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2008/02/17のBlog
[ 00:10 ]
[ 日常 ]
中国が気象情報を国家機密として、外国への提供を拒否しているらしい。調べてみると、2006年11月に「渉外気象探測・資料管理弁法(気象局13号令)」が施行されている。1年以上もたってようやく気がついたが、信じられない政策である。
気象観測に国境の壁があっては正確な予報ができない。特に偏西風が卓越している日本周辺は、黄砂や大気汚染、酸性雨の発生解明に、風上の中国の気象情報が欠かせない。中国は無用な秘密主義はやめて、一級文明国として真の国際協調を考えて欲しい。
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中国は気象も国家機密? 外国人の観測など禁止に
中国政府は今月から外国人が許可なく中国国内で気象観測を行ったり、気象台を設置したりすることを禁止する「気象探測・資料管理規定」を施行した。中国の国家機関での勤務者、外国人双方に適用され、違反者は、秘密漏えいやスパイなどとして処罰される可能性がある。
同規定は「中国保守国家秘密法」「中国国家安全法」などに基づいており、違反者は国家安全部門などにより刑事責任を追及される。規定によると、外国の組織または個人は、中国の領土または直轄する海域で気象観測したり、気象資料を譲渡したりする際は、規定を順守する必要がある。ただ、直轄海域の範囲は不明だ。
外国の組織などに提供する際も批准が必要。中国と外国の両組織が気象観測する際は厳格な要件を満たす必要がある。(北京 野口東秀)
(2007/01/13 10:22 産経新聞)
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黄砂予報精度かすむ、国家機密と中国がデータ提供拒否
2月16日14時34分配信 読売新聞
春になると、中国大陸から飛来する黄砂を日本、中国、韓国、モンゴルの4か国で観測し、環境省のホームページ(HP)で飛来状況を公表したり、予測したりする計画が、当初協力を約束していた中国が「離脱」したため、精度を確保できない見通しになっている。
中国側が「気象情報は国家機密」として、データの提供を拒否したためで、HPは、肝心の発生源の情報がないまま今月下旬の本格運用を迎える。
黄砂が飛来することで、中国や韓国では、住民の呼吸器系の健康被害が相次ぎ、日本では、九州を中心に洗濯物が汚れたり、精密機器の工場で不良品の発生率が上がったりするなどの実害が出ている。福岡県保健環境研究所(太宰府市)によると、昨年4月初めに観測した黄砂では、同県内で大気が薄い褐色に変わり、粉じん濃度も一斉に基準値を超えた。
気象庁では現在、黄砂の飛来状況について、全国85地点で観測した情報を発表しているが、目視確認のため国内に飛来した時点の情報しかなく、正確な飛来量も予測できない。
このため環境省では昨年春、HP上で「黄砂飛来情報ページ」の試験運用を始め、今年2月下旬から、中国と韓国の各1か所、モンゴルの3か所、それに日本の10か所の観測地点のデータをもとに、地上から上空6キロまでの実際の飛来量や、黄砂の予想分布図を公表する予定だった。
中でも、中国の観測地点は、日本への飛来ルート上の首都・北京にあるため、日本への飛来量について精度の高い予測を出すには不可欠だったが、試験運用を始める直前の昨年4月、中国側から突然、データ提供をストップすることを通告された。
気象観測データは国の安全と利益にかかわる機密情報として、あらゆる気象観測データを国外に持ち出すことを禁じた法律「気象局13号令」を施行したことが理由だった。この状況は現在も続いており、今月下旬から始める本格運用でも、中国でどれぐらいの量の黄砂が発生しているのか、発生源のデータがないまま、飛来量を予測することを余儀なくされる。
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気象観測に国境の壁があっては正確な予報ができない。特に偏西風が卓越している日本周辺は、黄砂や大気汚染、酸性雨の発生解明に、風上の中国の気象情報が欠かせない。中国は無用な秘密主義はやめて、一級文明国として真の国際協調を考えて欲しい。
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中国は気象も国家機密? 外国人の観測など禁止に
中国政府は今月から外国人が許可なく中国国内で気象観測を行ったり、気象台を設置したりすることを禁止する「気象探測・資料管理規定」を施行した。中国の国家機関での勤務者、外国人双方に適用され、違反者は、秘密漏えいやスパイなどとして処罰される可能性がある。
同規定は「中国保守国家秘密法」「中国国家安全法」などに基づいており、違反者は国家安全部門などにより刑事責任を追及される。規定によると、外国の組織または個人は、中国の領土または直轄する海域で気象観測したり、気象資料を譲渡したりする際は、規定を順守する必要がある。ただ、直轄海域の範囲は不明だ。
外国の組織などに提供する際も批准が必要。中国と外国の両組織が気象観測する際は厳格な要件を満たす必要がある。(北京 野口東秀)
(2007/01/13 10:22 産経新聞)
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黄砂予報精度かすむ、国家機密と中国がデータ提供拒否
2月16日14時34分配信 読売新聞
春になると、中国大陸から飛来する黄砂を日本、中国、韓国、モンゴルの4か国で観測し、環境省のホームページ(HP)で飛来状況を公表したり、予測したりする計画が、当初協力を約束していた中国が「離脱」したため、精度を確保できない見通しになっている。
中国側が「気象情報は国家機密」として、データの提供を拒否したためで、HPは、肝心の発生源の情報がないまま今月下旬の本格運用を迎える。
黄砂が飛来することで、中国や韓国では、住民の呼吸器系の健康被害が相次ぎ、日本では、九州を中心に洗濯物が汚れたり、精密機器の工場で不良品の発生率が上がったりするなどの実害が出ている。福岡県保健環境研究所(太宰府市)によると、昨年4月初めに観測した黄砂では、同県内で大気が薄い褐色に変わり、粉じん濃度も一斉に基準値を超えた。
気象庁では現在、黄砂の飛来状況について、全国85地点で観測した情報を発表しているが、目視確認のため国内に飛来した時点の情報しかなく、正確な飛来量も予測できない。
このため環境省では昨年春、HP上で「黄砂飛来情報ページ」の試験運用を始め、今年2月下旬から、中国と韓国の各1か所、モンゴルの3か所、それに日本の10か所の観測地点のデータをもとに、地上から上空6キロまでの実際の飛来量や、黄砂の予想分布図を公表する予定だった。
中でも、中国の観測地点は、日本への飛来ルート上の首都・北京にあるため、日本への飛来量について精度の高い予測を出すには不可欠だったが、試験運用を始める直前の昨年4月、中国側から突然、データ提供をストップすることを通告された。
気象観測データは国の安全と利益にかかわる機密情報として、あらゆる気象観測データを国外に持ち出すことを禁じた法律「気象局13号令」を施行したことが理由だった。この状況は現在も続いており、今月下旬から始める本格運用でも、中国でどれぐらいの量の黄砂が発生しているのか、発生源のデータがないまま、飛来量を予測することを余儀なくされる。
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2008/02/16のBlog
[ 14:22 ]
[ 旅行(スナップ) ]
[ 08:38 ]
[ 旅行(スナップ) ]
[ 07:39 ]
[ 駅前日通 ]
2008/02/13のBlog
[ 02:00 ]
[ 駅前日通 ]
2008/02/03のBlog
[ 22:03 ]
[ 日常 ]
[ 19:26 ]
[ 地理 ]
東京は雪が降り家に閉じこもっていたが、時間をもてあまして午後から図書館に出かけた。
手にしたのは壱岐の歴史の本。
壱岐島は佐賀県唐津市(呼子)の沖、42kmにある。九州本土へは呼子が一番近い。博多からは76kmだが、高速船も出ていて1時間ほどの時間距離である。ところが佐賀県でも福岡県でもなく、長崎県に属している。長崎空港までは100km弱もあり、「対岸」という雰囲気ではない。
この理由が、江戸時代に壱岐は平戸藩に属していて、明治維新後に平戸が長崎県になったことにともない、その属領であった壱岐も長崎県に組み入れられたというところまでは知っていた。
さて、なぜ平戸藩なのか。
今日の話はそこから始まる。そして、元寇まで行き着いた。
元寇で壱岐は徹底的に略奪破壊され、島内での自力復興が困難な状況が生まれたと推測できる。この機に九州本土から諸豪族が進出した。島内独自の統一的な政治権力はできず、波多、志佐、佐志、鴨打(かもち)、呼子、塩津留(しおづる)などの勢力が分割知行する状態ができた。
このうち鍵を握るのは波多氏である。波多氏は唐津の岸岳城に本拠地をもち、壱岐には亀丘城に進出していた。1472年波多泰は亀丘城を根拠として他の豪族を打ち、壱岐全体を勢力下に置いて自ら壱岐守護と名乗った。いわば、唐津の波多氏が対岸の壱岐を属領にしたわけである。
その後、波多氏に世継ぎがいなかったため後継争いが起きた。この機に家臣の日高喜(このむ)が謀反を起こして、一時は波多氏の本拠地の岸岳城を支配した。ところが、波多氏が力を盛り返し岸岳城を奪還すると、城を落ちた日高氏は属領だった壱岐に逃れた。
壱岐の日高氏は、対立する波多氏の背後を衝くために平戸の松浦氏を頼る。一方、波多氏は壱岐を挟み撃ちにすべく、対馬の宗氏と連合する。1571年に宗氏が壱岐に侵攻してきたのを、松浦氏の力を借りて撃退に成功するが、それは松浦氏の政治的軍事的力のデモンストレーションにもなってしまった。日高氏の選択は戦略的には間違っていなかったが、実際のところ、壱岐の国力は独自の勢力を保てるほど充実してなかったのだと思う。結局壱岐は松浦氏の属領となってしまう。
1573年には足利義昭が織田信長に政権を追われて室町幕府が滅びるという出来事と、同時代の話である。
以後、江戸時代を通じて壱岐は平戸藩の配下に置かれることになる。
一方の波多氏は豊臣秀吉に滅ぼされてしまう。
ここまでまとめてきた壱岐の歴史を俯瞰すると、平戸の松浦氏が、弱小の国が助けを求めてきたのを、もっけの幸いとして乗っ取ってしまったという印象が強い。中国の史書にでもありそうな、政治力学の生々しさが伝わってくる。
波多氏、日高氏、岸岳城、亀丘城、そして、平戸、松浦氏。壱岐に行きたくなってきた。
手にしたのは壱岐の歴史の本。
壱岐島は佐賀県唐津市(呼子)の沖、42kmにある。九州本土へは呼子が一番近い。博多からは76kmだが、高速船も出ていて1時間ほどの時間距離である。ところが佐賀県でも福岡県でもなく、長崎県に属している。長崎空港までは100km弱もあり、「対岸」という雰囲気ではない。
この理由が、江戸時代に壱岐は平戸藩に属していて、明治維新後に平戸が長崎県になったことにともない、その属領であった壱岐も長崎県に組み入れられたというところまでは知っていた。
さて、なぜ平戸藩なのか。
今日の話はそこから始まる。そして、元寇まで行き着いた。
元寇で壱岐は徹底的に略奪破壊され、島内での自力復興が困難な状況が生まれたと推測できる。この機に九州本土から諸豪族が進出した。島内独自の統一的な政治権力はできず、波多、志佐、佐志、鴨打(かもち)、呼子、塩津留(しおづる)などの勢力が分割知行する状態ができた。
このうち鍵を握るのは波多氏である。波多氏は唐津の岸岳城に本拠地をもち、壱岐には亀丘城に進出していた。1472年波多泰は亀丘城を根拠として他の豪族を打ち、壱岐全体を勢力下に置いて自ら壱岐守護と名乗った。いわば、唐津の波多氏が対岸の壱岐を属領にしたわけである。
その後、波多氏に世継ぎがいなかったため後継争いが起きた。この機に家臣の日高喜(このむ)が謀反を起こして、一時は波多氏の本拠地の岸岳城を支配した。ところが、波多氏が力を盛り返し岸岳城を奪還すると、城を落ちた日高氏は属領だった壱岐に逃れた。
壱岐の日高氏は、対立する波多氏の背後を衝くために平戸の松浦氏を頼る。一方、波多氏は壱岐を挟み撃ちにすべく、対馬の宗氏と連合する。1571年に宗氏が壱岐に侵攻してきたのを、松浦氏の力を借りて撃退に成功するが、それは松浦氏の政治的軍事的力のデモンストレーションにもなってしまった。日高氏の選択は戦略的には間違っていなかったが、実際のところ、壱岐の国力は独自の勢力を保てるほど充実してなかったのだと思う。結局壱岐は松浦氏の属領となってしまう。
1573年には足利義昭が織田信長に政権を追われて室町幕府が滅びるという出来事と、同時代の話である。
以後、江戸時代を通じて壱岐は平戸藩の配下に置かれることになる。
一方の波多氏は豊臣秀吉に滅ぼされてしまう。
ここまでまとめてきた壱岐の歴史を俯瞰すると、平戸の松浦氏が、弱小の国が助けを求めてきたのを、もっけの幸いとして乗っ取ってしまったという印象が強い。中国の史書にでもありそうな、政治力学の生々しさが伝わってくる。
波多氏、日高氏、岸岳城、亀丘城、そして、平戸、松浦氏。壱岐に行きたくなってきた。
2008/02/02のBlog
[ 13:32 ]
[ 鉄道 ]
2008/01/27のBlog
[ 22:33 ]
[ 映画 ]
原題El Espiritu de la Colmena (1973年スペイン)
府中の高安寺の裏手に、崖線下の低くなっているところに井戸がある。弁慶が硯水に使ったという伝説がある。寺の墓場を抜けて、雑木林のなかの道を崖下に降りていくと、先客がいた。知的な雰囲気の老婦人だった。
二人の間には井戸を見に来たということしか共通点がないので、当然井戸の話になった。
井戸には覆いがかかっていた。今でも水があるのかどうかということになり、確かめてみるために覆いを取ろうという算段まではまとまったが、覆いは簡単には外れなかった。「井戸を覗くと吸い込まれる」「奈落に落ちてしまう」と口々に言い、企みはご破算になった。
そのとき老婦人が、最近怖い映画を見たと言う。話柄が少し変わった。映画のタイトルは「ミツバチのささやき」という。スペイン映画だという。どんな映画か詳しくは語らなかったが、スペイン内戦を背景にした映画だと言った。
残念ながらその映画は見たことがない。
二人の間の共通の話題はそれで尽きてしまい、すぐに別れてしまった。
「ミツバチのささやき」というタイトルだけは忘れないようにと手帳にメモをしておいた。弁慶の井戸で見つけたものである。
府中の高安寺の裏手に、崖線下の低くなっているところに井戸がある。弁慶が硯水に使ったという伝説がある。寺の墓場を抜けて、雑木林のなかの道を崖下に降りていくと、先客がいた。知的な雰囲気の老婦人だった。
二人の間には井戸を見に来たということしか共通点がないので、当然井戸の話になった。
井戸には覆いがかかっていた。今でも水があるのかどうかということになり、確かめてみるために覆いを取ろうという算段まではまとまったが、覆いは簡単には外れなかった。「井戸を覗くと吸い込まれる」「奈落に落ちてしまう」と口々に言い、企みはご破算になった。
そのとき老婦人が、最近怖い映画を見たと言う。話柄が少し変わった。映画のタイトルは「ミツバチのささやき」という。スペイン映画だという。どんな映画か詳しくは語らなかったが、スペイン内戦を背景にした映画だと言った。
残念ながらその映画は見たことがない。
二人の間の共通の話題はそれで尽きてしまい、すぐに別れてしまった。
「ミツバチのささやき」というタイトルだけは忘れないようにと手帳にメモをしておいた。弁慶の井戸で見つけたものである。
[ 22:12 ]
[ 映画 ]
昨年(2007年)の11月に発行になっていたが、買いそびれたままになっていた。
ふと読みたくなってネット通販で検索してみたら、版元絶版、品切れになっていた。あわてて都内の有名な本屋に電話をして問い合わせてみたところ、丸善の御茶ノ水店にあることがわかった。取り置いておいてもらって、夕方取りに行った。
アニメを見た上での小説なのだが、場面や情景がまざまざと思い浮かんできた。その情景に加えて、小説ならではの心情描写や背景説明があって、なんかまた切ない気持ちになってしまった。
最後、やっぱりそうだったのか、でも、その後そういうことなのか?
エンディングの場面の解釈は、何か余韻ともどかしさが同居している。
ふと読みたくなってネット通販で検索してみたら、版元絶版、品切れになっていた。あわてて都内の有名な本屋に電話をして問い合わせてみたところ、丸善の御茶ノ水店にあることがわかった。取り置いておいてもらって、夕方取りに行った。
アニメを見た上での小説なのだが、場面や情景がまざまざと思い浮かんできた。その情景に加えて、小説ならではの心情描写や背景説明があって、なんかまた切ない気持ちになってしまった。
最後、やっぱりそうだったのか、でも、その後そういうことなのか?
エンディングの場面の解釈は、何か余韻ともどかしさが同居している。
[ 21:58 ]
[ 日常 ]
中学2年のとき、初めてインドネシアを訪れたときの大統領。そのときは東チモール問題など何も知らなかった。高校2年のとき、2度目に訪れたときもまだスハルトだった。
あれからインドネシアへは行ってないけど、今はどんな国になっているのだろ?
スハルト 2008年1月27日死去86歳。インドネシア第2代大統領(1968年 - 1998年)。
あれからインドネシアへは行ってないけど、今はどんな国になっているのだろ?
スハルト 2008年1月27日死去86歳。インドネシア第2代大統領(1968年 - 1998年)。
[ 21:32 ]
[ 日常 ]
分倍河原から京王線の電車に乗ったら、府中でその電車が駅進入時に人を巻き込んで止まってしまった。タイホンを鳴らしながらちょっと強めのブレーキがかかったように思ったが、特に衝撃もなく、最初は人身事故とは思わなかった。
1両目に乗っていたのだが、どうやら、ちょうど座っている真下あたりにそのけが人だかホトケサンだかがいたらしい。隣のドアから見ると、救助隊や警官が、真下を覗き込んでいる。もしこの場所だとしたら、2つ目の台車の位置なので、完全に轢いてしまっているだろう。
アナウンスがあり、救助活動のために車内電気がとめられてしまった。
やがて車掌(女性だった)がやってきて、救助活動のために1両目の乗客は全員降りるように指示をした。ホームに出ると、ジャッキアップするらしく、機材をもった救助隊員が走っていった。
まだ時間がかかりそうな状況だったので振替輸送を使おうと改札に行くと、既に50人くらいが長蛇の列を作っていた。ちょうど下り電車が安全確認が出来次第発車するというアナウンスがあったので、下りホームに移動して、発車をまった。
5分ほどで電車は動いて、また分倍河原に戻ってきた。
分倍河原ではひと悶着あった。
Suicaで入っていたので振替乗車の措置はできない(全部実費で払わないといけない)と言われたので、とりあえず改札を出してくれというと、それは同じ駅なのでタダで出ることができた。Suicaで切符を買いなおして振替乗車票をもらって、今度は何の文句もなくスムーズにいった。南武線、登戸乗換えで、小田急線で新宿へ出ることができた。
取り置きの本をピックアップしたり、知り合いと会ったりして、家に帰ろうとすると、今度は御茶ノ水駅を出たところで急ブレーキがかかってしまった。防護無線を受信したらしい。これはすぐに安全確認ができて運転再開となったが、もう勘弁して欲しい。
【写真は救助活動のため電気の消えた車内と、反対のホームから現場を覗き込んでいるやじ馬】
1両目に乗っていたのだが、どうやら、ちょうど座っている真下あたりにそのけが人だかホトケサンだかがいたらしい。隣のドアから見ると、救助隊や警官が、真下を覗き込んでいる。もしこの場所だとしたら、2つ目の台車の位置なので、完全に轢いてしまっているだろう。
アナウンスがあり、救助活動のために車内電気がとめられてしまった。
やがて車掌(女性だった)がやってきて、救助活動のために1両目の乗客は全員降りるように指示をした。ホームに出ると、ジャッキアップするらしく、機材をもった救助隊員が走っていった。
まだ時間がかかりそうな状況だったので振替輸送を使おうと改札に行くと、既に50人くらいが長蛇の列を作っていた。ちょうど下り電車が安全確認が出来次第発車するというアナウンスがあったので、下りホームに移動して、発車をまった。
5分ほどで電車は動いて、また分倍河原に戻ってきた。
分倍河原ではひと悶着あった。
Suicaで入っていたので振替乗車の措置はできない(全部実費で払わないといけない)と言われたので、とりあえず改札を出してくれというと、それは同じ駅なのでタダで出ることができた。Suicaで切符を買いなおして振替乗車票をもらって、今度は何の文句もなくスムーズにいった。南武線、登戸乗換えで、小田急線で新宿へ出ることができた。
取り置きの本をピックアップしたり、知り合いと会ったりして、家に帰ろうとすると、今度は御茶ノ水駅を出たところで急ブレーキがかかってしまった。防護無線を受信したらしい。これはすぐに安全確認ができて運転再開となったが、もう勘弁して欲しい。
【写真は救助活動のため電気の消えた車内と、反対のホームから現場を覗き込んでいるやじ馬】
[ 18:49 ]
[ 旅行(スナップ) ]
2008/01/16のBlog
[ 23:41 ]
[ 鉄道 ]
水窪駅からは、日本郵政の配達員が乗り込んできた。飯田線の駅には道路では到達できないような立地にあるものがあり、それでも駅がある以上はその駅を利用する家が山道の先にあったりする。そうした家には、郵便配達も飯田線を利用すると聞いたことがある。本当に列車を利用した郵便配達である。
どこで降りるのだろうか興味津々でいたが、水窪駅の隣の大嵐駅で降りていった。大嵐自体は自動車でたどり着ける駅だが、水窪とは山を越えなければならない。飯田線こそ佐久間ダム建設に伴なう付け替え工事で、大原トンネル(5,063m)が貫いているが、道路だけで行こうとすると大回りをしなければならない。そうした理由からこの区間も飯田線を使った郵便配達が行なわれているのだろう。
どこで降りるのだろうか興味津々でいたが、水窪駅の隣の大嵐駅で降りていった。大嵐自体は自動車でたどり着ける駅だが、水窪とは山を越えなければならない。飯田線こそ佐久間ダム建設に伴なう付け替え工事で、大原トンネル(5,063m)が貫いているが、道路だけで行こうとすると大回りをしなければならない。そうした理由からこの区間も飯田線を使った郵便配達が行なわれているのだろう。
2008/01/13のBlog
[ 23:42 ]
[ 道路・道路交通 ]
大正国道の名残が、静岡県掛川市に残っていました。
伊達方(だてかた)集落の滑川橋の銘板として設置されたもので、見にくいですが「紀元二五九○年十二月竣工」という記載もあります。これは皇紀2590年、つまり昭和5年ということで、年代も明確にわかる史料として意味のあるものです。
伊達方(だてかた)集落の滑川橋の銘板として設置されたもので、見にくいですが「紀元二五九○年十二月竣工」という記載もあります。これは皇紀2590年、つまり昭和5年ということで、年代も明確にわかる史料として意味のあるものです。