Blog
2007/01/12のBlog
[ 09:55 ]
[ 阿南市 ]
ここ阿南市にRichard Backminster Fullerの言葉
"Think global, act local"
"Do more with less"
を社訓にした会社がある。「L・E・D」という、”たった社員3人”の会社である。昨夜、私と妻と妻の知人の3人でこの会社を訪れたので、忘れないうちにここで紹介しておこう。
この会社の名前の「L・E・D」とは、"Lighting Environment Design(=光環境デザイン)"の3つの頭文字をつけて出来たものである。これが、見事に「発光ダイオード(LED="Light Emitting Diode")の3つの頭文字と一致したのである。それゆえ、「即、会社名にした」と社長の大栗克俊さんは教えてくれた。それもそのはず、この会社は、LEDを使った全く新しい、地球環境に配慮した、光照明システムをデザインする会社だからである。他の社員は、電子部品製作のエキスパートである近藤敏則さんとデザイナーの板東孝明さんという取締役2人。社長の大栗さんは、電子回路とプログラムを中心とし全体の製作のパイオニアである。
"Think global, act local"
"Do more with less"
を社訓にした会社がある。「L・E・D」という、”たった社員3人”の会社である。昨夜、私と妻と妻の知人の3人でこの会社を訪れたので、忘れないうちにここで紹介しておこう。
この会社の名前の「L・E・D」とは、"Lighting Environment Design(=光環境デザイン)"の3つの頭文字をつけて出来たものである。これが、見事に「発光ダイオード(LED="Light Emitting Diode")の3つの頭文字と一致したのである。それゆえ、「即、会社名にした」と社長の大栗克俊さんは教えてくれた。それもそのはず、この会社は、LEDを使った全く新しい、地球環境に配慮した、光照明システムをデザインする会社だからである。他の社員は、電子部品製作のエキスパートである近藤敏則さんとデザイナーの板東孝明さんという取締役2人。社長の大栗さんは、電子回路とプログラムを中心とし全体の製作のパイオニアである。
2年程前に私はここで「光の街阿南:阿南の夏祭りは他とはちょっと違う! 」で、どのように”光マンダラドーム”が誕生したか、を紹介した。この会社は、そのグループがその頃に立ち上げた、全くのベンチャー企業である。古今東西の多くのベンチャー企業がガレージから始まったように、このベンチャーの王道をこの会社も進む。それゆえ、今は阿南の運送会社のガレージにある。
我々は、4時に待ち合わせて、仕事場(アトリエのような感じ)に案内してもらった。この会社は、イベント中心の会社なので、イベントに間に合わせる時は大忙しだが、そういったものが過ぎれば、比較的のんびりしているという。我々は、すでに大方貸し出しが終わった後(イベントの多くは、これから東京ドームなどで開催される予定)だったので、のんびり話ができてラッキーであった。
我々は、4時に待ち合わせて、仕事場(アトリエのような感じ)に案内してもらった。この会社は、イベント中心の会社なので、イベントに間に合わせる時は大忙しだが、そういったものが過ぎれば、比較的のんびりしているという。我々は、すでに大方貸し出しが終わった後(イベントの多くは、これから東京ドームなどで開催される予定)だったので、のんびり話ができてラッキーであった。
時間があったので、「じゃ、作りますか」の大栗さんの提案で、我々もテトラ(正四面体モデル)を作ることになった。
4つの面を作るために、まず1面を3本のパーツと3つの正6角形のコネクターをビスとナットで正三角形に組み立てる。そして4つの正三角形を10個のV字コネクターで繋ぐ。すると、またたく間に正四面体構造のオブジェができる。これに大栗さん手製の”差し込みコネクター”のついた電源に差し込むと、見事に”発光”する。この電源は交流100ボルトから直流18ボルトに変換するもので、我々は別のものを目の前で手作りで作ってもらい、それに繋いで完成。これを記念にいただいた。(大栗さんに心から感謝)。
この後、妻が持って行ったシュークリームを食べながら、いろいろとこの会社の今後の展開や将来性、あるいは今後の夢などを聞く事が出来た。2時間があっという間に過ぎ去ったが、実に楽しい時間であった。
4つの面を作るために、まず1面を3本のパーツと3つの正6角形のコネクターをビスとナットで正三角形に組み立てる。そして4つの正三角形を10個のV字コネクターで繋ぐ。すると、またたく間に正四面体構造のオブジェができる。これに大栗さん手製の”差し込みコネクター”のついた電源に差し込むと、見事に”発光”する。この電源は交流100ボルトから直流18ボルトに変換するもので、我々は別のものを目の前で手作りで作ってもらい、それに繋いで完成。これを記念にいただいた。(大栗さんに心から感謝)。
この後、妻が持って行ったシュークリームを食べながら、いろいろとこの会社の今後の展開や将来性、あるいは今後の夢などを聞く事が出来た。2時間があっという間に過ぎ去ったが、実に楽しい時間であった。
家に戻ると、早速、息子たちに見せる。子供たちも見事なできばえに感動する。これを家でも光らせると、青い色が実に見事である。
これを蛍光灯の豆球代わりに点灯させていると、どういうわけか、青い光にすぐに眠りに誘われた。私はこうして夢の中へ。
これを蛍光灯の豆球代わりに点灯させていると、どういうわけか、青い光にすぐに眠りに誘われた。私はこうして夢の中へ。
2007/01/11のBlog
[ 11:46 ]
[ 科学 ]
写真:最近見つかった”新種”。”白いなまこ”と”しましまのウニ”
下に紹介した「マーミンのプレイジャリズム」、「マーミンのジョーク」は、2年ちょっと前に私の昔の掲示板に書いておいたものである。が、しかし、最近私は現在の理論物理学にある種の”違和感”というのか、”危機感”を持っているので、あえて再録した。
ここでは、私の専門である物理学の話題は極力書かないようにしている。というのは、直接は「同業者の論評はしない」という科学者の”不文律”に従っているからである。また、同業者の場合には、言うべき事は直接本人に言えば良い事だからでもある。(もっとも日本の大学でこの約束事を学生に指導しているということは無さそうだが)
さて、今回”あえて”紹介したいのは、日本語の「厳密」という言葉についてである。日本語では、物理学にこんな言葉がある。
(あ)「厳密な証明」、(い)「厳密解」
普通の科学の本(数学や物理の本という意味)では、このような言葉が使われている。しかし、どうやらここに非常に”困ったこと”が起きているように私は感じる。というのは、上2つを英語で表現するとその問題が理解できるだろう。
(あ)"Rigorous proof"、(い)"Exact solution"
つまり、何が問題かと言えば、英語の"rigorous"という言葉と"exact"という言葉が共に日本語では「厳密な」と訳されてしまう、ということである。
しかし、前者は日本語本来の意味の「厳密な」というよりは、どちらかと言えば「厳格な」とか「厳しい」というような意味合いである。しかし後者は、日本語文字どおりの「厳密な」あるいは「完璧な」という意味合いである。それゆえ、本来なら前者を「厳密な」と呼び、後者を「完璧な」(あるいは「完全な」)と呼ぶべきだったのかも知れない。
いずれにしても、"rigorous"とは、なんのあいまいさもない、厳しいチェックにも耐える、というような意味であり、一方の"exact"とは、”そのものずばり”の完璧な、というような意味なのである。ちなみに、英英辞典では次のようにある。
"rigor"= firmness or severity
"exact"= correct in every detail or completely according to fact
下に紹介した「マーミンのプレイジャリズム」、「マーミンのジョーク」は、2年ちょっと前に私の昔の掲示板に書いておいたものである。が、しかし、最近私は現在の理論物理学にある種の”違和感”というのか、”危機感”を持っているので、あえて再録した。
ここでは、私の専門である物理学の話題は極力書かないようにしている。というのは、直接は「同業者の論評はしない」という科学者の”不文律”に従っているからである。また、同業者の場合には、言うべき事は直接本人に言えば良い事だからでもある。(もっとも日本の大学でこの約束事を学生に指導しているということは無さそうだが)
さて、今回”あえて”紹介したいのは、日本語の「厳密」という言葉についてである。日本語では、物理学にこんな言葉がある。
(あ)「厳密な証明」、(い)「厳密解」
普通の科学の本(数学や物理の本という意味)では、このような言葉が使われている。しかし、どうやらここに非常に”困ったこと”が起きているように私は感じる。というのは、上2つを英語で表現するとその問題が理解できるだろう。
(あ)"Rigorous proof"、(い)"Exact solution"
つまり、何が問題かと言えば、英語の"rigorous"という言葉と"exact"という言葉が共に日本語では「厳密な」と訳されてしまう、ということである。
しかし、前者は日本語本来の意味の「厳密な」というよりは、どちらかと言えば「厳格な」とか「厳しい」というような意味合いである。しかし後者は、日本語文字どおりの「厳密な」あるいは「完璧な」という意味合いである。それゆえ、本来なら前者を「厳密な」と呼び、後者を「完璧な」(あるいは「完全な」)と呼ぶべきだったのかも知れない。
いずれにしても、"rigorous"とは、なんのあいまいさもない、厳しいチェックにも耐える、というような意味であり、一方の"exact"とは、”そのものずばり”の完璧な、というような意味なのである。ちなみに、英英辞典では次のようにある。
"rigor"= firmness or severity
"exact"= correct in every detail or completely according to fact
では、もう少し分かりやすく考えてみよう。例えば、
2次方程式:x^2 = x +1
を考えよう。
この解を求めるのは中学生の数学のレベルだが、仮に今我々は2次方程式の解法を知らないとする。そういう場合に、この解の性質がどういうものか、を調べる”厳密な(="rigorous")な方法があるか?
答えは、イエス。
両辺をxで割れば、x= 1 + 1/x となる。xが正の数(x>0)とすれば、右辺>0。したがって、右辺のxに左辺を代入すれば、
x= 1 + 1/(1 + 1/x)=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/x))=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/)))=.....
となることがわかる。
したがって、右辺の中に出てくる1/xを無視すれば、
x_0=1,
x_1=1+ 1=2,
x_2=1+ 1/(1+1)=1+1/2=3/2,
x_3=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1))=1+1/(1+1/2)=1+1/(3/2)=1+2/3=5/3, .....
ということが分かる。これらは本当の解の近似である。これから、もし分子分母に出てくる数を次のように定義すれば、近似が”厳密に(="Exact"に)”得られることになる。そこで、
F(n+1)=F(n-1)+F(n), F(0)=F(1)=1
と定義する。この数列は、前2つの和でできる数列である。つまり、
1、1、2、3、5、8、13、21、......
である。そして、いつも近似が
x_n = F(n+1)/F(n)
となっていることがわかる。n→∞の時には、x_n がx=1.618033989...になることが”予想”(conjecture)できる。仮に真の値τとその近似x_nの差τ-x_nを考えると、
τ-x_n=τ-F(n+1)/F(n)=(F(n)τ-F(n+1))/F(n)=1/(F(n)(-τ)^n)
ここでF(n)τ-F(n+1)=(-τ)^nを使った。これは、F(n+1)τ-F(n)=τ^nにF(-n)=(-1)^{n+1}F(n)を代入して得られ、これらもτ^2 = τ +1から帰納法で証明できる。したがって、τ>1だから、1/(F(n+1)τ-F(n)) < 1/(F(n+1)-F(n))。それゆえ、
|τ-x_n|=|τ-F(n+1)/F(n)|=|1/(F(n)(-τ)^n)| =|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)τ-F(n))]|<|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)-F(n))]|=|(-1)^{n+1}/[F(n)F(n-1)]|
結局、
|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]
の関係が”厳密に”(="rigorous"に)証明できたわけである。右辺はn→∞の時には、0に収束するので、この場合に真の値に収束することが分かる。
これが、いわゆる”厳密な証明”(="rigorous proof")の意味である。
それに対して、”厳密解”はどうかといえば、中学の数学の「2次方程式の解法」により、最初の2次方程式を”因数分解”できれば、次のように得られる。
x_{±} = (1±√5)/2
x>0である解は、τ=(1+√5)/2。
これが”厳密解”(="Exact solution")である。(ところで、この方法が得られるためには、「平方根」の概念、「因数分解」などの”新概念を創出する”必要があったわけである。新しい方法が既存の未解決問題を解くためには、必ず何がしかの新概念を生み出さなくては難しいのである。)
こんなふうに見れば、私が言わんとした、同じ「厳密」という日本語であっても、その意味合いが全く異なることが分かっただろう。
2次方程式:x^2 = x +1
を考えよう。
この解を求めるのは中学生の数学のレベルだが、仮に今我々は2次方程式の解法を知らないとする。そういう場合に、この解の性質がどういうものか、を調べる”厳密な(="rigorous")な方法があるか?
答えは、イエス。
両辺をxで割れば、x= 1 + 1/x となる。xが正の数(x>0)とすれば、右辺>0。したがって、右辺のxに左辺を代入すれば、
x= 1 + 1/(1 + 1/x)=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/x))=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/)))=.....
となることがわかる。
したがって、右辺の中に出てくる1/xを無視すれば、
x_0=1,
x_1=1+ 1=2,
x_2=1+ 1/(1+1)=1+1/2=3/2,
x_3=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1))=1+1/(1+1/2)=1+1/(3/2)=1+2/3=5/3, .....
ということが分かる。これらは本当の解の近似である。これから、もし分子分母に出てくる数を次のように定義すれば、近似が”厳密に(="Exact"に)”得られることになる。そこで、
F(n+1)=F(n-1)+F(n), F(0)=F(1)=1
と定義する。この数列は、前2つの和でできる数列である。つまり、
1、1、2、3、5、8、13、21、......
である。そして、いつも近似が
x_n = F(n+1)/F(n)
となっていることがわかる。n→∞の時には、x_n がx=1.618033989...になることが”予想”(conjecture)できる。仮に真の値τとその近似x_nの差τ-x_nを考えると、
τ-x_n=τ-F(n+1)/F(n)=(F(n)τ-F(n+1))/F(n)=1/(F(n)(-τ)^n)
ここでF(n)τ-F(n+1)=(-τ)^nを使った。これは、F(n+1)τ-F(n)=τ^nにF(-n)=(-1)^{n+1}F(n)を代入して得られ、これらもτ^2 = τ +1から帰納法で証明できる。したがって、τ>1だから、1/(F(n+1)τ-F(n)) < 1/(F(n+1)-F(n))。それゆえ、
|τ-x_n|=|τ-F(n+1)/F(n)|=|1/(F(n)(-τ)^n)| =|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)τ-F(n))]|<|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)-F(n))]|=|(-1)^{n+1}/[F(n)F(n-1)]|
結局、
|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]
の関係が”厳密に”(="rigorous"に)証明できたわけである。右辺はn→∞の時には、0に収束するので、この場合に真の値に収束することが分かる。
これが、いわゆる”厳密な証明”(="rigorous proof")の意味である。
それに対して、”厳密解”はどうかといえば、中学の数学の「2次方程式の解法」により、最初の2次方程式を”因数分解”できれば、次のように得られる。
x_{±} = (1±√5)/2
x>0である解は、τ=(1+√5)/2。
これが”厳密解”(="Exact solution")である。(ところで、この方法が得られるためには、「平方根」の概念、「因数分解」などの”新概念を創出する”必要があったわけである。新しい方法が既存の未解決問題を解くためには、必ず何がしかの新概念を生み出さなくては難しいのである。)
こんなふうに見れば、私が言わんとした、同じ「厳密」という日本語であっても、その意味合いが全く異なることが分かっただろう。
さて、そこで、最初のマーミンさんのジョークの話に戻る。
”質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、
数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。”
というのが、マーミンジョークだが、20世紀後半から理論物理が、かなり”矮小化されて”数理物理学の一種のように理解されてきてしまったようである。理論物理と数理物理のどこがどう違うかというのは、非常に説明が難しい。そこで、マーミンさんは、「数理物理学は、”数学者もどき”が行なうもの」で、「理論物理は、”実験できない物理学者”が行なうもの」とジョーク的に定義したわけであろう。
そこで、もっと端的に説明するにはどうすべきか、と私が考えたところ、どうやらこの2つの曖昧さの原因は、「厳密さ」という言葉の曖昧さにあると気付いたということである。
つまり、簡単に言えば、同じ問題でも、「厳密(="Exact")に行なおうと目指すのが理論物理学者」で、「厳密(="Rigorous")に行なおうと目指すのが数理物理学者」であると定義するのが分かりやすいのではないか、と思ったのである。
なぜなら、物理学者にとって、不等式はあまり意味がない。だから、|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]が得られてもあまり御利益がない。できることなら、いくらでも数値計算可能な理論、それも厳密(=Exact=完璧で完全な)ものが良い。したがって、理論物理学者は、一般的に見て、「2次方程式の解法」のようなものが欲しいのである。
しかし、数理物理学者はちょっと違う。「2次方程式の解法」のような完全解が得られなくても、その近似でも結構。不完全解でも結構。とにかく、何かが”厳密に(="rigorous")証明”できれば良い。解のあるなしとか、振るまいとかが厳密に示せればそれで良い。特に、数値的に計算可能でなくても良い。なぜなら実験の詳細にはさほど関心がないからだ。証明の、方策、センス、エレガントさなどの方に興味があるからである。
もちろん、人それぞれいかようにも定義できる。しかし、私の個人的趣味としては、理論物理学者は、「Exactに計算可能な理論」の構築を目指すべきだろうと思う。あるいは、「Exactな概念」の創成に寄与すべきだろう。
こうして20世紀後半を見ると、20世紀前半(や19世紀後半)に、マックスウェルやボルツマン、プランクやアインシュタイン、ディラックやハイゼンベルグやシュレディンガーなど行なった「Exactな研究」と比べて、どうも「Rigorousな研究」に甘んじているのではないか、と私は感じる。私は、「ある現象を何の曇りもなくビシっと計算可能にする画期的な研究」が欲しい。ちょこちょことたくさんの「Rigorous理論」を出すよりは、一発の「Exact理論」を出すべきである。
この意味では、Yangの「Bethe仮説の方法」、Kruskalの「ソリトン理論」などは、Exactな研究の中の模範中の模範である。
理論物理学者というからには、1つでも「完璧な理論(Exact theory)」を生み出したいものである。困難を極めるがネ。
”質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、
数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。”
というのが、マーミンジョークだが、20世紀後半から理論物理が、かなり”矮小化されて”数理物理学の一種のように理解されてきてしまったようである。理論物理と数理物理のどこがどう違うかというのは、非常に説明が難しい。そこで、マーミンさんは、「数理物理学は、”数学者もどき”が行なうもの」で、「理論物理は、”実験できない物理学者”が行なうもの」とジョーク的に定義したわけであろう。
そこで、もっと端的に説明するにはどうすべきか、と私が考えたところ、どうやらこの2つの曖昧さの原因は、「厳密さ」という言葉の曖昧さにあると気付いたということである。
つまり、簡単に言えば、同じ問題でも、「厳密(="Exact")に行なおうと目指すのが理論物理学者」で、「厳密(="Rigorous")に行なおうと目指すのが数理物理学者」であると定義するのが分かりやすいのではないか、と思ったのである。
なぜなら、物理学者にとって、不等式はあまり意味がない。だから、|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]が得られてもあまり御利益がない。できることなら、いくらでも数値計算可能な理論、それも厳密(=Exact=完璧で完全な)ものが良い。したがって、理論物理学者は、一般的に見て、「2次方程式の解法」のようなものが欲しいのである。
しかし、数理物理学者はちょっと違う。「2次方程式の解法」のような完全解が得られなくても、その近似でも結構。不完全解でも結構。とにかく、何かが”厳密に(="rigorous")証明”できれば良い。解のあるなしとか、振るまいとかが厳密に示せればそれで良い。特に、数値的に計算可能でなくても良い。なぜなら実験の詳細にはさほど関心がないからだ。証明の、方策、センス、エレガントさなどの方に興味があるからである。
もちろん、人それぞれいかようにも定義できる。しかし、私の個人的趣味としては、理論物理学者は、「Exactに計算可能な理論」の構築を目指すべきだろうと思う。あるいは、「Exactな概念」の創成に寄与すべきだろう。
こうして20世紀後半を見ると、20世紀前半(や19世紀後半)に、マックスウェルやボルツマン、プランクやアインシュタイン、ディラックやハイゼンベルグやシュレディンガーなど行なった「Exactな研究」と比べて、どうも「Rigorousな研究」に甘んじているのではないか、と私は感じる。私は、「ある現象を何の曇りもなくビシっと計算可能にする画期的な研究」が欲しい。ちょこちょことたくさんの「Rigorous理論」を出すよりは、一発の「Exact理論」を出すべきである。
この意味では、Yangの「Bethe仮説の方法」、Kruskalの「ソリトン理論」などは、Exactな研究の中の模範中の模範である。
理論物理学者というからには、1つでも「完璧な理論(Exact theory)」を生み出したいものである。困難を極めるがネ。
[ 09:38 ]
[ ジョーク ]
ちなみに、先のマーミンさんのコラムの中にマーミンさんのジョークが紹介されている。これは結構面白いのでちょっと紹介しておこう。
『質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。』
どうだろう?結構シニカルで面白いジョークである。マーミンさん曰く、このジョークを数理物理学者は好きではないが、普通の物理学者は好きなようだ。
さて、今から3年程前に実はこの私も非常に似たテーマのエッセイを書いていた。これは、
『#571 数理物理学と物理数学、どっちが物理学に近い? 2001/12/27』
(http://bbs9.otd.co.jp/kazumoto/bbs_plain?base=571&range=1)
である。この中で次のようなことを書いていた。
『ちなみに、一般に誤解されていることは、数理物理学と物理数学
のどっちが物理に近いかというと、物理数学のほうなんですが、
逆に受け取られています。
数理物理学は数学者が物理(にある数学)をやる場合で、物理数学は
物理学者が数学(物理で現れた数学)をやる場合です。この辺は、
非常に誤解されていますね。だから、両者はやり方が全く異なります。
前者は数学的厳密性を求め、後者は数式にある物理的内容を重視
します。
同様に、コンピュータ生物学と生物コンピュータ学では、前者が
(普通の)コンピュータの専門家が生物学を扱うもので、つまり、
コンピュータを生物学への応用するものであり、後者は生物学者が
生物の原理を使ったコンピュータを考える学問で、生物学をコンピ
ュータに応用するものですね。
だから、私は理論物理学者、物理数学者であって、数理物理学者
ではないんですね。どっちかと言えば、物理生物学者なんですね。
生物物理学者ではないんです。しかし、実際は、物理生物学者の
仕事が生物物理学と呼ばれていますから、非常に混乱していますね。
もっともそれほどポピュラーではなかったので、生物物理学も
物理生物学もどっちでも良かったということはあるでしょう。』
いやはや、日本語は形容詞か名詞かの区別もあいまいだし、漢文の”レ点”のように後ろ読みしたり、英語も後ろ読みしたりと、いろんなことが混乱しているので、”理論物理”と書いても、これが”理論の物理”なのか、”物理の理論”なのか、”物理的な理論”なのか、はてまた”理論的な物理”なのか、良く知らない人には皆目見当がつかない。
それゆえ、”数理物理”となるともっと訳が分らなる。これが”数学的な物理”なのか、”物理の数学”なのか、”理論物理の数学”なのか、いったい”数理”とは何か?ということになる。
じゃ、今度は”数理”とはいったい何か?”数学”のこと?。それとも、”理論”のこと?。その両方?それとも、これらのいずれでもないのか?これは名詞?それとも形容詞?どっちなんだい?ということになる。
もちろん、マーミンさんがいうところの、”数理物理”とは"mathematical physics"のことである。一方の理論物理とは、"theoretical physics"のことである。このように、英語ならまだ分りやすい。なぜなら、"mathematical physics"とは、”数学的物理”のことで、一方、"theoretical physics"は”理論的物理”のことであるからである。
このことからも、日本語への”意訳”(や”翻訳”)によって意味がまったく不明瞭となる、という例が学問の世界では非常に多い。だからこそ、英語の原文で読む、ということが大事になって来る。
アメリカでは、確かにプレイジャリズムを避けるために、引用する段階で、意味を変えないようにどんどん言い方や言い回しを変えて表現するように義務付けられる。しかし、これを日本語でやったら、ひょっとしたら”伝言ゲーム”のように、表現を変える度に意味が変ってしまい、あるいは読み手が別の意味で受け取ってしまい。どんどん最初のものから変って、終いにはみるも無惨な姿に変ってしまうということがないでもなし。この危険は日本語の場合にはいつもあるような気もする。
こんなわけで、日本語圏に住む我々は、いつも言葉は簡単明瞭にその都度しっかり定義して使わないと、多くの場合には支離滅裂な状況を生みかねないのである。
まあ、最後に以上をまとめておくと、一般に、学問分野では、”A”という学問と”B”という学問があった場合。”AB”(あるいは”A的B”)という学問は”A”に近い。また、”BA”(あるいは”B的A”)という学問は”B”に近い、ということである。だから、”AB”は”BA”よりずっと”A”に近い。
つまり、図式すれば、
A-----AB-----BA-----B
のような感じだろう。したがって、
数学---数理物理---物理数学---理論物理---物理
となる。同様に、”実験物理”となれば、これは物理分野で実験する学問の意となる。(アカデミックに言えば、これは、コード(文字列)間の距離(近さ)をどのように表現するかという問題であり、結構面白い問題である。)
とまあ、こんなふうに、我々の日本語世界は非常に混乱しやすい、というわけである。もし日本人がこういったことを全く混乱して使っているとすれば、我々の学問世界はマーミンさんのジョーク以外の何者でもないといえるだろうネ。
----2004年6月29日----
『質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。』
どうだろう?結構シニカルで面白いジョークである。マーミンさん曰く、このジョークを数理物理学者は好きではないが、普通の物理学者は好きなようだ。
さて、今から3年程前に実はこの私も非常に似たテーマのエッセイを書いていた。これは、
『#571 数理物理学と物理数学、どっちが物理学に近い? 2001/12/27』
(http://bbs9.otd.co.jp/kazumoto/bbs_plain?base=571&range=1)
である。この中で次のようなことを書いていた。
『ちなみに、一般に誤解されていることは、数理物理学と物理数学
のどっちが物理に近いかというと、物理数学のほうなんですが、
逆に受け取られています。
数理物理学は数学者が物理(にある数学)をやる場合で、物理数学は
物理学者が数学(物理で現れた数学)をやる場合です。この辺は、
非常に誤解されていますね。だから、両者はやり方が全く異なります。
前者は数学的厳密性を求め、後者は数式にある物理的内容を重視
します。
同様に、コンピュータ生物学と生物コンピュータ学では、前者が
(普通の)コンピュータの専門家が生物学を扱うもので、つまり、
コンピュータを生物学への応用するものであり、後者は生物学者が
生物の原理を使ったコンピュータを考える学問で、生物学をコンピ
ュータに応用するものですね。
だから、私は理論物理学者、物理数学者であって、数理物理学者
ではないんですね。どっちかと言えば、物理生物学者なんですね。
生物物理学者ではないんです。しかし、実際は、物理生物学者の
仕事が生物物理学と呼ばれていますから、非常に混乱していますね。
もっともそれほどポピュラーではなかったので、生物物理学も
物理生物学もどっちでも良かったということはあるでしょう。』
いやはや、日本語は形容詞か名詞かの区別もあいまいだし、漢文の”レ点”のように後ろ読みしたり、英語も後ろ読みしたりと、いろんなことが混乱しているので、”理論物理”と書いても、これが”理論の物理”なのか、”物理の理論”なのか、”物理的な理論”なのか、はてまた”理論的な物理”なのか、良く知らない人には皆目見当がつかない。
それゆえ、”数理物理”となるともっと訳が分らなる。これが”数学的な物理”なのか、”物理の数学”なのか、”理論物理の数学”なのか、いったい”数理”とは何か?ということになる。
じゃ、今度は”数理”とはいったい何か?”数学”のこと?。それとも、”理論”のこと?。その両方?それとも、これらのいずれでもないのか?これは名詞?それとも形容詞?どっちなんだい?ということになる。
もちろん、マーミンさんがいうところの、”数理物理”とは"mathematical physics"のことである。一方の理論物理とは、"theoretical physics"のことである。このように、英語ならまだ分りやすい。なぜなら、"mathematical physics"とは、”数学的物理”のことで、一方、"theoretical physics"は”理論的物理”のことであるからである。
このことからも、日本語への”意訳”(や”翻訳”)によって意味がまったく不明瞭となる、という例が学問の世界では非常に多い。だからこそ、英語の原文で読む、ということが大事になって来る。
アメリカでは、確かにプレイジャリズムを避けるために、引用する段階で、意味を変えないようにどんどん言い方や言い回しを変えて表現するように義務付けられる。しかし、これを日本語でやったら、ひょっとしたら”伝言ゲーム”のように、表現を変える度に意味が変ってしまい、あるいは読み手が別の意味で受け取ってしまい。どんどん最初のものから変って、終いにはみるも無惨な姿に変ってしまうということがないでもなし。この危険は日本語の場合にはいつもあるような気もする。
こんなわけで、日本語圏に住む我々は、いつも言葉は簡単明瞭にその都度しっかり定義して使わないと、多くの場合には支離滅裂な状況を生みかねないのである。
まあ、最後に以上をまとめておくと、一般に、学問分野では、”A”という学問と”B”という学問があった場合。”AB”(あるいは”A的B”)という学問は”A”に近い。また、”BA”(あるいは”B的A”)という学問は”B”に近い、ということである。だから、”AB”は”BA”よりずっと”A”に近い。
つまり、図式すれば、
A-----AB-----BA-----B
のような感じだろう。したがって、
数学---数理物理---物理数学---理論物理---物理
となる。同様に、”実験物理”となれば、これは物理分野で実験する学問の意となる。(アカデミックに言えば、これは、コード(文字列)間の距離(近さ)をどのように表現するかという問題であり、結構面白い問題である。)
とまあ、こんなふうに、我々の日本語世界は非常に混乱しやすい、というわけである。もし日本人がこういったことを全く混乱して使っているとすれば、我々の学問世界はマーミンさんのジョーク以外の何者でもないといえるだろうネ。
----2004年6月29日----
[ 09:16 ]
[ ジョーク ]
アメリカの物理学会誌Physics Today5月号の巻頭言(Reference frame)、"Could Feynman Have Said This?"(ファインマンはこれを言うことができたか?)は、面白い。これは、理論物理学者のN. D. Merminさんの記事である。(May 2004 Physics Today, page 10.) というのも、これはここ最近私がここで紹介して来た”プレイジャリズム(無断盗用)”がテーマであり、これに対するアメリカの学者の感じ方が見えて実に興味深いからである。
マーミンさんは物性理論物理学者なので、私もこの人の主要な論文は読んで良く知っている。マーミン-ワーグナーの定理、トポロジカル欠陥の理論などが著明であるが、特に有名なものは、アッシュクロフト-マーミンの固体物理学の教科書であろう。これはアメリカ(いや世界)の固体物理学の大学院レベルの標準的教科書となっている。私がユタ大学に留学した1986年当時もこれが教科書に使われていて、大学院生たちは毎週の宿題としてこの章末問題を解かされることになる。私の場合は、当時そこで助教授として教えていた甲元真人博士に教えてもらったものである。
さて、このマーミンさん、今回は少しこれまでの彼のエッセイとは違って、ひょっとしたら自分が行ってしまったのかも知れない、大きな”過ち”について語る。
話はこんなものである。ひと昔前の15年ほど前、マーミンさんはやはり巻頭言を頼まれた。当時気軽にあまり深く考えることもなく、マーミンさんは量子力学に対する世代ごとの理解の仕方や認識の仕方が違うということを取り上げた。
そこで、量子力学の発見者のアインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーの世代と比べて、ずっと若い世代になると、もはやコペンハーゲン精神が世界中に流布していたために、量子力学の解釈における問題などはそっちのけで、むしろ量子力学をいかに使うかということが主題となる。そこで、この代表がファインマンであり、彼は学生達に
"Shut up and calculate(シャラップ、アンド カルキュレイト)"
「黙って計算しろ」
と言った、とマーミンさんは書いたそうである。
つまり、量子力学の解釈や観測理論などの不毛な議論で時間を潰すのではなく、何か有用なことの計算に時間をかけよ、という意味である。若い世代の物理学者はあまり量子力学の基礎論にはおかまいなしとなったということの代表者としてファインマンをマーミンさんは例に挙げたのである。
これからずっと年月が経ち、マーミンさんも自分が書いたこの記事のことを忘れてしまっていた。しかし、比較的最近になり、『ファインマンが本当にそう言ったのか?』と人に聞かれることとなった。そこで現代はインターネット時代であるので、googleでいろんなページを調べてみると、”黙って計算しろ”と”ファインマン”の検索で
『ファインマンは”黙って計算しろ”といった。』
『たとえば、ファインマンの”黙って計算しろ”がある。』
『私の個人的哲学は有名な物理学者ファインマンの”黙って計算しろ”と同じである。』
『どの量子力学解釈がファインマンの立場かと問われると、彼は”黙って計算しろ”であると言った。』
『”黙って計算しろ”--ファインマン』
などなどとでるはでるはの大騒動となった。そこでついでに、”黙って計算しろ”と”マーミン”の検索にかけると、10ほど似たようなものがでた。
そこで、マーミンさんは”非常に恐く”なってしまったのである。ひょっとしたら、ファインマンはこんな事言っていなかったのかもしれない。それが、自分の書いた記事が基になって、"Matthew effect"(マシュー効果、マタイ効果とも言う)のために、その言葉がどんどんどんどん一人歩きして有名になってしまったのかもしれない。ここでいう、”マタイ効果”とは、
聖書にある”富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる。”
という話(Matthew 25:29)にかけて、現実社会の貧富の差や有名無名の差を論じたMerton(マートン)博士の定義によるとマーミンさんはいう。
この部分に対してマーミンさんはこう書いた。
". . . Not only had I appropriated without proper attribution a Feynman quote, but it appeared to be a famous one. How humiliating! . . ."
(. . . 私は適正に根拠を知ることもなくファインマンの引用を無断盗用してしまったばかりか、それを有名にしてしまった。なんて恥ずかしいことか!. . .)
ここで、"appropriate"という語は、形容詞では”適切に”というような意味であるが、動詞の場合には、”無断盗用する”という意味がある。Longman dictionaryによれば、
"appropriate" = "to set aside for a particular purpose"
(特別な目的のためにとっておくこと)
=" to take for oneself or for one's own use, esp. without permission"
(特に、許可なく自分自身のため、あるいは自分だけの使用のために取ること)
とある。
そして、マーミンさんは自分の昔を思い出す。よくよく考えれば、マーミンさんがまだ若かかりし日に、ハーバード大学で大学院生として量子力学を学んでいた頃、当時の教授の一人からこう言われた。
”もし君が君自身を取るに足らない問題で時間を潰しているのなら、Ph. D.は決して取れないよ。”
”だから、真剣な問題に戻り、何か結果を出しなさい。”
言い換えれば、
”黙って、計算せよ。”
じゃ、ファインマンの時代なら、ファインマンの指導教官(ホウィーラー博士)や当時の教授のだれかがこう言っただろうか?答は、ノー。そんなはずがない。さもなくば、ファインマンが量子力学の再構築であるファインマン積分を発明できたはずがない。
こんなわけでマーミンさんは、昔の物理学者の中で、だれがその言葉を言ったかと、考えを巡らせることとなった。アインシュタインだったろうか?違う。シュレディンガー?違う。ニールス・ボーア?違う。じゃ、ファインマンがそう言った?まさか。しかし、これらの人の中のだれもそんなことをいいそうではない。じゃ、だれが言ったのか?
結局、これまでのことを考えてみると、『もしかしたら”自分が最初?”。そうかもしれない。なんてこった。自分がだれか別の人に言われたことをあたかもファインマンが言ったなどとウソついてしまったというわけである。もしそうでれば、これは誇るべきことでもない。その言葉は美しくもない。賢くもない。それとなく足笑い、心無く思考を拒絶している。』とマーミンさんはいう。そして、こう述べる。
"But, damn it, if I'm the one who said it first, then that means I did not, even uncounsciously, approproate the words of Richard Feynman and pass them off as my own. So I have nothing to be ashamed of other than having chracterized the Copenhagen interpretation in such foolish terms--a lesser offense than unconscious plagiarism, in my moral bookkeeping."
(しかし、ちくしょう、もし私がそれを最初に言った人間だとすれば、それが意味するのは、私は無意識のうちに、リチャード・ファインマンの言葉を無断盗用し自分のものとして出したということではなかった、ということである。だから、私はそんなバカな言葉でコペンハーゲン解釈を特徴付けたこと--私の倫理の記録帳において、無意識のプレイジャリズムよりは罪の軽い攻撃、以外に恥じるべきことはまったくない。)
そして、最後にマーミンさんはいう。
”そんなわけで、親愛なる皆さん。もしだれか、ファインマンが”黙って計算せよ”と言った証拠を見つけたら、どうか私に送ってください。私はそれを受け取ってハッピーにはならないだろう。むしろ、プレイジャリスト(無断盗用者)よりはマタイ効果の犠牲者となるだろう。しかし、私は真実を知りたい。”
と、まあ、こんな感じの記事であった。もちろん、テーマはここでしばらく述べている”プレイジャリズム(≒無断盗用)”の問題である。マーミンさんもさすがにアメリカ人、内容がどうであれ、プレイジャリスト(無断盗用者)呼ばわりされるのは御免こうむりたい、ということである。この辺りが我々日本人学者とはまったく異なっているところであろう。
この記事は、おそらくPhysics todayの日本語版”パリティー”の7、8月号に出るだろう。だから、日本語訳はそちらを読んでもらいたい。私も誤解や誤訳していることもあるかもしれないので、ぜひ御自分でお読み下さい。
いずれにせよ、”プレイジャリズム(plagiarism)”という言葉は、欧米の知的社会ではもっとも重要な言葉である、という私の指摘は皆さんにも十分伝わったことだろう。
----2004年6月29日----
マーミンさんは物性理論物理学者なので、私もこの人の主要な論文は読んで良く知っている。マーミン-ワーグナーの定理、トポロジカル欠陥の理論などが著明であるが、特に有名なものは、アッシュクロフト-マーミンの固体物理学の教科書であろう。これはアメリカ(いや世界)の固体物理学の大学院レベルの標準的教科書となっている。私がユタ大学に留学した1986年当時もこれが教科書に使われていて、大学院生たちは毎週の宿題としてこの章末問題を解かされることになる。私の場合は、当時そこで助教授として教えていた甲元真人博士に教えてもらったものである。
さて、このマーミンさん、今回は少しこれまでの彼のエッセイとは違って、ひょっとしたら自分が行ってしまったのかも知れない、大きな”過ち”について語る。
話はこんなものである。ひと昔前の15年ほど前、マーミンさんはやはり巻頭言を頼まれた。当時気軽にあまり深く考えることもなく、マーミンさんは量子力学に対する世代ごとの理解の仕方や認識の仕方が違うということを取り上げた。
そこで、量子力学の発見者のアインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーの世代と比べて、ずっと若い世代になると、もはやコペンハーゲン精神が世界中に流布していたために、量子力学の解釈における問題などはそっちのけで、むしろ量子力学をいかに使うかということが主題となる。そこで、この代表がファインマンであり、彼は学生達に
"Shut up and calculate(シャラップ、アンド カルキュレイト)"
「黙って計算しろ」
と言った、とマーミンさんは書いたそうである。
つまり、量子力学の解釈や観測理論などの不毛な議論で時間を潰すのではなく、何か有用なことの計算に時間をかけよ、という意味である。若い世代の物理学者はあまり量子力学の基礎論にはおかまいなしとなったということの代表者としてファインマンをマーミンさんは例に挙げたのである。
これからずっと年月が経ち、マーミンさんも自分が書いたこの記事のことを忘れてしまっていた。しかし、比較的最近になり、『ファインマンが本当にそう言ったのか?』と人に聞かれることとなった。そこで現代はインターネット時代であるので、googleでいろんなページを調べてみると、”黙って計算しろ”と”ファインマン”の検索で
『ファインマンは”黙って計算しろ”といった。』
『たとえば、ファインマンの”黙って計算しろ”がある。』
『私の個人的哲学は有名な物理学者ファインマンの”黙って計算しろ”と同じである。』
『どの量子力学解釈がファインマンの立場かと問われると、彼は”黙って計算しろ”であると言った。』
『”黙って計算しろ”--ファインマン』
などなどとでるはでるはの大騒動となった。そこでついでに、”黙って計算しろ”と”マーミン”の検索にかけると、10ほど似たようなものがでた。
そこで、マーミンさんは”非常に恐く”なってしまったのである。ひょっとしたら、ファインマンはこんな事言っていなかったのかもしれない。それが、自分の書いた記事が基になって、"Matthew effect"(マシュー効果、マタイ効果とも言う)のために、その言葉がどんどんどんどん一人歩きして有名になってしまったのかもしれない。ここでいう、”マタイ効果”とは、
聖書にある”富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる。”
という話(Matthew 25:29)にかけて、現実社会の貧富の差や有名無名の差を論じたMerton(マートン)博士の定義によるとマーミンさんはいう。
この部分に対してマーミンさんはこう書いた。
". . . Not only had I appropriated without proper attribution a Feynman quote, but it appeared to be a famous one. How humiliating! . . ."
(. . . 私は適正に根拠を知ることもなくファインマンの引用を無断盗用してしまったばかりか、それを有名にしてしまった。なんて恥ずかしいことか!. . .)
ここで、"appropriate"という語は、形容詞では”適切に”というような意味であるが、動詞の場合には、”無断盗用する”という意味がある。Longman dictionaryによれば、
"appropriate" = "to set aside for a particular purpose"
(特別な目的のためにとっておくこと)
=" to take for oneself or for one's own use, esp. without permission"
(特に、許可なく自分自身のため、あるいは自分だけの使用のために取ること)
とある。
そして、マーミンさんは自分の昔を思い出す。よくよく考えれば、マーミンさんがまだ若かかりし日に、ハーバード大学で大学院生として量子力学を学んでいた頃、当時の教授の一人からこう言われた。
”もし君が君自身を取るに足らない問題で時間を潰しているのなら、Ph. D.は決して取れないよ。”
”だから、真剣な問題に戻り、何か結果を出しなさい。”
言い換えれば、
”黙って、計算せよ。”
じゃ、ファインマンの時代なら、ファインマンの指導教官(ホウィーラー博士)や当時の教授のだれかがこう言っただろうか?答は、ノー。そんなはずがない。さもなくば、ファインマンが量子力学の再構築であるファインマン積分を発明できたはずがない。
こんなわけでマーミンさんは、昔の物理学者の中で、だれがその言葉を言ったかと、考えを巡らせることとなった。アインシュタインだったろうか?違う。シュレディンガー?違う。ニールス・ボーア?違う。じゃ、ファインマンがそう言った?まさか。しかし、これらの人の中のだれもそんなことをいいそうではない。じゃ、だれが言ったのか?
結局、これまでのことを考えてみると、『もしかしたら”自分が最初?”。そうかもしれない。なんてこった。自分がだれか別の人に言われたことをあたかもファインマンが言ったなどとウソついてしまったというわけである。もしそうでれば、これは誇るべきことでもない。その言葉は美しくもない。賢くもない。それとなく足笑い、心無く思考を拒絶している。』とマーミンさんはいう。そして、こう述べる。
"But, damn it, if I'm the one who said it first, then that means I did not, even uncounsciously, approproate the words of Richard Feynman and pass them off as my own. So I have nothing to be ashamed of other than having chracterized the Copenhagen interpretation in such foolish terms--a lesser offense than unconscious plagiarism, in my moral bookkeeping."
(しかし、ちくしょう、もし私がそれを最初に言った人間だとすれば、それが意味するのは、私は無意識のうちに、リチャード・ファインマンの言葉を無断盗用し自分のものとして出したということではなかった、ということである。だから、私はそんなバカな言葉でコペンハーゲン解釈を特徴付けたこと--私の倫理の記録帳において、無意識のプレイジャリズムよりは罪の軽い攻撃、以外に恥じるべきことはまったくない。)
そして、最後にマーミンさんはいう。
”そんなわけで、親愛なる皆さん。もしだれか、ファインマンが”黙って計算せよ”と言った証拠を見つけたら、どうか私に送ってください。私はそれを受け取ってハッピーにはならないだろう。むしろ、プレイジャリスト(無断盗用者)よりはマタイ効果の犠牲者となるだろう。しかし、私は真実を知りたい。”
と、まあ、こんな感じの記事であった。もちろん、テーマはここでしばらく述べている”プレイジャリズム(≒無断盗用)”の問題である。マーミンさんもさすがにアメリカ人、内容がどうであれ、プレイジャリスト(無断盗用者)呼ばわりされるのは御免こうむりたい、ということである。この辺りが我々日本人学者とはまったく異なっているところであろう。
この記事は、おそらくPhysics todayの日本語版”パリティー”の7、8月号に出るだろう。だから、日本語訳はそちらを読んでもらいたい。私も誤解や誤訳していることもあるかもしれないので、ぜひ御自分でお読み下さい。
いずれにせよ、”プレイジャリズム(plagiarism)”という言葉は、欧米の知的社会ではもっとも重要な言葉である、という私の指摘は皆さんにも十分伝わったことだろう。
----2004年6月29日----
2007/01/08のBlog
[ 21:47 ]
[ 高校サッカー ]
盛岡商が作陽を逆転で破り初優勝 全国高校サッカー決勝
今年の高校サッカー選手権の決勝が、盛岡商(岩手)vs作陽(岡山)で行なわれ、2-1(前半0-0、後半2-1)で盛岡商が逆転勝ちした。
私は全部見ていたが、盛岡商業は、東北の守備主体の堅実なサッカーと”セクシーサッカー”の野洲高校の攻撃的サッカーの両方が備わった実に”好チーム”であった。
特にすばらしかったのは、ディフェンダーの上り下がりと統率であった。普通のチームは、後半になると、ディフェンダーは味方の攻撃の際にあがるのをさぼるが、この盛岡商にはそれがなかった。ディフェンダーの上り下がりのおかげで、中盤のプレスが効くわけだから、当然といえば当然だがこのサッカーの基本をさぼってしまうところから失点に繋がる。今回の野洲の敗北もディフェンダーのさぼりが原因であった。この事からも、相当の”走り込み”を普段行なっているのだろう。
決勝を見る限りでは、優勝に値する立派なチームであった。いずれにせよ、盛岡商の斉藤監督の情熱には頭が下がる。ぜひ長生きしてもらいたいものである。
一方の、作陽は、もう一つ幸運がなかった。前半の立ち上がりの15分でずっと攻めていた時にうまく得点が入れば、結果は全く逆になっていただろう。そこをしのぎきられて次第に盛岡商のペースになっていった。
今大会を振り返えってみよう。
今大会は野洲の”セクシーサッカー革命”が起こった次の年の大会である。したがって、”野洲的サッカー”がどこまで他のチームに影響しているかを私は見ていたが、そこはやはり流行に素早い高校生のこと、だいたいほとんどすべての高校にさっそくその影響が出ていた。
ヒールパス、クロスプレー、ウィングプレー、ジダンのマルセイユルーレットなど今年はどこのチームも行なっていた。中には、ロナウジーニョの”エラシコ”や”ノールックパス”を行なう選手も多々いた(作陽の村井選手や八千代の米倉選手)。
しかし、必ずしもこういった意表をつくチームが勝利するとは限らない。最終的に決勝にまで残ったのは、やはりサッカーの基本に忠実で”セイフティーファースト”を基本に取るチームであった。サッカーの基本をないがしろにしたチームは、強豪で優勝候補の野洲でも敗退した。キーパーの基本を無視したチームは、雨の試合で敗退した。準決勝の2試合の神村学園、八千代はまさにそれで敗退した。
そして、何よりも、トーナメントで勝ちあがるためには、集中力と体力と気力の維持ができることが大事だという事を今大会ほど表わした大会もないのかも知れない。引き分けでPK戦で優勝候補に勝利して行くというのは、それを物語る。
しかし、常に一生懸命に戦って引き分けに持ち込みPK戦で勝利というのも1つのシナリオだが、やはり1試合全体のゲームプランを立ててその中で勝利していくという戦術眼もそろそろ日本の高校生も身につける時代となったと私は見る。
なんでもかんでもやみくもに攻めるのではなく、あえて攻めない時間帯、カウンターアタックに行く、時間稼ぎする、相手の陣型を片寄らせる攻め方など、リズムに変化を与えられるようなチームが好ましい。この点では、野洲は一歩抜きん出ていたが、トーナメントで決勝まで行くだけの基礎体力がなかった。
いずれにせよ、この中から、次の次のワールドカップの代表が出てくることを期待したい。
優勝おめでとう、盛岡商業!!
今年の高校サッカー選手権の決勝が、盛岡商(岩手)vs作陽(岡山)で行なわれ、2-1(前半0-0、後半2-1)で盛岡商が逆転勝ちした。
私は全部見ていたが、盛岡商業は、東北の守備主体の堅実なサッカーと”セクシーサッカー”の野洲高校の攻撃的サッカーの両方が備わった実に”好チーム”であった。
特にすばらしかったのは、ディフェンダーの上り下がりと統率であった。普通のチームは、後半になると、ディフェンダーは味方の攻撃の際にあがるのをさぼるが、この盛岡商にはそれがなかった。ディフェンダーの上り下がりのおかげで、中盤のプレスが効くわけだから、当然といえば当然だがこのサッカーの基本をさぼってしまうところから失点に繋がる。今回の野洲の敗北もディフェンダーのさぼりが原因であった。この事からも、相当の”走り込み”を普段行なっているのだろう。
決勝を見る限りでは、優勝に値する立派なチームであった。いずれにせよ、盛岡商の斉藤監督の情熱には頭が下がる。ぜひ長生きしてもらいたいものである。
一方の、作陽は、もう一つ幸運がなかった。前半の立ち上がりの15分でずっと攻めていた時にうまく得点が入れば、結果は全く逆になっていただろう。そこをしのぎきられて次第に盛岡商のペースになっていった。
今大会を振り返えってみよう。
今大会は野洲の”セクシーサッカー革命”が起こった次の年の大会である。したがって、”野洲的サッカー”がどこまで他のチームに影響しているかを私は見ていたが、そこはやはり流行に素早い高校生のこと、だいたいほとんどすべての高校にさっそくその影響が出ていた。
ヒールパス、クロスプレー、ウィングプレー、ジダンのマルセイユルーレットなど今年はどこのチームも行なっていた。中には、ロナウジーニョの”エラシコ”や”ノールックパス”を行なう選手も多々いた(作陽の村井選手や八千代の米倉選手)。
しかし、必ずしもこういった意表をつくチームが勝利するとは限らない。最終的に決勝にまで残ったのは、やはりサッカーの基本に忠実で”セイフティーファースト”を基本に取るチームであった。サッカーの基本をないがしろにしたチームは、強豪で優勝候補の野洲でも敗退した。キーパーの基本を無視したチームは、雨の試合で敗退した。準決勝の2試合の神村学園、八千代はまさにそれで敗退した。
そして、何よりも、トーナメントで勝ちあがるためには、集中力と体力と気力の維持ができることが大事だという事を今大会ほど表わした大会もないのかも知れない。引き分けでPK戦で優勝候補に勝利して行くというのは、それを物語る。
しかし、常に一生懸命に戦って引き分けに持ち込みPK戦で勝利というのも1つのシナリオだが、やはり1試合全体のゲームプランを立ててその中で勝利していくという戦術眼もそろそろ日本の高校生も身につける時代となったと私は見る。
なんでもかんでもやみくもに攻めるのではなく、あえて攻めない時間帯、カウンターアタックに行く、時間稼ぎする、相手の陣型を片寄らせる攻め方など、リズムに変化を与えられるようなチームが好ましい。この点では、野洲は一歩抜きん出ていたが、トーナメントで決勝まで行くだけの基礎体力がなかった。
いずれにせよ、この中から、次の次のワールドカップの代表が出てくることを期待したい。
優勝おめでとう、盛岡商業!!
2007/01/06のBlog
[ 18:42 ]
[ 社会 ]
昨日の徳島新聞朝刊によると、「年末ジャンボ宝くじ」の当選結果が「みずほ銀行」より公表された。これによれば、1等の当選には”大きな偏り”があったという。
総売上が急減する中、1等は昨年より11本少なく、64本。うち、東京が7、愛知6、千葉と福岡5、徳島は0。2等は、昨年より49本増え、268本。
したがって、億万長者は、両方合わせて、332本に過ぎなかった。
しかし、”所ジョージ”を使って「億万長者が370人」とあれだけ騒いだわけだから、これでは明らかな”詐欺行為”。要するに、悪名高いみずほ銀行の集金ビジネスに乗せられたわけである。
totoもひどいが、宝くじもひどい。もちろんロト6もひどい。
こういった「くじビジネス」は、やれば儲かることは分かっているのだから、1つの企業に独占させるのは明らかに独占禁止法に反する行為だろう。したがって一番良いのは、自治体ごとの持ち回りで47年に1度の割合で行なうというような方法であろう。銀行ごとに持ち回りというのもあり得る。
いずれにせよ、「格差社会」は宝くじにも波及してきているようだ。まったく当たりのでない県が地方都市であり、当たるのが大都市というのは、買った人口に比例するように当たりが出るように、何かの”仕組み”が仕込んであるのだろう。どこか”不自然である”。
総売上が急減する中、1等は昨年より11本少なく、64本。うち、東京が7、愛知6、千葉と福岡5、徳島は0。2等は、昨年より49本増え、268本。
したがって、億万長者は、両方合わせて、332本に過ぎなかった。
しかし、”所ジョージ”を使って「億万長者が370人」とあれだけ騒いだわけだから、これでは明らかな”詐欺行為”。要するに、悪名高いみずほ銀行の集金ビジネスに乗せられたわけである。
totoもひどいが、宝くじもひどい。もちろんロト6もひどい。
こういった「くじビジネス」は、やれば儲かることは分かっているのだから、1つの企業に独占させるのは明らかに独占禁止法に反する行為だろう。したがって一番良いのは、自治体ごとの持ち回りで47年に1度の割合で行なうというような方法であろう。銀行ごとに持ち回りというのもあり得る。
いずれにせよ、「格差社会」は宝くじにも波及してきているようだ。まったく当たりのでない県が地方都市であり、当たるのが大都市というのは、買った人口に比例するように当たりが出るように、何かの”仕組み”が仕込んであるのだろう。どこか”不自然である”。
[ 18:11 ]
[ 訃報・追悼 ]
M・クルスカル氏死去 米数学者
N. J. Zabusky博士と共に「KdV方程式」として知られている”浅水波の方程式”を厳密に解く方法を発見し、「ソリトン」の概念を打ち立てたMartin D. Kruskal(クラスカル)博士が死去。享年81歳。
N. J. Zabusky&Martin D. Kruskalの理論は、物理学の雑誌に公表された[Phys. Rev. Lett. 15, 240 (1965), Phys. Rev. Lett. 19, 1095 (1967)]。
N. J. Zabusky博士と共に「KdV方程式」として知られている”浅水波の方程式”を厳密に解く方法を発見し、「ソリトン」の概念を打ち立てたMartin D. Kruskal(クラスカル)博士が死去。享年81歳。
N. J. Zabusky&Martin D. Kruskalの理論は、物理学の雑誌に公表された[Phys. Rev. Lett. 15, 240 (1965), Phys. Rev. Lett. 19, 1095 (1967)]。
これは、「ソリトン」の概念と共に、俗に言う「可積分系」の発展を促した真に”革命的”論文であった。その後、「ベーテ仮説の方法」、「τ関数理論」、「逆散乱法」、「群の表現論」、「無限次元リー群」、「非線形格子理論」、「流体力学」などなど、数学や理論物理学などの分野を問わず、さまざまな数理科学分野に深い影響を与え、無数の新しい数学的関係が発見されたという、古典的な金字塔を打ち立てた。理論物理学者や数学者であれば、一度はこういう研究をしてみたいと思うような研究であった。
この意味で、現在でもこの分野で飯を食っている研究者は非常に多い。(例えば、「ソリトン」参照)
Kruskal博士は、この研究で1983年度のハイネマン賞(=数理物理で最大の賞の1つ)をもらっている。
御冥福を心より祈りたい。
この意味で、現在でもこの分野で飯を食っている研究者は非常に多い。(例えば、「ソリトン」参照)
Kruskal博士は、この研究で1983年度のハイネマン賞(=数理物理で最大の賞の1つ)をもらっている。
御冥福を心より祈りたい。
2007/01/04のBlog
[ 19:53 ]
[ サッカーがうまくなる ]
日本サッカー、体力消耗しやすい「キック」多い?
これは、大阪市立大大学院の河端隆志助教授(運動環境生理学)らの研究で、欧米南米人のサッカー選手と日本人サッカー選手の間には、歴然たる”キックの差”があるということを証明したものである。非常にすばらしい研究である。
簡単に言えば、日本人のキックは”止まって蹴る(「静的キック」)”であるのに対し、欧米人のキックは”走りながら蹴る(「動的キック」)”であるという違いである。
がしかし、これは私のホームページに10年程前からずっと掲載してきた「サッカーがうまくなるページ」(サッカーがうまくなるページ3 )で、私がずっと説明してきた「サッカーの基本」が科学的に証明されたに過ぎない。
「キックの基本:走ること」というセクションで私はかつてこう説明した。
”サッカーのキックの基本は,「走ること」であるということを説明しましょう.この事実が日本のサッカーでは昔からあまり強調されてきませんでした.そのために,日本のサッカー選手のパスが欧米や南米のサッカー選手のキックと比べると,不正確に(精度に欠けて)見える原因なのです.”
”では,どのようにしたらそのキックの精度を上げられるのでしょうか?それはキックのときに,「自分がキックすることをあまり意識せず,あたかも走り抜けるかのようにボールを蹴ること」なのです.”
”まずはじめに「しっかり軸足を踏み込んで,その軸足を蹴る瞬間に思いっきり走り抜けるように伸び上がる」のです.”
この”内容”を河端隆志助教授がやっと理解したということである。
要するに、サッカーのキックとは、”走り”の延長にあり、「走る動作」の中で足をボールにぶつけるに過ぎないということなのである。それゆえ、軸足から蹴足にすぐに体重移動が自然に行なわれ、2軸運動が自然に行なわれるわけである。
これは、大阪市立大大学院の河端隆志助教授(運動環境生理学)らの研究で、欧米南米人のサッカー選手と日本人サッカー選手の間には、歴然たる”キックの差”があるということを証明したものである。非常にすばらしい研究である。
簡単に言えば、日本人のキックは”止まって蹴る(「静的キック」)”であるのに対し、欧米人のキックは”走りながら蹴る(「動的キック」)”であるという違いである。
がしかし、これは私のホームページに10年程前からずっと掲載してきた「サッカーがうまくなるページ」(サッカーがうまくなるページ3 )で、私がずっと説明してきた「サッカーの基本」が科学的に証明されたに過ぎない。
「キックの基本:走ること」というセクションで私はかつてこう説明した。
”サッカーのキックの基本は,「走ること」であるということを説明しましょう.この事実が日本のサッカーでは昔からあまり強調されてきませんでした.そのために,日本のサッカー選手のパスが欧米や南米のサッカー選手のキックと比べると,不正確に(精度に欠けて)見える原因なのです.”
”では,どのようにしたらそのキックの精度を上げられるのでしょうか?それはキックのときに,「自分がキックすることをあまり意識せず,あたかも走り抜けるかのようにボールを蹴ること」なのです.”
”まずはじめに「しっかり軸足を踏み込んで,その軸足を蹴る瞬間に思いっきり走り抜けるように伸び上がる」のです.”
この”内容”を河端隆志助教授がやっと理解したということである。
要するに、サッカーのキックとは、”走り”の延長にあり、「走る動作」の中で足をボールにぶつけるに過ぎないということなのである。それゆえ、軸足から蹴足にすぐに体重移動が自然に行なわれ、2軸運動が自然に行なわれるわけである。
ついでに言えば、日本人選手がもっとも”苦手”とするのが、アウトサイドキックである。このキックの場合も日本人選手は、止まってアウトサイドで蹴ろうとするから、俗に言う、”引っ掛けるキック(ボールがスピンする、野球のチップボールのような蹴り方)”となってしまう。これも、走り抜けるように軸足から蹴足に体重移動させてアウトサイドで蹴れば、実に自然なキックとなる。本当に欧米人のサッカー選手はこれが上手い。
昔は日本人選手は「がに股」だったために中々アウトサイドキックが上手くできなかったということがあったが、机と椅子生活に変わり今や「がに股」はほとんどいなくなった現在でもなかなかアウトサイドキックがうまくできないのはやはり指導者の側に原因があると言える。
したがって、私は、「走り抜けるように蹴る」というサッカーの極意をマスターするには、アウトサイドキックを完璧にマスターするのがもっとも近道であると考えてきている。それゆえ、もちろん、阿南高専のサッカー部の選手にもこれを指導してきたが、なかなかこれができない。実に不思議である。やはり、小学生時代に”きちんと”このアウトサイドキックを教え込まないと成人してもできないのだろうと思う。
昔は日本人選手は「がに股」だったために中々アウトサイドキックが上手くできなかったということがあったが、机と椅子生活に変わり今や「がに股」はほとんどいなくなった現在でもなかなかアウトサイドキックがうまくできないのはやはり指導者の側に原因があると言える。
したがって、私は、「走り抜けるように蹴る」というサッカーの極意をマスターするには、アウトサイドキックを完璧にマスターするのがもっとも近道であると考えてきている。それゆえ、もちろん、阿南高専のサッカー部の選手にもこれを指導してきたが、なかなかこれができない。実に不思議である。やはり、小学生時代に”きちんと”このアウトサイドキックを教え込まないと成人してもできないのだろうと思う。
参考までに以下のホームページを紹介しておこう。
football coaching
football coaching
[ 16:36 ]
[ サッカー ]
八千代、丸岡など8強出そろう 全国高校サッカー
前回覇者の野洲高校が、八千代高校と対戦し4一1で早くも敗退。
今大会は、「PK戦」がその特徴である。この八千代が初戦で優勝候補国見をPK戦で退け、その次もPK戦で勝利したというように、あまりに「PK戦勝ち」が多い。
サッカーというスポーツは初戦がもっとも難しいと考えられているが、その最初にいきなり「延長なしのPK戦」というのは、困ったものである。またさらに、初戦で優勝候補どうしが当たるというくじ引きというのも困ったものである。
したがって、今大会は、初戦でいきなり優勝候補どうしが対戦、そしてPK戦で勝負がつくというのがかなりあった。これでは、サッカーファンからすれば、実に残念と言えるだろう。
「いきなりのPK戦」というのは、前後半40分ハーフのために、15分ハーフの延長戦を行なうというのは、サッカー選手に大きな負担を強いるため、それを避けたいというのがその本来の目的であったのであろう。がしかし、今大会やここ最近の試合を見る限り、これが”裏目”に出ている気がする。
というのは、延長戦がなければ、やはり弱い方のチームにとって、PK戦に持ち込めばかなり勝ち目が出る、ということになるからである。「いきなりのPK戦」方式は”弱者有利”なのである。
サッカーというのは面白いもので、疲れてくると、おのずとその真の実力が出てきてだいたい実力通りの結果になるのである。しかし、延長戦がなければ”ギャンブル”に変わる。弱くても何とか引き分けに持ち込めば五分五分の勝利の確率に持ち込めるからである。
逆に、10分ハーフ、あるいは15分ハーフの延長戦があれば、延長戦の連戦を行なえば相当に消耗するので、選手たちには時間内で勝つという大きなモチベーションが現れるはずである。
この点で高校サッカーは大きな”転換期”に来ているのかも知れない。
昨年秋、スペインにサッカー留学をした知人から聞いた話では、欧州のサッカーは、小学校レベルから全く大人と同じ時間45分ハーフ、15分ハーフの延長戦という手加減無しで組まれているという。それは、少年の頃から大人の時間感覚や基礎体力を身につけさせるためである、というのである。どうやら、小学生は25分ハーフ、中学生は30分ハーフ、高校生は40分ハーフと区分されているのは日本だけらしい。
日本のやり方にも一利あり、何ごとも一長一短だろうが、もし日本サッカーは「走るサッカー」を目指すのであれば、試合時間だけでも正規の時間で行なうようにすべきなのかも知れない。
それにしても、サッカーでは稀にしかないPK戦ばかりがうまくなっても国際試合では勝つ事はできないだろう。
前回覇者の野洲高校が、八千代高校と対戦し4一1で早くも敗退。
今大会は、「PK戦」がその特徴である。この八千代が初戦で優勝候補国見をPK戦で退け、その次もPK戦で勝利したというように、あまりに「PK戦勝ち」が多い。
サッカーというスポーツは初戦がもっとも難しいと考えられているが、その最初にいきなり「延長なしのPK戦」というのは、困ったものである。またさらに、初戦で優勝候補どうしが当たるというくじ引きというのも困ったものである。
したがって、今大会は、初戦でいきなり優勝候補どうしが対戦、そしてPK戦で勝負がつくというのがかなりあった。これでは、サッカーファンからすれば、実に残念と言えるだろう。
「いきなりのPK戦」というのは、前後半40分ハーフのために、15分ハーフの延長戦を行なうというのは、サッカー選手に大きな負担を強いるため、それを避けたいというのがその本来の目的であったのであろう。がしかし、今大会やここ最近の試合を見る限り、これが”裏目”に出ている気がする。
というのは、延長戦がなければ、やはり弱い方のチームにとって、PK戦に持ち込めばかなり勝ち目が出る、ということになるからである。「いきなりのPK戦」方式は”弱者有利”なのである。
サッカーというのは面白いもので、疲れてくると、おのずとその真の実力が出てきてだいたい実力通りの結果になるのである。しかし、延長戦がなければ”ギャンブル”に変わる。弱くても何とか引き分けに持ち込めば五分五分の勝利の確率に持ち込めるからである。
逆に、10分ハーフ、あるいは15分ハーフの延長戦があれば、延長戦の連戦を行なえば相当に消耗するので、選手たちには時間内で勝つという大きなモチベーションが現れるはずである。
この点で高校サッカーは大きな”転換期”に来ているのかも知れない。
昨年秋、スペインにサッカー留学をした知人から聞いた話では、欧州のサッカーは、小学校レベルから全く大人と同じ時間45分ハーフ、15分ハーフの延長戦という手加減無しで組まれているという。それは、少年の頃から大人の時間感覚や基礎体力を身につけさせるためである、というのである。どうやら、小学生は25分ハーフ、中学生は30分ハーフ、高校生は40分ハーフと区分されているのは日本だけらしい。
日本のやり方にも一利あり、何ごとも一長一短だろうが、もし日本サッカーは「走るサッカー」を目指すのであれば、試合時間だけでも正規の時間で行なうようにすべきなのかも知れない。
それにしても、サッカーでは稀にしかないPK戦ばかりがうまくなっても国際試合では勝つ事はできないだろう。
2007/01/03のBlog
[ 18:44 ]
[ 健康・医学 ]
てんかん薬、パーキンソン病にも効果 日本人医師ら研究
新年早々、これは朗報。
てんかん治療薬「ゾニサミド」が、パーキンソン病にも効果があり、どうやらドーパミンの生成に関与しているというニュース。
今後の研究を期待したい。
新年早々、これは朗報。
てんかん治療薬「ゾニサミド」が、パーキンソン病にも効果があり、どうやらドーパミンの生成に関与しているというニュース。
今後の研究を期待したい。
[ 11:04 ]
[ 管理人から ]
明けましておめでとうございます。本年もよろしく。
昨年はいろんな経験ができました。主なものは以下の通り。
トリノ・オリンピックテレビ観戦(2月)。
阿南高専サッカー部のT3リーグ後期優勝、T2リーグ昇格(1月一3月)。
阿南高専サッカー部の四国放送杯参加、1年半のコーチ業終了(3月)。
「ボブスレー工学研究会」発足参加(6月)。
ワールドカップ・ドイツ大会全試合テレビ観戦(6月一7月)。
Def Techコンサート(7月)。
神戸大学講演(7月)。
「太陽の会」サンタクロース役(12月)。
「全日本ボブスレー強化合宿」参加。4人乗りボブスレー試乗(12月)。
果たして今年はどんな経験が得られるでしょうか?
皆さんのご健康とご幸福を心よりお祈りいたします。
昨年はいろんな経験ができました。主なものは以下の通り。
トリノ・オリンピックテレビ観戦(2月)。
阿南高専サッカー部のT3リーグ後期優勝、T2リーグ昇格(1月一3月)。
阿南高専サッカー部の四国放送杯参加、1年半のコーチ業終了(3月)。
「ボブスレー工学研究会」発足参加(6月)。
ワールドカップ・ドイツ大会全試合テレビ観戦(6月一7月)。
Def Techコンサート(7月)。
神戸大学講演(7月)。
「太陽の会」サンタクロース役(12月)。
「全日本ボブスレー強化合宿」参加。4人乗りボブスレー試乗(12月)。
果たして今年はどんな経験が得られるでしょうか?
皆さんのご健康とご幸福を心よりお祈りいたします。
2006/12/24のBlog
[ 17:30 ]
[ 科学ニュース ]
メリークリスマス! 良いクリスマスを!
ハッピーニューイヤー。良いお年を。
今年はこれが最後の記事。
写真:エルニーニョ現象(上)とラニーニャ現象(下)
異常気象の”原因”と考えられているエルニーニョ現象は、アメリカ側の大平洋の海水温度の異常上昇のこと。この時ガラパゴス島の海イグアナが食物を失い瀕死となる(ガラパゴス島のイグアナ達参照)。
一方、ラニーニャ現象とは、大平洋の日本海側の海水温度が異常上昇すること。この時には、黒潮の蛇行や台風の異常発生などの天変地異が起こる。2年前の台風シーズンは、これが原因ではないかと考えられている(台風10、11号--今年の台風の不思議 )。
ハッピーニューイヤー。良いお年を。
今年はこれが最後の記事。
写真:エルニーニョ現象(上)とラニーニャ現象(下)
異常気象の”原因”と考えられているエルニーニョ現象は、アメリカ側の大平洋の海水温度の異常上昇のこと。この時ガラパゴス島の海イグアナが食物を失い瀕死となる(ガラパゴス島のイグアナ達参照)。
一方、ラニーニャ現象とは、大平洋の日本海側の海水温度が異常上昇すること。この時には、黒潮の蛇行や台風の異常発生などの天変地異が起こる。2年前の台風シーズンは、これが原因ではないかと考えられている(台風10、11号--今年の台風の不思議 )。
写真:体長1m体重4kgの新種の伊勢海老
これは小笠原諸島で発見されたものに非常に似ている(最近話題になった生物 )。まったく違う国々に同じような体重4kgの新種の伊勢海老がいるというのは摩訶不思議な出来事である。
これは小笠原諸島で発見されたものに非常に似ている(最近話題になった生物 )。まったく違う国々に同じような体重4kgの新種の伊勢海老がいるというのは摩訶不思議な出来事である。
写真:外来ねずみ
外来種が島や湖水などに進出すると、旧世界の生態系が破壊される。ある種のねずみが猛繁殖し、島の鳥が絶滅の危機に陥りつつあるという例。
日本の琵琶湖でもブラックバスにより在来種が絶滅の危機にある。同様に、東京都内や日本全土に生息する外来種の人間(外人)のせいで在来種である日本人の生態系も見事に崩れつつある。アメリカの場合も在来種であるインディアンは、外来種であるヨーロッパ人に駆逐されてしまった。
どういうわけか、外来種は在来種より強い。また、異常な繁殖力がある。これはいったいなぜか。実に不思議なことである。
自然の生態系のみならず、人間界でも同じことが起こっている。ブラックバスのことを心配しているうちにその心配する人間すら駆逐されてしまうのかも知れない。
外来種が島や湖水などに進出すると、旧世界の生態系が破壊される。ある種のねずみが猛繁殖し、島の鳥が絶滅の危機に陥りつつあるという例。
日本の琵琶湖でもブラックバスにより在来種が絶滅の危機にある。同様に、東京都内や日本全土に生息する外来種の人間(外人)のせいで在来種である日本人の生態系も見事に崩れつつある。アメリカの場合も在来種であるインディアンは、外来種であるヨーロッパ人に駆逐されてしまった。
どういうわけか、外来種は在来種より強い。また、異常な繁殖力がある。これはいったいなぜか。実に不思議なことである。
自然の生態系のみならず、人間界でも同じことが起こっている。ブラックバスのことを心配しているうちにその心配する人間すら駆逐されてしまうのかも知れない。
[ 11:14 ]
[ 大学・大学院 ]
[ ありんこ ] さんが興味深くかつ長いコメントをつけてくれたので、こっちに返答しておこう。一応、以下に編集し直したものを置き、その後に返答することにしよう。ありんこさんへの御参考になれば幸いである。
[ ありんこ ] [2006/12/24 07:45]
興味深いトピックですね。
今は世間が「科学万能の時代」から脱却しているのではないかと思います。実際は恩恵をこうむっているのですが。子供がなりたいものに「野球選手」「ケーキ屋さん」を挙げるところを見ると、その程度はともかく、自分の能力・個性を見せられる仕事に惹かれるのでしょう。TVでも、科学者が主人公のドラマはこの頃あったでしょうか?
また、実用性を求めているような気もします。見てわかりやすいもの。野球選手はそのプレーで自分を頻繁に見せられますが、科学者は地味で、縁の下の力持ちです。
また、基礎的ではあるが、実用性がよくわからぬ研究もあるでしょう。
高校ぐらいになると、いまだに女子は理系に向かない、という態度をとる高校教師がゴロゴロしてます。また、詰め込みで公式を使って、与えられた問題は解けても、わくわくすることもなく、自分でなぜ?と追求する時間もありません。必須の世界史が履修されていなかったことでもわかる通り。受験戦争に勝たねば、なのです。ビリで入っても、入学なのに、他人よりいい成績を取れば必ず入れる・・・。
大学になると、ゼミで、教官を見て、「恣意的に難しそうな人だ」と思えば、わざわざ育英会の借金までして、科学をやろうと思わないでしょう。しかも、昨今、研究は巨額の費用がかかり、プロジェクトに属さねばならない。 そこで求められるのは、よく言えば、コミュニケーション能力、悪く言えば、教授へのごますり能力がなくては、地獄でしょう。そんなにしても教授に嫌われれば、他大学の大学院の受けようと思う、しかし、教授の推薦状がいるのです!
大学院に行かなくても企業で研究はできないか?よくわかりません。大学での勉学を重視しない企業も多いですし。また、就職協定がなくなって、就職活動を始めるのが早いほど、就職しやすいのではないか、と思えば、大学で学部生として、真面目に研究するより、適当に学生生活を「通過儀礼」としてすごしコミュニケーション能力をつけた方がましでしょう。仕事がなければ、フリーターやニートになる恐怖があるのですから。大卒で就職できねば、ワーキングプアになるのですから。
社会の構造がますますゆとりを許さなくなってきています。能率を上げるには「二世」研究者が手っ取り早いのでしょう。
独断と偏見に満ちていますが、私は今のところ、こう理解しています
それと、私はこういう風潮は嫌ですが、時代の波があるのだろうと思います。
BLOGとかで、大学院の醜い実態を記したのが時にありますが、生き延びる知恵を記したのがでてくる(または出ている)ことと思います。Quasimotoさんは、アメリカ留学で生き延びなさったのでしょうが、今もアメリカが有効か、知りたいところです。
------------------------------------------------------------------
まあ、コメントを要約すれば、以下のようなものだろう。
(1)「TVでも、科学者が主人公のドラマはあったか?」
(2)「実用性の時代となった」
(3)「受験戦争の弊害」
(4)「大学大学院教育の問題」
(5)「大学院に行かなくても企業で研究はできないか?」
(6)「社会の構造がますますゆとりを許さない」
(7)「時代の波がある」
(8)「今もアメリカが有効か」
まず、私のこのエッセイは、あくまで私個人のための「スケッチ」のようなも
[ ありんこ ] [2006/12/24 07:45]
興味深いトピックですね。
今は世間が「科学万能の時代」から脱却しているのではないかと思います。実際は恩恵をこうむっているのですが。子供がなりたいものに「野球選手」「ケーキ屋さん」を挙げるところを見ると、その程度はともかく、自分の能力・個性を見せられる仕事に惹かれるのでしょう。TVでも、科学者が主人公のドラマはこの頃あったでしょうか?
また、実用性を求めているような気もします。見てわかりやすいもの。野球選手はそのプレーで自分を頻繁に見せられますが、科学者は地味で、縁の下の力持ちです。
また、基礎的ではあるが、実用性がよくわからぬ研究もあるでしょう。
高校ぐらいになると、いまだに女子は理系に向かない、という態度をとる高校教師がゴロゴロしてます。また、詰め込みで公式を使って、与えられた問題は解けても、わくわくすることもなく、自分でなぜ?と追求する時間もありません。必須の世界史が履修されていなかったことでもわかる通り。受験戦争に勝たねば、なのです。ビリで入っても、入学なのに、他人よりいい成績を取れば必ず入れる・・・。
大学になると、ゼミで、教官を見て、「恣意的に難しそうな人だ」と思えば、わざわざ育英会の借金までして、科学をやろうと思わないでしょう。しかも、昨今、研究は巨額の費用がかかり、プロジェクトに属さねばならない。 そこで求められるのは、よく言えば、コミュニケーション能力、悪く言えば、教授へのごますり能力がなくては、地獄でしょう。そんなにしても教授に嫌われれば、他大学の大学院の受けようと思う、しかし、教授の推薦状がいるのです!
大学院に行かなくても企業で研究はできないか?よくわかりません。大学での勉学を重視しない企業も多いですし。また、就職協定がなくなって、就職活動を始めるのが早いほど、就職しやすいのではないか、と思えば、大学で学部生として、真面目に研究するより、適当に学生生活を「通過儀礼」としてすごしコミュニケーション能力をつけた方がましでしょう。仕事がなければ、フリーターやニートになる恐怖があるのですから。大卒で就職できねば、ワーキングプアになるのですから。
社会の構造がますますゆとりを許さなくなってきています。能率を上げるには「二世」研究者が手っ取り早いのでしょう。
独断と偏見に満ちていますが、私は今のところ、こう理解しています
それと、私はこういう風潮は嫌ですが、時代の波があるのだろうと思います。
BLOGとかで、大学院の醜い実態を記したのが時にありますが、生き延びる知恵を記したのがでてくる(または出ている)ことと思います。Quasimotoさんは、アメリカ留学で生き延びなさったのでしょうが、今もアメリカが有効か、知りたいところです。
------------------------------------------------------------------
まあ、コメントを要約すれば、以下のようなものだろう。
(1)「TVでも、科学者が主人公のドラマはあったか?」
(2)「実用性の時代となった」
(3)「受験戦争の弊害」
(4)「大学大学院教育の問題」
(5)「大学院に行かなくても企業で研究はできないか?」
(6)「社会の構造がますますゆとりを許さない」
(7)「時代の波がある」
(8)「今もアメリカが有効か」
まず、私のこのエッセイは、あくまで私個人のための「スケッチ」のようなも