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2006/01/28のBlog
[ 17:41 ]
2005/12/18のBlog
[ 22:33 ]
[ 映画(サ)行 ]
2005/12/17のBlog
[ 10:26 ]
[ 映画(ワ)行 ]
2005/12/11のBlog
[ 18:57 ]
[ 映画(カ)行 ]
軍隊の訓練風景。これは異形だ。張りつめた筋肉が躍動し飛散する汗と往復する擬死風景とそれらを激しく叱咤する理不尽な命令が等しく全員に階級的な暴力教室で通達されることでもって辛うじて平等主義的なものを形作る特殊世界。
それは世間一般の我々の住む極めて不平等な社会とは異なり一見平等主義的な平等に不平等がある世界。
そこに属し間接的に社会に奉公することによって自らを初めて社会の一員であるとの属性を得、居場所を確保しうる姿は成る程大変な奇異に見えるだろう。兵役が国民の義務に科せられている韓国とはちがいやはりぼくらにとって軍隊の世界がおよそ身近であるとは言いがたい。尚更、冒頭の訓練風景で兵士達が仲良くみんな仰向けで天に向かって激しく勃起している光景がありますけれどこれが軍隊というものの絶対的なディシプリンへの服従を物語っているわけですがもうこれだけでいかに軍隊が過酷かそして現実社会とはちがう特殊セクトな裏社会であるのかがわかるわけでこれ普通に入りたくない。
そしてその軍隊のディシプリンとはやはり世間一般のディシプリンとは異なるために軍人としては正しく順応し適応が出来ていたとしてもそれは軍隊内での適性に過ぎずそれは現実の社会での適応スキルをは意味しない。だからいくら軍隊内で誉められてもそれは軍隊内でのみ有効な文脈にすぎず現実には社会的に些かも評価に値しないのであって任務に忠実であった結果の誤殺の末の受勲も然り。
現実にはこの男は社会への適性能力は格段に劣るわけでしてじっさいはその彼が軍隊に身を置換することで「社会」への適応を間接的に獲得していたかのようにみえたのはそれは軍隊内でのみ行使可能な階級(権力)に依存しているにすぎず、それゆえに民間人を誤射殺した男は社会に戻れるはずもなく脱社会のもとで自分の拠り所であるところの居場所を提供してくれていた闘争に駆り立てられる他にない。
同様に誤射殺されたことによって脱社会を余儀なくされた女との協定によって。
しかしながらこの有刺鉄線によって囲まれた軍隊の訓練(遊戯)風景のある種の異様。それはやはりこの海岸警備隊が仮想する敵が極めてアンリアルなことに由来する。なぜなら実践的な戦闘能力の向上よりも兵を絶対的に蹂躪することにのみ重点を於いた非効率なこの訓練法で無駄に疲労していたらじっさいの攻守に支障をきたすにもかかわらずのこの後先考えない不条理な過酷さにもしおれ北だったらこの訓練後のすぐあとに攻撃し掛けるけどまあそれはいいとしてこれ戦闘を想定しているはずである本人たちでさえいまだ敵の実体について明確には特定できていないのでありそれは最後の消失する境界線のように朧げなものなのであるしその動揺は広くいとも容易く感染するのである62点。
それは世間一般の我々の住む極めて不平等な社会とは異なり一見平等主義的な平等に不平等がある世界。
そこに属し間接的に社会に奉公することによって自らを初めて社会の一員であるとの属性を得、居場所を確保しうる姿は成る程大変な奇異に見えるだろう。兵役が国民の義務に科せられている韓国とはちがいやはりぼくらにとって軍隊の世界がおよそ身近であるとは言いがたい。尚更、冒頭の訓練風景で兵士達が仲良くみんな仰向けで天に向かって激しく勃起している光景がありますけれどこれが軍隊というものの絶対的なディシプリンへの服従を物語っているわけですがもうこれだけでいかに軍隊が過酷かそして現実社会とはちがう特殊セクトな裏社会であるのかがわかるわけでこれ普通に入りたくない。
そしてその軍隊のディシプリンとはやはり世間一般のディシプリンとは異なるために軍人としては正しく順応し適応が出来ていたとしてもそれは軍隊内での適性に過ぎずそれは現実の社会での適応スキルをは意味しない。だからいくら軍隊内で誉められてもそれは軍隊内でのみ有効な文脈にすぎず現実には社会的に些かも評価に値しないのであって任務に忠実であった結果の誤殺の末の受勲も然り。
現実にはこの男は社会への適性能力は格段に劣るわけでしてじっさいはその彼が軍隊に身を置換することで「社会」への適応を間接的に獲得していたかのようにみえたのはそれは軍隊内でのみ行使可能な階級(権力)に依存しているにすぎず、それゆえに民間人を誤射殺した男は社会に戻れるはずもなく脱社会のもとで自分の拠り所であるところの居場所を提供してくれていた闘争に駆り立てられる他にない。
同様に誤射殺されたことによって脱社会を余儀なくされた女との協定によって。
しかしながらこの有刺鉄線によって囲まれた軍隊の訓練(遊戯)風景のある種の異様。それはやはりこの海岸警備隊が仮想する敵が極めてアンリアルなことに由来する。なぜなら実践的な戦闘能力の向上よりも兵を絶対的に蹂躪することにのみ重点を於いた非効率なこの訓練法で無駄に疲労していたらじっさいの攻守に支障をきたすにもかかわらずのこの後先考えない不条理な過酷さにもしおれ北だったらこの訓練後のすぐあとに攻撃し掛けるけどまあそれはいいとしてこれ戦闘を想定しているはずである本人たちでさえいまだ敵の実体について明確には特定できていないのでありそれは最後の消失する境界線のように朧げなものなのであるしその動揺は広くいとも容易く感染するのである62点。
2005/11/11のBlog
[ 22:36 ]
[ 映画(英数字その他) ]
監督・北野武程、その訝しい作家性とかいうものを(半ば懐疑的な物言いによって)内容よりも先に「たけし」という記号でもって問われる人物もいないだろう。
なるほど、北野武は度々その一連の真っ当な映画作品群によってしても内容よりもあの「たけしの」という事象についてが多く論じられるという誠に希有な「映画監督」であるといえるだろう。そしてそれはやはり常に「たけしの」映画を見るときその「たけし」から独立した単体としての映画自体だけを見ることは我々としては許されずに必然として付随する「たけしの」という付加機能性その呪縛から解き放たれたフラットな目線では決して見れないというそれほどの強力な地盤がもはや体質として蓄積されているこの同族の日本人であるということは幸福なのか不幸なのかはわからないが、ましてやこれはその武が、自らの名を冠し、映画を撮った。
前述したように、地肌が既に「たけし」という記号で汚染された我々が更に「TAKESHIS’」と、追い打ちをかけるように銘打たれた強烈な記号に囚われた以上、「たけし(武)」を強力に意識しながら映画に臨むしかないという非常に限定的な状況下で画面に接する以外に選択肢の許されないこれは紛れもない「TAKESHIS’(たけしの)」映画である。
そして言うまでもなくこれは「映画制作」自体を主題とした映画なわけであるからして当然のように主人公はこの「TAKESHIS’」を撮る北野武監督そのものであるといえよう。画面上に配置される様々な「たけし(武)」は北野武監督自身がひとり衣装を着て「たけし(武)」という役者を演じているに過ぎない。当たり前だが。
だから「たけし」は映画内において複数登場しているように見えて実はそれは同一人物が衣装を着替えているに過ぎず(これも当然だが)、それ故にふたりの「たけし」は同画面内に全身が一度たりとも正確に捉えられることはない。それがあの些か前時代的な異様な映像的な演出に繋がるが、それはやはり、上記の理由からそれでなくてはいけない意味があるからだ。それはたけしが二人ではなく一人しかいないからで(正確には「TAKESHIS’」を監督する北野武以外に「たけし」はいない)あるという表明ともいえるだろう。
実際に衣装部屋で「たけし」が「たけし」に着替える場面があるがやはり映画内とはいえ「たけし」であるということはそういうことだ。仮初めの衣装を着せられて「たけし」を生きる。しかしたしかに涙目のピエロも人形もさすがに直截的だといえやはりそういうことなのだろう。いくらもがいても、いくら夢のなかで死んでも、いくら映画のなかで人を殺しても、そして何度も「たけし」を殺しても、やはりその仮初めの姿の人形使いである監督「北野武」は、「北野武」であるという現実に変わりない。この映画内の登場人物(役者)の「死」にも「痛み」にも現実感が希薄なのもその為だ。
ピカソはキュビズムに於いて自分(のよう)に見える断片を平面に当てはめてそれらを組み立てることによって《自分》を表現したが(「TAKESHIS’」のポスターのように)、それはふつうに自画像を描いても結局キャンバスや鏡の前でピカソらしくポーズを取りピカソを演じる人物(役者)を描くことでしかなかった事に気付いてしまったからだ。
だから北野武は、映画に登場する「たけし(武)」によって、個々の解体された北野武の断片によって、監督であり主人公である北野武そのものを描こうとした。
これはその北野武その人の解体された断片をフラクタル状に構築して映画の形をとっているのであってまたそうすることによって浮かび上がってきた北野武こそを見るべきである。そしてその北野武の実像とは観客がこの映画を見終えた後の、題名の「TAKESHIS’(たけしの)」のあとに連なる文字を想像する時に託されるだろうがなんておそろしいこの終盤にかけての異様な4つ打ちキックの昂揚と叙情的な可笑しみとでも言うべきこの切迫感と切なさの感覚は何だろう本人不在の喧噪のようなそうこれはfuneral的な、幽体離脱的視線感覚とでもいえるだろうか。「TAKESHIS’(たけしの)」funeral(葬式)でも見てるかのような。そして劇中、彼の乗っていた車が、ロールスロイスのファントム(phantom、幽霊、幻影)であったのは偶然であろうか。
しかし少なくとも、最後の銃声の行方とおっぱいスクラッチに、彼はたしかに救われたのではないか412点。
なるほど、北野武は度々その一連の真っ当な映画作品群によってしても内容よりもあの「たけしの」という事象についてが多く論じられるという誠に希有な「映画監督」であるといえるだろう。そしてそれはやはり常に「たけしの」映画を見るときその「たけし」から独立した単体としての映画自体だけを見ることは我々としては許されずに必然として付随する「たけしの」という付加機能性その呪縛から解き放たれたフラットな目線では決して見れないというそれほどの強力な地盤がもはや体質として蓄積されているこの同族の日本人であるということは幸福なのか不幸なのかはわからないが、ましてやこれはその武が、自らの名を冠し、映画を撮った。
前述したように、地肌が既に「たけし」という記号で汚染された我々が更に「TAKESHIS’」と、追い打ちをかけるように銘打たれた強烈な記号に囚われた以上、「たけし(武)」を強力に意識しながら映画に臨むしかないという非常に限定的な状況下で画面に接する以外に選択肢の許されないこれは紛れもない「TAKESHIS’(たけしの)」映画である。
そして言うまでもなくこれは「映画制作」自体を主題とした映画なわけであるからして当然のように主人公はこの「TAKESHIS’」を撮る北野武監督そのものであるといえよう。画面上に配置される様々な「たけし(武)」は北野武監督自身がひとり衣装を着て「たけし(武)」という役者を演じているに過ぎない。当たり前だが。
だから「たけし」は映画内において複数登場しているように見えて実はそれは同一人物が衣装を着替えているに過ぎず(これも当然だが)、それ故にふたりの「たけし」は同画面内に全身が一度たりとも正確に捉えられることはない。それがあの些か前時代的な異様な映像的な演出に繋がるが、それはやはり、上記の理由からそれでなくてはいけない意味があるからだ。それはたけしが二人ではなく一人しかいないからで(正確には「TAKESHIS’」を監督する北野武以外に「たけし」はいない)あるという表明ともいえるだろう。
実際に衣装部屋で「たけし」が「たけし」に着替える場面があるがやはり映画内とはいえ「たけし」であるということはそういうことだ。仮初めの衣装を着せられて「たけし」を生きる。しかしたしかに涙目のピエロも人形もさすがに直截的だといえやはりそういうことなのだろう。いくらもがいても、いくら夢のなかで死んでも、いくら映画のなかで人を殺しても、そして何度も「たけし」を殺しても、やはりその仮初めの姿の人形使いである監督「北野武」は、「北野武」であるという現実に変わりない。この映画内の登場人物(役者)の「死」にも「痛み」にも現実感が希薄なのもその為だ。
ピカソはキュビズムに於いて自分(のよう)に見える断片を平面に当てはめてそれらを組み立てることによって《自分》を表現したが(「TAKESHIS’」のポスターのように)、それはふつうに自画像を描いても結局キャンバスや鏡の前でピカソらしくポーズを取りピカソを演じる人物(役者)を描くことでしかなかった事に気付いてしまったからだ。
だから北野武は、映画に登場する「たけし(武)」によって、個々の解体された北野武の断片によって、監督であり主人公である北野武そのものを描こうとした。
これはその北野武その人の解体された断片をフラクタル状に構築して映画の形をとっているのであってまたそうすることによって浮かび上がってきた北野武こそを見るべきである。そしてその北野武の実像とは観客がこの映画を見終えた後の、題名の「TAKESHIS’(たけしの)」のあとに連なる文字を想像する時に託されるだろうがなんておそろしいこの終盤にかけての異様な4つ打ちキックの昂揚と叙情的な可笑しみとでも言うべきこの切迫感と切なさの感覚は何だろう本人不在の喧噪のようなそうこれはfuneral的な、幽体離脱的視線感覚とでもいえるだろうか。「TAKESHIS’(たけしの)」funeral(葬式)でも見てるかのような。そして劇中、彼の乗っていた車が、ロールスロイスのファントム(phantom、幽霊、幻影)であったのは偶然であろうか。
しかし少なくとも、最後の銃声の行方とおっぱいスクラッチに、彼はたしかに救われたのではないか412点。
2005/10/23のBlog
[ 17:19 ]
[ 映画(ア)行 ]
ああそうですかっていうお話でしたけどなんかもしかしたらものすごい傑作だったような気がしてきた年頃なんです
なんかあのひきこもりくすな娘とおなじく鉄化メンの婚約のお話がとても感動的でぎんぎんにぼっきしてしまったぼくは相当に繊細な心をもてあそんだ年頃でしたしもうなんか今にして思えばこれはすごかった気がしてきて今はすごかったということにしてもいいですかと改めて提案をしていきたい年頃でもあるわけなんです
でも実際はぼく相当ねむかったのでそういうあとからの高評価はなかったことにしたいというそんな優柔不断なお兄系な男前に憧れを抱く年頃でもあるわけなんです
でも実際堕胎手術がいいとかわるいとかいわれてもぼくら日本人にはあまりに空想なお話に聞こえるようなそんな反抗期な改造バイクな年頃ですのでそんなこといわれてもああそうですかみたいな、というかキリスト教圏内での中絶に対するバッシングな宗教観からすればこれは重要な議題となりえるのでしょうがぼくら読者モデルなお年頃にしたらばああそうなんだふーんどうでもよくね?みたいな、とても渋谷系な答えしか返ってこないのでいくらぼくがぼく自身の真剣な眼差しな心に問いかけてみても、やっぱ、どうでもよくね?みたいなほぼゼロ回答に等しい文章しか返ってこないみたいな政治に無関心なお年頃でもあるわけですししかしあの家族はダサかっこいいな!みたいなおしゃれに敏感なキメキメな年頃でもあるわけなんです
そういう登場人物のビジュアルでの説得力といったら気まずい位にかっこよかったし今日がぼくの最高のクリスマスだなんてあまりに悲しくてそしてそれはきっと本当のことだから実にすばらしい登場シーンだ、とかそういう気まずいところが大好きなお話をしていきたいそんな学生服がまぶしい股下80cm未満のお年頃なんです65点。
なんかあのひきこもりくすな娘とおなじく鉄化メンの婚約のお話がとても感動的でぎんぎんにぼっきしてしまったぼくは相当に繊細な心をもてあそんだ年頃でしたしもうなんか今にして思えばこれはすごかった気がしてきて今はすごかったということにしてもいいですかと改めて提案をしていきたい年頃でもあるわけなんです
でも実際はぼく相当ねむかったのでそういうあとからの高評価はなかったことにしたいというそんな優柔不断なお兄系な男前に憧れを抱く年頃でもあるわけなんです
でも実際堕胎手術がいいとかわるいとかいわれてもぼくら日本人にはあまりに空想なお話に聞こえるようなそんな反抗期な改造バイクな年頃ですのでそんなこといわれてもああそうですかみたいな、というかキリスト教圏内での中絶に対するバッシングな宗教観からすればこれは重要な議題となりえるのでしょうがぼくら読者モデルなお年頃にしたらばああそうなんだふーんどうでもよくね?みたいな、とても渋谷系な答えしか返ってこないのでいくらぼくがぼく自身の真剣な眼差しな心に問いかけてみても、やっぱ、どうでもよくね?みたいなほぼゼロ回答に等しい文章しか返ってこないみたいな政治に無関心なお年頃でもあるわけですししかしあの家族はダサかっこいいな!みたいなおしゃれに敏感なキメキメな年頃でもあるわけなんです
そういう登場人物のビジュアルでの説得力といったら気まずい位にかっこよかったし今日がぼくの最高のクリスマスだなんてあまりに悲しくてそしてそれはきっと本当のことだから実にすばらしい登場シーンだ、とかそういう気まずいところが大好きなお話をしていきたいそんな学生服がまぶしい股下80cm未満のお年頃なんです65点。
2005/10/16のBlog
[ 11:43 ]
[ アニメなおれ ]
[ 11:41 ]
[ アニメなおれ ]
2005/10/15のBlog
[ 18:22 ]
[ アニメなおれ ]
おおおおこれはエドガーアランポーの原作はおれ小学校の図書館にあったから読んだことあります
なんていう潜るのがもの憂い寂寞とした憂鬱と想像力な世界でしょうか
アッシャー家に纏わるこの解きがたい神秘の力を分析することは我々の知力ではとても敵わないだろう。重量感とこの景色の個々の事物のこの画面に配置されたあらゆるもののその配置をただ変えるだけで沈鬱な印象を人に与えるというのは一体これは黒々とした無気味な沼の険しい戦闘力と戦闘竜と1,000頭の険しい灰色の菅草と朦朧とする樹幹や虚ろな口のような無数の窓などが水面に映っている倒影を見下ろしてもやはりそれはおそろしい息苦しい奇怪があるだろう
椅子や扉や瓦礫や机はそれがあたりまえの平凡な物の形をしているにもかかわらず自分の心に煽りたてる空想のあまりの不気味には悲しみの空気を呼吸しているのを感じずにはおれないしその灰色と黒い疾患の癌細胞のように増殖を繰り返し領土を拡大し続ける壁の斑点と黒い塔とそれらのものが見下ろしているゴス黒い粘土質のドロ沼との形象が男の精神に齎す効果を予想するは容易だろう
男の空想はすべての無機物が知覚力を有するということにまで発展するがそれは彼の先祖代々の家の灰色の石と関連しているという。彼の想像によると知覚力の諸条件はつまりはこれらの石の配置の方法のなかに、いや石そのものの配列のなかに備わっているわけでそれを証明するのは他でもないとりわけこの配列が長いあいだ継続されてきていてその結果としてそれが沼の水面に歪な影を落しているということのなかに備わっているのであるといえる。その無機物なイニシエーションなシチュエーションに知覚力があることの証拠とは不気味に変容し朽ち果てる壁や身投げするように窓から飛び降りる椅子などで表現されるのである。なんていう圧倒的な光線でしょうかぼくは大変ご満足致しました589点。
なんていう潜るのがもの憂い寂寞とした憂鬱と想像力な世界でしょうか
アッシャー家に纏わるこの解きがたい神秘の力を分析することは我々の知力ではとても敵わないだろう。重量感とこの景色の個々の事物のこの画面に配置されたあらゆるもののその配置をただ変えるだけで沈鬱な印象を人に与えるというのは一体これは黒々とした無気味な沼の険しい戦闘力と戦闘竜と1,000頭の険しい灰色の菅草と朦朧とする樹幹や虚ろな口のような無数の窓などが水面に映っている倒影を見下ろしてもやはりそれはおそろしい息苦しい奇怪があるだろう
椅子や扉や瓦礫や机はそれがあたりまえの平凡な物の形をしているにもかかわらず自分の心に煽りたてる空想のあまりの不気味には悲しみの空気を呼吸しているのを感じずにはおれないしその灰色と黒い疾患の癌細胞のように増殖を繰り返し領土を拡大し続ける壁の斑点と黒い塔とそれらのものが見下ろしているゴス黒い粘土質のドロ沼との形象が男の精神に齎す効果を予想するは容易だろう
男の空想はすべての無機物が知覚力を有するということにまで発展するがそれは彼の先祖代々の家の灰色の石と関連しているという。彼の想像によると知覚力の諸条件はつまりはこれらの石の配置の方法のなかに、いや石そのものの配列のなかに備わっているわけでそれを証明するのは他でもないとりわけこの配列が長いあいだ継続されてきていてその結果としてそれが沼の水面に歪な影を落しているということのなかに備わっているのであるといえる。その無機物なイニシエーションなシチュエーションに知覚力があることの証拠とは不気味に変容し朽ち果てる壁や身投げするように窓から飛び降りる椅子などで表現されるのである。なんていう圧倒的な光線でしょうかぼくは大変ご満足致しました589点。
[ 15:27 ]
[ アニメなおれ ]
フロッタージュやステンシルの技法を使ったというのが見どころらしいんですけどフロッタージュとかステンシルっていうのが僕なにがフロッタージュかステンシルなのかわからないのでどこがフロッタージュでステンシルなのかはわからなかったですけど終始不思議なかんじでしたのでこれがフロッタージュとステンシルかなあっておもいながら見てたのでまるでフロッタージュでステンシルでよかったかとおもいます。
そしてこれはファミコンみたいな音を潰して圧縮したみたいなブリブリした不穏な機械音が神経に呼びかけてきてとても不安感を駆りたてていて実に不気味でよかったとおもいます。そして「翼」「鞭」「家」の3つのエピソードで構成されているのですがそれぞれある一定の行動が始まりも終わりもなくずっと繰り返されていてなんかいつのまにか何回も繰り返しているという事態に一瞬わけがわからなくなってたのしいです。何回もおなじことを言うひともそうですが何回も同じ行為を繰り返していることは基本的にこわいですしその何回も繰り返していることに本人が気づいているかどうかもまたこわいことでもあります。なかでも「鞭」の人間が動物に鞭をふるっているのが鞭がピシピシいうたびに人間が動物に、そして動物が人間に変わっていき、立場が逆転して同じことが繰り返されるのがなんか頭おかしくなる。なんかいつのまにか同じことが繰り返されていてそれの出発点の境目がわからなくなるというのがじつにこわい事だと思います。ましてや終わりなどわからないのですしやはりそのことに当の本人にもわからないというならば本人にはなりたくないなあという感想でした79点
そしてこれはファミコンみたいな音を潰して圧縮したみたいなブリブリした不穏な機械音が神経に呼びかけてきてとても不安感を駆りたてていて実に不気味でよかったとおもいます。そして「翼」「鞭」「家」の3つのエピソードで構成されているのですがそれぞれある一定の行動が始まりも終わりもなくずっと繰り返されていてなんかいつのまにか何回も繰り返しているという事態に一瞬わけがわからなくなってたのしいです。何回もおなじことを言うひともそうですが何回も同じ行為を繰り返していることは基本的にこわいですしその何回も繰り返していることに本人が気づいているかどうかもまたこわいことでもあります。なかでも「鞭」の人間が動物に鞭をふるっているのが鞭がピシピシいうたびに人間が動物に、そして動物が人間に変わっていき、立場が逆転して同じことが繰り返されるのがなんか頭おかしくなる。なんかいつのまにか同じことが繰り返されていてそれの出発点の境目がわからなくなるというのがじつにこわい事だと思います。ましてや終わりなどわからないのですしやはりそのことに当の本人にもわからないというならば本人にはなりたくないなあという感想でした79点
2005/10/09のBlog
[ 15:48 ]
[ アニメなおれ ]
なんか納骨堂みたいなところの観光案内ビデオみたいなかんじなんだけどなにこれめくるめくってるー
こんなにめくるめくなんてそんなにがんばっためくれ方があったなんて知らなかったよ
俺にもめくり方おしえてくれよそしてめぐりあい方も
ついでにおれの皮膚も勢いでめくれてしまってその中身に骨があるのが世間に知られてしまうほどめくれあがってしまっているしそんなめくるめくスペクタルな場所があるなんて今までおれに秘密だったかい
俺おもうにたぶん骨みられるのってはずかしいよ
なんでも中身をみられるのははずかしいさ
剥き出しってはずかしい
そんな恥ずかしい物体がそこかしこに!
興奮しないわけがない
なんかこれ戦争とかペストで死んだ7万人分くらいの骨が埋葬されているらしいんですけどその膨大な量の人骨を使って礼拝堂内部に狂ったように装飾を施したりシャンデリアとか祭壇とか十字架とかなんかものすごいおびただしいのがめくるめくってはりめぐらされております。
すべてがパーツとしての人骨で構築された巨大要塞内部の7万体は、やはり人骨で組み立てられた我々が見ることによってその人骨が人体ではないべつの形として縫合され掲示されてそしてその存在を成しているのをみるにつれ骨がそれが人間の形を成していないにもかかわらず文字通り、骨組み、骨格としての機能を有していることに気づくだろう。そしてその行為とは自分の眼球で自分の眼球をみている自分のすがたを眼球自身となってみているようなそんな白日夢みたいな遺産相続問題の未亡人の気分です
やばい。基本的にやばい。そんな狂ったかっこいい場所をカシャカシャ性急に画面が変わりながらぼくはご案内されていきます。このめくるめくった案内係にめぐりあいたい
超いきたい。これおれ絶対いきたい場所みつかった
だれかにインタビューされたらおれ答えるねコストニツェいきたいと360点。
こんなにめくるめくなんてそんなにがんばっためくれ方があったなんて知らなかったよ
俺にもめくり方おしえてくれよそしてめぐりあい方も
ついでにおれの皮膚も勢いでめくれてしまってその中身に骨があるのが世間に知られてしまうほどめくれあがってしまっているしそんなめくるめくスペクタルな場所があるなんて今までおれに秘密だったかい
俺おもうにたぶん骨みられるのってはずかしいよ
なんでも中身をみられるのははずかしいさ
剥き出しってはずかしい
そんな恥ずかしい物体がそこかしこに!
興奮しないわけがない
なんかこれ戦争とかペストで死んだ7万人分くらいの骨が埋葬されているらしいんですけどその膨大な量の人骨を使って礼拝堂内部に狂ったように装飾を施したりシャンデリアとか祭壇とか十字架とかなんかものすごいおびただしいのがめくるめくってはりめぐらされております。
すべてがパーツとしての人骨で構築された巨大要塞内部の7万体は、やはり人骨で組み立てられた我々が見ることによってその人骨が人体ではないべつの形として縫合され掲示されてそしてその存在を成しているのをみるにつれ骨がそれが人間の形を成していないにもかかわらず文字通り、骨組み、骨格としての機能を有していることに気づくだろう。そしてその行為とは自分の眼球で自分の眼球をみている自分のすがたを眼球自身となってみているようなそんな白日夢みたいな遺産相続問題の未亡人の気分です
やばい。基本的にやばい。そんな狂ったかっこいい場所をカシャカシャ性急に画面が変わりながらぼくはご案内されていきます。このめくるめくった案内係にめぐりあいたい
超いきたい。これおれ絶対いきたい場所みつかった
だれかにインタビューされたらおれ答えるねコストニツェいきたいと360点。
2005/10/01のBlog
[ 20:01 ]
[ アニメなおれ ]
[ 19:49 ]
[ アニメなおれ ]
これはこれはこれはああああああああ
きもちわるい!
そして
素敵!
ジャバウォッキーはルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」でアリスが読む詩「ジャバウォックの歌」の中に出てくるドラゴンのこと。冒頭でこの詩が朗読されるのですが対訳が狂っていてすばらしいのですが
なかなか子供部屋の中がエキセントリクなうごきがそこかしこで立ち止っていてなんかしかも人形の中から小さな人形が生えてきてもぞもぞしはじめたりなのにそれよりも巨大な陶器の少女アマゾネス人形軍団がその小さな人形を丁寧に煮込んでお料理したりと食卓に並べる絶景の最中ちいさな人間の人形をおおきな人間の人形が無表情でもりもり食べる人肉天麩羅のかもす無邪気な残酷と猟奇性が不気味ではりきっていたよぼくもはりきりました日本ではharakiri,
geisya,tempuraが有名ですほんとうです92点
きもちわるい!
そして
素敵!
ジャバウォッキーはルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」でアリスが読む詩「ジャバウォックの歌」の中に出てくるドラゴンのこと。冒頭でこの詩が朗読されるのですが対訳が狂っていてすばらしいのですが
なかなか子供部屋の中がエキセントリクなうごきがそこかしこで立ち止っていてなんかしかも人形の中から小さな人形が生えてきてもぞもぞしはじめたりなのにそれよりも巨大な陶器の少女アマゾネス人形軍団がその小さな人形を丁寧に煮込んでお料理したりと食卓に並べる絶景の最中ちいさな人間の人形をおおきな人間の人形が無表情でもりもり食べる人肉天麩羅のかもす無邪気な残酷と猟奇性が不気味ではりきっていたよぼくもはりきりました日本ではharakiri,
geisya,tempuraが有名ですほんとうです92点
[ 19:13 ]
[ アニメなおれ ]
[ 19:06 ]
[ アニメなおれ ]
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