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Tripartite Man
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2005/06/13のBlog

 アドバンスっていってもそんなにたいしたことじゃないんだけど。

 萌えマトリクスチェックリストとして利用する際、併用してみたらおもしろそうなこと

●「萌え融合」の際に出てきた発想、連想を「テープで録音」する
 やってみて分かったが、「思考」を記録するには書くよりこっちの方が早い。
 「書き留める」、「短期記憶しておく」、というバイアスがないぶん、連想のスピードが速い。(それがいいかどうかはわからないが)

●「萌えマトリクス」にリストアップした「萌えアイテム」の実物を用意する
 例えば、「絵本萌え」なら、実物の絵本を1冊用意する。
 その上で、軽く五感で「全体」を確認(見る・さわる・かぐ~)しつつ、「萌え融合」を図ってみる。

 いずれにせよ、自分の「萌えフィールド」に案件をひきこむための手段なので、個々人でもっと工夫して「萌え融合」しやすくする余地がありそうだ。



2005/06/11のBlog
[ 22:30 ] [ 写真 ]
葉上の、群れ。
 きらびやかな金属光沢をもった カメムシのコロニー。
 1齢幼虫から、3齢、4齢、成虫も混じっていたろうか。
 
 ブルッ ブルッ
 どこが発端かはわからない。
 だが、どこかで一匹が身体をふるわせるたびに、隣も身体をふるわせ、
 その波紋がコロニー全体に伝播していく。
 ブルツ ブルッ

 どこかおぞましく、だが、美しかった。

 あのとき
 自分が何を美しいと感じるかは
 決まってしまったのかもしれない

 生きては喰い
 喰らっては産む
 喰らい喰らわれ餌と果て
 いのちのつながりとさざめき



自家採種、ということばをご存知だろうか?
 読んで字のごとし、そだてた植物からタネをとることなのだが、これがなかなか奥が深い。
 
 私が自家採種に興味をもったのは、農業雑誌の編集者時代に「在来種」の特集をしたのがきっかけだった。
 特集のテーマは、京野菜のように、地方に古くから伝わり、個性的な品種「在来種」にスポットをあてる、というもの。生産者自身が地方の品種を受け継ぐことで、食文化とともに地域おこしの役に立ててもらえば・・・というのがねらいだった。

 これらの在来種は、既存の種苗メーカーによるF1(一代かぎりのハイブリッド)品種とは違い、その土地の人々によって受け継がれてきたため、最近では遺伝子的特性や食文化との関連性などにおいても注目を集めている。(注:F1品種を否定するつもりはありません)

 で、特集の下調べをするうちにつきあたったのがこの本。
 「自家採種ハンドブック―「たねとりくらぶ」を始めよう」(ミシェル ファントン (著), ジュード ファントン (著), 自家採種ハンドブック出版委員会 (翻訳))

 筆者のファントン夫妻はオーストラリア在住で、シード・セイバーズ・ネットワークという活動の主催者だ。この本も、「生物的多様性、遺伝的多様性を守るために、種子を自分たちで採ろう」という思想がバックボーンにある。
 そのため「種とりの目的」「どんな種子を守っていくか」という部分に、Ⅰ部、Ⅱ部をあてている。
 Ⅲ部では「品種別種とり方62」、付録で「珍しい野菜・ハーブ64品種の種とり法」を収録しているので、実用書としての価値も充分。
 巻末に、こうした活動に共感した人のために、採種団体のリストを記載した「ローカルアクションリスト」もあるので、エコロジー、サステナビリティの観点から興味をもった人にもおすすめできる。


一方、もちょっとやわらかく、純粋に「タネとりはおもしろいよ!」といってくれているのが、こちら「捨てるな、うまいタネ」(WAVE出版、藤田 雅矢 (著))。

 本のタイトルにもあるとおり、「普段の食卓で食べて残ったタネを播こう!」というスタンスだから。ちょっと興味を持たれた人には、こっちのほうが絶対とっつきやすい。
 全体にリラックスした姿勢で、タネとりの持つ意味、その楽しさを伝えてくれている。

 第2章、「タネから広がるワンダーランド」では、筆者の専門的知識(某農業研究所で植物の品種改良を行っている゛プロ゛なのだ!)を活かして、タネの繁殖戦略や「発芽」のメカニズムなどを愉快に解説。
 専門用語は極力排してくれているから、すららっと読める。
 で、読んだ後は、「このタネ、捨てるのもったいないかな・・・」という気分に・・・。
 肝心の採種、栽培方法についてもイラスト&写真つきなので心配なし。

 
 
実は最近、肝臓に良いといわれてるアボカドを食べることが多い。
 種がごろごろ残るので、アボカドで実践!(画像:ぱっくり割れて、これから出芽)

魂のライフサイクル―ユング・ウィルバー・シュタイナー」(東京大学出版会、西平 直 (著))は、我々が普段考えていても、まじめに聞くことがはばかられること=死んだらどうなる?輪廻転生はあるのか?といった疑問に、まっこうから答えようとした本だ。

 ユング、ウィルバー、シュタイナーという3巨頭をモチーフに、この三者の論理を学問的見地からまとめつつ、それぞれの視点から他者を(たとえば、ユングから見たシュタイナー、ウィルバーから見たユング)検証している。

 三者三様の「魂の円環」像を、あくまで科学的に、言葉の使い方ひとつから慎重に検証を重ねていく姿勢がすばらしい。

特に「ウィルバーから見たライフサイクル」の章では、彼の難解な発達研究の内容をうまくまとめている。
 ウィルバーについてはこれが初めてふれる文献だったため、「意識の発達段階」ですべてが解説できるという視点が興味深かった。(画像:魂のスペクトル)

 結局、ライフサイクル、死後については3者の意見はかみ合わない。
 というか、ユングは精神(特に普遍的無意識)、ウィルバーは意識の発達段階、シュタイナーは高次認識という固有の視点があり、各々の前提となっているもの自体が違うのだ。

 だが、筆者は最後まで科学的視点からの考察を試み、けっして読者を混乱させることなく比較することに成功している。
 「各々の言っていることが正しいとか間違っているということではない」
 「ただ、異なったレベルの問題に対処するために、彼らは適切な方法を用意してくれている」
 つまるところ、これにつきる。
また、もっと視点を広げて、西洋哲学における神秘学の系譜を知りたいと思ったら、こちらがおすすめ。

 「神秘学入門」、ちくまプリマーブックス、高橋 巌 (著)

 神秘学の起源を、ギリシア哲学まで遡る。人間の認識の限界、その検証を希求していく上での「霊的」存在への言及。
 西洋哲学というと、純粋理性に基づく唯物論的なイメージが強かったのだが、実際は大まじめに霊や神を考えてる。
 しかし、どうしても「二元論」の限界がある・・・
 神と人、我と彼を統合していく一元論への期待と、シュタイナーの人智学への期待をからめて、洋の東西を自在にまたいで、神秘学の「原風景」を探っている。



2005/06/10のBlog
[ 22:53 ] [ まほろば紀行 ]

山形県朝日町にて。
雅楽演奏のために空気神社へ
[ 22:18 ] [ 日々・つれづれ ]
ケルビームにて、梅崎 幸吉氏による「小林秀雄論」を読む。
 
 熱く、痛い。これは「踏絵」なのだと思う。
 だから、まだ自分はその全体について言及することはできない。
 
 ただ、文中、小林秀雄自身による言葉についてのみ、最近考えるところを述べさせてもらう。

「――僕等は彼の当てどのない憤怒の彼方に虚無を見る。いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやってくる。天才もまた決して例外ではないのである。」(小林秀雄)

 そう、苦しみは愛するものからやってくる。
 では、その苦しみと痛みからはどうすれば逃れられるのか?
 あるいは目をそらすのか、それとも苦しみに埋没するのか?
 とことんつきあいきれると言えるのか?
 
「いかにかすべきわが心」

 からめとられ、とどまった心をほぐす手段は・・・
 1つに、純粋な思考と認識による、「偏見」「思い込み」の排除。
 苦しみは自分の中の「愛」から生まれる。それは時にたやすく「憎しみ」や「誤解」、「欠乏感」に変わる。なればこそ、ゆがみを作り出した自分の心そのものを「認識」することで、「救い」は生じる。

 しかし、まだ足りない。
 なぜなら、自分は救われても、現実の「他者」は救われていないから。
 一方で、自らの「愛」は、井戸の湧水のようにあふれ出ようとする。
 「愛」は注がれねばならない。だが、人の「愛」はあまりに脆弱でエゴイスティックだ。
 対象に近づきすぎれば、またぞろ自分を灼くだろう。

 ならば、「萌え」てしまえばいいのだ。
 「愛する対象」と同列の地平に身を置くのが怖いなら、「不足」を知りつつ「萌え」ればいいのだ。
 「相対化」することを「卑怯」と言う人もいるかもしれない。
 でも、「関わらない」よりずっとましだ。
 

 「萌え」というのは、存外もっとも『アガペー(神の愛)』に近しい感情の発露なのかもしれない、と思う。(本気で「萌え」なきゃだめだけど!)
[ 02:28 ] [ 萌え発想術 ]
相変わらずとばしている「萌え発想術」。
 5回目となる今回は、前回までに作成した「萌えマトリクス」を使う上での「心構え」について。しかし、これがなかなか手厳しい。
 「萌え、なんて軟派なこといって・・・」などという偏見を持つ読者は、筆者の意図する次元の高さに襟をただすことになるであろう。以下の文章を読めば・・・

 (以下、引用)

ふだんは、「自分の萌え」に結びつけて考えてばかりはいられない。
仕事なのだから。
相手は真剣なのだから。
上司にはわからないのだから。
と、ついつい、組織や相手のペースに合わせてしまう。
迎合である。
われわれは、すぐ易き道「迎合」を歩んでしまう。
平坦で、お互いが、ぼんやりと歩ける道を進んでしまう。
だが、迎合する道には、自分が楽しめるものなどない
 (中略)
相手から出てきた課題「この件」と、自分の萌えを掛け合わせる。
アイデアの衝撃は、振り幅が大きいほど、大きい。
すり寄るのではなく、掛け合わせを。


 一見とっつきやすい「萌え」というオブラートにくるんであっても、この発想術の根底にあるのは、
●「如何にして二物衝撃(かけあわせによる、飛躍的発想)を生み出すか?」
●「課題」「相手」という他者と「自分」の距離を、「萌え」によって心理的距離を近づける
 という欲張りな試みである。
 いいかえれば、「他者と自己の相互理解」と、「異物の組合せによる創造」の止揚(統合的発展)である。

 
 で、実際に試してみたんだけど・・・深い!深いぞ、「萌えマトリクス」!
 例えば、現在の自分の案件である「英語」「自動車の運転(ペーパードライバー脱出)」(図参照)をマトリクスに照らし合わせてみたとする。その際の思考(発想)過程を記すと、以下のようなかんじになる。(個々の項目の詳細は読み飛ばしてください)

~案件車の運転

かけあわせ項目×パンツァードラグーン(セガから出ている3D視点のシューティングゲーム:主人公は空飛ぶ竜に乗って敵を撃ち落とす)
:運転時にゲームのサントラをかけたら楽しく乗れそうだな
:共通点はなんだろう?=「乗る(ride)」からの発想=ドラゴンに乗るのは楽しいのに、車の運転に楽しいイメージがないのはなぜ?
:ドラゴン=自律的に動き、かつ自由度が高い=360度カメラ搭載自動車なら楽しそう
:周りにいる人・自動車を表示するレーダーつき車ほしい
:運転の本質とは?レースゲームは好きじゃない、行きたいところに行くのが好き
:カーナビ+運転操作の補正・補助つき?
:走れば走った分なんかもらえる、走行距離比例サービスほしい(パンドラボックス)リプレイ機能?
:ハンドルではなくて、ゲームコントローラーで走れる車はないのか?
:要は「楽しく運転」できる環境と精神状態になれればいいわけで
:どうしたら「もっと乗りたく」なる、「気軽に適切に運転」できるのか?
:第3者視点があればなあ~、運転中も気楽なのに
:「自動車」で「自分のペース」で走れないものか?
:のんびり、ゆっくり、せかされずに走れる場所&時間、かつ到着が楽しみな目的地と、そこに行くまでの過程も楽しめるもの
:運転×ファンタジー?をどこに見出す?風景~高い視点、愛着の持てるインターフェイス
:車=モノ、ドラゴン=生物
:乗らなきゃ始まらない=電源スイッチを入れる
:どうしたらスイッチが入る?北海道×レンタカーだ→るるぶ購入だ!
:友人に車練習させてもらおう

かけあわせ項目×絵本
:絵本の中ではいろんな種類の車にのれるなあ
:絵本に出てくるようなかわいい車だったら所有してみてもいいなあ
:う~ん。自動車に「萌え」がないのは、「非生物」「金属的」「機械的」だからか?
:自動車→「道」が限定要因。絵本も一本道だけど、「想像の自由度」「イマジネーション喚起力」は高い
:絵本は他人を傷つけない。自動車は他人を傷つける恐れがある
:絵本は他人の「想像力と意思」によって作られた。
:自動車も他人の「想像力」に基づいて作られているのだが
:「乗りたい」と思えないのは「共感」「感情移入」ができないからか?
:「スピード」「競争」「追い抜く」「スリル」は好きじゃないんだよね
:「こころ」「いのち」があればいい
:なぜ、ある人(友人)にとっては車は「自由」であり、自分にとっては「自由」ではないのか?
:「所有」&「運転の習熟」=「自由」
ハービー/機械じかけのキューピッドこういう車ならOK

 このツールを使うと、「なぜ自分はそれに『萌え』なのか?」、逆に「なぜ『萌え』られないのか?」という「本質」に必然的にぶちあたる。
 それはとりもなおさず、「自分」を知り、「他者」を理解することとつながっているのだ。

 








2005/06/02のBlog
[ 20:25 ] [ 写真 ]
昼下がりの公園。
 ふと目を上げると、格子状の石床が視野いっぱいに広がっている。

 突然、人生とはこういうものなのかもしれない、と思う。
 
 つまるところ、人間の今生とは1点に収斂される。
 それまでにどんな過程を経ていても。

 彼岸の先のことは、まだ分からないけれど・・・



 

事事如意
2005/06/01のBlog
[ 16:34 ] [ 萌え発想術 ]
萌え発想術」も4回目を迎え、いよいよ実践的な内容につっこんできたかんじ。

 3回目の記事で「自分の『萌え』を確認するための『萌えマトリクス』をつくってみよう!」ということだったので、iEditを使ってやってみる。
 なるほど・・・こういうのに「萌え」なのね・・・自分は。

 さて、そして発想術と謳っているからには、この「萌えマトリクス」を発想シーンにどういかすかなのだが・・・。

 米光氏は、「オズボーンのチェックリスト」(アイデアを生み出すための9つの問いかけ)を例に、この「萌えマトリクス」を独自のアイデア発想のためのチェックリストに使おう、と提案している。
 自分にしか考えつけないアイデア・発想のためには、自分の持つ中期・長期記憶を最大限に活かそうということか。好きなことほど「考え続けるのも苦にならない」しね。
 何か問題が発生したとき、あるいは課題を引き受けたとき、この「萌えマトリクス」に出てきた項目をそれとかけあわせて考えてみる・・・。
 自分の発想回路の拡張、試してみよう。





 

2005/05/26のBlog
印刷博物館に、プランタン=モレトゥス博物館の企画展示を鑑賞に。

テーマは、「グーテンベルクからプランタンへ~印刷革命がはじまった」。
15世紀のマインツ(ドイツ)にて始まった出版文化が、ヨーロッパ各地にどのように伝播し、影響を及ぼしていったかを、クリストフ・プランタンという人物を中心にすえることで上手くまとめていた。

クリストフ・プランタンは、16~17世紀のアントワープ(ベルギー)を中心に活躍した出版人で、出版社の経営を核とした出版、ならびに書籍の流通・販売、その他多岐にわたる活動を通して、この時代の文化に多大な影響を及ぼした人物だ。

プランタンを祖とした出版活動(オフィシーナ・プランティニアーナ)は、有名なエラスムスによる人文思想の本や、ノストラダムス(!)による「ジャムの作り方」(「化粧論」1557年)まで、宗教・生活・言語など多方面にわたっていて、パブリッシャーとしての彼の交友の広さがうかがえる。

商業・政治・文化の中心地であったアントワープで、プランタンは時代性を反映した出版物をタイムリーに手がけている。
・宗教改革のあおりをうけ、プロテスタントに対抗すべくカソリックが教条の見直しを図ると、それにあわせて新しいカソリック向け書籍を出版。
・ユリウス暦からグレゴリオ暦へと変わった際には、すばやく「グレゴリオ方式万年カレンダー」(1583年)を出版。
・十進法による計算を普及した「少数について」(1585年) 

また、もとはプランタン自身が製本・装丁を学んでいただけあって、レイアウトや印刷技術についても研鑚を重ねているのが興味深い。かのルーベンスによるプランタンの肖像画には、オフィシアーナ・プランティニアーナの社是である「勤勉と不動」の象徴であるコンパスが描かれており、革新と真理の希求・提供という彼自身の使命感が伝わってくるようだ。



2005/05/24のBlog
「ほれほれ旦那、赤く歯形がつきィした」
千鳥は山崎屋の脇腹についた歯形を見て、ニヤリと薄く笑った。
「尻だ。ほれ尻も噛んでおくれ」
山崎屋は仰向けの体を横にした。
「旦那、また少し肥えたでありんすな」


本当の「飢え」とはどういうものだろうか?

骨と皮だけのような、ガリガリに痩せ衰えた体だった。乳房が干し烏賊のようになって、萎びていた。
「やるぞッ」
サトがいい、イヨがこくりと頷いた。
「おっかあ、堪忍!」


「飢え」の記憶は父祖より伝わる。

「馬の肉は犬の肉よりも美味しい。ひとの肉は、馬の肉よりもさらに美味しい。それを知っているから、噛みつくんでありんすよ」

たとえ、今我々の腹はくちくあろうとも

「オラぁ、食われねえど」

心が飢えれば糊口はしのげぬ

「ハハハハハ、これはいかさま面白いことをいうッツ」
山崎屋は歯形のついた腹を揺すって、声をあげて笑った。



「羅生門河岸心中」