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2008/05/30のBlog
米沢貞次郎氏死去京都大名誉教授

ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士の門下生、米沢貞次郎博士が死去した。享年84歳。

「量子化学と言えば、赤の米沢の教科書」と言われたほど、「量子化学入門(上下)」は有名である。表紙が真っ赤で結構分厚い教科書ながら、懇切丁寧に一から最先端までをまとめた量子化学のすぐれた教科書である。さらには、演習問題をまとめた「量子化学演習」も実に有名で(今やアマゾンでは15000円もする)、これら3冊を勉強すれば、ほぼ完璧に量子化学の神髄を理解することが出来た。この意味で日本の多くの化学者がこれらのお世話になったはずである。

私自身も「DNAの電子論」の論文を書く時に、”量子化学のいろは”を全く知らなかったために、一時バイブルのように持ち歩いて勉強したものである。特に「π電子系」のπ電子の数を計算するのにこの本は実に役立った。それもそのはず、福井謙一先生の開発した「フロンティア電子軌道」のもっとも良い応用の場所が有機物のπ電子系だったからで、まさに最先端を切り開いた経験が教科書と言う形でまとめられているからである。

これらの本は時代の進展に合わせて何回か改定されたが、その昔神田の古本屋で買った初版が一番分かりやすかったように記憶している。その後の改訂版は、だんだんコンピュータによる大規模計算時代に合わせて来たために、徐々に初期の「π電子系のフロンティア電子軌道」よりも「フル電子計算」に重きを置かれるように変わってきたからである。この意味でも、初版は「名著の中の名著」と言っても過言ではない。

こういった本をまとめた人々が福井謙一門下生たちであった。特に、米沢貞次郎博士、永田親義博士、加藤博史博士らである。

私が米沢博士の顔を知ったのは、NHKの「ノーベル賞の発想」という番組でである。故福井謙一博士の話題の際に米沢博士が登場した。実直で実に「”古き良き京大”の精神」に満ち充ちた感じの人物であった。朝永振一郎博士や湯川秀樹博士たちと何か通じるものが垣間見えた。

この、福井謙一門下生の米沢博士らが切り開き、体系付けた量子化学の分野はその後、アメリカの物性理論学者のコーン一シャム理論やポープル理論などとうまく融合してスーパーコンピュータ計算の時代へと突き進む。そして最近では、それに匹敵するものがパソコンレベルでもできる時代となってきた。こういう進歩に対してコーン博士とポープル博士は1998年にノーベル化学賞を受賞した。

そして現在では、遠く1950年前後から1960年代の福井謙一博士の時代に発展した方法からさらに最近のコンピュータやプログラムの発展に伴って、DNAや蛋白質などの電子状態もかなり現実に即して行えるようになってきたというわけである。

比較的最近の本に米沢貞次郎博士と永田親義博士の「ノーベル賞の周辺」(1999)というものがある。この本には米沢貞次郎博士が育った京都大学の自由な精神の学風がいかに誕生したかが見事にまとめられている。

ちなみに、1996年ごろ、私は自分のDNA2重鎖の電子論モデルをどう思うかと永田親義博士に送って以来、永田親義博士とは毎年年賀状のやり取りをしている。永田親義博士は、π電子論を使って「発ガンの電子論」を打ち立てた化学者である。

今や福井謙一博士の学風を身に付けている人々も高齢になり数少なくなってきている。福井博士のみならず門下生の方々にも光があたることを心から期待したい。

御冥福を心より祈りたい。
2008/05/28のBlog
[ 09:59 ] [ テクノロジー ]
外資パソコンメーカー、低価格ノートPC相次ぎ発売

最近、”外国製パソコン”の大安売りが続いている。我々貧乏人にとっては安いパソコンは大変ありがたい。性能も結構優れていて、私が使っている98年製Macよりはるかに性能がいい。たいていはインテルインサイドのパソコンで、ギガヘルツのクロック、100ギガバイト以上のハードディスクなどが付いている。が、しかしこういうものと競争する国内のパソコンメーカーには結構大変だろう。

しかし、どうしてこういうことが可能なのだろうか?

80年代にこういう状況がアメリカで生じた。アメリカにとって”外国製パソコン”であった日本製パソコンがアメリカ製よりずっと安く販売されたのである。そうして日本のメーカーは販売実績を増やして行ったのだが、すぐに「ダンピング」扱いされて「ダンピング税」などを課されたのではなかったかと記憶している。

この観点からすれば、あまりに安すぎるパソコンがある、「携帯電話」とほぼ同じような値段のパソコンがある、というのはあまりに変である。こういう背景には「ダンピング」の疑いが起こるはずなのだ。

というのも、そういう安価な製品は中国人(特に中国人少女や女性)の過酷な労働に基づいて行われているからである。1日14時間労働で月数千円の給料というような過酷労働が待っているはずである。日本のマクドナルドのようなものだ。

(以前、アメリカ人の”下らん祭り”のためのビーズを作るために、過酷な労働に強いられている中国人女性たちを取り上げた番組があった。意中の女性にビーズのネックレスをやるとその女性はお返しにおっぱいを見せるとかなんとか)

こういう問題に関して、どうも日本政府はのんびりしているようである。まあ、「おとぼけ首相」の福田内閣だからしょうがないが。

ところで、私個人としては、使い慣れたパソコンをそっくりそのままバージョンアップして、いつも最高性能にしてくれるというようなテクノロジーを開発してもらいたいものだ。マザーボードやハードディスクやソフトさえバージョンアップできれば、そのまま使えるのだから、その方が地球に優しいはずだからである。

バージョンアップすれば、それに繋ぐプリンターから既存ソフトから全部すっかり取り替えなくてはならないとしたら、いくらパソコン自体が安くても結局すべて揃えたら高額パソコンを買うのと同じになってしまうからである。

”HTML”というインターネット技術の本来の発想は、どんなパソコンでも閲覧できる、どんなパソコンにも転送できる、というようなことであったはずである。そのソフトを入れたらどんなパソコンどうしでもデータのやり取りができるのが本来の目的であった。そうやって生まれたものがインターネット技術であった。

また、まだマイクロソフトが超大企業になっていなかった80年代初期、マイクロソフトのソフトは新興パソコンメーカーのMac用としてよく利用された。その頃のマイクロソフトの製品は、バージョンアップしても旧いバージョンでも使えたものだ。つまり、ソフトはバージョンフリーだった。だから我々利用者は非常に有り難がった。私がユタ大学に留学した80年代後半もまだそうした空気がマイクロソフトの製品には残っていた。

しかし、いつしかそういう伝統は消え去り、バージョンアップの度にパソコンもソフトもいっしょにバージョンアップしなくてはならなくなった。もちろん、パソコンの性能が格段に進歩すれば、非常に重いソフトも動くようになるから旧いパソコンでは処理しきれなくなるのは当然である。しかし、利用者の経済状況を考えれば、だれもがOA製品をいつでも刷新できるとは限らない。だから、利用者の利便を考えれば、最初の発想は大事だと私は感じている。

もう一度こういう初期の発想に基づいて、パソコン作りをして欲しいものだ。

おそらく、”携帯電話のような発想”のパソコンが必要なのだろうが、”携帯電話のように使い捨て”られてしまうというのも困る。

いやはや、困ったものである。

今の時代、携帯電話やパソコン製品の内部に潜んでいる”金(ゴールド)”集めでもする方が賢い”金儲け”なのかもしれない。
2008/05/26のBlog
フリーアナウンサー川田亜子さんが自殺

オーマイゴッド! 
あーあ、これでまた1人私好みの知的な日本人美人がいなくなってしまった。

この美女を自殺へ追い込んだ奴はだれか?

日本の警察は、この事件を立派な他殺事件とみて徹底的に捜査すべきだろう。

私が調べた程度でも、意図的にこの女性を失墜させようとした連中がいるようだ。この意味では、一種の「無差別テロ」である。

例えば、以下のようなものがあったが、こういったものを「どういう連中が何の意図を持って行っているのか」、徹底的に追求すべきだろう。

女子アナ情報 川田亜子が掟破りでTBSに出入り禁止!?
人気アナ川田亜子の下半身事情!!

いずれにせよ、だれがだれとセックスしようがそんなこたあ本人の自由だ。他人がとやかくいうことはない。プライバシーの保護は憲法で保証されている基本的人権の1つである。

要は、こういった一見衝撃的記事でブログに釣って小金を儲けようというおばかな連中が後を絶たないようだ。こういう連中の金玉を去勢するのが一番だな。まあ、コカ・コーラを1年中飲ませ、コカ・コーラ漬けにすればそれも足りるがナ。

それにしても、TBSは悪いなー!

御冥福を祈りたい。
第63回NHK杯徳島県中学サッカー選手権決勝が25日に鳴門球技場で行われた。
ダークホースの池田が、優勝候補の井川中に3一1で逆転勝ちし初優勝を果たした。

【決勝】25日(日)鳴門球技場

池田3一1(1一1;2一0)井川

【得点者】
【池田】山田、安藤優、森本 【井川】大西

【池田】3一4一3
GK 宮崎 
DF 柿本 清水 安藤大
MF 立石 安宅 田岡 伊原
FW 森本 安藤優 山田

【井川】3一5一2
GK 西村 
DF 能倉 大浦 佐々木
MF 平岡 大柿 井上 大西 石山
FW 三浦 高島


【準決勝】24日(土)鳴門球技場

井川1一1(1一1;0一0;延長0一0;0一0;PK5一3)城西
【得点者】
【井川】三浦 【城西】島

池田2一0(1一0;1一0)鴨島一
【得点者】
【池田】安宅、安藤優


我が息子(次男)の所属する阿南中学は、この前の大会、第3回川端杯1回戦でこの池田と対戦、2一2のPK戦で大方の予想に反して勝利した。しかし続く次の試合ではリベリモに負けた。そういうクラブチームも負け、この大会は井川中が優勝した。このように、ここ最近は井川中が県内の有名クラブチームをも倒して優勝の常連チームとなっていた。

私がこれまで観察してきた範囲で池田中は最近非常に好チームになっていたので、かなり上位に食い込むだろうと見ていたが、井川中に勝利するというのは非常に素晴らしい快挙と言えるだろう。阿南FC、徳島ヴォルティスユースなどでもなかなか勝てなかったからである。

数年前私が阿南高専を指導していた頃の池田高校はT2レベルで、それほど強くなかった。しかし下の中学レベルが上がれば、おのずとその上の高校レベルも上がるはずである。高校入試では優秀選手が特待生やスポーツ推薦で有名強豪校から引き抜かれてしまうのが最近に風潮だが、それに抗して努力すれば池田高校も甲子園だけでなく国立競技場に行けるという日も夢物語ではないだろう。

今後の活躍を期待したい。
2008/05/25のBlog
2008年度県高校総体サッカーが、24日から徳島スポーツビレッジ(人工芝)で開幕。

【1回戦】5月25日(日)徳島スポーツビレッジ(人工芝)他
城東(T3)2一1徳島文理(T3)
徳島北(T1)3一1鳴門工(T2)
池田(T2)6一0阿南工業(T3)
川島(T1)8一0脇町(T3)
辻(T2)3一0板野(T3)
徳島商(プリンス)8一0貞光工(T3)
城之内(T1)5一0海部(T3)

【1回戦】5月24日(土)徳島スポーツビレッジ(人工芝)
城南(T1)2一0生光学園(T3)
城西(T3)2一0阿南高専(T3)
富岡東(T1)7一0鴨島商(T1)
徳島工(T2)17一1名西(T3)
徳島東工(T2)4一1富岡西(T2)
城北(T2)4一0穴吹(T3)
阿波(T1)6一1小松島(T2)

鳴門一一一一一一┐ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー8┏━━徳島商
ーーーーーーーー|ーーーーーーーーーーーーーーーーー┌━━┛
城南━━━┓2ー├一一┐ーーーーーーーーーーーーーー│ー0└──貞光工
ーーーーー┗━━┘ーー|ーーーーーーーーーーー┌──┤
生光学園一┘0ーーーー│ーーーーーーーーーーー│ーー│ー3┏━━徳島北
ーーーーーーーーーーー│ーーーーーーーーーーー│ーー└━━┛ 
阿南高専一┐0ーーーー├──┐ーーーーーーーー│ーーーー1└──鳴門工
ーーーーー┏━━┐ーー│ーー│ーーーーー┌──┤
城西━━━┛2ー|ーー│ーー│ーーーーー│ーー│ーーーー0┌一一板野
ーーーーーーーー├──┘ーー│ーーーーー│ーー│ーー┌━━┓
鴨島商一一┐0ー|ーーーーー│ーーーーー│ーー│ーー│ー3┗━━辻
ーーーーー┏━━┘ーーーーー|ーーーーー│ーー└──┤
富岡東━━┛7ーーーーーーー|ーーーーー│ーーーーー|ー0┌一一脇町
ーーーーーーーーーーーーーー|ーーーーー│ーーーーー└━━┓
城北━━━┓4ーーーーーーー├─────┤ーーーーーーー8┗━━川島
ーーーーー┗━━┐ーーーーー│ーーーーー│
穴吹一一一┘0ー│ーーーーー│ーーーーー│ーーーーーーー5┏━━城ノ内
ーーーーーーーー├──┐ーー│ーーーーー│ーーーーー┌━━┛
名西一一一┐1ー│ーー│ーー│ーーーーー│ーーーーー│ー0└一一海部
ーーーーー┏━━┘ーー│ーー│ーーーーー│ーー┌──│
徳島工一━┛17ーーー│ーー│ーーーーー│ーー│ーー│ー1┌──徳島文理
ーーーーーーーーーーー├──┘ーーーーー│ーー│ーー└━━┓
徳島東工━┓4ーーーー│ーーーーーーーー└──┤ーーーー2┗━━城東
ーーーーー┗━━┐ーー│ーーーーーーーーーーー│
富岡西一一┘1ー│ーー│ーーーーーーーーーーー│ーーーー0┌──阿南工
ーーーーーーーー├──┘ーーーーーーーーーーー│ーー┌━━┓
小松島一一┐1ー│ーーーーーーーーーーーーーー└──┤ー6┗━━池田
ーーーーー┏━━┘ーーーーーーーーーーーーーーーーー│
阿波━━━┛6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー└─────徳島市立
2008/05/22のBlog
W・ラム氏死去ノーベル賞受賞の米物理学者

理論物理学者ウィリス・ラム博士(ノーベル賞受賞の米物理学者)が、15日、胆石が原因の病気のため、米アリゾナ州トゥーソンの病院で死去。享年94歳。

Willis Eugene Lamb
Nobel Lecture, December 12, 1955 "Fine Structure of the Hydrogen Atom"

「ラム博士と言えばラムシフト」、「ラムシフトと言えばラム博士」というほど、「ラムシフト」が有名である。

1947年にウィリス・ラム博士とロバート・ラザフォード博士が、超短波による核磁気共鳴実験によって水素原子の2s、2p軌道の電子のエネルギー準位にごく僅かに差があることを発見した。この微少な差のことを「ラムシフト」と呼ぶようになった。

この微少なずれをいかに説明するか、ということにより、理論物理学は大きく発展する。朝永振一郎、リチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガー、フリーマン・ダイソンなどによる「量子電磁力学」が発展し「繰り込み理論」により、見事にラムシフトの定量的説明が行われたというわけだ。

素粒子と電磁場の間に相互作用があると、素粒子が電磁場に影響を与え、その電磁場が今度は元の素粒子に影響を与え、その結果として素粒子自身が自分自身に影響を与えるように見える。これを「自己エネルギー」というが、そのせいで相互作用のない時の素粒子の質量(裸の質量)よりすこしだけ質量が増したように見える(実際の質量)。なぜならアインシュタインの相対性理論の「エネルギー=質量×光速度の2乗」という関係があるからだ。この自己エネルギーの効果により、原子のエネルギー順位が非常にわずかだがずれるというわけだ。

ところが、この自己エネルギーを計算しようとすると、微少なはずのずれがどうしても無限大になってしまう。この矛盾をどう解決すればよいか、ということで量子電磁気学が発展したのである。

朝永振一郎博士の言葉で言えば、日本ではよくおばあさんが部屋の塵やほこりをじゅうたんの下や段ボールに下に掃き寄せて隠すことがあるが、これと同じで(計算すれば)無限大の量であったとしてもその辺は”適当に考えて”(物理的直感に基づいて)「えいやー、と繰り込んでしまえ」という発想で、なんだか良く分からない理由により、ずれの部分も有限の小さな数値になると仮定して理論を作ってしまえば、すべてがうまくつじつまがあう(自己どう着になる)。こうして一応はきちんとした数値を出してラムシフトを説明できたというわけだ。

この量子電磁気学の完成により、朝永振一郎、リチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガーの3人は、ノーベル物理学賞を受賞した。日本では「ダイソンは大損した」というジョークがある。

ひとたびもっともらしい結果が出せる理論体系がつくり出されると、今度はそれはいろんな分野に使われるようになる。量子電磁気学の理論体系は、非相対論的粒子(光速度よりずっと遅い速度の粒子)へ応用され、「場の量子論」となり、物性物理学の基礎理論となった。これにより、半導体理論や液晶理論などさまざまな分野が花開いたのである。

方や、高エネルギー分野へも飛び火し、「ゲージ場の理論」、「ワインバーグ-サラム理論」などさまざまな分野へと波及して、ついには「ひも理論」や「超ひも理論」、「ブレーン理論」などまで数学形式は発展した。しかし、かつてのラムシフトの時のように実験現象と比較するということができずに逆に困った状態となってしまっているというのが現状である。

いずれにせよ、実に地味な業績なのだが、それが大きな後々の発展に繋がった稀な例と言えるだろう。

ちなみにラム博士の先生は「原爆の父」として有名なかのロバート・オッペンハイマー博士であった。手塚治虫のまんがのモデルにもなった有名な博士である。が、この師は第二次世界大戦後のマッカーシー旋風の「赤狩り(レッドパージ)」にさらされ、ノーベル賞の呼び声も高かったがそれは実現せず、弟子たちの方が先にノーベル賞をいただいてしまったという皮肉な歴史が残っている。

御冥福を祈りたい。
2008/05/21のBlog
第63回NHK杯徳島県中学サッカー選手権準々決勝
が18日に藍住東中グラウンドで行われた。
優勝候補の井川中が順当に勝ち上がった。

【準々決勝】18日(日)
城西1一0(0一0;1一0)鳴門ニ
井川2一0(1一0;1一0)藍住東
池田1一0(1一0;0一0)南部
鴨島一2一1(1一1;1一0)北島
2008/05/20のBlog
写真:若き日のギュンター・ネッツァー


「書楽」のサッカー棚をあさっているうちに1つ面白い本が目に止まった。それはドイツサッカーの歴史を描いた本であった。題名は忘れたが、この本の主要な部分は読んで記憶した。

旧西ドイツの時代、”皇帝(カイザー)”と称されたフランツ・べッケンバウワー率いる西ドイツとトータルサッカーの革命児”空飛ぶオランダ人”と呼ばれたヨハン・クライフ率いるオランダが初めて戦った時があった。西ドイツをホームとして開かれた1974年のサッカーワールドカップ西ドイツ大会の決勝戦であった。

「トータルサッカー」の”生みの親”であるアヤックスのリヌス・ミケルス監督(「トータル・サッカー生みの親、ミケルスさん死去」)とその”申し子”でアヤックスでチャンピオンズカップ(今のチャンピオンズリーグにあたる)3連覇中のヨハン・クライフの当時最強と謳われたオランダ代表と「コンチネンタルサッカー」の代表格で長らく欧州最強であった西ドイツの対戦であった。西ドイツの監督はシェーン監督。

オランダはそれまでまだたいした成績がなく、ダークホース的存在であった。しかし、本戦を危な気なく勝ち進み、とうとう決勝戦で強豪西ドイツと対戦することとなったのである(例えば、1974年・第10回西ドイツ大会)。

私は当時まだ高校生でサッカー選手のまっただ中にいたので、この試合を生中継でテレビで見たことを良く憶えている。またそれ以後何度もくり返し放映されてきたので、この試合は特に印象に残っている。

結果は、”予想外”にあっさりオランダが開始1分でPKで得点。しかし西ドイツも25分に同じようにPKで同点。そして前半終了時にゲルト・ミュラーの有名な”180度反転シュート”で勝ち越す。後半はともに決め手を欠き、オランダ初優勝の夢は消え、「革命サッカーが伝統のゲルマン魂サッカーに負けた」という試合だった。

写真:若き日のオベラーツ

これはおよそかなりのサッカー通ならだれでも知っていることだ。問題はその後だ。

どうしてこのような現実が実現したか?

ということである。その本には、この秘話が書かれていたのだ。読まないはずはない。

実は、これまた有名な1つの物語がある。それとこのワールドカップが絶妙に絡んだということである。この有名な話とは次のようなものである。

当時の西ドイツには「司令塔」、当時のセンターハーフに2人の天才がいた。1人は、”左足の芸術家”と称された天才ウォルフガング・オベラーツ(サッカーマガジン1973年06月01日号/)。もう1人は金髪碧眼のアーリア人の理想のような風貌の天才ギュンター・ネッツァー(Gunter NETZER)。

オベラーツはシェーン監督率いる強豪チームのバイエルン・ミュンヘンの司令塔。一方、ネッツァーはバイスバイラー監督(後に日本に来た時に奥寺を発見する)率いる新興チームのボルシアMGの司令塔。

2人はタイプがことごとく違っていた。まったく正反対の選手だった。オベラーツは周りを生かし、細かなパスを繋ぐ選手。一方、ネッツァーは自分を中心に周りを使うタイプ。中央突破で打開を計り、ワンツーで自分にボールが回るようにする選手だった。性格も正反対。控えめで地味なプロ好みのオベラーツに対し、スター性があり一般人に絶大の人気があったネッツァー。

西ドイツがホームとなって行われたこの大会前にネッツァーを待望する国民の声の前に怖じけずづき、絶不調となってしまったのがオベラーツ。自殺寸前の精神状態であったという。方や絶好調で神憑かり的なプレーのネッツァー。

そこで試しにシェーン監督は2人をいっしょに使ってみた。すると、日本の中田英寿と中村俊輔が混在するチームのように、どうもうまく噛み合わない。やろうとすることがことごとく裏目に出る。そういう試合ばかりとなってしまった。そこで、シェーンはワールドカップ西ドイツ大会前の直前までどちらをチームの柱にするのか迷いに迷っていた。

ところが、ある時、直前でネッツァーが怪我をしてしまった。それでしかたなくネッツァー抜きのオベラーツのみで西ドイツが戦うとどういうわけか国際親善試合で連勝した。そこで、シェーン監督はついに決断したのだ。本戦はオベラーツをセンターハーフの司令塔にすると。この時から怪我のネッツァーは控えに回り、生涯代表としてワールドカップでプレーすることはなく、”悲劇の天才”と呼ばれることとなった。

私が感心したのは、この後の話だ。


写真:ユベントス時代のギュンター・ネッツァー


西ドイツは、何とか無事決勝戦まで駒を進めたのだが、今のまま試合をすれば革命児クライフの餌食になって圧倒されて負けるだけ。

いったいどうしたら良いんだ?

とシェーン監督は悩む。そこでベッケンバウワーの提案で思い付いたのが、チームで紅白戦をやるのだが、その控えチームはオランダそっくりのチームとしてオランダのトータルサッカーの真似をする。これで何度も戦ってシミュレーションをして行くというものだ。

問題は、だれがヨハン・クライフの真似ができるか?

ここにネッツァーが登場する。ネッツァーは人間としてはヨハン・クライフとそっくりだったのだ。だから、サッカーのシステムや戦略は異なったかもしれないが、プレーヤーとしてはネッツァーはクライフに似ていた。

オランダ代表の11人すべてに”良く似た選手”があてられた。クライフにはネッツァー。ニースケンスにはだれそれというわけだ。決勝戦までにはまだ日がある。これを繰り替えしたというわけだ。

ところが、だんだんネッツァーはクライフの”トータルサッカーの神髄”をすぐに飲み込んで、ネッツァー率いる西ドイツの2軍はベッケンバウワー率いる代表レギュラーチームより強くなって来た。だれもネッツァーのクライフを止められなくなったのだ。そこで、ボルシアMGでネッツァーのチームメートだったフォクツが”スナイパー(殺し屋)”役としてクライフにぴったりついて回ることにした。

しかしそれでも自陣ゴール前付近から敵陣ゴール前まで神出鬼没にどこにでも動き回るネッツァー・クライフに悩まされ、フォクツは混乱し、どうしていいか分からなくなった。そこで、敵にボールがある時はどこまでもクライフに付いて回り、自軍にボールがある時は、どんどん攻め上がるという方法で行くことにしたというわけだ。さらにオランダはオフサイドトラップでどんどん浅く上がってくるために、その間隙を突くように、サイドハーフにドリブル突破のできる選手を置いた。

こうしてみると、当時はオランダのトータルサッカー革命ばかりに目が向いたが、実は当時の西ドイツもまたかなり現代的なサッカーシステムを採用したことがわかる。この時の西ドイツのシステムや戦法はほとんど現在でも通用し、実際マンチェスターUやレアルマドリードなどでも採用しているものとほとんどいっしょだからだ。

こうして人目からまったく”隠されたまま”、トータルサッカーを身に付けた天才ネッツァーの西ドイツチームは伝説の中へと消え去った。

とまあ、こういうようなストーリーが実は本当の物語だったようだ。これですべて合点がいった。

もしも”悲劇の天才”ネッツァーが西ドイツにいなかったのなら、西ドイツの優勝はなかったはずである。この意味では、西ドイツはオベラーツだけではだめだったのだ。表と裏、その両方にまるで光と陰となるような正反対の対照的な2人の天才があってこそ初めて偉業が実現できたのである。

多くの場合、サッカー選手は代表のレギュラーの座からもれ控えに回ると腐る。そして非協力的になる。このことからしてもネッツァーという選手は私好みの実に爽やかで良い選手だったということだろう。好い話であった。
2008/05/19のBlog
5月17日の午後1時半から「伏見譲先生退職記念講演会」があったのだが、その日の午前中はまだ時間があった。こういうとき、私はいつもその辺で一番の本屋に行くことにしている。

ホテルのフロントで近くに本屋はないかと尋ねると、北与野駅前にかなり大きな本屋があるというので行ってみることにした。

ホテル2階の正面玄関から出て歩いて行くと、まず右折、そして左折、さらに左折して「けやき広場」という場所に出る。ここはこの「さいたま新都心」の繁華街。アメリカでいうダウンタウンである。ここを降りるとすぐのところにスターバックスがある。

しかし、そこを降りないでさらにまっすぐに道なりに進む。さらに左折すると、線路に横に沿ったかなり広い通路に出る。その突き当たりを右折すると、階段に出る。ここを降りて線路下をトンネルのように抜けて出ると、その書店があった。”書楽”という本屋である。

最初に目に入るのが「ひし形を周期ユニットにした図形」のモニュメントである。このパターンは物理では結構有名で、私の師であるサザーランド博士がかつてこのトポロジーを持つ結晶格子の電子状態を計算し、すべての状態の2/3はトポロジカルに局在した状態であるという「トポロジカル局在」の論文を出している。確か1986年のことである。そんなわけで、私には非常に親しみのある図形ですぐに気に入った。

最初にサッカーの棚を目指したのだが、その際レジ前のサッカーのDVDに目が行った。ペレ、ロナウド、マルディーニ、トッティなどの有名選手のDVDであった。これは1つ500円だったので、後で子供のお土産にすることにして、サッカーの棚に行った。

そこで、ふだん阿南の書店にはないような本を読みふけった。日本サッカーの全歴史を書いたもの。さまざまな練習法。その中で1つユニークな(普通の人の観点からすればかなりふざけてみえる)本があった。とある運動学者が書いたという「脱力筋力トレーニング」を目的にする本だった。

要するに、人間の筋力の基本は身体の前面に備わる筋肉と身体の後面に備わる筋肉の2種類があり、前者が「ブレーキ筋」、後者が「アクセル筋」であり、サッカー選手は力を入れるというよりは力を抜いてプレーしなくては素早く動けないから、身体の後面の筋力を鍛え、前面の筋肉は脱力させて「ゆるゆる」の筋肉にすべきであるという、かなり一見”まゆつばもの”で”異端的な”発想で書かれた本である。その著者はこの種の本を2冊書いていた。

ふだんこんな本は見かけないこと、また「力を抜いてプレーせよ」というのは私の持論でもあるので、この本もお土産に買うことにした。

子供へのお土産は決まった。ではさっそくと理工関係書のある3階にエレベーターで向かった。物理、生物などと見て行くと、だいたい想像のつくものばかりで少しも面白そうなものは目に入らなかった。それで数学はどうか、というと、やはり数学関係には世界でもかなり良いライターがいるせいか、新書が何冊も出ていた。

新書は、「ノーベル経済学賞」を取ったジョン・ナッシュ関連本、「フェルマーの最終定理」を解いたアンドリュー・ワイルス関連本、「リーマン予想」を解決したペレルマン関連本、そして「アルプス山中」に隠生していると言われるグロタンディーク関連本とブルバギ関連本。

確か「ブルバギとグロタンディーク」という本だったと思うが、その最後の方は非常に痛ましい話があるのだが、興味深い面もあった。著者がグロタンディークの狂気にも耳を傾けよというのが印象深い。

若くしてフィールズ賞を取り、日本の広中平祐博士のフィールズ賞にも関わっているアレクサンドル・グロタンディークという数学者がいる。この人物は、10000ページ以上の論文や著作を書き、その大半は今だ解読されず、使われているほんの一部が現代数学に革命を起こしたという伝説のある歴史上の人物である。「数学のアインシュタイン」と言われている。この人は、ある時期から表舞台を去り、アルプス山中に隠とん生活しているとうわさされている。ほんの何人かとしか会わず、だれも彼の言うことを理解できない。したがって、大半の数学者からは「狂人」になったと残念がられているという。

こんな人物の今がちょっと書かれていたのだから、グロタンディークの「数学者の孤独な冒険」を一時期バイブルとしていた私には面白くないはずがない。

著者によれば、アレクサンドル・グロタンディークは「今毎日毎日悪魔に悩まされ続けている」という。この地球を悪くしようとする悪魔と戦っているらしい。それでアルプス山中に身を隠しているらしい。最近では「メートルと戦っている」らしい。メートルとは1m、2mのメートルである。このメートル法があまりに不完全だったために、我々の世界がこんなに悪に満ち充ちた不完全な世界に変わってしまったのだと考えているということだ。

チャーリー・チャップリンの母親はだんなに捨てられてあまりの貧困に喘いで発狂してしまったと言われているが、そんな状況でもチャーリーに道で拾った石をパンだと思って子供達に分け与え、おかしくなっても子供のために子供たちの幸せのためにと考え続けた母親であったと言われている。

アレクサンドル・グロタンディークを考えると、なぜか私はチャーリー・チャップリンの母親を思い出す。グロタンディークもいつもこの地球の世界平和のことを考えているのである。こういう学者はごくわずかだが、ペレルマン博士もどことなくグロタンディークに似ているところがある。

「ブルバギを批判したグロタンディークを追い出したブルバギの衰退は、グロタンディークを失った時から始まった」

という著者の視点はまず正しいだろうと私も思う。

この本を買おうか迷ったが、結局子供たちへのお土産だけ買って、昼食をローソンで買い、けやき広場で食べ、それから講演会に向かった。なかなか有意義な立ち読みであった。
ジョーク「”恐ろしい話”」のお話は実はまったくの事実の話である。

”主夫”を本業としその傍ら研究する私はめったに出張などないのだが、たまに同業者の研究者から”お誘い”を受けることがある。

今回は、神戸大と埼玉大の研究者たちから別々に受けたが、その時期がたまたま両方重なってしまった。それで、神戸に行っては一旦ここに戻り、そして翌日には埼玉に行くという珍しい強行軍となった。とはいっても、日頃から鍛えている私にはどうということはないのだが。

5月18日にすべての日程が終了し、「さいたま新都心駅」から京浜東北で一気に浜松町へ行き、モノレールで羽田へ行こうと思っていた矢先、架線工事のために赤羽まで不通となっていた。それでしかたなく、埼京線の北与野駅から赤羽で京浜東北に乗ることにしたのだが、その道すがら、電車の中でしきりに携帯でメールかなにかやっている若者がいた。その青年がちょっと手を止めて窓の外を見たとき、思わず私は日頃聞きたかったことを聞いてみた。

「浦和レッズの本拠地って、さいたまアリーナじゃないの?」
と私。
「ええ、違うんですよ。僕レッズファンなんですけど
さいたまスタジアムなんですよ」
「ここからはかなり遠いですよ。南浦和で乗り換えて行くんです」
「昨日は行かなかったんですが、いつも見に行ってます」
とその彼が答えた。
「へー、なーんだ、違うのか。僕もレッズファンなんだよ」
「ところで、トゥーリオの頭薄くなってきてない?」
と私。
「あれでまだ26ですからね、くっくっく」
「一応僕も小中高とずっとサッカーやってました」
と携帯の手を止めてその彼。
「君はリフティング何回くらいできる?」
「僕の最高回数は4001なんだけど」
と私が聞く。
「まあ数えたことないんですが、いくらでもできますよ」
と彼。
「じゃ、1万位? そりゃーすごいな」
と私。
「回数なんて問題じゃないですよ。じゃ失礼します」
と言ってその彼は電車を降りたというわけだ。

そして長旅はついに終わりにさしかかり、羽田から飛行機に乗って高松経由で徳島に着いた。最後に阿南に帰るために汽車に乗る。その途中、何度も汽車のドアが開く度に外から蚊が入ってくる。そして気がつくと、汽車の室内に”蚊柱が立っていた”というわけだ。それもそのはず、周りは田園風景。しかも夜だから明かりのついている汽車の室内は格好の場所である。

とまあ、こんな帰り道をジョーク風にアレンジしたというわけだ。

それにしても、たまたま隣に居合わせたごく普通のお兄さんがリフティングの達人という浦和。さすがにJリーグでも日本一になるはずである。サッカーが街の文化となっているわけだから。徳島あたりではこんなお兄さんならすぐにトップ選手となれるはずである。蚊しか集まってこない徳島のサッカー場とこんなお兄さんたちが集まってくる浦和のサッカー場ではそれはそれは大違いというわけである。
[ 15:10 ] [ ジョーク ]
写真:さいたま新都心駅

北与野から埼京線に乗り、
携帯電話に夢中になっていた隣の若者に
「君、浦和のファン? リフティング何回できるの?」
と聞くと、その若者は
「僕もレッズファンです。
小中高とずっとサッカーやっていました」
「ずっと続ければ1万回くらいはできますよ」
「でも回数は問題じゃないですよ」
と答えながら浦和あたりで降りて行った。

羽田から飛行機に乗って高松経由で徳島に着き
汽車で阿南に帰る途中、
汽車の中に蚊柱が立っていた。

いやはやどちらもそれぞれに恐ろしい話である。
ジュセリーノのような何かが起こった後の”事後報告”の予言では、あまりインパクトはないだろうが、5月11日の夕方、西空に広がる非常に細長い”地震雲”(波状雲も重なっていた)のようなものに私と妻が気付いた。そこで、「地震雲だといけないから、一応撮っておくか」と私が撮影したのがこの写真だった。

その時は、ひょっとすれば日本国内でまた巨大地震があるとまずいなと思っていたが、この雲の先の方の先端がどこかまでは気にしていなかった。あまりに長過ぎていったいどこで切れるのか見当も付かなかったからだ。

ところが、その翌日だったか、御存じのように中国内陸部で巨大地震が起こったわけだ。

地震雲研究者にもいろいろあるが、雲を研究している人たちは、地震雲の形状(長さや形や位置)、あるいは放射状の地震雲の中心などを気にしている。地震雲の先の方に地震が起こる地域があるというのだ。

今回の雲は、確かに西方の遠くを指していた。

お亡くなりになった人々や家族にはかける言葉もないが、地震雲であれ、ヒキガエルの異常行動であれ、何であれ、いろんなことを気に留めて置くべきだろう。たとえそれが一見非科学的なことであれ、それで少しでも命が救われるのならその方が良いからだ。

亡くなった方々の冥福を祈りたい。

ちなみに、このブログ内検索に「地震雲」と入れたらいろいろ以前の記事が出てくるはずである。
2008/05/13のBlog
2008年度第15回全国クラブ選手権県予選のトーナメントが5月4日に開幕した。

【1回戦】4日。吉野川運動場

レッドサンズ1一1(PK4一3)EURO
FCZIEL3一0白虎隊
蹴友会2一0リッチde赤貝
カンピオーネ6一0阿南クラブ
セレステ4一0パルティーノ
N・J1一1(PK3一2)ケントス
FCnaruto1一1(PK6一5)イエローモンキーズ
リベルテ阿波0一0(PK4一3)石井

【2回戦】11日。吉野川南岸運動場

レッドサンズ2一0FCZIEL
蹴友会4一0カンピオーネ
セレステ1一0N・J
FCnaruto2一1リベルテ阿波
小学校時代から選抜されてヴォルティスジュニア(U12)に入り、中学(U15)高校(U18)とサッカーをやってきたヴォルティスユースの選手たち。ここ最近、彼らヴォルティスのユース世代が”伸び悩んでいる”ように見える。

私が阿南高専の選手の指導を開始した2004年の冬、 いくらうまい選手が集められていたとはいえそれまで何の実績のないヴォルティスユースは初めてTリーグの一番下のレベルのT3に参加した。

連戦連勝であっという間に、阿南高専のいたT2に駆け上がり、阿南高専を5一0で一蹴(私が指導することになった時はちょっと遅く、この試合の次の試合からだった)。2005年にはT2優勝、T1に昇格。そして確か2006年にはT1優勝して四国プリンスリーグに昇格した。

それから、ずっとしばらくは高校チームを押さえてダントツの強さでプリンスに残留し、高校とクラブの最強チームを決めるU18高円宮杯でも圧倒的な力の差を見せつけて徳島代表、四国代表となった。

しかし、ここ最近、どういうわけか、中学レベルのU15高円宮杯などでも公立中学校の井川中に負け、創立2年の阿南FCに負け、高校レベルのU18でも徳島商業に負けるという状況が続いている。また、U18高円宮杯に出場しても予選リーグ3連敗で敗退。高校トップチームが全国大会でことごとく初戦敗退をくり返しているのと同じような状況となっている。

私は、U15ヴォルティスユースの”負け試合”を直接見たというわけではないが、1試合だけ”勝った試合”を見たことがある。そこで感じたことは、やはり「今のクラブユースの選抜法や指導法にはかなり問題が潜んでいる」ということである。

2008年度天皇杯県予選:準決勝、決勝」に

『「人間の成長」というものほど不思議なものは無く、小学生の時うまかったからといってワールドクラスに育つかといえばそういうことはない。むしろほとんどの場合、高校過ぎた頃から本当の才能の片鱗が開花するものである。ベッカムやクリスチャン・ロナウドなどはむしろ例外中の例外であり、ほとんどの好選手は、中村俊輔や中沢や中村憲剛選手のようにかなり後半になって急激に伸びてくるものなのである。(この問題についてはまた後々分析するつもりだ)。』

と書いたように、子供の成長ほど予想しがたく、一長一短のものはない。

小学校時代から有名選手でヴォルティスユースに鳴り物入りで入った選手がその後何が原因か知らないが、”札付きの不良少年”になって辞めてしまったということも少年たちの間では格好の話題となっている。現在では2番手だった選手がその子の代わりにトップ選手になっているとかいないとか。

故柘植先生が一生涯強調して主張し続けたことに

「小学生相撲の横綱が大相撲の横綱になることはない」

という事実がある。いくら”子供の頃の逸材”でもそれは所詮”子供時代のお話”に過ぎない。

日本人のように、ドゥンガのいうように「日本人特有のメンタリティー」を持つ日本人の親の場合、自分の子供が幼少から比較的身体が大きく、子供時代を優秀選手として活躍すると、どうしても親御さんの方が有頂天となり浮き足立つ。こういう際立った特徴が日本人には存在する。

そこで、もし自分の子供がヴォルティスジュニアの選手に選ばれたり、子供相撲の横綱になったりすると、大喜びして自分の息子は特別だと錯覚するのである(もちろん、これとまったく同じようなことが勉強にも言え、自分の子供の学校の成績が良いと自分の子供は天才だと早合点してしまう)。

しかし、これは大きな間違いである。

私はここ13年ほど徳島のサッカーシーンを見て来ているが、そしてその間自分の息子のいた小学校中学校そして阿南高専の学生や徳大の大学生、そしてヴォルティスの選手などを見て来たが、これまで誰ひとりとして私よりうまい選手に出会ったことがない。「こいつは俺よりうまい」というサッカー選手を一度も見たことがない。

もちろん、私は今は本格的なトレーニングはしていないから、現役のサッカー選手たちには体力的に引けをとる部分はある。しかし、リフティング、ドリブル、キック、サッカー戦術眼、知識、などを含めて、さらには私の現役時代に私自身が出来たことと比べてもそれを上回る選手はどこにもいなかったのである。

私はかつて関西遠征で天理大サッカー部と練習試合をしたが、試合開始のキックオフから1人で全員を中央突破で抜き去ってシュートして得点したことがある。千葉大学リーグでは5人抜き、練習試合では7人抜きもあった。今でもすぐに1000回程度のリフティングはできるし、キックも私の息子たちよりはるかに精度がありうまい。私の得意技の1つはゴルフでいうフェードボール、アウトサイドで蹴るロングキックである。

こういう正確なキックや足首をしっかり固定した正確無比のシュートのできる高校生は見たことがない。ましてや我々が高校生の頃、週2回は20kmマラソンに出ていたが、ここ徳島では数キロでもダウンである。

こういうわけで、体力的にも技術的にも我々の高校生時代からかなり落ちていると私個人は考えている。

しかし、ヴォルティスが出来て以来、どうも徳島サッカー関係者は何か大きな勘違いや誤解をしているようで、J2リーグのチームが徳島に出来たからまるで徳島サッカーのレベルが上がったかのように錯覚してしまったわけだ。ここに今の徳島サッカーの低迷の一番の理由があるのである。

もう少しより具体的な話をしよう。

では、なぜヴォルティスユースが勝てないのか?

その答えは、実にたわい無いことである。「全力プレーを知らない」からだ。

現在のヴォルティスジュニアやユースの選抜方式では、小学生時代から選抜テストをしてそれに合格した選手だけを入団させる。つまり、各小学校のキャプテンクラスや一番うまい(つまり子供サッカーの横綱)を取る。

それゆえ、このチームはどこのチームとやっても勝つのは当たり前だ。なぜなら自分の通っている小学校とも戦うが、そこの優秀選手は全部自分がいるヴォルティスに引き抜かれているからだ。どの小学校でも状況はいっしょ。これではヴォルティスの有利は変わらない。せいぜい別のクラブチーム、例えば、リベルモとかプルミエールとかが良い勝負になる程度だが、ここでも一番うまい子供サッカー選手はヴォルティスに取られるからだ。

では、いつどことやっても勝つのは当たり前となった状況で、ヴォルティスの選手は”本気になって””死にものぐるい”で試合をするか?

といえば、そんなはずはない。そんなにむきにならなくても適当にやれば、まるでネコがネズミをいたぶり殺すようにして相手をやっつけることができる。どの選手も適当にやっても勝てるのである。

これが、子供相撲の横綱、子供柔道のチャンピオン、子供サッカーの強豪などに”共通する問題”なのである。要するに、「他の子供と比べて比較的早熟の子供が有利となってしまう」、ということである。他の子供と比べて早い時期に大柄な選手は楽に試合に勝てるのである。相手が子供だからだ。

しかしかといって、所詮は子供の遊び、子供のすることだ。いくら子供横綱でも本当の横綱にはなれない。子供柔道チャンピオンも大人とやれば負ける。子供サッカーは所詮中学生や高校生には負ける。要するに、子供時代にうまくても現実は厳しく大人には通用しない。ヴォルティスの選手でも所詮大人には太刀打ちできない。

つまり、大人になって世界で通用する選手は他にいるということである。子供サッカーでいくらうまくてもだめなのだ。回りが基礎もへったくれもない世界でいくら勝ったところでそんなものは何の参考にもならないということだ。つまり、子供の中でいくらうまい選手を選んだところで、それは子供の中のお話に過ぎず、本当にうまい選手はもっと大人に近付いて生まれてくるということである。だから、小学生や中学生の「今うまいかどうかではなく、将来うまくなるかどうか」を見て選べということだ。つまり、”将来性”を見抜いて選抜できるかどうかということである。

さすがに、欧州のトッププロチームはそういうことをよーく理解してる。だから、例えば、バルセロナなどでは、「いつも目をつけている選手は数千人レベルである」と言われている。一応今のクラブのメンバーを25人ほどにしているが、どんどんメンバーを入れ替