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2004/12/04のBlog
[ 11:56 ]
[ 訃報・追悼 ]
私が植村博士と一番最初に会ったのは、というより、一番最初に見たのはというべきかも知れないが、私が大阪大学基礎工学部の大学院生をしていたときではなかったかと思う。半導体物理学の集中講議というものであった。
日本の大学院システムを知らない人はおそらく’集中講議’とはどんなものか良く分からないだろうが、日本の大学では’集中講議’あるいは’特別講議’などと称して’3日間’ほどの連続講議を行うことがある。この集中講議でその時折に流行っているテーマをその分野で活躍している研究者を招いて授業してもらうのである。こうやってお互いに招き招られて研究交流するというのが日本の大学の’伝統’である。私が阪大にいたのは1981年から1985年までの5年間であったが、このやり方は今現在も日本の国立大学を中心に行われているものである。
植村さんは当時東大の教授でばりばりの半導体分野の専門家であった。どんな講議内容であったかは私は全く記憶していないが、たぶんその集中講議の時に私も参加して聴講したのであると思う。
さて、’集中講議’の話が出たついでに、アメリカの大学院システムのことも話しておかないと片手落ちになるだろう。アメリカの大学院では、こういった’3日間’の集中講議というものはないようである。その代わりというか、アメリカの大学の伝統というのか、ある分野の”入門レベルからもっともホットトピックまでを講議する”という’特別講議’(あるいは’集中講議’といっても差し支えない)というものがある。これは最低でも1学期間はかかる。中には1年間行う場合もある。こうやってアドバンスト大学院生たちが素粒子分野や物性分野などその時代の最先端の話題を1年間の講議を通じて’物にする’というのがアメリカのやり方である。
私は1986年にユタ大学に留学する前に日本の国立大学の’集中講議’のことを良く知っていたために、このアメリカの’特別講議’を知って結構驚いたものである。なぜなら、日本の’集中講議’はたったの3日間しかなく、その間で研究者の話題を講議ノートに取り、資料をもらって読んで、’一応’その話題の発展現状を知る、というレベルであったが、アメリカの’特別講議’の場合には、毎週結構’膨大な’宿題が出されて、毎週毎週宿題を解いて行かねばならず、学生はたいへんな思いをさせられるが、その授業を最後まで付いていくことさえできれば必ずその分野の’最先端’まで引き上げられて確実に専門家に育っていけるからである。
私のこの両方の経験からして日本の’集中講議’方式ではアメリカの’特別講議’方式にはまず勝ち目がないだろうと思うのである。実際、こういった講議を教授の方も非常に本格的に準備して、時にはそれがそのまま教科書として後で売り出されるようになるからである。つまり、アメリカの学生は将来の教科書になる話題を大学院生のうちに勉学し、その教科書が世界に売り出される頃にはその学生達はすでにその分野の最先端の研究者に育っている、というわけである。
日本の大学院システムを知らない人はおそらく’集中講議’とはどんなものか良く分からないだろうが、日本の大学では’集中講議’あるいは’特別講議’などと称して’3日間’ほどの連続講議を行うことがある。この集中講議でその時折に流行っているテーマをその分野で活躍している研究者を招いて授業してもらうのである。こうやってお互いに招き招られて研究交流するというのが日本の大学の’伝統’である。私が阪大にいたのは1981年から1985年までの5年間であったが、このやり方は今現在も日本の国立大学を中心に行われているものである。
植村さんは当時東大の教授でばりばりの半導体分野の専門家であった。どんな講議内容であったかは私は全く記憶していないが、たぶんその集中講議の時に私も参加して聴講したのであると思う。
さて、’集中講議’の話が出たついでに、アメリカの大学院システムのことも話しておかないと片手落ちになるだろう。アメリカの大学院では、こういった’3日間’の集中講議というものはないようである。その代わりというか、アメリカの大学の伝統というのか、ある分野の”入門レベルからもっともホットトピックまでを講議する”という’特別講議’(あるいは’集中講議’といっても差し支えない)というものがある。これは最低でも1学期間はかかる。中には1年間行う場合もある。こうやってアドバンスト大学院生たちが素粒子分野や物性分野などその時代の最先端の話題を1年間の講議を通じて’物にする’というのがアメリカのやり方である。
私は1986年にユタ大学に留学する前に日本の国立大学の’集中講議’のことを良く知っていたために、このアメリカの’特別講議’を知って結構驚いたものである。なぜなら、日本の’集中講議’はたったの3日間しかなく、その間で研究者の話題を講議ノートに取り、資料をもらって読んで、’一応’その話題の発展現状を知る、というレベルであったが、アメリカの’特別講議’の場合には、毎週結構’膨大な’宿題が出されて、毎週毎週宿題を解いて行かねばならず、学生はたいへんな思いをさせられるが、その授業を最後まで付いていくことさえできれば必ずその分野の’最先端’まで引き上げられて確実に専門家に育っていけるからである。
私のこの両方の経験からして日本の’集中講議’方式ではアメリカの’特別講議’方式にはまず勝ち目がないだろうと思うのである。実際、こういった講議を教授の方も非常に本格的に準備して、時にはそれがそのまま教科書として後で売り出されるようになるからである。つまり、アメリカの学生は将来の教科書になる話題を大学院生のうちに勉学し、その教科書が世界に売り出される頃にはその学生達はすでにその分野の最先端の研究者に育っている、というわけである。
話は大分逸れたが、私が次に植村博士と会ったのは、たぶん、1985年に開催された半導体国際会議(2次元電子系)であったと思う。これは当時東大物性研の安藤博士が主催した。この時期、私は住友セメントから参加した。これには後述する欧米の博士たちもほぼ全部参加した。
植村博士は安藤恒也博士といっしょに量子ホール効果の初期の重要な研究を行ったのが特に有名である。また私の記憶では、故久保亮五博士とともに日本における半導体理論やいわゆる物性理論の創世期を担った。有名な久保公式を電気伝導に応用するという方法で2次元磁場中の電子の問題に応用し、量子ホール効果に繋がる研究を行ったのである。当時IBMにいた江崎玲於奈博士が分子線エピタキシー技術(MBE)を発明し、半導体を2次元層状に結晶成長させるという方法が出てきたのである。これは現在のナノテクノロジーの先駆けであった。この方法は江崎博士が来日する度に日本の大学に飛び火したのである。それほどまでに銀色に輝くチャンバーはハイテクの香りがしたのである。もちろん日本政府、特に通産省、も後押ししたのである。
中でも学習院大の川路博士のグループは半導体界面(2つの異なる半導体の境の面のこと)の研究に取り組んだ。2次元の界面にはどういうわけか、うまく電子が溜まり、2次元の理想的な電子状態が出来ているらしい、ということが分かってきたのである。低次元(1次元や2次元のこと)の量子力学は量子力学の学問としての’演習問題’としてはさかんに研究されたが、本当にそうかどうか、現実に実現できるかどうか、という点では全くそれまで実現できていなかったのである。
そこで、植村博士とその弟子の安藤博士、そして川路博士との研究協力が始まったのである。前者は理論的に研究、後者は実験的に研究したのである。この研究協力の中、半導体界面という2次元電子系では、面に垂直に磁場をかけると、何かこれまでにはまだ知られていない非常に特殊なことが起こっているらしいということが分かったのである。そして、世界最初に”ホール伝導がある特定の’量子化された’値で異常を起こす”、という大発見を行ったのである。そして植村-安藤グループがその原因を理論的に探ったのである。特に、それまで不純物の入った低次元と3次元では電子状態の性質が異なり、低次元ではいつも電子は局在するという’アンダーソン局在の理論’というものがさかんに研究されていたので、この問題との絡みで研究したのである。
そこに実験では西ドイツのフォン・クリッティング博士、理論ではアメリカのラフリン博士やハルペリン博士やハルデーン博士などが参入し、世界中がフィーバーとなっていったのである。実験的には、フォン・クリッティング博士がそれが’量子ホール効果’という全く新しい物理現象であることを証明したである。さらには、2次元界面の不純物を取り除き、よりピュアな界面にしていくという努力の内に’分数量子ホール効果’もアメリカのツーイ博士らによって発見されたのである。理論ではラフリン- ハルペリン-ハルデーンのゲージ理論に基づく’電子の波動関数の位相の量子化’として量子ホール効果が理解されることになった。そして分数量子ホールの理論をラフリン博士が完成させ、現在では’ラフリン理論’と呼ばれるに至ったのである。
このように、植村博士、安藤博士、そして川路博士という3人のパイオニアが世界中を’量子ホール効果フィーバー’へと導いたのである。結局、フォン・クリッティング博士が1985年にノーベル物理学賞を単独受賞、ラフリン博士、シュテルマー博士とチューイ博士らが1998年にノーベル物理学賞を同時受賞して、これらの日本人を尻目にかっさらっていった、という歴史が残ったのである。
さらには、学問上、20世紀後半に現れた’量子ホール効果’、’分数量子ホール効果’の理論の果たす役割は大きく、素粒子理論の超ひも理論、数学のリー群の表現論、組み紐理論など、さまざまな分野へ波及していったのである。これらはジョーンズ博士、ウィッテン博士、ドリンフェルト博士などによって1990年数学のフィールズ賞を受賞したのである。
日本人としては実に残念な歴史であったが、世界中を全く新しい物理学(数学)の世界へと導いていった、ということはまぎれもない事実であり、決して’恥じることのない’すぐれた研究であったということができるのである。
最後に私が植村博士と会ったのはそれから10年以上も経ってからで、1998年の三菱財団の贈呈式の時であった。式典の後のパーティーの席であった。温厚だが自信に満ちあふれた立ち居振る舞い、しかし話せばとめどもなく沸き上がる物理学への関心が植村博士の特徴であった。その頃は非常にお元気そうで、まだ研究をしているふうであった。非常に残念なことである。御冥福を心からお祈りしたい。合掌。
写真:中央右のオレンジ色の服の人が植村博士。
植村博士は安藤恒也博士といっしょに量子ホール効果の初期の重要な研究を行ったのが特に有名である。また私の記憶では、故久保亮五博士とともに日本における半導体理論やいわゆる物性理論の創世期を担った。有名な久保公式を電気伝導に応用するという方法で2次元磁場中の電子の問題に応用し、量子ホール効果に繋がる研究を行ったのである。当時IBMにいた江崎玲於奈博士が分子線エピタキシー技術(MBE)を発明し、半導体を2次元層状に結晶成長させるという方法が出てきたのである。これは現在のナノテクノロジーの先駆けであった。この方法は江崎博士が来日する度に日本の大学に飛び火したのである。それほどまでに銀色に輝くチャンバーはハイテクの香りがしたのである。もちろん日本政府、特に通産省、も後押ししたのである。
中でも学習院大の川路博士のグループは半導体界面(2つの異なる半導体の境の面のこと)の研究に取り組んだ。2次元の界面にはどういうわけか、うまく電子が溜まり、2次元の理想的な電子状態が出来ているらしい、ということが分かってきたのである。低次元(1次元や2次元のこと)の量子力学は量子力学の学問としての’演習問題’としてはさかんに研究されたが、本当にそうかどうか、現実に実現できるかどうか、という点では全くそれまで実現できていなかったのである。
そこで、植村博士とその弟子の安藤博士、そして川路博士との研究協力が始まったのである。前者は理論的に研究、後者は実験的に研究したのである。この研究協力の中、半導体界面という2次元電子系では、面に垂直に磁場をかけると、何かこれまでにはまだ知られていない非常に特殊なことが起こっているらしいということが分かったのである。そして、世界最初に”ホール伝導がある特定の’量子化された’値で異常を起こす”、という大発見を行ったのである。そして植村-安藤グループがその原因を理論的に探ったのである。特に、それまで不純物の入った低次元と3次元では電子状態の性質が異なり、低次元ではいつも電子は局在するという’アンダーソン局在の理論’というものがさかんに研究されていたので、この問題との絡みで研究したのである。
そこに実験では西ドイツのフォン・クリッティング博士、理論ではアメリカのラフリン博士やハルペリン博士やハルデーン博士などが参入し、世界中がフィーバーとなっていったのである。実験的には、フォン・クリッティング博士がそれが’量子ホール効果’という全く新しい物理現象であることを証明したである。さらには、2次元界面の不純物を取り除き、よりピュアな界面にしていくという努力の内に’分数量子ホール効果’もアメリカのツーイ博士らによって発見されたのである。理論ではラフリン- ハルペリン-ハルデーンのゲージ理論に基づく’電子の波動関数の位相の量子化’として量子ホール効果が理解されることになった。そして分数量子ホールの理論をラフリン博士が完成させ、現在では’ラフリン理論’と呼ばれるに至ったのである。
このように、植村博士、安藤博士、そして川路博士という3人のパイオニアが世界中を’量子ホール効果フィーバー’へと導いたのである。結局、フォン・クリッティング博士が1985年にノーベル物理学賞を単独受賞、ラフリン博士、シュテルマー博士とチューイ博士らが1998年にノーベル物理学賞を同時受賞して、これらの日本人を尻目にかっさらっていった、という歴史が残ったのである。
さらには、学問上、20世紀後半に現れた’量子ホール効果’、’分数量子ホール効果’の理論の果たす役割は大きく、素粒子理論の超ひも理論、数学のリー群の表現論、組み紐理論など、さまざまな分野へ波及していったのである。これらはジョーンズ博士、ウィッテン博士、ドリンフェルト博士などによって1990年数学のフィールズ賞を受賞したのである。
日本人としては実に残念な歴史であったが、世界中を全く新しい物理学(数学)の世界へと導いていった、ということはまぎれもない事実であり、決して’恥じることのない’すぐれた研究であったということができるのである。
最後に私が植村博士と会ったのはそれから10年以上も経ってからで、1998年の三菱財団の贈呈式の時であった。式典の後のパーティーの席であった。温厚だが自信に満ちあふれた立ち居振る舞い、しかし話せばとめどもなく沸き上がる物理学への関心が植村博士の特徴であった。その頃は非常にお元気そうで、まだ研究をしているふうであった。非常に残念なことである。御冥福を心からお祈りしたい。合掌。
写真:中央右のオレンジ色の服の人が植村博士。
2004/12/03のBlog
[ 21:20 ]
[ 訃報・追悼 ]
2003年6月12日。非平衡統計力学、散逸構造の創始者でノーベル賞受賞者イリヤ・プリゴジン博士89歳で逝去。
プリゴジン博士の研究分野は、故ラルス・オンサーガー博士が創始した’非可逆過程の熱力学’を先祖に持つ分野で、極めて深い分野の一つである。固体物理学に代表される多くの分野は’平衡系の熱力学’といわれる分野で、ドイツのボルツマン、イギリスのマックスウェル、アメリカのギブズによって完成されたものである。
しかし、生物や化学反応のように多くの自然現象は非平衡で非可逆過程で行われている。つまり、生きた世界と死んだ世界の違いは何かを探るのが、プリゴジン博士の生涯のテーマであった。この分野に先駆的役割を数十年にわたり果たしてきたのがプリゴジン博士であった。
この分野の近年の発展がフラクタル理論やカオス理論や複雑系理論の分野である。プリゴジン博士はたいへん押しが強く何でも自分がやったように言う極めて個性の強い人物として有名であった。この点、物理学のマーリー・ゲルマン博士と似ていると言えるかも知れない。プリゴジン博士の著書実に多数であり、研究論文も極めて多い。
私はここ最近、プリゴジン博士の最近の教科書「現代熱力学」(コンデプディ博士と共著。朝倉書店、2001)や昔の教科書「構造、安定性、ゆらぎ」(グランスドルフ博士と共著。みすず書房、1977)や「存在から発展へ」(みすず書房)などを読んでいるが、その’博学’ぶりにはただ脱帽するだけである。それほどにプリゴジン博士の知識の幅は広く膨大である。
中でもボルツマンのエントロピーを使ったアインシュタインの’ゆらぎの公式’から始まり、オンサーガー博士が証明したオンサーガーの’相反定理’、そしてプリゴジンの’エントロピー生成最少原理’(そしてカレン-ウェルトンの’ゆらぎ-散逸定理’に繋がる)あたりの説明はいつもながら感銘を受ける部分である。
ここから先に行くことはまだ誰にも出来ていないが、’ゆらぎ’を積極的に理解し、’ゆらぎと散逸’の問題と’時間の矢’の問題やエントロピー増大の問題を終生考え続けたのがプリゴジン博士であった。’巨人’とはこの人のためにあるような言葉である。心より御冥福をお祈りしたい。
参考:プリゴジン博士来日!
プリゴジン博士の研究分野は、故ラルス・オンサーガー博士が創始した’非可逆過程の熱力学’を先祖に持つ分野で、極めて深い分野の一つである。固体物理学に代表される多くの分野は’平衡系の熱力学’といわれる分野で、ドイツのボルツマン、イギリスのマックスウェル、アメリカのギブズによって完成されたものである。
しかし、生物や化学反応のように多くの自然現象は非平衡で非可逆過程で行われている。つまり、生きた世界と死んだ世界の違いは何かを探るのが、プリゴジン博士の生涯のテーマであった。この分野に先駆的役割を数十年にわたり果たしてきたのがプリゴジン博士であった。
この分野の近年の発展がフラクタル理論やカオス理論や複雑系理論の分野である。プリゴジン博士はたいへん押しが強く何でも自分がやったように言う極めて個性の強い人物として有名であった。この点、物理学のマーリー・ゲルマン博士と似ていると言えるかも知れない。プリゴジン博士の著書実に多数であり、研究論文も極めて多い。
私はここ最近、プリゴジン博士の最近の教科書「現代熱力学」(コンデプディ博士と共著。朝倉書店、2001)や昔の教科書「構造、安定性、ゆらぎ」(グランスドルフ博士と共著。みすず書房、1977)や「存在から発展へ」(みすず書房)などを読んでいるが、その’博学’ぶりにはただ脱帽するだけである。それほどにプリゴジン博士の知識の幅は広く膨大である。
中でもボルツマンのエントロピーを使ったアインシュタインの’ゆらぎの公式’から始まり、オンサーガー博士が証明したオンサーガーの’相反定理’、そしてプリゴジンの’エントロピー生成最少原理’(そしてカレン-ウェルトンの’ゆらぎ-散逸定理’に繋がる)あたりの説明はいつもながら感銘を受ける部分である。
ここから先に行くことはまだ誰にも出来ていないが、’ゆらぎ’を積極的に理解し、’ゆらぎと散逸’の問題と’時間の矢’の問題やエントロピー増大の問題を終生考え続けたのがプリゴジン博士であった。’巨人’とはこの人のためにあるような言葉である。心より御冥福をお祈りしたい。
参考:プリゴジン博士来日!
[ 20:39 ]
[ 訃報・追悼 ]
1997年6月23日。「分子結合・分子結晶理論」の第一人者、Jeremy K. Burdettさん(シカゴ大教授・化学理論)が死去。享年49歳。
おはずかしいことに私は遅ればせながら2002年1月7日にこの訃報を知った。
私はこの人のレビューから多くの知見を得て、2本鎖DNA電子論を作ったのである。本当に優れた物理化学者だった。高分子の構造を見れば、その構造から即座にバンド構造を直感的に得てしまう。この極意の達人であった。福井謙一学派やホフマン学派とはまたひと味違うタイプの量子化学者であった。
Burdettさんには、200以上の論文と5册の著書の著者であるという。有名な教科書に、Chemical Bonding in Solids (Oxford, 1995)がある。これほど才能豊かな量子化学者の早世は本当に大きな損失であるといえるだろう。心から御冥福を祈りたい。
おはずかしいことに私は遅ればせながら2002年1月7日にこの訃報を知った。
私はこの人のレビューから多くの知見を得て、2本鎖DNA電子論を作ったのである。本当に優れた物理化学者だった。高分子の構造を見れば、その構造から即座にバンド構造を直感的に得てしまう。この極意の達人であった。福井謙一学派やホフマン学派とはまたひと味違うタイプの量子化学者であった。
Burdettさんには、200以上の論文と5册の著書の著者であるという。有名な教科書に、Chemical Bonding in Solids (Oxford, 1995)がある。これほど才能豊かな量子化学者の早世は本当に大きな損失であるといえるだろう。心から御冥福を祈りたい。
[ 20:05 ]
[ 訃報・追悼 ]
2001年7月27日。日本の「共形場理論」の第一人者、梁成吉(ヤン・ソンキル)さん(筑波大教授・素粒子理論)が肺がんで死去。享年47歳。
かつて日本IBM賞受賞の際、ヤンさんは科学の面白さについてこう言っている。
「研究を進めていくためには、具体的な問題が必要です。しかし、問題が難しすぎたり、間違った設定をしてしまえばまったく手が出ません。ですから、研究を進めていく上での最も大きな喜びは、自分がこれは面白い、重要だと信じて選んだ方向が正しく、何らかの手がかりによって満足できる答えが得られるときです。これは最高!そして、得られた結果が他の研究者にも共有され、新たな次の段階へと研究が進んでいく様子を実感できるときは努力した甲斐があったなぁと素直に喜べます。これは科学者の醍醐味でしょう。僕にはひとつの夢があります。科学の発展とテクノロジーの進歩がより深く結び付くことによって、身体障害者がもっともっと快適に生活できる環境と社会が実現されることです。強い者が力を誇示するための科学ではなく、弱い立場の者のために気がきく科学とテクノロジーの融合が21世紀には大きく育っていって欲しいと思います。」
ヤンさん自らが身体障害者であったようなのでこの言葉は重みを感じる。心から御冥福をお祈りしたい。
ちなみに、氏の著書には「共形場理論と1次元量子系」(岩波)がある。
かつて日本IBM賞受賞の際、ヤンさんは科学の面白さについてこう言っている。
「研究を進めていくためには、具体的な問題が必要です。しかし、問題が難しすぎたり、間違った設定をしてしまえばまったく手が出ません。ですから、研究を進めていく上での最も大きな喜びは、自分がこれは面白い、重要だと信じて選んだ方向が正しく、何らかの手がかりによって満足できる答えが得られるときです。これは最高!そして、得られた結果が他の研究者にも共有され、新たな次の段階へと研究が進んでいく様子を実感できるときは努力した甲斐があったなぁと素直に喜べます。これは科学者の醍醐味でしょう。僕にはひとつの夢があります。科学の発展とテクノロジーの進歩がより深く結び付くことによって、身体障害者がもっともっと快適に生活できる環境と社会が実現されることです。強い者が力を誇示するための科学ではなく、弱い立場の者のために気がきく科学とテクノロジーの融合が21世紀には大きく育っていって欲しいと思います。」
ヤンさん自らが身体障害者であったようなのでこの言葉は重みを感じる。心から御冥福をお祈りしたい。
ちなみに、氏の著書には「共形場理論と1次元量子系」(岩波)がある。
[ 19:46 ]
[ 訃報・追悼 ]
2001年2月24日。「情報理論」の創始者、クロド・エルウッド・シャノンさん(数学者)が死去。享年84歳。 アルツハイマー病で長らく闘病していたようである。
およそ理論物理学をやっていて、このシャノンの名前を知らない人はいないだろう。シャノンの情報エントロピーはつとに有名である。だからここでわざわざ私が説明する理由もなかろう。
しかし、クラジウスのエントロピー、カルノーのエンジン、ボルツマンのエントロピー、マックスウェルの悪魔、そしてシャノンのエントロピーの間に横たわる深い関係は、マクロとミクロ、情報と物質の間の未知の関係を彷佛させてくれるものである。
この科学と情報理論の関係は、L・ブリリュアン「科学と情報理論」(みすず書房)に詳しいので、ぜひ参照して欲しい。もっとも絶版だが。
御冥福を心よりお祈りしたい。
およそ理論物理学をやっていて、このシャノンの名前を知らない人はいないだろう。シャノンの情報エントロピーはつとに有名である。だからここでわざわざ私が説明する理由もなかろう。
しかし、クラジウスのエントロピー、カルノーのエンジン、ボルツマンのエントロピー、マックスウェルの悪魔、そしてシャノンのエントロピーの間に横たわる深い関係は、マクロとミクロ、情報と物質の間の未知の関係を彷佛させてくれるものである。
この科学と情報理論の関係は、L・ブリリュアン「科学と情報理論」(みすず書房)に詳しいので、ぜひ参照して欲しい。もっとも絶版だが。
御冥福を心よりお祈りしたい。
[ 19:26 ]
[ 訃報・追悼 ]
2001年3月1日。日本の「X線天文学」の創始者、小田稔博士(東京情報大学長)が、1日午後3時24分、心不全で死去。享年78歳。
私が1993年理研の基礎科学特別研究員に応募した時、小田博士が理研の理事長をしていた。私は当時勤めていた富士通、計算科学研究部では、自分の研究は続けにくいと判断し、科学技術庁の研究員に応募しようと考えた。しかしそれには採用規定の年齢が32歳未満とあり、当時36歳であった私には無理であった。ところが、その時に電話に出てくれた担当官が官僚にしては非常に親切な人で、理化学研究所にも似たようなポストがあることを教えてくれたのであった。それは、当時出来てまだ間もない理研の基礎科学特別研究員というポストであった。
調べてみると、やはり残念ながら、私は規定年齢35歳を1歳オーバーしていたのである。しかし、まあどうせ駄目だろうが、この際出すだけは出してみようと駄目もとで応募したのである。半ばやけくそのようなものであった。
ところが、どうしたことか、私に理研は関心を持ち、書類審査に受かり、二次面接に来い、とお呼びがかかったのである。それで、うれしくなり、真夏の和光に有給休暇を取って出かけたのである。そして、そこで面接を受けた。
面接では、およそ10人ほどの理事や理事長がいて、その方々の前で自分のビジョンに関する講演を5分ほど行った。当時私はこれらの方々のだれ一人会ったことも見たこともなかった。だからだれが理事長の小田さんでだれが副理事長の佐田さんであるとか皆目分からなかったのである。そんな状況で一人が聞いたのである。
”君の経歴は紆余曲折しているが、それはどうしてなんですかね?”
後で分かったが、これが副理事長の佐田さんであった。そこで私は
”さあ、分かりません。偶然そうなっただけです。特に理由はありません。”
と率直に答えた。
面接後、私はおそらく年齢制限で落とされるだろう、と予想していた。つまり、理研も科学技術庁の配下にある官僚組織であるのだから、きっと官僚的に落とされるだろうと考えていたのである。ところが、結果は見事に合格であったのである。これには私が一番驚いたのであった。理研は官僚的ではなかった、のである。そういうわけで、私は1993年に富士通を退職して理研に移ったのである。
理研に入った後で結晶学研究室の渡辺さんに聞くと、担当の係りから”こんな人が結晶学に来たいと言っているがどうでしょうか?”と渡辺さんに聞いたようである。そして、渡辺さんは”彼なら落とす理由はありません。”と答えたのだそうである。私はそういう理由で合格したということらしい。偶然だが、私が富士通にいた頃筑波の準周期系の研究会で渡辺さんとは2度程お会いしたことがあったのである。そのため、渡辺さんが私の研究を非常によく理解していてそういう返事をしてくれたようである。
また、入って1年目に理事長ファンドに応募した。この時も鉛筆をぽんぽん手で叩きながら私の話を聞き入っていたのが小田博士であった。これもまた運良くもらうことが出来た。これも後で聞いたことだが、小田博士が”彼の研究は変わっているが落とす理由が見つからない”という理由で採用されたとのことである。
このように、理研の3年間の体験と理事長ファンド授与の両方でたいへんお世話になり、私は小田博士には本当に感謝しているのである。この方が理事長でなければ私は理研には入れなかっただろうからである。
理研を去って特にどこかの職を得たわけではなかったが、1998年に私は思いきって(これまた駄目もとかつ半分やけくそで)三菱財団の自然科学研究助成を応募したのである。この時にもフリーランス物理学者という’肩書き’で応募したのだが、これまた話に来いということになった。東京駅近くの三菱財団ビルで話をしたのである。これまた、非常に’数学的’で変わった研究であったが、運良く私の研究は採用された。
このように、私はどういうわけか小田博士とは縁があり、私の知らない影で非常にお世話になったのである。ひょっとしたら御迷惑をお掛けしたのかも知れないが、私には分からない。
小田博士とは最後にその三菱財団のパーティーの席上で会食しながら雑談した。私はその時ふと聞いてみたいことが見つかり、”小田さんも有馬さんのように今度は国会議員になるんですか?”とかなりぶしつけな質問をしてしまった。それに対して小田さんは”僕は有馬君とは違います。”と答えたのである。どういう意味で違うのか、私には分からなかったが、小田博士はやはり有馬博士のように政治家にはならなかったのである。この意味でも’一本’芯の貫かれた学者であった。私との会話はそれっきりだったが、今もその時の表情を昨日のように覚えているのである。
この小田博士は、朝永振一郎博士の薫陶を色濃く受けた人だと言われている。この意味で、また一人日本の物理学者で朝永-湯川の時代のアカデミズムの良さを体現した人物がいなくなったというわけである。大変残念に思う。御冥福を心よりお祈りたい。
ちなみに、1昨年小柴博士といっしょにノーベル賞を受賞したアメリカのジャコーニ博士こそ、小田さんがアメリカ留学中に世界初で行った’X線天文学’の同僚なのである。ジャコーニ博士の業績には小田博士の業績も含まれているのである。だから、もし生きておられたなら、小柴博士と小田博士が同時受賞であったかも知れない。この意味でも実に残念であった。
私が1993年理研の基礎科学特別研究員に応募した時、小田博士が理研の理事長をしていた。私は当時勤めていた富士通、計算科学研究部では、自分の研究は続けにくいと判断し、科学技術庁の研究員に応募しようと考えた。しかしそれには採用規定の年齢が32歳未満とあり、当時36歳であった私には無理であった。ところが、その時に電話に出てくれた担当官が官僚にしては非常に親切な人で、理化学研究所にも似たようなポストがあることを教えてくれたのであった。それは、当時出来てまだ間もない理研の基礎科学特別研究員というポストであった。
調べてみると、やはり残念ながら、私は規定年齢35歳を1歳オーバーしていたのである。しかし、まあどうせ駄目だろうが、この際出すだけは出してみようと駄目もとで応募したのである。半ばやけくそのようなものであった。
ところが、どうしたことか、私に理研は関心を持ち、書類審査に受かり、二次面接に来い、とお呼びがかかったのである。それで、うれしくなり、真夏の和光に有給休暇を取って出かけたのである。そして、そこで面接を受けた。
面接では、およそ10人ほどの理事や理事長がいて、その方々の前で自分のビジョンに関する講演を5分ほど行った。当時私はこれらの方々のだれ一人会ったことも見たこともなかった。だからだれが理事長の小田さんでだれが副理事長の佐田さんであるとか皆目分からなかったのである。そんな状況で一人が聞いたのである。
”君の経歴は紆余曲折しているが、それはどうしてなんですかね?”
後で分かったが、これが副理事長の佐田さんであった。そこで私は
”さあ、分かりません。偶然そうなっただけです。特に理由はありません。”
と率直に答えた。
面接後、私はおそらく年齢制限で落とされるだろう、と予想していた。つまり、理研も科学技術庁の配下にある官僚組織であるのだから、きっと官僚的に落とされるだろうと考えていたのである。ところが、結果は見事に合格であったのである。これには私が一番驚いたのであった。理研は官僚的ではなかった、のである。そういうわけで、私は1993年に富士通を退職して理研に移ったのである。
理研に入った後で結晶学研究室の渡辺さんに聞くと、担当の係りから”こんな人が結晶学に来たいと言っているがどうでしょうか?”と渡辺さんに聞いたようである。そして、渡辺さんは”彼なら落とす理由はありません。”と答えたのだそうである。私はそういう理由で合格したということらしい。偶然だが、私が富士通にいた頃筑波の準周期系の研究会で渡辺さんとは2度程お会いしたことがあったのである。そのため、渡辺さんが私の研究を非常によく理解していてそういう返事をしてくれたようである。
また、入って1年目に理事長ファンドに応募した。この時も鉛筆をぽんぽん手で叩きながら私の話を聞き入っていたのが小田博士であった。これもまた運良くもらうことが出来た。これも後で聞いたことだが、小田博士が”彼の研究は変わっているが落とす理由が見つからない”という理由で採用されたとのことである。
このように、理研の3年間の体験と理事長ファンド授与の両方でたいへんお世話になり、私は小田博士には本当に感謝しているのである。この方が理事長でなければ私は理研には入れなかっただろうからである。
理研を去って特にどこかの職を得たわけではなかったが、1998年に私は思いきって(これまた駄目もとかつ半分やけくそで)三菱財団の自然科学研究助成を応募したのである。この時にもフリーランス物理学者という’肩書き’で応募したのだが、これまた話に来いということになった。東京駅近くの三菱財団ビルで話をしたのである。これまた、非常に’数学的’で変わった研究であったが、運良く私の研究は採用された。
このように、私はどういうわけか小田博士とは縁があり、私の知らない影で非常にお世話になったのである。ひょっとしたら御迷惑をお掛けしたのかも知れないが、私には分からない。
小田博士とは最後にその三菱財団のパーティーの席上で会食しながら雑談した。私はその時ふと聞いてみたいことが見つかり、”小田さんも有馬さんのように今度は国会議員になるんですか?”とかなりぶしつけな質問をしてしまった。それに対して小田さんは”僕は有馬君とは違います。”と答えたのである。どういう意味で違うのか、私には分からなかったが、小田博士はやはり有馬博士のように政治家にはならなかったのである。この意味でも’一本’芯の貫かれた学者であった。私との会話はそれっきりだったが、今もその時の表情を昨日のように覚えているのである。
この小田博士は、朝永振一郎博士の薫陶を色濃く受けた人だと言われている。この意味で、また一人日本の物理学者で朝永-湯川の時代のアカデミズムの良さを体現した人物がいなくなったというわけである。大変残念に思う。御冥福を心よりお祈りたい。
ちなみに、1昨年小柴博士といっしょにノーベル賞を受賞したアメリカのジャコーニ博士こそ、小田さんがアメリカ留学中に世界初で行った’X線天文学’の同僚なのである。ジャコーニ博士の業績には小田博士の業績も含まれているのである。だから、もし生きておられたなら、小柴博士と小田博士が同時受賞であったかも知れない。この意味でも実に残念であった。
[ 17:57 ]
[ 訃報・追悼 ]
2000年6月。日本の「DNA・タンパク質」研究の第一人者、右衛門佐重雄(よもさしげお)さん、死去。
私がタンパク質やDNAの電子状態の研究に着手したのは、私が理化学研究所に入った1993年のことである。当時、図書室に通っては数多くの古典的論文を探して目を通したものである。中でもこの分野には日本に創始者のグループが存在した。それが、故福井謙一博士(京都大学)率いた’量子化学’のグループであった。
このグループは1950年代から1960年代まで(特に1960年代後半)に非常に優れた先駆的研究を行ったのである。最初は簡単な有機物質(炭素の化合物)を中心に研究し、有名な(現在では常識となった)’最高占有軌道(HOMO)’と’最低非占有軌道(LUMO)’の概念の発見をしたのであった。
さらに、福井博士が開発した方法をもっと複雑な高分子、それもDNAやタンパク質などに応用することが1960年代から70年代の量子化学分野の世界的なテーマとなったのである。
ライバルは西ドイツのLadik博士(現存)であった。このLadik博士がまず最初にDNAの電子状態を量子化学の手法を使って大まかな結果を出したのである。それを日本の福井門下生たちが追求した。
この京都大グループは日本の一大グループとなり、京都大学の福井、東大の長倉と比較されたようである。これらとは別にまったく’孤高’の立場で、どちらに組みするでもなく、名古屋で同じテーマで非常に優れた研究を行ったのが、右衛門佐博士であった。
しかし、こういった研究は福井博士のグループが現役であった1980年代まで続いたが、どういうわけか、日本国内ではこのグループの後を継ぐ集団は現れなかったのである。一方、Ladik博士のグループはしぶとく現代に至まで続けていたのである。
私が理研で発見したのは、これであった。これほどまでに優れた研究者たちがかつては存在したにもかかわらず、このグループの手法や概念の正当な後継者は日本では絶滅したのであった。
私の個人的見解では、当時はまだDNAやタンパク質の確実な実験結果が出せなかったことや、コンピュータパワーもあまりなく、まだDNAやタンパク質の理論研究にも限界があったからであろう、と考えている。実験においても理論においても1980年代はまだ中途半端な時代であった、というわけである。
そして1990年代になって再びイギリスやドイツやアメリカの研究者たちが、DNAの電子状態を実験的に研究する道を開発したのである。それは、この時代になっていわゆるナノテクノロジーが非常に発展してきたからである。ほぼ同時にコンピュータの性能も飛躍的に進歩したのである。これらが相まって現在では第二次DNA研究ブームとなったわけである(もちろん、ほとんどの研究者は今が第二次だとは知らないだろうが)。
この時期の1995年に私は理研でミードとケイエムの実験を知ったのである。これはDNAが1本鎖の時と2本鎖の時では電気伝導に10万倍もの差が出る、2本鎖の方が流れやすい、という実験である。これを契機に私は簡単な2本鎖DNAモデルを作ってその電子伝導を考えたのである。そして、当時まだ健在であった、右衛門佐博士と福井博士の門下生であった永田親義博士にまっ先に意見を求めたのである。
その時以来、私は右衛門佐博士や永田博士と手紙で何度か教えを請うたのである。永田博士とは今も続いている。そして、右衛門博士から古典的研究の別刷りを数多く貰い受け、非常に恩恵に預かったのであった。
ある時、突然、再び別刷の大半が右衛門博士から送られてきたのである。この時何か変だなとは感じたのだが、しばらくして私は右衛門佐博士の死を新聞誌上で知ったのであった。大変残念である。御冥福を心からお祈りしたい。
私がタンパク質やDNAの電子状態の研究に着手したのは、私が理化学研究所に入った1993年のことである。当時、図書室に通っては数多くの古典的論文を探して目を通したものである。中でもこの分野には日本に創始者のグループが存在した。それが、故福井謙一博士(京都大学)率いた’量子化学’のグループであった。
このグループは1950年代から1960年代まで(特に1960年代後半)に非常に優れた先駆的研究を行ったのである。最初は簡単な有機物質(炭素の化合物)を中心に研究し、有名な(現在では常識となった)’最高占有軌道(HOMO)’と’最低非占有軌道(LUMO)’の概念の発見をしたのであった。
さらに、福井博士が開発した方法をもっと複雑な高分子、それもDNAやタンパク質などに応用することが1960年代から70年代の量子化学分野の世界的なテーマとなったのである。
ライバルは西ドイツのLadik博士(現存)であった。このLadik博士がまず最初にDNAの電子状態を量子化学の手法を使って大まかな結果を出したのである。それを日本の福井門下生たちが追求した。
この京都大グループは日本の一大グループとなり、京都大学の福井、東大の長倉と比較されたようである。これらとは別にまったく’孤高’の立場で、どちらに組みするでもなく、名古屋で同じテーマで非常に優れた研究を行ったのが、右衛門佐博士であった。
しかし、こういった研究は福井博士のグループが現役であった1980年代まで続いたが、どういうわけか、日本国内ではこのグループの後を継ぐ集団は現れなかったのである。一方、Ladik博士のグループはしぶとく現代に至まで続けていたのである。
私が理研で発見したのは、これであった。これほどまでに優れた研究者たちがかつては存在したにもかかわらず、このグループの手法や概念の正当な後継者は日本では絶滅したのであった。
私の個人的見解では、当時はまだDNAやタンパク質の確実な実験結果が出せなかったことや、コンピュータパワーもあまりなく、まだDNAやタンパク質の理論研究にも限界があったからであろう、と考えている。実験においても理論においても1980年代はまだ中途半端な時代であった、というわけである。
そして1990年代になって再びイギリスやドイツやアメリカの研究者たちが、DNAの電子状態を実験的に研究する道を開発したのである。それは、この時代になっていわゆるナノテクノロジーが非常に発展してきたからである。ほぼ同時にコンピュータの性能も飛躍的に進歩したのである。これらが相まって現在では第二次DNA研究ブームとなったわけである(もちろん、ほとんどの研究者は今が第二次だとは知らないだろうが)。
この時期の1995年に私は理研でミードとケイエムの実験を知ったのである。これはDNAが1本鎖の時と2本鎖の時では電気伝導に10万倍もの差が出る、2本鎖の方が流れやすい、という実験である。これを契機に私は簡単な2本鎖DNAモデルを作ってその電子伝導を考えたのである。そして、当時まだ健在であった、右衛門佐博士と福井博士の門下生であった永田親義博士にまっ先に意見を求めたのである。
その時以来、私は右衛門佐博士や永田博士と手紙で何度か教えを請うたのである。永田博士とは今も続いている。そして、右衛門博士から古典的研究の別刷りを数多く貰い受け、非常に恩恵に預かったのであった。
ある時、突然、再び別刷の大半が右衛門博士から送られてきたのである。この時何か変だなとは感じたのだが、しばらくして私は右衛門佐博士の死を新聞誌上で知ったのであった。大変残念である。御冥福を心からお祈りしたい。
[ 17:02 ]
[ 訃報・追悼 ]
2000年10月8日。「市民科学者」の代表者、高木仁三郎さん死去。同日午前、直腸がんのため病死。享年62歳。
普通の科学者は大学を卒業し、大学院に入る。そしてそこを卒業してまた大学の研究者となりたがる。なぜならそういう人は、’大学の研究者’、’大学の学者’、’大学教授’などといういわゆるステイタスが欲しいからである。また、日本の学者は明治時代から国家公務員職として社会に存在し、高ステイタスでありながら、身分は安泰、そして高給である、というかなり特殊な立場であり得たからである。
だから、もしあなたが大学で原子核物理の研究をして博士になったなら、まず確実にあなたは政府御用達の核物理研究者として生きる道を最善であると考えるはずである。政府臨時調査委員会や諮問員会などに政府の政策を支持する立場として国に貢献したい、とあなたは思うはずである。これがこれまでのほとんどの日本の科学者や医者の取ってきた道であった。
しかし、こんな時代背景の中でも高木博士は’野に下り’、市民とともに生きる道を模索した。特に核物理の専門家として原子力問題などにおいて反原発運動の騎手として活躍した。氏の’精神’を継ぐ、いわゆる’高木学校’というものもある。こうした永年の活躍が認められて、もう一つのノーベル賞「ライトライブリフッド賞」を1997年受賞したのである。
御冥福を祈りたい。
普通の科学者は大学を卒業し、大学院に入る。そしてそこを卒業してまた大学の研究者となりたがる。なぜならそういう人は、’大学の研究者’、’大学の学者’、’大学教授’などといういわゆるステイタスが欲しいからである。また、日本の学者は明治時代から国家公務員職として社会に存在し、高ステイタスでありながら、身分は安泰、そして高給である、というかなり特殊な立場であり得たからである。
だから、もしあなたが大学で原子核物理の研究をして博士になったなら、まず確実にあなたは政府御用達の核物理研究者として生きる道を最善であると考えるはずである。政府臨時調査委員会や諮問員会などに政府の政策を支持する立場として国に貢献したい、とあなたは思うはずである。これがこれまでのほとんどの日本の科学者や医者の取ってきた道であった。
しかし、こんな時代背景の中でも高木博士は’野に下り’、市民とともに生きる道を模索した。特に核物理の専門家として原子力問題などにおいて反原発運動の騎手として活躍した。氏の’精神’を継ぐ、いわゆる’高木学校’というものもある。こうした永年の活躍が認められて、もう一つのノーベル賞「ライトライブリフッド賞」を1997年受賞したのである。
御冥福を祈りたい。
[ 16:26 ]
[ 訃報・追悼 ]
2000年5月21日。「ゲルの相転移」の創始者、MIT正教授、田中豊一さん死去。テニスの最中における心不全による不慮の死。享年54歳。
田中氏は、実験物理学者であった。実験物理学者とはいろいろ機具を使って実験をして自然を研究する物理学者のことである。田中氏はゲルという物質の研究者であった。ゲルとは高分子の状態の1つのことで、ゼラチンのような物質のことである。高分子物質が、ある条件を満たす場合に何倍にも体積を増して巨大化する、という現象を発見したのである。これを’ゲルの相転移’という。小さなゴムのようなものをお湯に入れると急に巨大化する玩具があるが、こういった物質を発見したのである。この全く新しい物理現象を発見しその物理学的機構まですべて解明したのが田中氏であった。それゆえ、将来ノーベル賞をほぼ確実に受賞するだろう候補として嘱望されていた人物である。
近年はそのアイデアをタンパク質折れ畳み問題や液体-気体の相転移問題などに応用してきた。私も田中氏のグループの主要な研究論文はすべて目を通しているが、どれも実に示唆的で物理学的内容が実に分かりやすいのがその特徴である。さらに近年ではこの’ゲルの相転移’の概念が生物学に応用されてきているところである。
私の個人的見解では、氏の物理学の関心は常に物理学のもっとも深い問題の1つである’(1次)相転移現象’にあったのではないか、と見ている。つまり、統計力学原理の追求である。それを理論的かつ実験的にアプローチしていた研究者であるといえるだろう。
MITを代表する気鋭の学者であった。本当におしい科学者を失ってしまったものである。本当に残念である。心より御冥福を祈りたい。
田中氏は、実験物理学者であった。実験物理学者とはいろいろ機具を使って実験をして自然を研究する物理学者のことである。田中氏はゲルという物質の研究者であった。ゲルとは高分子の状態の1つのことで、ゼラチンのような物質のことである。高分子物質が、ある条件を満たす場合に何倍にも体積を増して巨大化する、という現象を発見したのである。これを’ゲルの相転移’という。小さなゴムのようなものをお湯に入れると急に巨大化する玩具があるが、こういった物質を発見したのである。この全く新しい物理現象を発見しその物理学的機構まですべて解明したのが田中氏であった。それゆえ、将来ノーベル賞をほぼ確実に受賞するだろう候補として嘱望されていた人物である。
近年はそのアイデアをタンパク質折れ畳み問題や液体-気体の相転移問題などに応用してきた。私も田中氏のグループの主要な研究論文はすべて目を通しているが、どれも実に示唆的で物理学的内容が実に分かりやすいのがその特徴である。さらに近年ではこの’ゲルの相転移’の概念が生物学に応用されてきているところである。
私の個人的見解では、氏の物理学の関心は常に物理学のもっとも深い問題の1つである’(1次)相転移現象’にあったのではないか、と見ている。つまり、統計力学原理の追求である。それを理論的かつ実験的にアプローチしていた研究者であるといえるだろう。
MITを代表する気鋭の学者であった。本当におしい科学者を失ってしまったものである。本当に残念である。心より御冥福を祈りたい。
2004/12/02のBlog
[ 12:21 ]
[ サッカー ]
ちなみに、私がオーマイゴッド!国士舘大サッカー部セックス漬けで
”良い仕事がしたかったら、しっかりした家庭を築き、私生活を安定させろ!”
と書いて投稿した直後に、朝日新聞にJ1セレッソの大久保が結婚 という記事が出たようである。実に素晴らしいことである。心からおめでとうと言いたい。”末永くお幸せに”というところである。
これは、大久保選手は、身を固めてサッカーに集中する決心をした、という意味であろう。さもなくば、世界最高レベルで、これまた世界最高に’厳しい’スペインリーグでは活躍できるはずがない、からである。今後の活躍を期待したい。
”良い仕事がしたかったら、しっかりした家庭を築き、私生活を安定させろ!”
と書いて投稿した直後に、朝日新聞にJ1セレッソの大久保が結婚 という記事が出たようである。実に素晴らしいことである。心からおめでとうと言いたい。”末永くお幸せに”というところである。
これは、大久保選手は、身を固めてサッカーに集中する決心をした、という意味であろう。さもなくば、世界最高レベルで、これまた世界最高に’厳しい’スペインリーグでは活躍できるはずがない、からである。今後の活躍を期待したい。
[ 10:23 ]
[ サッカー ]
いやはやなんとも困ったものである。読売の『サッカー部員の不祥事、国士舘大学長が陳謝』によると、国士舘大学サッカー部員が集団で少女とエッチしてお縄となった、というのである。
我々サッカーマンとしては本当にサッカーマンの風上にもおけない不祥事であると思う。関係者は連中に厳罰に処すべきであろう。ドゥンガが『セレソン』の中でいみじくも言ったように、”サッカーは他のどのスポーツとも違う”のである。サッカーはこの世界でどの国でもやったことがないという人はいない、という世界でもっともポピュラーなスポーツであり、スポーツの中のスポーツ、’キング オブ スポーツ’であるからである。
しかし、まあ、今回の国士舘未成年者セックス事件が示していることは、すでに私が以下のように書いたこと(高円宮杯が意味するもの:文武両道の時代)が事実であることを証明しただけのことであろう。
「10月3日夜のワールドユースの日本対オマーン戦、何とか日本はPK合戦で勝利をものにした。しかし、その代表レギュラーの1人である国見高校出身の平山選手の”へたくそ”加減には目をおおいたくなるほどであった。この原因は以下のものである。
かつて私がプレーした頃1970年代や中山選手がプレーした頃の1980年代の大学サッカーはレベルが高かった。それはJリーグのユース組織や下部組織のようなものはなく、いわゆるジュニア世代はほとんど大学進学したからである。つまり、プロサッカーがなかったからである。だから、ゴン中山選手や井原選手のいた筑波大学や西野や岡田のいた早稲田大学は全日本レベルであり得たのである。
しかし、現在では若手の優秀選手はほとんどJリーグのジュニアに入っている。そして、大学へ進学してサッカーするのではなく、Jリーグのプロサッカーに所属してサッカーの練習や試合を行う。こういう方式に変わってきた。中には、ガンバ大阪の宮本選手(日本代表)のように、Jリーグのプロと大学生を掛け持ち、平行して、つまり”文武両道”で学士までとる選手も現れてきたのである。宮本選手はJリーグのプロ選手を続けながらその一方で大学生となり大学卒業を果たしたのである。」
ここで述べたように、要するにJリーグが出来て以来、今どき大学でサッカーしているような連中は’ろくでもない’レベルの人間達だということである。サッカーでやる気のあるのは、すべてJリーグに行く。とまあ、こういう状況になったということだろう。
また、 U23日本代表アテネ行きおめでとう:山本監督に望むこと 2004/03/22(Mon)に書いたように、若いサッカー選手の’性管理’は非常に重要である。サッカーではこれが選手生命にすら影響が出るからである。
「(2)”選手の性管理は監督の仕事である。”
若い選手の”性行為”などの面も含めて選手管理するのは非常にたいへんなことである。が、しかし、これもまた監督の仕事である。私が現役の選手の頃も、監督は選手が性的な面で体力を消耗したり、コンディションを崩すことを嫌い、大会期間中には、そういう面もしっかり”注意”し、いつも”釘をさした”ものである。”女には手を出すな。軽いマスターべーション程度にしておけ。”などと良く言われたものである。
ましてや、夜な夜な女あさりに行くとか、キャバクラへ出向いて女の尻を追っ掛ける、というのは”論外”である。ところが、そういうことをジーコ監督率いる日本代表の1/3の選手(は小笠原(鹿島)、久保、奥(横浜)、山田暢、都築(浦和)、大久保(セ大阪)、茂庭(FC 東京)、山田卓(東京ヴ))がやっていたわけであるが、この中にU23の大久保選手もしっかりと入っていたわけである。サッカーにおいていくら”才能”がありサッカーがうまかろうが、こういう面のコントロールができない選手、言い換えれば、”酒、たばこと女に弱いタイプ”の選手は、論外であるだろう。
では、こういう選手の特徴は何だろうか?
皆さんはあまり知らないかもしれないが、それは、”好不調の波が大きい選手”というものである。上のジーコ代表チームから追い出された選手達は、小笠原、大久保、久保、奥、山田選手など、本来サッカーの才能があるが、ある時は信じられないようなすごいプレーをする、と思うと、方や別のある時には、まったく良いところなく終る、というタイプの選手達である。つまり、結果を”計算できない”選手である。一方、中田選手はその逆で、いつもコンスタントに一定の力を発揮して、いつも戦力として”計算できる”選手である。私は後者のタイプであった。
この違いが、”私生活の淡白さ”にあるのである。ジダン、ドウンガ、ロナウド、など、海外であろうが、国内であろうが、いつもその実力を発揮し、計算ができる選手というのは、みな一様に私生活が地味で淡白である。それはサッカーのシーズン中はずっとサッカーに神経を集中しなくてはならず、普段の生活はのんびりして体を休めておかなくてはならないからである。これが”プロ選手”の共通の特徴なのである。
日本代表に選ばれたから、それで大喜びして試合直前に監督の命令を無視して、深夜パーティーをして、酒を飲むは女と戯れるはでは、翌日の試合に活躍できるはずがない、のである。こういうことは、鹿児島や長崎など九州では許されるかもしれないが、私や中田選手の出身の山梨などでは許されないことなのである。国見の監督はいまは高校の校長先生であるらしいが、サッカー選手にこの一番大事なことを教えてこなかった、ようである。大変残念なことである。」
二日程前、テレビのさんまの番組で昔『俺たちの旅』に出ていた秋野大作さんが面白いことを言っていた。
俗に芸能界では昔から”酒、たばこ、女は芸の肥やしになる”というがどう思うか、というさんまの質問に対して、秋野さんは次のような主旨のことを言った。
『それは真っ赤なウソだね。俺も若い頃さんざん先輩達にそう言われて一時はそういうもんか、と思ってやってみたこともあったが、すぐに止めた。それからずっとそれが本当かどうか観察してきたが、’酒、たばこ、女’に走ったやつでビッグになったやつは全くいなかった。たいていは’はまっちゃって’それっきりだった。ありゃー、ウソだね。』
私もこれは全くの事実であると思う。サッカー界であれ、スポーツ界であれ、芸能界であれ、科学界であれ、学問の世界であれ、どんな分野でもそうである。私生活の乱れているものは、必ずその乱れは常日頃その人に漂う。水商売の女性がどんな身なりをしていようがやはり’お水’の雰囲気が漂うのと同じことで、スポーツマンや科学者と言えども、私生活の乱れはぬぐい去ることは出来ない。
例えば、今は名占師の顔をしている細木和子さんが、ひょんなところで使い言葉の節々にちまたに良くみかけるような’相談好き’な’水商売のママ’をその昔にやっていたことを彷佛させる。こういう形でかならず私生活の乱れは出てくるのである。
スポーツマンで言えば、セレッソ大阪の大久保選手と今度野球の新球団’楽天’入りが決まった一場選手の’顔つき’が非常に似ている、と私は感じている。2人とも、表向きは名選手でありながら、どことなく’暗い影’が付きまとう。これである。これが’私生活の乱れ’が引き起こした’影’である。二人とも、夜遊びが大好きで酒を飲んでは女と遊ぶ。こういうことを若くして身に付けてしまった。もちろん、それが自分のフィアンセなりガールフレンドであるのならば何も問題ないが、水商売や性風俗の女性たちと遊ぶのである。こういう’私生活の乱れ’がその選手の寿命を極端に短くするのである。
イギリスのベッカム選手や日本ハムの新庄選手たちにはこうした’影’がない。彼等は非常に’さわやか’で’輝いている’。これが私生活の’淡白さ’なのである。
かつてイギリスにはジョージ・ベストという天才サッカー選手がいたが、今のベッカム選手の数倍もうまく、なおかつハンサムな選手であった。1960一70年代当時ベスト旋風が吹き荒れたのである。しかし、あまりの人気やさまざまなストレスのために、ベスト選手は酒と女に溺れて、しまいにはかつてのボクシング世界チャンピオンがパンチドランカー症になってぼろぼろになって廃人になるように、ベストも最後にはぼろぼろの選手になってサッカーの舞台から去ってしまったのである。
男の世界、それも真の男の世界では、昔からこういうのである。
”良い仕事がしたかったら、しっかりした家庭を築き、私生活を安定させろ!”
これは、昔は男社会の男性だけに対して向けられた言葉であるが、今では男女問わない言葉であろう。
上で紹介した芸能界の”酒、たばこ、女は芸の肥やしになる”という言葉は、自分の仕事を失うことを恐れる先輩芸能人が有望な新人芸能人を密かに蹴落とすために用いている常套手段なのではないか、と私には見えるのである。こんな’悪魔のささやき’や’誘惑’にほだされて自分の輝かしい未来を失っては欲しくないものである。なぜならそれは真っ赤なウソだからである。私はそう思う。
我々サッカーマンとしては本当にサッカーマンの風上にもおけない不祥事であると思う。関係者は連中に厳罰に処すべきであろう。ドゥンガが『セレソン』の中でいみじくも言ったように、”サッカーは他のどのスポーツとも違う”のである。サッカーはこの世界でどの国でもやったことがないという人はいない、という世界でもっともポピュラーなスポーツであり、スポーツの中のスポーツ、’キング オブ スポーツ’であるからである。
しかし、まあ、今回の国士舘未成年者セックス事件が示していることは、すでに私が以下のように書いたこと(高円宮杯が意味するもの:文武両道の時代)が事実であることを証明しただけのことであろう。
「10月3日夜のワールドユースの日本対オマーン戦、何とか日本はPK合戦で勝利をものにした。しかし、その代表レギュラーの1人である国見高校出身の平山選手の”へたくそ”加減には目をおおいたくなるほどであった。この原因は以下のものである。
かつて私がプレーした頃1970年代や中山選手がプレーした頃の1980年代の大学サッカーはレベルが高かった。それはJリーグのユース組織や下部組織のようなものはなく、いわゆるジュニア世代はほとんど大学進学したからである。つまり、プロサッカーがなかったからである。だから、ゴン中山選手や井原選手のいた筑波大学や西野や岡田のいた早稲田大学は全日本レベルであり得たのである。
しかし、現在では若手の優秀選手はほとんどJリーグのジュニアに入っている。そして、大学へ進学してサッカーするのではなく、Jリーグのプロサッカーに所属してサッカーの練習や試合を行う。こういう方式に変わってきた。中には、ガンバ大阪の宮本選手(日本代表)のように、Jリーグのプロと大学生を掛け持ち、平行して、つまり”文武両道”で学士までとる選手も現れてきたのである。宮本選手はJリーグのプロ選手を続けながらその一方で大学生となり大学卒業を果たしたのである。」
ここで述べたように、要するにJリーグが出来て以来、今どき大学でサッカーしているような連中は’ろくでもない’レベルの人間達だということである。サッカーでやる気のあるのは、すべてJリーグに行く。とまあ、こういう状況になったということだろう。
また、 U23日本代表アテネ行きおめでとう:山本監督に望むこと 2004/03/22(Mon)に書いたように、若いサッカー選手の’性管理’は非常に重要である。サッカーではこれが選手生命にすら影響が出るからである。
「(2)”選手の性管理は監督の仕事である。”
若い選手の”性行為”などの面も含めて選手管理するのは非常にたいへんなことである。が、しかし、これもまた監督の仕事である。私が現役の選手の頃も、監督は選手が性的な面で体力を消耗したり、コンディションを崩すことを嫌い、大会期間中には、そういう面もしっかり”注意”し、いつも”釘をさした”ものである。”女には手を出すな。軽いマスターべーション程度にしておけ。”などと良く言われたものである。
ましてや、夜な夜な女あさりに行くとか、キャバクラへ出向いて女の尻を追っ掛ける、というのは”論外”である。ところが、そういうことをジーコ監督率いる日本代表の1/3の選手(は小笠原(鹿島)、久保、奥(横浜)、山田暢、都築(浦和)、大久保(セ大阪)、茂庭(FC 東京)、山田卓(東京ヴ))がやっていたわけであるが、この中にU23の大久保選手もしっかりと入っていたわけである。サッカーにおいていくら”才能”がありサッカーがうまかろうが、こういう面のコントロールができない選手、言い換えれば、”酒、たばこと女に弱いタイプ”の選手は、論外であるだろう。
では、こういう選手の特徴は何だろうか?
皆さんはあまり知らないかもしれないが、それは、”好不調の波が大きい選手”というものである。上のジーコ代表チームから追い出された選手達は、小笠原、大久保、久保、奥、山田選手など、本来サッカーの才能があるが、ある時は信じられないようなすごいプレーをする、と思うと、方や別のある時には、まったく良いところなく終る、というタイプの選手達である。つまり、結果を”計算できない”選手である。一方、中田選手はその逆で、いつもコンスタントに一定の力を発揮して、いつも戦力として”計算できる”選手である。私は後者のタイプであった。
この違いが、”私生活の淡白さ”にあるのである。ジダン、ドウンガ、ロナウド、など、海外であろうが、国内であろうが、いつもその実力を発揮し、計算ができる選手というのは、みな一様に私生活が地味で淡白である。それはサッカーのシーズン中はずっとサッカーに神経を集中しなくてはならず、普段の生活はのんびりして体を休めておかなくてはならないからである。これが”プロ選手”の共通の特徴なのである。
日本代表に選ばれたから、それで大喜びして試合直前に監督の命令を無視して、深夜パーティーをして、酒を飲むは女と戯れるはでは、翌日の試合に活躍できるはずがない、のである。こういうことは、鹿児島や長崎など九州では許されるかもしれないが、私や中田選手の出身の山梨などでは許されないことなのである。国見の監督はいまは高校の校長先生であるらしいが、サッカー選手にこの一番大事なことを教えてこなかった、ようである。大変残念なことである。」
二日程前、テレビのさんまの番組で昔『俺たちの旅』に出ていた秋野大作さんが面白いことを言っていた。
俗に芸能界では昔から”酒、たばこ、女は芸の肥やしになる”というがどう思うか、というさんまの質問に対して、秋野さんは次のような主旨のことを言った。
『それは真っ赤なウソだね。俺も若い頃さんざん先輩達にそう言われて一時はそういうもんか、と思ってやってみたこともあったが、すぐに止めた。それからずっとそれが本当かどうか観察してきたが、’酒、たばこ、女’に走ったやつでビッグになったやつは全くいなかった。たいていは’はまっちゃって’それっきりだった。ありゃー、ウソだね。』
私もこれは全くの事実であると思う。サッカー界であれ、スポーツ界であれ、芸能界であれ、科学界であれ、学問の世界であれ、どんな分野でもそうである。私生活の乱れているものは、必ずその乱れは常日頃その人に漂う。水商売の女性がどんな身なりをしていようがやはり’お水’の雰囲気が漂うのと同じことで、スポーツマンや科学者と言えども、私生活の乱れはぬぐい去ることは出来ない。
例えば、今は名占師の顔をしている細木和子さんが、ひょんなところで使い言葉の節々にちまたに良くみかけるような’相談好き’な’水商売のママ’をその昔にやっていたことを彷佛させる。こういう形でかならず私生活の乱れは出てくるのである。
スポーツマンで言えば、セレッソ大阪の大久保選手と今度野球の新球団’楽天’入りが決まった一場選手の’顔つき’が非常に似ている、と私は感じている。2人とも、表向きは名選手でありながら、どことなく’暗い影’が付きまとう。これである。これが’私生活の乱れ’が引き起こした’影’である。二人とも、夜遊びが大好きで酒を飲んでは女と遊ぶ。こういうことを若くして身に付けてしまった。もちろん、それが自分のフィアンセなりガールフレンドであるのならば何も問題ないが、水商売や性風俗の女性たちと遊ぶのである。こういう’私生活の乱れ’がその選手の寿命を極端に短くするのである。
イギリスのベッカム選手や日本ハムの新庄選手たちにはこうした’影’がない。彼等は非常に’さわやか’で’輝いている’。これが私生活の’淡白さ’なのである。
かつてイギリスにはジョージ・ベストという天才サッカー選手がいたが、今のベッカム選手の数倍もうまく、なおかつハンサムな選手であった。1960一70年代当時ベスト旋風が吹き荒れたのである。しかし、あまりの人気やさまざまなストレスのために、ベスト選手は酒と女に溺れて、しまいにはかつてのボクシング世界チャンピオンがパンチドランカー症になってぼろぼろになって廃人になるように、ベストも最後にはぼろぼろの選手になってサッカーの舞台から去ってしまったのである。
男の世界、それも真の男の世界では、昔からこういうのである。
”良い仕事がしたかったら、しっかりした家庭を築き、私生活を安定させろ!”
これは、昔は男社会の男性だけに対して向けられた言葉であるが、今では男女問わない言葉であろう。
上で紹介した芸能界の”酒、たばこ、女は芸の肥やしになる”という言葉は、自分の仕事を失うことを恐れる先輩芸能人が有望な新人芸能人を密かに蹴落とすために用いている常套手段なのではないか、と私には見えるのである。こんな’悪魔のささやき’や’誘惑’にほだされて自分の輝かしい未来を失っては欲しくないものである。なぜならそれは真っ赤なウソだからである。私はそう思う。
2004/12/01のBlog
[ 21:28 ]
[ サッカー ]
この夏に私は『サッカー五輪代表大丈夫?:山本ジャパンのていたらく 2004/07/26(Mon)』というエッセイを書いておいた。この中で山本監督(今はジュビロ磐田の監督になった)、大久保選手(今度スペインリーグに渡る)、と平山選手のことを分析した。(参考:U23日本代表アテネ行きおめでとう:山本監督に望むこと 2004/03/22(Mon) )
特に、平山選手が国見で超高校級選手として進学したにもかかわらず、筑波大学にいってからというもの、全く成長することなく、むしろ下手になってしまった。このことを私は以下のように書いていたのである。
「また、平山選手は、筑波大学に進学してまったく”凡庸な”普通の選手になってしまったようにみえる。国見高校時代の素晴らしい俊敏さが微塵も感じられず、年上に気兼ねしているようにすら見えるプレーは、サッカーの流れというものを完全に見失う選手のものである。
私は、この原因に非常に関心がある。
(あ)筑波大学特有の問題であるのか?
あるいは、
(い)いわゆる日本の”先輩後輩”感覚(これはJリーグでは御法度になっている)のために、自分より年上や先輩を”立てる”プレーを覚えてしまったのだろうか?
あるいは、
(う)大学生があまりにサッカーがへたくそで、へたくそ相手にサッカー練習している内に、自分もへたくそになってしまったのだろうか?
あるいは、
(え)筑波大学で女生徒などからちやほやされてまともに練習していないのだろうか?
とにかく、高校生時代から大学生時代までほんの数カ月しか経っていないにもかかわらず、こんな短期間にこれほどまでにへたくそになった選手というのを見るのも私も初めての事なのである。それほどまでに平山選手のサッカーが下手になったのである。いずれにせよ、本当の理由を知りたいところである。」
また、この後、『高円宮杯が意味するもの:文武両道の時代』ではこう書いた。
「昨夜のワールドユースの日本対オマーン戦、何とか日本はPK合戦で勝利をものにした。しかし、その代表レギュラーの1人である国見高校出身の平山選手の”へたくそ”加減には目をおおいたくなるほどであった。この原因は以下のものである。
かつて私がプレーした頃1970年代や中山選手がプレーした頃の1980年代の大学サッカーはレベルが高かった。それはJリーグのユース組織や下部組織のようなものはなく、いわゆるジュニア世代はほとんど大学進学したからである。つまり、プロサッカーがなかったからである。だから、ゴン中山選手や井原選手のいた筑波大学や西野や岡田のいた早稲田大学は全日本レベルであり得たのである。
しかし、現在では若手の優秀選手はほとんどJリーグのジュニアに入っている。そして、大学へ進学してサッカーするのではなく、Jリーグのプロサッカーに所属してサッカーの練習や試合を行う。こういう方式に変わってきた。中には、ガンバ大阪の宮本選手(日本代表)のように、Jリーグのプロと大学生を掛け持ち、平行して、つまり”文武両道”で学士までとる選手も現れてきたのである。宮本選手はJリーグのプロ選手を続けながらその一方で大学生となり大学卒業を果たしたのである。
2年程前に私が朝日の『アエラ』で取材を受けた時、『プロサッカー選手で日本代表で理論物理学者であるというのが私の若い頃の夢だった。だから今私が高校生であれば、まずJリーガーを目指す。』、というようなことを答えたが(この部分は記事から削除された)、現在ではすでにそれが日本社会でも実現できる時代に来ているのである。したがって、こういう現在において大学でサッカーしている人は今や2流3流レベルの選手、つまり昔の『同好会』のようなレベルであるということである。こんな中で練習していては上達できない。このことを平山選手が見事に証明してくれたということであろう。私はそう考えるのである。
平山選手には、次のようにお勧めしたい。将来のために大学卒業切符が欲しいというのであれば、”わずかな奨学金”のために筑波大学サッカー部に所属するのではなく、ガンバ大阪の宮本選手のように、鹿島アントラーズや水戸ホーリーホックのようなプロサッカーチームと”プロ契約”して、そこで自分で稼ぎ、それでしっかり授業料を支払って学位を取る道を選ぶべきである。これが現在では”ベスト”の方法なのである。今私が高校生であれば、迷うことなくこの道を選ぶだろう。ワールドカップ級のプロサッカー選手でかつノーベル賞級の学者、なんて響きが良いだろう、と思うことだろう。これはこれからはできない事ではないからである。」
さて、今日の朝日新聞のニュース『筑波大の平山、来季のJリーグ特別指定選手登録を検討』によると、筑波大学の監督はさすがにこの問題に気付いたと見え、やっと重い腰をあげて平山選手をJリーグでプレーさせる気になったようである。実に結構なことだ。かなり遅すぎる決断だろうが、早急にプレーできるようにしてもらいたいものである。
特に、平山選手が国見で超高校級選手として進学したにもかかわらず、筑波大学にいってからというもの、全く成長することなく、むしろ下手になってしまった。このことを私は以下のように書いていたのである。
「また、平山選手は、筑波大学に進学してまったく”凡庸な”普通の選手になってしまったようにみえる。国見高校時代の素晴らしい俊敏さが微塵も感じられず、年上に気兼ねしているようにすら見えるプレーは、サッカーの流れというものを完全に見失う選手のものである。
私は、この原因に非常に関心がある。
(あ)筑波大学特有の問題であるのか?
あるいは、
(い)いわゆる日本の”先輩後輩”感覚(これはJリーグでは御法度になっている)のために、自分より年上や先輩を”立てる”プレーを覚えてしまったのだろうか?
あるいは、
(う)大学生があまりにサッカーがへたくそで、へたくそ相手にサッカー練習している内に、自分もへたくそになってしまったのだろうか?
あるいは、
(え)筑波大学で女生徒などからちやほやされてまともに練習していないのだろうか?
とにかく、高校生時代から大学生時代までほんの数カ月しか経っていないにもかかわらず、こんな短期間にこれほどまでにへたくそになった選手というのを見るのも私も初めての事なのである。それほどまでに平山選手のサッカーが下手になったのである。いずれにせよ、本当の理由を知りたいところである。」
また、この後、『高円宮杯が意味するもの:文武両道の時代』ではこう書いた。
「昨夜のワールドユースの日本対オマーン戦、何とか日本はPK合戦で勝利をものにした。しかし、その代表レギュラーの1人である国見高校出身の平山選手の”へたくそ”加減には目をおおいたくなるほどであった。この原因は以下のものである。
かつて私がプレーした頃1970年代や中山選手がプレーした頃の1980年代の大学サッカーはレベルが高かった。それはJリーグのユース組織や下部組織のようなものはなく、いわゆるジュニア世代はほとんど大学進学したからである。つまり、プロサッカーがなかったからである。だから、ゴン中山選手や井原選手のいた筑波大学や西野や岡田のいた早稲田大学は全日本レベルであり得たのである。
しかし、現在では若手の優秀選手はほとんどJリーグのジュニアに入っている。そして、大学へ進学してサッカーするのではなく、Jリーグのプロサッカーに所属してサッカーの練習や試合を行う。こういう方式に変わってきた。中には、ガンバ大阪の宮本選手(日本代表)のように、Jリーグのプロと大学生を掛け持ち、平行して、つまり”文武両道”で学士までとる選手も現れてきたのである。宮本選手はJリーグのプロ選手を続けながらその一方で大学生となり大学卒業を果たしたのである。
2年程前に私が朝日の『アエラ』で取材を受けた時、『プロサッカー選手で日本代表で理論物理学者であるというのが私の若い頃の夢だった。だから今私が高校生であれば、まずJリーガーを目指す。』、というようなことを答えたが(この部分は記事から削除された)、現在ではすでにそれが日本社会でも実現できる時代に来ているのである。したがって、こういう現在において大学でサッカーしている人は今や2流3流レベルの選手、つまり昔の『同好会』のようなレベルであるということである。こんな中で練習していては上達できない。このことを平山選手が見事に証明してくれたということであろう。私はそう考えるのである。
平山選手には、次のようにお勧めしたい。将来のために大学卒業切符が欲しいというのであれば、”わずかな奨学金”のために筑波大学サッカー部に所属するのではなく、ガンバ大阪の宮本選手のように、鹿島アントラーズや水戸ホーリーホックのようなプロサッカーチームと”プロ契約”して、そこで自分で稼ぎ、それでしっかり授業料を支払って学位を取る道を選ぶべきである。これが現在では”ベスト”の方法なのである。今私が高校生であれば、迷うことなくこの道を選ぶだろう。ワールドカップ級のプロサッカー選手でかつノーベル賞級の学者、なんて響きが良いだろう、と思うことだろう。これはこれからはできない事ではないからである。」
さて、今日の朝日新聞のニュース『筑波大の平山、来季のJリーグ特別指定選手登録を検討』によると、筑波大学の監督はさすがにこの問題に気付いたと見え、やっと重い腰をあげて平山選手をJリーグでプレーさせる気になったようである。実に結構なことだ。かなり遅すぎる決断だろうが、早急にプレーできるようにしてもらいたいものである。
[ 09:39 ]
[ 管理人から ]
先月まで私はいわゆるBBS形式の場Kazumoto's ChronoEssaysをほぼ1年とちょっとの間使ってきたわけだが、今月よりそこはこれ以上使用しないつもりである。もちろん、そのまま置いておくつもりではある。
というのは、この8月からいわゆるblogというものを私も密かに使って、その使い勝手をこのBBSと比べていたのである。その結果、どうやら軍配はblogに上がった、ということである。
また、いつからかそのBBSも突然livedoorに売られてしまったようで、otdからlivedoorに”無断で”アドレスが変わってしまったのである。これもネットワークの発展形態と同様に、ネットワーク会社の発展形態もまたスケールフリーネットワークで発展するという事実を物語るものであるだろう。
私が実験的に使っているのはdoblogというものであるが、だいたいこちらへのお引っ越しが出来たと呼べる段階に来て、これまで我が家のHPに置いておいたものまで含めてこちらへ移動をほぼ完了したからである。
(1)さて、日本ではインターネット技術は1996年頃から’本格的に’始まったと言えるだろう。ちょうどこの頃から全国にいわゆるプロバイダーが誕生した。それまで国内の大企業や大学などの大組織でしか利用できなかったEメールが民間人も使えるようになった。それに目を付けたのが、hotmailのようなEメールサービス会社である。いわゆるブラウダによってHPが閲覧できはじめたのもちょうどこの頃である。
(2)次にその当時HTML形式を覚えたものが、HPを立ち上げた。これは大学であれ個人であれそうであった。私もこれはstannet.ne.jpという地元プロバイダーを利用して立ち上げたのである。それが我が家のHPであった。これは、1996年に立ち上げて以来、今日までに8万に及ぶヒットがあった。そこに目を付けてHP作りのサービスを提供する会社が現れた。それがgeocitiesのような会社である。
この頃になると、会社や大学や個人など雨後のタケノコのようにHPが濫立するようになった。そこでうまく”検索”する必要が出てきた。それに目を付けたのが、yahooやgoogleのような会社である。
(3)そのうち、1996年一1998年頃から掲示板システム(BBS)を立ち上げるものが現れた。それがちまたに溢れるようになった。これに目を付けたのが、2ch、Yahoo、livedoorのような会社である。私もおくればせながらそれを実験的に使ってみたのであった。それがKazumoto's scientific BBSであった。ここは2001年ー2003年までの約2年程の間で24万ヒットを超えた。
この時代背景に応じるように、我が家のHPはいつの間にかどんどんページ数が増した。しかし、田舎の民間プロバイダーでは最大容量がかなり小さく押さえられているために、部分的に移転を余儀無くされたのである。それで、一部をお引っ越ししたのであった。それが、Kazumoto's Essaysであった。またその同じ理由のためにエッセイ部分をそれまではどんどん我が家のHPに追加していたが、それも難しくなったために、エッセイ部分だけ別にしたのがそれであった。
(4)ところが、2000年を過ぎて、国内にもblogというシステムを提供する会社が現れてきた。これは、新聞のインターネット版のような日替わり形式のHPを代行するサービスを提供する会社である。つまり、インターネットを利用する人口が増え、もはや自分でHPを運営するより、アウトルックやレイアウトは”おまかせ”して、後は毎日の記事を書いたり、写真を入れたりする方が楽でよろしい、と考えるものがあらわれるようになったからである。また、blog内のネットワークのみで交流したいという人々が現れたこともその一因かも知れない。
(5)付け加えておくと、もちろん、日本国内ではパソコン文化をはるかに凌駕して携帯電話文化が花開いた。携帯電話でも電子メールやHP閲覧などインターネットが使えるようになったのは、国産ソフト’トロン’のおかげである。’トロン’はマイクロソフトが’ウィンドウズ’を出すはるか前からインターネット用に考え出されたものであるという。このおかげで国内は携帯電話がコンピュータの端末の代わりを果たすことになった、というわけである。実際、タイプライター文化のない日本では、文章を両手でタイプできるものはいなかった。日本語タイプライターは非常に高額で大学や大会社でしか使えず、まったく普及しなかった。またパソコンも国内では異様に高かった。これらの事実と比べて、携帯電話で日本語タイプライターの代わりができるわけだから携帯電話が一般人の間で普及するのは当然であっただろう。さらにはそれに写真機能やビデオ機能が加わって映像まで携帯電話で送信できるようになったわけだから、なおさらである。
携帯電話がその使用周波数が電子レンジと同じマイクロ派領域であるために、携帯電話の長時間使用が脳を過熱して悪影響を与えるかも知れない、という問題はあるが(またいつか紹介することもあるだろうが)、ディジタル文化と携帯電話文化の時代になって初めて日本国内ではコンピュータやインターネットが一般人にも普及したというのはまず間違いないだろう。これは上に紹介したような欧米社会がいち早くタイプライター文化からパソコン文化へ移行できたのとは好対照である。(だから、キーボードはタイプライターそのままなのである。)
さて、話をblogに戻すと、このblog方式のサービスのメリットとは何か?
(あ)1回の投稿記事サービスに容量制限があるだけで、全体の容量は”今のところ”無制限である。だから、写真も本文も総数として無制限である。
(い)また、この方式だと、固定プロバイダーに自分のHPを置いておくという形式ではないために、どこからでもアクセスできるというメリットがある。これまでの方式では、自分のHPを置くプロバイダーにFTPソフトを使って、わざわざuploadする必要があった。しかし、blog形式では自動的にuploadが行えるというメリットもある。
(う)実際に使ってみると、掲示板形式では一度書いて投稿したものは再度”編集”できない。そのために、一度全部消してそれから再投稿する他ないが、blog形式では”編集”モードがあるので、容易に修正できる。
(え)また記事を個人でだまってみることも、公表する(宣伝する)ことも自由に選択できるのである。
(お)さらには誰が(もちろん匿名だが)リンクしているかのリンク解析までできる。
(か)記事のトラックバックやコメント機能もついている。
こんなわけで、私がこれまで使った中では、一番使い易い、という印象を持つ。ただ、アクセスが多いと、時間がかかるという欠点はある。また、記事の検索機構がないので、それまでにどんな記事があったか過去ログを鳥瞰するのは難しい。この点ではBBS方式のほうがやりやすいかもしれない。
私の見たところでは、blogを個人目的以外で高度に利用しているものは、まだ少ないように見える。ほとんどはいわゆる”日記”の類いである。しかし、アウトルック(見栄え)やレイアウトが新聞のHPと同じようなものであるだけに、発信する側がうまく使えば、非常に有効であることは、私は間違いないだろうと見ている。
まあ、どんなものであるかは、私のblogを見てもらうことにしよう。うまくできているかどうか、どんな使い方ができるかどうかは、皆さんの判断に委ねることにしよう。ぜひ御自分でもお試しください。私は今後はここを中心に使っていくつもりである。
というのは、この8月からいわゆるblogというものを私も密かに使って、その使い勝手をこのBBSと比べていたのである。その結果、どうやら軍配はblogに上がった、ということである。
また、いつからかそのBBSも突然livedoorに売られてしまったようで、otdからlivedoorに”無断で”アドレスが変わってしまったのである。これもネットワークの発展形態と同様に、ネットワーク会社の発展形態もまたスケールフリーネットワークで発展するという事実を物語るものであるだろう。
私が実験的に使っているのはdoblogというものであるが、だいたいこちらへのお引っ越しが出来たと呼べる段階に来て、これまで我が家のHPに置いておいたものまで含めてこちらへ移動をほぼ完了したからである。
(1)さて、日本ではインターネット技術は1996年頃から’本格的に’始まったと言えるだろう。ちょうどこの頃から全国にいわゆるプロバイダーが誕生した。それまで国内の大企業や大学などの大組織でしか利用できなかったEメールが民間人も使えるようになった。それに目を付けたのが、hotmailのようなEメールサービス会社である。いわゆるブラウダによってHPが閲覧できはじめたのもちょうどこの頃である。
(2)次にその当時HTML形式を覚えたものが、HPを立ち上げた。これは大学であれ個人であれそうであった。私もこれはstannet.ne.jpという地元プロバイダーを利用して立ち上げたのである。それが我が家のHPであった。これは、1996年に立ち上げて以来、今日までに8万に及ぶヒットがあった。そこに目を付けてHP作りのサービスを提供する会社が現れた。それがgeocitiesのような会社である。
この頃になると、会社や大学や個人など雨後のタケノコのようにHPが濫立するようになった。そこでうまく”検索”する必要が出てきた。それに目を付けたのが、yahooやgoogleのような会社である。
(3)そのうち、1996年一1998年頃から掲示板システム(BBS)を立ち上げるものが現れた。それがちまたに溢れるようになった。これに目を付けたのが、2ch、Yahoo、livedoorのような会社である。私もおくればせながらそれを実験的に使ってみたのであった。それがKazumoto's scientific BBSであった。ここは2001年ー2003年までの約2年程の間で24万ヒットを超えた。
この時代背景に応じるように、我が家のHPはいつの間にかどんどんページ数が増した。しかし、田舎の民間プロバイダーでは最大容量がかなり小さく押さえられているために、部分的に移転を余儀無くされたのである。それで、一部をお引っ越ししたのであった。それが、Kazumoto's Essaysであった。またその同じ理由のためにエッセイ部分をそれまではどんどん我が家のHPに追加していたが、それも難しくなったために、エッセイ部分だけ別にしたのがそれであった。
(4)ところが、2000年を過ぎて、国内にもblogというシステムを提供する会社が現れてきた。これは、新聞のインターネット版のような日替わり形式のHPを代行するサービスを提供する会社である。つまり、インターネットを利用する人口が増え、もはや自分でHPを運営するより、アウトルックやレイアウトは”おまかせ”して、後は毎日の記事を書いたり、写真を入れたりする方が楽でよろしい、と考えるものがあらわれるようになったからである。また、blog内のネットワークのみで交流したいという人々が現れたこともその一因かも知れない。
(5)付け加えておくと、もちろん、日本国内ではパソコン文化をはるかに凌駕して携帯電話文化が花開いた。携帯電話でも電子メールやHP閲覧などインターネットが使えるようになったのは、国産ソフト’トロン’のおかげである。’トロン’はマイクロソフトが’ウィンドウズ’を出すはるか前からインターネット用に考え出されたものであるという。このおかげで国内は携帯電話がコンピュータの端末の代わりを果たすことになった、というわけである。実際、タイプライター文化のない日本では、文章を両手でタイプできるものはいなかった。日本語タイプライターは非常に高額で大学や大会社でしか使えず、まったく普及しなかった。またパソコンも国内では異様に高かった。これらの事実と比べて、携帯電話で日本語タイプライターの代わりができるわけだから携帯電話が一般人の間で普及するのは当然であっただろう。さらにはそれに写真機能やビデオ機能が加わって映像まで携帯電話で送信できるようになったわけだから、なおさらである。
携帯電話がその使用周波数が電子レンジと同じマイクロ派領域であるために、携帯電話の長時間使用が脳を過熱して悪影響を与えるかも知れない、という問題はあるが(またいつか紹介することもあるだろうが)、ディジタル文化と携帯電話文化の時代になって初めて日本国内ではコンピュータやインターネットが一般人にも普及したというのはまず間違いないだろう。これは上に紹介したような欧米社会がいち早くタイプライター文化からパソコン文化へ移行できたのとは好対照である。(だから、キーボードはタイプライターそのままなのである。)
さて、話をblogに戻すと、このblog方式のサービスのメリットとは何か?
(あ)1回の投稿記事サービスに容量制限があるだけで、全体の容量は”今のところ”無制限である。だから、写真も本文も総数として無制限である。
(い)また、この方式だと、固定プロバイダーに自分のHPを置いておくという形式ではないために、どこからでもアクセスできるというメリットがある。これまでの方式では、自分のHPを置くプロバイダーにFTPソフトを使って、わざわざuploadする必要があった。しかし、blog形式では自動的にuploadが行えるというメリットもある。
(う)実際に使ってみると、掲示板形式では一度書いて投稿したものは再度”編集”できない。そのために、一度全部消してそれから再投稿する他ないが、blog形式では”編集”モードがあるので、容易に修正できる。
(え)また記事を個人でだまってみることも、公表する(宣伝する)ことも自由に選択できるのである。
(お)さらには誰が(もちろん匿名だが)リンクしているかのリンク解析までできる。
(か)記事のトラックバックやコメント機能もついている。
こんなわけで、私がこれまで使った中では、一番使い易い、という印象を持つ。ただ、アクセスが多いと、時間がかかるという欠点はある。また、記事の検索機構がないので、それまでにどんな記事があったか過去ログを鳥瞰するのは難しい。この点ではBBS方式のほうがやりやすいかもしれない。
私の見たところでは、blogを個人目的以外で高度に利用しているものは、まだ少ないように見える。ほとんどはいわゆる”日記”の類いである。しかし、アウトルック(見栄え)やレイアウトが新聞のHPと同じようなものであるだけに、発信する側がうまく使えば、非常に有効であることは、私は間違いないだろうと見ている。
まあ、どんなものであるかは、私のblogを見てもらうことにしよう。うまくできているかどうか、どんな使い方ができるかどうかは、皆さんの判断に委ねることにしよう。ぜひ御自分でもお試しください。私は今後はここを中心に使っていくつもりである。
2004/11/30のBlog
[ 18:34 ]
[ アルバム写真 ]
昭和47年の真夏に行われた中学生強化合宿の頃。韮崎に対抗するために県下の優秀選手のみが招聘された。後列真中が私(ゴール中央の棒の前)。この中の選手が後に高校生の優秀選手となっていった。私の右隣がゴールキーパーの藤井選手(丸刈りの選手)。彼は2年後に桂高校のキャプテンとなり県高校新人戦で初優勝することになった。この大会準々決勝で私がキャプテンをしていた甲府南は優勝候補の韮崎を破るという大金星をあげたが、準決勝でゴールキーパー藤井のファインプレーのために負けてしまったのである。