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豊健活日記
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2008/08/21のBlog
[ 15:42 ] [ 日記 ]
今年は夕立が多い

しかも、熱帯のスコールのような短時間豪雨の夕立だ

地球温暖化の影響かな???
困った時の「環境」、、、、水② 温暖化の影響のところでも書いたのだが、「日本は温暖化の影響で降雨量が増える。しかも、豪雨が増える」と沖大幹氏が言っていた。

8月の夕立はものすごい。
あっという間に道路が川になる。
2~3分もすれば水は引くのだが、その瞬間は川だ。

車道と歩道の段差を車が登れるように置いてあるカーステップが流されそうだ。
実は、我が家のカーステップのうち一個は、数年前にどこかから流されてきたものだ。当時は下水工事が終わってなくて、大雨が降ると道路は濁流が流れる川だった。だから、カーステップなど色んなものが流れていた。
そんな漂流物なのだが、誰も引き取りに来ないので、我が家で占有しているのだ。
もう漂流はしないだろうな・・・・・
2008/08/20のBlog
何年もの間、時間を細切れにして生活してきた。
1時間を、数十秒、数分、せいぜい30分以下に多重分割して、単位時間当たりにたくさんのtransactionをprocessすることを重視していた。メールのチェック、情報の収集を始めとして生活のリズムやパターンが、多重分割複数並列処理型が最高に効率的に機能するように最適化されていったのだろう。

こんな時間を「ONの時間」と考えていた。だから、ぼーっとする「OFFの時間」が妙に大切だった。積極的にとか、意識的にとかいう感じて、「OFFしていた」。

いまや窓際族になってほとんどの時間が「OFFの時間」になった。でも長年染み付いた多重分割複数並列処理型の生活の癖がなかなか抜けなかった。
勝手に流れ込んでくる大量の情報をやや受身的に処理をするクセがついていて、無情報の時間にイライラすることもあった。

でもやっと変わった。のんびり、ゆったりに慣れてきたのだ。
暇なのでつい手が伸びて一日に何回もやってしまう情報収集、メール・チェックを原則一日に一回へと「自らを強制」した。

細切れだった時間をつないで長ーーくて一個の時間の単位にした。
そして、できるだけ一個のことを長ーくやるようにした。

異なった長さの時間は異なった性質のtransactionのprocessに向いている。じんわりと、ゆっくりとした「こなし」だ。
鉋で板の表面を薄く薄く何回も削っていくような作業で「こなしていく」ような事(≠仕事)をするのに良い。

一日にたくさんのことはできなくなった。
いいのだ。それは翌日への宿題だ。
数日経過して、宿題をみると、「もうこれは無用だな」と判断できるものが多いからだ。
だから困ったことにはなっていない。

生活や体が、こんな風に修正されていく。
今は人間的な生活に向かってバランスを回復しているのだと思う。
これが新しい生活のリズム、パターンだと思った。多分自然の人間の生活サイクルってこういうものだろうと思う。

そして今、新しい「ONの時間」と「OFFの時間」の区分ができそうな気がする。
過去の区分とはかなり違うと思う。
まだつかんでいないのだけど。
2008/08/18のBlog
パイロット本社ビルの2FにあるPen Station Museum & Cafe に行った。

さぞ、世界の筆記具が所狭しと陳列されているのだろうと期待していったが、ちと期待ハズレだった。
自社の歴史博物館という感じだった。
それでも、万年筆のできるまで、、、などのVTRがあって面白かった。

右の写真は、「3色ボールペン+シャープペン」の分解構造だ。
ノック式万年筆の構造も面白かった。
回転式のボールペン、シャープペンの構造は、よく理解できなかった。

製品の販売店はなかった。
近所の丸善か伊東屋に行ってくださいと言われた。
やや商売気がないなぁ・・・・
まあ、だから延々と続く会社なんだろうなぁと思った。
2008/08/17のBlog
[ 15:09 ] [ 音楽・AV・小物・興味物 ]
本は厳選して読んでいる。
良い本を3回以上読むように心がけている。

メールも本もネットも、そしてテレビやラジオも情報を得るための手段だ。
無用、不要、雑多をできる限り捨てることが、本の奴隷、情報の奴隷にならないコツだと思っている。

私の本は、ボールペンとラインマーカーの線でいっぱいだ。
余白に走り書きをしたり、付箋をたくさん貼り付けている。
ゆえに、本を借りることは無いに等しい。線を引けない、書き込めないからだ。
また、他人に貸すのが少し恥ずかしい。
本を雑に扱っていると思われるからだ。本は綺麗に読むものという主義の人も多いのだ。

私は、「3回も4回も読んであげることが、本が喜ぶ」と思っている。多少汚くなっても、読んであげることが本孝行だと思う。

右上の写真が、私が本を読むときの文房具一式だ。
これに、線引き用のプラスティック定規が加わる。
本だけじゃない、仕事の書類を読むときも同じだ。

少し前までは、ボールペンは3本あった。
赤、青、黒だ。
この数ヶ月、かばんに収納するものを減らそうと考えて、3色ボールペンにした。
ボールペンは買うことは稀だ。
オマケでもらうことが多いからだ。

でも、3色ボールペンは、なかなかオマケでもらえない。
だから、最近3種類ほど買った。
で、気に入ったのが、上の写真にも写っているが、右のコピペのパイロットのフィードルフテックだ。

グリップが丈夫であることが気に入った。
ボールペンは常時かばんに入れて、持ち歩いている。
(さすがに、ラインマーカーは持ち歩かない)

グリップの丈夫さは重要なのだ。
ここが壊れると持ち歩けなくなる。


先週も丸善で色々物色した。
目的にフィットしたものが無かった。
お金を出せば実用上良い文房具が見つかるわけではなかった。

前回、ボールペンを真剣に物色したのは、1989年~1990年だった。
当時は、矢羽のグリップのデザインのパーカーに落ち着いた。

昨年から書き物をすることが多くなった。
久しぶりに色々探してみようと思う。
道具に凝るのは男の馬鹿な性分だが、コレくらいは文句は言われまい、多分・・・

Pen Station Museum & Cafe というのが、東京駅の近くにあるのをHPで見つけた。

早速来週、行こうと思う。
窓際族は時間だけはタップリあるのだ。
[ 14:17 ] [ 自然、ガーデニング ]
初夏に咲き始めた桔梗ですが、開花後に茎を短く切り詰めたら、もう第二ラウンドの開花が始まりました。
第一ラウンドでは、花数が少なかったのですが、
第二ラウンドは、切り詰めた茎から、たくさんの新しい新芽が成長して、つぼみもたくさんあります。
ここに移植して3年~4年だと思うんですが、地下で株が増殖して、元気いっぱいになってきたのかもしれません。

たった一株の移植だったのですけどね。
2008/08/14のBlog
[ 23:23 ] [ 日記 ]
かつての行きつけの店にレコードを取りにいった。
飲み会の後の2件目に言った。

義理で30分ほどいた。
もうこの店には来ないと思うと
やけに苦いギネスだった。

そのレコードをこの店に持って来た。
夜遅いと、込んでいる。
客層が違う
今日3件目で飲んだSCAPAは濃かった。



現在を過去に押しやった気がする。

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店を一個消しただけだ
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言葉にならない
前にブログを中断したときに考えたアイディアがある。
それを実行することを考えている。
パスワードを開放するのだ。

井戸端会議の場であるのなら、コメントではなく、エントリー、記事を、誰でも平等に書けるようにしようというのだ。

全員が管理人の地位を持つ平等な立場になる
それは、「99人の善人が良くしようと思っていても、最後の一人が『全消去ボタン』を押せば、全体が消える」ことを意味する。
他人の書いたエントリーを改ざんすることも自由にできる。
初期のウイキペデリア状態だ。

パスワードを開放してから何時間、何日、何月、存在しているだろうか?

平等な立場、自由とは何だろうか?
自由な発言とは?
管理とは?
口ではいろいろ言う。。
実験してみる価値はありそうだ。
2008/08/13のBlog
[ 21:38 ] [ インターネット、携帯、デジカメ ]
ネットは匿名だからウソが多いと言う人がいる。
匿名じゃなくても詐欺が横行しているのだから、匿名性を取り立てて非難しなくても、、、、と思う。

とはいえ、匿名になると「真綿でくるんだ言葉使い」や、「相手の気持ちを十分におもんぱかった表現」でなくなることは確かだ。
特に、HN(ハンドル・ネーム)をコロコロ変えて、ピンポン・ダッシュ的な書き込みをするものは、いわゆる「言葉の暴力」が表面化する。

私も、魔がさしたようにしてしまうことがある。書き込んだ直後に、「なんて馬鹿な事を。。。。」と後悔する。



ただ、それと同時に、ちょっと待て・・・・
真綿でくるんでいない言葉って、心で本当に感じたことなんだろ。。
それを言いたかったんだろ。。
何を遠慮してるんだ。。
相手が短期的に傷つくことを恐れて、心からの思いやりを放棄してるんだろ。。
相手と対立してでも胸襟を開いて話をすることを避けてるんだろ。。
、、、、と思ったりする。



そうだ、、
そんな戸惑いを捨てて生きてみよう
失うものは多かろう
でも、代わりに得るものはあるだろう
得るものが、ほんの少し価値があるだろう

やらずに後悔するより、やって後悔する
そうやって生きてきたのなら、
今回も、何もためらうことはない。
始めよう

2008/08/12のBlog
意識の活動が取捨選択のfilterであるなら、真の現実の姿を正しく客観的に知るには、filterである意識を消して、全てを見なければならない。

通常、脳は情報を取捨選択する。
現実の全てを見ずに、多くの情報を捨てる。
その結果、客観的な現実と違う曲がった認識を「現実、真実」と思い込んでいる。

日々の生活を生き延びるためには、それで良いのだ。
生き延びるという目的にかなっているのだ。

脳は常に外部情報を求め、外部情報を処理する有機体だ。
意識は脳のしもべなのだろう。


私は思った。
意識とは、耳を傾ける、知りたがるという活動なのだろうと。。。
意識は脳とともにある。
脳は狭義には頭蓋骨の中にあるが、広義には体中に張り巡らされた感覚受容器全てを含んでいる。

瞑想状態とは、脳が外部情報処理を認識することをやめた時に、意識が耳を傾ける、知りたがる対象を外部情報から、自分自身の意識に切り替えた状態である。

不安が消え、時間や空間を超越し、調和を感じる・・・・

ゆえに、最高に危険な状態である。
脳の目的(外部情報から危険を察知して、戦う逃げるの判断をする)に反しているから。。。

[ 21:32 ] [ 読書 ]
正常な精神状態の幼児がいるとする。中核となる自己はもう脳の中でしっかり構築されているので、外界のことを完全に自覚できる。
ところが自伝的自己を支える皮質は、まだ形成が始まったばかりだ。そのためこの子の自己はもろくて揺れやすく、自己意識もときおり火花が散るように出現するだけだ。そのうえ神経細胞のつながりもまだ混乱しているので、自分の経験から「何らかの意味を引き出す」能力はまだ発揮されない。
おとなであれば、学習した概念や記憶を定着させることで、経験に決まった解釈を加え、自己の構築概念と統合するのだが、幼児の場合はまだそこまで達していない。

こうした形成期にある幼児の脳に、突然興奮性の化学物質が大量に流れ込んだらどうなるだろる?
自分の身に起こるずべてのことは、そのときたまたま活発だったもろい構築概念と直ちに結合する。しかし自己の構築概念(=神経活動の一パターン)は大人に比べるとまだシッカリ根をおろしていないし、目も粗い。毎日発火しているわけではないから、パターンはまだ新しくて弱く、記憶を蓄積したり、自身に関する観念を紡ぎだしている最中だ。中身がぎっしり詰まってどっしりと安定した状態になってようやく、強固な経験基盤が整い、新しい出来事と区別できるようになる。
自己が壊れやすい時期にトラウマを受けると、その事件が作り出したパターンが他を圧倒してしまい、客観的な対象として経験することができなくなる。
つまりトラウマになった出来事がほかの全てを吸収し、子供自体が「それ」になってしまう。できて間もない幼い自己は、その出来事に縛られ、そこに組み込まれる。出来事が分離すれば自己も一緒についていく。その記憶が無意識であり続ける限り、そこに織り込まれた幼い自己も無意識であり続ける。

あらたな刺激が加わると、記憶も呼び出されることがある。その記憶が呼び出されるとき、もし主人格がすでに分離していたら、その子供時代の自己が今生み出されている知覚の所有者になる。幼い自己は主人格に変わって新しいトラウマを経験し、それが終わるとまた無意識に戻っていく。そのとき新しい記憶も連れていくので、主人格は無傷のままだ。

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幼児期の親のケアの大切さを思い知らされる。
そして、自分はそのケアを果たしていたのか、、、いささか自信がない。
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