行って来たという。夜に「チョットチョット」の声がかかり、プリンタ-で撮ってきた写真印刷の世話をした。
昨日は、舞鶴トレトレ-・センタ-に買い物があり、ついでに再び見に行くと云い、私の車で出かけた。センタ-前の交差点を曲がって海に向かい、海岸沿いの道を走りトンネルを抜けたところが吉田で、海岸側に村人が整理する駐車場があった。しだれ桜は少し歩いた近くにあり、桜を見る人で賑わっていた。地元の売店も開かれていた。若い2人連れにカメラを渡され、記念写真を撮ってあげたりで引き揚げた。
さらにいつも魚釣りをする白杉漁港の突堤わきを半島の先端まで車を進め、山に向かったところで槇山頂上への道を尋ねると、行き過ぎであり少し戻った所から山に登りなおした。槇山の砲台跡からの景観を楽しんだ後、再び吉田を通りがかると、他府県ナンバ-の大型観光バスが5台並び人で混雑していた。トレトレ・センタ-に向かう道でも奈良ナンバ-の大型観光バスと擦れ違い、「魚」と「桜」がセットで観光コ-スが組まれているようであった。舞鶴トレトレ・センタ-も人混みで一杯であった。
昨日は、舞鶴トレトレ-・センタ-に買い物があり、ついでに再び見に行くと云い、私の車で出かけた。センタ-前の交差点を曲がって海に向かい、海岸沿いの道を走りトンネルを抜けたところが吉田で、海岸側に村人が整理する駐車場があった。しだれ桜は少し歩いた近くにあり、桜を見る人で賑わっていた。地元の売店も開かれていた。若い2人連れにカメラを渡され、記念写真を撮ってあげたりで引き揚げた。
さらにいつも魚釣りをする白杉漁港の突堤わきを半島の先端まで車を進め、山に向かったところで槇山頂上への道を尋ねると、行き過ぎであり少し戻った所から山に登りなおした。槇山の砲台跡からの景観を楽しんだ後、再び吉田を通りがかると、他府県ナンバ-の大型観光バスが5台並び人で混雑していた。トレトレ・センタ-に向かう道でも奈良ナンバ-の大型観光バスと擦れ違い、「魚」と「桜」がセットで観光コ-スが組まれているようであった。舞鶴トレトレ・センタ-も人混みで一杯であった。
[ 09:34 ]
[ 文化財を訪ねて ]
瑠璃寺
由緒
瑠璃寺は、山号を金剛山と称する曹洞宗寺院である。創建は、江戸時代中期 村全体を焼きつくしたと伝えられる大火で瑠璃寺も全焼し、同時に過去帳始め寺の由緒となる一切の書類が焼失したので、詳らかではないが、文化元年(1812)に書かれた瑠璃寺過去帳によると、「当寺間山大渓和尚和上慶長十四年(1609)」とある。
かっては、鎌倉時代の元応年間(1319~1320)にさかのぼる寺縁起があったものと考えられる。
本尊
瑠璃寺の本尊は薬師如来である。本来曹洞宗の本尊は、釈迦如来なので、薬師如来が祀られているということは、大渓和尚以前から瑠璃寺が存在していたとの証拠ではないかと考えられる。
しだれ桜の由緒について
吉田瑠璃寺のしだれ桜は、樹齢三百年以上と伝承されており、昭和五十二年(1977)には「古木と若木が織りなす開花期の景観すばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっているが、天正八年(1580)から慶長四年(1599)にかけて、この地に幽閉されていた京都の公卿中院通勝(なかのいんみちかつ)を慰めようと、当時の田辺城主であり、通勝の歌の師でもあった細川幽斎が、京都の吉田山の桜を移し植えて、この地を吉田と名付けたのではないかと言う。また、瑠璃寺開山の大渓和尚は、かの田辺籠城戦に細川幽斎を助けて、袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦った人物であることから、瑠璃寺と幽斎にはつよい結び付きがあったのももっともと思われる。
一方、瑠璃寺の南東に当たる吉田の入り江には、年取島とゆう周囲二百米ほどの小島がある。この島の小庵が二人の会う場所であったといわれ、幽斎は舟で城と島を行き来したとみられる。ある年の大晦日に二人は夜が更けるのも忘れて歌に興じ、ついに元旦をむかえてしまい、年取島と名付けたと伝えられている。また、その時幽斎が詠んだ『藻塩草かき集めたる跡絶へて、ただ年取の名のみのこれり』と、以前からあった地名の「トットリ」を読みこんで、「年取」の字をあて、風流を示したのではないかとも考えられる。
このようなことから、瑠璃寺と年取島と中院通勝、細川幽斎は一連のものと考えるのが自然のようで、その鍵を握るのが「吉田のしだれ桜」かもしれない。
※因みに、平成十五年(2003)、当寺しだれ桜の故郷とおもわれる、京都吉田山の吉田神社と縁あって、友好の関係が結ばれ、平成十六年(2004)二月、古木のしだれ桜からとった、穂木を贈り、吉田山天元宮の地に里帰りした。
由緒
瑠璃寺は、山号を金剛山と称する曹洞宗寺院である。創建は、江戸時代中期 村全体を焼きつくしたと伝えられる大火で瑠璃寺も全焼し、同時に過去帳始め寺の由緒となる一切の書類が焼失したので、詳らかではないが、文化元年(1812)に書かれた瑠璃寺過去帳によると、「当寺間山大渓和尚和上慶長十四年(1609)」とある。
かっては、鎌倉時代の元応年間(1319~1320)にさかのぼる寺縁起があったものと考えられる。
本尊
瑠璃寺の本尊は薬師如来である。本来曹洞宗の本尊は、釈迦如来なので、薬師如来が祀られているということは、大渓和尚以前から瑠璃寺が存在していたとの証拠ではないかと考えられる。
しだれ桜の由緒について
吉田瑠璃寺のしだれ桜は、樹齢三百年以上と伝承されており、昭和五十二年(1977)には「古木と若木が織りなす開花期の景観すばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっているが、天正八年(1580)から慶長四年(1599)にかけて、この地に幽閉されていた京都の公卿中院通勝(なかのいんみちかつ)を慰めようと、当時の田辺城主であり、通勝の歌の師でもあった細川幽斎が、京都の吉田山の桜を移し植えて、この地を吉田と名付けたのではないかと言う。また、瑠璃寺開山の大渓和尚は、かの田辺籠城戦に細川幽斎を助けて、袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦った人物であることから、瑠璃寺と幽斎にはつよい結び付きがあったのももっともと思われる。
一方、瑠璃寺の南東に当たる吉田の入り江には、年取島とゆう周囲二百米ほどの小島がある。この島の小庵が二人の会う場所であったといわれ、幽斎は舟で城と島を行き来したとみられる。ある年の大晦日に二人は夜が更けるのも忘れて歌に興じ、ついに元旦をむかえてしまい、年取島と名付けたと伝えられている。また、その時幽斎が詠んだ『藻塩草かき集めたる跡絶へて、ただ年取の名のみのこれり』と、以前からあった地名の「トットリ」を読みこんで、「年取」の字をあて、風流を示したのではないかとも考えられる。
このようなことから、瑠璃寺と年取島と中院通勝、細川幽斎は一連のものと考えるのが自然のようで、その鍵を握るのが「吉田のしだれ桜」かもしれない。
※因みに、平成十五年(2003)、当寺しだれ桜の故郷とおもわれる、京都吉田山の吉田神社と縁あって、友好の関係が結ばれ、平成十六年(2004)二月、古木のしだれ桜からとった、穂木を贈り、吉田山天元宮の地に里帰りした。