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2006/01/02のBlog
[ 08:44 ]
[ オーディエンス ]
たとえばお伽噺のようなもの、桃太郎とか金太郎、あるいは浦島太郎のような物語が、目の前に想い描いた通りのイメージで再現されたら、どんなにか幸せな気持になることだろう。映画を何本か観るようなヒトたち、あるいはテレビで垂れ流しにされるドラマの中でもファンタジーを意識して制作されたモノであれば観ることがあるとはっきりと云えるようなヒトたちであれば、そんな幸せな気持が分かることだろう。
そんな夢のようなことを自分の力と(多分)自分のお金で実現した映画がこの映画「キングコング」だ。
ピーター・ジャクソンは「ロード・オブ・ザ・リング」で成功を収めた。この映画でもそうだけれど、自分で企画し、自分で監督をする、自分で脚本まで手がける。
その才能は日本に生まれていたら漫画家(劇画家)になったんじゃないかというほどのものかもしれないが、とにもかくにも自分の手で、自分のイメージを実現せずにはいられないタチのようで、20年余におよぶ、映画作りのキャリアは、凡て制作、脚本、監督に加えてキャストの中にまでその名前が出てくるのだから、徹底している。
「ロード・オブ・ザ・リング」の企画には出資者がいたようだが、その財力と、大画面を緻密に埋めてダイナミックに動き回る怪物を生み出すCG技術のお陰で、彼は自分のイメージをこのような形でエンタテインメントとして制作し、興行に伏すことができ、そして、また次の映画に注ぎ込むだけの資力を手に入れることが出来たのかもしれない。
そのイメージはしかしそれほど非凡であるとは思えない。ただ、「偉大なる平凡」という言い方があるが、それにあたるのではないかと思われる。自分でそのイメージを創造するほどの独創的な才能ではなく、おそらく彼が小さい頃から影響を受け育んできた物語によって作られたイメージが、具体的になったら、どんなに素敵だろうという気持ちを忘れられないヒトだ。
多くのヒトにとってはぼんやりとした憧れのようなモノをどうしても自分の手で映像にしたいという気持の強さがあるのだろう。
この「キングコング」は大衆受け(死語?)するんじゃないかと思うそんなイメージに溢れている。
特にスカル・アイランドでのキングコング中心にして繰り広げられる、恐竜や蝙蝠、不気味な巨大虫たちの闘いのシーケンスはほとんど嬉しくなるほどのスケール感とユーモアが混在して、多分原作やハリウッド製の最初キングコングの忠実でよりリアルな再現なのだろうと、この一連のシーンこそが制作者の作りたかったモノなのだと納得出来るデキになった。観ていて思わず顔がほころんで来るのが分かるのだった。
予想通り、延々と続く第一部とも云うべき導入部のストーリーとエンド・クレジットは、観るのにちょっと我慢が要ったけれど、髑髏島(スカル・アイランド)が出現してからはその都合の好い展開に身を任せていさえすれば、ちゃんと結末まで運んでくれるという、気持の好い映画になっている。
そんな夢のようなことを自分の力と(多分)自分のお金で実現した映画がこの映画「キングコング」だ。
ピーター・ジャクソンは「ロード・オブ・ザ・リング」で成功を収めた。この映画でもそうだけれど、自分で企画し、自分で監督をする、自分で脚本まで手がける。
その才能は日本に生まれていたら漫画家(劇画家)になったんじゃないかというほどのものかもしれないが、とにもかくにも自分の手で、自分のイメージを実現せずにはいられないタチのようで、20年余におよぶ、映画作りのキャリアは、凡て制作、脚本、監督に加えてキャストの中にまでその名前が出てくるのだから、徹底している。
「ロード・オブ・ザ・リング」の企画には出資者がいたようだが、その財力と、大画面を緻密に埋めてダイナミックに動き回る怪物を生み出すCG技術のお陰で、彼は自分のイメージをこのような形でエンタテインメントとして制作し、興行に伏すことができ、そして、また次の映画に注ぎ込むだけの資力を手に入れることが出来たのかもしれない。
そのイメージはしかしそれほど非凡であるとは思えない。ただ、「偉大なる平凡」という言い方があるが、それにあたるのではないかと思われる。自分でそのイメージを創造するほどの独創的な才能ではなく、おそらく彼が小さい頃から影響を受け育んできた物語によって作られたイメージが、具体的になったら、どんなに素敵だろうという気持ちを忘れられないヒトだ。
多くのヒトにとってはぼんやりとした憧れのようなモノをどうしても自分の手で映像にしたいという気持の強さがあるのだろう。
この「キングコング」は大衆受け(死語?)するんじゃないかと思うそんなイメージに溢れている。
特にスカル・アイランドでのキングコング中心にして繰り広げられる、恐竜や蝙蝠、不気味な巨大虫たちの闘いのシーケンスはほとんど嬉しくなるほどのスケール感とユーモアが混在して、多分原作やハリウッド製の最初キングコングの忠実でよりリアルな再現なのだろうと、この一連のシーンこそが制作者の作りたかったモノなのだと納得出来るデキになった。観ていて思わず顔がほころんで来るのが分かるのだった。
予想通り、延々と続く第一部とも云うべき導入部のストーリーとエンド・クレジットは、観るのにちょっと我慢が要ったけれど、髑髏島(スカル・アイランド)が出現してからはその都合の好い展開に身を任せていさえすれば、ちゃんと結末まで運んでくれるという、気持の好い映画になっている。
2005/11/21のBlog
[ 07:37 ]
「シンデレラマン」
上野に出て、時間を見たら、「シンデレラ・マン」の2回目がはじまるところ、しかも席があるというので、直ぐに入場。
■感想
映画は素直に感動できる、そんな率直なアメリカン・ドリームのお話。1928年から大恐慌を挟んで、1933年辺りまでの実在したボクサーをモデルにしたファミリー・ストーリーであり、ラッセル・クローとレネー・ゼルヴィガーの演技も映画に即した、好感の持てるもの、飽きないし、観た後の感じも好いし、神経が疲れているときにはぴったりというモノ。
「下妻物語」」
昨夜は寒いし、上掛けはないしでろくに眠れなかった割には、元気があって、朝方、ビデオルームで遣っていた「下妻物語」を結構面白くなって観ていた。
この映画、ふざけている割には面白い。
■感想
テーマがストレートに分かり易いという欠点があるモノの、映画としては纏まっているのだ。
主役の二人、深田恭子と中川アンナがじつに好い味を出している。
この映画で二人は去年の映画賞を色々と獲得したけれど、その受賞が、映画を観ていて納得出来てしまった。そして監督の中島哲也のことを・・・
「男たちの旅路・シルバーシート」
昨日の夜、NHKアーカイブスで1978年のドラマ「男たちの旅路」の第3部第一話「シルバーシート」を遅くまで観ていた。これが鶴田浩二主役、共演者に桃井かおり、水谷豊、柴俊夫がという役者、ゲスト出演者に加藤嘉、石井寛、笠知衆、藤原鎌足、殿山泰司という黒沢映画のメンバー。
年を取るとはどういうことか、その中で年を取ったヒトとそれをめぐるヒトはどういう立場に置かれるのかということを正面から取り上げた、いかにも山田太一らしい物語。しばらく眠れなくなってしまった。
このドラマに出演していた多くは既に他界し、若いガードマンを演じていた3人も既に60歳に手が届きそうな年齢になっているわけだが、この問題、今また新たに複雑な様相を見せているのではないか。
全体的には経済的に豊かになってはいるものの・・・・
「アワー・ミュージック」
16時20分の電車で再び、上野に出て、日比谷で、映画「アワーミュージック」の時間を確認して、切符を購入。
30分ほど時間に余裕があったので、旭屋に行って、「ポストモダンの思想的根拠」を探すが、ここにもなし。
映画はとても理解出来ないモノ。
前作「愛の世紀」でもそうだったけれど、ゴダールは神話を現在の形で表現しようとする。そして、ボクはそんな神話をリアルな物語として、観ようとする。
そこのギャップが埋まらないということだろうか。そして基本的な哲学の食い違い。
「ランド・オブ・プレンティ」「愛をつづる詩」
シネカノン有楽町の15時45分の回まで1時間足らずというところなので、受付だけ済ませて、ビッグカメラの店内を回って、時計とパソコンの売り場時間を潰してから、映画。
始まりの処は居眠りをしていたが、後は、ベンダースの映画だけに、とにかく集中することに。
今回の映画は伯父ポール役のジョン・ディールが好くて、それだけでも、観ていて、救われてしまう。
そして9.11のことを考えていて、その関係の本「ポストモダンの思想的根拠」が八重洲ブックセンターの話題新刊として平積みされていたのに、ちょっと衝撃を受ける。
それと、ドゥルーズの特集本に載っていた、宇野の写真にも。
先週は「アワーミュージック」というゴダールの映画がやっぱり、9.11に関係していて、その事についても考えなければならないことは有るんだと・・・・
その後丁度、時間がピッタリだったので、「愛をつづる詩」を観た。この映画、原題は「YES」そして、主役はSHEとHEということだし、その他の役も必要な時以外は役名が固有名になっていないという意欲的なもの。でもサリー・ポッターという監督という映画作家はやはり好きになれないなと感じた。
示唆に飛んだ科白は色々と面白かったけれど、それは人生観としてはあまりに普通ではないかと・・・
「ステルス」
日比谷に出て、思い切り賑やかな映画のつもりで「ステルス」を選択、日劇1という大きな映画館だったので、音響効果が凄くて、それだけは堪能。ドンドンという感じの音楽にジェットの音が重なり、その間にパイロットの通信音声が入るという、その効果だけが売り物という感じの映画だけに、その効果音が体感的に聞こえなければ意味が無かったのだろうが、さすがにこの映画館はその辺りはきっちりしている。ただ少しバランスが悪いけれど・・・・
上野に出て、時間を見たら、「シンデレラ・マン」の2回目がはじまるところ、しかも席があるというので、直ぐに入場。
■感想
映画は素直に感動できる、そんな率直なアメリカン・ドリームのお話。1928年から大恐慌を挟んで、1933年辺りまでの実在したボクサーをモデルにしたファミリー・ストーリーであり、ラッセル・クローとレネー・ゼルヴィガーの演技も映画に即した、好感の持てるもの、飽きないし、観た後の感じも好いし、神経が疲れているときにはぴったりというモノ。
「下妻物語」」
昨夜は寒いし、上掛けはないしでろくに眠れなかった割には、元気があって、朝方、ビデオルームで遣っていた「下妻物語」を結構面白くなって観ていた。
この映画、ふざけている割には面白い。
■感想
テーマがストレートに分かり易いという欠点があるモノの、映画としては纏まっているのだ。
主役の二人、深田恭子と中川アンナがじつに好い味を出している。
この映画で二人は去年の映画賞を色々と獲得したけれど、その受賞が、映画を観ていて納得出来てしまった。そして監督の中島哲也のことを・・・
「男たちの旅路・シルバーシート」
昨日の夜、NHKアーカイブスで1978年のドラマ「男たちの旅路」の第3部第一話「シルバーシート」を遅くまで観ていた。これが鶴田浩二主役、共演者に桃井かおり、水谷豊、柴俊夫がという役者、ゲスト出演者に加藤嘉、石井寛、笠知衆、藤原鎌足、殿山泰司という黒沢映画のメンバー。
年を取るとはどういうことか、その中で年を取ったヒトとそれをめぐるヒトはどういう立場に置かれるのかということを正面から取り上げた、いかにも山田太一らしい物語。しばらく眠れなくなってしまった。
このドラマに出演していた多くは既に他界し、若いガードマンを演じていた3人も既に60歳に手が届きそうな年齢になっているわけだが、この問題、今また新たに複雑な様相を見せているのではないか。
全体的には経済的に豊かになってはいるものの・・・・
「アワー・ミュージック」
16時20分の電車で再び、上野に出て、日比谷で、映画「アワーミュージック」の時間を確認して、切符を購入。
30分ほど時間に余裕があったので、旭屋に行って、「ポストモダンの思想的根拠」を探すが、ここにもなし。
映画はとても理解出来ないモノ。
前作「愛の世紀」でもそうだったけれど、ゴダールは神話を現在の形で表現しようとする。そして、ボクはそんな神話をリアルな物語として、観ようとする。
そこのギャップが埋まらないということだろうか。そして基本的な哲学の食い違い。
「ランド・オブ・プレンティ」「愛をつづる詩」
シネカノン有楽町の15時45分の回まで1時間足らずというところなので、受付だけ済ませて、ビッグカメラの店内を回って、時計とパソコンの売り場時間を潰してから、映画。
始まりの処は居眠りをしていたが、後は、ベンダースの映画だけに、とにかく集中することに。
今回の映画は伯父ポール役のジョン・ディールが好くて、それだけでも、観ていて、救われてしまう。
そして9.11のことを考えていて、その関係の本「ポストモダンの思想的根拠」が八重洲ブックセンターの話題新刊として平積みされていたのに、ちょっと衝撃を受ける。
それと、ドゥルーズの特集本に載っていた、宇野の写真にも。
先週は「アワーミュージック」というゴダールの映画がやっぱり、9.11に関係していて、その事についても考えなければならないことは有るんだと・・・・
その後丁度、時間がピッタリだったので、「愛をつづる詩」を観た。この映画、原題は「YES」そして、主役はSHEとHEということだし、その他の役も必要な時以外は役名が固有名になっていないという意欲的なもの。でもサリー・ポッターという監督という映画作家はやはり好きになれないなと感じた。
示唆に飛んだ科白は色々と面白かったけれど、それは人生観としてはあまりに普通ではないかと・・・
「ステルス」
日比谷に出て、思い切り賑やかな映画のつもりで「ステルス」を選択、日劇1という大きな映画館だったので、音響効果が凄くて、それだけは堪能。ドンドンという感じの音楽にジェットの音が重なり、その間にパイロットの通信音声が入るという、その効果だけが売り物という感じの映画だけに、その効果音が体感的に聞こえなければ意味が無かったのだろうが、さすがにこの映画館はその辺りはきっちりしている。ただ少しバランスが悪いけれど・・・・
2005/10/06のBlog
[ 22:10 ]
バフマン・ゴバディ監督 インタビュー
Q:最後に、風変わりで印象的なタイトルについてお聞かせください。
A:タイトルはいつも印象的なものを心がけています。しかしその意味を説明するのはむずかしい。皆さんに感じ取ってもらいたいと思います。あえてお答えすれば、亀は自分の甲羅を脱ぐことはできません。クルディスタンに暮らす人々もまた、自分の宿命を背負いながら生きています。戦乱の続くこの土地で多くの人々は家財道具を背負いながら、幾つもの山を越え、移動を繰り返してきました。この映画では、自分の子供をいつも背負っているアグリンが登場します。ヘンゴウもまた、両腕がないという宿命を背負って生きています。実際、彼の泳ぐ姿は亀のそれと似ています。彼らを救うのは、アグリンのように空を飛んでしまうことなのかもしれません。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
というこの映画、観ているときに、両頬にビンタを喰らったような、直接的な衝撃を受けた。
それは生きる意味とか、あるいはもっと、自分の生き方というか生活に意味を見つけたいというような気持ちが、いつも何処かにあって、その事に拘っている日常に対する、警告のようにも受け取れる類の衝撃だったような気がする。
映画の中に登場するのは、戦火の中で生き延びることの出来た子供たちではあるが、その子供たちは、アメリカ軍が進駐してくる直前クルド地方という過酷な環境をモノともせずに、画面で見る限りは易々と生活している、それが普通の生活であるかのように。
その子供たち周りで息を潜めるようにして生活している大人たちは、これがまともな生活ではないことを知ってはいるが、そこから抜け出すことも出来ず、ましてやそんな生活を強制してくる政治に立ち向かうこともできない。
けれど、生き生きと行動する子供たちも、本当は生存を脅かされるような環境の中に置かれているのだという物語が、突然、示される。
地雷を拾い集めて、売り捌くことで生活の糧を得ているサテライトと子供たちだが、地雷原の怖さも知っている。
飛ぶことを決意したアグリンに地雷原に置き去りにされた赤ん坊、だがこの場所に赤ん坊を置き去りにすること事態も恐ろしいことではあるのだが、それを救おうとしてサテライトは地雷に触れて、怪我をする。一方でアグリンは重しである赤ん坊を捨てた自分が空を飛べることを夢見て崖から身を躍らせ、ヘンゴウは戦火のただ中に一人迷い込んでゆくことになる。
そんな彼らを包囲するかのようにアメリカ軍が侵攻してくる。
そんな環境の中でも、彼らはそれぞれの生活を築いている。淡々とユーモア(いささかブラックではあるが)さえも交えて、描かれる、彼ら子供たちの生き方が、未来への希望をみせるわけではない。
けれど、どんなことがあっても、生きるという一事において、彼らは強靱であり続ける。
豊かな生活を享受するボクたちが、生理的なあれこれを悩み、わずかなストレスに敏感になっている現状、その日和見的な脆さを、その姿(映像)で告発しているかのように、映画は作られている。
けれど、その強靱さも踏みにじられてゆくのだろうか、と想像させる、ラストは哀しい・・・・・
映画が終わった後のロビーは、それぞれにほっとした表情を見せる客たちで溢れていた。
ここは岩波ホール。集まる人々はある意味、気取りから抜けられない、いわゆる、中流意識から抜けられない階層のヒトたちが多そうだ。それと、映画と真摯に向き合おうとするヒトが少しばかり。
そんなヒトの群れのなかに身を置いている自分、その姿を鏡面仕上げしたエレベータの壁に映すのが怖いような気がして、10階にあるホールから休日の無人の階段を下りていった。
そのボクの直ぐ後ろを、二人の中年女性が元気よく喋りながら下りてきたのだが、その話題は、昨夜の名月を鑑賞するウォーキングのことだった。彼女たち、映画を観たことについて一言も喋らなかったのだが、何故か・・・・・その鈍感さに無性に腹が立っていた。
Q:最後に、風変わりで印象的なタイトルについてお聞かせください。
A:タイトルはいつも印象的なものを心がけています。しかしその意味を説明するのはむずかしい。皆さんに感じ取ってもらいたいと思います。あえてお答えすれば、亀は自分の甲羅を脱ぐことはできません。クルディスタンに暮らす人々もまた、自分の宿命を背負いながら生きています。戦乱の続くこの土地で多くの人々は家財道具を背負いながら、幾つもの山を越え、移動を繰り返してきました。この映画では、自分の子供をいつも背負っているアグリンが登場します。ヘンゴウもまた、両腕がないという宿命を背負って生きています。実際、彼の泳ぐ姿は亀のそれと似ています。彼らを救うのは、アグリンのように空を飛んでしまうことなのかもしれません。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
というこの映画、観ているときに、両頬にビンタを喰らったような、直接的な衝撃を受けた。
それは生きる意味とか、あるいはもっと、自分の生き方というか生活に意味を見つけたいというような気持ちが、いつも何処かにあって、その事に拘っている日常に対する、警告のようにも受け取れる類の衝撃だったような気がする。
映画の中に登場するのは、戦火の中で生き延びることの出来た子供たちではあるが、その子供たちは、アメリカ軍が進駐してくる直前クルド地方という過酷な環境をモノともせずに、画面で見る限りは易々と生活している、それが普通の生活であるかのように。
その子供たち周りで息を潜めるようにして生活している大人たちは、これがまともな生活ではないことを知ってはいるが、そこから抜け出すことも出来ず、ましてやそんな生活を強制してくる政治に立ち向かうこともできない。
けれど、生き生きと行動する子供たちも、本当は生存を脅かされるような環境の中に置かれているのだという物語が、突然、示される。
地雷を拾い集めて、売り捌くことで生活の糧を得ているサテライトと子供たちだが、地雷原の怖さも知っている。
飛ぶことを決意したアグリンに地雷原に置き去りにされた赤ん坊、だがこの場所に赤ん坊を置き去りにすること事態も恐ろしいことではあるのだが、それを救おうとしてサテライトは地雷に触れて、怪我をする。一方でアグリンは重しである赤ん坊を捨てた自分が空を飛べることを夢見て崖から身を躍らせ、ヘンゴウは戦火のただ中に一人迷い込んでゆくことになる。
そんな彼らを包囲するかのようにアメリカ軍が侵攻してくる。
そんな環境の中でも、彼らはそれぞれの生活を築いている。淡々とユーモア(いささかブラックではあるが)さえも交えて、描かれる、彼ら子供たちの生き方が、未来への希望をみせるわけではない。
けれど、どんなことがあっても、生きるという一事において、彼らは強靱であり続ける。
豊かな生活を享受するボクたちが、生理的なあれこれを悩み、わずかなストレスに敏感になっている現状、その日和見的な脆さを、その姿(映像)で告発しているかのように、映画は作られている。
けれど、その強靱さも踏みにじられてゆくのだろうか、と想像させる、ラストは哀しい・・・・・
映画が終わった後のロビーは、それぞれにほっとした表情を見せる客たちで溢れていた。
ここは岩波ホール。集まる人々はある意味、気取りから抜けられない、いわゆる、中流意識から抜けられない階層のヒトたちが多そうだ。それと、映画と真摯に向き合おうとするヒトが少しばかり。
そんなヒトの群れのなかに身を置いている自分、その姿を鏡面仕上げしたエレベータの壁に映すのが怖いような気がして、10階にあるホールから休日の無人の階段を下りていった。
そのボクの直ぐ後ろを、二人の中年女性が元気よく喋りながら下りてきたのだが、その話題は、昨夜の名月を鑑賞するウォーキングのことだった。彼女たち、映画を観たことについて一言も喋らなかったのだが、何故か・・・・・その鈍感さに無性に腹が立っていた。
2005/08/26のBlog
[ 19:58 ]
[ オーディエンス ]
バットマン・ビギンズ、宇宙戦争、スター・ウォーズ~エピソードⅢ
この所、映画を真面目に観ているというか、とにかくほとんど毎週2本ずつのペースで観ていて、話題になる映画というか、ボクのなかで観たいと思う映画を洩れなく観たいというほとんど義務感に近い気持ちが、週末になると起きてくる。
以前は、というか、映画通を自認するようになる前は、それこそミーハー的にロードショウ公開される映画を見逃さないようにという程度に観ていたが、映画通を目指して、ネット上で映画関係のHPを作り始め、そうしたHPを回るようになってからは、重心をマイナーというか、通好みの単館公開モノに移して、それこそ、第三者的に見ても無理をしているような映画通になっていったが、それは、自分でも何だか気に入っていたのだが、ここまで来ると、それも、少しイヤミになってきたところがある。
それは、たとえば、こんな映画を観るときの、一種、斜に構えてしまう、妙な気取りが自分で分かるようになってきたからかもしれない。
それでも、ハリウッドで名を上げた渡辺謙が出演しかのバットマンのエピソードⅠという触れ込み、スピルバーグとトム・クルーズが組んだ映画、スター・ウォーズのオーラスとなるエピソード、というような宣伝文句には乗らざるを得ない。それだからこそ、通は無視するものだろうとかいうようなことを、それこそ、通を気取るならば、意識もするモノだろうが、元々がミーハーであるならば、そのミーハーに忠実であることで自分をラクにすることが出来るはずだ。
そんなことを考えて、観たのが、この3本の映画。
いかにも今のハリウッドを代表する賑やかな映画であるのに、そこには言うに云えない空虚さがあるようで、それが妙に心や気持ちに残ってしまうのは何故だろう。
たとえば映画としてのデキはソツないというか、興行的なウケを狙っていることはよく分かって、それがそんなにイヤミではないのだけれど、この映画の制作者たちは、こんな映画を作ることで、何を目指したのか、それを考えてしまうと、救われない気持ちになってしまう。
ごく一般的な話をすると、普通のヒトの興味が何処にあるかをリサーチしてそこに狙いをつけるというなら別に悪い話ではないのだが、その興味におもねるような作り方をされたときには、観る側としては、ワレに帰ったときには困ってしまう。
その意味では、一番酷いのは、「バットマン」だったかもしれない。
そして正直だったのは「宇宙戦争」というところか。ネタ切れ気味のスピルバーグの引き延ばし作戦が見え見えだし、それに乗ったトム・クルーズがちょっと気の毒。この物語、今の科学的水準と原作の間にあるギャップをどうにかしないと物語としても成立しなくなっていると思うのだが、そのギャップがそのまま剥き出しになってしまった。
「スター・ウォーズ」はその豪華な画面ゆえに凡てを赦したくなってくる。辻褄を合わせるためにいろんな手続きをすべて説明的に処理したり、予告編の寄せ集めかと思うようなとびとびのカットといい、映画としては最低のデキでありながら、シリーズの中ではまとまりが分かり易くて、しかもまあ納得の行く落ちになっていたのだから、年月を掛けただけのことはあったというところだろう。
というわけで、ボクは、このような種類の映画を素直に面白く観ることが出来るように、というのは、もう無理なんだろうかと思ってしまった3本。
この所、映画を真面目に観ているというか、とにかくほとんど毎週2本ずつのペースで観ていて、話題になる映画というか、ボクのなかで観たいと思う映画を洩れなく観たいというほとんど義務感に近い気持ちが、週末になると起きてくる。
以前は、というか、映画通を自認するようになる前は、それこそミーハー的にロードショウ公開される映画を見逃さないようにという程度に観ていたが、映画通を目指して、ネット上で映画関係のHPを作り始め、そうしたHPを回るようになってからは、重心をマイナーというか、通好みの単館公開モノに移して、それこそ、第三者的に見ても無理をしているような映画通になっていったが、それは、自分でも何だか気に入っていたのだが、ここまで来ると、それも、少しイヤミになってきたところがある。
それは、たとえば、こんな映画を観るときの、一種、斜に構えてしまう、妙な気取りが自分で分かるようになってきたからかもしれない。
それでも、ハリウッドで名を上げた渡辺謙が出演しかのバットマンのエピソードⅠという触れ込み、スピルバーグとトム・クルーズが組んだ映画、スター・ウォーズのオーラスとなるエピソード、というような宣伝文句には乗らざるを得ない。それだからこそ、通は無視するものだろうとかいうようなことを、それこそ、通を気取るならば、意識もするモノだろうが、元々がミーハーであるならば、そのミーハーに忠実であることで自分をラクにすることが出来るはずだ。
そんなことを考えて、観たのが、この3本の映画。
いかにも今のハリウッドを代表する賑やかな映画であるのに、そこには言うに云えない空虚さがあるようで、それが妙に心や気持ちに残ってしまうのは何故だろう。
たとえば映画としてのデキはソツないというか、興行的なウケを狙っていることはよく分かって、それがそんなにイヤミではないのだけれど、この映画の制作者たちは、こんな映画を作ることで、何を目指したのか、それを考えてしまうと、救われない気持ちになってしまう。
ごく一般的な話をすると、普通のヒトの興味が何処にあるかをリサーチしてそこに狙いをつけるというなら別に悪い話ではないのだが、その興味におもねるような作り方をされたときには、観る側としては、ワレに帰ったときには困ってしまう。
その意味では、一番酷いのは、「バットマン」だったかもしれない。
そして正直だったのは「宇宙戦争」というところか。ネタ切れ気味のスピルバーグの引き延ばし作戦が見え見えだし、それに乗ったトム・クルーズがちょっと気の毒。この物語、今の科学的水準と原作の間にあるギャップをどうにかしないと物語としても成立しなくなっていると思うのだが、そのギャップがそのまま剥き出しになってしまった。
「スター・ウォーズ」はその豪華な画面ゆえに凡てを赦したくなってくる。辻褄を合わせるためにいろんな手続きをすべて説明的に処理したり、予告編の寄せ集めかと思うようなとびとびのカットといい、映画としては最低のデキでありながら、シリーズの中ではまとまりが分かり易くて、しかもまあ納得の行く落ちになっていたのだから、年月を掛けただけのことはあったというところだろう。
というわけで、ボクは、このような種類の映画を素直に面白く観ることが出来るように、というのは、もう無理なんだろうかと思ってしまった3本。
2005/08/16のBlog
[ 22:24 ]
[ うんちく、小ねた ]
マイク・リーの映画は正直好きではない。しかし、作る映画は玄人筋には大受け状態だし、興行的には地味だから、採算が取れているのかどうか分からないが、それでもこの所、その作品は間違いなく日本でも公開されて、自称映画通は観なくてはいけないほどの気持ちを持って観に行くことになる。
ボクだってその例外ではないから、この近年の映画は観て来たつもりだ。しかし「秘密と嘘」に代表されるその、複雑で繊細な心の動きのような展開にはついて行けないまま。
ヴァージニア・ウルフの小説が英語でしか辿れないプロットを持っているのと同じような、微妙な科白とイギリス的な仕草、一回だけ現れる激情、という大体の展開は理解できるけれど、それでは、これらの映画がおもしろいとは云えないだろう。ただ、無理をして何のためか分からない行為として映画を観ているだけだ。
こういうことだ。
前段落で「だんだん気が重くなってきて」と書いたのは、私小説やかつての日本文学が暗かったからではない。自分が何かを論じようとするための材料としての小説を読むことの、一種の不毛さによって気が重くなったのだ。私は時評や書評委員の類を今までやったことがなくて、書評や文庫本の解説も年に数本するだけで、基本的に、読みたいときに読みたい本しか読まず、読みかけの本でも飽きるとそこで簡単に投げ出してしまう。一見じつに不謹慎な読み方だが、本当は反対で本に対して敬意を払っているからだ。何らかの面白さやいわくいいがたさをそこに感じることのできない本を最後まで読み通すくらい本を馬鹿にした話はないだろう。課業とかしてしまった読書は、その本に対して一種の蔑視を生み出す。 保坂和志「小説の自由」49頁
映画に対しても同じようなことが云えることだろう。本を読むことに比べれば、映画を観ることは受動的に流すことも出来る行為ということになるかもしれないが、それでも、義務化、課業化してしまうこともあるかもしれない。
けれど、それでは、ボクたちはどういう動機から本を読んだり、映画を観たりするのか・・・・・・
前置きが長くなったけれど、小説を読んでいるときに読んでいるコトを意識することなく、熱中することが出来ることほど幸せなことはない。それと同じコトが、映画についても云えるとすれば、この「ヴェラ・ドレイク」はまさにそうした映画になっていた。
マイク・リーのこれまでの映画を、映画ファンの義務のような見方に堕して観ていたことが、信じられないほどに、これは、真の映画だったのだ。
では、映画とは何か、それが実は問題になるのだけれど。
ボクにとっての映画とは何か、何故ボクは映画を観続けているのか・・・・・・・
ボクだってその例外ではないから、この近年の映画は観て来たつもりだ。しかし「秘密と嘘」に代表されるその、複雑で繊細な心の動きのような展開にはついて行けないまま。
ヴァージニア・ウルフの小説が英語でしか辿れないプロットを持っているのと同じような、微妙な科白とイギリス的な仕草、一回だけ現れる激情、という大体の展開は理解できるけれど、それでは、これらの映画がおもしろいとは云えないだろう。ただ、無理をして何のためか分からない行為として映画を観ているだけだ。
こういうことだ。
前段落で「だんだん気が重くなってきて」と書いたのは、私小説やかつての日本文学が暗かったからではない。自分が何かを論じようとするための材料としての小説を読むことの、一種の不毛さによって気が重くなったのだ。私は時評や書評委員の類を今までやったことがなくて、書評や文庫本の解説も年に数本するだけで、基本的に、読みたいときに読みたい本しか読まず、読みかけの本でも飽きるとそこで簡単に投げ出してしまう。一見じつに不謹慎な読み方だが、本当は反対で本に対して敬意を払っているからだ。何らかの面白さやいわくいいがたさをそこに感じることのできない本を最後まで読み通すくらい本を馬鹿にした話はないだろう。課業とかしてしまった読書は、その本に対して一種の蔑視を生み出す。 保坂和志「小説の自由」49頁
映画に対しても同じようなことが云えることだろう。本を読むことに比べれば、映画を観ることは受動的に流すことも出来る行為ということになるかもしれないが、それでも、義務化、課業化してしまうこともあるかもしれない。
けれど、それでは、ボクたちはどういう動機から本を読んだり、映画を観たりするのか・・・・・・
前置きが長くなったけれど、小説を読んでいるときに読んでいるコトを意識することなく、熱中することが出来ることほど幸せなことはない。それと同じコトが、映画についても云えるとすれば、この「ヴェラ・ドレイク」はまさにそうした映画になっていた。
マイク・リーのこれまでの映画を、映画ファンの義務のような見方に堕して観ていたことが、信じられないほどに、これは、真の映画だったのだ。
では、映画とは何か、それが実は問題になるのだけれど。
ボクにとっての映画とは何か、何故ボクは映画を観続けているのか・・・・・・・
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