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2005/08/10のBlog
[ 22:32 ]
[ 大阪の郊外で旅を語る ]
近頃、ガソリン代が高騰していて悲鳴をあげてる人も多いかと思います。
俺の場合は車が燃費のいいプリウスな上に、一滴でもガソリン消費を減らそうかとエコノミックドライブを心がけているせいか、いちおう無給油1000kmをキープしております。
(今も1130kmでガソリンメーターが2セグメント残ってるので無給油1200km突破はほぼ確実です)
なんでまだ助かってる方なんですが、それでもガソリン入れる度に値段が上がってるような。
ここ数日、意識してガソリンスタンドの値段表を見てるのですが、
中にはとんでもない値段の所もあったりします。
前もついに、
「ひゃっ、ひゃくさんじゅうはちえん!?」
というところも見つかり、この上昇の勢いはしばらく収まりそうにないですね。
そのせいか、最近プリウスを買う人が増えてるみたいで、
俺が買った時には納車1ヵ月半弱待ちやったのが、先月あたりから2~3ヶ月待ちになってるんやとかなんとか。
でも、プリウス買ったからって燃費が上がるとは限りません。
燃費向上にはある程度のテクニックが必要で、基本テクニックさえ身につけたら25km/lは余裕プッチンプリン、
(燃費に悪いタイヤを履いてるツーリングセクションは除く)
30km/l以上、果てはカタログ燃費越えだって気合と根性があれば夢ではありませんが、
40年の車の運転が完全に身についてしまったオヤジは、
俺が運転すると30km/lはコンスタントに出るプリウスを運転しても、
だいたい17~18km/lくらいしか出せません。
このことから、燃費向上にはコツが必要なんですわ。
で、話は変わって、実際に石油が出る産油国のガソリンの値段、
少し気になるかと思います。
俺が放浪してた時は実は免許を持っておらず、取る気すらゼロやったんですが、
そのせいでガソリン代なんかには興味が全くありませんでした。
今行けば気になって仕方ないかもしれませんね。
こういうリサーチ、けっこう好きなんで(笑
しかし、一つだけガソリン代に対して強烈なインパクトが残っている国があります。
それはイラン。
石油とくると、ほとんどの人は中東かアメリカあたりを想像するかと思いますが、
イラン、特にカスピ海沿岸とペルシャ湾沿岸は有名な石油の産地で、
大昔(7~80年前)は全世界の石油の半分がここで採掘されていました。
今でも、イランは石油採掘量世界第4位なんです。
去年、日本がイラン最大、中東でも最大級の油田の採掘権をイランから得ましたが、
アメリカの露骨な横槍にもめげず、イラン政府も、
「欧米の賊に掘られるなら日本の方がいい」
としきりに日本政府に働きかけ、やっと調印となりました。
え?イランの石油なんかイランって?そんなこと言うたったらあきまへん(笑
で、イランに行った時のことですが、乗ってた長距離バスが給油のために、
日本で言えば高速道路のSAにある給油所に立ち寄ったときのこと。
休憩も兼ねた給油なので、乗客は
「おまえらもどっかで適当に「給油」してろ」
とばかりにほぼ強制的に下ろされ、
仕方ないので当時一緒に旅をしていた女の子と一緒に、周りをブラブラすることになしました。
まあ、実際はその女の子に寄り付いてくる「害虫」の虫除けの役目なんですけどね_| ̄|○
で、女の子が看板に書いてあるガソリンスタンドの値段を見てビックリしていました。
「ねぇねぇ、見て見て!」
って言っても、俺はアラビア文字などわからんのでチンプンカンプン。
(数字と自分の名前は中東を旅していくうちにわかるようになりましたが)
彼女はアラビア文字がわかるので翻訳してもらったのですが、
レギュラー1Lの値段が、日本円に直すとなんと約1円。
イランリアルの値段は忘れてしまいましたが、
(当時1US$=8000リアルくらいやったんで、80リアルやったんでしょう)
兎に角日本の常識では考えられない値段で、イランがいくら物価が安いとはいえ、
これはいくらなんでも安すぎでしょーとは思いました。
でも、これホンマなんです。間違いではありませんでした。
ハイオクの値段は知りませんが、仮に倍としても1L2円・・・。
もし、今「世界まるごとHOWマッチ!」があれば、
真っ先に問題になるやろう、とその時思った第一感想です。
問題になったら、もしかして全員ロストボールかも(笑
ガソリン代だけでなく、イランは交通費がこれまた日本の常識では考えられないくらい安かったのを覚えています。
これはあまりの安さにはっきり記憶に残っています。
飛行機はさすがに外国人料金が適用されて高いのですが、
(それでもUS$25なんですが)
イランを縦横無尽に走り回る長距離バス、イランは何気に日本の4.4倍の広さなんで、
バスに乗るととんでもない距離を走ることがあるのですが、
一度、大阪~旭川間くらいの距離を走るバスに乗ったことがあります。
距離もかなりビビってしまいますが、もっと驚くべきはその料金。
その時のバス料金、日本円換算すると約120円也。
隣のトルコのバスが同じ距離を走ると、日本円換算で2~2500円かかってしまうことを思えば、
「なんじゃこりゃ!?聞き間違いか?」
と思うくらいのバス料金大バーゲンセールです。
しかし、もちろんバスは日本の高速バスというレベルやなく、
まあ、潰れへんだけマシかって程度ですが・・・。
(テヘラン~イスファハーン間には豪華バスが走っていてますが、
値段は500円くらいと、イランの物価から見たら相当高いです)
とにかく、イランはバスの長距離移動はすべて100円く±20円で済むのには大助かりでした。
安いといえば、イランの市内交通も破格の安さでした。
首都のテヘランの市内バスの料金が、やはり全区間1円均一くらいでしたが、
タクシーもタクシーで、メーターがないので料金は要交渉ですが、
それでも市内を走り回っても、「は?」というような値段でした。
パキスタンのビザを取るためには日本大使館の推薦状(俗に「レター」って言います)が必要で、
(日本で取るときは要りません)
それをGETするためにテヘランの日本大使館へタクシーで行ったのですが、
タクシーの運ちゃんがたどり着いたのは、
NHKテヘラン支局
でした(笑
「ちゃうやんけ!」と運ちゃんを問い詰めてたところで運よく日本人職員が通りかかり、
運ちゃんにペルシャ語で説明してくれてなんとか着き、
レターを発行してもらってパキスタン大使館へGO。
(結局、パキスタン大使館はタイムオーバーで門前払いでした)
テヘラン市内はけっこうデカく、タクシーに乗ること2時間くらい、
日本で言えば東京23区を端から端まで走り回ったようなものですが、
それで料金が約50円くらい、とにかく激安でした。
その後、イスファハーンというイランの京都のようなところでもタクシーに乗りました。
時間がなかったので運ちゃんのいい値で乗って、激しくぼったくられてましたが、
それでも80円弱くらい、やっぱバカ安いです。
また後、シーラーズという奈良のような所でも乗りましたが、
有名なペルセポリス遺跡も含めた1日チャーターで400円くらい。
4人で行ったので結局1人100円と言う計算になります。
(別途運ちゃんにメシ代とかも払いました)
これはイランに行った6年前のことなんで、今はインフレ等で値段が上がってるかもしれませんが、
日本の常識では考えられない、というか信じられないかもしれません。
でも、こんな信じられない世界が、海の向こうには待っているのです。
ウヨウヨしてるとまでは言いませんが、
こういう「日本の常識」を破壊されに行く、これも海外旅行の醍醐味ですね。
俺の場合は車が燃費のいいプリウスな上に、一滴でもガソリン消費を減らそうかとエコノミックドライブを心がけているせいか、いちおう無給油1000kmをキープしております。
(今も1130kmでガソリンメーターが2セグメント残ってるので無給油1200km突破はほぼ確実です)
なんでまだ助かってる方なんですが、それでもガソリン入れる度に値段が上がってるような。
ここ数日、意識してガソリンスタンドの値段表を見てるのですが、
中にはとんでもない値段の所もあったりします。
前もついに、
「ひゃっ、ひゃくさんじゅうはちえん!?」
というところも見つかり、この上昇の勢いはしばらく収まりそうにないですね。
そのせいか、最近プリウスを買う人が増えてるみたいで、
俺が買った時には納車1ヵ月半弱待ちやったのが、先月あたりから2~3ヶ月待ちになってるんやとかなんとか。
でも、プリウス買ったからって燃費が上がるとは限りません。
燃費向上にはある程度のテクニックが必要で、基本テクニックさえ身につけたら25km/lは余裕プッチンプリン、
(燃費に悪いタイヤを履いてるツーリングセクションは除く)
30km/l以上、果てはカタログ燃費越えだって気合と根性があれば夢ではありませんが、
40年の車の運転が完全に身についてしまったオヤジは、
俺が運転すると30km/lはコンスタントに出るプリウスを運転しても、
だいたい17~18km/lくらいしか出せません。
このことから、燃費向上にはコツが必要なんですわ。
で、話は変わって、実際に石油が出る産油国のガソリンの値段、
少し気になるかと思います。
俺が放浪してた時は実は免許を持っておらず、取る気すらゼロやったんですが、
そのせいでガソリン代なんかには興味が全くありませんでした。
今行けば気になって仕方ないかもしれませんね。
こういうリサーチ、けっこう好きなんで(笑
しかし、一つだけガソリン代に対して強烈なインパクトが残っている国があります。
それはイラン。
石油とくると、ほとんどの人は中東かアメリカあたりを想像するかと思いますが、
イラン、特にカスピ海沿岸とペルシャ湾沿岸は有名な石油の産地で、
大昔(7~80年前)は全世界の石油の半分がここで採掘されていました。
今でも、イランは石油採掘量世界第4位なんです。
去年、日本がイラン最大、中東でも最大級の油田の採掘権をイランから得ましたが、
アメリカの露骨な横槍にもめげず、イラン政府も、
「欧米の賊に掘られるなら日本の方がいい」
としきりに日本政府に働きかけ、やっと調印となりました。
え?イランの石油なんかイランって?そんなこと言うたったらあきまへん(笑
で、イランに行った時のことですが、乗ってた長距離バスが給油のために、
日本で言えば高速道路のSAにある給油所に立ち寄ったときのこと。
休憩も兼ねた給油なので、乗客は
「おまえらもどっかで適当に「給油」してろ」
とばかりにほぼ強制的に下ろされ、
仕方ないので当時一緒に旅をしていた女の子と一緒に、周りをブラブラすることになしました。
まあ、実際はその女の子に寄り付いてくる「害虫」の虫除けの役目なんですけどね_| ̄|○
で、女の子が看板に書いてあるガソリンスタンドの値段を見てビックリしていました。
「ねぇねぇ、見て見て!」
って言っても、俺はアラビア文字などわからんのでチンプンカンプン。
(数字と自分の名前は中東を旅していくうちにわかるようになりましたが)
彼女はアラビア文字がわかるので翻訳してもらったのですが、
レギュラー1Lの値段が、日本円に直すとなんと約1円。
イランリアルの値段は忘れてしまいましたが、
(当時1US$=8000リアルくらいやったんで、80リアルやったんでしょう)
兎に角日本の常識では考えられない値段で、イランがいくら物価が安いとはいえ、
これはいくらなんでも安すぎでしょーとは思いました。
でも、これホンマなんです。間違いではありませんでした。
ハイオクの値段は知りませんが、仮に倍としても1L2円・・・。
もし、今「世界まるごとHOWマッチ!」があれば、
真っ先に問題になるやろう、とその時思った第一感想です。
問題になったら、もしかして全員ロストボールかも(笑
ガソリン代だけでなく、イランは交通費がこれまた日本の常識では考えられないくらい安かったのを覚えています。
これはあまりの安さにはっきり記憶に残っています。
飛行機はさすがに外国人料金が適用されて高いのですが、
(それでもUS$25なんですが)
イランを縦横無尽に走り回る長距離バス、イランは何気に日本の4.4倍の広さなんで、
バスに乗るととんでもない距離を走ることがあるのですが、
一度、大阪~旭川間くらいの距離を走るバスに乗ったことがあります。
距離もかなりビビってしまいますが、もっと驚くべきはその料金。
その時のバス料金、日本円換算すると約120円也。
隣のトルコのバスが同じ距離を走ると、日本円換算で2~2500円かかってしまうことを思えば、
「なんじゃこりゃ!?聞き間違いか?」
と思うくらいのバス料金大バーゲンセールです。
しかし、もちろんバスは日本の高速バスというレベルやなく、
まあ、潰れへんだけマシかって程度ですが・・・。
(テヘラン~イスファハーン間には豪華バスが走っていてますが、
値段は500円くらいと、イランの物価から見たら相当高いです)
とにかく、イランはバスの長距離移動はすべて100円く±20円で済むのには大助かりでした。
安いといえば、イランの市内交通も破格の安さでした。
首都のテヘランの市内バスの料金が、やはり全区間1円均一くらいでしたが、
タクシーもタクシーで、メーターがないので料金は要交渉ですが、
それでも市内を走り回っても、「は?」というような値段でした。
パキスタンのビザを取るためには日本大使館の推薦状(俗に「レター」って言います)が必要で、
(日本で取るときは要りません)
それをGETするためにテヘランの日本大使館へタクシーで行ったのですが、
タクシーの運ちゃんがたどり着いたのは、
NHKテヘラン支局
でした(笑
「ちゃうやんけ!」と運ちゃんを問い詰めてたところで運よく日本人職員が通りかかり、
運ちゃんにペルシャ語で説明してくれてなんとか着き、
レターを発行してもらってパキスタン大使館へGO。
(結局、パキスタン大使館はタイムオーバーで門前払いでした)
テヘラン市内はけっこうデカく、タクシーに乗ること2時間くらい、
日本で言えば東京23区を端から端まで走り回ったようなものですが、
それで料金が約50円くらい、とにかく激安でした。
その後、イスファハーンというイランの京都のようなところでもタクシーに乗りました。
時間がなかったので運ちゃんのいい値で乗って、激しくぼったくられてましたが、
それでも80円弱くらい、やっぱバカ安いです。
また後、シーラーズという奈良のような所でも乗りましたが、
有名なペルセポリス遺跡も含めた1日チャーターで400円くらい。
4人で行ったので結局1人100円と言う計算になります。
(別途運ちゃんにメシ代とかも払いました)
これはイランに行った6年前のことなんで、今はインフレ等で値段が上がってるかもしれませんが、
日本の常識では考えられない、というか信じられないかもしれません。
でも、こんな信じられない世界が、海の向こうには待っているのです。
ウヨウヨしてるとまでは言いませんが、
こういう「日本の常識」を破壊されに行く、これも海外旅行の醍醐味ですね。
[ 19:28 ]
[ 故国でのつぶやき ]
かなり前に、どこかで禁煙宣言したような気がしたような(笑
今昼飯をすませて軽く一服してますが、
どうしても禁煙できない理由の一つにこの食後の一服があります。
スモーキング経験者なら経験があるかもしれないけど、
お腹がいっぱいになった後の一服、これがかなり美味いんです。
至福の時というのはこういうことを言うんでしょうね。
吸いたくない時に吸うと、こんなにマズいものはないと思うんですが、
食後の一服ほど美味いものはありません。
こうして、禁煙からどんどん遠ざかっております(笑
あと、コーヒーにタバコもすごく合いますね。
このコンビも止める事ができない要因の一つです。
コーヒーを飲みたくて喫茶店に入り、
「申し訳ありません、禁煙席しかありません」
と言われるともう気が狂いそうです。
特に、タバコ嫌いの前前カノの場合、それに更に
「スタバ大好き」
が重なってたので、俺にとっては二重苦になってしまい、
彼女も「わざと」スタバに行こうとするので、
せっかくのデートがストレス溜まりまくりでした(笑
でも、タバコにコーヒーは胃にものすごい負担を与えるそうです。
そんなことわかっててもやめられへん、あきまへんなー。
今昼飯をすませて軽く一服してますが、
どうしても禁煙できない理由の一つにこの食後の一服があります。
スモーキング経験者なら経験があるかもしれないけど、
お腹がいっぱいになった後の一服、これがかなり美味いんです。
至福の時というのはこういうことを言うんでしょうね。
吸いたくない時に吸うと、こんなにマズいものはないと思うんですが、
食後の一服ほど美味いものはありません。
こうして、禁煙からどんどん遠ざかっております(笑
あと、コーヒーにタバコもすごく合いますね。
このコンビも止める事ができない要因の一つです。
コーヒーを飲みたくて喫茶店に入り、
「申し訳ありません、禁煙席しかありません」
と言われるともう気が狂いそうです。
特に、タバコ嫌いの前前カノの場合、それに更に
「スタバ大好き」
が重なってたので、俺にとっては二重苦になってしまい、
彼女も「わざと」スタバに行こうとするので、
せっかくのデートがストレス溜まりまくりでした(笑
でも、タバコにコーヒーは胃にものすごい負担を与えるそうです。
そんなことわかっててもやめられへん、あきまへんなー。
2005/08/09のBlog
[ 23:25 ]
[ 数行消息 パルプンテ1行日記 ]
今日もダメ、寝させて下さい。
[ 01:07 ]
[ 故国でのつぶやき ]
やっちゃいました_| ̄|○
カスタマイズし損ねて、テンプレがすべて消えてしまいました。
明日以降、復旧工事をするので、しばらく見難いかと思いますが、
少々お待ち下さいm(__)m
疲れたまま何かするとこんなことばっかりやな、しかし。
カスタマイズし損ねて、テンプレがすべて消えてしまいました。
明日以降、復旧工事をするので、しばらく見難いかと思いますが、
少々お待ち下さいm(__)m
疲れたまま何かするとこんなことばっかりやな、しかし。
2005/08/08のBlog
[ 23:19 ]
[ 数行消息 パルプンテ1行日記 ]
今日は完全にバテました。思考力ゼロなんで寝ますー。
[ 00:55 ]
[ プリウスでエコドライブ ]
今週末、政令指定都市に昇格が確定した堺市を縦断する旅に行ってきました。
上の画像は土居川の跡に作られた阪神高速堺線です。
土居川とは、室町時代後期~戦国時代に掘られた堀の跡で、
東側だけ阪神高速として埋め立てられました。
なお、北と南側は現存しています。
上の画像は土居川の跡に作られた阪神高速堺線です。
土居川とは、室町時代後期~戦国時代に掘られた堀の跡で、
東側だけ阪神高速として埋め立てられました。
なお、北と南側は現存しています。
南海電鉄の堺駅です。
南海電鉄は今も私鉄として現存する鉄道としては日本で最も古く、
堺駅は元々もう少し南の位置にあって俺もその旧堺駅を覚えているのですが、
改築の際に今の位置に移り、現在に至っています。
堺市の大きな鉄道駅は、堺駅の他に南海高野線の堺東駅、阪和線の堺市駅などがあります。
南海電鉄は今も私鉄として現存する鉄道としては日本で最も古く、
堺駅は元々もう少し南の位置にあって俺もその旧堺駅を覚えているのですが、
改築の際に今の位置に移り、現在に至っています。
堺市の大きな鉄道駅は、堺駅の他に南海高野線の堺東駅、阪和線の堺市駅などがあります。
堺の中心部の大通り(大道筋)、宿院の写真です。
ここは戦前の堺のメインロード&中心で、
今も昔も路面電車(阪堺線)が通りの真ん中を走っています。
戦前はこの道の周りに商店が立ち並び、かなり賑わったそうですが、
空襲で跡形もなく焼けてしまい、焼け残った家も戦後の道路拡張で取り除かれ、
今はほとんど見る影もありません。
唯一、この地域に銀行の支店が集まっていることだけが、
当時の繁栄ぶりを知りえる面影と言えば面影かもしれません。
なお、大道筋以外の区画自体は戦国時代とそんなに変わっていないらしいので、
千利休や徳川家康(本能寺の変の時、家康は堺にいた)から与謝野晶子まで、
もしかして時代を経て同じ道を歩いていたかもしれません。
ここは戦前の堺のメインロード&中心で、
今も昔も路面電車(阪堺線)が通りの真ん中を走っています。
戦前はこの道の周りに商店が立ち並び、かなり賑わったそうですが、
空襲で跡形もなく焼けてしまい、焼け残った家も戦後の道路拡張で取り除かれ、
今はほとんど見る影もありません。
唯一、この地域に銀行の支店が集まっていることだけが、
当時の繁栄ぶりを知りえる面影と言えば面影かもしれません。
なお、大道筋以外の区画自体は戦国時代とそんなに変わっていないらしいので、
千利休や徳川家康(本能寺の変の時、家康は堺にいた)から与謝野晶子まで、
もしかして時代を経て同じ道を歩いていたかもしれません。
堺が生んだ歌人、与謝野晶子の生家跡です。
彼女は明治11年12月7日に、宿院にあった菓子商の三女として生まれ、
幼い頃から漢学などを習う才女だったそうです。
近くの女学校(堺女学校、今の泉陽高校。沢口靖子もここ卒業です)在学中より歌を詠み、
のちに好きになった与謝野鉄幹を追って上京、次々と歌集を発表しました。
与謝野晶子と言えば、日露戦争に出征した弟に対して詠んだ、
「君死にたまふこと勿れ」
が有名ですね。
あゝおとうとよ、君を泣く、
君死(きみし)にたまふことなかれ、
末(すえ)に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺(さかい)の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの、
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出(い)でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
あゝおとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきのなかに、いたましく
我子を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
また、彼女は源氏物語の現代語訳をした人としても知られています。
ちなみに、衆議院議員の与謝野馨氏は彼女の孫にあたります。
ちなみに、近くに千利休の生家跡もありますが、
ここは雲行きが怪しくなってきたために行きませんでした。
彼女は明治11年12月7日に、宿院にあった菓子商の三女として生まれ、
幼い頃から漢学などを習う才女だったそうです。
近くの女学校(堺女学校、今の泉陽高校。沢口靖子もここ卒業です)在学中より歌を詠み、
のちに好きになった与謝野鉄幹を追って上京、次々と歌集を発表しました。
与謝野晶子と言えば、日露戦争に出征した弟に対して詠んだ、
「君死にたまふこと勿れ」
が有名ですね。
あゝおとうとよ、君を泣く、
君死(きみし)にたまふことなかれ、
末(すえ)に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺(さかい)の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの、
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出(い)でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
あゝおとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきのなかに、いたましく
我子を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
また、彼女は源氏物語の現代語訳をした人としても知られています。
ちなみに、衆議院議員の与謝野馨氏は彼女の孫にあたります。
ちなみに、近くに千利休の生家跡もありますが、
ここは雲行きが怪しくなってきたために行きませんでした。
2005/08/07のBlog
[ 22:33 ]
[ 中国語やってみまっか? ]
日本語と中国語は漢字というソフトウェアを共有しているのは、以前のBlogでもいろいろ紹介しましたが、
言うまでもなく中国から輸入されたものです。
漢字はいつから使われ始めたというはっきりとした記録はないのですが、
神話の世界だと、紀元前2700年頃に
蒼頡(そうけつ)
という人物が鳥や獣の足跡にヒントを得て作り出したものであるとされます。
歴史的・考古学的に確認されている漢字の使用は、現在存在が確認されている最古の王朝、殷の時代に占いに使われた甲骨文字です。
最古の甲骨文字は紀元前1500年頃のものですが、
それ以前にも漢字は発展しつつ文字として形作られたとされています。
それが次の王朝、周になって更に発展し、
春秋戦国時代になって各国ごとに独特の漢字が生まれましたが、
紀元前221年に中国を統一した秦が漢字の字体を統一させ、
その統一された字体がベースとなって隷書が生まれ、
隷書から草書や楷書などが生まれました。
日本に漢字が伝わったのは、5世紀~6世紀あたりと言われ、
それまでは日本には文字がなかったというのがいちおう定説になっているので、
漢字の輸入は、イコール日本に文字がもたらされたと言っていいでしょう。
そして、ご存知の通り、この漢字から日本特有の文字である、
ひらがな(草書体の一部がベース)
カタカナ(漢字の一部を抜粋)
が生まれました。
もちろん、漢字の一文字ずつだけでなく、単語も中国から輸入されたのは言うまでもありません。
そして時は明治時代になり、欧米の文化や概念が急激に入るにつれ、
それらの言葉を日本語に訳す必要が出てきました。
数ある知識人がその「翻訳」に苦心惨憺した挙句、
明治時代に漢字を使った数々の熟語が生まれ、
更にそれが中国から日本に留学した中国人を通して、
中国に「逆輸入」されることになりました。
北朝鮮の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国なのは誰でも知ってることやと思いますが、
このうち、「朝鮮」と「国」意外はすべて明治時代に作られた造語です。
こういう、
中国→日本→中国(または朝鮮)
という漢字の流れにより、単語もけっこう共有しているものがあります。
「社会」
という単語がありますが、
これは日本・中国・韓国に共通する言葉で、読み方は少し違うものの、
意味も同じで日常生活で使われています。
こうして単語の意味もだいたいは同じな日中の漢字ですが、
中には意味が全然違うものもあります。
例えば、中国語を勉強する人が一度は聞く笑い話ですが、
ある日本人が中国でお世話になり、その人に手紙を書きました。
日本人は、手紙の最後にこう書きました。
「時間があれば手紙を下さい」
そして、中国から返事がきたのですが、それは手紙ではなく小包。
何だろう?と思って開けてみると、そこには段ボール箱いっぱいのトイレットペーパーが・・・。
「手紙」と言う単語、中国では「トイレットペーパー」という意味なのです。
最近は「衛生紙」と言うことが多くなって使われなくなったのですが、
通じることは通じて、中国で「手紙」と書くとまずトイレットペーパーかティッシュペーパーがやってきます。
ちなみに、中国語で「手紙」は「信」と書き、発音もそのまま「シン(xin4)」です。
また、夫婦連れの中国人が、奥さんを紹介する時に、
「我愛人」
と書いたら、日本人はまずビックリするでしょう。
これも、日本語と中国語の単語の意味が違うものです。
「愛人」は中国語では「奥さん」という意味で(主に北方で使用)、
日本語の「愛人」という何か後ろめたい意味は全くありません。
また、日本の習慣で、贈り物に「粗品」と書くことが多いですが、
中国では絶対にしてはいけないことの一つです。
日本では謙遜の意味で書くことが多いですが、
中国ではそんなものは通用せず、そのままの、
「粗(末な)品(物)」
と解釈されます。
中国人は自分の、そして他人のメンツを重んじるので、
その場面ではあまり不快な顔をしないでしょうが、
「粗品」を渡して次に会ってくれるかどうかは微妙です。
中国へ旅行してレストランに入ると、たまに、
「京都○○」
と書かれた料理を見ることがあります。
日本人は、「へ~、日本の京風の料理があるんや」と、
日本文化が中国に浸透していっていると感じるかもしれませんが、
これは大きな勘違い。
中国語では「京都」は「首都」という意味で、
レストランに書かれている「京都」は、
首都、つまり北京風の辛味の強い(または塩辛い)風味のもの、という意味です。
京風の薄味をイメージしてオーダーすると、
スーパーこってり北京風味という、逆のものが出てきますよ(笑
こういう違いはしばしば発生し、たいていは笑い話で済みますが、
たまに笑い話で済まない場合もあったりします。
その他、パッと思いつく程度に日本語と中国語で意味が違う単語を羅列してみました。
●老婆:奥さん(呼びかけにも使う)
●邪魔:妖怪変化
●利害:すごい、すさまじい等(Li4 hai4と読むと日本語と同じ意味になる)
●娘:母親
●鬼:幽霊
●猪:豚
●電車:トロリーバス、チンチン電車(昔は戦車も「電車」だったらしいです)
●単車:自転車(広東語なので広東でのみ使用)
●爆発:(戦争など、大きな出来事が)起きる
●東洋:日本
(今は差別的ニュアンスが含まれているため、死語です。この単語の由来は面白いので、別記事にします)
●百姓:一般大衆(普通は「老百姓」という形で使われ、よく使います)●階段:段階
●汽車:(乗用)車
●大丈夫:男の中の男、漢(おとこ)
●需要:~しなければならない、~する必要がある
(「需要」という意味もあります)
●明白:わかる、理解する
(「明白(めいはく)」という意味もありますが、あまり使わない)
●大家:みなさん、みんな
●先生:~さん(男性)、(英語の"Mr."です)
●読書:勉強する
●勉強:(強制的に)~させる、嫌々~する
とまあ、書けばいろいろあります。
また、饅頭は日・中・韓で意味が違う珍しい例です。
日本:そのまま饅頭。
中国:中の具がない中国風蒸しパン。
韓国:餃子
こうやって見てみると、けっこう面白いでしょ?
言うまでもなく中国から輸入されたものです。
漢字はいつから使われ始めたというはっきりとした記録はないのですが、
神話の世界だと、紀元前2700年頃に
蒼頡(そうけつ)
という人物が鳥や獣の足跡にヒントを得て作り出したものであるとされます。
歴史的・考古学的に確認されている漢字の使用は、現在存在が確認されている最古の王朝、殷の時代に占いに使われた甲骨文字です。
最古の甲骨文字は紀元前1500年頃のものですが、
それ以前にも漢字は発展しつつ文字として形作られたとされています。
それが次の王朝、周になって更に発展し、
春秋戦国時代になって各国ごとに独特の漢字が生まれましたが、
紀元前221年に中国を統一した秦が漢字の字体を統一させ、
その統一された字体がベースとなって隷書が生まれ、
隷書から草書や楷書などが生まれました。
日本に漢字が伝わったのは、5世紀~6世紀あたりと言われ、
それまでは日本には文字がなかったというのがいちおう定説になっているので、
漢字の輸入は、イコール日本に文字がもたらされたと言っていいでしょう。
そして、ご存知の通り、この漢字から日本特有の文字である、
ひらがな(草書体の一部がベース)
カタカナ(漢字の一部を抜粋)
が生まれました。
もちろん、漢字の一文字ずつだけでなく、単語も中国から輸入されたのは言うまでもありません。
そして時は明治時代になり、欧米の文化や概念が急激に入るにつれ、
それらの言葉を日本語に訳す必要が出てきました。
数ある知識人がその「翻訳」に苦心惨憺した挙句、
明治時代に漢字を使った数々の熟語が生まれ、
更にそれが中国から日本に留学した中国人を通して、
中国に「逆輸入」されることになりました。
北朝鮮の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国なのは誰でも知ってることやと思いますが、
このうち、「朝鮮」と「国」意外はすべて明治時代に作られた造語です。
こういう、
中国→日本→中国(または朝鮮)
という漢字の流れにより、単語もけっこう共有しているものがあります。
「社会」
という単語がありますが、
これは日本・中国・韓国に共通する言葉で、読み方は少し違うものの、
意味も同じで日常生活で使われています。
こうして単語の意味もだいたいは同じな日中の漢字ですが、
中には意味が全然違うものもあります。
例えば、中国語を勉強する人が一度は聞く笑い話ですが、
ある日本人が中国でお世話になり、その人に手紙を書きました。
日本人は、手紙の最後にこう書きました。
「時間があれば手紙を下さい」
そして、中国から返事がきたのですが、それは手紙ではなく小包。
何だろう?と思って開けてみると、そこには段ボール箱いっぱいのトイレットペーパーが・・・。
「手紙」と言う単語、中国では「トイレットペーパー」という意味なのです。
最近は「衛生紙」と言うことが多くなって使われなくなったのですが、
通じることは通じて、中国で「手紙」と書くとまずトイレットペーパーかティッシュペーパーがやってきます。
ちなみに、中国語で「手紙」は「信」と書き、発音もそのまま「シン(xin4)」です。
また、夫婦連れの中国人が、奥さんを紹介する時に、
「我愛人」
と書いたら、日本人はまずビックリするでしょう。
これも、日本語と中国語の単語の意味が違うものです。
「愛人」は中国語では「奥さん」という意味で(主に北方で使用)、
日本語の「愛人」という何か後ろめたい意味は全くありません。
また、日本の習慣で、贈り物に「粗品」と書くことが多いですが、
中国では絶対にしてはいけないことの一つです。
日本では謙遜の意味で書くことが多いですが、
中国ではそんなものは通用せず、そのままの、
「粗(末な)品(物)」
と解釈されます。
中国人は自分の、そして他人のメンツを重んじるので、
その場面ではあまり不快な顔をしないでしょうが、
「粗品」を渡して次に会ってくれるかどうかは微妙です。
中国へ旅行してレストランに入ると、たまに、
「京都○○」
と書かれた料理を見ることがあります。
日本人は、「へ~、日本の京風の料理があるんや」と、
日本文化が中国に浸透していっていると感じるかもしれませんが、
これは大きな勘違い。
中国語では「京都」は「首都」という意味で、
レストランに書かれている「京都」は、
首都、つまり北京風の辛味の強い(または塩辛い)風味のもの、という意味です。
京風の薄味をイメージしてオーダーすると、
スーパーこってり北京風味という、逆のものが出てきますよ(笑
こういう違いはしばしば発生し、たいていは笑い話で済みますが、
たまに笑い話で済まない場合もあったりします。
その他、パッと思いつく程度に日本語と中国語で意味が違う単語を羅列してみました。
●老婆:奥さん(呼びかけにも使う)
●邪魔:妖怪変化
●利害:すごい、すさまじい等(Li4 hai4と読むと日本語と同じ意味になる)
●娘:母親
●鬼:幽霊
●猪:豚
●電車:トロリーバス、チンチン電車(昔は戦車も「電車」だったらしいです)
●単車:自転車(広東語なので広東でのみ使用)
●爆発:(戦争など、大きな出来事が)起きる
●東洋:日本
(今は差別的ニュアンスが含まれているため、死語です。この単語の由来は面白いので、別記事にします)
●百姓:一般大衆(普通は「老百姓」という形で使われ、よく使います)●階段:段階
●汽車:(乗用)車
●大丈夫:男の中の男、漢(おとこ)
●需要:~しなければならない、~する必要がある
(「需要」という意味もあります)
●明白:わかる、理解する
(「明白(めいはく)」という意味もありますが、あまり使わない)
●大家:みなさん、みんな
●先生:~さん(男性)、(英語の"Mr."です)
●読書:勉強する
●勉強:(強制的に)~させる、嫌々~する
とまあ、書けばいろいろあります。
また、饅頭は日・中・韓で意味が違う珍しい例です。
日本:そのまま饅頭。
中国:中の具がない中国風蒸しパン。
韓国:餃子
こうやって見てみると、けっこう面白いでしょ?
[ 18:57 ]
[ 故国でのつぶやき ]
昨日の夜は、ずっとNHK特集を見ていました。
今年は終戦60年ということでNHKもいろいろな戦争特集を組んでいますが、
昨日は9時から、
被爆者 命の記録 ~放射線と闘う人々の60年~
そして10時からはNHK教育で、
最後の慰霊の旅 ~ガダルカナル島 遺骨収集の60年~
と事実上の2本立てになっていました。
「被爆者 命の記録 ~放射線と闘う人々の60年~」
は、広島の原爆でなんとか生き延びたものの、
原爆投下の際に降り注いだ放射能の影響で人が亡くなっていき、
今でもたくさんの人が苦しんでいるということですが、
せっかくあの地獄の中を生き延びたのに、放射能が自分の見えないところで体をむしばんでいき、
それが直接の死因となっていくのは忍びないですね。
一人、投下地点(原爆ドーム)から800mくらいしか離れていない所から無傷で生還した中学生(旧制)がいたのですが、
約2週間後、突然口から血と泡を吐いて倒れ、1ヵ月後に亡くなってしまいました。
家族の方はずっとこのことを口外せず、口を閉ざしていたのですが、
戦争60年の節目で話す心境になったということです。
無傷やったのに何故こうなってしまったのか?
これこそ放射能の影響やろうと言われています。
最近、原発事故で被爆してしまった人のデータを取ると、
被爆してから3週間後くらいから白血球の数が突然減り始め、
免疫力がかなり低下するそうです。
当時の広島は廃墟なので衛生状態もあまり良くなかったと思われ、
この免疫低下で急性(放射能)障害を起こしてしまったと思われます。
放射能は、何もその時だけに影響を及ぼすのではありません。
60年たった今でも、被爆者の体をむしばんでいます。
被爆して40年以上も何ともなかった体が、年齢にして50歳くらいに達すると体中にガンができ、
それが原因で亡くなる方も多いとのこと。
原因は、ずっとこのことを研究してきた偉い先生によると、
放射能を浴びることによって染色体に異常が起き、それがガン細胞を発生させる要因ではないかと言います。
事実、数々のガンができた人の染色体を調べると、
二つ対になってるはずの染色体の片方がどこかへ行ってしまったり、
一つが異常に長かったり、短かったりしてるそうです。
それがどういうメカイズムでガンを引き起こすのか、ということはわかっていませんが、
60年たってもまだ「原爆」と戦い続ける、
当事者にとっては悪夢そのものでしょうね。
これは、10時からETV特集を見ることになったので、途中で見るのをやめたのですが、
NHK特集のいいところは再放送をするところなんで、来週の再放送でもう一回見てみます。
「最後の慰霊の旅 ~ガダルカナル島 遺骨収集の60年~」
は、父をガダルカナル島で亡くし、その遺骨をどうにか捜したい、
父の最期はどうなのか知りたい、という息子さんのドキュメンタリーですが、
ガダルカナル島とは、日本のはるか南方、ソロモン諸島にある島の一つで、
この舌を噛みそうな名前は、アラビア語で「運命の川」(Guad al canal)からきています。
この島をめぐって日本軍とアメリカ軍が激しい戦いを行いました。
なんでこんな南の島が激戦になったかというと、
日本海軍は反攻拠点になりえるオーストラリアを遮断、あわよくば占領したいと考えており、
そのためにはニューギニアやサモアなどの地域を攻略しなければならず、
そのための前進基地、特に飛行場の建設にいい場所と見なされたのがここガダルカナルでした。
ここで日本軍は近代化されたアメリカ軍の前になすすべもなく、
制海権も奪われて補給もままならず、死者2万人以上を出したと言われています。
その中でも戦病死者が15000人くらいと言われており、
これがイコール餓死者という人もいます。
このため、後にこの島は「餓死の島」とガダルカナルをかけて、
「餓島(がとう)」
と呼ばれるようになりました。
昔母方のおばあちゃんが存命やった頃、近くの家にガダルカナルを経験した人がいました。
小学生の時にはガダルカナル島の惨状を知っていたので、
どんな状況か聞いてみようと思ったのですが、
本人は全く口にしようとしませんでした。
当時、近くには日中戦争、真珠湾攻撃からシベリア抑留まで、様々な経験をした人が住んでいて、ほとんどの人が喜んで話してくれたり、
原稿用紙に経験談を書いてくれたりしたのですが、
その人だけは一言も語ろうとしませんでした。
当時はまだ何もわからなかったので、全く言おうとしないその人に腹をたて、
おばあちゃんに報告したんですが、おばあちゃんは静かに一言、
「人は、話せないことや話したくないこともあるんですよ」
今考えると、話したくないくらい悲惨な状況やったんでしょうね。
その息子さんは過去20回ガダルカナルに遺骨収集の旅を続けていて、
70歳を越えた今年、今回が体力の限界を理由に最後にするそうで、
この最後の慰霊の旅で父の遺骨を探し当てたいとのこと。
結局見つかることはなかったのですが、
それでも父親が所属していた連隊の遺物が見つかるなど、
十数体の遺骨を持って帰ってきたそうです。
遺骨は60年の歳月を経てバラバラになっているので、それでもDNA検査をすれば誰のものかという手がかりが得られるはずなのですが、
日本の法律の都合か、日本では遺骨が完全な形にそろわない限りDNA鑑定はできず、
せっかく持ってきた遺骨も在ソロモン日本大使館止まりとなり、
そこで厚生労働省の役人の管理のもと、改めて火葬されて、「無名戦士の遺骨」として日本の土を踏むそうです。
アメリカ側は積極的にDNA鑑定をし、日本側にも情報を提供しているので、
日本も何とか遺骨の身元を確かめる手段が欲しいですね。
ガダルカナル島だけでなく、戦場となった場所にはその場で死んでいった日本兵の亡骸がかなり眠っているそうです。
この番組で、この戦死した将校の妻、つまり遺骨を探しに行った息子さんの母親が言っていたことが印象に残っています。
「戦争が終わって数十年たって、『もう戦争は終わった』って言う人もいるけど、
そんな言葉を聞くと腹が立つ。
私たちにとっては、夫の骨が戻ってくるまで戦争は終わらないし、
戻ってきても終わらないかもしれない」
戦死通告だけがやって来て、遺骨はおろか遺品さえ戻ってこず、
まだ戻らぬ夫の写真を握り締めながらこの言葉をつぶやきました。
戦争って、一体なんなんでしょうね?
この後、この続きで太平洋戦争中に詠まれた俳句の特集があったのですが、
途中で気づいたら寝てしまい、ほとんど見ていません。
ETV特集は再放送をしないことが多いので、寝てしまって残念です。
今年は終戦60年ということでNHKもいろいろな戦争特集を組んでいますが、
昨日は9時から、
被爆者 命の記録 ~放射線と闘う人々の60年~
そして10時からはNHK教育で、
最後の慰霊の旅 ~ガダルカナル島 遺骨収集の60年~
と事実上の2本立てになっていました。
「被爆者 命の記録 ~放射線と闘う人々の60年~」
は、広島の原爆でなんとか生き延びたものの、
原爆投下の際に降り注いだ放射能の影響で人が亡くなっていき、
今でもたくさんの人が苦しんでいるということですが、
せっかくあの地獄の中を生き延びたのに、放射能が自分の見えないところで体をむしばんでいき、
それが直接の死因となっていくのは忍びないですね。
一人、投下地点(原爆ドーム)から800mくらいしか離れていない所から無傷で生還した中学生(旧制)がいたのですが、
約2週間後、突然口から血と泡を吐いて倒れ、1ヵ月後に亡くなってしまいました。
家族の方はずっとこのことを口外せず、口を閉ざしていたのですが、
戦争60年の節目で話す心境になったということです。
無傷やったのに何故こうなってしまったのか?
これこそ放射能の影響やろうと言われています。
最近、原発事故で被爆してしまった人のデータを取ると、
被爆してから3週間後くらいから白血球の数が突然減り始め、
免疫力がかなり低下するそうです。
当時の広島は廃墟なので衛生状態もあまり良くなかったと思われ、
この免疫低下で急性(放射能)障害を起こしてしまったと思われます。
放射能は、何もその時だけに影響を及ぼすのではありません。
60年たった今でも、被爆者の体をむしばんでいます。
被爆して40年以上も何ともなかった体が、年齢にして50歳くらいに達すると体中にガンができ、
それが原因で亡くなる方も多いとのこと。
原因は、ずっとこのことを研究してきた偉い先生によると、
放射能を浴びることによって染色体に異常が起き、それがガン細胞を発生させる要因ではないかと言います。
事実、数々のガンができた人の染色体を調べると、
二つ対になってるはずの染色体の片方がどこかへ行ってしまったり、
一つが異常に長かったり、短かったりしてるそうです。
それがどういうメカイズムでガンを引き起こすのか、ということはわかっていませんが、
60年たってもまだ「原爆」と戦い続ける、
当事者にとっては悪夢そのものでしょうね。
これは、10時からETV特集を見ることになったので、途中で見るのをやめたのですが、
NHK特集のいいところは再放送をするところなんで、来週の再放送でもう一回見てみます。
「最後の慰霊の旅 ~ガダルカナル島 遺骨収集の60年~」
は、父をガダルカナル島で亡くし、その遺骨をどうにか捜したい、
父の最期はどうなのか知りたい、という息子さんのドキュメンタリーですが、
ガダルカナル島とは、日本のはるか南方、ソロモン諸島にある島の一つで、
この舌を噛みそうな名前は、アラビア語で「運命の川」(Guad al canal)からきています。
この島をめぐって日本軍とアメリカ軍が激しい戦いを行いました。
なんでこんな南の島が激戦になったかというと、
日本海軍は反攻拠点になりえるオーストラリアを遮断、あわよくば占領したいと考えており、
そのためにはニューギニアやサモアなどの地域を攻略しなければならず、
そのための前進基地、特に飛行場の建設にいい場所と見なされたのがここガダルカナルでした。
ここで日本軍は近代化されたアメリカ軍の前になすすべもなく、
制海権も奪われて補給もままならず、死者2万人以上を出したと言われています。
その中でも戦病死者が15000人くらいと言われており、
これがイコール餓死者という人もいます。
このため、後にこの島は「餓死の島」とガダルカナルをかけて、
「餓島(がとう)」
と呼ばれるようになりました。
昔母方のおばあちゃんが存命やった頃、近くの家にガダルカナルを経験した人がいました。
小学生の時にはガダルカナル島の惨状を知っていたので、
どんな状況か聞いてみようと思ったのですが、
本人は全く口にしようとしませんでした。
当時、近くには日中戦争、真珠湾攻撃からシベリア抑留まで、様々な経験をした人が住んでいて、ほとんどの人が喜んで話してくれたり、
原稿用紙に経験談を書いてくれたりしたのですが、
その人だけは一言も語ろうとしませんでした。
当時はまだ何もわからなかったので、全く言おうとしないその人に腹をたて、
おばあちゃんに報告したんですが、おばあちゃんは静かに一言、
「人は、話せないことや話したくないこともあるんですよ」
今考えると、話したくないくらい悲惨な状況やったんでしょうね。
その息子さんは過去20回ガダルカナルに遺骨収集の旅を続けていて、
70歳を越えた今年、今回が体力の限界を理由に最後にするそうで、
この最後の慰霊の旅で父の遺骨を探し当てたいとのこと。
結局見つかることはなかったのですが、
それでも父親が所属していた連隊の遺物が見つかるなど、
十数体の遺骨を持って帰ってきたそうです。
遺骨は60年の歳月を経てバラバラになっているので、それでもDNA検査をすれば誰のものかという手がかりが得られるはずなのですが、
日本の法律の都合か、日本では遺骨が完全な形にそろわない限りDNA鑑定はできず、
せっかく持ってきた遺骨も在ソロモン日本大使館止まりとなり、
そこで厚生労働省の役人の管理のもと、改めて火葬されて、「無名戦士の遺骨」として日本の土を踏むそうです。
アメリカ側は積極的にDNA鑑定をし、日本側にも情報を提供しているので、
日本も何とか遺骨の身元を確かめる手段が欲しいですね。
ガダルカナル島だけでなく、戦場となった場所にはその場で死んでいった日本兵の亡骸がかなり眠っているそうです。
この番組で、この戦死した将校の妻、つまり遺骨を探しに行った息子さんの母親が言っていたことが印象に残っています。
「戦争が終わって数十年たって、『もう戦争は終わった』って言う人もいるけど、
そんな言葉を聞くと腹が立つ。
私たちにとっては、夫の骨が戻ってくるまで戦争は終わらないし、
戻ってきても終わらないかもしれない」
戦死通告だけがやって来て、遺骨はおろか遺品さえ戻ってこず、
まだ戻らぬ夫の写真を握り締めながらこの言葉をつぶやきました。
戦争って、一体なんなんでしょうね?
この後、この続きで太平洋戦争中に詠まれた俳句の特集があったのですが、
途中で気づいたら寝てしまい、ほとんど見ていません。
ETV特集は再放送をしないことが多いので、寝てしまって残念です。
2005/08/06のBlog
[ 20:34 ]
[ 故国でのつぶやき ]
今日はえらい不安定な天気で、今も外で雷鳴が響き渡っています。
雷鳴が半端やないのでパソコンの電源をしばし切りながら、
動乱
という映画を見ていました。
また古い映画見てるなーと言われそうですが、
この映画は高倉健と吉永小百合の両優が共演した映画でもあり、
昭和初期の日本をモデルにして、
腐敗していく日本の政治・軍部、貧困を極める一般大衆に憂い、
腐敗した彼らに天誅を加えるべく立ち上がった青年将校の物語ですが、
なんかどっかで聞いたことがあるなーと思ったら、
モデルは二・二六事件の青年将校なんですな。
それに男と女の愛を絡めた物語になっていて、登場人物もすべてフィクションなんで、
別に二・二六事件を予習しなくてもなんとなくわかる内容になっています。
同じく二・二六事件を扱った映画は226というのがありますが、
こちらは史実を元にし、二・二六事件の遺族も監修してキャストも実在の人物を描いており、
二・二六事件の再現映画って言ってもいいでしょう。
後者は二・二六事件について、また昭和初期の日本の状態を知らないと、
何故彼らが立ち上がざるを得なくなったのかがわかりません。
また、キャストが当時の若手俳優とベテラン俳優のオールスターのような感じで、
有名な俳優がワンカットだけやったり(セリフがあるだけマシ)、
今でこそ有名ですが、当時はあまり知られてなかった俳優を抜擢したり、
(うじきつよしはこの映画が俳優デビューで、本人もそう言ってました)
そういう面では226事件抜きで見ても面白いかと思います。
二・二六事件についてはとにかく謎が多い事件でもあるので、
明確な解説を避けさせてもらいますが、
二・二六事件についてはいろいろな本が出ているので、それを読んで下さい。
その前の出来事については、作家の松本清張の著による、
昭和史発掘 6
昭和史発掘 5
がかなり詳しいですが、かなりマニアックでもあります。
初心者編だと、
図説・2・26事件
が当時の写真をふんだんに使って解説し、値段の割にはかなり詳しいので、こちらをおすすめします。
で、映画のことですが、やっぱり吉永小百合は美人やと改めて思いました。
あるNHKの番組を見た時のことですが、
昔の番組のアーカイブをしていて、えらい美人な女優が司会をしていました。
「こんな美人、見たことないぞ。一体誰や!?」
と半分寝ぼけ眼で見ていたのですが、テロップが流れてビックリ。
その美人、かなり昔の吉永小百合やったんです。
この動乱も1980年と、たったの25年前の映画なんですが、
高倉健も吉永小百合も妙に若くて初々しい。
こんな女性に惚れられたら、男はすべてを投げ出しそうですね(笑
で、実はこの「動乱」を見るのはテレビを含めて2回目なんですが、
かなり昔にテレビで一回見て、すごく気になることがありました。
今回はこの疑問を解決するためにビデオを借りた、ということもあるのですが、
その疑問とは・・・。
この映画のハイライトの、主人公も含めた青年将校が蹶起(けっき)し、
彼らが腐敗の元凶と見なした内閣総理大臣などを襲撃する場面があるのですが、
その時の音楽をどこかで聞いたことがあるのです。
どこで聞いたかというと、Zガンダムの中でです。
これが十数年間頭の中にこびりついていたのですが、
高倉健の「動乱」とZガンダム、どう見ても結びつかないように見えます。
しかし、あるキーワードで結びつくことができました。
それは「動乱」音楽(作曲)担当の三枝成章氏です。
この人は知ってる人は知っている作曲家なのですが、
この人はガンダムの音楽も担当していて、Zガンダムのサントラも彼の作品です。
で、その「動乱」のハイライトの音楽、Zガンダムの戦闘シーンの一部の音楽と同じなんです。
もちろん全く同じではないですが、Zガンダムを見たことがある人が「動乱」を見ると、
「あれ?この音楽聞いたことあるぞ」
と何気に思うはずです。
俺もビデオを巻き戻して3~4回聞いた上で、
Zガンダムの該当する音楽を聞いてみましたが、間違いありません。
音楽を確認した後、最後のスタッフの音楽担当を見てみると、
やっぱり三枝成章氏の名前が出てきました。
音楽なんでBlogで比較することはできませんが、
興味があるなら一度「動乱」のビデオと「Zガンダム」のサントラを聞き比べて下さい。
どことどこが該当するかは、興味があるならメールでお知らせします。
こうやって十数年来の疑問が解け、長年の便秘がようやく治った気分です。
しかし、まだ外がピカピカゴロゴロとうるさいです。
今日、というか今夜はえらい不安定な天気やな・・・。
と思ったら、うちの地域に大雨洪水警報出てるみたいですわ。
雷鳴が半端やないのでパソコンの電源をしばし切りながら、
動乱
という映画を見ていました。
また古い映画見てるなーと言われそうですが、
この映画は高倉健と吉永小百合の両優が共演した映画でもあり、
昭和初期の日本をモデルにして、
腐敗していく日本の政治・軍部、貧困を極める一般大衆に憂い、
腐敗した彼らに天誅を加えるべく立ち上がった青年将校の物語ですが、
なんかどっかで聞いたことがあるなーと思ったら、
モデルは二・二六事件の青年将校なんですな。
それに男と女の愛を絡めた物語になっていて、登場人物もすべてフィクションなんで、
別に二・二六事件を予習しなくてもなんとなくわかる内容になっています。
同じく二・二六事件を扱った映画は226というのがありますが、
こちらは史実を元にし、二・二六事件の遺族も監修してキャストも実在の人物を描いており、
二・二六事件の再現映画って言ってもいいでしょう。
後者は二・二六事件について、また昭和初期の日本の状態を知らないと、
何故彼らが立ち上がざるを得なくなったのかがわかりません。
また、キャストが当時の若手俳優とベテラン俳優のオールスターのような感じで、
有名な俳優がワンカットだけやったり(セリフがあるだけマシ)、
今でこそ有名ですが、当時はあまり知られてなかった俳優を抜擢したり、
(うじきつよしはこの映画が俳優デビューで、本人もそう言ってました)
そういう面では226事件抜きで見ても面白いかと思います。
二・二六事件についてはとにかく謎が多い事件でもあるので、
明確な解説を避けさせてもらいますが、
二・二六事件についてはいろいろな本が出ているので、それを読んで下さい。
その前の出来事については、作家の松本清張の著による、
昭和史発掘 6
昭和史発掘 5
がかなり詳しいですが、かなりマニアックでもあります。
初心者編だと、
図説・2・26事件
が当時の写真をふんだんに使って解説し、値段の割にはかなり詳しいので、こちらをおすすめします。
で、映画のことですが、やっぱり吉永小百合は美人やと改めて思いました。
あるNHKの番組を見た時のことですが、
昔の番組のアーカイブをしていて、えらい美人な女優が司会をしていました。
「こんな美人、見たことないぞ。一体誰や!?」
と半分寝ぼけ眼で見ていたのですが、テロップが流れてビックリ。
その美人、かなり昔の吉永小百合やったんです。
この動乱も1980年と、たったの25年前の映画なんですが、
高倉健も吉永小百合も妙に若くて初々しい。
こんな女性に惚れられたら、男はすべてを投げ出しそうですね(笑
で、実はこの「動乱」を見るのはテレビを含めて2回目なんですが、
かなり昔にテレビで一回見て、すごく気になることがありました。
今回はこの疑問を解決するためにビデオを借りた、ということもあるのですが、
その疑問とは・・・。
この映画のハイライトの、主人公も含めた青年将校が蹶起(けっき)し、
彼らが腐敗の元凶と見なした内閣総理大臣などを襲撃する場面があるのですが、
その時の音楽をどこかで聞いたことがあるのです。
どこで聞いたかというと、Zガンダムの中でです。
これが十数年間頭の中にこびりついていたのですが、
高倉健の「動乱」とZガンダム、どう見ても結びつかないように見えます。
しかし、あるキーワードで結びつくことができました。
それは「動乱」音楽(作曲)担当の三枝成章氏です。
この人は知ってる人は知っている作曲家なのですが、
この人はガンダムの音楽も担当していて、Zガンダムのサントラも彼の作品です。
で、その「動乱」のハイライトの音楽、Zガンダムの戦闘シーンの一部の音楽と同じなんです。
もちろん全く同じではないですが、Zガンダムを見たことがある人が「動乱」を見ると、
「あれ?この音楽聞いたことあるぞ」
と何気に思うはずです。
俺もビデオを巻き戻して3~4回聞いた上で、
Zガンダムの該当する音楽を聞いてみましたが、間違いありません。
音楽を確認した後、最後のスタッフの音楽担当を見てみると、
やっぱり三枝成章氏の名前が出てきました。
音楽なんでBlogで比較することはできませんが、
興味があるなら一度「動乱」のビデオと「Zガンダム」のサントラを聞き比べて下さい。
どことどこが該当するかは、興味があるならメールでお知らせします。
こうやって十数年来の疑問が解け、長年の便秘がようやく治った気分です。
しかし、まだ外がピカピカゴロゴロとうるさいです。
今日、というか今夜はえらい不安定な天気やな・・・。
と思ったら、うちの地域に大雨洪水警報出てるみたいですわ。
[ 08:57 ]
[ 故国でのつぶやき ]
今日は休みですが、かなり珍しく朝早くから起きていました。
何故、いつも休みの日は昼まで爆睡してる人間がこんな時間に起きてるかというと、
今日は広島の原爆投下の日、それも今年は投下から60年という節目の時期です。
広島の平和式典は時間の許す限り毎年見ていますが、
ちょうど60年で更に土曜日ということもあり、前日に目覚ましもセットして準備万端、
心して見ることにしました。
8月6日午前8時、テレビで平和記念式典の放送が流れていました。
毎年恒例の風景と言えばそうですが、
今年は60年ということもあり、当事者の方は特別な思いを抱いていたことでしょう。
60年前、仮に当時の年齢が20歳なら年齢は80歳、
5歳でも65歳、当時の地獄を知っている人もどんどん高齢化していっています。
「60周年はあるけど70周年はない」
テレビの中で取り上げられていたある人の言葉ですが、
高齢化が進んで被爆を経験した人が皆無になるのではないか、
と言う危機感からきている言葉なのでしょう。
また、平和記念式典の前に、他のチャンネルで広島市民の原爆に対する意識調査をしてたのですが、
原爆が落とされた日を知ってる人の割合が89%、
ということは、11%も知らなかった人がいるんですね。
俺の誕生日は終戦記念日なんですが、いつも
「誕生日は?」
って聞かれると、
「終戦記念日です」
と答えています。
しかし、最近とんでもなく日付を言ってくる人が多いんです。
これは以前Blogにも書いたので詳細は省略しますが、
広島よお前もか、というような感じを覚えました。
でも、さすがに同じ番組でアンケートされてた
「原爆を落としたB-29の名前は?」
は少し酷かもしれませんね。
(正解はエノラ・ゲイ)
小学校の時より、「はだしのゲン」などの漫画を読んで原爆が落ちた時の状況は間接的には知っていましたが、
知れば知るほどその凄惨さに顔が歪むようになっていました。
中学校の時に修学旅行で広島を訪れ、広島平和記念資料館を見学したのですが、
帰りの新幹線の都合で持ち時間は30分弱、
「30分で周れるわけあらへんやんけ」
と中学生ながら思ったりしたのですが、結局ロクに見れないまま見学時間が終わり、
それ以来そこには行っていません。
いつかゆっくり見に行きたいなーと思ってはや人生の半分くらいの月日がたってしまいましたが、
今年は60年という節目、予定を変更して今から・・・はさすがに無理ですが、
今年中には行ってみたい、否、行くぞ!と決意を新たにしました。
原爆資料館の資料は、上の平和記念資料館のHPである程度は見れるのですが、
言うまでもなく、実際に見るのとはかなりの差があります。
バーチャルやとなんとも実感がないんですよね。
俺は広島とは直接の関わりはないのですが、
一日本人としてこの出来事は絶対に風化させてはいけない、
直接被爆した人のDNAを受け継ぎ、第二世代として語り継ぐべきでしょう。
あれから60年たっていますが、見方を変えると「まだ60年」ということも言えます。
60年前の今頃、何が起こったのか全くわからないまま、
一瞬で廃墟と化した広島の町を彷徨い、そして亡くなっていった人々のためにも、
これを他人事と思わず、我々若い人間がバトンを受け取りましょう。
これは、日本人としての義務やと自分は思います。何も広島市民だけが背負うものではないでしょう。
「ノーモア・ヒロシマ」
とはアメリカのジャーナリストが言った言葉ですが、
原爆投下から60年、改めてこの言葉を噛み締めましょう。
何故、いつも休みの日は昼まで爆睡してる人間がこんな時間に起きてるかというと、
今日は広島の原爆投下の日、それも今年は投下から60年という節目の時期です。
広島の平和式典は時間の許す限り毎年見ていますが、
ちょうど60年で更に土曜日ということもあり、前日に目覚ましもセットして準備万端、
心して見ることにしました。
8月6日午前8時、テレビで平和記念式典の放送が流れていました。
毎年恒例の風景と言えばそうですが、
今年は60年ということもあり、当事者の方は特別な思いを抱いていたことでしょう。
60年前、仮に当時の年齢が20歳なら年齢は80歳、
5歳でも65歳、当時の地獄を知っている人もどんどん高齢化していっています。
「60周年はあるけど70周年はない」
テレビの中で取り上げられていたある人の言葉ですが、
高齢化が進んで被爆を経験した人が皆無になるのではないか、
と言う危機感からきている言葉なのでしょう。
また、平和記念式典の前に、他のチャンネルで広島市民の原爆に対する意識調査をしてたのですが、
原爆が落とされた日を知ってる人の割合が89%、
ということは、11%も知らなかった人がいるんですね。
俺の誕生日は終戦記念日なんですが、いつも
「誕生日は?」
って聞かれると、
「終戦記念日です」
と答えています。
しかし、最近とんでもなく日付を言ってくる人が多いんです。
これは以前Blogにも書いたので詳細は省略しますが、
広島よお前もか、というような感じを覚えました。
でも、さすがに同じ番組でアンケートされてた
「原爆を落としたB-29の名前は?」
は少し酷かもしれませんね。
(正解はエノラ・ゲイ)
小学校の時より、「はだしのゲン」などの漫画を読んで原爆が落ちた時の状況は間接的には知っていましたが、
知れば知るほどその凄惨さに顔が歪むようになっていました。
中学校の時に修学旅行で広島を訪れ、広島平和記念資料館を見学したのですが、
帰りの新幹線の都合で持ち時間は30分弱、
「30分で周れるわけあらへんやんけ」
と中学生ながら思ったりしたのですが、結局ロクに見れないまま見学時間が終わり、
それ以来そこには行っていません。
いつかゆっくり見に行きたいなーと思ってはや人生の半分くらいの月日がたってしまいましたが、
今年は60年という節目、予定を変更して今から・・・はさすがに無理ですが、
今年中には行ってみたい、否、行くぞ!と決意を新たにしました。
原爆資料館の資料は、上の平和記念資料館のHPである程度は見れるのですが、
言うまでもなく、実際に見るのとはかなりの差があります。
バーチャルやとなんとも実感がないんですよね。
俺は広島とは直接の関わりはないのですが、
一日本人としてこの出来事は絶対に風化させてはいけない、
直接被爆した人のDNAを受け継ぎ、第二世代として語り継ぐべきでしょう。
あれから60年たっていますが、見方を変えると「まだ60年」ということも言えます。
60年前の今頃、何が起こったのか全くわからないまま、
一瞬で廃墟と化した広島の町を彷徨い、そして亡くなっていった人々のためにも、
これを他人事と思わず、我々若い人間がバトンを受け取りましょう。
これは、日本人としての義務やと自分は思います。何も広島市民だけが背負うものではないでしょう。
「ノーモア・ヒロシマ」
とはアメリカのジャーナリストが言った言葉ですが、
原爆投下から60年、改めてこの言葉を噛み締めましょう。
2005/08/05のBlog
[ 23:46 ]
[ 故国でのつぶやき ]
今日の大阪の堺、最高気温が
38・2℃
やったそうです。
ニュースによると同じく大阪の豊中(大阪府北部)で38.4℃、
関東北部でも軒並み37℃を越えたようです。
今日の午後は軽く堺市内に数ヶ所用事があり、
ついでにブラリとドライブしてたんですが、
とにかく暑いなんてもんやありませんでした。
車の外気温計はずっと37℃をキープ、
それでも意地で窓全開のノーエアコンで通したのですが、
(ノーエアコンの理由はタバコを吸うこともありますが)
帰って服を着替えようとすると、服が汗でビショビショでした。
何と言うか、うなるような暑さと言っていいのでしょうか、
何か普通の37℃と明らかに違ってたような気がしました。
空気が熱い、なんだこのプレッシャーは(Zガンダム調にしてみました)。
燃費もいいけどやっぱエアコンつけようかな。
この暑さ、数年前にエジプトのルクソールやジブチで45℃、
北京で43℃を体験したことがありますが、
これにも負けず劣らず暑かったです、今日は。
エジプトやジブチは砂漠、おまけにジブチは年間平均気温が世界一高いそうなんで、
暑いと言えばそりゃ当たり前なんですが、
砂漠は意外に日陰に入るとびっくりするくらい涼しいんです。
ルクソールでは暑いっても冷房はつけなかったですし、
日陰に入れば昼寝できるくらい涼しかったのを覚えています。
ちなみに、北京では上のような気温で万里の長城を登ったので、
次の日に熱中症で倒れてしまって3日間寝込むハメになりました。
でも、今日の堺は日陰にいてもジリリとくるような暑さでした。
明日、政令指定都市確定記念に堺市縦断ドライブでもしようかなと思ったんですが、
明日も38℃やったらついにエアコン付きで行こうかなと思います。
38・2℃
やったそうです。
ニュースによると同じく大阪の豊中(大阪府北部)で38.4℃、
関東北部でも軒並み37℃を越えたようです。
今日の午後は軽く堺市内に数ヶ所用事があり、
ついでにブラリとドライブしてたんですが、
とにかく暑いなんてもんやありませんでした。
車の外気温計はずっと37℃をキープ、
それでも意地で窓全開のノーエアコンで通したのですが、
(ノーエアコンの理由はタバコを吸うこともありますが)
帰って服を着替えようとすると、服が汗でビショビショでした。
何と言うか、うなるような暑さと言っていいのでしょうか、
何か普通の37℃と明らかに違ってたような気がしました。
空気が熱い、なんだこのプレッシャーは(Zガンダム調にしてみました)。
燃費もいいけどやっぱエアコンつけようかな。
この暑さ、数年前にエジプトのルクソールやジブチで45℃、
北京で43℃を体験したことがありますが、
これにも負けず劣らず暑かったです、今日は。
エジプトやジブチは砂漠、おまけにジブチは年間平均気温が世界一高いそうなんで、
暑いと言えばそりゃ当たり前なんですが、
砂漠は意外に日陰に入るとびっくりするくらい涼しいんです。
ルクソールでは暑いっても冷房はつけなかったですし、
日陰に入れば昼寝できるくらい涼しかったのを覚えています。
ちなみに、北京では上のような気温で万里の長城を登ったので、
次の日に熱中症で倒れてしまって3日間寝込むハメになりました。
でも、今日の堺は日陰にいてもジリリとくるような暑さでした。
明日、政令指定都市確定記念に堺市縦断ドライブでもしようかなと思ったんですが、
明日も38℃やったらついにエアコン付きで行こうかなと思います。
[ 22:58 ]
[ 下書き(非公開です、対不起) ]