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さぁ~て、今度は故国でいろいろつぶやいてみるか! ダメダメ商社マンのBlog録
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2004/11/21のBlog
[ 18:00 ] [ 異国でつぶやきまっせ~ ]
いやー、やっとネットがつながりました。
ただいま雲南省麗江からでやんす。

旅行自体は楽しいものの、
誰にも束縛されへん自由旅行がモットーの俺にとっては、
団体行動のツアーはやっぱ肌に合いませんわ(笑

散歩したい時に散歩する、メシ食いたいときに食う、
寝たい時に寝る。
これが俺の旅行ポリシーなんや~~~~~~!!!!

っても社員旅行やから仕方ないか。贅沢言ってられまへん。

明日は大理へ向かいます。で、あさって帰還ね。
写真は、麗江だけで100枚は撮ってきたから、
帰ってからお楽しみに~。
予告編代わりに、1枚画像をさらしてみます。
2004/11/19のBlog
突然ですが、明日から23日まで社員旅行で雲南省麗江・大理に行ってきます。

いちおうパソコンを持っていくんで、更新できるなら現地からチャレンジしてみますが、
できなかったら、23日まで更新できない・・・と思います。

現地にはネットカフェもいっぱいあるんで、やろうと思えばできますが、
会社の旅行なんで時間があるかどうかが問題です。

それでは、しばしブログは休憩でございますm(__)m
[ 16:09 ] [ 異国でつぶやきまっせ~ ]
上海のタクシー 1台目 2台目
に関連するんですが、
今日、5つ星のスーパー運ちゃんとは全く逆の、
とんでもない運ちゃんにぶち当たってしまいました。

午前中に客を送って行く時のこと、
タクシー運転歴8日目というホヤホヤの運ちゃんで、初々しいと言えばそうなんですが、
乗り込んで「到淮海中路陜西南路口」と言ったら、なんかもじもじしている。
で、一言。「どう行けばいいんだ?」
俺:「ゑ?????淮海中路って知ってるよね?」
運ちゃん(以下運):「それ、どこだ?」
おいおい貴様、なんで淮海中路を知らへんねんやーーーーー!!!

ここで上海の地理がわからない人への解説。
淮海中路は上海のメインロードの一つで、旧フランス租界のメインロードでもありました。
伊勢丹や百貨店が立ち並び、もう一つのメインロード、南京東路が観光客向けなら、
淮海中路は地元の人のための買い物ロードって言っていいでしょう。

その淮海中路を知らないってことは、
東京で言えば銀座通りとか新宿、大阪で言えば御堂筋や難波を知らないに等しいのです。

「実に困った運ちゃんに当たってしまった」と思いつつ、
仕方ないので俺が道を教えてあげることに。
「はーい、そこの角を右に曲がってー」
「前の信号を左ねー。左に曲がったら次の道を右やでー」
「この道は○△路って言って、有名な道やから覚えておかんとあかんでー」

俺は自動車教習所の教官かよ(ーー;)

で、交差点で止まるごとに運ちゃんはキョロキョロしている。
何してんねん?って思ってると、

運:「ここが有名な○○百貨店なんだな、すごいな~」

お前は観光客か~~~~( ゜д゜) ⊃彡☆))Д´)

俺:「ここはポートマンホテルって言うホテルね。ここくらい知ってるやろ?」
運:「知らねー」
おひおひ、5つ星ホテルくらい覚えておかんかいな~。。・゚・(ノД`)・゚・。

もちろん運転も荒い。信号なんか無視無視。人を轢きそうになること数回。
急にスピードを出したかと思ったら急ブレーキ。
「おいおい、そこの角を曲がれ」って言ったら、中央線を平気でまたいで逆行。
助手席に座ってる俺は冷や汗もの。思わずシートベルトを装着しちゃいました。
いや~~、ヘタにバンジージャンプするよりおもろいわ、これ。

でも、それ以前に彼の中国語が全然わからんのであります。
共通語がメチャクチャヘタなのであります。
聞いてみると、上海の北部、揚子江(長江)の河口に浮かぶ「崇明島」というところ出身で、
最近何故かここ出身の運ちゃんが多いとは聞いてたけど、俺は初めて遭遇しました。
で、
「講普通語好不好?要不我聴不明白(共通語しゃべってくれ。でないと俺わからん)」
って言っても、地元の方言をしゃべってきて全然わからんのです。
「俺、地元で共通語しゃべらなかったからさ、あまりしゃべれないんだ。外国人のお前の方が流暢だよ」
って開き直られてもね・・・・(-_-メ)

冷や汗連続ものながら、なんとか目的地に着いて一安心。
昨日はプロ中のプロ、5つ星運ちゃんかと思ったら、今日はど素人運ちゃん。
運ちゃんにもいろいろいるのであります、チャンチャン。
[ 14:46 ] [ 異国でつぶやきまっせ~ ]
別にメールアドレスを公開してるわけやないのに、
うちのメールボックスには、すごい数の迷惑メールが来ます。
さすがに100通まではいかないけど、1日30通は軽く来ています。
最近は、指定したメール以外はすべて迷惑メールとみなして削除しないと、
いちいち受け取っていられません。

でも、上には上がいました(笑

ビル・ゲイツ氏への迷惑メール、毎日400万通にも
よくサーバーが死なないですな。
[ 14:09 ] [ 中国・上海一言情報局 ]
1台目はこちら

上海タクシーの運ちゃんは、質に関しては恐らく中国一でしょう。
昔だと上海語でまくしたててきたのですが、
最近はまず「普通話」(共通語)で言ってくるので、むかつくこともなくなりました。
最近は、会社経営のタクシー(前に述べた『大衆』など)だと、各会社のクレームセンターも機能してるせいか、トラブルらしいトラブルもほとんどなくなりました。

タクシーの助手席には、タクシーの運ちゃんのカードがあります。
そこには番号が振られていて、ケタが少ないほど運転歴が古いという目安になってます。
新しい番号だと260000番くらいで、古いのだと12389みたいな5桁の人もいます。
5桁だと、確実に運転歴15年以上の大ベテランで、知らないところはまあないでしょう。
逆に、新しい番号の人だと、
「オラ田舎から1週間前に出てきただ。何もしらねーだ」という人が多く、
今日も道を全然知らない運ちゃんにぶち当たり、俺が道案内をするハメになってしまいました。

また、上海のタクシーカードには、運転歴や技術などを考慮してつけられた星があり、
運転歴3年未満だと星なしの白いカード、
3年以上だと青いカードに★または★★です。
★★★以上だと試験が必要で、タクシーのフロントガラスに星印をつけたり、
屋根に「優秀車」と書いてたりしています。
3つ星以上になると、まずは知らない場所はありません。
どんなマイナーな道でも知ってるし、英語もしゃべれる人もいます。
(どうやら3つ星以上の試験に英語があるらしいです)。

★★★はそこそこ見かけたりしますが、★★★★や★★★★★になるとなかなか見かけません。
しかーし昨日、足掛け数年、上海でも10人いるかいないかと言われる、
5つ星の運ちゃんについにぶち当たりました!

客を送り、一人で帰る前にコンビニに寄って牛乳を買って帰ろうとしたら、
コンビニの前にタクシーが。
「ラッキー♪」と思ってふと運ちゃんカードを見ると・・・。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
5つ星めーーーーーーーーーーーーーーーーーっけ♪♪♪♪♪
もう何も言わず助手席に乗り込んで、行き先を言うと、「了解」
俺の住んでるとこは、白カードの運ちゃんはおろか、★でもちょっとわからないところにあるのですが、
この経験豊富そうな運ちゃんは、マンション名を言ったら一発で理解。
さっすが★★★★★♪
で、運転も上手い。スルスルと他の車を追い越して行くから速い速い。
さっすが★★★★★♪
トークも冴えてます。
「お前は日本人か。てっきり中国人かと思ったよ。しかしおめー本当に中国語上手いな、中国にはかなりの年数いるだろ」
お世辞も上手い、さっすが★★★★★♪
「そうだ、○○花園(←俺が住んでるマンション)だったら、○△路にも入口があるだろ。そこから入るか」
お、よく知っておりますな、さっすが★★★★★♪
で、運ちゃんカードの写真を撮ろうとしたら、快くOK。
「俺、ずっと5つ星を探してたんやって。運命の恋人を見つけた気分やわ」
と言ったら、『謝謝』と一言。
さっすが★★★★★♪
最後に降りる時、「忘れ物ないようにな。気をつけてお帰りを」
礼儀も正しい、さっすが★★★★★♪

記念に画像を晒します。ちゃんと運ちゃんの許可は得ているので、写真にモザイクはかけません(笑

1台目の続きで、上海のタクシーを晒します。
右の写真は「農工商」タクシーです。

これは個人タクシーです。
[ 00:26 ] [ 中国・上海一言情報局 ]
上海のタクシーについては、北京vs上海でちょっと語りましたが、
今回はもうちょっと詳しく語ってみようと思います。

上海のタクシーの質は、俺も仕事でいろんな所に出張してますが、
中国の中でも最高クラスでしょう。
11年前に上海に居た時はかなりひどかったんですが、
ここ4~5年で、運ちゃんやタクシー自体大きく変わりました。

上海のタクシーは、上海で現地生産している大衆汽車(フォルクスワーゲン)の
SANTANA(サンタナ。中国語で「桑塔拿」)を主に使っています。
古いタイプのサンタナもまだ走っていますが、最近はサンタナ2000や3000という、
新しいタイプの車にどんどん変わっていっています。

上海のタクシー会社は、大きく分けて5つあり、
「大衆」「強生」「錦江」「巴士」「農工商」というのがあります。
他には、小さなタクシー会社や個人経営のタクシーが連合した「藍色連盟」、
「法蘭紅」というのもあります。
各タクシー会社には区分けされた色があり、それぞれのタクシーはその色に塗られています。
「大衆」:水色
「強生」:金色
「錦江」:白
「巴士」:黄緑
「農工商」:青
「藍色連盟」:濃い青、群青色
「法蘭紅」:赤
その他個人タクシー:茶色


タクシーは、上で述べたようにサンタナタイプがほとんどですが、
たまーーーに「大衆」はベンツやPASSAT(大衆汽車の高級車)、
「強生」はMAZDAの車、「藍色連盟」などの個人タクシーだと、PASSATや
現代汽車(韓国のヒュンダイ)のSONATA、4WDの車もあったりします。

「大衆」はたぶん上海の中で一番台数が多いタクシー会社で、
俺が上海に留学していた11年前からあって質も昔から良かったです。
上海駐在の人間からは、最近大衆タクシーの質が下がったといわれてますが、
急激なタクシーの需要に従業員の教育がついていけないんでしょう。

「強生」は、一説によると「大衆」よりその歴史は古く、
戦前からあったと、この会社のタクシーの運ちゃんが言っておりました。
(運ちゃんいわく、設立は1938年だそうな。ちなみに大衆は1972年)

「錦江」は、上海の一大企業グループというか財閥、「錦江集団」(集団はグループって意味)の
タクシー部門で、最近メキメキ台数を増やしています。

「巴士」は、「巴士」というのがバスという意味からわかるように、
バス会社がやってるタクシーです。バス会社がタクシーもやってる、ってちょっとおかしいですが、
日本風には、私鉄がバスも運行してればタクシーも運行してる、って感じでしょう。

「農工商」は、上の4つよりは存在感は薄いですが、これもスーパーとかを運営してる
起業グループのタクシー部門です。

運ちゃんの質については、次章で取り上げましょう。


これが強生タクシー


錦江タクシー →


巴士タクシー →


藍色連盟タクシー →
2004/11/18のBlog
[ 18:49 ] [ 中国・上海一言情報局 ]
中国全国列車時刻表、これ、列車を検索する時のワタシの隠し兵器アルね。

中国語ですが、別に中国語を入力する必要はなく、条件は「中国語が見れること」だけです。

・駅間での検索(北京~上海間の列車とか)を調べたい時にはここ
・駅の時刻表を調べたい時はここ
・列車番号で調べたい時はここ
・各省の駅の時刻表を調べたい時はここ

使い方は、例えば北京西駅~広州駅の列車を調べたい場合、
1、左側の枠の上、各省・自治区を選ぶ欄があり、そこで「北京市」を選択。
2、すると、下の枠に『北京市』にある駅名の一覧が出るので、
「beijingxi 北京西」を選択。
3、上と同じ要領で、右側の上の枠で「guangdong 广東」を選択。
4、広東省の駅一覧が出てくるので、「guangzhou 广州」を選択。
5、選んだら、枠の下の「確認」というボタン(左側の小さい方)を押す。

すると、新しいウィンドウが出て、
北京西~広州間の列車のすべてが出てきます。
あとは自分で適当にいじくってお楽しみ下さい(笑
2004/11/17のBlog
[ 22:55 ] [ 異国でつぶやきまっせ~ ]
本日は、客と一緒に蘇州のメーカー訪問!
・・・って言いたかったのですが、
1件はドタキャンを食らい、もう一件も30分くらいで終わってしまいました。

よって、すごく時間が余ってしまい、客と「どないしまひょ??」って腕を組んで考えていました。
「せっかく蘇州まで来たんや、せっかくやから観光しましょう」
ってことで、仕事をほっぽり出して観光に変更になりました( ̄ー ̄)

でも、そうなったのはええんやけど、俺はまたやらかしてしまいました。
それは・・・「デジカメ忘れた」
客に「またかよ!」って笑われながら、客のデジカメを借りてしまいました。
客のデジカメのメモリーカードはSDカードと言っていたので、
安心してまるで自分のデジカメのようにビシバシ写真を撮りました。

まず我々が向かったのは、「虎丘」という塔がある場所。
元々は春秋戦国時代(今から2500年くらい前)にここに都を置いていた、
呉王闔閭(こうりょ)の墓として作られました。
その後で塔が建てられたのですが、
この塔、歴史が古いだけではなく、なんと斜めになっておるのです!
「蘇州の斜塔」なんてネーミングがつけられても、年々どんどん傾いてるそうです。
なんでかと言うと、400年前からの地盤沈下からだそうですが、
遠くから見ても明らかに傾いているだけでなく、近くから見たら痛々しいくらい傾いてます。

その後で行ったのが、 
「拙政園」という、世界遺産の庭園でございます。
蘇州四大庭園の一つで、明の時代の正徳・嘉靖年間(16世紀)に、
中央の高官であった王献臣という人物が、失脚後に隠居の場所として建てられた庭園です。
外から見ると狭そうですが、実際に入って歩いてみると結構広く、「水」がテーマとなってるらしく、池や運河が多くてのんびりしています。
上海ではまず聞くことができない鳥のさえずりを聞きながら、緑に囲まれた庭園を散歩する、
なんかマイナスイオンを長時間浴びたような感じで、すごく癒されました。

しかし、不満なのは、蘇州の観光名所は入場料がバカ高い!
虎丘:60元(約800円)
拙政園:70元(約900円)

(※どっちもオンシーズンの値段。オフシーズン(冬)は10元マイナス)
ですが、中国の物価から見たらぼったくりに等しいです。
北京の紫禁城が32元、西安の兵馬俑が60元ということから比較したら、
世界遺産っても、いくらなんでも高すぎますな、こりゃ。
ちなみに、「地球の○き方」には、拙政園の入場料は30元って書いてますが、
倍以上に上がってるので要注意を。

時間の都合で、今回観光したのはこれだけですが、
時間があったらまたゆっくり観光してみたいと思います。
もちろん、デジカメを持ってね(笑
蘇州は、何気ない町並みも写真を撮りたくなるくらい古い町並みが残っていて、
街全体もかなりのんびりとした街です。
「これが上海から1時間のとこかよ」というくらい、のほほんとした街ですね。

さて、写真も撮ったし、客のパソコンを借りて画像取り込み・・・と思ったら、
なんとメモリーカードがSDやない、なんかわけのわからんカードでした_| ̄|○
よって、画像は客が帰国後にメールで送ってくれるそうな。
それまでの我慢でございます。
お詫びに、今年の3月に蘇州に行った時の画像を1枚だけチラリ。
蘇州ってこんなとこでございます。
第一章はこちら
第二章はこちら
第三章はこちら

呉淞路から武進路に入り、「海軍陸戦隊租界部隊本部」の裏を潜り抜けるように海南路へ入ると、
突き当たりに古びた、しかし少し和風っぽい様相の洋館が見える。
ここはかつて「大和ホテル」と呼ばれた和風旅館であったという。
建物の大きさからして、かつて満州で名を馳せた「大和ホテル」とは別物だとは思うが、
今は託児所になっているここには、たくさんの日本人が宿泊していたに違いない。
武進路、海南路、乍浦路あたりの地域は、戦前に多くの日本旅館が立ち並んでいた場所で、
建物が現存しているものだけでも、上述の大和ホテルの他に、
八千代旅館、新田旅館(上海市重要建築指定)、山崎ホテル、豊陽ホテル、井上旅館、常盤館などがあり、一大宿屋街を構成していた。
現在はほとんどが一般市民の住む民家になっているが、宿屋がここに集まっていることから見ると、
「虹口」の日本人がここあたりに集まっていたことが容易に伺える。
気のせいと言われるかもしれないが、ここあたりを歩いていると、どこか日本を感じてしまう。
裏道にはかつて多くの婦人が井戸端会議に花を咲かせ、道には子供たちが走り回っていたのだろう。
タイムカプセルのように、かつての先人たちの名残を留めるこの道も、
すぐ横まで再開発の波が押し寄せており、
次に来る時には残っているのか、それはわからない。
残念なことではあるが、建物の老朽化もあり、仕方のないことであろう。

日本の面影は、元ホテルだった建物だけではない。
乍浦路には、インドの築地本願寺を模したという西本願寺別院が残っている。
道の向かい側に行かないと気づきにくいが、周りの建物と比較しても明らかに浮いているこの建物は、1931年に建てられたインド風建築のもので、1944年にはストゥーパ(仏塔)まであったというが、現存はしていない。
戦後は、最近までディスコとして使われていたのだが、今はそのディスコも閉店し、
時代の流れの中、静かに余生を過ごすかのように新しい住人を待っている。
その隣には、日蓮宗の寺院であった「本圀寺」の跡がある。
1899年に妙覚寺として乍浦路に建てられ、1904年に移転するも、
1922年に再び乍浦路に戻り、現在地に立て直された。
本堂の入口が現存し、現在は民家として使われているそうだが、
入口を見ると、素人でも人目でわかる日本式の寺院のたたずまいである。
11年前にもここを通り、かつては信徒がここに集まった寺の面影を伺ったのだが、
嬉しいことにまだそのままの姿で残っていてくれていた。

虹口の盛り場のシンボルでもあった「ウヰルス劇場」(現勝利大劇院)を横目に、
海寧路を再び越えて南下していく。
乍浦路は、海寧路を越えると現在は「美食街(レストラン街)」として、
レストラン、特に海鮮料理店が立ち並んでいる。
戦前は一大娯楽地帯で、劇場・映画館等が所狭しと並んでいたという。
その建物が、改修ののちに現在のレストランの建物となっているが、
ネオンの華やかさは今も昔も変わらないとは思う。
その乍浦路と塘沽路の交差点、南下すれば右手に、レンガ建築の高層マンションを見ることができる。
戦前は「ピアス・アパート」と呼ばれた高級マンションで、この建物の説明は別項で説明しようと思う。

塘沽路を左に曲がると、左右には租界時代の建物がずらりと、きれいな形で並んでいる。
ここあたりは、1920年代まではロシア娼婦が並ぶ娼館街であったが、上海事変後は日本人にとって変わっていった。
当時、中国・上海に新天地を求めてやってきた日本人は、繁華街で一杯やり、
その後に娼館に駆け込み、日本人娼婦と夜を楽しんだに違いない。
当時の「トルコ風呂」の建物が現在も残り、かつての男と女の駆け引きの場の名残をとどめている。
その中に、和風の屋根を頂いた建物を見ることができる。
上海でも老舗であった、料亭「六三亭」である。
香港~上海航路で皿洗いをしていた、長崎生まれの白石六三郎が1898年に「六三庵」を開業し、1900年に現在地に「六三亭」を開業した。
その名は日本人社会で知らぬ者はいないというくらい広まり、1912年には虹口郊外に純日本式庭園、「六三花園」を開園。
六千坪の敷地を日本人には無料で開放し、ここで様々なイベントが行われていたという。
残念ながら、「六三花園」は跡形もなく整理されてしまったが、本家の「六三亭」はかつての日本人居留区の繁栄の証人として、21世紀になってもそこに残っている。

そして、そこから一気に北上し魯迅公園へ向かう。

続く・・・(第五章は魯迅公園~山陰路)
*******************************************************************


八千代旅館の跡。
立派な建物で、昔の繁盛ぶりが伺えます。


西本願寺跡。
かなり独特な建物ですが、今はよく見ないと通り過ぎてしまいます。


本圀寺の跡。
入口も含めて当時の建物がはっきり残っています。

乍浦路の町並み。
日本人が数多く暮らしていた跡です。

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第一章はこちら
第二章はこちら

三角マーケット跡地、元警察官舎を背にして、一路北へ向かう。
道はざわざわした小道を抜け、「呉淞路」という大きな道に入る。

呉淞路は1856年に敷設され、虹口地区のメインロードの一つとして早くから栄えた。
日本人が虹口地区に住むようになったのは明治時代からだが、
大正時代には、呉淞路あたりは「日本人街」の中心として栄えていた。
呉服屋、お菓子屋、書店、文具屋、薬局・・・、日本にあるものはここにも
すべて揃っていた。
その光景は、まるで日本の下町のようだったという。
1927年の上海日本総領事館の調査によると、
呉淞路近辺の人口は7582人を数えていた。のちに1930年代になり、
その人口は更に増えていくことになる。
後に「日本租界」とまで言われた北四川路(現四川北路)とは、「北虹口」「虹口」と分かれた言い方をされ、二大日本人地区を形成していた。
しかし、現在でも「日本租界」当時の風景をかなりの形で残している四川北路に対し、
呉淞路は再開発の波に呑まれ、かつて道沿いに並んでいた日本家屋は
ほとんど姿を消してしまった。

左手に金富運大酒店・公安局出入国管理局が見え、右手にかつて日本旅館が並んでいたという場所が見える。
今は再開発の最中で、高層ビルの土台が虹口地区に、人工の山のようにそびえ建っている。
ここから200mくらいまでは再開発地区で、特に変わった風景はない。

そのまままっすぐ進むと、左右にこれまた大きな道にぶつかる。
海寧路と呼ばれるその道は、昔の日本人地区を
南北に二つに分けるように横切り、現在は呉淞路とで虹口地区の大交差点を形成している。
その呉淞路と海寧路の交差点に、ひっそりを余生を過ごすように建つ小さい建物がある。
歩道橋に隠れてその存在すら容易に確認できない建物、
そこが「大阪毎日・東京日日新聞社跡」である。
芥川龍之介の上海滞在記に、『上海游記・江南游記』という本がある。
芥川は、1921(大正10)年に大阪毎日新聞の海外視察員として、4ヶ月の間上海や南京などを回り、中国の現実を目の当たりにしてきた。
紀行文としては、さすが大作家と言える内容で、当時の中国・上海がどのようなものであったか、
この1冊でよくわかることだろう。

呉淞路と「武進路」の交差点、北を向いて右側に、「虹口救火会」の建物が見える。
小さいながら、両手を広げたような、左右に広がる建物に、
物見櫓のような塔がそびえる。建物の知識があれば、すぐに消防署とわかる建物である。
現在でも消防署として使われており、たまにここから消防車が出て行く姿を見ることができる。
その東側隣にあるのが、「中部日本小学校」である。
上海4校目の日本人小学校として1929年4月に設立され、
鉄筋コンクリート造4階建ての校舎が今でもそのままの姿で残っている。

虹口救火会の向かい側に建つ堂々とした建物がある。
ここは日中戦争以降、「海軍陸戦隊租界部隊本部」として日本軍が占拠し、
終戦まで使われていた。
現在は虹口区政府となっているこの建物は、外から見るとそれほどの大きさではないが、
普段は硬い鉄の扉で閉められている扉の隙間から覗いてみると、
広い中庭があり、面積はかなり広いものに見える。
裏手には工部局病院もあり、当時の病棟と看護婦宿舎が、
高い塀の外からも確認でき、いい形で残っている。

まだまだ続く→第四章へ
*******************************************************************

ここが元大阪毎日新聞社です。
芥川龍之介が通っていた頃のまんまだと思います。

陸戦隊租界部隊本部跡。
前には10年前まで日本軍が作ったトーチカが残っていたのですが、
残念ながら撤去されました。
元虹口救火会の建物です。
真ん中に立つ塔が印象的ですね。
今でも現役の消防署です。

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エピソード1
エピソード2

上海~広州の列車の中は南へ南へと進んで行った。
杭州、金華、鷹潭と駅を過ぎ、肌寒い上海から段々と暖かい南方へと進んで行くのが、
肌を通してでもよくわかる。
我々が乗った「硬臥(二等寝台)」はほぼ満席で、大きな荷物を持った行商人、
都市に出稼ぎに行きまとまった金を持って故郷に凱旋する女性、
そして我々と同じ旅行者など、目的が違ったごった煮のような車両であった。

中国の二等寝台は、三段式ベットが並んでいる寝台で、昔の日本の三段式B寝台と同じようなものだが、
日本の寝台と違って仕切りなどはなく、毛布と敷布団、そしてベッドが置いてあるだけである。
しかし、「硬臥」には消灯時間があり、消灯時間になるとどんなにうるさい人民でも、
消灯時間に合わせて眠りに入る。
人の迷惑も考えない中国人も、消灯時間が過ぎても起きて騒ぐと車掌に怒鳴られるので、眠らざるを得ない。
上級寝台に「軟臥」というのがあるが、それは消灯時間がないので、
ルームメイト運が悪いと、酒癖の悪い中国人に当たって徹夜で飲みまくるので、
よっぽど神経が太い人でない限り寝るのは至難の業である。
もっとも、ルームメイト運が良ければ「軟臥」の方が寝心地も乗り心地もいいのは言うまでもない。

我々の隣の寝台には、上海で商売を終え、広州に帰るという女性二人連れがいた。
旅の道連れ、そして車内がヒマというのも手伝い、あっという間に仲良くなったのはいいものの、
俺以外は中国語は話せない。
最初は俺も通訳をしていたものの、外国語を操るというのはすごいエネルギーがいるので、1、2時間も話しているとさすがに疲れてしまう。
俺は「ちょっとタバコ吸ってくる」と言って、逃げるようにドア付近まで行き、一服する。
そして、そのまま他の車両まで散歩へ。
自分の時間が欲しいというのもあるが、あまりに俺に甘えていると、道連れたちのためにもならないので、
今回は敢えて突き放すことにして、彼らがどうコミュニケーションをとるか観察してみることにした。
後で知ったことだが、俺が『逃亡』したのを知った彼らは、仕方なしに筆談で彼女らと話してたそうな。
やればできる、そう、俺の親心を理解してくれただけでも有難い。

列車は定刻より4時間遅れで広州に着いたが、あたりはもう真っ暗であった。
列車で仲が良くなった女性二人連れが、「今日の宿は決まってるの?」と声をかけてくる。
特に決まった所はないことを告げると、一人が、「うちのところに止めてあげる」。
中国人の家にお邪魔する上に宿泊もできる、こんなチャンスはないし、
連れもいい旅の思い出が出来る、そう判断して二つ返事でOKを出した。

彼女の家は広州市内のはずれにあり、駅からはかなりの時間がかかった。
着いた時には既に夜の9時を過ぎていたのだが、彼女からの連絡を受けた家族が
近くまで迎えに来てくれていた。
彼女の家族は、両親と祖母、そして妹の5人家族で、広州では中の上という感じの家庭に見える。
家族総出で「熱烈歓迎」という言葉にぴったりの歓迎を受けたが、
特に、中学校に入ったばかりの妹は外国人を見るのが初めてらしく、
覚えたての英語でしゃべりかけ、まるで家にパンダが来たかのようなはしゃぎぶりであった。
列車に乗っていただけだったが、さすがに皆長距離列車に初めて乗った緊張ですっかり疲れており、
当日はすぐ眠りに入ることにした。
次の日の朝は、泊まらせてもらったお礼として、
調理師の資格を持っている連れの一人が料理を作ることになり、
日本人総出でその準備をすることとなった。
幸い、広州には華南地区最大のジャスコがあり、値段は高いものの、日本食を作る材料には事欠かなかった。
その夜は家族+日本人軍団で大料理会。
調理師のS君がその能力を如何なく発揮したその料理の数々は、
彼女の家族どころか、噂を聞きつけてやってきた近所の人にも「真好吃!(マジでうまい)」と絶賛されていた。
そして、どこからともなく酒が運ばれ、最後は酒も入り大宴会となった。
俺も普段飲まない酒を大量に飲んだせいか、気づいた時にはベッドの上であった。

そのまま就寝し、朝になって家族との別れがやってきた。
一人ひとり握手をし、最後まで手を振りながら別れを惜しみながらバスに乗り込む。
中学生の妹は、目に涙を浮かべながら我々が乗ったバスを追いかけてくるようなしぐさを見せ、
我々のバスが見えなくなるまでずっと手を振っていた。

飲茶目当てに広州までやってきた我々には、遠い寄り道ではあったが、
心行くまで楽しみ、食べ、飲み、夢のような思い出ができた1ページであった。

続く。
[ 00:05 ] [ メシを喰らう! ]