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2008/05/13のBlog
[ 11:50 ]
[ あやべの文化財 ]
あやべ西国観音霊場第一番
近畿楽寿観音霊場第二十一番
那智山 正暦寺(高野山真言宗)
1.所在地 京都府綾部市寺町堂ノ前45番地
ご本尊:聖観世音菩薩
御脇立:不動明王・毘沙門天
御詠歌:
何鹿や いかに名づけて那智の山 滝も綾部の浪に乗るらん
三熊野を ここに移して那智の山 後の世てらす 慈悲のみのりに
1.正暦寺の縁起沿革
当山は人皇61代朱雀天皇の天慶五年(942)空也上人当地巡教のみぎり、上人42歳の厄除けのために聖観世音菩薩の尊像を彫刻され、須知山の頂き「霊山ヶ嶽」に安置された。これが当山の開創である。この年から数えて、平成14年は1千60年目であった。その後、65代一条天皇の時代、聖楽上人はせっかくの霊仏が山頂に鎮座されて、諸人の尊敬も十分でないことを歎き、現在の「桜戸」に移し、七堂伽藍を建立し密教伝道の道場とした。これ正暦二年(991)のことで、開創から49年後であった。
その年8月、炎暑はげしく、旱害各地に生じ、朝廷では諸国に勅令を出し、雨乞祈願をせしめられた。聖楽上人その撰にあたり、雨を祈られたところ、功績たちどころに顕れ庶民にその惠みにうるおうこと多大、天皇いたくその功績を賞され、特に年号を寺号に用いることを勅許されて、正暦寺と名づけられ、かつ勅願寺に准ぜられたという。降って平氏の盛んな時代、小松内大臣平重盛公、当山御本尊に深く帰依し、あまたの荘園を寄進し、かつ当地の地形が紀州熊野の環境に酷似しているとして、熊野三山を当地に移し、山号を那智山(旧須知山)と称した。これ当山山号の由来であり、当市内に熊野神社もあり、本宮、新宮等の名称の町名が今でも残っている。
その後寛永十一年(1634)、鳥羽より入封した藩主式部小輔九鬼隆李公、深く当山本尊に帰依し、数多くの供田を寄進し、かつ祈願寺と定められ、なお家中の諸氏進んで当山の檀徒となり、寺門の再興に協力されたため、次第に寺門の基礎が固まった。湛信上人が住持の時、伽藍等甚だしく損傷しているのを見て、大改修を発願、藩主の後援を仰ぎ、遠近檀信徒に呼びかけて、ついに天保九年(1838)本堂を改築、続いて庫里その他寺内の堂宇、山門にいたるまで、総改築の大事業を完成した。
その後、明治維新の変動に遭い、藩主の庇護は離れたが、幸いに本尊菩薩の御威光、高祖大師の御遺徳ならびに檀信徒の熱烈な信仰護持によって、寺運の衰微を免れた。
なお、昭和35年には、御本尊聖観世音菩薩33年目の御開帳大法要を厳修、戦時中供出した梵鐘の再鋳も成り、叉当山に安置する大聖不動明王を交通安全・諸願成就の本尊として柴燈大護摩供を執行し、爾来毎年1月28日初不動御縁日に盛大に修している。
昭和58年3月には,宗祖弘法大師人定1150年御遠忌大法要を厳修し、その記念事業として境内を拡張し、不動堂、大師堂を建立し、更に日展特選作家渡辺誠二氏に謹製の幼没水子地蔵尊を建立し、各家の分身水子地蔵尊を祀り、毎月24日(お地蔵さんのご縁日)を定例供養日としている。
高齢化社会にあって、長命で楽しく幸せな老後を願い、由良川が眺望できる新境内に楽寿観音像を建立し、平成元年五月には、三府県(兵庫・京都・滋賀)で「近畿楽寿観音霊場会」を開創し、当山は二十一番札所として近隣の信仰を得ている。
平成五年三月、御本尊御開扉法要を高野山管長猊下の御親修のもと、厳修、記念事業として、位牌堂・大師堂を建立し、大師堂には雪舟より十七代目長谷川等伯の末裔、春洋画伯の襖絵が完成した。
写真:正暦寺の本堂と萩
近畿楽寿観音霊場第二十一番
那智山 正暦寺(高野山真言宗)
1.所在地 京都府綾部市寺町堂ノ前45番地
ご本尊:聖観世音菩薩
御脇立:不動明王・毘沙門天
御詠歌:
何鹿や いかに名づけて那智の山 滝も綾部の浪に乗るらん
三熊野を ここに移して那智の山 後の世てらす 慈悲のみのりに
1.正暦寺の縁起沿革
当山は人皇61代朱雀天皇の天慶五年(942)空也上人当地巡教のみぎり、上人42歳の厄除けのために聖観世音菩薩の尊像を彫刻され、須知山の頂き「霊山ヶ嶽」に安置された。これが当山の開創である。この年から数えて、平成14年は1千60年目であった。その後、65代一条天皇の時代、聖楽上人はせっかくの霊仏が山頂に鎮座されて、諸人の尊敬も十分でないことを歎き、現在の「桜戸」に移し、七堂伽藍を建立し密教伝道の道場とした。これ正暦二年(991)のことで、開創から49年後であった。
その年8月、炎暑はげしく、旱害各地に生じ、朝廷では諸国に勅令を出し、雨乞祈願をせしめられた。聖楽上人その撰にあたり、雨を祈られたところ、功績たちどころに顕れ庶民にその惠みにうるおうこと多大、天皇いたくその功績を賞され、特に年号を寺号に用いることを勅許されて、正暦寺と名づけられ、かつ勅願寺に准ぜられたという。降って平氏の盛んな時代、小松内大臣平重盛公、当山御本尊に深く帰依し、あまたの荘園を寄進し、かつ当地の地形が紀州熊野の環境に酷似しているとして、熊野三山を当地に移し、山号を那智山(旧須知山)と称した。これ当山山号の由来であり、当市内に熊野神社もあり、本宮、新宮等の名称の町名が今でも残っている。
その後寛永十一年(1634)、鳥羽より入封した藩主式部小輔九鬼隆李公、深く当山本尊に帰依し、数多くの供田を寄進し、かつ祈願寺と定められ、なお家中の諸氏進んで当山の檀徒となり、寺門の再興に協力されたため、次第に寺門の基礎が固まった。湛信上人が住持の時、伽藍等甚だしく損傷しているのを見て、大改修を発願、藩主の後援を仰ぎ、遠近檀信徒に呼びかけて、ついに天保九年(1838)本堂を改築、続いて庫里その他寺内の堂宇、山門にいたるまで、総改築の大事業を完成した。
その後、明治維新の変動に遭い、藩主の庇護は離れたが、幸いに本尊菩薩の御威光、高祖大師の御遺徳ならびに檀信徒の熱烈な信仰護持によって、寺運の衰微を免れた。
なお、昭和35年には、御本尊聖観世音菩薩33年目の御開帳大法要を厳修、戦時中供出した梵鐘の再鋳も成り、叉当山に安置する大聖不動明王を交通安全・諸願成就の本尊として柴燈大護摩供を執行し、爾来毎年1月28日初不動御縁日に盛大に修している。
昭和58年3月には,宗祖弘法大師人定1150年御遠忌大法要を厳修し、その記念事業として境内を拡張し、不動堂、大師堂を建立し、更に日展特選作家渡辺誠二氏に謹製の幼没水子地蔵尊を建立し、各家の分身水子地蔵尊を祀り、毎月24日(お地蔵さんのご縁日)を定例供養日としている。
高齢化社会にあって、長命で楽しく幸せな老後を願い、由良川が眺望できる新境内に楽寿観音像を建立し、平成元年五月には、三府県(兵庫・京都・滋賀)で「近畿楽寿観音霊場会」を開創し、当山は二十一番札所として近隣の信仰を得ている。
平成五年三月、御本尊御開扉法要を高野山管長猊下の御親修のもと、厳修、記念事業として、位牌堂・大師堂を建立し、大師堂には雪舟より十七代目長谷川等伯の末裔、春洋画伯の襖絵が完成した。
写真:正暦寺の本堂と萩
[ 08:30 ]
[ 花だより ]
[ 07:51 ]
[ 花だより ]
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2008/05/12のBlog
[ 13:46 ]
[ 花だより ]
[ 09:57 ]
[ 花だより ]
[ 08:56 ]
[ 花だより ]
[ 07:40 ]
[ 花だより ]
私の花音痴は今に始まったことではないが、思案が足りないのも大きな原因だと思う。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」の引用で、まず「石楠花」と「芍薬」を取り違え、山に咲く「シャクナゲ」や「ヤマシャクヤク」は充分に知っていながらも推理が働かなかった。
「牡丹」と「芍薬」の違いも、「牡丹は樹木、芍薬は一年草(宿根)の草花」と家内に聞いて、そうだったと改めて認識した次第である。
「花の命は短くて・・」、先週、花盛りであった「牡丹」の命はたったの四日間とのこと。「千手院のボタン」も我が家のも既に散ってしまい萼だけが残っている。我が家の「芍薬」は、まだ蕾。下の畑に咲いた「シャクヤク」を写真に撮った。
「牡丹」と「芍薬」の違いも、「牡丹は樹木、芍薬は一年草(宿根)の草花」と家内に聞いて、そうだったと改めて認識した次第である。
「花の命は短くて・・」、先週、花盛りであった「牡丹」の命はたったの四日間とのこと。「千手院のボタン」も我が家のも既に散ってしまい萼だけが残っている。我が家の「芍薬」は、まだ蕾。下の畑に咲いた「シャクヤク」を写真に撮った。
2008/05/11のBlog
[ 20:46 ]
[ Doblog 朝顔・風船蔓部 ]
今年も「Doblog朝顔部会、風船蔓部会」の種を蒔き発芽しました。
もう3年目になりますが、「Doblog朝顔部会・部会長:シルバ様」からいただき、昨年採種した種です。
今年もDoblog両部会に参加して、美しい「朝顔」と「風船かずら」を楽しみたいと思います。
朝顔のホワイトが発芽していないようなので、追加蒔きをします。
もう3年目になりますが、「Doblog朝顔部会・部会長:シルバ様」からいただき、昨年採種した種です。
今年もDoblog両部会に参加して、美しい「朝顔」と「風船かずら」を楽しみたいと思います。
朝顔のホワイトが発芽していないようなので、追加蒔きをします。