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2007/11/05のBlog
[ 00:30 ]
[ クラシック ]
J.S.Bach : Englishe Suite Nr.3 BWV808/ Capriccio BWV992 / Transcriptions etc.
Wilhelm Kempff (piano)
Deutsche Grammophon 439 108-2
ケンプのバッハ。昔からの愛聴盤であります。
バッハの鍵盤曲の演奏、というと、ピアノに限ってもそれはもう古今東西色々ある訳ですが、個人的に結構好きなのが、ケンプなのです。
で、それは何かというと、あまりにも有名なあの二つのコラールの編曲なのです。
ケンプは、バッハのピアノ編曲を多くものしているのですが、そのなかでも耳に親しいのが、カンタータ147番「心と口と行いと」のコラールと、140番「目覚めよと呼ぶ物見らの声」の二曲だと思っています。前者は、むしろ、「主よ、人の望みと喜びよ」として知られているでしょうか。マイラ・ヘスによる編曲が広く演奏されますし、あれもいいのですが、ケンプのも悪くない。いや、編曲がいいというより、やはりケンプの演奏がいいのです。勿論どちらも。
一般に人口に膾炙しているのは、やはり147番の方でしょうか。これは有名ですし、どことなく優し気だし。さざ波のように小刻みに寄せて返す音形が特徴的です。でも、本当は、合唱はそれに乗せて演奏される旋律の方なんですよね。これは多くのコラールでもそうなのですけども、どうしても聞く方はあのさざ波を主旋律だとつい思ってしまう。でも、そうではない。
ケンプは、この、コラールの本来の主旋律を歌うのが上手なんですよね。
140番もそう。こちらは、よく知られているとは言え、147番には若干遅れをとっているでしょうか。でも、個人的にはこちらの方が好きです。特徴的な、よく動く旋律に乗せて、コラールが乗って行く。
元のコラールは、何とも静かな曲だと思います。本来の音形といい、ケンプの
演奏といい、必ずしもそう静かではない筈なのだけれど、どこかしら達観というか諦念というようなものを感じさせる所がある曲。勿論、内容的にはそういうものではないのですが、何処か琴線に触れるものがあるのですね。きっと。
ケンプは、この旋律を淡々と歌い紡ぎます。147番でもそうですが、ケンプの演奏には、何処か突き放したような厳しさを感じさせるところがあります。決して苦くも辛くもないけれど、居住まいを正さなければいられないような心持ちにさせられるのです。それがいいのだ、というと、ちょっと変わっているでしょうか?
本当は、これよりも古い録音で、もう一回り厳しい演奏があります。かつてレコードで出ていて、CDでも出た筈なんだけれど。あれは、本当に良かった。
よく、自分が死んだらこれを掛けて欲しい、とかいいますが、このケンプの演奏は、自分が死んだら掛けて欲しい演奏の一つです。ちょっと聞くと甘く聞こえるのかも知れませんが、華麗に動く伴奏の蔭に立ち現れるコラールの主旋律が厳しく屹立してくるのを目の当たりにする時、言い様の無い想いに駆られるのです。......それじゃ、生きてる内に聞かなきゃ駄目ですね(苦笑)
Wilhelm Kempff (piano)
Deutsche Grammophon 439 108-2
ケンプのバッハ。昔からの愛聴盤であります。
バッハの鍵盤曲の演奏、というと、ピアノに限ってもそれはもう古今東西色々ある訳ですが、個人的に結構好きなのが、ケンプなのです。
で、それは何かというと、あまりにも有名なあの二つのコラールの編曲なのです。
ケンプは、バッハのピアノ編曲を多くものしているのですが、そのなかでも耳に親しいのが、カンタータ147番「心と口と行いと」のコラールと、140番「目覚めよと呼ぶ物見らの声」の二曲だと思っています。前者は、むしろ、「主よ、人の望みと喜びよ」として知られているでしょうか。マイラ・ヘスによる編曲が広く演奏されますし、あれもいいのですが、ケンプのも悪くない。いや、編曲がいいというより、やはりケンプの演奏がいいのです。勿論どちらも。
一般に人口に膾炙しているのは、やはり147番の方でしょうか。これは有名ですし、どことなく優し気だし。さざ波のように小刻みに寄せて返す音形が特徴的です。でも、本当は、合唱はそれに乗せて演奏される旋律の方なんですよね。これは多くのコラールでもそうなのですけども、どうしても聞く方はあのさざ波を主旋律だとつい思ってしまう。でも、そうではない。
ケンプは、この、コラールの本来の主旋律を歌うのが上手なんですよね。
140番もそう。こちらは、よく知られているとは言え、147番には若干遅れをとっているでしょうか。でも、個人的にはこちらの方が好きです。特徴的な、よく動く旋律に乗せて、コラールが乗って行く。
元のコラールは、何とも静かな曲だと思います。本来の音形といい、ケンプの
演奏といい、必ずしもそう静かではない筈なのだけれど、どこかしら達観というか諦念というようなものを感じさせる所がある曲。勿論、内容的にはそういうものではないのですが、何処か琴線に触れるものがあるのですね。きっと。
ケンプは、この旋律を淡々と歌い紡ぎます。147番でもそうですが、ケンプの演奏には、何処か突き放したような厳しさを感じさせるところがあります。決して苦くも辛くもないけれど、居住まいを正さなければいられないような心持ちにさせられるのです。それがいいのだ、というと、ちょっと変わっているでしょうか?
本当は、これよりも古い録音で、もう一回り厳しい演奏があります。かつてレコードで出ていて、CDでも出た筈なんだけれど。あれは、本当に良かった。
よく、自分が死んだらこれを掛けて欲しい、とかいいますが、このケンプの演奏は、自分が死んだら掛けて欲しい演奏の一つです。ちょっと聞くと甘く聞こえるのかも知れませんが、華麗に動く伴奏の蔭に立ち現れるコラールの主旋律が厳しく屹立してくるのを目の当たりにする時、言い様の無い想いに駆られるのです。......それじゃ、生きてる内に聞かなきゃ駄目ですね(苦笑)
2007/11/04のBlog
[ 02:08 ]
[ ジャズ ]
Paul Chambers : Bass on Top
Kenny Burrell (guitar)
Hank Jones (piano)
Paul Chambers (bass)
Art Taylor (drums)
BLUE NOTE/東芝EMI TOCJ-6407
久々にジャズのエントリーです。あ、先月もエヴァンスやったか。ま、いいや。
ポール・チェンバース。ベーシスト。モダンジャズ、特に1960年前後にはいろんな所に顔を出す顔触れの一人。夭折の、という形容詞が付くことになってますが、まぁ確かに亡くなったのは1969年、33歳だったそうなので、おかしくはないんですが、「夭折」ってイメージじゃないんですよね。スコット・ラファロあたりはなんとなく分かるんですけどね。やっぱり、30代じゃ夭折って言ってもらえないんじゃないかと。
......でも、ビル・エヴァンスに「夭折」って付ける人いるしな。50過ぎだぞあれは。グールドにも付ける人いるしな。やっぱ、イメージなんでしょうね。
そう、ポール・チェンバース、決して「若くして死んだ」って感じじゃないんですよね。しかも「夭折」とかいうと、「儚く天に帰る」みたいな感じがありません?それにしちゃ、どこかしらふてぶてしいんですよこの人(笑)偏見?そんな気もしないんだけどな。
1957年、ブルーノートへの録音。最初のYESTERDAYS(ビートルズじゃないですよ)、チェンバースはアルコで入ります。これが結構長くて、なかなか意表を突いてます。メンツも、誰のリーダー作でもおかしくないような人達。ケニー・バレルのギターが結構際立ちます。音がね、ちょっとエレキっぽい感じなんですよね。そうは書いてないんだけど。フレッシュな音です。
でも、これはやっぱりチェンバースのリーダー作。チェンバースのベースが、結構歌ってるんですよ。勿論、アルコだけでなくて、例えば2曲目の You'd be so nice to come home to とか、普通にウォーキングしてるようなところでもいいんですね。3曲目のChasin' the birdはちょっとお休み気味で、他の3人が結構頑張ってますが、他は渋くウォーキングを決めるチェンバースがいい。5曲目のThe Theme ではまたしてもアルコで弾きまくってます。こんなにギコギコやって、それでもジャズはジャズだな、というのも不思議。
あー、でも、そうは言いつつ、やっぱりケニー・バレル、結構美味しいとことってるな、これ。
全体的には、ちょっと微妙かも知れません。凄い緊張感があるって感じじゃないんですが、決してだれてはいない。かといってアットホームに楽しい訳でもない。聞き様によっては軽いけど、ファンキーでもない。まぁ、ちょっと軽く聞ける感じではない。シリアスでもない。
まぁ、そう言う感じが面白いというのもあるかも知れないです。
Kenny Burrell (guitar)
Hank Jones (piano)
Paul Chambers (bass)
Art Taylor (drums)
BLUE NOTE/東芝EMI TOCJ-6407
久々にジャズのエントリーです。あ、先月もエヴァンスやったか。ま、いいや。
ポール・チェンバース。ベーシスト。モダンジャズ、特に1960年前後にはいろんな所に顔を出す顔触れの一人。夭折の、という形容詞が付くことになってますが、まぁ確かに亡くなったのは1969年、33歳だったそうなので、おかしくはないんですが、「夭折」ってイメージじゃないんですよね。スコット・ラファロあたりはなんとなく分かるんですけどね。やっぱり、30代じゃ夭折って言ってもらえないんじゃないかと。
......でも、ビル・エヴァンスに「夭折」って付ける人いるしな。50過ぎだぞあれは。グールドにも付ける人いるしな。やっぱ、イメージなんでしょうね。
そう、ポール・チェンバース、決して「若くして死んだ」って感じじゃないんですよね。しかも「夭折」とかいうと、「儚く天に帰る」みたいな感じがありません?それにしちゃ、どこかしらふてぶてしいんですよこの人(笑)偏見?そんな気もしないんだけどな。
1957年、ブルーノートへの録音。最初のYESTERDAYS(ビートルズじゃないですよ)、チェンバースはアルコで入ります。これが結構長くて、なかなか意表を突いてます。メンツも、誰のリーダー作でもおかしくないような人達。ケニー・バレルのギターが結構際立ちます。音がね、ちょっとエレキっぽい感じなんですよね。そうは書いてないんだけど。フレッシュな音です。
でも、これはやっぱりチェンバースのリーダー作。チェンバースのベースが、結構歌ってるんですよ。勿論、アルコだけでなくて、例えば2曲目の You'd be so nice to come home to とか、普通にウォーキングしてるようなところでもいいんですね。3曲目のChasin' the birdはちょっとお休み気味で、他の3人が結構頑張ってますが、他は渋くウォーキングを決めるチェンバースがいい。5曲目のThe Theme ではまたしてもアルコで弾きまくってます。こんなにギコギコやって、それでもジャズはジャズだな、というのも不思議。
あー、でも、そうは言いつつ、やっぱりケニー・バレル、結構美味しいとことってるな、これ。
全体的には、ちょっと微妙かも知れません。凄い緊張感があるって感じじゃないんですが、決してだれてはいない。かといってアットホームに楽しい訳でもない。聞き様によっては軽いけど、ファンキーでもない。まぁ、ちょっと軽く聞ける感じではない。シリアスでもない。
まぁ、そう言う感じが面白いというのもあるかも知れないです。
2007/11/03のBlog
[ 01:02 ]
[ クラシック ]
空想の音楽会(18):ラ・マルメゾン宮における皇后のための音楽会
L.E.ジャダン:ハープとピアノフォルテのための二重奏曲第2番 ロンド
ギャラ:わが青春に / あの人は彼処に
ダルヴィマール:私の心は嘆く
H. ジャダン:ピアノフォルテの為のソナタ op.4-3
ナーデルマン:ハープの為のイギリス風小ロンド op.92
ダルヴィマール:ロシア歌曲によるハープの為の変奏曲
H.ジャダン:月へのロマンス
L.E.ジャダン:ウェルテルの死 / シャンソン
ボワエルデュ:ハープとピアノフォルテの為の二重奏曲 第2番 アレグロ・モデラート
リリー・ラスキーヌ (harp)
ベルナール・クルイセン (bariton)
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (fortepiano)
ERATO/ワーナーミュージック WPCS-5878
先日取り上げた「空想の音楽会」シリーズからもう1枚。いや、このシリーズ、もう品切れ状態ですが、面白いんですよ、結構。
こちらは題して「ラ・マルメゾン宮における皇后のための音楽会」。ナポレオン妃ジョゼフィーヌが購ったマルメゾン宮で演奏されたであろうサロン音楽を集めた録音です。こちらは、時代が限られているので、取り上げられた作曲家が活躍した時期も概ね集中しております。がしかし、ここで取り上げられている作曲家がまたよく知らない人達ばっかり......
いちいち改めて列挙はしませんが、上記のラインナップを見ればお分かりと思いますが、私、このCD以外で目にした覚えが無い人達ばかりです。ジョゼフィーヌはフランス風の音楽を専ら好んだとかで、彼らは勿論フランスの作曲家。当時の上流階級に人気の作曲家達であったそうです。
しかし、まぁ、正直、口当たりのいい音楽ですね。特に器楽曲。一方、ここでは6曲の歌曲が披露されているのですが、これがまた全てハープ伴奏(!)による歌曲なのです。で、この曲達が、なんともメランコリックな表情を湛えた、まぁそう言っちゃあれですが俗な作品揃いでありまして.....
だって、題名が「我が青春に」「あの人は彼処に」「私の心は嘆く」「月へのロマンス」「ウェルテルの死」「シャンソン」ですからね。詩がライナーに掲載されていないのは断腸の思いであります。残念至極。ハイ、面白がってます。でも、こんな俗な作品だけど、ハープの音色は七難隠しますね。何となくそれっぽく聞こえてしまうのが凄いと言えば凄い。ちなみに、ハープはリリー・ラスキーヌ。ちょっと勿体ないですかね。
まぁ、これも、肩肘張って「これが当時の音楽であるか!」と研究しても野暮ってものでしょうね。サロン音楽でもありますし、きらーくに「うん、こんな感じなのね」と聞くのがいい感じなんじゃないかと思います。
ま、それを言うとちょっと可哀想なのもありますが。件の歌曲3曲の後、丁度中心に、H.ジャダンのピアノフォルテの為のソナタというのが録音されてます。これも、ちょっとロマン派の香りが漂って来るような音楽だけど、それなりに端正に書かれていて、これだけ捉えて聞く分にはなかなか面白いのですが、こうやって置かれると「あ、これがサロン音楽なんだ」というように心持ち色眼鏡で見てしまう気もします。人間、先入観から自由に、というのは、存外難しいようです。
フォルテピアノを弾いているのはロベール・ヴェイロン=ラクロワ。こちらもお懐かしいお名前です。やはり往年の名手による演奏ですね。思うに、この録音も1966年のものなのですが、当時としては結構いい演奏家を起用している訳です、このシリーズ。結構贅沢なもんだと思いますよ。
L.E.ジャダン:ハープとピアノフォルテのための二重奏曲第2番 ロンド
ギャラ:わが青春に / あの人は彼処に
ダルヴィマール:私の心は嘆く
H. ジャダン:ピアノフォルテの為のソナタ op.4-3
ナーデルマン:ハープの為のイギリス風小ロンド op.92
ダルヴィマール:ロシア歌曲によるハープの為の変奏曲
H.ジャダン:月へのロマンス
L.E.ジャダン:ウェルテルの死 / シャンソン
ボワエルデュ:ハープとピアノフォルテの為の二重奏曲 第2番 アレグロ・モデラート
リリー・ラスキーヌ (harp)
ベルナール・クルイセン (bariton)
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (fortepiano)
ERATO/ワーナーミュージック WPCS-5878
先日取り上げた「空想の音楽会」シリーズからもう1枚。いや、このシリーズ、もう品切れ状態ですが、面白いんですよ、結構。
こちらは題して「ラ・マルメゾン宮における皇后のための音楽会」。ナポレオン妃ジョゼフィーヌが購ったマルメゾン宮で演奏されたであろうサロン音楽を集めた録音です。こちらは、時代が限られているので、取り上げられた作曲家が活躍した時期も概ね集中しております。がしかし、ここで取り上げられている作曲家がまたよく知らない人達ばっかり......
いちいち改めて列挙はしませんが、上記のラインナップを見ればお分かりと思いますが、私、このCD以外で目にした覚えが無い人達ばかりです。ジョゼフィーヌはフランス風の音楽を専ら好んだとかで、彼らは勿論フランスの作曲家。当時の上流階級に人気の作曲家達であったそうです。
しかし、まぁ、正直、口当たりのいい音楽ですね。特に器楽曲。一方、ここでは6曲の歌曲が披露されているのですが、これがまた全てハープ伴奏(!)による歌曲なのです。で、この曲達が、なんともメランコリックな表情を湛えた、まぁそう言っちゃあれですが俗な作品揃いでありまして.....
だって、題名が「我が青春に」「あの人は彼処に」「私の心は嘆く」「月へのロマンス」「ウェルテルの死」「シャンソン」ですからね。詩がライナーに掲載されていないのは断腸の思いであります。残念至極。ハイ、面白がってます。でも、こんな俗な作品だけど、ハープの音色は七難隠しますね。何となくそれっぽく聞こえてしまうのが凄いと言えば凄い。ちなみに、ハープはリリー・ラスキーヌ。ちょっと勿体ないですかね。
まぁ、これも、肩肘張って「これが当時の音楽であるか!」と研究しても野暮ってものでしょうね。サロン音楽でもありますし、きらーくに「うん、こんな感じなのね」と聞くのがいい感じなんじゃないかと思います。
ま、それを言うとちょっと可哀想なのもありますが。件の歌曲3曲の後、丁度中心に、H.ジャダンのピアノフォルテの為のソナタというのが録音されてます。これも、ちょっとロマン派の香りが漂って来るような音楽だけど、それなりに端正に書かれていて、これだけ捉えて聞く分にはなかなか面白いのですが、こうやって置かれると「あ、これがサロン音楽なんだ」というように心持ち色眼鏡で見てしまう気もします。人間、先入観から自由に、というのは、存外難しいようです。
フォルテピアノを弾いているのはロベール・ヴェイロン=ラクロワ。こちらもお懐かしいお名前です。やはり往年の名手による演奏ですね。思うに、この録音も1966年のものなのですが、当時としては結構いい演奏家を起用している訳です、このシリーズ。結構贅沢なもんだと思いますよ。
2007/11/01のBlog
[ 00:49 ]
[ クラシック ]
空想の音楽会(26):ザルツブルク、ミラベル宮におけるモーツァルト音楽会
ビーバー:バス独唱、弦楽合奏と通奏低音の為の<夜警のセレナード>
ムファット:2つのヴァイオリン、チェロ、弦楽合奏と通奏低音の為の協奏曲第11番
カルダーラ:弦楽と通奏低音の為のトリオ・ソナタ ロ短調
W.A.モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽の為のアダージョ ホ長調 K.261
L.モーツァルト:弦楽と通奏低音の為の交響曲 ト長調
M.ハイドン:交響曲 ハ長調
ヤーコブ・シュテンブフリ (bass)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、ハンス・ビュンデ (violin)
ベティ・ヒンドリックス (cello)
ギュンター・カーラウ (cembalo)
ザール放送室内管弦楽団
カール・リステンバルト (conduct)
ERATO/ワーナーミュージック WPCS-5886
エラートの「空想の音楽会」シリーズのことは、以前書いたような気がしたのですが、自分のblogを検索しても出て来ない。どうやら、以前似たようなことをやっていたHPで書いたネタだったようです。
なので、もう一回ここで書いちゃえ(^o^;
ERATOといえば、フランスの古楽系を中心にした録音で知られるレーベルです。今でこそWarnerグループの一部門に過ぎませんが、かつてはパイヤール室内管等を擁し、バロック以前の音楽について強力なラインナップを誇っていた訳です。
そのERATOが1960年代から録音していたシリーズ、と言っていいのかどうかですが、題して"CHATEAUX et CATHEDRALES"。「城館と大聖堂」くらいに訳すのが適当なのでしょうか。つまり、あちこちの城館や聖堂の最盛期には、こんな音楽が演奏されてたんじゃないのかな、というプログラムを組んで、その場所で実際にこんな演奏会が行われたのでは、というシチュエーションを想定しているわけです。
邦題が、「空想の音楽会」。ベタっていやぁベタですが、名は体を表す。いいネーミングだと思います。自分で「空想だぁ!」って言い切っちゃうところが潔い。下手に蘊蓄傾けて、これが如何に当時の姿に近いか、なんて滔々と語り出すところからは随分遠いと思います。
このシリーズ、発売当時はレコードだった訳ですが、10年ほど前にCD化されて発売されました。全30枚。結構な数でしょ?
で、このCD。題して「ザルツブルク、ミラベル宮におけるモーツァルト音楽会」。ザルツブルクのミラベル宮は、大司教の宮殿であったわけですが、そのミラベル宮に縁のある作曲家の作品を集めて録音したもの。ですので、この場合は、本当はこういう音楽会は無かったんじゃないかと思うんですけどね。
何せ、作曲家群が、ビーバー(1644-1704)、ムファット(1653-1704)、カルダーラ(1670-1736)、W.A.モーツァルト(1756-1791)、L.モーツァルト(1719-1787)、M.ハイドン(1737-1806) ですから。特に、最後のM.ハイドン(ウィーンのヨーゼフの弟)の作品は1788年の作。既にレオポルドは没して、勿論ウォルフガングは大司教と訣別して久しいので、この組み合わせで演奏会が持たれることはまずないんじゃないかと思います。
前3者は、あくまでバロック期の作曲家ですし、音楽も後3者とは随分違う。レオポルドやミヒャエルの作品は、ああ、こういうのが古典派、或いは前古典派の交響曲、なのかねぇ、という感じ。まぁ、兄ハイドンが書くにはちょっと繊細過ぎるかな、という気がします。特にミヒャエルの作品の場合。
面白いのはビーバーの「夜警のセレナード」。シンフォニアのような弦楽合奏に続いて、全く趣き変わって、静かな弦のピチカートに乗ってバス独唱で夜警が火の始末に注意と歌いながら歩いてゆく。.........書いてる自分でも、「なんだそれは」と思ってしまいますね。でも、聞いている分には面白いのですよ。
そう、この曲はどう、とか、あの曲はどう、とか、難しく考えずに、「へぇ、こんな音楽もあるのか。なるほどねぇ」という感じで楽しむシリーズなのかな、とか思ったりします。例えばこのCDでも、本来ならビーバーの「夜警のセレナード」とか、M.ハイドンの交響曲は、楽章毎にトラックを配してもいいんじゃないかと思うのですが、1トラックで済ませちゃうんですよね。まぁだからというわけではないけど、このCDで真剣にザルツブルクの音楽文化の歴史を考える、というより、こんな録音で往時に想いを馳せる、イメージを持つ、みたいな聞き方が楽しいんじゃないかと。
惜しむらくは、今からすればかなり録音が厳しいこと。音質、特に質感や音色が微妙に良くないんですよね。録音によってはいいのもあるようですが.....
まぁ、かつてこういう録音もあった、という聞き方が丁度いいんでしょうか。
ビーバー:バス独唱、弦楽合奏と通奏低音の為の<夜警のセレナード>
ムファット:2つのヴァイオリン、チェロ、弦楽合奏と通奏低音の為の協奏曲第11番
カルダーラ:弦楽と通奏低音の為のトリオ・ソナタ ロ短調
W.A.モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽の為のアダージョ ホ長調 K.261
L.モーツァルト:弦楽と通奏低音の為の交響曲 ト長調
M.ハイドン:交響曲 ハ長調
ヤーコブ・シュテンブフリ (bass)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、ハンス・ビュンデ (violin)
ベティ・ヒンドリックス (cello)
ギュンター・カーラウ (cembalo)
ザール放送室内管弦楽団
カール・リステンバルト (conduct)
ERATO/ワーナーミュージック WPCS-5886
エラートの「空想の音楽会」シリーズのことは、以前書いたような気がしたのですが、自分のblogを検索しても出て来ない。どうやら、以前似たようなことをやっていたHPで書いたネタだったようです。
なので、もう一回ここで書いちゃえ(^o^;
ERATOといえば、フランスの古楽系を中心にした録音で知られるレーベルです。今でこそWarnerグループの一部門に過ぎませんが、かつてはパイヤール室内管等を擁し、バロック以前の音楽について強力なラインナップを誇っていた訳です。
そのERATOが1960年代から録音していたシリーズ、と言っていいのかどうかですが、題して"CHATEAUX et CATHEDRALES"。「城館と大聖堂」くらいに訳すのが適当なのでしょうか。つまり、あちこちの城館や聖堂の最盛期には、こんな音楽が演奏されてたんじゃないのかな、というプログラムを組んで、その場所で実際にこんな演奏会が行われたのでは、というシチュエーションを想定しているわけです。
邦題が、「空想の音楽会」。ベタっていやぁベタですが、名は体を表す。いいネーミングだと思います。自分で「空想だぁ!」って言い切っちゃうところが潔い。下手に蘊蓄傾けて、これが如何に当時の姿に近いか、なんて滔々と語り出すところからは随分遠いと思います。
このシリーズ、発売当時はレコードだった訳ですが、10年ほど前にCD化されて発売されました。全30枚。結構な数でしょ?
で、このCD。題して「ザルツブルク、ミラベル宮におけるモーツァルト音楽会」。ザルツブルクのミラベル宮は、大司教の宮殿であったわけですが、そのミラベル宮に縁のある作曲家の作品を集めて録音したもの。ですので、この場合は、本当はこういう音楽会は無かったんじゃないかと思うんですけどね。
何せ、作曲家群が、ビーバー(1644-1704)、ムファット(1653-1704)、カルダーラ(1670-1736)、W.A.モーツァルト(1756-1791)、L.モーツァルト(1719-1787)、M.ハイドン(1737-1806) ですから。特に、最後のM.ハイドン(ウィーンのヨーゼフの弟)の作品は1788年の作。既にレオポルドは没して、勿論ウォルフガングは大司教と訣別して久しいので、この組み合わせで演奏会が持たれることはまずないんじゃないかと思います。
前3者は、あくまでバロック期の作曲家ですし、音楽も後3者とは随分違う。レオポルドやミヒャエルの作品は、ああ、こういうのが古典派、或いは前古典派の交響曲、なのかねぇ、という感じ。まぁ、兄ハイドンが書くにはちょっと繊細過ぎるかな、という気がします。特にミヒャエルの作品の場合。
面白いのはビーバーの「夜警のセレナード」。シンフォニアのような弦楽合奏に続いて、全く趣き変わって、静かな弦のピチカートに乗ってバス独唱で夜警が火の始末に注意と歌いながら歩いてゆく。.........書いてる自分でも、「なんだそれは」と思ってしまいますね。でも、聞いている分には面白いのですよ。
そう、この曲はどう、とか、あの曲はどう、とか、難しく考えずに、「へぇ、こんな音楽もあるのか。なるほどねぇ」という感じで楽しむシリーズなのかな、とか思ったりします。例えばこのCDでも、本来ならビーバーの「夜警のセレナード」とか、M.ハイドンの交響曲は、楽章毎にトラックを配してもいいんじゃないかと思うのですが、1トラックで済ませちゃうんですよね。まぁだからというわけではないけど、このCDで真剣にザルツブルクの音楽文化の歴史を考える、というより、こんな録音で往時に想いを馳せる、イメージを持つ、みたいな聞き方が楽しいんじゃないかと。
惜しむらくは、今からすればかなり録音が厳しいこと。音質、特に質感や音色が微妙に良くないんですよね。録音によってはいいのもあるようですが.....
まぁ、かつてこういう録音もあった、という聞き方が丁度いいんでしょうか。
2007/10/28のBlog
[ 23:16 ]
[ クラシック ]
The Ecclesiastical Year in Gregorian Chant
Schola Cantorum of Amsterdam Students
Wim van Gerven
SONY SBK47670
正直言うと、時々、「ん?何故自分は持っているのだ?」と思ってしまうCDというのがあります。つまり、買った(筈なんだけど)経緯とか全然覚えてない、というケースですね。まぁひどい話ですが、だって覚えてないんだもーん。覚えてないものはしょーがないじゃん。というわけで。
このCDも、一体どういう経緯で何処で入手したのか、全然分からないんですよ。どっかのセールかなぁ。その割に、新しめのCDなんだけど.....2002年の発売らしいです。録音は1968年。
演奏がどうとかとか、そういうことは、どうもグレゴリオ聖歌までくると、正直よく分かりません。良し悪しはあるだろうと思うんですけどね。ええ。
でも、その割に結構グレゴリオ聖歌は聴いているかも知れません。独特の、近現代の調性主義とその逸脱の歴史で出来てきた音楽とは一線を画した音楽。ルネサンス期の音楽とも又違う。基本的に単旋律で和声という考え方も無い音楽。ま、そう言い切っちゃうと語弊もあるけれど。けれど、その単旋律の響きが何とも言えずいいのですよね。
もう一つは、これほどに古い音楽でありながら、立派に「今そこに在る音楽」であること。つまり、グレゴリオ聖歌は、未だにカソリックに於いては、特に修道会などでは祈りの音楽として生きている、ということです。
グレゴリオ聖歌に限らず、ある種の宗教曲というのは、それを演奏することが「祈り」であり、宗教活動そのものである、ということがあり得る故、幾ら古くても何処かに生きて現在にある部分があるのだと思います。
その辺が、かくも古く今の自分からは遠く隔たった音楽であるにも関わらず、何処かにそこに至る道が繋がっているような気がする理由なのかも知れません。
実際、決して「今に通ずるものがある」とか「癒しだ」なんて思って聞いてはいないのですが、そういう音楽を聞くことに違和感を感じないのも事実です。
そういえば、以前、スイス南部のミュスタイアというところの修道院を見に行ったことがあるのですが、その礼拝堂に行った所、別室で修道士が聖歌を斉唱していたのをたまたま聞いたことがあります。なるほど、こういうところで歌ってこそこの音楽は響くのだな、とか思った一方で、実際にそれを歌うことを"音楽活動"ではない、別の確たる目的を以て歌う人がいるのだ、という事実に改めて気付かされたことがあります。その事実を確認したことは、私にはちょっとした驚きでもあって、そういうのが頭に残っているからこんな風に思うのかも知れません。
Schola Cantorum of Amsterdam Students という団体自体については、このCDのライナーには詳細情報が書かれていません。アムステルダムの学生のスコラ・カントルム。カントルムは合唱団くらいでいいのでしょうけど、ここでいう「学生」って、いわゆる大学生のこと?それとも、神学校の学生?考え出すときりがなさそうです。
Schola Cantorum of Amsterdam Students
Wim van Gerven
SONY SBK47670
正直言うと、時々、「ん?何故自分は持っているのだ?」と思ってしまうCDというのがあります。つまり、買った(筈なんだけど)経緯とか全然覚えてない、というケースですね。まぁひどい話ですが、だって覚えてないんだもーん。覚えてないものはしょーがないじゃん。というわけで。
このCDも、一体どういう経緯で何処で入手したのか、全然分からないんですよ。どっかのセールかなぁ。その割に、新しめのCDなんだけど.....2002年の発売らしいです。録音は1968年。
演奏がどうとかとか、そういうことは、どうもグレゴリオ聖歌までくると、正直よく分かりません。良し悪しはあるだろうと思うんですけどね。ええ。
でも、その割に結構グレゴリオ聖歌は聴いているかも知れません。独特の、近現代の調性主義とその逸脱の歴史で出来てきた音楽とは一線を画した音楽。ルネサンス期の音楽とも又違う。基本的に単旋律で和声という考え方も無い音楽。ま、そう言い切っちゃうと語弊もあるけれど。けれど、その単旋律の響きが何とも言えずいいのですよね。
もう一つは、これほどに古い音楽でありながら、立派に「今そこに在る音楽」であること。つまり、グレゴリオ聖歌は、未だにカソリックに於いては、特に修道会などでは祈りの音楽として生きている、ということです。
グレゴリオ聖歌に限らず、ある種の宗教曲というのは、それを演奏することが「祈り」であり、宗教活動そのものである、ということがあり得る故、幾ら古くても何処かに生きて現在にある部分があるのだと思います。
その辺が、かくも古く今の自分からは遠く隔たった音楽であるにも関わらず、何処かにそこに至る道が繋がっているような気がする理由なのかも知れません。
実際、決して「今に通ずるものがある」とか「癒しだ」なんて思って聞いてはいないのですが、そういう音楽を聞くことに違和感を感じないのも事実です。
そういえば、以前、スイス南部のミュスタイアというところの修道院を見に行ったことがあるのですが、その礼拝堂に行った所、別室で修道士が聖歌を斉唱していたのをたまたま聞いたことがあります。なるほど、こういうところで歌ってこそこの音楽は響くのだな、とか思った一方で、実際にそれを歌うことを"音楽活動"ではない、別の確たる目的を以て歌う人がいるのだ、という事実に改めて気付かされたことがあります。その事実を確認したことは、私にはちょっとした驚きでもあって、そういうのが頭に残っているからこんな風に思うのかも知れません。
Schola Cantorum of Amsterdam Students という団体自体については、このCDのライナーには詳細情報が書かれていません。アムステルダムの学生のスコラ・カントルム。カントルムは合唱団くらいでいいのでしょうけど、ここでいう「学生」って、いわゆる大学生のこと?それとも、神学校の学生?考え出すときりがなさそうです。
2007/10/25のBlog
[ 01:40 ]
[ クラシック ]
Chopin : The 3 piano sonatas / 5 Etude / 4 Mazurkas
Leif Ove Andsnes (piano)
Virgin Classics 7243 5 61317 2 9
珍しくショパンなど聞いております。
レイフ・オヴェ・アンスネス。近年はシューベルトなどの録音で知られ、イアン・ボストリッジとの歌曲の録音なども幾つか出ている、そろそろ中堅のピアニストであります。その彼が17年前、まだ20歳の時に録音したものです。若手ピアニストらしくショパンなんですね。但し、ショパンのソナタ全集と、マズルカと練習曲を幾つか、という組み合わせ。そう、ここでは、ショパンのピアノソナタ第1番が録音されているのです。珍しくショパンの録音を買っているのは、それが理由でした。
まぁ、そんなに珍しいとまではいかない曲でしょうが、あまり演奏される機会も多くないのではないでしょうか。大体がショパンのソナタというと、例の「葬送行進曲付」の2番と、ちょっとした円熟味のある3番ですものね。
ショパンのピアノソナタ第1番は、1827年には着手されたようです。ショパンは1810年生、1849年没ですので、17歳で着手している訳ですが、それ以上に驚きなのは、この年代。この年、ベートーヴェンが亡くなり、翌年にはシューベルトも31歳の若さで世を去ります。そのシューベルトよりわずか13歳年下なのです、ショパンは。まぁ、この辺の年代についていちいち驚いてると身が持たないのは確かなのですが。
この第1番、結構面白い曲です。元々ピアノソナタはショパンの中でもやや異色と言うか違う雰囲気のあるジャンルですが、この第1番、あまりショパンらしくない作品です。
まず、曲の造りが、2番や3番に比べても、構成というか形式を感じさせます。構造が「ある」という感じが強い....というとご理解頂けましょうか?第3番の方がまだ近いかな。
39歳の短い生涯であるショパンなれば、第1番と第3番の間には17年の開きしかありませんが、その間の違いは決して少なくはないと思います。第1番が古典的な構成を尊んだとするなら、第3番は、第2番「葬送」での破天荒とも言える構成を経た上でのちょっとした先祖帰り、といったところでしょうか。ただ、第3番が各楽章が通しで聞かれる必然性が強いかと言われるとちょっと考えてしまうのに対し、第1番のそれは、やはり4楽章まとまって「ソナタ」だなぁ、と思わされます。第3楽章など、聞き様によっては夜想曲か何かの一曲か、と思って済ませそうな所、でもやっぱり全体の中に嵌め込んでみると引き立つのですね、お互いに。続く第4楽章も、古典派からベートーヴェンやシューベルトが受け継いだ、ピアノソナタとしてのフィナーレらしいフィナーレを演出していて、ああ、そうだったな、ソナタってこんな感じだなと改めて思わせます。
アンスネスの演奏には格段の不満はありません。年齢的なことはあまり感じさせません。弾き飛ばす風でもなく、ちゃんとやっていると思います。技巧的には立派なもんじゃないでしょうか。音楽的にも十分。ソナタ集ということで、もう1枚との組み物で、マズルカ等も聴きましたが、こちらも結構なもので。
ま、たまには肩肘張らずにこういうの聞くのもいいですね。
Leif Ove Andsnes (piano)
Virgin Classics 7243 5 61317 2 9
珍しくショパンなど聞いております。
レイフ・オヴェ・アンスネス。近年はシューベルトなどの録音で知られ、イアン・ボストリッジとの歌曲の録音なども幾つか出ている、そろそろ中堅のピアニストであります。その彼が17年前、まだ20歳の時に録音したものです。若手ピアニストらしくショパンなんですね。但し、ショパンのソナタ全集と、マズルカと練習曲を幾つか、という組み合わせ。そう、ここでは、ショパンのピアノソナタ第1番が録音されているのです。珍しくショパンの録音を買っているのは、それが理由でした。
まぁ、そんなに珍しいとまではいかない曲でしょうが、あまり演奏される機会も多くないのではないでしょうか。大体がショパンのソナタというと、例の「葬送行進曲付」の2番と、ちょっとした円熟味のある3番ですものね。
ショパンのピアノソナタ第1番は、1827年には着手されたようです。ショパンは1810年生、1849年没ですので、17歳で着手している訳ですが、それ以上に驚きなのは、この年代。この年、ベートーヴェンが亡くなり、翌年にはシューベルトも31歳の若さで世を去ります。そのシューベルトよりわずか13歳年下なのです、ショパンは。まぁ、この辺の年代についていちいち驚いてると身が持たないのは確かなのですが。
この第1番、結構面白い曲です。元々ピアノソナタはショパンの中でもやや異色と言うか違う雰囲気のあるジャンルですが、この第1番、あまりショパンらしくない作品です。
まず、曲の造りが、2番や3番に比べても、構成というか形式を感じさせます。構造が「ある」という感じが強い....というとご理解頂けましょうか?第3番の方がまだ近いかな。
39歳の短い生涯であるショパンなれば、第1番と第3番の間には17年の開きしかありませんが、その間の違いは決して少なくはないと思います。第1番が古典的な構成を尊んだとするなら、第3番は、第2番「葬送」での破天荒とも言える構成を経た上でのちょっとした先祖帰り、といったところでしょうか。ただ、第3番が各楽章が通しで聞かれる必然性が強いかと言われるとちょっと考えてしまうのに対し、第1番のそれは、やはり4楽章まとまって「ソナタ」だなぁ、と思わされます。第3楽章など、聞き様によっては夜想曲か何かの一曲か、と思って済ませそうな所、でもやっぱり全体の中に嵌め込んでみると引き立つのですね、お互いに。続く第4楽章も、古典派からベートーヴェンやシューベルトが受け継いだ、ピアノソナタとしてのフィナーレらしいフィナーレを演出していて、ああ、そうだったな、ソナタってこんな感じだなと改めて思わせます。
アンスネスの演奏には格段の不満はありません。年齢的なことはあまり感じさせません。弾き飛ばす風でもなく、ちゃんとやっていると思います。技巧的には立派なもんじゃないでしょうか。音楽的にも十分。ソナタ集ということで、もう1枚との組み物で、マズルカ等も聴きましたが、こちらも結構なもので。
ま、たまには肩肘張らずにこういうの聞くのもいいですね。
2007/10/23のBlog
[ 02:03 ]
[ クラシック ]
Henry VIII and his Six Wives
music arranged and composed by David Munrow
The Early Music Consort of London
David Munrow (directed by)
TESTAMENT SBT1250
[関連したBlog]
先日に引き続き、またしてもイングランドの古楽ネタです。いや、これを古楽というなら、なんですが。一応。
ヘンリー8世にまつわる音楽、みたいなのは以前にも書いたのですが、こちらは古楽黎明期の雄、デビッド・マンロウが映画のサウンドトラックとして制作したもの。それがTESTAMENTで出て来るあたりが面白いんですけどね。
16世紀のイングランドは、王権争いである薔薇戦争で、最後の最後に陰険と名高いリチャード3世を、肖像画で見るからに数倍陰気で陰険そうなヘンリ7世が倒して、王権が安定します。血で血を洗う抗争を親父の代で終わらせた後に出たのがヘンリ8世。6人の妻を持ち、離婚する為にカソリックから分離したという、ファンキーと言うかファッッキンと言うか、まぁなかなかの御仁です。結構治世は大荒れだったようですが、戦争はなかったので、下々はそれほどとばっちりは食わなかったようですが。ちなみに彼の「私生児」が誰あろうエリザベス一世。シェークスピアのおかげもあって、この辺の歴史は英国でも結構人気のある時代です。日本で言えば戦国時代ですかね。
で、人気があるのでTVドラマにもなるし、映画も作られる。1972年に、「ヘンリー8世と6人の妻」なる映画が作られました。私は観たことないんですが..... この映画のサントラを担当したのが、古楽黎明期の第一人者の一人であったデビッド・マンロウ。1942年生、1976年に亡くなりましたが、もし彼が健在であったら、古楽演奏の歴史は少なからず変わっていたと思います。
マンロウの面白い所は、その活動の中心が、バロック以前の音楽に集中していたことでしょう。彼の活動の原点となったエピソードの一つに、学生時代、師の研究室に飾ってあった古い管楽器を見て、「あれはどんな音が出るのだろう?あれで演奏された音楽とはどのようなものなのだろう?」と考えたのがこの世界に足を踏み入れたきっかけになった、というのがあります。
正直、多くの古楽器演奏、ピリオド演奏というのは、そのセンターフィールドをバロック以降に置いています。特にこの15年くらいは、バロックから古典派、場合によってはロマン派までを中心に置いています。意地の悪い言い方をするなら、これらは、「研究が可能な音楽」なのですね。研究して新発見を為したり、奏法を追究したり、ということが可能な世界。一方、それ以前の音楽となると、途端に体系的な演奏が減ります。マンロウ以外ではアルフレッド・デラーによるデラー・コンソートの活動が主でしょうか。最近でもそうした時代の音楽は演奏されるようになってきましたが、やはりまだまだ馴染みが浅い。未だに、バロック以前の音楽を聴く場合、マンロウの一連の仕事は数少ないまとまった録音と言えるのです。
で、マンロウが楽しいのは、やはり「これってどんな音楽なんだろ?」という好奇心が中心にあることなのですね。そいっちゃなんですが、最近の多くの古楽演奏家、団体は、この核となるべき好奇心が無いんですよね。
好奇心旺盛のマンロウは、なので、結構アバウトでもあります。実はこのCDに収録されている音楽、多くはマンロウ編曲によるもの。要は、ヘンリ8世の時代に書かれた音楽を適当な編成に編曲したもの。そして、残りは、実はマンロウが作曲したものなんですね。思わずおいおいと突っ込みたくなるところですが、実際聞いてみると、結構それっぽく出来ているのです。勿論、70年代といえど、そこはそれ映画音楽ですから、相応に外連味はあるのですが、言われないとなかなかそうとは思えない。
勿論、邪道と言えば邪道でしょうね。でも、面白いのですよ、このCD。幾らそれっぽい作り物でも、ここには、古楽を知り尽くそうとする若い音楽家の好奇心が感じられます。決して一丁上がりの既製品ではないのです。大真面目にそれっぽい音楽を作っている。演奏にも手抜きはありません。リコーダーの響きがよく映えます。下手にそれっぽく考えられた演奏より面白いのですよ、これ。陽気な王様ヘンリーに似つかわしい音楽が前半だとすれば、後半はリコーダー大会にヴァージナルにリュートに、と、ダウランドらに当時書かれた音楽が、本編に劣らず耳を楽しませてくれます。
若くして古楽研究を進めながら、あくまで好奇心は失わなかったマンロウ。70年代でありながら堂々TESTAMENTに登場するあたり、この人の、特に英国での人気が決して失われていないのだな、と思います。
ちなみに、演奏のThe Early Music Consort of Londonには、ハープシコード奏者としてクリストファー・ホグウッドの名前も見られます。マンロウ、生きていれば65歳。まだまだいろいろやれる歳だのに。残念です。
music arranged and composed by David Munrow
The Early Music Consort of London
David Munrow (directed by)
TESTAMENT SBT1250
[関連したBlog]
先日に引き続き、またしてもイングランドの古楽ネタです。いや、これを古楽というなら、なんですが。一応。
ヘンリー8世にまつわる音楽、みたいなのは以前にも書いたのですが、こちらは古楽黎明期の雄、デビッド・マンロウが映画のサウンドトラックとして制作したもの。それがTESTAMENTで出て来るあたりが面白いんですけどね。
16世紀のイングランドは、王権争いである薔薇戦争で、最後の最後に陰険と名高いリチャード3世を、肖像画で見るからに数倍陰気で陰険そうなヘンリ7世が倒して、王権が安定します。血で血を洗う抗争を親父の代で終わらせた後に出たのがヘンリ8世。6人の妻を持ち、離婚する為にカソリックから分離したという、ファンキーと言うかファッッキンと言うか、まぁなかなかの御仁です。結構治世は大荒れだったようですが、戦争はなかったので、下々はそれほどとばっちりは食わなかったようですが。ちなみに彼の「私生児」が誰あろうエリザベス一世。シェークスピアのおかげもあって、この辺の歴史は英国でも結構人気のある時代です。日本で言えば戦国時代ですかね。
で、人気があるのでTVドラマにもなるし、映画も作られる。1972年に、「ヘンリー8世と6人の妻」なる映画が作られました。私は観たことないんですが..... この映画のサントラを担当したのが、古楽黎明期の第一人者の一人であったデビッド・マンロウ。1942年生、1976年に亡くなりましたが、もし彼が健在であったら、古楽演奏の歴史は少なからず変わっていたと思います。
マンロウの面白い所は、その活動の中心が、バロック以前の音楽に集中していたことでしょう。彼の活動の原点となったエピソードの一つに、学生時代、師の研究室に飾ってあった古い管楽器を見て、「あれはどんな音が出るのだろう?あれで演奏された音楽とはどのようなものなのだろう?」と考えたのがこの世界に足を踏み入れたきっかけになった、というのがあります。
正直、多くの古楽器演奏、ピリオド演奏というのは、そのセンターフィールドをバロック以降に置いています。特にこの15年くらいは、バロックから古典派、場合によってはロマン派までを中心に置いています。意地の悪い言い方をするなら、これらは、「研究が可能な音楽」なのですね。研究して新発見を為したり、奏法を追究したり、ということが可能な世界。一方、それ以前の音楽となると、途端に体系的な演奏が減ります。マンロウ以外ではアルフレッド・デラーによるデラー・コンソートの活動が主でしょうか。最近でもそうした時代の音楽は演奏されるようになってきましたが、やはりまだまだ馴染みが浅い。未だに、バロック以前の音楽を聴く場合、マンロウの一連の仕事は数少ないまとまった録音と言えるのです。
で、マンロウが楽しいのは、やはり「これってどんな音楽なんだろ?」という好奇心が中心にあることなのですね。そいっちゃなんですが、最近の多くの古楽演奏家、団体は、この核となるべき好奇心が無いんですよね。
好奇心旺盛のマンロウは、なので、結構アバウトでもあります。実はこのCDに収録されている音楽、多くはマンロウ編曲によるもの。要は、ヘンリ8世の時代に書かれた音楽を適当な編成に編曲したもの。そして、残りは、実はマンロウが作曲したものなんですね。思わずおいおいと突っ込みたくなるところですが、実際聞いてみると、結構それっぽく出来ているのです。勿論、70年代といえど、そこはそれ映画音楽ですから、相応に外連味はあるのですが、言われないとなかなかそうとは思えない。
勿論、邪道と言えば邪道でしょうね。でも、面白いのですよ、このCD。幾らそれっぽい作り物でも、ここには、古楽を知り尽くそうとする若い音楽家の好奇心が感じられます。決して一丁上がりの既製品ではないのです。大真面目にそれっぽい音楽を作っている。演奏にも手抜きはありません。リコーダーの響きがよく映えます。下手にそれっぽく考えられた演奏より面白いのですよ、これ。陽気な王様ヘンリーに似つかわしい音楽が前半だとすれば、後半はリコーダー大会にヴァージナルにリュートに、と、ダウランドらに当時書かれた音楽が、本編に劣らず耳を楽しませてくれます。
若くして古楽研究を進めながら、あくまで好奇心は失わなかったマンロウ。70年代でありながら堂々TESTAMENTに登場するあたり、この人の、特に英国での人気が決して失われていないのだな、と思います。
ちなみに、演奏のThe Early Music Consort of Londonには、ハープシコード奏者としてクリストファー・ホグウッドの名前も見られます。マンロウ、生きていれば65歳。まだまだいろいろやれる歳だのに。残念です。
2007/10/21のBlog
[ 22:02 ]
[ 歌曲 ]
G.Mahler : Kindertotenlieder / Lieder eines fahrenden Gesellen /
Fuenf lieder nach F.Rueckert(*) / Vier lieder aus "Die Knaben Wunderhorn" (#)
Siegfried Lorenz (bariton)
Gewandhausorchester Leipzig / Kurt Masur (conduct)
Berliner Sinfonie-Orchester / Guenter Herbig (conduct)(*)
Staatskapelle Berlin / Otmar Suitner (conduct)(#)
BERLIN Classics 0185872BC
マーラーは、管弦楽伴奏歌曲を結構書いています。さすらう若人の歌、亡き子を偲ぶ歌、子供の不思議な角笛、その他に特に連作とせずに書かれているものなど。その中でも、実はあまり聞く機会が多くないのが、亡き子を偲ぶ歌です。
録音数など見ると、決して少ない訳ではないのですが、実演があまり多くは無いのではないかなと。まぁ、内容的にも躊躇してしまう面はあると思いますし。日本語では「亡き子を偲ぶ歌」としていて、それは内容的には間違いではないけれど、原題は"Kindertotenlieder"、直訳すれば「子供の死の歌」。ちょっとざらりとした感じがあります。録音では、キャスリーン・フェリアーのものが名高いですが、本当は詩の内容的には父親なので、男声で歌われるのが本筋です。
この曲、リュッケルトの詩に作曲したものですが、この曲には逸話があります。これを作曲した当時、マーラーは娘を設けていましたが、妻のアルマ・マーラーによれば、幸せに暮らしている家族がいながら、どうしてこうも不吉な歌を書けるものか、悪い予感がする、と厭がったそうです。事実、この数年後にこの夫婦は娘を亡くします。まぁ、アルマの回想がどこまで本当かは分かりませんし、エキセントリックな人であるのも事実ではありますが、気持ちは分かります。
実際、この曲はかなり、なんというか、心の肌触り(?)の悪い曲だと思います。詩そのものからして、のっけから昨夜我が子を失ったという情景から入りますから、もう既に救い様がないのですが、第一曲、哀し気な木管の独奏が寂寥感をいや増すのです。以下、第5曲だけは感情の激しさを反映するかのような嵐の描写から、あたかも救いを齎すかのような平穏な音楽へと収斂して行きますが、そこまでは、基本的に不協和音を交えたざらついた喪失感に満ちた音楽です。いや、正直、これはしんどいですよ。
さすらう若人の歌と比べると、より直接的な感情の起伏に満ちた「さすらう若人」とは随分違います。こちらでは、最終曲、菩提樹の下での眠りに救いを見出しつつ、最後は和声の解決を見ないままに中途半端に終わらせたマーラーも、さすがに「亡き子」では、和声解決を図って、最後は救いを感じさせて終わらせています。失恋は洒落にもなるが、子供を亡くすのは洒落にならない、ってことでしょうかね。
歌うはジークフリート・ローレンツ。管弦楽はクルト・マズア指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管。旧ドイツ・シャルプラッテンの流れを汲むBERLIN Classicsらしい一枚です。ローレンツの録音はなかなか宜しいです。あまり芝居っ気の強くない録音ですが、こういうのも悪くない。元々マーラーの歌曲は身振りも大きいし、歌によっては、時々シニカルに過ぎてどう落としていいのか分からなくなることもあるくらいですから、却って抑え気味に歌われるのもいいように思います。
ここでは、「亡き子を偲ぶ歌」の他に、「さすらう若人の歌」、リュッケルトの詩による5つの歌曲、加えて「子供の不思議な角笛」から4曲が収録されています。リュッケルト歌曲は歌曲集の世界とは少々違って、言ってみれば耽美派の世界でありましょうか。より贅肉を削ぎ落とした感じで、歌曲としては、こちらの方が完成度は高いと言うべきなのかな?ちなみにこちらは、ベルリン交響楽団、指揮はギュンター・ヘルビッヒ。
Fuenf lieder nach F.Rueckert(*) / Vier lieder aus "Die Knaben Wunderhorn" (#)
Siegfried Lorenz (bariton)
Gewandhausorchester Leipzig / Kurt Masur (conduct)
Berliner Sinfonie-Orchester / Guenter Herbig (conduct)(*)
Staatskapelle Berlin / Otmar Suitner (conduct)(#)
BERLIN Classics 0185872BC
マーラーは、管弦楽伴奏歌曲を結構書いています。さすらう若人の歌、亡き子を偲ぶ歌、子供の不思議な角笛、その他に特に連作とせずに書かれているものなど。その中でも、実はあまり聞く機会が多くないのが、亡き子を偲ぶ歌です。
録音数など見ると、決して少ない訳ではないのですが、実演があまり多くは無いのではないかなと。まぁ、内容的にも躊躇してしまう面はあると思いますし。日本語では「亡き子を偲ぶ歌」としていて、それは内容的には間違いではないけれど、原題は"Kindertotenlieder"、直訳すれば「子供の死の歌」。ちょっとざらりとした感じがあります。録音では、キャスリーン・フェリアーのものが名高いですが、本当は詩の内容的には父親なので、男声で歌われるのが本筋です。
この曲、リュッケルトの詩に作曲したものですが、この曲には逸話があります。これを作曲した当時、マーラーは娘を設けていましたが、妻のアルマ・マーラーによれば、幸せに暮らしている家族がいながら、どうしてこうも不吉な歌を書けるものか、悪い予感がする、と厭がったそうです。事実、この数年後にこの夫婦は娘を亡くします。まぁ、アルマの回想がどこまで本当かは分かりませんし、エキセントリックな人であるのも事実ではありますが、気持ちは分かります。
実際、この曲はかなり、なんというか、心の肌触り(?)の悪い曲だと思います。詩そのものからして、のっけから昨夜我が子を失ったという情景から入りますから、もう既に救い様がないのですが、第一曲、哀し気な木管の独奏が寂寥感をいや増すのです。以下、第5曲だけは感情の激しさを反映するかのような嵐の描写から、あたかも救いを齎すかのような平穏な音楽へと収斂して行きますが、そこまでは、基本的に不協和音を交えたざらついた喪失感に満ちた音楽です。いや、正直、これはしんどいですよ。
さすらう若人の歌と比べると、より直接的な感情の起伏に満ちた「さすらう若人」とは随分違います。こちらでは、最終曲、菩提樹の下での眠りに救いを見出しつつ、最後は和声の解決を見ないままに中途半端に終わらせたマーラーも、さすがに「亡き子」では、和声解決を図って、最後は救いを感じさせて終わらせています。失恋は洒落にもなるが、子供を亡くすのは洒落にならない、ってことでしょうかね。
歌うはジークフリート・ローレンツ。管弦楽はクルト・マズア指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管。旧ドイツ・シャルプラッテンの流れを汲むBERLIN Classicsらしい一枚です。ローレンツの録音はなかなか宜しいです。あまり芝居っ気の強くない録音ですが、こういうのも悪くない。元々マーラーの歌曲は身振りも大きいし、歌によっては、時々シニカルに過ぎてどう落としていいのか分からなくなることもあるくらいですから、却って抑え気味に歌われるのもいいように思います。
ここでは、「亡き子を偲ぶ歌」の他に、「さすらう若人の歌」、リュッケルトの詩による5つの歌曲、加えて「子供の不思議な角笛」から4曲が収録されています。リュッケルト歌曲は歌曲集の世界とは少々違って、言ってみれば耽美派の世界でありましょうか。より贅肉を削ぎ落とした感じで、歌曲としては、こちらの方が完成度は高いと言うべきなのかな?ちなみにこちらは、ベルリン交響楽団、指揮はギュンター・ヘルビッヒ。
2007/10/20のBlog
[ 14:16 ]
[ クラシック ]
English Chamber music of the 17th Century
Trio Sonnerie
Stephen Stubbs (theorbo & baroque guitar)
Andrew Lawrence-King (harp & organ)
Teldec/Warner 0927 49976 2
風邪っぴきでほぼ先週一杯死んでおりました。仕事休んだのは1日だけだけど、まぁ仕事してても本調子じゃないですよね。正直。
この記事も、途中書きかけで放っておいてました。やれやれ。
例によって行き当たりばったりで聞いている古楽系のCDです。今回は、Warner系の廉価盤シリーズから。
「17世紀のイングランド室内楽」という、まぁ素っ気ないと言えば素っ気ないタイトルです。実は、17世紀のイングランドというのは、激動の時代です。
17世紀のイングランドは、1603年にエリザベス女王が亡くなり、以後激動の歴史を歩みます。女王の指名によりスコットランド王ジェームズ5世がイングランド王ジェームズ1世として即位。その後継のチャールズ1世の治世下でピューリタン革命勃発、1649年にはチャールズ1世は処刑されます。クロムウェル治世下ではカトリックが弾圧され、西欧の文化の種でもあった修道院が閉鎖・破壊に追い込まれ、教会音楽も厳しく制限され、一般の歌舞音曲など目の敵にされる時代です。クロムウェルの死後、1660年に王政復古でチャールズ2世が即位しますが、その子ジェームズ2世はカトリックの性急な復興を図って議会と対立、ついに1688年名誉革命によって王位を追われ、翌年オランダ総督ウィリアムと妻メアリーがそれぞれウィリアム3世、メアリ2世として即位します。英国史はおろか、西洋各国史の中でも珍しい激動の時代です。2度も革命で王を退位させてるわけですし、宗教的にもめまぐるしく力関係が変わった時期です。当然文化的にも大きな影響があったのは間違いないでしょう。
カトリックとほぼ訣別し、国教会体制が整っていった英国では、独自の宗教音楽文化が出来てしまったのが一つ。中欧やフランスでオペラなどの音楽が生まれていった時期、英国は内戦やらでとてもじゃないがそれどころではなかったのが第二。加えてピューリタン革命を挟んで、享楽的文化としての音楽が断絶した時期があるのが第三。もっとも、この時期経済的にも政治的にも頑張って一足早い安定を得た18世紀イングランドは、音楽の一大消費者として現れる訳ですが、まぁそれはまた別の話。
時期的には、ルネッサンスからバロックへの過渡期となるわけです。取り上げられている作曲家は、作曲家不詳を除くと以下の通り。
・Thomas Baltzar (1630-1663)
・Johann Schop (?-1667)
・Nicola Matteis (late 1670s-1749)
・William Brade (1560-1630)
・William Lawes (1602-1645)
・Christopher Simpson (1605-1669)
・John Jenkins (1592-1678)
・William Byrd (1543-1623)
・Michel Farinel (1649-?)
この中で知っているのはバードくらいのもの。やっぱりね、この分野ってマイナーだと思います。
編成は色々。オルガンを通奏低音に使っている曲が多いのは、この演奏集団の選択にもよるのでしょう。概ね、弦楽器、ヴァイオリンを中心に、ギターやテオルボ、オルガン、ハープなどがそれぞれに組み合わされている感じです。編成も曲のスタイルも区々ですが、舞曲系の曲が多いのは、ヴァージナル曲として16世紀から流行していた名残でしょうか。
このくらいになると、もう、興味の持ち方が「どういう曲があるんだろう?」から始まってしまうので、いわゆる古楽系がどうのという話でなくなってきます。いや、むしろ、「古楽」と言われると、私なんかはこういうのがイメージにしっくり来るんですけどね。ありきたりな言い方ですが、「典雅」っていうのはこういう音楽のことかなぁ、という感じ。全体にゆったり目のテンポ。勿論曲により緩急はありますけどね。
演奏がいいのか悪いのか、というのはよく分かりませんが、気持ちよく聞けます。このくらい「遠い」と、音楽自体をどうこう考える、という感じじゃなくなりますね。
演奏者のTrio Sonnerie、ライナーにも格別情報はありません。1992年12月、UKのサフォークでの録音、とありますので、恐らくはUKの古楽アンサンブルの一つなのでしょう。イングランドの12月は、空が既に寒そうだな、と思います。「寒い国から帰って来たスパイ」というのがジョン・ル・カレの小説にありましたが、あの「寒い国」はロシアだか東ドイツだったと思うのだけど、どうしてどうして、イングランドも気候的にはとても心を寒くさせる国だな、と思ったりするのです。そこへいくと、このCDに入っている音楽のイメージとはちょっと違うな、とも思ったりするのですけれどね。
Trio Sonnerie
Stephen Stubbs (theorbo & baroque guitar)
Andrew Lawrence-King (harp & organ)
Teldec/Warner 0927 49976 2
風邪っぴきでほぼ先週一杯死んでおりました。仕事休んだのは1日だけだけど、まぁ仕事してても本調子じゃないですよね。正直。
この記事も、途中書きかけで放っておいてました。やれやれ。
例によって行き当たりばったりで聞いている古楽系のCDです。今回は、Warner系の廉価盤シリーズから。
「17世紀のイングランド室内楽」という、まぁ素っ気ないと言えば素っ気ないタイトルです。実は、17世紀のイングランドというのは、激動の時代です。
17世紀のイングランドは、1603年にエリザベス女王が亡くなり、以後激動の歴史を歩みます。女王の指名によりスコットランド王ジェームズ5世がイングランド王ジェームズ1世として即位。その後継のチャールズ1世の治世下でピューリタン革命勃発、1649年にはチャールズ1世は処刑されます。クロムウェル治世下ではカトリックが弾圧され、西欧の文化の種でもあった修道院が閉鎖・破壊に追い込まれ、教会音楽も厳しく制限され、一般の歌舞音曲など目の敵にされる時代です。クロムウェルの死後、1660年に王政復古でチャールズ2世が即位しますが、その子ジェームズ2世はカトリックの性急な復興を図って議会と対立、ついに1688年名誉革命によって王位を追われ、翌年オランダ総督ウィリアムと妻メアリーがそれぞれウィリアム3世、メアリ2世として即位します。英国史はおろか、西洋各国史の中でも珍しい激動の時代です。2度も革命で王を退位させてるわけですし、宗教的にもめまぐるしく力関係が変わった時期です。当然文化的にも大きな影響があったのは間違いないでしょう。
カトリックとほぼ訣別し、国教会体制が整っていった英国では、独自の宗教音楽文化が出来てしまったのが一つ。中欧やフランスでオペラなどの音楽が生まれていった時期、英国は内戦やらでとてもじゃないがそれどころではなかったのが第二。加えてピューリタン革命を挟んで、享楽的文化としての音楽が断絶した時期があるのが第三。もっとも、この時期経済的にも政治的にも頑張って一足早い安定を得た18世紀イングランドは、音楽の一大消費者として現れる訳ですが、まぁそれはまた別の話。
時期的には、ルネッサンスからバロックへの過渡期となるわけです。取り上げられている作曲家は、作曲家不詳を除くと以下の通り。
・Thomas Baltzar (1630-1663)
・Johann Schop (?-1667)
・Nicola Matteis (late 1670s-1749)
・William Brade (1560-1630)
・William Lawes (1602-1645)
・Christopher Simpson (1605-1669)
・John Jenkins (1592-1678)
・William Byrd (1543-1623)
・Michel Farinel (1649-?)
この中で知っているのはバードくらいのもの。やっぱりね、この分野ってマイナーだと思います。
編成は色々。オルガンを通奏低音に使っている曲が多いのは、この演奏集団の選択にもよるのでしょう。概ね、弦楽器、ヴァイオリンを中心に、ギターやテオルボ、オルガン、ハープなどがそれぞれに組み合わされている感じです。編成も曲のスタイルも区々ですが、舞曲系の曲が多いのは、ヴァージナル曲として16世紀から流行していた名残でしょうか。
このくらいになると、もう、興味の持ち方が「どういう曲があるんだろう?」から始まってしまうので、いわゆる古楽系がどうのという話でなくなってきます。いや、むしろ、「古楽」と言われると、私なんかはこういうのがイメージにしっくり来るんですけどね。ありきたりな言い方ですが、「典雅」っていうのはこういう音楽のことかなぁ、という感じ。全体にゆったり目のテンポ。勿論曲により緩急はありますけどね。
演奏がいいのか悪いのか、というのはよく分かりませんが、気持ちよく聞けます。このくらい「遠い」と、音楽自体をどうこう考える、という感じじゃなくなりますね。
演奏者のTrio Sonnerie、ライナーにも格別情報はありません。1992年12月、UKのサフォークでの録音、とありますので、恐らくはUKの古楽アンサンブルの一つなのでしょう。イングランドの12月は、空が既に寒そうだな、と思います。「寒い国から帰って来たスパイ」というのがジョン・ル・カレの小説にありましたが、あの「寒い国」はロシアだか東ドイツだったと思うのだけど、どうしてどうして、イングランドも気候的にはとても心を寒くさせる国だな、と思ったりするのです。そこへいくと、このCDに入っている音楽のイメージとはちょっと違うな、とも思ったりするのですけれどね。
2007/10/13のBlog
[ 02:24 ]
[ オペラ ]
ヴェルディ:運命の力
マリオ・デル=モナコ (tenor), エットーレ・バスティアニーニ (bariton), レナータ・テバルディ (soprano), チェーザレ・シエピ (bass) etc.
ローマ聖チェチーリア音楽院合唱団、管弦楽団
フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ (conduct)
LODON/ポリドール POCL-2399/401
実は10月10日はヴェルディの誕生日だったんだそうです。ヴェルディっつっても私じゃないっすよ。言わすと知れた本家本元(?)、ジュゼッペ・ヴェルディの19ン回目の誕生日なんだそうです。そうか、後数年もすれば、ヴェルディ生誕200年になってしまうんですね。
とか言ってる私は正直結構誕生日とかには無頓着です。自分の誕生日も、この歳になると別段こだわらないし、その分他人の誕生日も覚えません。付き合いの悪い奴です(苦笑)にも関わらずヴェルディの誕生日を何故知ってるかというと、なんのことはないラジオの特集で知ったのです。それも、翌日の再放送。やる気の無さが滲み出てます。
で、ラジオでヴェルディ特集を楽しく聴いた訳ですが、ちょっと選盤がねぇ。何故かムーティ盤ばかり掛けるのです。いや、確かに、ムーティは有名だし、演奏も決して悪くないし、録音も比較的新しいから放送向きだし。でもさぁ、「運命の力」でムーティ盤はないでしょう。「運命の力」第4幕から、っていう選択それ自体は大変結構。ついでに言うと、個人的には「運命の力」って言われるより、"La forza del destino" ってぇイタリア語読みの方が、語感的には武張った感じがあって、好きです。まそんなわけで、それはいいんだけど、それにしても4幕の二重唱がドミンゴとザンカナッロってのはどうなんだ。"Pace, Pace, mio Dio" がフレーニってのはある意味いいんだけど、一般的にはどうだ、とか。そりゃまぁ、ドミンゴにフレーニでスカラ座で、何せムーティでというのは分かるけど.............
でもまぁ、有り体に申せば、やはりムーティは歌向きじゃないよ、と思うのです。公平に言っていい指揮者だし、彼の「オペラ」は立派だけど、「歌」向きでは、ないなぁ。
というわけで、欲求不満解消の為今日聴いていたのがこのCD。べたべたですが、希代の名盤の一つ。いや、このCDをおかずにして1週間くらいblogが続きそうな録音であります。1950年代のデッカを象徴するような究極のキャスティング。デル=モナコとバスティアニーニの黄金コンビに、テバルディが絡むという豪華版。「脇」を固めるのがシミオナートにシエピ。端役のフラ・メリトーネを歌うのがフェルナンド・コレナ。このキャスティングの誰でも、いずれかのオペラで主役が張れます。ちなみに、ここでもピエロ・デ・パルマは行商人役で登場。
もっとも、今日聞いていたのは専ら第4幕。或いは第1幕をプロローグとすれば第3幕でしょうか。緊迫したデル=モナコとバスティアニーニのやり取りから、テバルディの "Pace" 。これがいいんですよね。正直に言うと、テバルディはそれほど「好き」というわけではありませんが、聴けばやはりいいんですよね。声量もあるけど、その豊かな声量を活かしてフレージングが自在なのがとても音楽的。
他方、無条件に「好き」というのが、「黄金のトランペット」マリオ・デル=モナコと、エットーレ・バスティアニーニ。やはりヴェルディにはバスティアニーニは欠かせません。デル=モナコとの共演では、黄金のトランペットだけど輝かしいばっかりじゃ飽きるよね、という勝手な気持ちを見透かすかのように蔭のある役を見事に演じてこれまた素晴らしいのです。そう言っちゃなんですが、やはりデル=モナコはバスティアニーニと組むと互いに役が引き立つ感じです。第3幕での言わば「偽りの二重唱」もいいんですよね。
流石に録音は古いです。と書いてて驚いてしまうのですが、この録音、1955年のもの。つまり半世紀以上前です。でも、さほどの違和感無く楽しめます。この辺がストレスの溜まらない録音の年限ギリギリじゃないでしょうか。まぁ、オーケストラの録音はちょっとしょぼいですが、まぁ文句は言えません。モリナーリ=プラデッリ指揮、ローマ・サンタ・チェチーリア管。デッカのイタリアオペラでは時々見る名前です。それはまぁ、スカラ座管の方が見栄えはしますけど。
でもまぁ、録音がどうしたとか、見栄えがどうしたとか言ってみても、事実ここに記録された「声」はそんなことお構い無し。この見ようによっては一種の蛮勇さこそ、ここに記録されたヴェルディの音楽の魅力をよく伝えてくれるのであります。
マリオ・デル=モナコ (tenor), エットーレ・バスティアニーニ (bariton), レナータ・テバルディ (soprano), チェーザレ・シエピ (bass) etc.
ローマ聖チェチーリア音楽院合唱団、管弦楽団
フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ (conduct)
LODON/ポリドール POCL-2399/401
実は10月10日はヴェルディの誕生日だったんだそうです。ヴェルディっつっても私じゃないっすよ。言わすと知れた本家本元(?)、ジュゼッペ・ヴェルディの19ン回目の誕生日なんだそうです。そうか、後数年もすれば、ヴェルディ生誕200年になってしまうんですね。
とか言ってる私は正直結構誕生日とかには無頓着です。自分の誕生日も、この歳になると別段こだわらないし、その分他人の誕生日も覚えません。付き合いの悪い奴です(苦笑)にも関わらずヴェルディの誕生日を何故知ってるかというと、なんのことはないラジオの特集で知ったのです。それも、翌日の再放送。やる気の無さが滲み出てます。
で、ラジオでヴェルディ特集を楽しく聴いた訳ですが、ちょっと選盤がねぇ。何故かムーティ盤ばかり掛けるのです。いや、確かに、ムーティは有名だし、演奏も決して悪くないし、録音も比較的新しいから放送向きだし。でもさぁ、「運命の力」でムーティ盤はないでしょう。「運命の力」第4幕から、っていう選択それ自体は大変結構。ついでに言うと、個人的には「運命の力」って言われるより、"La forza del destino" ってぇイタリア語読みの方が、語感的には武張った感じがあって、好きです。まそんなわけで、それはいいんだけど、それにしても4幕の二重唱がドミンゴとザンカナッロってのはどうなんだ。"Pace, Pace, mio Dio" がフレーニってのはある意味いいんだけど、一般的にはどうだ、とか。そりゃまぁ、ドミンゴにフレーニでスカラ座で、何せムーティでというのは分かるけど.............
でもまぁ、有り体に申せば、やはりムーティは歌向きじゃないよ、と思うのです。公平に言っていい指揮者だし、彼の「オペラ」は立派だけど、「歌」向きでは、ないなぁ。
というわけで、欲求不満解消の為今日聴いていたのがこのCD。べたべたですが、希代の名盤の一つ。いや、このCDをおかずにして1週間くらいblogが続きそうな録音であります。1950年代のデッカを象徴するような究極のキャスティング。デル=モナコとバスティアニーニの黄金コンビに、テバルディが絡むという豪華版。「脇」を固めるのがシミオナートにシエピ。端役のフラ・メリトーネを歌うのがフェルナンド・コレナ。このキャスティングの誰でも、いずれかのオペラで主役が張れます。ちなみに、ここでもピエロ・デ・パルマは行商人役で登場。
もっとも、今日聞いていたのは専ら第4幕。或いは第1幕をプロローグとすれば第3幕でしょうか。緊迫したデル=モナコとバスティアニーニのやり取りから、テバルディの "Pace" 。これがいいんですよね。正直に言うと、テバルディはそれほど「好き」というわけではありませんが、聴けばやはりいいんですよね。声量もあるけど、その豊かな声量を活かしてフレージングが自在なのがとても音楽的。
他方、無条件に「好き」というのが、「黄金のトランペット」マリオ・デル=モナコと、エットーレ・バスティアニーニ。やはりヴェルディにはバスティアニーニは欠かせません。デル=モナコとの共演では、黄金のトランペットだけど輝かしいばっかりじゃ飽きるよね、という勝手な気持ちを見透かすかのように蔭のある役を見事に演じてこれまた素晴らしいのです。そう言っちゃなんですが、やはりデル=モナコはバスティアニーニと組むと互いに役が引き立つ感じです。第3幕での言わば「偽りの二重唱」もいいんですよね。
流石に録音は古いです。と書いてて驚いてしまうのですが、この録音、1955年のもの。つまり半世紀以上前です。でも、さほどの違和感無く楽しめます。この辺がストレスの溜まらない録音の年限ギリギリじゃないでしょうか。まぁ、オーケストラの録音はちょっとしょぼいですが、まぁ文句は言えません。モリナーリ=プラデッリ指揮、ローマ・サンタ・チェチーリア管。デッカのイタリアオペラでは時々見る名前です。それはまぁ、スカラ座管の方が見栄えはしますけど。
でもまぁ、録音がどうしたとか、見栄えがどうしたとか言ってみても、事実ここに記録された「声」はそんなことお構い無し。この見ようによっては一種の蛮勇さこそ、ここに記録されたヴェルディの音楽の魅力をよく伝えてくれるのであります。
2007/10/11のBlog
[ 01:47 ]
[ 歌曲 ]
Elizabeth Schwarzkopf - Aix en Provence 1954
Elisabeth Schwarzkopf (soprano)
Hans Rosbaud (piano)
INA IMV067
世間様の標準的アクセス数にはほど遠いこのblogも、気が付けばいつの間にやら5万アクセス目前であります。一昨年の6月から2年半足らずということになります。これも検索ロボット様のおかげ......ってネタ、前にも使ったな....... ともあれ、人間の皆様には、毎度お運び頂き有り難う御座いますです。
記念の5万アクセス目を踏んでも、なーんにも出ません。淡々と過ぎ行くのみであります。目指せ、coolなblog...........?
エリザベート・シュワルツコップの、1954年、エクス・アン・プロヴァンス(エクサン・プロヴァンスという発音が正しいと思いますが、それじゃ字面的にはピンと来ないので)音楽祭でのライブ録音です。7月24日。エクス・アン・プロヴァンス音楽祭、行ったことはないですが、音楽祭の古さでは相当なものではないかなと思います。
録音時間は詰め込みに詰め込んで、79分54秒。本来のCDの仕様は64分とかで、それを74分で最大限使ってるというところ、80分までは一応出来るみたいですが、ギリギリ一杯ですね。約80分というのは、リサイタル一晩分に相当すると考えていいと思います。40分やって20分休憩、残り40分とすれば、やや短めですがおかしくはない。実際にはこのCDに入っている以上に拍手とか曲間とかで時間取りますからね。曲数は26曲。結構頑張ってます。
実際、この録音というかリサイタル、バラエティに富んでます。このリサイタルのポスターの写真がライナーに載っているのですが、本当に25曲プログラムに載ってます。最後の一曲はアンコール。開始時刻は21時ですから、終わったのは23時頃でしょう。幾ら真夏とはいえ、御苦労様です。。。。。
バッハ、グルック、ベートーヴェン、モーツァルトを2曲、ペルゴレージ、ヘンデル、マルティーニ(というより「愛の喜び」)、シューベルトを5曲(「シルヴィアに」や水車屋から一曲、など)、シューマンを2曲(「くるみの木」!)、ブラームスを2曲、ヴォルフを8曲。最後に、アンコールとしてスイスの民謡。聞きごたえがありますし、結構いい曲が取り上げられてます。
この年シュワルツコップは39歳。歌手としては若いとも言えるし、そろそろ円熟期という考え方も出来る頃です。シュワルツコップの録音は、この頃より後のものの方が多いと思いますし、実際のイメージもそんな感じではないかと思いますが、ここでのシュワルツコップは、当たり前ですが、若い!
面白いのは、それなのに、後々彼女の愛唱歌とも言える曲が既に入っていたり(ブラームスの民謡編曲「谷の底の方では」やバッハの「御身が側に居られるなら」)、彼女の十八番とも言えるヴォルフが入っていたりすること。ヴォルフは後半のメインですね、明らかに。その一方では、これほどバリエーションに富んだレパートリーを用意しているし。
それと、若かりし頃の彼女の声が存外艶っぽいのです。シュワルツコップというとちょっとイメージが違うようですが、マルティーニの「愛の喜び」など、ちょっと「あれ?」と思うくらいの艶っぽさがあります。
個人的には、大好きな「くるみの木」を歌ってくれているのが嬉しいです。
音質は、放送向け録音からなので、音は公平に言ってこの年代のライブものとしてはいいですが、モノラルだし、やはり限界はあります。でもまぁ、聞く分には十分楽しめます。たまにはこういうの聴くと楽しいですね。
Elisabeth Schwarzkopf (soprano)
Hans Rosbaud (piano)
INA IMV067
世間様の標準的アクセス数にはほど遠いこのblogも、気が付けばいつの間にやら5万アクセス目前であります。一昨年の6月から2年半足らずということになります。これも検索ロボット様のおかげ......ってネタ、前にも使ったな....... ともあれ、人間の皆様には、毎度お運び頂き有り難う御座いますです。
記念の5万アクセス目を踏んでも、なーんにも出ません。淡々と過ぎ行くのみであります。目指せ、coolなblog...........?
エリザベート・シュワルツコップの、1954年、エクス・アン・プロヴァンス(エクサン・プロヴァンスという発音が正しいと思いますが、それじゃ字面的にはピンと来ないので)音楽祭でのライブ録音です。7月24日。エクス・アン・プロヴァンス音楽祭、行ったことはないですが、音楽祭の古さでは相当なものではないかなと思います。
録音時間は詰め込みに詰め込んで、79分54秒。本来のCDの仕様は64分とかで、それを74分で最大限使ってるというところ、80分までは一応出来るみたいですが、ギリギリ一杯ですね。約80分というのは、リサイタル一晩分に相当すると考えていいと思います。40分やって20分休憩、残り40分とすれば、やや短めですがおかしくはない。実際にはこのCDに入っている以上に拍手とか曲間とかで時間取りますからね。曲数は26曲。結構頑張ってます。
実際、この録音というかリサイタル、バラエティに富んでます。このリサイタルのポスターの写真がライナーに載っているのですが、本当に25曲プログラムに載ってます。最後の一曲はアンコール。開始時刻は21時ですから、終わったのは23時頃でしょう。幾ら真夏とはいえ、御苦労様です。。。。。
バッハ、グルック、ベートーヴェン、モーツァルトを2曲、ペルゴレージ、ヘンデル、マルティーニ(というより「愛の喜び」)、シューベルトを5曲(「シルヴィアに」や水車屋から一曲、など)、シューマンを2曲(「くるみの木」!)、ブラームスを2曲、ヴォルフを8曲。最後に、アンコールとしてスイスの民謡。聞きごたえがありますし、結構いい曲が取り上げられてます。
この年シュワルツコップは39歳。歌手としては若いとも言えるし、そろそろ円熟期という考え方も出来る頃です。シュワルツコップの録音は、この頃より後のものの方が多いと思いますし、実際のイメージもそんな感じではないかと思いますが、ここでのシュワルツコップは、当たり前ですが、若い!
面白いのは、それなのに、後々彼女の愛唱歌とも言える曲が既に入っていたり(ブラームスの民謡編曲「谷の底の方では」やバッハの「御身が側に居られるなら」)、彼女の十八番とも言えるヴォルフが入っていたりすること。ヴォルフは後半のメインですね、明らかに。その一方では、これほどバリエーションに富んだレパートリーを用意しているし。
それと、若かりし頃の彼女の声が存外艶っぽいのです。シュワルツコップというとちょっとイメージが違うようですが、マルティーニの「愛の喜び」など、ちょっと「あれ?」と思うくらいの艶っぽさがあります。
個人的には、大好きな「くるみの木」を歌ってくれているのが嬉しいです。
音質は、放送向け録音からなので、音は公平に言ってこの年代のライブものとしてはいいですが、モノラルだし、やはり限界はあります。でもまぁ、聞く分には十分楽しめます。たまにはこういうの聴くと楽しいですね。
2007/10/09のBlog
[ 00:14 ]
[ クラシック ]
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」 / 第14番
カルミナ弦楽四重奏団
DENON COCO-70849
先日、弦楽四重奏のコンサートを聞いて、色々ありまして、結局「アメリカ」のCDが聞きたいなー、と思って掛けたのがこのCDです。素直にスメタナ四重奏団とかプラジャーク四重奏団とか持ってくればいいものを、わざわざこれを持って来る所が我ながらあまのじゃくというかなんというか........
カルミナ四重奏団。1984年に結成されたカルテットで、この録音は1997年のもの。期待の新星、ということだったようです。解説では評論家が褒めちぎってますが..........
うーん。
上手いんですけどね、歌ってるんですけどね。で、楽器の音も綺麗でいいんですけどね。なーんちゅーかなぁ.............
まとまってること、正しいこと、あるべき要素をきちんと配して組み上がっていること、という点に於いては、確かに立派なんです。でも、この演奏を聞いていると、ちょっと物足りないんですよね。というか、もっと言うと、つまらないのです。
同じ曲でもあれやこれやの演奏を聞く理由は、簡単に言えば「違うものを欲する」からです。勿論良し悪しや好き嫌いはあるけれど、そこの「違い」が無ければ、わざわざ違えて聞く意味が無い。
でも、この「違い」というのは、単なる「差異」という風にも割り切れない。それは、いわば「色」の違い、なのです。それぞれの演奏の持つ雰囲気、表情、表現、そうしたものの総体としての「色」。アバウトな話ではありますが、でも、やはりそういうものではあるのです。
例えばスメタナ四重奏団なら、幾つも録音はあるけれど、それぞれに、録音の質まで含めて、「色」がある。全体として、スメタナ四重奏団ならこうだろうな、という色の傾向がある。プラジャーク四重奏団ならプラジャークの、パノハ四重奏団ならパノハの、リンゼイ四重奏団ならリンゼイの、それぞれの色がある。
では、カルミナ四重奏団には?結論から言うと、「色」が無いのです。そんな感じなのです。「無色透明」ではありません。「無色透明」には、「色が無くて透明」という色がある。それすらないのです。
公平に言って、この演奏はかなりいい出来のものです。合奏は精密だし、構成も考えられている。それなりに歌ってるし、楽器の音色だって悪くない。
でも、この演奏、よく計算されていて、その計算通りに出来ているのだけど、その結果、全てが予想の範囲内に収まってしまう感じなのです。超高級ファミレスの料理。素材は吟味され、腕のいい料理人がレシピ通りに調理し、最高の状態でサーブされる。けれど、それは、非常に真っ当ではあるけれど、一回食べれば分かってしまう味。とても美味しいけれど、だから「困った時の対応策」にはなるけど、でも、それだけ。それ以上には決してならない予感がある。是非もう一度、の「是非」が絶対付かないのです。
発見が無いのです。平たく言えば。一度聞けばこの曲がどういう曲か大体分かってしまう。分かってしまうのです。だから、何度も聞く必要が無い。
今の演奏家は、正しいこと、ある程度まとまりよくすること、を求められる傾向が強いと思います。それが全般的傾向。この演奏は、それを突き詰めて行った結果だと思います。だから、大変優れた演奏ではある。でも、この演奏からは、例えばスメタナ四重奏団が聞かせてくれた、楽器特有の音色、響きを楽しむ、という聞き方は出来ないし、プラジャーク四重奏団がやってくれたような恐るべき歌を引き出してくれる予感も無い。厳しいけれど、正しく、まとまりよく、の先が無ければ、聞く側はつまらないのです。それを理知的な面に求めている風もあるのかも知れないけれど、それにしては突き詰めたものが無い。それでは、わざわざこれを聞く理由がないのです。これをこそ真のスタンダード、と考える手もありますが、それを言うにはやはり何か足りない。完成してしまって
カルミナ弦楽四重奏団
DENON COCO-70849
先日、弦楽四重奏のコンサートを聞いて、色々ありまして、結局「アメリカ」のCDが聞きたいなー、と思って掛けたのがこのCDです。素直にスメタナ四重奏団とかプラジャーク四重奏団とか持ってくればいいものを、わざわざこれを持って来る所が我ながらあまのじゃくというかなんというか........
カルミナ四重奏団。1984年に結成されたカルテットで、この録音は1997年のもの。期待の新星、ということだったようです。解説では評論家が褒めちぎってますが..........
うーん。
上手いんですけどね、歌ってるんですけどね。で、楽器の音も綺麗でいいんですけどね。なーんちゅーかなぁ.............
まとまってること、正しいこと、あるべき要素をきちんと配して組み上がっていること、という点に於いては、確かに立派なんです。でも、この演奏を聞いていると、ちょっと物足りないんですよね。というか、もっと言うと、つまらないのです。
同じ曲でもあれやこれやの演奏を聞く理由は、簡単に言えば「違うものを欲する」からです。勿論良し悪しや好き嫌いはあるけれど、そこの「違い」が無ければ、わざわざ違えて聞く意味が無い。
でも、この「違い」というのは、単なる「差異」という風にも割り切れない。それは、いわば「色」の違い、なのです。それぞれの演奏の持つ雰囲気、表情、表現、そうしたものの総体としての「色」。アバウトな話ではありますが、でも、やはりそういうものではあるのです。
例えばスメタナ四重奏団なら、幾つも録音はあるけれど、それぞれに、録音の質まで含めて、「色」がある。全体として、スメタナ四重奏団ならこうだろうな、という色の傾向がある。プラジャーク四重奏団ならプラジャークの、パノハ四重奏団ならパノハの、リンゼイ四重奏団ならリンゼイの、それぞれの色がある。
では、カルミナ四重奏団には?結論から言うと、「色」が無いのです。そんな感じなのです。「無色透明」ではありません。「無色透明」には、「色が無くて透明」という色がある。それすらないのです。
公平に言って、この演奏はかなりいい出来のものです。合奏は精密だし、構成も考えられている。それなりに歌ってるし、楽器の音色だって悪くない。
でも、この演奏、よく計算されていて、その計算通りに出来ているのだけど、その結果、全てが予想の範囲内に収まってしまう感じなのです。超高級ファミレスの料理。素材は吟味され、腕のいい料理人がレシピ通りに調理し、最高の状態でサーブされる。けれど、それは、非常に真っ当ではあるけれど、一回食べれば分かってしまう味。とても美味しいけれど、だから「困った時の対応策」にはなるけど、でも、それだけ。それ以上には決してならない予感がある。是非もう一度、の「是非」が絶対付かないのです。
発見が無いのです。平たく言えば。一度聞けばこの曲がどういう曲か大体分かってしまう。分かってしまうのです。だから、何度も聞く必要が無い。
今の演奏家は、正しいこと、ある程度まとまりよくすること、を求められる傾向が強いと思います。それが全般的傾向。この演奏は、それを突き詰めて行った結果だと思います。だから、大変優れた演奏ではある。でも、この演奏からは、例えばスメタナ四重奏団が聞かせてくれた、楽器特有の音色、響きを楽しむ、という聞き方は出来ないし、プラジャーク四重奏団がやってくれたような恐るべき歌を引き出してくれる予感も無い。厳しいけれど、正しく、まとまりよく、の先が無ければ、聞く側はつまらないのです。それを理知的な面に求めている風もあるのかも知れないけれど、それにしては突き詰めたものが無い。それでは、わざわざこれを聞く理由がないのです。これをこそ真のスタンダード、と考える手もありますが、それを言うにはやはり何か足りない。完成してしまって
