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マルコポーロになりたい
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2006/01/02のBlog
エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

聖墳墓教会の中です。
これは塗油の石と呼ばれ、十字架から引き降ろされたイエスの遺体をここに置き、香油を塗ったところです。

背後には、イエスを十字架から降ろし、マリアがイエスに頬をすり寄せ、墓に収める様子がモザイクで描かれています。


その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。

そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。

彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
(新約聖書 ヨハネによる福音書・19章38~40節 新共同訳)


これは、塗油の石から聖墳墓に向う途中の聖堂の片隅にあったもの。
何でしょうか?マグダラのマリアの聖堂かな?

聖墳墓教会内には、いわくありげな物が色々と置いてあります。
できれば時間を取ってじっくりと見たい場所です。





ヴィア・ドロローサの終点、聖墳墓教会内にある第14留です。( 31 46' 42.63"N 35 13' 45.85"E )
イエスの遺体を納めた聖墳墓で、アナスタシス(復活)と呼ばれています。

この場所は丘の中腹でしたが、4世紀、墓室内が見えるようにこの辺一帯が取り除かれました。それ以来、丘の原型は残っていません。

墓を覆って建つ今の建物は、19世紀に建てられたもの。

キリスト教で最も神聖な場所のため、ここだけは5つのキリスト教会派の共同管理になっています。
センスの良い建物とは思えませんが、このごてごてさは、信徒の人達の熱意の表れなのかもしれません。

聖墳墓の中は狭くて人数が限られる為、ここだけは入場する人の列ができていました。


建物の上にある十字軍時代のドーム天井。
上空を覆うドームが、教会内の荘厳な雰囲気を醸し出しています。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

聖墳墓教会の中の、第12留です。

十字架が立てられ、イエスが息を引き取った場所。( 31 46' 42.41"N 35 13' 47.10"E )
ギリシャ正教の祭壇になっています。
祭壇の両脇は、二人の盗賊がイエスと同時に十字架に架けられた場所。


「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。
犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(新約聖書 ルカによる福音書・23章33~43節 新共同訳)


兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。
下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。

それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
(新約聖書 ヨハネによる福音書・19章23~27節 新共同訳)


昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
(新約聖書 マルコによる福音書・15章33~36節 新共同訳)


この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(新約聖書 ヨハネによる福音書・19章28~30節 新共同訳)


イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
こう言って息を引き取られた。
(新約聖書 ルカによる福音書・23章46節 新共同訳)


第13留ですが、恐らくこの祭壇の右側にある、画像でちょっとだけ見える小さな祭壇がそうだと思います。
第13留は、聖母マリアがイエスの遺体を引き取ったところです。
ガラス箱に入った、小さな聖母マリアの木像がありました。

著名な某ガイドブックには、これとは違った写真が載っており、どれがそうなんだ~!と探してしまいました。


第12留の祭壇の下には、イエスの十字架が立てられたゴルゴタの丘の岩があります。







第12留の祭壇の下にある、十字架が立てられた穴と言われています。

十字架刑は、ローマ帝国における極刑です。
帝国への反逆者に対する刑罰だが、ローマ市民に行われることはまれで、通常奴隷に対して行われたそうだ。


有名なのが、紀元前1世紀のスパルタカスの反乱奴隷に対する処刑で、六千人を十字架に架け、アッピア街道沿いにまるで街路樹のように並べたと言う。S・キューブリック監督の映画「スパルタカス」のラストにその情景が出てきます。

あまりに忌み嫌われた刑罰であったため、十字架刑を示す史料はほとんど残っていないそうだ。
十字架刑に架けられたと思われる遺骨も断定できないそうで、その理由として、手足に打ちつけた釘が熱病や癲癇に効果があると考えられ、医術品市場に流出したからだそうだ。

受刑者は十字架に架けられたまま、日射病や飢えで死ぬまで放置された。
体重の重みでずり下がり、窒息間際の状態を繰り返す、とも言われています。

死を早める為、刑場に向う前に鞭打たれ、十字架を背負わされ市中を引き回されて体力を消耗させられる。また、十字架に架けられてから槍で突かれる事もあった。


イエスは、価値観を逆転させるような思考を度々行っていたそうです。
例えば、山上の垂訓での「心の貧しい人々は、幸いである・・・」という言葉。
最後の晩餐(後述)の前に、弟子の足を洗う行為。
そして現在、忌み嫌われていた十字架刑の道具が、キリスト教徒にとって栄光のシンボルになっています。
結果的に、イエスは栄光と対極の位置にある刑死によって、栄光を掴んだのかもしれません。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

遂に、残りの第10留~14留がある、聖墳墓教会に着きました。

ここがかつて、ゴルゴタ(されこうべ)の丘と呼ばれた場所です。

聖墳墓教会は、キリスト教を公認したローマ皇帝、コンスタンティヌス1世により建てられました。
現在の教会は、ほとんどが十字軍時代のロマネスク様式の建物です。
教会の歴史については後述します。

エルサレムの教会の中で、最大かつ最重要な教会で、5つの教派(ローマカトリック、ギリシャ正教、アルメニア使徒教会、エチオピアコプト教会、シリア教会)が聖堂内の各所を教会として使っています。

構造としては、イエスの墓室があるアナスタシス(復活聖堂) 31 46' 42.63"N 35 13' 45.85"E 、イエスが処刑されたゴルゴタの丘の頭頂部であるマルテュリオン(殉教聖堂) 31 46' 42.69"N 35 13' 46.93"E が主で、その他小さな聖堂が散在している。また地下には、墓の発見者、ヘレナを祀る礼拝堂がある。

画像は教会の入口。当初は入口が3つあったらしいが、2つは閉鎖されて現在1つしか開いていません。(撮影地点 31 46' 40.94"N 35 13' 47.19"E )

左端は、1927年の大地震により損害を受け、鉄骨で補強されています。

画像右端にある赤い格子窓の中が、第10留。処刑前にイエスが衣を脱がされた所。カトリック典礼派の小聖堂になっています。


ここで、2000年前のヴィア・ドロローサの道のりを見てみます。

画像は、ホーリーランド・ホテルにある、第一次ユダヤ反乱勃発時のエルサレムの復元模型。

一番奥にある4つの塔を持つ建物が、アントニア要塞。ここでイエスは死刑判決を受け、鞭打たれ、十字架を担いで出発しました。

手前の城壁の門が、たぶん第7留でないかと思われます。

ゴルゴタの丘はどこにあるかというと、実は城壁の手前の、粉々になった破片の辺りがそうだと思います。
この模型は現在移設作業中のため、所々が外されたり壊されたりしています。
ローマ時代、ゴルゴタの丘は裕福な市民の墓場で、周辺には建築資材用の採石場がありました。

画像の、アントニア要塞から城壁の門を経て、ゴルゴタの丘に至るまでが、当時イエスが歩いた道のりだと考えられています。
しかし学者の中には、当時、ユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスはアントニア要塞にいなかった、という説を唱える人もいる。
彼はハスモン家の宮殿にいたとか、ダビデの塔近くのヘロデの宮殿にいたと言う人もいて、その場合は、現在のヴィア・ドロローサの道のりとは全く違ったものになる。


第11留です。イエスが十字架に釘付けにされた場所。( 31 46' 42.41"N 35 13' 47.10"E )

カトリック典礼派の聖堂になっています。
祭壇の上には、釘付けにされる様子を描いたモザイク画がある。


没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
(※軽い麻酔薬の代用)
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
(新約聖書 マルコによる福音書・15章23~26節 新共同訳)

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

第7留です。
ここには、イエスの時代にエルサレムの城門があった場所で、イエスはここの鴨居に躓いて倒れたと言われている。( 31 46' 45.40"N 35 13' 50.41"E )

現在は、フランシスコ会の小聖堂がある。
イエスはここから城外に出て、ゴルゴタの丘に向った。


小聖堂の中の祭壇。躓いた時の様子のレリーフがある。









隣にある礼拝の部屋。

ここから少し西側に第8留があるのですが、今回は行きませんでした。
第8留は、イエスとエルサレムの娘達が語った場所だと言われています。( 31 46' 45 01"N 35 13' 49.43"E )

民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
(新約聖書 ルカによる福音書・23章27~31節 新共同訳から引用)


ここは、恐らく第9留に行く途中にある教会だと思います。

第9留にも行きませんでした。
第9留は、イエスが3度目に倒れた場所で、現在は聖墳墓コプト教会修道院の入口になっています 31 46' 43.33"N 35 13' 48.47"E 。






ここは聖墳墓教会に行く途中にある、ムリスタン地区です。(撮影地点 31 46' 40.89"N 35 13' 48.47"E )

狭い路地が多い旧市街で、ここだけ少し広々としていて、印象に残る場所です。
靴やカバンなどの皮革製品の店が多い、1辺130mの正方形の地区です。( 31 46' 38.82"N 35 13' 47.04"E )

紀元前1世紀には、ヘロデ王が新たに築いた、いわゆる第二城壁が通っていました。

第二次ユダヤ反乱の後、エルサレムはローマ風の都市に作り変えられました。すなわち、カルドとデクマヌスという二つの大きな街路が、交差する形態の都市になった。
この場所はその交差点に近く、中央広場という大きな広場があった場所でした。つまり、当時のエルサレムの中心でした。

現在、カルドはハーンエザイト通り、デクマヌスはダビデ通りと名前を変えています。
中央広場の遺構は、貯水池と歩道の一部、北の門の跡しか残っていません。

アラブ系イスラム帝国が支配した頃、キリスト教巡礼者の為の宿泊施設や、市場、聖母マリア教会が建てられました。また、フランク王国のシャルルマーニュの援助で、ホスピスと修道院が建てられました。

十字軍時代、これらの施設は聖ヨハネ騎士団の管轄に置かれ、巡礼者の為の病院になった。ベッド数は1000を超えたと言う。

クルド人のサラーフ・アッディーンが占領した後も、引き続き病院として使われた。“ムリスタン”というのは、クルド語で病院を意味します。

300年前から皮なめし業の中心になり、19世紀以降はドイツ人やギリシャ人に一部の街区が与えられた。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです

第5留です。
十字架を背負えなくなったイエスに代わり、通り掛かりのシモンという人が背負った場所。
( 31 46' 46.12"N 35 13' 56.13"E )

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
(新約聖書 マルコによる福音書・15章21節 新共同約より引用)

第5留の小聖堂の壁には、イエスが手を付いた跡がある。









第5留の小聖堂の中です。








第6留に向かう途中。
ここの辺りからエルサレム北西尾根への登り道になる。

建物はすべてエルサレム・ストーンと呼ばれる白色石灰岩で造られている。
周囲には店が建ち並ぶが、巡礼路のせいか客引きから声をかけられる事はなかった。






第6留です。( 31 46' 45.54"N 35 13' 52.98"E )
ここはベロニカという女性の家の跡で、現在はギリシャ正教会の小聖堂があります。

ベロニカが絹の布でイエスの顔を拭うと、布にイエスの顔が浮かび上がったと言う。
この布はバチカンのサン・ピエトロ寺院にある。


※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレム旧市街観光の続きです。

ここからしばらくヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の観光になります。

ヴィア・ドロローサは、イエスがアントニア要塞で死刑判決を受けてから、十字架を背負ってゴルゴタの丘に行き、処刑されるまでの約1キロの道のりで、現在エルサレムの主要な巡礼路、観光路になっています。
その道のりの途中で起きた、様々な出来事があった場所を留(ステーション)と言い、14箇所あります。

ゲッセマネの園で捕縛されたイエスは、この逮捕の首謀者である前大祭司アンナスの館に連れてこられ、次いで現大祭司カイアファの館に連れてこられた。
カイアファはイエスが反ローマ暴動の首謀者であるという罪を確定した。
これは自らが死刑に処すると、イエスの支持者が自分を恨んで騒乱を起こしかねない為、ローマの総督に死刑判決を下させようとした為だそうだ。

ローマの守備隊がいるアントニア要塞に連れて行かれ、ローマのユダヤ総督、ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出されたイエスは、彼の尋問を受けたが、ローマ法に照らして罪に問われるような事はなかった。
そこでピラトゥスは、イエスがガリラヤのナザレの出身である事を理由に、エルサレムに滞在していたガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスに委ねる事にした。
イエスを魔術師だと思っていたアンティパスは、魔法を起こす様促したが、イエスは無言のまま何もしなかったので、再びピラトゥスの元に送り返されてきた。

大祭司カイアファと、「神殿清め」の件でイエスに反感を持っていたエルサレムの住民は、イエスを死刑にする様、ピラトゥスに圧力を加えた。
ピラトゥスはローマ法を無視する訳にはいかず、何とかイエスを救おうとしたが、大祭司ら反イエス派の声も無視できず、イエスの罪を確定した上で、過越し祭の特赦の慣例を利用して、イエスを赦免しようとした。
しかし反イエス派は、熱心党の首領と思われる盗賊バラバを赦免して、イエスを死刑にする様、尚も主張した。
結局、大祭司らの「もしこの人を許したなら、あなたはカイザル(皇帝)の味方ではない」という言葉に動揺して、ついに死刑判決を下したのだった。

今回のヴィア・ドロローサ観光は、第3留以降のみで、第1留と第2留は観光しませんでした。

第1留は、アントニア要塞の跡地で、ピラトゥスがイエスに死刑判決を下した所と言われる。現在はアラブ人の小学校になっている。
( 31 46' 48.92"N 35 14' 03.26"E )

第2留もアントニア要塞の跡地で、ローマ兵が「ユダヤの王」と嘲ってイエスに茨の冠を被せた所。また十字架刑に先立って鞭打ちを行った所。( 31 46' 49.86"N 35 14' 01.98"E )
鞭打ちは処刑者の抵抗を弱め、早く死なせる為に行われた。フラゲッルムと呼ばれる体を引き裂く鉤の付いた鞭が用いられた。
それからイエスは、かなりの重さだったと思われる十字架を、ここから背負って出発した。

画像は、第2留の近くにあるエッケ・ホモ(この人を見よ)教会 31 46' 49.22"N 35 13' 58.97"E 。
ピラトゥスがイエスを指差して、この人には何の罪も見出せない、と言った所。
エルサレムで買ったポストカードの1枚です。


第3留。イエスが十字架の重みに耐えかねて、倒れた所
( 31 46' 47.16"N 35 13' 55.58"E )

アルメニア・カトリックの聖堂がある。






聖堂が開いていました。内部の祭壇です。









第4留。母マリアがイエスを見た所。( 31 46' 46.81"N 35 13' 55.86"E )
アルメニア教会の入口の上のレリーフに、その時の様子が彫り込まれている。


イエスが死刑に至る経緯を、色々まとめて見ることにしました。

1.イエスの殺害理由は?

・ 大祭司アンナスとカイアファが、イエスを野放しにしたら自分の利益を失うと考えた(ある本によると、イエスに対する刑の確定は、サンヘドリン(ユダヤ最高法院)の決定ではなく、大祭司アンナスとカイアファの独断だったそうである。逮捕した夜中にサンヘドリンを召集する事など不可能だったらしい)。

・ イエスは、安息日の規定や律法の解釈を巡って、様々な宗教的権威と対立していた。

・ イエスが「神の子」を名乗った事よりも、神の名のもとに行った振る舞いに行き過ぎがあった。

・ 大祭司や貴族階級は、ローマ人と相対して生計を立てる必要があり、ローマ人と諍いを引き起こす可能性のある人物を生かしておけなかった。

2.ユダヤ総督、ポンティウス・ピラトゥスの対応について

・ ピラトゥスが死刑判決を下すまでの経緯を見ると、少し弱腰の印象を受ける。
しかし、歴史家フラウィウス・ヨセフスによると、ピラトゥスはたびたびユダヤ人と対立し、治安を維持する為に断固とした態度もとっている。
いくつかの本にも、ユダヤ人の暴動に慣れ、安易に妥協しない厳格な統治者で、ローマ法に忠実な人物、と書かれている。
また、10年間も総督の地位にあった事は、彼が無能な人物ではなかった事を示している。

・ それでは、何故大祭司の要求に屈して、イエスに死刑判決を下したのか?という疑問が生じる。
ピラトゥスは、ティベリウス帝の下で勢威を振るった大臣セイヤヌスの配下で、総督になれたのもセイヤヌスの力だった。しかし31年にセイヤヌスは反逆罪で失脚・処刑され、その配下にも嫌疑がかけられていた。
またセイヤヌスはユダヤ人弾圧の政策をとっていたが、失脚後、ティベリウス帝は懐柔政策に変えたそうだ。

このようなピラトゥスを巡る権力構造の変化が、ユダヤ人の扱いに対して慎重にさせた可能性がある。彼は、大祭司らサドカイ派もイエスの支持者も、敵に回したくなかったのではないか。

大祭司は、4万人近い神殿の使用人と建設労働者を雇っていた。これらを動員して圧力をかける事は可能で、しかも「もしこの人を許したなら、あなたはカイザル(皇帝)の味方ではない」という殺し文句を言うに及んで、ピラトゥスは遂に折れた。

3.イエスの代わりに赦免された盗賊バラバ

・ 不思議な事に、過越しの祭りの時期に、囚人を赦免する習慣はなかったそうである。

・ 明らかに反ローマの熱心党の首領を、釈放するとは考えられない。

・ バラバはイエス・バラバという名前だった。
イエスはヘブライ語でヨシュアと言い、特別な名前でも無いと思われるので、名前が一致したのは不思議ではないと思うが、バラバとは父の子という意味だそうで、これはイエスが自分を指して言う言葉だそうだ。偶然にしては出来すぎている。

・ 以上から、バラバが釈放された物語は、何らかの誤解から生じたのでは?とある本に書いてありました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレム旧市街観光の続きです。

嘆きの壁から北に向います。
ここは西壁プラザの入口です 31 46' 37.04"N 35 14' 00.76"E 。

2000年前にウィルソン・アーチがあった場所と思われます。
ここは西壁トンネルウォークという観光路の入口になっています。
西壁トンネルウォークはヘロデ時代に完成した水路トンネルを辿る物で、地下に埋もれているヘロデ時代の西壁を、間近に見ることができます(地下に埋もれている壁は深さ21mもあります)。

480m辿った後、北にあるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の第3留近くに出ます。


更に北に行きます。
西壁プラザの入口を潜ると、イスラム教徒地区に出ました。
喧騒と雑然とした街並。別世界です。

画像は、エル・カタニン(綿織物市場)通りの入口だと思われます 31 46' 40.09"N 35 13' 59.01"E 。
14世紀のマムルーク朝の時に開設された市場の1つ
現在に至るまで数百年間、バザールが開かれてきました。
タイル張りのアーチ型の屋根や、売店の修理が行われているようです。

実は、この通りを真直ぐ東に歩くと、神殿の丘のほぼ中央部、岩のドームのある辺りに出ます。
しかし、神殿の丘に入るのに時間がかかるとの事で、観光はできませんでした。
昔も今も、異邦人は入れないのか・・・。


これは見れなかった岩のドームです 31 46' 40.98"N 35 14' 06.63"E 。
エルサレムで買ったポストカードの写真です。

金色のドームを持ち、エルサレム旧市街のシンボル的な建物。
7世紀にウマイヤ朝カリフによって建てられた、現存する最古のイスラム建築です

中に大きな岩があるが、旧約聖書にあるアブラハムが息子イサクを神に捧げようとした場所だと言われる。
また、ムハンマドが大天使ガブリエルに導かれ、天馬に跨って着地した場所。
更にここから光の梯子を昇って天国に入り、アッラーから啓示を受けて降り立った場所。
内部には精緻かつ華麗なアラベスクが施されているそうだ。見れなくて残念!

この後、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)へ。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。


エルサレムの旧市街観光の続きです

ロビンソン・アーチと同じ神殿の丘の西壁にある、嘆きの壁に向います。

画像はユダヤ教徒の家族かな?
今日は月曜日。毎週月曜日と木曜日には、嘆きの壁で、親類縁者立会いの下で男子の成人式(バル・ミツバ)が行われる
13歳になった少年は、公衆の前で律法を朗読する。
これにより、成人としてシナゴーグで律法を朗誦する資格を得ることができる。

嘆きの壁に向う途中にはチェックポイントがあり、手荷物検査を受けます。


ユダヤ教の聖地、嘆きの壁に着きました。
(このあたり 31 46' 36.31"N 35 14' 03.29"E )

嘆きの壁は、第一次、第二次ユダヤ反乱の時、ローマ軍によって破壊されずに残った神殿の丘を支える壁の一部です。
反乱失敗後に離散したユダヤ人が、4世紀以降、神殿陥落日(7,8月の9日)にここを訪れて、かつて自分達の神殿(ヘロデ王が増築した第二神殿)が建っていた時代を偲んで嘆き、祖国回復を祈った事から「嘆きの壁」と言われています

高さ18m、長さ60mです。
第三次中東戦争で、エルサレム旧市街を占領したイスラエル軍が、この辺りのアラブ人民家を取り壊して祈りの為の広場にしたものです。

左側は男性の祈りの場、右側は女性の祈りの場になっています。

画像は男性の祈りの場。
壁の積石は石灰岩で、一番下の7段がヘロデ時代のもので、それより上は後世に積み重ねられたもの。


これは、2000年前の嘆きの壁周辺の様子です(ホーリーランド・ホテルにある復元模型。移築工事中のため破損している)。

手前にある街並みは、貴族などの上流階級が住んでいた上の町。

谷を挟んだ向こう側にある城壁で囲まれた部分が神殿の丘で、広さ300m×485m、高さ45mありました。
ヘロデ王が造成した物で、当時の工学技術を駆使した物です。

神殿の丘の中、左側に建っているのが第二神殿で、城壁の右端にある階段は、前回出て来たロビンソン・アーチの当時の姿。

左側にある橋はウィルソン・アーチと呼ばれ、神殿の丘と上の町を結んでいました
この橋のおかげで、上流階級の人々は谷に下る事無く、直接神殿に入ることができました。

ウィルソン・アーチのすぐ右側が、現在の嘆きの壁に当ります


嘆きの壁の近くでは、大勢のユダヤ教徒の人達で混雑しています

ある人は壁に触れながら、ある人は額を押し付けながら、一心不乱に祈り続けています。
広場では聖書などが置かれたテーブルがあちらこちらにあり、共同学習や成人式を行っているようです。
人が真剣に祈る姿からは、大きな情念のエネルギーを感じます。
ここはそのエネルギーが充満している場所で、観光目的で来た私は、そのエネルギーに気おされて、長居はやめて引き下がりました。


嘆きの壁を見上げた所です

所々にヒソプ(モーセがエジプトを脱出する前日、神の災いを防ぐ為に子羊の血を戸口に塗った草)?が生えています。

このヘロデ時代の積石は、綺麗に切り揃えられていて縁取りがあり、その内側が平に盛り上がっています。
この正確な直方体は、以下のように作られました。

1.石灰岩の大きな塊の石目に沿って、溝を削る。
2.木材を溝一杯に挟む。
3.木材に水をかけて膨張させる。石灰岩は石目に沿って綺麗に割れる。

これらの積石の中には、長さ7m、重さ100tという巨大なものもあるそうです。

積石の間には、画像のように紙の小片が詰め込まれています
これは人々が願い事を書いて詰め込んだ物です。


ここでユダヤ教の習慣について、主な物を簡単にまとめようと思います
これらは、神への忠誠を表わす行いです。

1.安息日は金曜の日没から土曜の日没まで
店も交通機関も営業しない。
今では世界中で当り前の、7日に1日休むと言う習慣は、ユダヤ教が始めたもの。

2.ヨム・キップル(贖罪の日)は1年間のあやまちを悔い改める日で、家事・料理を含め全ての労働が禁止される。9,10月頃。

3.過越しの祭りは、モーセとイスラエル人がエジプトを脱出した時、神が迫害者エジプト人の初子をことごとく殺した故事にちなんだ祭りで、発酵させない「種入れぬパン(クラッカーのようなもの)」を1週間食べて、当時の苦難を偲びます。
春に行われ、春の収穫祭でもある。
これは三大季節祭のひとつで、他に七週の祭り、仮庵の祭りがある。

4.暦は太陽太陰暦を使用
3,4年に一回閏月があり、旧約聖書の天地創造の日が元年になる(西暦2006年は5767年)。

5.カシュルートという食事戒律がある
食べてよい物をコシェルといい、有蹄類で反芻する動物はOK、猛禽類以外の飛べる鳥、ニワトリ、七面鳥はOK、鱗とひれがある魚はOK。
つまり、牛、羊、ウナギはOK。豚、兎、ワシ、エビ、タコ、イカ、カニ、貝はNG。
肉と乳製品は同時に食べられない。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

エルサレム観光の続きです。

オリーブ山からバスに乗って、旧市街の南側の城壁の側を通ります。
画像は、オフェル考古学ガーデン。
( 31 46' 31.94"N 35 14' 11.28"E )

旧市街の南東側をオフェルの丘といい、水源に近い事からエルサレム最初の集落が出来ました。
その為、発掘作業が行われ、今では公園になっています。
画像の場所には、紀元前1世紀~7世紀の遺跡があるそうです。

手前に広がっているのはウマイヤ朝(7世紀)の遺跡です。
正面の壁の向こうには、神殿の丘があります。

画像右奥の壁際に、階段があるのがわかると思います。
これはヘロデ王が造った、神殿の丘に上がる為の大階段
だと思われます。
そして、画像中央やや斜め右上の、ヤシの木が2本立っている場所の少し上に、庇がついた門のような物が見えます 31 46' 33.20"N 35 14' 08.60"E 。
これは、ヘロデ時代の神殿の丘に繋がる二重門(フルダ門)
があった場所で、ビザンツ時代の門が付加されています。

壁の向こうに、ドームを持つ建物がありますが、これはアル・アクサー・モスク 31 46' 34.31"N 35 14' 08.01"E 。
イスラム教の始祖ムハンマドが、メッカから「もっとも遠隔の地」まで一夜にして旅をし、その後昇天して天啓を受けた、という伝承があります。
その「もっとも遠隔の地」を意味する、アル・アクサーという名のモスクです。
8世紀初頭に建てられました。


これはホーリーランドホテルにある、ヘロデ時代の南壁の復元模型です(正確に言うと紀元66年の第一次ユダヤ反乱勃発時)。
現在、移設作業中のため、一部破損しています。

前の画像の2000年前の様子がこれです。
通常、ユダヤ神殿への大半の巡礼者達は、この南側の門から神殿の丘に上がりました。

手前の街には、地方からきた巡礼者の宿があったと思われます。
その上の広場では、神殿の丘に上がろうとする巡礼者達でごった返していました。
広場に建つ四角い建物は、会議所や沐浴場で、ここで神殿に入る前に身を清めました。

広場から城壁に上がる大階段は、30cmと89cmの高さが異なる石段が交互に並べられていました。
これは、巡礼者が聖なる神殿の前で慎重にゆっくり歩くよう、わざとそう設計されました。
イエスもこの階段を昇ったのだろうと思われます。

左側の門がフルダ門で、巡礼者はここを通って神殿に入りました。
右側の門は、祭司達が儀式に必要な物を置いている倉庫に入る為の門で、一説によると三重門ではなかったかと言われます(模型は二重門になっています)。

この門を潜った巡礼者達は、ヘロデが造った大理石と黄金に輝く神殿を、感嘆の気持で見たのだと思います。


これもオフェル考古学ガーデン。

南壁の手前にあるウマイヤ朝の遺跡は、一部はカリフの宮殿跡と言われ、その他は宗教施設で働く人々の生活区域だったと言われます。
いくつかある建造物はどれも同じ構造をしており、中央の大広間を多くの部屋が囲んでいました。




さて、いよいよ待望の旧市街に入ります。

画像は、オフェル考古学ガーデンの少し西にある糞門。
旧市街の南にある門です。

( 31 46' 29.39"N 35 14' 02.57"E )

古代オリエント時代には、もっと南にあった門で、城内の汚物がこの門を通って、キドロン峡谷に捨てられていました。
糞門という名前はこの事に由来しています。
オスマン朝により、現在の場所に建てられました。

糞門に入ってすぐの場所に、神殿の丘の囲壁の南西角があります。

壁の周囲にあるのは、オフェル考古学ガーデンから続いているウマイヤ朝の遺跡です。

注目すべきは、画像中央、壁にくっ付いているでっぱりで、ロビンソン・アーチと呼ばれる物です 31 46' 32.76"N 35 14' 04.02"E 。
ヘロデ時代には、ここから下に向けて、大きな階段が付いていました。
エルサレムの“上の町”に住む貴族達が、神殿の丘に通う主要ルートの1つだったそうです。


壁の向こう側には、様々なコーランのコレクションで有名な、イスラム博物館があります 31 46' 33.97"N 35 14' 04.09"E 。


ここで、エルサレムを聖地とする3つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教についてまとめます。

① どのような宗教か?
② エルサレムを聖地とする理由は?
③ 神様の名前は?
④ 聖典は何か?
⑤ 預言者は誰か?
⑥ 聖職者は誰か?
⑦ 偶像崇拝を認めるか?
⑧ 安息日はいつ?
⑨ 信徒数は?

1.ユダヤ教
① 西南アジアに興った啓示宗教の一。モーセの律法を基礎として唯一の神ヤハウェを信奉し、イスラエルの民の為に神の国を地上にもたらすメシアの来臨を信じる。バビロンの捕囚以後に教団として発達した。
② ダビデ王が、イスラエル民族の宗教的統合の象徴として契約の箱を置いた場所。またソロモン王が、イスラエル民族唯一の神殿を造った場所。
③ ヤハウェ
④ 旧約聖書
⑤ 旧約聖書に登場する預言者
⑥ ラビ
⑦ 絶対禁止
⑧ 土曜日
⑨ 1500万

2.キリスト教
① イエス=キリストの人格と教訓とを中心とする宗教。正義と慈愛とに満ちた父なる神、人類の罪、キリストによる贖罪を説く。
パレスチナに起り、ローマ帝国の国教となり、更にペルシア、インド、中国に伝えられ、欧米各国に行われ、現在は殆ど世界至る所に信徒を有する。
② イエスが磔刑に処され、復活した場所。
③ 父なる神、キリスト、聖霊
④ 旧約聖書、新約聖書
⑤ 旧約聖書、新約聖書に登場する預言者
⑥ 神父、牧師
⑦ 原則禁止
⑧ 日曜日
⑨ 20億

3.イスラム教
① 610年~630年頃ムハンマド(マホメット)が創め、アラビア民族によって発展。その地域も聖地メッカを中心に中近東、北アフリカ、中央アジア、中国、東南アジア一帯に民族を越えて広がる。
独自の文化・政治組織