ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
KiKidoblog
Blog
[ 総Blog数:1749件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2006/08/09のBlog
今日のテレビの「スーパーモーニング」でちょっと面白い話が紹介されていた。これは”出生率”アップをどうすれば実現できるかということへの良いヒントになるので、ちょっとここでもまとめておこう。

不思議な事に現在日本で出生率トップは長野県南部の下條村というところだという。ここの出生率は、全国トップの”2・12”。全国平均は1・25程度。人口4196人で、子供の人口は726人という極めて人口構成が若い。

下條村は、10数年前には村の”過疎化”で2000人を切るところまで行きかねなかったというが、その村があっという間にここまで人口が増えたという。その理由とは何か。

まず第一は、”善い村長”が就いたということ。この村長さんの指導体制の下、村は”経費削減政策”に踏み切った。その一方で、”若い夫婦の居住”や”子育て支援”のために、以下のような好条件を整えた。

(あ)安い家賃 → 新築2LDKで3万6千円程度。
(い)医療費タダ → 子供の医療費が中学生まで全部ただ。村が支払う。
(う)家族間のコミュニケーション → 近所つき合いがある。
(え)公共施設が完備 → 保育園、幼稚園など子育てに必要な施設が完備されている。

要するに、”子育て”をしやすくするために、村の公務員達が、光熱費からコピー費まで、果ては工事費や公共事業費まで自ら経費節約して、子育てに回す。こうした地道な努力が実って若い夫婦が住むようになり、子育てのもっともしやすい場所になったというのだ。

特に面白かったのは、いわゆる”公共事業”は、業者に仕事を発注するのではなく、村の人々自らが行う。これで大幅に経費削減できたという。まあ、考えてみれば、当たり前。

町や村の公共事業を道路公団やら地元の道路工事会社に請け負わせたら、”エンドレス工事”になる。これはみんな知っている事だ。「ネバーエンディングストーリー」のようにいつまで経っても決して終わらず、ちんたらちんたらと続く。しかもたくさんのアルバイトおじさんやお兄さんたちを置いて人件費をアップする。しかし、日当はやたらと低くして儲けに走る。工事日数も日数に比例してお金をむさぼる事ができるので、日や時間をかければかれる程儲かる仕組。アメリカのように、期限を決めてその期限を過ぎれば業者が赤字となるがそれより早ければ早い程儲かるというシステムではない。だから、公共事業を田中角栄時代にできた土木建築業者に発注すれば、村や町はその生き血まで吸われて恒久的な赤字路線に転落するのだ。

下條村は、村びとや役場の職員を使って人件費を実費程度に押え、ことごとく経費節約できたというわけだ。

だいたい、日本の業者の人件費はアメリカ並に高い。人件費や実費に加えて、業者が上前を”ピンはね”するマージンがすこぶる高い。アメリカの場合には、これがほとんどないので、結果として人件費が高くても、総体的にみて安くなる。

その昔、10年前我が家がここ阿南に引っ越す頃、我が家は、まだ関西圏でしか知られていなかった”パンダマーク”の「サカイ引っ越しセンター」を使った。理研の引っ越しでサカイ引っ越しセンターが入ったのはこれが最初だっただろう。ここは”良心的”で、比較的安く当時の関東のどの引っ越し屋さんよりずっと安かったからだ。しかし、そのサカイ引っ越しセンターですら、マージンは高かった。このマージン部分を交渉でいかに値引きするかが、関西人の文化である。私もすこし”勉強”してもらった。これが、”べんきょもしまーす引っ越しのサカイ”という歌の意味である。

だいたい、料金から、車代、ガソリン代、日当などの実費・人件費を除いた部分が、マージンとなる。これが会社の取り分ということにあるだろうが、一般に日本の会社はここが大きすぎるのだ。

不動産業、公共事業種、引っ越し屋などなど、日本の会社というのは、マージンが高すぎる。だから、”とかく世間は住みにくい”となってしまうのだ。

この部分を下げ、下條村のように、”子育て支援”に回せば、日本の”少子高齢化”問題は、簡単に解決できるだろう。

要するに、1995年にできた「科学技術基本法」によって、この10年間、いわゆる、田中角栄時代にできた公共事業体質から、科学育成事業体質へと変化させた。これによって、不動産土地バブル時代から、IT産業などのバブル時代へと変遷したわけだ。

しかし、人々は都市部では安く住む場所がなくなり、給料は右から左へとなくなり、子供を育てるどころか、結婚すら難しい時代へと変わった。結婚しないとなれば、子育ての必要はなくなり、自分が偏屈な変わり者になろうが、”オタク”になろうがかまわない。子育てで自分が成長する必要もない。こういう都市文化を醸成したわけだ。

気がついたら、都内の出生率は1・0。もはや東京も”過疎化”しかねない分水嶺を過ぎてしまった。労働人口、若者人口がない。人材がいない。老人のケアする若者もない。病人を看護できるものもない。と、”ない、ない、ない”ずくしとなってしまった。もはや東京は”研究している場合ではない”というほどに出生率が低くなった。

しかも悪い事に、テレビなどの電波発信事業は東京しかないために、この間違った”東京文化”が全国を被ってしまった。そして、”変態文化”、”オタク文化”が全国に瞬時に広がり、”少子化問題”も飛び火した。

これと同じく、10数年前に”不良債券”で破綻した銀行が、宮沢さんが”破綻銀行”を潰さなかったばかりに、こういった”破綻銀行”がゾンビのように復活した。それも、自分の給料は据え置き、破たんしたツケを無知な市民に回した。その戦術がいわゆる”ノンバンク”や”サラ金”や”高利貸”を使って国民から借金させて利子を取る、というものだ。影で裏から資金を回したのが、破たんし合併した大手銀行だったのだ(最近、プロミスのコマーシャルに大手銀行の名前が出てくるようになったことからも明白)。国民の税金で自分の負債を帳消しにしてもらったばかりか、その国民から借りた金を今度は自分の金のようにしてその国民に貸して利子を取るというあくどい商売を始めたのだ。

これで、一気に日本人は借金人生を歩む事となった。借金が借金を生む。そんな国になった。トランプの馬場抜きのように、借金というジョーカーをだれが引くか。このジョーカーを引いてしまった人は破たんする。世の中をロシアンルーレットのような不安な社会へと変えたというわけだ。

心理的にも、不安定。のんびり住む場所も無い。もちろん、恋人も探す暇も無ければ、愛を結ぶ空間も時間もない。悪い事に、愛を売り物にしなくては食えない哀れな人間も増えた。これでは、”子育て”はできない。

とまあ、東京文化圏に犯された社会は、悪化の一途、崩壊の一途を辿っているのだが、田舎には田舎の論理というものがあり、それが日本の地方を救う。地方には地方の論理がある。これが、時に大きくなって日本全体を救うということもあるかも知れない。

そんなことを考えさせる話であった。

もし、東京都や近隣県で、下條村と同じような条件(あるいはもっと良い条件)をクリアすれば、恐らく出生率はアップしていくだろう。

ところで、日本に金持ちを住まわせるのも、日本に企業を住まわせるのも、子育て支援策と全く同じ論理なのである。所得税など税金を世界一安くすれば、世界中の金持ちが日本に住む。法人税などを世界一安くすれば、世界中から優良企業が日本に来る。住みやすくすれば、寄ってきて住み着く。人間も動物だから、海や川に魚が住むのと全くいっしょのことなのだ。
2006/08/08のBlog
[ 17:22 ] [ 政治・経済 ]
この国のかたち」というのは、日本の歴史作家、司馬遼太郎の晩年の作品である。ライフワークとも言って良い。

この司馬遼太郎の”司馬”はどこから来たか、と言えば、もちろんそれは中国の歴史家”司馬遷(しばせん)”から取ったものである。

しばらく前のある時、私は妻といっしょに徳島の本屋へ行った。妻が用事を済ませている間、私はこの司馬遷の有名な歴史書「史記」というのを”たまたま”目にしたので、手に取って中を見ていた。たぶんそれは文庫本のようなもので、巻数もたくさん並んでいたので、「司馬遷 『史記』全5巻」というものであったろう。

妻が戻るまでの短い時間、私は非常に”衝撃的”なことを知ったので、それをここにまとめておこう。

それは次のようなことだ。

現在我々日本人が「官僚」という時、この意味は、もうちょっと古い言い方の「公家」(お公家さん)とほぼ同じ意味である。

日本の普通の国語辞書には、こうある。

「公家」=朝廷、または、朝廷に仕える人

「官僚」=官吏、役人
「官僚的」=官僚にありがちな、好ましくない性質・傾向であること
=形式的で柔軟性に欠け、権威主義・秘密主義の行動・態度・様子

それゆえ、私はこれまで”当然のごとく”この定義に従ってきた。

ところが、「史記」の何巻だったか、とある一節に「官僚」についての記載があった。それによれば、”官僚”の定義は全く異なるものであったのだ。むしろ、我々が「今イメージする”官僚”の意味とは全く”逆”」であった。

どういう風に違っていたか。

まず、司馬遷その人自身が”官僚”であった。このことから、分かるように、当時の”官僚”とは、孔子や老子のように、”野に下り”、というよりは”野に咲く”逸材をある国が”抜てきして、その国の重要なポストに据えた人物のことであった。

今の日本で言えば、大前研一氏や竹村健一氏や立花隆氏のような、”野に咲く逸材”を国が抜てきして主要なポストに付ける。こういった人物達のことを”官僚”と呼んだ。

つまり、ある国にどうしてもある種の”特殊能力”を持った逸材が必要となる。例えば、自分の国の歴史を編纂したいが、それができる人材がいない。こんな時に司馬遷のような人物を国中から探し出し、その要職に就け、歴史書を書かせる。こうやって選ばれし者が”官僚”の語源であった。

だから、「史記」の時代の”官僚”とは、今の日本語の辞書にあるような、”形式的で柔軟性に欠け、権威主義・秘密主義の行動・態度・様子を持つ人”とは全く逆の人種だったのだ。

私は、これに衝撃を受けたのだった。

社会に1人といない優秀で特別の能力を持つ人間。これを国がその力に頼る時、人はその人物を”官僚”と呼んだのだ。

今現在で言えば、日本サッカー協会にとって、オシム監督や反町監督こそ、本当の意味の”官僚”なのである。この”真の意味の官僚”は、決して”官僚的”であってはならない。

いやはや、日本語は非常に混乱している、とだけは言える。
反町U21、中国に2一0で快勝国際親善試合

反町康治監督の”初ゲーム”が昨夜行われた。私も最初から最後までずっと見たが、新聞記事が言うような、”快勝”ではなかったと私は思う。

結果的に、2得点でき、快勝となったが、前半は良いところがなく、再三再四押し込まれて失点場面が何度もあった。特に、日本ディフェンスの7番が、逆サイドのボールに気を取られて何度かマークをはずしてフリーでシュートされてしまった。相手の中国選手の決定力の無さのおかげで失点しなかっただけのことで、もしドイツであれば、5一0くらいの大差で負けただろう。というのも、先にバイエルンミュンヘンが来日した際、シュバインシュタイガー、ポドロフスキー、ラーメなどのドイツの21歳トリオはいとも簡単に”無回転シュート”をゴール枠内に蹴ることができた。だから、フリーのシュートは絶対にはずさないだろうからだ。

日本で唯一素晴らしいと言えたのは、ゴールキーパーの西川だろう。実に安定した判断と、的確なポジショニングで相手のシュートを防いだ。日本代表の川口とは違ったタイプの好ゴールキーパーである。

まあしかし、前線へのパスの”精度”があまりに悪く、一昔前の”走れサッカー”(つまり、何が何でも前に蹴り出しそれに追いつけというラグビーサッカー)に戻ってしまったように私は感じた。昨年の長崎国見や鹿児島実業のサッカーのようなものだ。少なくとも、野洲高校のような”セクシーサッカー”にまで進んでいって欲しいものだ。
2006/08/06のBlog
私は、1998年に「ルービックのマジックスネーク模型」から見つけたこの”折れ畳み構造”(EXACTLY SOLVABLE MODEL OF PROTEIN FOLDING: RUBIK'S MAGIC SNAKE MODEL, IJMPB13, pp.325-361(1999))を1999年2月に論文で公表した。(実際には、理研にいた1994年頃には科学オブジェ:折れ畳み模型 を作っていた。)

これと同じものを木工で作って売っている人を発見したので、ここで紹介しておこう。遠藤裕という人である。不思議な事にこの人も1999年8月にこれを考案したという。不思議な偶然である。
最近のニュースに登場した動物たち。そんなに多くはないが紹介しておこう。

ルリモンハナバチ。

暑い夏には、トロピカルな飲み物がみんなの好物。トロピカルな雰囲気は、”青”や”赤”の原色だ。中でも、青く涼し気な色が飲み物にあると、まさに清涼飲料水という感じが出る。青色発光ダイオードの”青”も涼しい冷たい光の代名詞。”青色LED”で夜空が飾られると何か”ロマンチック”な感じがするから不思議だ。どうして”青色”がそういう”涼し気な”イメージや”ロマンチックな”イメージを与えるのか。本当の理由は分からないが、恐らく”海の色”や”空の色”から来るのだろう。それが太古の昔に地球上の生命に”刷り込まれ”て来たのだろう。もしこんな青色が動物にもあると、人間はその動物を何か”麗しく”感じる。”青色の昆虫”。蝶やハチ。トンボ。こんなものに”青色”がしばしば見られる。このルリモンハナバチというのもそんなやつらしい。


黄金のおたまじゃくし。

”黄金虫”とは、まさに黄金に光り輝く甲虫のこと。ジェームズ・ボンドの”007”にも「ゴールドフィンガー」というものがあったが、人間は、なぜか黄金が好きだ。金色も好きで、ブロンドガールは、ボンドガールの象徴でもある。人は、”黄金”に魅せられる。だから、”黄金色”に光り輝くものには目がない。これは、そういうふうに、”黄金色”に輝くおたまじゃくしが見つかったというもの。果たして、このおたまじゃくしは、”黄金のカエル”に育つのだろうか。


宿借り。

ついに地球上の”やどかり”までホームレスの時代到来か。そう思わせる発見。通常やどかりの一族は巻貝を”宿”にしてその家に住む。だから”宿借り”と日本人は呼んで来た。しかし、ついにそういう巻貝の類いがいなくなってしまったのか、最近のやどかりは、プラスチックキャップのような代物に住むというのだ。人間の場合も、ホームレスになれば、段ボールの箱をどこからか見つけて来てその中に住む。そうすると結構暖かでちょうど良いからだ。やどかりも今や巻貝の家を失い、ホームレス状態になってしまったのだろうか。かつてバックミンスター・フラーは、「海の生き物は自然にお金を払って動き回る必要はない。魚が餌を取るのに自然に金を支払はない」と言っていたが、今や、やどかりすら人間にお金を払わないと生きていけない時代になってしまったのかも知れない。
2006/08/05のBlog
トリニダード・トバゴ戦の”オシム・ジャパン”のメンバー13人が発表された。
オシム・ジャパン初戦

「トリニダード・トバゴ戦とアジアカップ予選のイエメン戦(16日、新潟スタジアム)は、同じメンバーで戦いたい。追加招集して全体で20人前後になる」

「ジーコ前監督に呼ばれたかどうかは関係ない。様々な試合を観察して選んだ」

”オシムの言葉”という本によれば、オシム監督は常日頃、1日平均、2、3試合を家の”ビデオ”で見るという。だから、会場に駆け付けて見るものまで含めれば、ここ最近の全部の試合をオシム監督は見ているはずである。

これほど多くの試合を見た上で、たったの”13人”しか”オシムのお眼鏡”にかなった選手はいなかった、ということだ。したがって、”13人”という数字そのものが、”オシムの言葉”なのである。

つまり、今国内にいる日本人選手で自分のお眼鏡にかかるのは、13人程度。多くても20人前後しかいない、という”オシムからのメッセージ”である。言葉で多く語るより、ここでは”数字で語る”方が得策、という意味である。

そして、”どういう選手をオシムが欲しがっているか”と国内にいる他の選手達に知らせているわけだ。

さて、選ばれた者は以下の13人。

【GK】
★川口能活(磐田、30)
☆山岸範宏(浦和、28)

【DF】
★三都主アレサンドロ(浦和、29)
★坪井慶介(浦和、26)
☆田中マルクス闘莉王(浦和、25)
★駒野友一(広島、25)

【MF】
☆田中隼磨(横浜、24)
今野泰幸(FC東京、23)
☆小林大悟(大宮、23)
長谷部誠(浦和、22) 

【FW】
☆我那覇和樹(川崎、25)
佐藤寿人(広島、24)
田中達也(浦和、23)


これを見れば、オシム監督が何を考えているか良く分かる。今回の試合に関していえば、これで十分行けるということだろう。

つまり、ディフェンスは、ブッフバルト監督が育てた浦和レッズのディフェンダーをコアにする。なぜなら、練習時間がほとんどないので、コンビネーションの出来ているチームから選ぶ他ないからである。

中盤は、ボランチに今野、田中を置いてこの4人でOK。中盤の選手達は運動量豊富で自分も最前線にシュートにも行くし、自陣ゴールラインの最後尾まで守るというタイプの選手達である

前線は、田中、佐藤、我那覇のうち2人を先発させ、残りをスーパーサブに使う。あるいは、1人が中盤に下がる。3選手ともに中盤もできる選手である。

したがって、3一5一2の場合は、駒野をはずし、我那覇か田中を中盤に入れる。4一4一2の場合は、駒野を入れ、我那覇を下げる。こういったことをして、3一5一2でも4一4一2でも、あるいはそれ以外4一5一1の1トップの場合でも自在に変化できるようなチームを念頭に置いているのだろう。

この意味で、オシム監督は、”冗談”で「これでも戦える」と言ったのだろう。

ここには、ジーコ・ジャパンは少ないので、一度ジーコ・ジャパンのチームと試合させたいほど、面白いチームである。

”オシムの言葉”にあるように、「名前や人気や知名度で選手を選ぶ」のではなく、「自分のサッカーの構想に応じて選手を選ぶ」が十分に貫かれていると思う。

私の想像では、ドイツ大会のジーコ・ジャパンと今回のオシム・ジャパンが戦えば、オシム・ジャパンの2一0の勝利だろうと思う。
2006/08/03のBlog
昨夜の”いかさま試合”後の人々の声を拾っておこう。

まずはチャンピオンを失った”正義”のランダエタ。
亀田に敗れたランダエタ、「私が勝者」

一一 判定は?
ランダエタ:「もちろん私が勝っている。リングの上で亀田は分かったと思うが、彼は、ただの子供だ」

一一 再試合は?
ランダエタ:「今すぐにでもやれるが、彼はこれ以上、私とやりたくないだろう」

一一 結果については?
ランダエタ:「訴えることはしない。でも、判定がおかしかったことは、試合を見ていた方々が一番わかっていると思う」

まったくランダエタの言う通り。

亀田興毅:勝利のアナウンスに驚きの声横浜アリーナ
会場にいた一般人の声。

埼玉県春日部市の建築業、関根良行さん(28):「負けていた試合。こういう結果は逆に残念で、亀田選手にとってもよくない」

東京都足立区の会社員、下川圭太さん(42):「気が抜けた。前半のダウンを取り返そうと一生懸命やっていたのは分かるけど、5ポイントは負けていたと思う。結果を喜べない」

川崎市の主婦(34):「亀田選手が勝ったことをとやかく言われることになったらかわいそう。だけど私もなんだかすっきりしない」

亀田興毅:立ち上がりにダウン 判定に疑問の声も
専門家の声

一一 判定は?
ガッツ石松:「まいったね。なんでこの人が勝ちなの」「ランダエタが7ポイントもリードしていた」

一一 試合については?
ガッツ石松:「亀田兄弟は人気があるかもしれないけど、この試合で勝てるのなら、ボクシング界は何をやっているのかと思われる。日本人は立っていれば、チャンピオンになれるの? 全世界のボクシング関係者に見せて、判定してもらえばいい」

ガッツ石松:「日本のボクシングはタレント養成所ではない。これがまかり通るなら、僕はボクシング関係の肩書は何もいらない」

漫画家のやくみつる:「非常に不愉快なものを見た。実況も最後の方は負けモードだったし、こういう判定になるとは。判定後の(亀田選手の)態度も疑問。あの場では勝者の振る舞いをしないと格好がつかないところもあるだろうが、大口をたたける試合内容ではなかった。態度を改めるべきではないか」

輪島功一:「亀田選手は前半、悪かったが、中盤から盛り返してがんがんに攻めて最後までよく頑張った。引き分けかなとも思ったが、勝ちに値する戦いぶりだった。(苦戦の理由は)今までやってきた相手とあまりにも差がありすぎ、(戦い方を)考えていなかったこと。これからは世界王者。どんな相手ともやらないといけないのだから、よく考えて戦わないと」

亀田興毅:中継のTBSに電話殺到

ワールドカップ・ドイツ大会前にイタリアの”八百長疑惑”が出たが、この結末は、ユベントスの2部降格という厳しいものだった。

これと同じで、ボクシングの”八百長疑惑”も立派な犯罪。警視庁は調査に乗り出すべきで、場合によっては亀田家を”立件”すべきだろう。ボクシングの”八百長”は、立派に”詐欺行為”匹敵するからだ。普通なら、”チャンピオンベルトの剥奪”、”降格”、あるいは”永久追放”もあり得るだろう。

それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。

いずれにせよ、TBSには、2度とボクシング放映させないほうが良さそうだ。

”亀田興毅、お前も悪よのう”

というところだね。まあ、口程のことはなく、あくまでアマチュアボクシングの粋を出ていなかったということだ。亀田家は、”減らず口を叩いている”といつかもっと痛い目に合うかも知れない。
2006/08/02のBlog
亀田興毅、世界王者に WBAライトフライ級
亀田興毅、判定で世界ライトフライ級王座獲得

「信じられない判定だった。亀田が新王者となったが、試合内容は完敗だった。」

”親方日の丸”で有名な読売新聞のスポーツ記者ですら、自分の目を疑った。

1ラウンドでクリーンヒットでダウン。しかし早い終了時間でゴングに救われる。最終ラウンドは、よろよろで目もろくに見えていない。打つと見せてはクリンチでダウンを逃げる。柔道でいうところの”かけ逃げ”だ。試合終了後では、挑戦者の顔は醜く腫れ上がり、出血もひどい。チャンピオンの顔はきれいで元気はつらつ。

だから、だれもがチャンピオンの”防衛”だろうと思った瞬間、「新チャンピオン誕生」とアナウンス。

さすがの私もこれには呆れ返った。

というより、半ば予想通りの展開。なぜなら、終盤のラウンドでセコンドについた父親が毎回耳打ちしていたからだ。私には、なんて話しているのか、手に取るように分かった。

”ダウンだけするな。ダウンさえしなけりゃ、お前の勝ちになっている。絶対倒れるな。”

おそらくこんな感じだろう。頭に来たチャンピオンはすぐに帰ってしまった。新チャンピオンに感謝の言葉もない。


日本のボクシングもとうとうここまで”落ちてしまったか”という感じのするゲームだった。

強いものが勝ち残る。それがボクシングだ。金のあるものが勝ち残るのではない。今後日本のボクシング界は大変な事態に陥るのではないかという気がする。大問題になることだろう。

いずれにせよ、亀田興毅は”金玉パンチ”のダウンやら、早いTKOやら何やら、”やらせ”の試合ばかりだ。こんな試合、テレビ放映するな。バカめ!
昨晩、私は妻と小松左京原作「日本沈没」のリーメーク版を見たが(子供達は「カリブの海賊2」を見た)、”映画”そのものは結構面白かった。ほとんどが”3次元CG”だったが、最近までの日本映画にはない迫力と臨場感が出ていた”秀作”であった。最近のハリウッド映画、トム・クルーツの「宇宙戦争」に負けないだけの作り方が為されていたと思う。

しかし、細かい事を言えば、結構「これはどうした?」と思う”ナンセンス”な場面もたくさんあった。

たとえば、掘削船「ちきゅう」などがプレートを剥がすために爆弾をしかけるための掘削作業中に大地震とそれによる津波が日本列島を襲った。しかし、掘削船群は無傷であった。常識的には、掘削船も沈没するだろう。

もっと驚くのは、一番最初のシーンで地震が関東を襲い、大火事が起こっている。その火事の現場で人命救助したり、人が逃げ回っているのに、だれも”熱い”、”あちー”などという表現がない。

また、火事シーンや火山灰が降り注ぐシーンでは、人は煤(すす)や灰を吸い込むので、”口が真っ黒”になるはずである。そのため、人々は”咳き込んだり”、”苦しがったり”するはずだ。これは、ニューヨークのツウィンタワービルのテロ事件の時の被災者の映像からも明らかだろう。

ところが、背後の状況は凄まじいのに、登場人物達はあまりに”静か”に動いていた。

さらには、登場人物の”演技”にも”不自然さ”というのか、”演技不足”というのか、状況に似つかわしくない場面が多かった。

例えば、豊川悦司演じる地球物理学者の振る舞いがそうだ。日本人の科学者の”大人しい”メンタリティーからして、日本人科学者はアメリカ人学者とは違って、怒って研究所の備品や物に怒りをぶちまけることはない。パソコンを投げたり、物を蹴ったりするというのは、ハリウッドのアメリカ人の振る舞い方で日本人のものではない。だから、自分の理論が日本の沈没をアメリカ人学者より早く予言して恐怖にかられるシーンでは、むしろ韓国ドラマのように、むしろもっと”ウェットな”演技の方がリアリティーがあっただろう。この辺のシーンは、全部”ハリウッドB級SF・ホラー映画”の科学者のような演技であった。

こうしたところを”詰めていかない限り”日本映画が韓国映画に勝ち、ハリウッド映画に勝っていく事は難しいだろう。

私がいつも日本映画で理解できない事は、こういったいわゆる”映画のバグ”をどうして公開前に取り除かないのか、ということである。

では、逆にアメリカのハリウッド映画ではどうやって”映画のバグ”を取り除くのだろうか。

私がかつてユタ大学の大学院生であった頃、大学の映画館(ユタ大学内に、そんなに大きくはないが映画館があった)で、”新作映画のプレビュー”というのを無料で見せてくれたものである。この”新作映画のプレビュー”というのは、今作成中でだいたい完成したものを、大学生たちに見せてその反応を見るというものである。だから、料金を取らない(か、取ったとしても非常に安い)。学生はどの国でもお金はないので、みんなで大挙して押しかけて見る。私も何度かこういった”プレビュー”を見たものである。”新作007”とか、なんとか。そして、放映後に学生達がアンケートに答えて、どこが良かったとか、悪かったとかを紙に書いて渡すのである。作った側はこういったアンケート調査に基づいて、ここを削った方が良いとか、ここをもっと改良すべきだとかの意見をまとめて、最終調整して、”映画のバグ”を取り除く。そして、本当の意味の”公開”に踏み切る。

私はこの「日本沈没」もこういった”プレビュー”をして作って欲しかったと心底思う。

なぜなら、私の個人的な最大の疑問は次のようなものだからだ。

”おい、日本に駐留する米軍はどうした?”
”やつらは年間10兆円も日本人の税金使っているのに、日本沈没時に何もしないのか?”

ついでに言えば、こんな疑問もある。

”中国はどうした? ODAでこれまでさんざん援助して来たのに、こんな災害時に何もしないのか?”

残念ながら、この「日本沈没」には、警察、自衛隊、海上保安庁、消防庁などの隊員や施設や設備が”披露”されただけで、米軍も中国軍も韓国軍も出てこなかった。 しかし、これでは、現実に沖縄、横須賀など全国に駐留する在日米軍の存在からしてリアリティーに欠けるということになるだろう。

掘削船「ちきゅう」の仕掛ける(核爆弾並みの)爆弾に対して、米軍が仕掛ける”核爆弾”。そして、米軍と日本軍の間で”板挟み”になり、葛藤する日本人学者たち。こんなストーリーの方がはるかに現実味があっただろう。

だから、この意味では、”海猿”と同じように、昨今”日本防衛”するという為に日本人に必要な”愛国心の刷り込み(マインドコントロール)”が、この映画の”影の目的”にあると私は見ている。

ところで、我が家では、いつもこう言っている。

もし関東に巨大地震が来るという時をどうやって予測できるか。これは簡単だ。

これは、関東にいる在日米軍が”何か”の理由をつけて全部いなくなった時だ。その直後に大地震が来る。

つまり、アメリカの地震学者や気象学者はハワイの研究所にいて米軍とリンクしているので、東京に巨大地震が来る時には、その前には必ず在日米軍にそれが知らされる。だから、日本人より先に米軍人やその家族などアメリカ人たちが東京からいなくなるはずである。

東京からアメリカ人がいなくなった時、”これは変だ”と思うべきである。

もっとも、「日本沈没」は、すでに日本にいたアメリカ人たちが全部いなくなってしまった後の話だとすれば、確かにつじつまは合う。

最後に、掘削船「ちきゅう」に関して言えば、これは(私の観点からすれば)、大問題の中にある。この「ちきゅう」は、そもそも、地球物理学のアカデミックな問題を解決するために作られたのだが、現在は世界中の資源探査、つまり、鉱物資源や石油資源探査のために出向いていて、ちっともマントル内部まで掘削なんかしていないのだ。

これは、日本の”国の研究施設”に良く見受けられることだが、”アカデミックな大問題解決”のために作られた設備や装置が、実はもっと矮小な”現実的”目的のために使われてしまう、ということである。まあ、例えて言えば、”電子顕微鏡で毛穴を見る”というようなことである。

物凄い性能のある装置があるのなら、何もめったにないような、あまりにアカデミックな目的より、もっと現実的なことにどんどん使うべきだというような発想を日本人(たぶん政治家や経営者)がするということである。

電子顕微鏡で、めったに見つからない新ウィルスを見つけるより、禿げで悩んでいる者が多い事だし、”ハゲの毛穴”を見た方が儲かるぞ、というような発想だろう。小芝博士のスーパーカミオカンデで、いつ飛んで来るかも分からない”ニュートリノ”を観測するより、巨大プールがあるなら、それを一般人に水泳プールとして使え、というようなものだ。

しかし、これでは、既存の装置や設備でもできるわけだから、そもそも世界最高のものを作る必要はないということだ。

こんなわけで、「ちきゅう」はマントルを掘っていないのだから、地球最古の生命の発見という大きな発見はすることなく、石油探査などジョージ・ブッシュの片棒を担ぐ程度の馬鹿げたことをやっているようだ。つまりは、”本末転倒”なのだ。もし、小芝博士がこういう本末転倒なことをして、カミオカンデをスイミングプールとして市民に解放していたら、スーパーノヴァの発見も出来ず、ノーベル賞もなかったことだろう。

だが、日本人はよくこういった発想をするのである。ぜひ本来の目的のために尽力して欲しいものだ。

参考:
昔、北極は暖かかった:IODPの快挙
2006/07/31のBlog
一昨日、阿南図書館から「オシムの言葉」を借りて、一昨日昨日と読んだが、サッカーに関する内容はだいたい私が『オシム監督就任と久米宏のWCサッカー特番 』で想像していたようなものであった。

サッカーに関して言えば、オシム監督の指導方法は特に目新しくはない。基本的には、戦後日本のクラマー(西ドイツ)さん以来のヨーロッパサッカーの源流に基づいている。

戦後日本では、クラマー(西ドイツ)さん以来のヨーロッパサッカーの伝統をつちかった”走るパスワークサッカー”から始まった。それに、オフトの”ゾーンプレス”、トルシエの”フラットスリー”、ジーコの”ブラジルサッカー”と来たわけだ。トルシエまではヨーロッパスタイルだったが、ジーコで”弱いブラジルサッカー”を学んでしまったのが今回のドイツ大会における日本サッカーの失敗の原因と言える。

ブラジル、あるいはアルゼンチンも、南米のテクニック重視の個人技サッカーから組織プレー重視のサッカーへと”ヨーロッパ化”して初めてワールドカップで優勝した。だから、同じブラジルサッカーでも、ドゥンガ(最近ブラジル代表監督に就任したばかり)やアルゼンチンのアルディレスのサッカーは極めてヨーロッパ的だ。それゆえ、世界制覇できたのである。しかし、優勝経験のないジーコにはそれが分からなかった。

この意味では、最初ヨーロッパスタイルから始まった日本サッカーが、ヨーロッパスタイルに回帰するのは、ある意味当然だろう。

本として見た場合には、特に素晴らしいのは、旧ユーゴスラビアのサッカーシーンの”崩壊”と、ユーゴ戦争の状況について非常に詳しく書かれていたことだ。サッカーはともかく、この点に一番の興味を私は引かれた。

この本では、特に書かれていなかったが(あまりに分かり切っていたためかも知れないが)、オシム監督が旧ユーゴスラビア代表監督として1990年イタリア大会でユーゴスラビア代表を率いた時、若干19歳の若き天才ストイコビッチと同じ年齢層にシューケルたちがいた。このシューケルたちが、後にクロアチア代表として1998年フランス大会に乗り込んで来て、いきなり”初出場3位”という快挙を成し遂げたわけだが、この快挙の背後にいた指導者こそこのオシム監督であった、ということだ。

私は、これまでなぜ突然クロアチアがいきなり3位に入れたのかよく分からなかったが、その理由をこの本から読み取る事が出来た。これが一番の収穫であった。

もちろん、同時に、今度のドイツ大会のセルビア・モンテネグロの代表、他にスロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの代表もそのほとんどがオシム監督の指導下にあったということである。また、近年ギリシャも強豪国になったが、それもこのオシム監督が一時期ギリシャのチームの監督をしたことに端を発していると考えられる。

この意味からも、オシム監督の監督としての”才能”は申し分ない。オシム監督は今の日本代表監督としてはベストの監督である。これは間違いなく真実である。

また、いつも西洋や南米のサッカー選手達が言う「日本人特有のメンタリティー」の消えない日本人にとって、オシム監督のような”練れた人物”は非常に良い教訓(あるいは教材)となるだろう。

特に、若い世代、オシム監督と接する事のできた若者たち、(つまり、サッカー選手や通訳や関係者)にとってもっとも良い教材となっている。ここが大事だ。

中でも、本にあるように、通訳の間瀬秀一氏(元プロサッカー選手)は将来の大物監督になる可能性がある。自身、今一番なりたいものは監督であるという。オシム監督と出会うそれまでは、通訳だった。練習法、心理的技術、心構えなどあらゆる面で、間瀬氏は学んでいる。

同様に、今ジェフで指導を受けて来た選手達の中からも将来の大物監督に育って行くものが出るだろう。この意味では、10年後、20年後に今の”オシムの言葉”が成果を出すと言えるだろう。

これは、かつてクラマーコーチが行ったことが、何十年も経ってから成果を出した(つまり、日本サッカーのプロ化)ように、今のオシム監督の行っていることが、10年、20年、30年と先に行って花開く、という意味である。

この意味でも、オシム監督は、例え次の南アフリカ大会で良い成績を残せなかったとしても、今の日本サッカーにとってはやはり最適な人物と言えるだろう。

しかし、世界には、フェリペ、ジャケ、ベンゲル、オシム、リッピ(そして、ドゥンガ)というような名将が生まれているが、日本にはどうしてこういった大物が育たないのだろうか。まあ、もっともそれは、サッカーだけに限られるわけではなく、学者世界(や役者世界)でもそうだ。やはり、日本のどの分野でも、”ちまちました”人物、”練れていない”人物しか育っていない。

かつて勝海舟は、”大きな人物は大きな国にこそ育つ”というような意味のことを言っていたが、”小さな人物しか育たない”ということは、日本という国が”小国”であるという意味だろう。島国ということかも知れない。

そこは、欧州、アフリカ、アジアの3大陸が交わり、古代からもっとも紛争がある地域であった、バルカン半島とは違う。オシムの故郷とは違うということだ。バルカン地帯は小さな国々に分裂しているが、その文化圏としての大きさは日本をはるかに凌駕した大国であるということだろう。

”大きな国にしか大きな人物は育たない”

やはり、我々日本人は高望みは禁物だというところだろう。

一一一一一一

ところで、昨日これを書いていてブログに出そうと思っていた頃、doblogはダウンしていて全く機能していなかったが、ちょうどその時期に昨夜のNHKでオシム監督の特集があり、それに「オシムの言葉」の原作者の木村氏が出ていた。

確かに木村氏の”オシム解説”は、「オシムの言葉」にあるように”的確な”ものではあったが、やはり著者の”顔”を見てしまうと興味も半減するから不思議である。「オシムの言葉」の著者も所詮はオシム監督そのものではない。”異なる顔”がオシムのことを論じるのは、妙に違和感を感じた。

特に、その木村氏自身が「オシムの言葉」でオシム監督が通訳のことで言ったとされる部分に次のような意味のことを書いた部分がある。

”Jリーグ通訳には通訳しているうちに監督本人になったかのように錯覚し、通訳自身がその監督であるかのごとく振舞うものがしばしば見られる。だから、そういうふうな行動をするな。”

これは実に不思議なことだが、私もいつも思うことである。実際、ジーコの通訳氏もジーコ以上に”ジーコ的”に振舞っていた。トルシエの通訳もトルシエ以上に”トルシエ的”に振舞っていた。これは、永年寝食を共にして”情が移って”しまい、さらには監督になり切らない限り監督の意向や感情が言葉に乗り移らないので、次第に自分自身が監督の影武者のような存在になってくることが原因だろう。しかし、それがあまりに行き過ぎると見ていて”見苦しい”ものがある。

実は、これと同じ事は、スポーツジャーナリズムにも言えるのだ(もちろん、解説者や翻訳者にも言える)。

あるジャーナリストが、ある選手(例えば中田英寿)やある監督(例えばオシム)を取材する。そして本にする。その人物の哲学や生い立ちを書いて行く内に、その人物像が次第に著者に分かってくる。そして本を書き終えた頃には、著者自身があたかもその当の本人になったかのように錯覚して振舞う。こういう傾向が日本人の著者の場合には非常に良く見られる。

これは、英語では"commitment"(コミットメント)というのに一番近いのかも知れない。その人物と本人が心情的に一体化してしまうのである。そして、あたかも自分がその人そのものかのような代弁者として振舞うのである。

残念ながら、昨夜の木村氏もそんな感じに見えた。まるで、”オシム監督が経験したことを木村氏もその場にいて経験していたか”のように話していたから非常に不思議だ。実際には、ご自分は、いろんな人にインタビューしていろんな人から聞きかじっただけだろう。

これは、ある人物がだれかの考え方や哲学に共鳴して影響を受けるというのと非常に似ているが、質も意味も全く異なる。ここはぜひ注意が必要だ。なぜなら、精神的に影響を受け、それを自分自身の実生活に生かす(応用する)のは素晴らしいが、紹介者が紹介されたものと同一視されることは明らかに間違っているからだ。

例えば、”オシムの言葉”に感動して、自分のビジネスや仕事や監督業に生かす。こういうことは素晴らしい。しかし、いくら”オシムの言葉”の最良の理解者だからといって、もし木村氏を”サッカー監督”にしようと考えるものが出るとすればそれは間違っている。木村氏はあくまでもジャーナリストに過ぎないからだ。

しかし、日本人はいつもこの手の間違いをするものが後を絶たない。例えば、あるジャーナリストが政治について良い本を書いたとする。すると、そのジャーナリストを政治の専門家のように錯覚してしまう。作家を政治家にしようというのも大きな間違いだ。サッカーの解説者がサッカー監督になるのも同じ意味で間違っている。サッカー監督になるのでれば、サッカー指導を学ぶべきであって、ジャーナリズムや解説を学んでも意味がない。

似たようなことは、翻訳者にもある。ハリーポッターの翻訳者は、原作を翻訳しただけなのに、まるで原作者のような印税をもらい、原作者以上の生活を送る。今や”税金対策”でスイス人になり、優雅な生活を送っているという。これは、”本末転倒”なことで、オリジナルよりその翻訳の方が得をするということになってしまう。

”オリジナル”と”物まね”コメディアンでも同様の間違いが日本では良く見られる。原物の歌手よりもその人を”物まね”している者の方が儲かってしまう。馬鹿げている。

実は、科学者や学者世界にも同じようなことがある。欧米の現物のオリジナルより、それを日本に紹介した人物の方が儲かってしまう。その一番は”クオリア”であろう。欧州のオリジナルの人物を知っている人は、日本ではほとんどいない。紹介者の茂木健一郎氏の方がはるかに知名度が高い。

いくら紹介すべき人物や内容が優れていたとしても、それを紹介した人の方がそれより有名になってしまったり、お金持ちになってしまう、というのは考えものだ。

がしかし、そうなってしまうところが、今の”本末転倒国家”日本の”日本らしい”ところなのだろう。”オシムの言葉”も同じ問題が垣間見えた。
2006/07/29のBlog
[ 11:11 ] [ 科学ニュース ]
[