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マルコポーロになりたい
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2006/01/02のBlog
ベツレヘム観光の続きです。

聖誕教会の小さな入口です 31 42' 15.62"N 35 12' 25.06"E 。

壁にアーチの跡があります。ユスティニアヌス帝の時代には大きな入口だったが、だんだん狭められたそうです。




ギリシャ正教の礼拝堂です 31 42' 15.46"N 35 12' 25.75"E 。これはコンスタンティヌス帝の教会の上に、ユスティニアヌス帝が造った建物です。

26.5m×33mの長方形で、11本からなる柱列が4列あります。
コンスタンティヌス帝の教会より拡張され、柱は新たに10本追加されましたが、コンスタンティヌス帝時代の柱を模倣した為、考古学者はこれらの柱が全てコンスタンティヌス帝時代のものだと勘違いしたそうです。
よく見ませんでしたが、柱には聖者やマリアの全身像が描かれているようです。

また修復中らしい壁面(画像列柱の上)には、所々モザイク画があり、イエスのエルサレム入城などが描かれているようです。

画像の奥、東端には祭壇があります。


礼拝堂の右側隅にあった洗礼盤です。
いつ頃の時代のものだろうか?








これは、礼拝堂の中央にある、コンスタンティヌス帝の教会の床に施されたモザイクです。
製作は、コンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝の時代の間、5世紀とされています。

コンスタンティヌス帝の教会は、一辺26.5mの方形のバシリカと、東側に八角堂がありました。バシリカの中央には、2枚のモザイクのカーペットがありました。
画像上半分(東側)が長さ9.2mのもの、下半分(西側)が5.8mの正方形のものです。
このカーペットは、現在の教会の床下60cmにあります。
デザイン的には、ガリラヤ湖畔のパンと魚の増加の教会のものより劣るそうです。


教会の奥にある祭壇付近です。

コンスタンティヌス帝の時代には、一辺7.9mの八角堂がありました。
ユスティニアヌス帝は再建にあたり、建築家を派遣しました。恐らく、建築家は直径33.6mのドーム付き円形建物を提案しましたが、ドームを載せるのは難しかったせいか、皇帝に拒否され、首をはねられたそうです。

結局今のような、東南北の3方に半円形のアプスがある建物になりました。画像上方に、東側のアプスが見えます。

沢山の燭台がぶら下がっていて、クリスマスの飾り付けのようです。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
ここでエルサレムを出て、パレスチナ自治政府の領域であるベツレヘムに向います。

画像は向う途中の光景。画像中央に小さく、富士山に似た端正な丘が見えますが、これはヘロディウム 31 39' 57.25"N 35 14' 29.52"E 。

ヘレニズム時代ヘロデ王が造った宮殿・城砦。ベツレヘムの南東5キロにあり、周囲の平地からの高さは60m。
頂上部を外径64m、内径45mの城壁で囲み、東西南北に円形、半円形の塔を建てた。城壁の中に、大浴場、居間、食堂、中庭、シナゴーグがある。

緊急事態をいち早く知らせる火の信号を出す場所でもあったらしい。
丘の周囲には、宮殿、大プール付き遊園地、馬場の遺構がある。またこれらに水を供給する長さ6キロの水道も作られた。
また、ここにヘロデ王の遺体が埋葬されたそうだが、発見されていない。
第二次ユダヤ反乱の時、ここは反乱軍の拠点になった。


パレスチナ自治政府との境界に着きました。画像は分離壁です。

分離壁は2002年以降にイスラエルが建設を始めたもので、パレスチナ自治政府の領域を囲むように作られている高さ9m、コンクリート製の壁。
完成すれば総延長は700キロ以上に及ぶ。

実際はパレスチナ領域内のユダヤ人大規模入植地をイスラエル側に取り込んでいるため、パレスチナ領域内を侵食している。イスラエルが勝手に自国に都合の良い国境線を引こうとしているわけで、国際司法裁判所は違法との判決を下している。

もともとイスラエルが作った理由は、パレスチナ側からのテロを防ぐ為で、実際効果はあるらしい。しかし真意は別の所にあるらしい。

パレスチナ人は出生率が高く、もしこのままパレスチナ人の領域を占領したままだと、50年後にはイスラエルにおけるパレスチナ人の人口がユダヤ人の倍になってしまい、ユダヤ人国家ではなくなってしまう。その為、イスラエルの強硬派やパレスチナ人の反対を押し切って建設を急いでいる。

イスラエルの国民も概ね支持しているようで、今までの平和への取り組みの度重なる失敗、相次ぐテロにより、一方的にパレスチナを切り離して、ユダヤ人の領域で自分達の生活を守る、という意識が強いという。

一方、パレスチナ人は経済的にイスラエルに依存しており、分離壁によって、イスラエルに職を持っていたパレスチナ人の多くは失職する。その為行き場を失ったパレスチナ人がテロに参加したり、国境付近で仲良くやってきたイスラエル人とパレスチナ人居住者の関係悪化が懸念されている。
パレスチナ問題の経緯はこちら

画像の壁には絵が描かれている。この絵は違うと思うが、2005年末からバンクシーというイギリスの美術家が、ゲリラ的に落書きしているそうだ。
その内容は、平和への願いを込めたものだそうだ。(以上、朝日新聞の記事から)

ここにはイスラエルの厳重なチェックポイントがある 31 43' 06.40"N 35 12' 08.22"E 。パレスチナの領域に入る時は、比較的軽いチェックだった。

ここで今までのバスから降りて、パレスチナのバスに乗り換える。

尚この辺には、旧約聖書にあるイスラエル人の祖ヤコブの妻ラケルの墓があるはずだが、場所が良くわかりませんでした。


ベツレヘムの市街、メンジャー通りです 31 42' 21.56"N 35 12' 16.02"E 。
やはりイスラエルの町とは雰囲気が違います。
バス終着駅 31 42' 22.39"N 35 12' 17.56"E を降りて、聖誕教会に向う所。

ベツレヘムはエルサレムの南7キロ、ヘブロン街道上にあり、町中には泉が無い為、貯水池が使われ始めた青銅器時代に集落ができたそうです。

イスラエルの祭司部族、レビ族の出身地、ダビデの出身地でした。
ヘロデ王マサダ砦やヘロディウムを造った時、これらの場所に行く途上にあった事から重要な場所でした。
また、イエスが生まれた地とされています。

第二次ユダヤ反乱の後、ここはアエリア・カピトリーナの領域だった為、ユダヤ人が追放されました。
また反キリストのローマ皇帝ハドリアヌスにより、イエスが生まれたとされる洞穴の上に、ウェヌスとアドニスを祀る神殿が建てられました。

2世紀の終わりにはユダヤ人は存在していませんでしたが、4世紀の終わりに再び住み始めたようです。

4世紀には、コンスタンティヌス1世の母ヘレナが、イエス生誕の洞穴に大規模な教会を建てました。
7世紀にはアラブ人に占領され、11~12世紀は十字軍が支配していました。


聖誕教会の前にあるメンジャー広場です 31 42' 15.97"N 35 12' 23.20"E 。

拡声器からコーランが聞こえてきました。そして辺りを包む喧騒。
ヨーロッパ的なイスラエルから離れ、アラブ情緒に浸れて、新鮮な気分を味わう事が出来ました。






聖誕教会の外景。

聖誕教会は、4世紀にコンスタンティヌス1世の母ヘレナが建てた教会で、コンスタンティヌス帝がパレスチナに建てた3つの教会の1つです。

6世紀、サマリア人の反乱で破壊されましたが、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスにより再建されました。現在残っているのは、この建物です。
サマリア人の時のような攻撃に備える為、壁は厚くなりました。

7世紀にはペルシャ人が占領しましたが、壁にイエス生誕に立ち会ったとされる東方の三博士のモザイクがあり、それがペルシャの服を着ていた為に破壊を免れたという伝承があります。

イスラムの征服後、エルサレムの岩のドーム建設の為に、ここの大理石の大半が持ち去られました。

十字軍の歴代王は、ここで戴冠式を行ないました。

16世紀以降、略奪により荒廃したとの事です。

現在、ここにはカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教の教会があります。

画像左奥に、小さな入口があります。
教会の前には、土産物売りが大勢いて、「ワンダラー、ワンダラー」としつこく声をかけてきます。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレム旧市街の南側外にある、シオン山観光の続きです。

最後の晩餐の部屋の下にある、ダビデ王の墓です。

ユダヤ教徒の人達が、入れ替わり立ち替り訪れ、熱心に祈りを捧げている場所です。
嘆きの壁と同様、男女で入る場所が分かれています。また帽子を被らなくてはいけません。

旧約聖書には、ダビデはダビデの町に葬られたと書かれています。
新約聖書にも、墓の存在が記されています。
ホーリーランド・ホテルにある、第一次ユダヤ反乱勃発時のエルサレムの模型では、ピラミッドを頂く巨大な塔の墳墓として復元されています。
しかし考古学者ピンカーフェルドは、ここはローマ時代には墓地ではなく、シナゴーグだったと言っています。

ダビデの墓は、第二次ユダヤ反乱の時ローマ軍により破壊されたそうです。
14世紀、ヴェネツィアの貴族マリノ・サヌードは、ここにソロモン、ダビデなどユダヤ諸王の墓があったと書いています。
マムルーク朝時代には、シオン山はキリスト教徒、ユダヤ教徒双方の聖地だったため、両者の確執がありました。キリスト教徒は、ダビデの墓があるという理由でシオン山から追い出されたと言って、ユダヤ教徒を非難しました。
第一次~第三次中東戦争の間、嘆きの壁に入ることを禁じられたユダヤ教徒は、ここを最大の巡礼地にしていました。
また、オスカー・シンドラーの墓が近くにあるようです 31 46' 14.13"N 35 13' 48.31"E 。

この後、シオン門近くの旧市街でおみやげタイム 31 46' 23.12"N 35 13' 48.59"E 。門の外には観光用のラクダがいました。


旧市街の西と南を取り巻く、ヒンノムの谷です。
(このあたり 31 46' 05.80"N 35 13' 45.32"E )

水のない涸れ谷で、特に南側は露岩のある険しい断崖になっています。
古代イスラエル王国の一時期、犠牲を捧げる異教的祭儀が行われた。モレク神に子供を捧げて火渡りさせたり、焼き殺したという。
この忌まわしい習慣から、ユダヤ教においては最終的な処罰の場所を示すようになり、地獄(ゲヒノム)の語源になった。
また、町のゴミを焼却する場所でもあったそうだ。

イエスに有罪判決が下された時、後悔したユダは受け取った銀貨30枚を神殿に投げ込み、ここで首を吊って自殺した。祭司らは銀貨を神殿に納める訳にはいかず、シオン山?に畑を買って、外国人の墓地にしたという(マタイによる福音書)。

アカデミー賞11部門を獲った映画「ベン・ハー」では、ベン・ハーの母と妹が送られる死病の谷として描かれた。
ゴルゴタの丘から流れ込んだイエスの血に、二人が癒されるラストシーンは、実に感動的な場面でした。


たまにはバイキング以外を、と言う事で、旧市街の新門の近くにあるインド料理店で昼食
この後、明日行く予定だったベツレヘムにこれから向かいます。


ここでダビデの生涯をまとめます。

ダビデは紀元前10世紀の人で、古代イスラエル王国の二代目の王です。
旧約聖書に数多く現れ、ユダヤ人の輝かしい時代の王であり、イエスの先祖とされ、容姿が美しかった事から、ミケランジェロを始め多くの芸術作品の題材にされています。


1.ユダ族の富裕なエッサイの子として生まれた。兄弟姉妹は7,8人いて、皆容貌に恵まれていたと言う。

2.子供の時、預言者サムエルにより未来の王として頭に香油を注がれた。サムエルはエッサイが見せた美しい7人の子を選ばず、「神は容貌よりも心を見る」と言って羊飼いの仕事で不在だったダビデを選んだ。

3.イスラエル王サウルは、サムエルから神への不従順を責められ、欝になっていた。
音楽の才能に秀でていたダビデは、宮廷に召し出されてサウルを癒したと言う。その為サウルから愛され、武器持ちになった。

4.イスラエル人とペリシテ人が戦った時、ペリシテの巨人ゴリアテが挑戦者を求めた所、皆恐れて応えなかった。ダビデだけが応じ、投石器を使って倒した為、その名声は大いに高まった。ダビデは兵の隊長に出世した。そして更に戦功をたてたらしい。

5.ダビデに対する賞賛が高まった為、サウルはダビデに嫉妬し、たびたび殺そうとした。激戦地に送って戦死させようとしたり、槍で刺し殺そうとした。
娘ミカルがダビデを愛するようになると、その結納として敵であるペリシテ人男性の包皮百枚を要求するという無理難題を課した。しかしダビデの軍はペリシテ人を殺して二百枚を持ち帰り、ミカルと結婚した。

6.しかしダビデは遂に宮廷から逃亡した。一族や手勢と共に放浪したが、各地の傭兵になって衣食をまかなったらしい。またユダ族との友好関係を保とうとして、たびたび敵の攻撃から救った。
しかしサウルの追跡は厳しく、ダビデは死海沿岸のエン・ゲディまで逃げた。

7.逃げ切れないと考え、ペリシテ人の王アキシの部下になった。そしてイスラエル人を攻めていると見せかけて他地を攻め、略奪品を自軍の充実とユダ族への贈り物に使った。
ペリシテ人がサウルへの総攻撃を計画すると、最初ダビデも従軍を要求されたが、ペリシテの諸侯は裏切りを恐れて従軍を望まず、ダビデはイスラエル人と戦う事態を免れた。

8.サウル王がギルボア山の戦いでペリシテ軍に敗れて死ぬと、ダビデは彼に感謝していたユダ族から王として迎えられた(30歳の時)。
イスラエル王国は、サウルの子イシボセテの北王国と、ダビデの南王国に分裂した。
イシボセテと摂政のアブネルが不和になると、ダビデはアブネルにミカルを連れて来るように言った。これはサウルの娘婿として、イスラエル王国の王位継承権がある事を明確にする為だった。

9.アブネルが暗殺され、希望を失った軍の隊長にイシボセテが殺されると、イスラエルの全部族はダビデを王として推戴した
ダビデは北王国と南王国の国民感情を考慮し、両国に属さないエブス人の町、エルサレムを攻めて占領し、ここを首都にした。またイスラエル全部族を宗教的、政治的に統合する為、エルサレムに神の契約の箱を置いた。

10.治世の当初は、周辺諸国との戦いの連続だった。即位直後に攻め寄せたペリシテ軍を二回に渡って破り、大打撃を与えた。
エジプトとアッシリアの2大強国の衰退という幸運に恵まれ、周辺の中小国を次々に占領し、版図を大幅に拡大した。

11.バテシバを妃にした後、息子アブサロムの反乱が起きて、ダビデは一時期エルサレムから逃亡した。しかし反乱は鎮圧された。

12.反乱を機にして、ダビデは王国内の行政組織強化に乗り出した。軍の長、徴募人の長、史官、書記官、国家祭司などを置いた。これは年齢と共に衰える彼の力を補う物だった。

13.ダビデが死の床につくと、息子の1人アドニヤが王位につくと宣言した。
しかしダビデはバテシバの息子ソロモンを指名した。これによりソロモンはアドニヤ派を粛清した。
ダビデは70歳の頃死んだ。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

エルサレム旧市街観光の続きです。

南のシオン門からエルサレム旧市街を出て、シオン山に着きました。
シオン山は、エルサレムの南西にある丘で、ビザンツ時代にシオン山バシリカ教会聖堂が建てられた場所です。

シオン山バシリカ教会聖堂は、最後の晩餐が行われ、聖母マリアが死去し、聖霊が弟子達に降臨した場所に建てられました。当時は、イエスが処刑の直前に被った茨の冠が展示されていたそうです。
この教会はエルサレム最古の聖所で、全教会の母なる教会とされた。

旧約聖書、新約聖書では、シオンという名称は、全エルサレム及びその住民を表わしている。その為シオニズム、シオニストの語源になった。

画像は、マリア永眠教会。20世紀初頭にドイツ人が建てた教会。
実に重厚で堂々たる建物でした。( 31 46' 19.94"N 35 13' 43.92"E )


画像は、マリア永眠教会の塔です。
この教会の地下には、永眠するマリア像があるそうです。








マリア永眠教会の前を通って狭い路地に入っていくと、建物の二階に最後の晩餐の部屋があります。非常にわかりづらい場所です。
(このあたり 31 46' 18.19"N 35 13' 44.39"E )

イエスと12人の弟子達は、当時の習慣に従って、エルサレムの城内で過越し祭の食事をする計画を立てました。
これは夜中に行うもので、彼らを取り巻く支持者が居ない為、もし大祭司らに知れたら捕まる事は明らかでした。そこで彼らは二人ずつ、密かにこの場所に集まりました。
ここは”上の町”にあり、イエスを支持する上流階級の人が準備した場所でした。

これが過越し祭の食事かどうかは、異論があるそうです。
イエスは、これが最後の食事になる事を知っていたようです。
ここでは以下のような印象的な出来事がありました。

1.ユダの裏切りの予告
一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。
弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

2.イエスが多くの人の救済の為、生贄になる事を予告
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

3.弟子達がイエスを見捨てる事を予告
イエスは弟子たちに言われた。
あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
(以上、新約聖書 マルコによる福音書・14章18~31節 新共同訳から引用)

3の補足:この食事の後ゲッセマネでイエスが捕まると、弟子達は四散した。
ペテロ(ペトロ)はイエスの様子を見に、大祭司カイアファの屋敷に忍び込んだ時、召使の女に見つかり、居合わせた人々から「お前はイエスの弟子だろう?」と厳しく追及された。
ペテロは怖くなって、「あんな人の事は知らない」と3回叫んだ。この間、鶏が二度鳴いた。
その時、屋敷からアントニア要塞へ連行されるイエスが通りかかり、ペテロの顔を見つめた。ペテロは最後の晩餐での、イエスの言葉を思い出して泣いた。


3ヶ月前、イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「最後の晩餐」の壁画を見ました。こんなに早く、本物を見られるとは思っていませんでした。

「最後の晩餐」の壁画では、イエスと弟子達はテーブルを前にして、椅子に腰掛けています。しかし実際は、肩肘を付いて横臥しながら食事を摂っていたようです。
それがローマ時代の食事方法で、6世紀の「最後の晩餐」モザイク画では、横臥する姿が描かれています。
しかし、この部屋で横臥したイエスが上記のような衝撃的な話をする様は、多少緊迫感に欠けるような気がします。

そもそもダビデ王の墓の上にあるこの部屋からして、本当に最後の晩餐が行われた場所なのかどうかわかりません。あくまでキリスト教の伝承です。
少なくともこの建物はイエス時代のものではなく、十字軍時代に建てられた、シオン山聖マリア教会堂の建物の一部だそうです。

14世紀のヴェネツィア貴族、マリノ・サヌードは、「聖地回復に参加する、真の十字軍兵士の秘本」という本の中で、この部屋を訪れた様を解説しているそうだ。
そしてこの部屋の側にユダヤの王の墓がある事、シオン山の南側に、ユダがイエスを売って得た金で買った畑を見た事を、解説している。


ユダは何故イエスを裏切ったのだろうか?
この疑問は作家達にも気になるらしく、いくつかの参考文献ではその理由が書かれていました。そのいくつかを書き出してみます。

1.ユダは、ユダヤ民族主義を掲げる熱心党員で、イエスがユダヤ人の独立を勝ち得るメシアと信じて付いて来た。しかしイエスの方向性が自分とは異なる事に幻滅し、何とかイエスを民衆蜂起に立ち上がらせる為に、大祭司に襲わせるよう仕向けた。
恐らくユダの目論見は、大祭司の手下に襲われたイエスが逃走し、ベタニヤにいる支持者やエルサレムにいる反ローマの住民達と共に立ち上がり、熱心党もこれに合流する、という物だったのだろう。
しかし、ゲッセマネでイエスは逃げるどころか、弟子達に抵抗するなと言って連行された。

2.過越し祭の少し前、イエス達が宿泊していたベタニヤ村で、ラザロの姉妹のマリアが高価な香油の瓶を壊し、イエスの頭に注いだ。香油を頭に注ぐ行為は、尊敬を表わす行為だった。
この香油は、高価な雪花石膏の瓶に詰まった高価なナルドの香油で、イエスは注ぐにまかせたという。これを見たユダは、貧者に全てを与えるという公約をイエスが破っているように思われ、怒りを感じたと言う。

3.ユダは裏切るつもりはなかったという説もありました。
過越し祭の前日、ユダが過越し祭用の生贄の子羊を屠りにエルサレム神殿に行った時、大祭司らに見つかってしまい、イエスが過越し祭を城内で祝う事を悟られてしまった。
最後の晩餐の時、心配になったユダは大祭司の館に様子を見に行ったが、恐らくここで捕まり、厳しく脅されたのだろうか?結局イエスの居場所を道案内させられる事になったと思われる。
ゲッセマネでイエスに対して行った接吻は、合図ではなく謝罪の意味だったという。

4.最近解読された4世紀作の「ユダの福音書」では、イエスは自分の教えを最も理解していたユダに、裏切りを指示したそうだ。
正統、異端を問わず、新約聖書の各福音書は、イエスの死後数十年以上経ってから伝承を元に書かれたものだそうだ。歴史的正確さを追及するというよりは、神学的成果を追及したものだそうで、要するに真実は誰にもわからない。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレム旧市街観光の続きです

聖墳墓教会の観光を終え、旧市街の南の城外にある、シオン山に行きます。

途中、旧市街のユダヤ人街を通りました。
エルサレム旧市街は4つの居住区、ユダヤ教徒地区、アルメニア正教徒地区、キリスト教徒地区、イスラム教徒地区に分かれています。

画像はユダヤ教徒地区のアーケード商店街です。たぶんここはローマ時代にエルサレムを南北に貫いていた主要道、カルドーの現在の姿だと思います。( 31 46' 33.65"N 35 13' 51.07"E )
屋根は修復されているようですが、十字軍時代のものらしいです。

旧市街の中では、割と清潔感のある通りだったので、じっくり店を見てみたかったのですが、時間に追われてそれもかなわず。


こちらはローマ時代のカルドーの遺跡です。
( 31 46' 32.05"N 35 13' 50.87"E )

ローマ帝国の皇帝アエリウス・ハドリアヌスは、第二次ユダヤ反乱の結果、エルサレムからユダヤ人を追放し、廃墟の上にアエリア・カピトリーナという殖民都市を造りました。
それは一般的なローマの都市に見られる、碁盤目状の街路を持つ都市でした。

ここには3つの主要道がありました。
ダマスカス門からシオン門を南北に繋ぐ西カルドー、ダマスカス門から糞門を南北に繋ぐ東カルドー、これらと交差して、ダビデの塔近くのヤッフォ門から神殿の丘の鎖門までを東西に繋ぐデクマヌスでした。

ここは、かつての西カルドーで、現在はハーンエザイト通りの延長線上にあります。
当時は幅22.5mの舗装道で、屋根付きの列柱が両側に並んでいました。
またカルドーの周囲には店が建ち並んでいました。
買物客は、天気を心配せずに買い物する事ができました。


これはマダバ地図の複製です。

マダバはヨルダンの都市で、そこの教会の床にある6世紀のエルサレムのモザイク地図です。当時のエルサレムを知る重要な史料になっています。

この地図は、左側が北になっており、楕円形がエルサレム旧市街を表わします。
左端にある門が現在のダマスカス門。その広場の上方に、ビザンツ皇妃エウドキアの館があります。
ダマスカス門から斜め上に伸びている列柱付きの街路が東カルドー、真横に伸びている列柱付きの街路が西カルドーです。カルドーが2つあるのはエルサレム特有の構造で、通常のカルドーに加え、神殿の丘への道が必要だった為です。
西カルドーの中央の下側には、半円形のドームを持つ建物群があります。これは聖墳墓教会です。
西カルドーの右端には、大きな屋根を持つ聖母マリアの新(ネア)教会があります。ユスティニアヌス大帝が建てた物です。


これはカルドーの脇にある商店跡。十字軍時代のもの?









これはラムバン・シナゴーグの塔。( 31 46' 31.02"N 35 13' 51.76"E )

第一回十字軍による虐殺で大打撃を受けたユダヤ人共同体は、マムルーク朝時代になってようやく回復した。
ユダヤ教徒地区には多くのユダヤ人が訪れるようになったが、13世紀にスペインから訪れた聖書注解者ラビ、モシェ・ベン・ナフマンもその1人だった。
頭文字を略して、ラムバンと呼ばれた。彼はこの場所にシナゴーグを建てた。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムの聖墳墓教会観光の続きです。

聖ヘレナ礼拝堂に降りていくと、途中にこんなものが。
ただの岩壁のように見えますが、柵で囲ってあります。
もしかして、ゴルゴタの丘の一部?





聖ヘレナ礼拝堂です。( 31 46' 42.58"N 35 13' 48.47"E )

ヘレナはローマ皇帝コンスタンティウス1世の母で、イエスの死から300年後、ゴルゴタでイエスの墓と十字架を発見、聖堂を建てた人です。

一説によればビテニアの小さな宿屋の娘として生まれたが、コンスタンティウス・クロルスという貴族に見初められて結婚した。その後、夫は大出世してマクシミアヌス帝の副帝になった。
ところが喜びも束の間、夫はマクシミアヌス帝の養女と政略結婚し、ヘレナは離縁させられた。
しかし夫の死後、息子のコンスタンティウス1世がローマ皇帝になり、栄位が回復された。

コンスタンティウス1世とヘレナと、どちらが先に帰依したかわからないが、両者とも熱心なキリスト教徒になった。
コンスタンティウス1世はキリスト教を帝国内で初めて公認し、キリスト教内の対立を調停すべく各地の指導者をニケーアに招集した。その際、アエリア・カピトリーナ(エルサレム)の司教が、キリストゆかりの場所が荒れ果てているので浄化するよう訴えた。
コンスタンティウス1世は様子を調べる為に、信頼できる人物を派遣しようと考えた。その時、母ヘレナが名乗りを挙げたらしい。


ヘレナは既に80歳近く、パレスチナへの旅は死を覚悟したものだったと思われるが、聖地を一目見たいという情熱が駆り立てたのだろう。コンスタンティウス1世は彼女の派遣を認めた。

アエリア・カピトリーナに着いて間もなく、彼女はヴィーナス神殿の真下にイエスの墓と処刑された場所を発見した。夢の中で頻繁に啓示を受けていたとの事です。


聖ヘレナ礼拝堂の右脇の階段を下りた所にある、聖十字架発見の聖堂です。

ソクラテス・スコラスティクスという歴史家が、こう述べているそうだ。


「その都(エルサレム)はきゅうり園の番小屋のように荒れ果てていた。・・・・・彼女(ヘレナ)は(ヴィーナス神殿の)像を投げ捨て、土盛りを取り除いて、その場所を綺麗にした。すると、その墓の中から3本の十字架が見つかった。・・・・・それらと共に、磔刑に処せられたキリストはユダヤの王であると、ピラトゥスが色々な言語で書いた貼り札も見つかった。」
(紀伊国屋書店、イアン・ウィルソン著、小田卓爾訳、「真実のイエス」より引用)


この十字架の木片は、ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院を始めとして各地の教会にわけられているらしい。
普通に考えると、多くの受刑者が処刑されたゴルゴタで、偶然イエスの十字架が見つかる可能性はほとんどないと思われます。しかし熱心な信者にとっては、十分満足できる代用品なのだと思います。
かく言う私も、マルコ・ポーロが得たはずの、聖墳墓の上で灯されているランプの本物の聖油は得られなくても、エルサレム旧市街で買ったありふれた5ドルの聖油で、十分に嬉しかったのでした。


これはイエスが息を引き取った時に、雷で砕かれた岩だと言われています。


聖墳墓教会の歴史についてまとめます。

第二次ユダヤ反乱が終った時、五賢帝ハドリアヌスはエルサレムからユダヤ人を追放し、ローマの殖民市、アエリア・カピトリーナを建設しました。
神殿の丘にユピテル神殿を築いて、ユダヤ教をエルサレムから根絶しようとしました。

ハドリアヌスがユダヤ教以上に危険視していたのがキリスト教でした。彼は、キリスト教の聖地だったゴルゴタの丘にヴィーナス神殿を建て、キリスト教の聖地をも抹殺しようとしました。

しかし、その二百年後、ハドリアヌスの試みは失敗に終りました。キリスト教を公認したコンスタンティウス1世が派遣した母ヘレナは、ヴィーナス神殿の真下にイエスの墓と十字架を発見しました。コンスタンティウス1世は神殿を破壊し、一群の大聖堂を建てました。

この聖域は高い壁で囲まれ、東側にある入口はカルドと呼ばれるエルサレムの主要街路に面していた。
入口を入ると屋根のない中庭があり、その西側にマルテュリオン(殉教聖堂)というバシリカ聖堂があった。これは50m×41mという大きなもので、天井には金メッキ、壁には大理石と色石が嵌め込まれ、金の十字架が立つ高さ5.4mの岩の塚があったという。

マルテュリオンの西には、聖なる園という屋根のない中庭があった。
更にその西には、アナスタシス(復活聖堂)があった。ここにはイエスの墓と言われるものがあるが、ゴルゴタにあった墓のひとつを周囲から切り離して、アエディクラという円形あるいは半円形の聖堂に覆われていた。
ただし、この墓がイエスを納めた墓(アリマタヤのヨセフが所有していた墓)だという確証はないという。

この教会は、7世紀にササン朝ペルシャの侵攻で破壊され、その後復旧したが、11世紀のファーティマ朝による破壊で全壊した。
その後ビザンツ皇帝が再建し、12世紀に十字軍が聖なる園を屋根で覆い、ロマネスク様式の建物に改修した。
入り口は南側に変更され、いくつかの建物が付加されて現在に至っている。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムの聖墳墓教会観光の続きです。

アナスタシス(復活聖堂)を出ました。
これから、地下にある聖ヘレナ礼拝堂に行きます。
見上げると、十字軍時代のアーチがそそり立っています。







これは聖ヘレナ礼拝堂に降りる直前にあった、小さな聖堂。
あざけりの教会でしょうか?( 31 46' 42.50"N 35 13' 47.63"E )









聖ヘレナ礼拝堂に降りる階段の壁にある、中世の巡礼者が刻んだ十字架。

壁一面に無数にあります。
遠路はるばる、命の危険を冒しながらパレスチナまでやって来て、遂にここで巡礼できた喜びが伝わってくるようです。





ここで、中世の巡礼者が見た聖墳墓の様子を、参考文献から挙げてみます。

13世紀、マルコ・ポーロの聖地訪問の10年後に訪れた、ドイツ人修道士ブルックハルトは、こうのべています。

「主の棺がある洞穴は、縦横それぞれ8フィートある。
外側は大理石で完全に囲まれているが、内部は主が埋葬された時そのままに岩が露出している。
この洞穴への入口は、東から入るようになっており、非常に低く、小さい。
入る方に向って右手には、聖なる棺の安置所が北の壁を背にしている。それは、灰色の大理石で造られていて、地表より高さ約60センチ、長さ8フィート、つまり納骨堂というか、洞穴と全く同じ大きさである。
外からの光は一切差し込まないで、主の棺の上に吊るされた9つのランプだけが内部を照らしている。」

現在の聖墳墓と、基本的に変わっていない事がわかります。
ブルックハルトは、十字架が立てられた穴や、まだ生々しい血の色に染まった、イエスが鞭打たれた石柱を見たという。


14世紀に訪れたドイツの聖職者、ルドルフ・フォン・ズーヒェムは、こう述べています。

「墓所の全面を覆っている石は、3つの穴が空けられていて、この穴から棺の本体に接吻できるようになっています。
棺が納められているこの石の箱は、実に巧妙に本体と接続されており、まるで全体が1つの石で造られているかのように思われます。
・・・・・こうして棺は、長い間厳重に守られてきた訳です。」
(括弧内は新評論、ヘンリー・H・ハート著、幸田礼雅訳、「ヴェネツィアの冒険家」から引用)

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。
エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

聖墳墓教会にある、第14留(イエスの墓)の中に入ります。

建物に入ると、天使の礼拝堂という部屋があります。
この奥にある墓室には2,3人しか入れないため、ここで一旦待たされます。

待っている間、場所が場所だけに、結構緊張していました。
この神父?さん、ずっと立っていて大変だろうな。墓室の中で長居をする人がいると、声をかけていました。
この部屋には、イエスの墓室の車輪型の扉の、破片があるそうです。


墓室に入りました。

祭壇の上に、大きなイエスの像と復活したイエスの銀のレリーフ、復活したイエスの油絵が飾られていました。

信徒の人は、一生懸命に祈っていました。
ここに入る前、信徒の人たちにとって神聖なこの場所を、一観光客に過ぎない私が入って写真を撮る事に少しうしろめたさを感じました。
しかし、この旅の思い出を、どうしても残したくて撮りました。


イエスの遺体が置かれた場所。畳一畳ほどの赤みを帯びた大理石です。

遺体は、アリマタヤ出身のヨセフというイエスの支持者が麻布に包んで、自分の為に買っておいた岩を掘った穴に安置された。
サンヘドリン(ユダヤ最高法院)の一員であるニコデモも手伝った。

墓は、重い車輪型の石で密封された。
しかも、マタイによる福音書によると、いかなる謀りごとも防ぐように番兵までつけられた。

イエスが処刑され、墓に納められたのは安息日の前日、金曜日の出来事だった。


既に夕方になった。

その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。
この人も神の国を待ち望んでいたのである。

ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。

ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
(マルコによる福音書・15章42~47節 新共同訳)


これは、私が一番見たかった物のひとつ、聖墳墓の上にあるランプです。

1271年、マルコ・ポーロ一行は聖墳墓教会を訪れた。
モンゴルの皇帝、フビライ・ハーンへの贈り物、聖墳墓のランプの聖油をもらう為だった。

ついに見ることが出来ました。東方見聞録に出てくる聖油。

14世紀に訪れたドイツの聖職者、ルドルフ・フォン・ズーヒェムは、こう述べています。

「聖墳墓教会には、古くからグルジア人が住んでいて、聖なる礼拝堂へ入る鍵を持っています。教会の南に面したドアの小窓を通して、巡礼者は食べ物、お布施、蝋燭、そして聖棺を照らすランプの油を彼らに施します。」

このランプは聖金曜日の9時には必ず消え、復活祭の日のキリストが復活した時刻に、再び自然に灯ると言われていた。
ルカによる福音書・10章38節に出てくるマルタという女性と、その弟ラザルスによって置かれたという。


墓に安置されて二日後の日曜日、イエスの遺体は忽然と消えうせた。
以下はその時の様子です。


週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに