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2008/02/02のBlog
[ 01:07 ]
[ クラシック ]
Beethoven Piano Sonatas : No.15 D major op.28 "Pastoral" / N0.8 C minor op.13 "Pathetique" / N0.3 C major op.2 No.3
Angela Hewitt (piano)
Hyperion CDA67605
アンジェラ・ヒューイットが取り組んでいるベートーヴェンのソナタ録音の第二巻。恐らく全集にするのだと思いますが、この第二巻では、15番「田園」と8番「悲愴」、それに3番というカップリング。なかなか痛いところを突いて来るカップリングでしょうか。
ヒューイットは、中堅と呼んでいい域のピアニストです。自分が学生の頃、もう20年も前に、「グレン・グールド・コンクール優勝」という看板で来日したのを聞いたことがあります。改めて経歴を見ると「トロント国際バッハコンクール」ということらしいのですが、当時は確かグールドの名前を冠していたなぁ。
ちなみにそのコンサートはタダでした。武蔵野市の主催で、葉書で応募して招待、というのじゃなかったかな。何を弾いたか、全部は憶えていないのだけど、バッハを何か弾いたな、というのと、ラヴェルの「クープランの墓」の演奏が良かったのと(特にメヌエット!)、アンコールでゴールドベルク変奏曲のアリアを弾いておしまい、だったのはよく憶えています。
その後ライプツィヒのバッハコンクールでも優勝したおかげで、バッハ弾きみたいになっていたみたいですが、Hyperionでバッハの鍵盤楽曲「全集」を録音して「禊ぎ」が済んだのか、その後ラヴェル、クープラン、ショパンにシャブリエと、弾きたいものを弾いてます、てな感じです。その上にベートーヴェンに」取り組んでいるというわけです。
イタリアの新興ピアノメーカー、ファツィオーリ社のピアノを使っての録音。ここのピアノは、スタインウェイやヤマハに比べると、リリカルで透明感のある音がするように思います。というより、そういう風のあるピアニストに好まれる、ということなのかも知れませんが。
そう、ヒューイットの演奏は、そうしたリリカルさが活きる曲目が多いように思います。勿論ベートーヴェンのソナタとなると、必ずしもそう言う訳にもいかないのでは、という気がしますが。
で、この録音ですが、一曲目は第15番「田園」。いや、これがいいんです。
この曲、ちょっと難しいところのある曲ではないかと思います。和音の静かな連打で始まる第1楽章が、ベートーヴェンには珍しい「静かなアレグロ」なので、知名度の問題もあってやや軽く見られがちなのですが、実は長さで言えばいわゆる「3大ソナタ」より長いくらい。全4楽章、そのうち3分の2は前2楽章が占めるのですが、ここに目立ったクライマックスが無いんです。後半はちょっと盛り上がりますが、これはベートーヴェンらしからぬ劇性の少ない曲。4楽章構成で、長い前半2楽章、静かな楽曲.......ちょっとシューベルトのソナタを思い起こさせます。いや、勿論ベートーヴェンの方が先ですが。
実は、ベートーヴェンの演奏で定評のあるピアニストでも、この曲は意外と良くなかったりします。ちょっとベートーヴェンらしからぬ曲、なのでしょう。
これをヒューイットはなかなか上手に料理しています。リリカルな響きの楽器を使って、デュナミークを繊細にコントロール。決して劇的ではないけれど、音楽の表情が活き活きとしています。持ち前の端正な演奏スタイルもあって、情に溺れることもなく、気持ちのいい演奏です。
一緒に入っている第8番は、言わずと知れた「悲愴」ですが、こちらも無理にドラマティックに仕立てることも無く、抑制された中での、見方によっては落ち着いた演奏。こういうベートーヴェンを弾く人は、決して多くはありません。ちょっとした希少価値かも知れません。
今後ヒューイットが録音を進めるにつれて、後期のピアノソナタなんかにも手を付けていくでしょうが、果たしてどうなるものか、興味深いです。同じようにリリックに弾いていくのか、それとも......?年に1枚か2枚か、という感じのペースなので、じっくり待つことにします。
Angela Hewitt (piano)
Hyperion CDA67605
アンジェラ・ヒューイットが取り組んでいるベートーヴェンのソナタ録音の第二巻。恐らく全集にするのだと思いますが、この第二巻では、15番「田園」と8番「悲愴」、それに3番というカップリング。なかなか痛いところを突いて来るカップリングでしょうか。
ヒューイットは、中堅と呼んでいい域のピアニストです。自分が学生の頃、もう20年も前に、「グレン・グールド・コンクール優勝」という看板で来日したのを聞いたことがあります。改めて経歴を見ると「トロント国際バッハコンクール」ということらしいのですが、当時は確かグールドの名前を冠していたなぁ。
ちなみにそのコンサートはタダでした。武蔵野市の主催で、葉書で応募して招待、というのじゃなかったかな。何を弾いたか、全部は憶えていないのだけど、バッハを何か弾いたな、というのと、ラヴェルの「クープランの墓」の演奏が良かったのと(特にメヌエット!)、アンコールでゴールドベルク変奏曲のアリアを弾いておしまい、だったのはよく憶えています。
その後ライプツィヒのバッハコンクールでも優勝したおかげで、バッハ弾きみたいになっていたみたいですが、Hyperionでバッハの鍵盤楽曲「全集」を録音して「禊ぎ」が済んだのか、その後ラヴェル、クープラン、ショパンにシャブリエと、弾きたいものを弾いてます、てな感じです。その上にベートーヴェンに」取り組んでいるというわけです。
イタリアの新興ピアノメーカー、ファツィオーリ社のピアノを使っての録音。ここのピアノは、スタインウェイやヤマハに比べると、リリカルで透明感のある音がするように思います。というより、そういう風のあるピアニストに好まれる、ということなのかも知れませんが。
そう、ヒューイットの演奏は、そうしたリリカルさが活きる曲目が多いように思います。勿論ベートーヴェンのソナタとなると、必ずしもそう言う訳にもいかないのでは、という気がしますが。
で、この録音ですが、一曲目は第15番「田園」。いや、これがいいんです。
この曲、ちょっと難しいところのある曲ではないかと思います。和音の静かな連打で始まる第1楽章が、ベートーヴェンには珍しい「静かなアレグロ」なので、知名度の問題もあってやや軽く見られがちなのですが、実は長さで言えばいわゆる「3大ソナタ」より長いくらい。全4楽章、そのうち3分の2は前2楽章が占めるのですが、ここに目立ったクライマックスが無いんです。後半はちょっと盛り上がりますが、これはベートーヴェンらしからぬ劇性の少ない曲。4楽章構成で、長い前半2楽章、静かな楽曲.......ちょっとシューベルトのソナタを思い起こさせます。いや、勿論ベートーヴェンの方が先ですが。
実は、ベートーヴェンの演奏で定評のあるピアニストでも、この曲は意外と良くなかったりします。ちょっとベートーヴェンらしからぬ曲、なのでしょう。
これをヒューイットはなかなか上手に料理しています。リリカルな響きの楽器を使って、デュナミークを繊細にコントロール。決して劇的ではないけれど、音楽の表情が活き活きとしています。持ち前の端正な演奏スタイルもあって、情に溺れることもなく、気持ちのいい演奏です。
一緒に入っている第8番は、言わずと知れた「悲愴」ですが、こちらも無理にドラマティックに仕立てることも無く、抑制された中での、見方によっては落ち着いた演奏。こういうベートーヴェンを弾く人は、決して多くはありません。ちょっとした希少価値かも知れません。
今後ヒューイットが録音を進めるにつれて、後期のピアノソナタなんかにも手を付けていくでしょうが、果たしてどうなるものか、興味深いです。同じようにリリックに弾いていくのか、それとも......?年に1枚か2枚か、という感じのペースなので、じっくり待つことにします。
2008/01/27のBlog
[ 01:00 ]
[ 車で音楽 ]
The Best of Shogo Hamada Vol.2
浜田省吾
SME Records SECL 502
実は、ヴィントガッセンを聞く裏で、久々に浜省なんぞ聞いていたのであります。それも、なんとも微妙なCD。
一般にね、浜省っていうと、「もうひとつの土曜日」とか「悲しみは雪のように」とか、懐かしいところでは「路地裏の少年」とか、そのへんだと思うんですよ。ところが、そういうのは全然入ってないBest盤。いや、実のところ、このBest盤、Vol.1 と Vol.2があって、その他にThe History of Hamada Shogo という、実はこちらの方が先に出たんだけど、まぁこの3つでワンセットみたいな雰囲気があってですね。で、先に挙げたよく知られた曲は3つ目のに入っている。
で、この"Best"のVol.2は、浜田省吾曰く「少年青年期の楽曲」なんだそうで、1975年から1986年にかけての楽曲から選ばれてます。いい曲揃いだけど、決して売れた曲揃いという訳ではありません。
正直、浜田省吾に格別思い入れがある訳ではないんですけどね。でもまぁ、数少ない「CDくらい買うJ-POP」の一つではあります。いや、J-POPって言い方は失礼だよなぁ。
そんなに日本のポップミュージックに詳しい訳ではないのだけれど、一応リアルタイムでの実感として、日本のポップミュージック、ロックのターニングポイントはやっぱりサザンオールスターズの登場だと思うのです。サザンが出て来て、ロックなるものがお茶の間で流れるものとしておかしくなくなった。今のJ-POPと呼ばれるもの、特にロック系は、何処かで必ずサザンに負ってるものがあるんじゃないかと思います。
でも、浜田省吾は、サザンより前に来て、フォークでもない、ニューミュージックでもない、さりとてハードでアンダーグラウンドでもない「ロック」をやって、今でもやり続けてる人、ではないかと思うのです。浜省の日本語は分かるし、ちゃんと日本語になってる。楽曲としてもそうなんだけど、何処となく清潔感があるのです。そういう意味では、彼の声自体も同様に清潔感があります。そのへんが、特に思い入れはないと言いながら、何故かCDを持っている理由なのです。
多分、ロック好きの人には、浜省はロックじゃない、とか言われるんじゃないかなという気がします。まぁ、別に、そのへんの評価はどうでもいいのです。自分にとっては浜省は浜省だから。それでいいのです。
どの曲がどう、というのが特にあるわけではないです。音楽、詩、それぞれがどこかしら惹かれる、或いは引っ掛かるものを持っていて、それに捉えられてしまう、という感じかな。どの曲が、というより、このアルバム全体が惹くのかも知れません。だから "Best" アルバム、なのかな。
浜田省吾
SME Records SECL 502
実は、ヴィントガッセンを聞く裏で、久々に浜省なんぞ聞いていたのであります。それも、なんとも微妙なCD。
一般にね、浜省っていうと、「もうひとつの土曜日」とか「悲しみは雪のように」とか、懐かしいところでは「路地裏の少年」とか、そのへんだと思うんですよ。ところが、そういうのは全然入ってないBest盤。いや、実のところ、このBest盤、Vol.1 と Vol.2があって、その他にThe History of Hamada Shogo という、実はこちらの方が先に出たんだけど、まぁこの3つでワンセットみたいな雰囲気があってですね。で、先に挙げたよく知られた曲は3つ目のに入っている。
で、この"Best"のVol.2は、浜田省吾曰く「少年青年期の楽曲」なんだそうで、1975年から1986年にかけての楽曲から選ばれてます。いい曲揃いだけど、決して売れた曲揃いという訳ではありません。
正直、浜田省吾に格別思い入れがある訳ではないんですけどね。でもまぁ、数少ない「CDくらい買うJ-POP」の一つではあります。いや、J-POPって言い方は失礼だよなぁ。
そんなに日本のポップミュージックに詳しい訳ではないのだけれど、一応リアルタイムでの実感として、日本のポップミュージック、ロックのターニングポイントはやっぱりサザンオールスターズの登場だと思うのです。サザンが出て来て、ロックなるものがお茶の間で流れるものとしておかしくなくなった。今のJ-POPと呼ばれるもの、特にロック系は、何処かで必ずサザンに負ってるものがあるんじゃないかと思います。
でも、浜田省吾は、サザンより前に来て、フォークでもない、ニューミュージックでもない、さりとてハードでアンダーグラウンドでもない「ロック」をやって、今でもやり続けてる人、ではないかと思うのです。浜省の日本語は分かるし、ちゃんと日本語になってる。楽曲としてもそうなんだけど、何処となく清潔感があるのです。そういう意味では、彼の声自体も同様に清潔感があります。そのへんが、特に思い入れはないと言いながら、何故かCDを持っている理由なのです。
多分、ロック好きの人には、浜省はロックじゃない、とか言われるんじゃないかなという気がします。まぁ、別に、そのへんの評価はどうでもいいのです。自分にとっては浜省は浜省だから。それでいいのです。
どの曲がどう、というのが特にあるわけではないです。音楽、詩、それぞれがどこかしら惹かれる、或いは引っ掛かるものを持っていて、それに捉えられてしまう、という感じかな。どの曲が、というより、このアルバム全体が惹くのかも知れません。だから "Best" アルバム、なのかな。
2008/01/26のBlog
[ 01:19 ]
[ オペラ ]
Wolfgang Windgassen singt Wagner
(Rienzi, Tristan und Isolde, Siegfried, Goetterdaemmerung, Parsifal, Lohengrin, Tannhaeuser, Meistersinger)
Wolfgang Windgassen(tenor), etc.
Bamberg Symphoniker, Muenchener Philharmoniker, Radio-Symphonie-Orchester Berlin
Richard Kraus, Ferdinand Leitner, Leopold Ludwig (conduct)
Deutsche Grammophon 477 6543
私が辛うじて間に合ったと言えるヘルデン・テノールは、ルネ・コロくらいでした。
ワーグナーを歌うテノールは今でも居ますが、本当の意味で「ヘルデン・テノール」と言えるのは、コロくらいです。ジークフリート・イェルザレムには間に合わなかった。ペーター・ホフマンは、すっかりダメになってしまってから、何かで聞く機会があったけれど、かつて誇っていたであろう輝かしい声の片鱗を感じるのも難しい、という状態だった。
いや、そもそも、私は本当にヘルデン・テノールを聞いたことがあるのかさえ定かではない、というのが正確なのかも。
とは言え本当は、別段、ワーグナーのテノール役をやれるのは極々限られた人だけか、と言えば、必ずしもそうでもない。「指環」にしても、新国立劇場の「トーキョー・リング」とやらが何か凄いことのように言われるけれど、何、指環のツィクルスなら、二期会が20年くらいかけて、20年近く前に一度完結させてるのです。その完結させた「神々の黄昏」、その後再演成った「ラインの黄金」「ワルキューレ」と見る機会がありました。その頃の二期会は今の水増しとは違って、本当にやっとのことで年3公演くらいやるのが精一杯で、必ずしもレベルが高いとは言えなかったけれども、その分各公演の緊張感は半端じゃなかった。特に、ドイツ物命でやっていた二期会の「指環」に賭ける執念?は凄まじく、必ずしも「トーキョー・リング」なんてものにひけは取らなかった。演出を加えれば、私は二期会の方を取ります。今の二期会は嫌いだけれど、それはそれとして。
話が逸れましたが、つまりは、二期会でも、歌手だけはぱっとしない新国立劇場でも、一応「指環」にはなる。で、今時、それほど多大な期待は抱けないと知っているから、「このくらい」と思いながら聞いている。
先週、チェコのブルノ歌劇場の引っ越し公演で、「タンホイザー」を聞いたのですが、まぁ決して悪いテノールではない。一応歌えてる。でも、やっぱり声量不足と言うか、圧倒感が無いよね........でも、これは十分聞けるレベルだし、いいんじゃない?みたいなことを思う訳です。
そうすると。つい、昔の録音が聞きたくなってしまうのです。圧倒的な歌唱を、やっぱり求めているのです。
で、ついついこれを引っ張り出してきました。
ヴォルフガング・ヴィントガッセン。別にこの人が凄く好きという訳ではないけれど、戦後の早い時期のワーグナー歌いの一人であります。この場合そこが大事なわけで。つまり、「こないだ観たタンホイザーが不満だから埋め合わせたい」と思って聞く訳ではないのです。実際、この録音、タンホイザーは、第2幕の最初、エリザベートと久々に再会したところの二重唱しか入ってない。
不足は不足なのです。ただ、ここで欲しいのは、言ってみれば「ワーグナー濃度」なのですね。ワーグナー濃度が足りない。具体的にどうこうではなくて、もっと濃いのを身体が求めている、というところなのです。ヴィントガッセンについて、ワーグナー濃度は十分です。録音も、1950年代の古いモノラル録音ですが、音質は聞くに堪えるもので、この時期としては十分。
ヴィントガッセンは古いけれど、決して古臭くはありません。過度にロマンチックに陥らず、声は輝かしい。様式は抑えているけれど、決して「形式的」という意味での「様式的」ではない。それと、発音が綺麗。
この録音の中では、やはり元々好きな「ローエングリン」の名乗り、がやはりいいですね。決して武張った歌い方ではなく、あくまで柔らかく歌い進めて行って、最後は一点の曇りも無くその高貴なる生まれを高らかに名乗る.............一つの理想型でしょう。
いや、理想型だから、ということではないのです。そうではなくて、他にも歌い方はあるだろうけど、ただこの一曲のアリア(と言っていいのやら)だけで、ちゃんとそこにローエングリンがいて、舞台が目に浮かぶよう。軍装で正装したローエングリン、その周りを囲む人々、少し離れて項垂れるエルザ....... そんなものを見せてしまう、連想させる力が、ヴィントガッセンの歌にはあるのです。それがワーグナー濃度、と言う説明は不正確かも知れませんが、なんとなく分かって貰えるのではないかと。
勿論私はヴィントガッセンを生で聞いたことがありません。実際聞いたらどんなだったろうな、と思います。きっと凄かったんだろうな、と。それはもう敵わぬことなので、今の、聞ける演奏家の音楽を聞いている。そのことに不満を言っても詮無いことなのだけど、それはそれとして、聞きたくなってしまうものではあるのです。
ちなみにもう一曲挙げるとすれば、トリスタンとイゾルデの一節。ヴィントガッセンの、イゾルデの名を呼ぶ声の、なんと官能的な!
(Rienzi, Tristan und Isolde, Siegfried, Goetterdaemmerung, Parsifal, Lohengrin, Tannhaeuser, Meistersinger)
Wolfgang Windgassen(tenor), etc.
Bamberg Symphoniker, Muenchener Philharmoniker, Radio-Symphonie-Orchester Berlin
Richard Kraus, Ferdinand Leitner, Leopold Ludwig (conduct)
Deutsche Grammophon 477 6543
私が辛うじて間に合ったと言えるヘルデン・テノールは、ルネ・コロくらいでした。
ワーグナーを歌うテノールは今でも居ますが、本当の意味で「ヘルデン・テノール」と言えるのは、コロくらいです。ジークフリート・イェルザレムには間に合わなかった。ペーター・ホフマンは、すっかりダメになってしまってから、何かで聞く機会があったけれど、かつて誇っていたであろう輝かしい声の片鱗を感じるのも難しい、という状態だった。
いや、そもそも、私は本当にヘルデン・テノールを聞いたことがあるのかさえ定かではない、というのが正確なのかも。
とは言え本当は、別段、ワーグナーのテノール役をやれるのは極々限られた人だけか、と言えば、必ずしもそうでもない。「指環」にしても、新国立劇場の「トーキョー・リング」とやらが何か凄いことのように言われるけれど、何、指環のツィクルスなら、二期会が20年くらいかけて、20年近く前に一度完結させてるのです。その完結させた「神々の黄昏」、その後再演成った「ラインの黄金」「ワルキューレ」と見る機会がありました。その頃の二期会は今の水増しとは違って、本当にやっとのことで年3公演くらいやるのが精一杯で、必ずしもレベルが高いとは言えなかったけれども、その分各公演の緊張感は半端じゃなかった。特に、ドイツ物命でやっていた二期会の「指環」に賭ける執念?は凄まじく、必ずしも「トーキョー・リング」なんてものにひけは取らなかった。演出を加えれば、私は二期会の方を取ります。今の二期会は嫌いだけれど、それはそれとして。
話が逸れましたが、つまりは、二期会でも、歌手だけはぱっとしない新国立劇場でも、一応「指環」にはなる。で、今時、それほど多大な期待は抱けないと知っているから、「このくらい」と思いながら聞いている。
先週、チェコのブルノ歌劇場の引っ越し公演で、「タンホイザー」を聞いたのですが、まぁ決して悪いテノールではない。一応歌えてる。でも、やっぱり声量不足と言うか、圧倒感が無いよね........でも、これは十分聞けるレベルだし、いいんじゃない?みたいなことを思う訳です。
そうすると。つい、昔の録音が聞きたくなってしまうのです。圧倒的な歌唱を、やっぱり求めているのです。
で、ついついこれを引っ張り出してきました。
ヴォルフガング・ヴィントガッセン。別にこの人が凄く好きという訳ではないけれど、戦後の早い時期のワーグナー歌いの一人であります。この場合そこが大事なわけで。つまり、「こないだ観たタンホイザーが不満だから埋め合わせたい」と思って聞く訳ではないのです。実際、この録音、タンホイザーは、第2幕の最初、エリザベートと久々に再会したところの二重唱しか入ってない。
不足は不足なのです。ただ、ここで欲しいのは、言ってみれば「ワーグナー濃度」なのですね。ワーグナー濃度が足りない。具体的にどうこうではなくて、もっと濃いのを身体が求めている、というところなのです。ヴィントガッセンについて、ワーグナー濃度は十分です。録音も、1950年代の古いモノラル録音ですが、音質は聞くに堪えるもので、この時期としては十分。
ヴィントガッセンは古いけれど、決して古臭くはありません。過度にロマンチックに陥らず、声は輝かしい。様式は抑えているけれど、決して「形式的」という意味での「様式的」ではない。それと、発音が綺麗。
この録音の中では、やはり元々好きな「ローエングリン」の名乗り、がやはりいいですね。決して武張った歌い方ではなく、あくまで柔らかく歌い進めて行って、最後は一点の曇りも無くその高貴なる生まれを高らかに名乗る.............一つの理想型でしょう。
いや、理想型だから、ということではないのです。そうではなくて、他にも歌い方はあるだろうけど、ただこの一曲のアリア(と言っていいのやら)だけで、ちゃんとそこにローエングリンがいて、舞台が目に浮かぶよう。軍装で正装したローエングリン、その周りを囲む人々、少し離れて項垂れるエルザ....... そんなものを見せてしまう、連想させる力が、ヴィントガッセンの歌にはあるのです。それがワーグナー濃度、と言う説明は不正確かも知れませんが、なんとなく分かって貰えるのではないかと。
勿論私はヴィントガッセンを生で聞いたことがありません。実際聞いたらどんなだったろうな、と思います。きっと凄かったんだろうな、と。それはもう敵わぬことなので、今の、聞ける演奏家の音楽を聞いている。そのことに不満を言っても詮無いことなのだけど、それはそれとして、聞きたくなってしまうものではあるのです。
ちなみにもう一曲挙げるとすれば、トリスタンとイゾルデの一節。ヴィントガッセンの、イゾルデの名を呼ぶ声の、なんと官能的な!
2008/01/21のBlog
[ 02:00 ]
[ クラシック ]
J.S.Bach:Passionen-Oster-Oratorium-Kantaten
Oster-Oratorium BWV249, Magnificat BWV243, etc.
Elly Ameling, Hanneke van Bork(soprano), Helen Watts(alto), Werner Krenn(tenor), Tom Krause(bass)
Wiener Akademie Chor
Stuttgarter Kammerorchester
Karl Muenchinger(conduct) etc.
DECCA 476 170-8
週末、ほどほどにしようと思いながら、ついついコンサートに行ってしまうのがこの1、2年くらいの習性になっています。あんまりコンサートばかり行っていると、他のことが疎かになってしまうのはよく分かってるんですが。今年は少し控え目に......とか考えながら、ついつい定期演奏会とかもあって、立て込んでしまいます。
勿論楽しみとして聞いているので、別にどうってことはないのですが、何と言うのでしょう、一種音楽疲れ、聞き疲れしてしまうこともあります。音楽は好きだし、四六時中聞いていたいくらいではあるけれど、で、実際そんな風に聞いていたりするけれど、反動でいい加減に聞いたりすることもあります。いや、元々ながら聞きが多いので、そんな風な聞き方の方がメインなのかも知れないけれど。
聞かずに居ることも決して少なくはないのですが、気を入れずに、なんとなく聞いている、そんな時も存外あります。元々集中力のある方じゃないし。
で、今日は、失礼ながらこんなものを久々に聞き流していました。
マニフィカト。キリスト教の典礼で、晩課として用いられる一節です。そのラテン語の詩句にバッハが作曲したのが、BWV243のマニフィカト。華やかなシンフォニア風の序奏に導かれて、合唱が喜ばしげに"Magnificat"、「あがめます」と歌い出すのであります。ちなみに、この第一曲の歌詞は、"Magnificat anima mea Dominum"、「私の魂は主をあがめます」というもの。賑々しく祝祭的な音楽が付くのもなんとなく分かるような。ライプツィヒ時代の作らしいです。大方何か祝い事かイベントに際して作曲されたのではないかと。
とかいうことはまぁあるのですが、そういうことは今日はあまり考えてなくて、ぽーっと聞いていたのであります。なかなかに劇的な音楽で、聞いていて飽きないのではありますが、そういうこととは別に、ちょっと距離を置いて眺めるようにして聞くと、緩急短長の音楽の組み合わせの妙が、ここにもあるのに気が付きます。例えば管弦楽組曲や、幾つかの鍵盤楽器の為の組曲のように。
だからどう、というわけではないのですが、なんとなくそんな風に「意味」とは遠い世界で聞くことに、ちょっとした気晴らしみたいな気分を感じたりするのであります。
演奏はミュンヒンガー指揮、シュトゥットガルト室内管。エリー・アメリンクの名が見えます。実はコンピレーションもので、超廉価盤の三枚組。1枚目はマタイとマルコとヨハネの受難曲からの抜粋で、シュライヤーの指揮。これは2枚目で、復活祭オラトリオとカップリング。3枚目はカンタータの4番、6番、12番で、リヒターの指揮。バラバラなのです。なんでこれ買ったのか.....ミュンヒンガーのこの録音、復活祭オラトリオとマニフィカトが聞きたくて、で、実はこれの方が他のより安くて、これを買ったような。確か千円くらいで買ったんじゃ.....
けれど、そういうことは今は割とどうでもよくて、ただ、ああ、こんな音楽だったな、と思いながら聞いているのであります。
時間的には1日のクールダウンにどうぞ、てな話でしょうが、あまりクールダウン向きではなさそうです。でも、まぁ、今聞きたいのはこれなんだから、仕方無いか。まぁ、こういう曲であっても、バッハの場合、取り敢えず聞けてしまう、消化の良さみたいなところがありますね。それも随分な聞き方だなとは思いますが。
さぁ、もう寝よう。明日はまた仕事だ.......
Oster-Oratorium BWV249, Magnificat BWV243, etc.
Elly Ameling, Hanneke van Bork(soprano), Helen Watts(alto), Werner Krenn(tenor), Tom Krause(bass)
Wiener Akademie Chor
Stuttgarter Kammerorchester
Karl Muenchinger(conduct) etc.
DECCA 476 170-8
週末、ほどほどにしようと思いながら、ついついコンサートに行ってしまうのがこの1、2年くらいの習性になっています。あんまりコンサートばかり行っていると、他のことが疎かになってしまうのはよく分かってるんですが。今年は少し控え目に......とか考えながら、ついつい定期演奏会とかもあって、立て込んでしまいます。
勿論楽しみとして聞いているので、別にどうってことはないのですが、何と言うのでしょう、一種音楽疲れ、聞き疲れしてしまうこともあります。音楽は好きだし、四六時中聞いていたいくらいではあるけれど、で、実際そんな風に聞いていたりするけれど、反動でいい加減に聞いたりすることもあります。いや、元々ながら聞きが多いので、そんな風な聞き方の方がメインなのかも知れないけれど。
聞かずに居ることも決して少なくはないのですが、気を入れずに、なんとなく聞いている、そんな時も存外あります。元々集中力のある方じゃないし。
で、今日は、失礼ながらこんなものを久々に聞き流していました。
マニフィカト。キリスト教の典礼で、晩課として用いられる一節です。そのラテン語の詩句にバッハが作曲したのが、BWV243のマニフィカト。華やかなシンフォニア風の序奏に導かれて、合唱が喜ばしげに"Magnificat"、「あがめます」と歌い出すのであります。ちなみに、この第一曲の歌詞は、"Magnificat anima mea Dominum"、「私の魂は主をあがめます」というもの。賑々しく祝祭的な音楽が付くのもなんとなく分かるような。ライプツィヒ時代の作らしいです。大方何か祝い事かイベントに際して作曲されたのではないかと。
とかいうことはまぁあるのですが、そういうことは今日はあまり考えてなくて、ぽーっと聞いていたのであります。なかなかに劇的な音楽で、聞いていて飽きないのではありますが、そういうこととは別に、ちょっと距離を置いて眺めるようにして聞くと、緩急短長の音楽の組み合わせの妙が、ここにもあるのに気が付きます。例えば管弦楽組曲や、幾つかの鍵盤楽器の為の組曲のように。
だからどう、というわけではないのですが、なんとなくそんな風に「意味」とは遠い世界で聞くことに、ちょっとした気晴らしみたいな気分を感じたりするのであります。
演奏はミュンヒンガー指揮、シュトゥットガルト室内管。エリー・アメリンクの名が見えます。実はコンピレーションもので、超廉価盤の三枚組。1枚目はマタイとマルコとヨハネの受難曲からの抜粋で、シュライヤーの指揮。これは2枚目で、復活祭オラトリオとカップリング。3枚目はカンタータの4番、6番、12番で、リヒターの指揮。バラバラなのです。なんでこれ買ったのか.....ミュンヒンガーのこの録音、復活祭オラトリオとマニフィカトが聞きたくて、で、実はこれの方が他のより安くて、これを買ったような。確か千円くらいで買ったんじゃ.....
けれど、そういうことは今は割とどうでもよくて、ただ、ああ、こんな音楽だったな、と思いながら聞いているのであります。
時間的には1日のクールダウンにどうぞ、てな話でしょうが、あまりクールダウン向きではなさそうです。でも、まぁ、今聞きたいのはこれなんだから、仕方無いか。まぁ、こういう曲であっても、バッハの場合、取り敢えず聞けてしまう、消化の良さみたいなところがありますね。それも随分な聞き方だなとは思いますが。
さぁ、もう寝よう。明日はまた仕事だ.......
2008/01/20のBlog
[ 02:24 ]
[ クラシック ]
L.v.Beethoven : Symphony No.1 in C major op.21 / Symphony No.2 in D major op.36
Kammerorchesterbasel
Giovanni Antonini (conduct)
OEHMS CLASSICS OC605
こないだ旅行した時、機内エンターテイメントで聞いていた録音です。いや、えらい長時間のフライトになっちゃって、やることないし、寝られないしで....... で、聞いていたのですが、なかなか調子のいい演奏だったので、帰って来てから買ってしまいました。丁度セールで安かったし。
バーゼル室内管、というと、確かクリストファー・ホグウッドが関わってたなぁ、というくらいの知識しかありません。聞いたことも勿論無し。ホグウッド指揮のCDは聞いたことあるような。でも、印象にあまり残ってない。そんな感じです。
サイトで見たところ、1984年に結成されたとのことなので、まだ20年ちょっとの団体ですね。録音自体は、1番が2004年、2番が2005年です。
うわぁ、なんだこの元気な演奏。
これが、このCDを聞いてまず思ったこと。本当に、活きのいい演奏なのです。第1番の第1楽章、冒頭の和音からもう引き込まれます。ピリオド演奏がどうのとか、そういうこととはあまり関係なく、何はともあれ元気がいいのです。勿論、演奏としてはピリオド演奏の影響は感じられますし、打楽器のインパクトが相対的に大きいのは、明らかにピリオド演奏の影響でしょう。
でも、そういうことは確かにあるにせよ、何はともあれこの演奏、活気がある。
一つには、低音部の野蛮な元気の良さがあると思います。いや、本当に、ブーミーなくらいにコントラバスが響いて来るのです。確かにこれSACD(ハイブリッド)です。でも、SACDプレイヤーで聞くならともかく、車の中で聞いても、機内で聞いてもそのように聞こえるので、これは録音自体がそのように録られているのでしょう。
もう一つは、良くも悪くも、各楽器群が、弾いている様も含めて、異様によく聞こえるのです。これは悪くはないけど、賛否両論あると思います。オーケストラは溶け合って聞こえてなんぼではないのか?と。実際、私もどちらかというとその方が好きです。やたら「聞こえる」演奏は、決していいとは思わない。やたら躍動感ばかり強調される演奏ってのは如何なものか。
でも、やることをきちっとやれている上での躍動感なら、場合によってはいいかも知れません。この演奏が、その一例。それぞれがよく聞こえてしまうけれど、決してバラバラではない。躍動感が先に立つけれど、合ってない訳ではない。
最後に、テンポ。躍動感溢れる演奏のベースには、少々早めのテンポ設定があると思います。ハイドンの「疾風怒濤時代」を思わせるような感じ。決してせかせかとはしていません。颯爽とした演奏なのです。
勿論、冒頭に挙げたピリオド系の、メリハリがあり、スタッカート気味の非レガート奏法は、躍動感を高め、テンポ設定も上げ易くしている一因でしょう。
まぁそんなこんながありましてのこの演奏、面白いです。なんとなく7番を聞いてるような気になってきます。元気印の第1番、てところかな。聞き様によっては乱暴だし、こんながさつな演奏はいやだ!とばかりに評価は分かれるかも知れませんが、私としてはたまにはこういうのもいいかな。
勿論2番の方も面白い。第3楽章のスケルツォなんて、シンコペーションの暴れっぷりが見事であります。
Kammerorchesterbasel
Giovanni Antonini (conduct)
OEHMS CLASSICS OC605
こないだ旅行した時、機内エンターテイメントで聞いていた録音です。いや、えらい長時間のフライトになっちゃって、やることないし、寝られないしで....... で、聞いていたのですが、なかなか調子のいい演奏だったので、帰って来てから買ってしまいました。丁度セールで安かったし。
バーゼル室内管、というと、確かクリストファー・ホグウッドが関わってたなぁ、というくらいの知識しかありません。聞いたことも勿論無し。ホグウッド指揮のCDは聞いたことあるような。でも、印象にあまり残ってない。そんな感じです。
サイトで見たところ、1984年に結成されたとのことなので、まだ20年ちょっとの団体ですね。録音自体は、1番が2004年、2番が2005年です。
うわぁ、なんだこの元気な演奏。
これが、このCDを聞いてまず思ったこと。本当に、活きのいい演奏なのです。第1番の第1楽章、冒頭の和音からもう引き込まれます。ピリオド演奏がどうのとか、そういうこととはあまり関係なく、何はともあれ元気がいいのです。勿論、演奏としてはピリオド演奏の影響は感じられますし、打楽器のインパクトが相対的に大きいのは、明らかにピリオド演奏の影響でしょう。
でも、そういうことは確かにあるにせよ、何はともあれこの演奏、活気がある。
一つには、低音部の野蛮な元気の良さがあると思います。いや、本当に、ブーミーなくらいにコントラバスが響いて来るのです。確かにこれSACD(ハイブリッド)です。でも、SACDプレイヤーで聞くならともかく、車の中で聞いても、機内で聞いてもそのように聞こえるので、これは録音自体がそのように録られているのでしょう。
もう一つは、良くも悪くも、各楽器群が、弾いている様も含めて、異様によく聞こえるのです。これは悪くはないけど、賛否両論あると思います。オーケストラは溶け合って聞こえてなんぼではないのか?と。実際、私もどちらかというとその方が好きです。やたら「聞こえる」演奏は、決していいとは思わない。やたら躍動感ばかり強調される演奏ってのは如何なものか。
でも、やることをきちっとやれている上での躍動感なら、場合によってはいいかも知れません。この演奏が、その一例。それぞれがよく聞こえてしまうけれど、決してバラバラではない。躍動感が先に立つけれど、合ってない訳ではない。
最後に、テンポ。躍動感溢れる演奏のベースには、少々早めのテンポ設定があると思います。ハイドンの「疾風怒濤時代」を思わせるような感じ。決してせかせかとはしていません。颯爽とした演奏なのです。
勿論、冒頭に挙げたピリオド系の、メリハリがあり、スタッカート気味の非レガート奏法は、躍動感を高め、テンポ設定も上げ易くしている一因でしょう。
まぁそんなこんながありましてのこの演奏、面白いです。なんとなく7番を聞いてるような気になってきます。元気印の第1番、てところかな。聞き様によっては乱暴だし、こんながさつな演奏はいやだ!とばかりに評価は分かれるかも知れませんが、私としてはたまにはこういうのもいいかな。
勿論2番の方も面白い。第3楽章のスケルツォなんて、シンコペーションの暴れっぷりが見事であります。
2008/01/19のBlog
[ 02:11 ]
[ クラシック ]
J.Brahms : ein Deutsches Requiem op.45
Sandrine Piau (soprano), Stephane Degout (bariton)
Brigitte Engerer, Boris Berezovsky (piano)
Accentus
Laurence Equilbey (conduct)
Naive V4956
実は、ブラームスのドイツ・レクイエムはあまり好きではありません。ええ、我ながら結構苦手なものが多いのです(苦笑)
ドイツ・レクイエム、いい演奏に巡り会っていないのかも知れませんが、どうも生臭い感じがして厭なのです。ブラームスの音楽を考えれば別段不思議ではない、ある種の未解決の和声が、フルオーケストラで分厚く鳴らされるのが、非常にあざとく場違いに聞こえてしまうのです。
例えば、ヴェルディやフォーレの方が、より上手く、巧みに、そういう「不自然」な和声が響かないように書いています。ヴェルディのはブラームスよりより派手だけれど、その分音の分厚さを効果的に使っていますし、ある種の媚びたような音は鳴らさない。フォーレの場合、古い教会旋法を巧みに使っていて、その上にあの静謐な音楽を構築しているので、生臭さが入る余地がない。言い換えれば、そうした点では、どちらももっとあざとく振る舞っているということなんでしょうけど。でもまぁ、それがプロというものだから、ここはそのように音楽を書いた御両名の方が一枚上手、と言っていいのでしょう。
ああ見えて、ブラームスのオーケストレーションは結構華麗なのでしょう。渋いようで実は意外に華やかに響くのかも知れません。そのへんが、ドイツ・レクイエムでは「見えて」しまっているのではないかと。
まぁそんな風に思いつつ、だからドイツ・レクイエムは......と思っていたのですが、こんな録音があるのですね。
ロンドン版。要は、ピアノ二台編曲版、なのです。ブラームス自身の手になる編曲です。これがなかなかよいのです。フルオーケストラと違って、ピアノ二台ですから、幾ら和声をいじっても、音色は限られて来ます。音量も、なんだかんだ言ってピアノ二台ですから、フルオーケストラよりは大分こじんまり。和声は基本は変わりませんから、「う」と思うところはあるのですが、オーケストラの時ほどには違和感はありません。一方で、ピアノ二台というのがミソ。一台だけだと随分物足りなくなりそうですが、二台あると、シンプルな箇所は勿論、ある程度複雑に声部進行が交差するようなところでも、結構音楽を形作れています。
演奏者がこれまた。合唱はあのアクセントゥス。ローレンス・エクィルベイの指揮。ピアノが、ブリジット・エンゲラーとボリス・ベレゾフスキー。つまりはラ・フォル・ジュルネでお馴染みの面々ですが、それにしてもこの組み合わせでこの曲だと、アクセントゥスの実力が光ります。この演奏の落ち着きは、ピアノ版ということもありますが、美しい響きの合唱団の力によるところ大であろうと思います。
決してピアノ編曲版が代用ではなく、それ自体が十分完成した音楽になっている、というところが面白い。確かに聞いていると、「ああ、ここは元の楽譜そのままだな」と聞き取れる箇所も多いのですが、それ以上にこの編曲まとまりが良くて、結構聞けるのです。いや、オーケストラ抜きで聞くと、必要以上の装飾が削られて、むしろシンプルな合唱主体の曲のように聞こえて、これもまた面白いのではあります。
本当に、これは合唱を聴く為の音楽です。その期待にアクセントゥスも見事にこたえてくれます。
Sandrine Piau (soprano), Stephane Degout (bariton)
Brigitte Engerer, Boris Berezovsky (piano)
Accentus
Laurence Equilbey (conduct)
Naive V4956
実は、ブラームスのドイツ・レクイエムはあまり好きではありません。ええ、我ながら結構苦手なものが多いのです(苦笑)
ドイツ・レクイエム、いい演奏に巡り会っていないのかも知れませんが、どうも生臭い感じがして厭なのです。ブラームスの音楽を考えれば別段不思議ではない、ある種の未解決の和声が、フルオーケストラで分厚く鳴らされるのが、非常にあざとく場違いに聞こえてしまうのです。
例えば、ヴェルディやフォーレの方が、より上手く、巧みに、そういう「不自然」な和声が響かないように書いています。ヴェルディのはブラームスよりより派手だけれど、その分音の分厚さを効果的に使っていますし、ある種の媚びたような音は鳴らさない。フォーレの場合、古い教会旋法を巧みに使っていて、その上にあの静謐な音楽を構築しているので、生臭さが入る余地がない。言い換えれば、そうした点では、どちらももっとあざとく振る舞っているということなんでしょうけど。でもまぁ、それがプロというものだから、ここはそのように音楽を書いた御両名の方が一枚上手、と言っていいのでしょう。
ああ見えて、ブラームスのオーケストレーションは結構華麗なのでしょう。渋いようで実は意外に華やかに響くのかも知れません。そのへんが、ドイツ・レクイエムでは「見えて」しまっているのではないかと。
まぁそんな風に思いつつ、だからドイツ・レクイエムは......と思っていたのですが、こんな録音があるのですね。
ロンドン版。要は、ピアノ二台編曲版、なのです。ブラームス自身の手になる編曲です。これがなかなかよいのです。フルオーケストラと違って、ピアノ二台ですから、幾ら和声をいじっても、音色は限られて来ます。音量も、なんだかんだ言ってピアノ二台ですから、フルオーケストラよりは大分こじんまり。和声は基本は変わりませんから、「う」と思うところはあるのですが、オーケストラの時ほどには違和感はありません。一方で、ピアノ二台というのがミソ。一台だけだと随分物足りなくなりそうですが、二台あると、シンプルな箇所は勿論、ある程度複雑に声部進行が交差するようなところでも、結構音楽を形作れています。
演奏者がこれまた。合唱はあのアクセントゥス。ローレンス・エクィルベイの指揮。ピアノが、ブリジット・エンゲラーとボリス・ベレゾフスキー。つまりはラ・フォル・ジュルネでお馴染みの面々ですが、それにしてもこの組み合わせでこの曲だと、アクセントゥスの実力が光ります。この演奏の落ち着きは、ピアノ版ということもありますが、美しい響きの合唱団の力によるところ大であろうと思います。
決してピアノ編曲版が代用ではなく、それ自体が十分完成した音楽になっている、というところが面白い。確かに聞いていると、「ああ、ここは元の楽譜そのままだな」と聞き取れる箇所も多いのですが、それ以上にこの編曲まとまりが良くて、結構聞けるのです。いや、オーケストラ抜きで聞くと、必要以上の装飾が削られて、むしろシンプルな合唱主体の曲のように聞こえて、これもまた面白いのではあります。
本当に、これは合唱を聴く為の音楽です。その期待にアクセントゥスも見事にこたえてくれます。
2008/01/16のBlog
[ 23:12 ]
[ ラ・フォル・ジュルネ ]
"Schubertiade" F.Schubert : Duetts, Terzetts, Quartetts (D.826, 37, 666, 352, 815, 609, 439, 545, 985, 986, 923, 986)
Helen Donath (soprano), Marga Schiml (alto), Peter Schreier (tenor),
Hermann Prey (bariton), Robert Holl (bass), Leonard Hokanson (klavier)
Deutsche Grammophon 453 978-2
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008のサイトはこちら
今更ですが、シューベルトのエントリーを続けた挙句に今年のラ・フォル・ジュルネのテーマがシューベルトだったのを思い出しました。そういえば、もう4ヵ月後の話なんですね。
というわけで、今日もシューベルトであります。
シューベルティアーデ、という音楽祭があります。オーストリアの最西、フォアアールベルク州で開かれています。始めたのは、ヘルマン・プライら、シューベルトの音楽に造詣深く、愛情を注ぐことに惜しみなかった音楽家達。かつてシューベルトが友人達と内輪で音楽を楽しんだという集まり、「シューベルティアーデ」をその名に冠した音楽祭。毎年、大体6月と9月に、主な公演を集中して行います。
幾度か訪れたことがあるのですが、何とも言えずいい音楽祭なのです。
まず、やっている地域がいい。言ってみればアルプスの前衛の山の麓、世界的な観光地ではないけれどほどほどに風光明媚な土地なのです。山麓の村に作られた500人ほどが入るホールは、季節柄19時くらいでも外は明るく、綺麗な緑の牧草地が目にも優しい、という.....
次に、チケットがそれほど高くない。大体が、季節にしても本当のハイシーズンではないですから、本当に好きな人が来るという音楽祭。公演も室内楽やリサイタルが主ですから、高くても1万円くらい。いや、今はユーロ高で1万円台後半まで来てしまったか?とはいえ、例えばザルツブルクのような何万円もするチケットをまたチケット業者がプレミアムを乗せる、などということはありません。
そして、これが一番重要なのですが、なんと言っても公演の内容がとてもハイレベルなのです。出演者だけ考えても、歌手ならばボストリッジやクヴァストホフをはじめ、今を時めく一線級のリート歌いが集結。ピアニストなら、ブレンデル、シフ、シュタイアーといったこれまた日本でリサイタルがあれば是非行きたいと思うような面々。
ああ、また行きたい......行けないなぁ、時間がない.........
この音楽祭、毎年録音が日本でもFM放送されるなど、そこそこ知られるようになってきましたが、あまり録音として残されたものがありません。そこが残念ではあるんですが。
この録音は、そんな中、数少ない記録されたものの一つ。1977年6月29日、開催地の一つ、ホーエネムスでのライブ録音。
いやまぁ、この出演者を見て下さい、としか言いようがありません。特に男声陣。シュライヤーとプライにホルが加わるという豪華版。女声陣も、ドナートにシムル。シムルはあまり派手な活躍は無いですが、ショルティのパルジファルなんかに顔を出すくらいの歌手ではあります。まぁ、どれか一人だけでも十分リサイタルになるのに、これが集まって2重唱・3重唱・4重唱を展開するのですから。
正直、流石にこの辺の曲になると、あまり詳しくはありませんが、聞いていて実に楽しいのです。
シューベルトの作品には、内輪で演奏して楽しむ、というスタイルの曲が多いです。勿論、歌曲というのも、元々は少人数で楽しむものだったでしょうから、それは決して不自然ではないけれど、こうした重唱曲というのが存外多いのです。時代はナポレオン戦争後の、貴族階級も打撃を受けたけれど、社会全体としては保守的に逆戻りしていた頃。小市民的な生き方、楽しみが良しとされた時代。あるは出版され、或いはそれこそシューベルティアーデなど内輪の集まりで楽しむ為、作曲されたものなのでしょう。そのどれもが、何処か機嫌良さげな音楽で、シューベルトの音楽で時に垣間見られるデモーニッシュ、悪魔的な、言わば「暗がり」の部分が顔を覗かせることも無い。そんな音楽です。
「冬の旅」や、晩年のピアノソナタなどに見られる、深さの知れない暗がりを垣間見させられるのもシューベルトだけれど、それだけがシューベルトの楽しみでもないのでして、確かに。
極上の豪華メンバーで、こんな機嫌のいいシューベルトを聴いていると(全部が全部そうという訳でもないけれど)、何となく心が穏やかに、ほぐれて来るのを感じるのであります。シューベルトの音楽には、全てではないけれど、なんというか、こちらの戦闘態勢をほぐしてしまうものがあると思います。穏やかに、争わず、でも、多少の諦念も交えているのでしょう。それは決して悪い気分ではありません。
そんなシューベルトが私は好きであります。それだけではないんですけどね。
Helen Donath (soprano), Marga Schiml (alto), Peter Schreier (tenor),
Hermann Prey (bariton), Robert Holl (bass), Leonard Hokanson (klavier)
Deutsche Grammophon 453 978-2
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008のサイトはこちら
今更ですが、シューベルトのエントリーを続けた挙句に今年のラ・フォル・ジュルネのテーマがシューベルトだったのを思い出しました。そういえば、もう4ヵ月後の話なんですね。
というわけで、今日もシューベルトであります。
シューベルティアーデ、という音楽祭があります。オーストリアの最西、フォアアールベルク州で開かれています。始めたのは、ヘルマン・プライら、シューベルトの音楽に造詣深く、愛情を注ぐことに惜しみなかった音楽家達。かつてシューベルトが友人達と内輪で音楽を楽しんだという集まり、「シューベルティアーデ」をその名に冠した音楽祭。毎年、大体6月と9月に、主な公演を集中して行います。
幾度か訪れたことがあるのですが、何とも言えずいい音楽祭なのです。
まず、やっている地域がいい。言ってみればアルプスの前衛の山の麓、世界的な観光地ではないけれどほどほどに風光明媚な土地なのです。山麓の村に作られた500人ほどが入るホールは、季節柄19時くらいでも外は明るく、綺麗な緑の牧草地が目にも優しい、という.....
次に、チケットがそれほど高くない。大体が、季節にしても本当のハイシーズンではないですから、本当に好きな人が来るという音楽祭。公演も室内楽やリサイタルが主ですから、高くても1万円くらい。いや、今はユーロ高で1万円台後半まで来てしまったか?とはいえ、例えばザルツブルクのような何万円もするチケットをまたチケット業者がプレミアムを乗せる、などということはありません。
そして、これが一番重要なのですが、なんと言っても公演の内容がとてもハイレベルなのです。出演者だけ考えても、歌手ならばボストリッジやクヴァストホフをはじめ、今を時めく一線級のリート歌いが集結。ピアニストなら、ブレンデル、シフ、シュタイアーといったこれまた日本でリサイタルがあれば是非行きたいと思うような面々。
ああ、また行きたい......行けないなぁ、時間がない.........
この音楽祭、毎年録音が日本でもFM放送されるなど、そこそこ知られるようになってきましたが、あまり録音として残されたものがありません。そこが残念ではあるんですが。
この録音は、そんな中、数少ない記録されたものの一つ。1977年6月29日、開催地の一つ、ホーエネムスでのライブ録音。
いやまぁ、この出演者を見て下さい、としか言いようがありません。特に男声陣。シュライヤーとプライにホルが加わるという豪華版。女声陣も、ドナートにシムル。シムルはあまり派手な活躍は無いですが、ショルティのパルジファルなんかに顔を出すくらいの歌手ではあります。まぁ、どれか一人だけでも十分リサイタルになるのに、これが集まって2重唱・3重唱・4重唱を展開するのですから。
正直、流石にこの辺の曲になると、あまり詳しくはありませんが、聞いていて実に楽しいのです。
シューベルトの作品には、内輪で演奏して楽しむ、というスタイルの曲が多いです。勿論、歌曲というのも、元々は少人数で楽しむものだったでしょうから、それは決して不自然ではないけれど、こうした重唱曲というのが存外多いのです。時代はナポレオン戦争後の、貴族階級も打撃を受けたけれど、社会全体としては保守的に逆戻りしていた頃。小市民的な生き方、楽しみが良しとされた時代。あるは出版され、或いはそれこそシューベルティアーデなど内輪の集まりで楽しむ為、作曲されたものなのでしょう。そのどれもが、何処か機嫌良さげな音楽で、シューベルトの音楽で時に垣間見られるデモーニッシュ、悪魔的な、言わば「暗がり」の部分が顔を覗かせることも無い。そんな音楽です。
「冬の旅」や、晩年のピアノソナタなどに見られる、深さの知れない暗がりを垣間見させられるのもシューベルトだけれど、それだけがシューベルトの楽しみでもないのでして、確かに。
極上の豪華メンバーで、こんな機嫌のいいシューベルトを聴いていると(全部が全部そうという訳でもないけれど)、何となく心が穏やかに、ほぐれて来るのを感じるのであります。シューベルトの音楽には、全てではないけれど、なんというか、こちらの戦闘態勢をほぐしてしまうものがあると思います。穏やかに、争わず、でも、多少の諦念も交えているのでしょう。それは決して悪い気分ではありません。
そんなシューベルトが私は好きであります。それだけではないんですけどね。
2008/01/15のBlog
[ 01:13 ]
[ クラシック ]
シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759 「未完成」 / 第9番ハ長調 D.944 「ザ・グレイト」
ボストン交響楽団
シャルル・ミュンシュ (conduct)
RCA/BMG JAPAN BVCC-38430
昨日今日は冷え込みも厳しく、外出した人も多くはなかったのでしょうか。それかあらぬか、このblogもお客さんが多かったようで.......
自分はと言えば、今日は仕事でした。いつもよりは大分ゆっくり出掛けましたが、ま、仕事に行くのは同じことですね。やれやれ。
この間、ブルックナーを聞いてアレルギー反応を起こしまして、解毒剤じゃないんですがシューベルトの交響曲が聞きたくなって引っ張り出しました。そういや昨日もシューベルトだったな。
古い録音です。ミュンシュ指揮、ボストン響。未完成が1955年、ザ・グレイトが1958年。これは1年程前に出た「シャルル・ミュンシュの芸術」というシリーズの1枚なのですが、そういえば、と思ってライナーに付いているラインナップを確認したら、ブルックナーが一つもありません。ネットでざっと検索しても、ライブの海賊盤で7番が出たくらい。
........相性いいのかしらん♪(^^; ま、別にブルックナーに罪がある訳ではないですが。
流石に録音は古いです。音質は決して良くない。ただ、聞けないレベルではありません。しかも、一応ステレオなんですね。恐れ入ります。このくらいの時期の録音はステレオがいいかモノラルがいいか、という議論は常にあるのですが、個人的な見解では、概してステレオ録音の方が平均点的には高目だと思います。思うに、当時の最新技術を導入するタイミングでもあるので、マイクロフォン等の機材も奢っているのではないかと思うのです。「このステレオよりはこちらのモノラルの方がいい」てなことは当然あるのですが。
上でああは言ったものの、正直、ミュンシュに格別の深い思い入れがあるというわけではありません。ただ、この人の演奏は、冗談抜きで結構性に合うようです。ドイツものでもフランスものでも、あまり落差なく、比較的冷静に淡々と進めていくという印象があります。決して盛り上がらない訳ではないのだけど、何処か醒めている部分が残っているような気がします。知的なんでしょうか。って、自分がそうだって言ってる訳じゃないですが.......
歌うことに関しては、見事なんですけどね。このシューベルトも、よく歌っています。フレージングも自然で、滑らかです。ある意味オーソドックスなんでしょうか。決して流しているという感じではありません。
今だと、こういうシューベルトはなかなかやらせて貰えないんじゃないでしょうか。系統は古楽器系、現代系、それぞれあるにせよ、結局はもっとメリハリの利いた演奏を求められてしまうのではないかしらん。主旋律がはっきり聞けて、それを肉付けていく楽器群がきちんとついていって、主従はある程度はっきりするけれど、全体としては渾然一体とした響きを保っている。うーん。上手く説明出来ない......
例えば、そう、アーノンクールなら、もっと各々の響いている音の構成が分かるように聞かせるんじゃないかと思うのです。聞き手がそのように意識せざるを得ないような聞こえ方というか。アバドがヨーロッパ室内管を振った録音も1990年代にあったけど、あれもそんな感じでは。
一方、例えばブルーノ・ヴァイルあたりだと、こちらは古楽器演奏の影響を受けた、小編成で音の強弱のコントラストをしっかり付けた感じになるのではないかと。
細かいんでしょうね、きっと。どちらのスタイルも。といって、日本のオケあたりが最近の若手指揮者とやるような、爆音系の派手なスタイルをいいとも思いませんけども。
ミュンシュに関して言えば、全体的には細かくはないんでしょう。歌うこと、表現の繊細さについては見事だけれど、音楽全体としてはまぁあまり細かくどうこうしても歌がつっかえてしまってはしょうがない、てな感じでしょうかね。
未完成とザ・グレイト、どちらも結構です。後者の方が45分ばかりというのは、反復を省いているのかな。私は最近この曲結構気に入っているけれど、昔も今も好きなのは未完成の方。短いから....というのも、冗談抜きで理由の一つですが、第1楽章、全編嘆きの歌とでも言いたくなるようなあの10分ばかりが好きなのです。その歌を満喫出来る、それでいて嘆きに溺れてしまわない、そういう点での節度はある、そんな録音であります。
ボストン交響楽団
シャルル・ミュンシュ (conduct)
RCA/BMG JAPAN BVCC-38430
昨日今日は冷え込みも厳しく、外出した人も多くはなかったのでしょうか。それかあらぬか、このblogもお客さんが多かったようで.......
自分はと言えば、今日は仕事でした。いつもよりは大分ゆっくり出掛けましたが、ま、仕事に行くのは同じことですね。やれやれ。
この間、ブルックナーを聞いてアレルギー反応を起こしまして、解毒剤じゃないんですがシューベルトの交響曲が聞きたくなって引っ張り出しました。そういや昨日もシューベルトだったな。
古い録音です。ミュンシュ指揮、ボストン響。未完成が1955年、ザ・グレイトが1958年。これは1年程前に出た「シャルル・ミュンシュの芸術」というシリーズの1枚なのですが、そういえば、と思ってライナーに付いているラインナップを確認したら、ブルックナーが一つもありません。ネットでざっと検索しても、ライブの海賊盤で7番が出たくらい。
........相性いいのかしらん♪(^^; ま、別にブルックナーに罪がある訳ではないですが。
流石に録音は古いです。音質は決して良くない。ただ、聞けないレベルではありません。しかも、一応ステレオなんですね。恐れ入ります。このくらいの時期の録音はステレオがいいかモノラルがいいか、という議論は常にあるのですが、個人的な見解では、概してステレオ録音の方が平均点的には高目だと思います。思うに、当時の最新技術を導入するタイミングでもあるので、マイクロフォン等の機材も奢っているのではないかと思うのです。「このステレオよりはこちらのモノラルの方がいい」てなことは当然あるのですが。
上でああは言ったものの、正直、ミュンシュに格別の深い思い入れがあるというわけではありません。ただ、この人の演奏は、冗談抜きで結構性に合うようです。ドイツものでもフランスものでも、あまり落差なく、比較的冷静に淡々と進めていくという印象があります。決して盛り上がらない訳ではないのだけど、何処か醒めている部分が残っているような気がします。知的なんでしょうか。って、自分がそうだって言ってる訳じゃないですが.......
歌うことに関しては、見事なんですけどね。このシューベルトも、よく歌っています。フレージングも自然で、滑らかです。ある意味オーソドックスなんでしょうか。決して流しているという感じではありません。
今だと、こういうシューベルトはなかなかやらせて貰えないんじゃないでしょうか。系統は古楽器系、現代系、それぞれあるにせよ、結局はもっとメリハリの利いた演奏を求められてしまうのではないかしらん。主旋律がはっきり聞けて、それを肉付けていく楽器群がきちんとついていって、主従はある程度はっきりするけれど、全体としては渾然一体とした響きを保っている。うーん。上手く説明出来ない......
例えば、そう、アーノンクールなら、もっと各々の響いている音の構成が分かるように聞かせるんじゃないかと思うのです。聞き手がそのように意識せざるを得ないような聞こえ方というか。アバドがヨーロッパ室内管を振った録音も1990年代にあったけど、あれもそんな感じでは。
一方、例えばブルーノ・ヴァイルあたりだと、こちらは古楽器演奏の影響を受けた、小編成で音の強弱のコントラストをしっかり付けた感じになるのではないかと。
細かいんでしょうね、きっと。どちらのスタイルも。といって、日本のオケあたりが最近の若手指揮者とやるような、爆音系の派手なスタイルをいいとも思いませんけども。
ミュンシュに関して言えば、全体的には細かくはないんでしょう。歌うこと、表現の繊細さについては見事だけれど、音楽全体としてはまぁあまり細かくどうこうしても歌がつっかえてしまってはしょうがない、てな感じでしょうかね。
未完成とザ・グレイト、どちらも結構です。後者の方が45分ばかりというのは、反復を省いているのかな。私は最近この曲結構気に入っているけれど、昔も今も好きなのは未完成の方。短いから....というのも、冗談抜きで理由の一つですが、第1楽章、全編嘆きの歌とでも言いたくなるようなあの10分ばかりが好きなのです。その歌を満喫出来る、それでいて嘆きに溺れてしまわない、そういう点での節度はある、そんな録音であります。
2008/01/14のBlog
[ 02:36 ]
[ クラシック ]
F.Shubert : Piano Sonata in B flat major, D.960
F.Liszt : Schubert Songs Transcriptions (Der Leiermann, Taeuschung, Gretchen am Spinnrade, Die junge Nonne, Ave Maria, Erlkoenig) / Mephisto-Waltz / Chapelle de Guillaume Tell (Annee de Pelerinage 1 Annee)
S.Rachmaninov : Marche Turque (after Beethoven)
Lazar Berman (piano)
DISCOVER INTERNATIONAL DICD 920164-5
今日は寒かったせいもあるのでしょうか、結構アクセスを頂いたようです。そんでもって、日付が変わるとぱったり.......寒いから、皆さっさと寝ちゃったのかしら..........?
閑話休題。
ラザール・ベルマンというピアニスト、どの程度知られている、と言うより、人気があるのでしょうか。
1930年生、2005年没。かつてギレリスに「自分とリヒテルと4手でかかっても敵わない」と言わしめ、その言葉のイメージ通り、リストの超絶技巧練習曲集の録音で鉄のカーテンの向こう側からデビューを果たしたピアニスト。こんなところでしょうか。今でも、リストの「巡礼の年報」や、カラヤンの指揮での、チャイコフスキーの協奏曲の録音などが手に入ります。ロシアの超絶系ピアニスト、というところでしょうか。
私がベルマンを最初に聞いたのは学生の頃ですが、確かにリストの録音ではあったのですが、リスト編曲によるシューベルトの歌曲のピアノ演奏だったのです。水車屋の「どこへ?」とか、5曲、10曲はなかったと思うけれど、いずれも決して超絶技巧派の曲では無く、むしろメロディックなものでした。それはLPのB面で、A面は多分リストのピアノソナタじゃなかったかと思うのですが、もう忘れてしまいました。ただ、そのシューベルト編曲ものが鮮烈に記憶に残っています。
技術がどうこうではなくて、そういうリストを弾く人、として。
一般にリストは超絶技巧のピアニストのイメージで知られていると思います。事実、リストは超絶技巧の人として知られていたし、それを誇示するような作品も多く残しています。けれど、彼の音楽が必ずしも技巧を誇示する為のものとしてあったわけではない、というのもまた事実です。
彼のものした多くのオペラや歌曲の編曲物は、必ずしもそうした音楽にアクセスすることが容易では無かった時代には、決して際物ではなく、真面目に音楽を紹介する手段としても機能していた面はあったわけです。また、彼のシューベルト歌曲の編曲は、基本的に元の歌曲から逸脱したものではありません。ただ、本来の伴奏に、歌自体を加えた音楽を一人で演奏するから大変だ、というだけのことなのです。音楽表現を豊かにする為の手段として技巧を求めた、というのがリストの音楽。その辺が、後々のロシア等の「技巧の為の技巧」を中心に据えた作品群とは違うのではないかと思います。
私にとってのベルマンは、そういう、豊かな音楽を求めたリストの像と重なるのです。シューベルトをこよなく愛し、その編曲を書き続けたリスト。
1992年6月27日、既に「壁」が崩壊し、ベルマンもイタリアに移住した後、ベルギーで行われた Juillet Musical d'Aulne という音楽祭での公演を録音したものです。
実のところ、この音楽祭、2007年の内容を見る限りでは、それほど大規模ではないし、出演者もそれほどではないし、果たしてこのクレジットは本当なの?とちょっと思ってしまうのではあります。ただまぁ、一応ベルギーのレコード会社の手によるようだし、間違いではないのでしょう。
当日の記録は無いので、想像ですが、2枚組で公演の全てを収めているのではないかと思います。1枚目がシューベルトの最後のソナタ、D.960。これが名演です。2枚目が、リスト編曲によるシューベルトの歌曲6曲。それにリストのメフィストワルツと巡礼の年報から一曲、そしてラフマニノフ編曲のトルコ行進曲。これはアンコールでしょうね。
そう、どちらかというと、この公演、シューベルト中心のプログラムなのです。
D.960ですが、素晴らしい演奏です。何がどう、という格別のことがある訳ではないのです。強いて言えば、インテンポで淡々としたように聞こえる演奏。けれど、シューベルトの歌心が遂にソナタの中に収まりどころを見つけたとも言えるこの曲では、むしろ淡々と演奏して、内在する歌が自然に歌い出すのを待つ方がいい演奏になるのだと思うのです。下手に表現しようと立ち回ってしまうと、却って折角の歌を矯めてしまうことになりかねないように思うのです。ハスキル然り、ルービンシュタイン然り、ポリーニ然り。ベルマンのこの演奏も、そうした歌心を理解した演奏ではないかと思うのです。まぁ、ライブということもあって、若干の揺らぎはありますが、十分です。
勿論、この淡々とした演奏を維持出来るのは、相応のテクニックがあるからに他なりません。結局、楽譜に書かれている音符を追っ掛けるだけで精一杯になってしまうような音楽は、技術的には大変だけど、音楽としてはそれだけのことなんですよね。
それと、ベルマンの演奏の清々としたこと。音色が澄んでいるのです。確かベルマンはこの頃にはイタリアのファツィオーリ社のピアノを使っている筈で、それが一因かも知れませんが、それにしてもこの音色は本当にこの時期のシューベルトに合います。
この演奏、生で聞けたらどんなに素晴らしいかと思います。と同時に、これを聞いた後、恐らく後半を聞かなければならない「不幸」も。いや、正直言うと、このシューベルトを生で聴いたら、あとはもう聞きたくなくなっちゃうかも知れないなと思います。
その後半の歌曲編曲ものですが、リストには悪いけど、やはりオリジナルの手によるD.960を聞いた後では、ちょっとね。曲も演奏も決して悪くはないですが、元の歌も知っている身としては、やはり限界があります。特に最後の「魔王」はちょっと苦しいですね。「歌って」しまっているのです。原曲には無いリタルダントも掛かってるし。何より魔王の語りが、遂に最後豹変する禍々しさは、やはり人の声には勝てないのではないかと。
そんな中でいいのは、「アヴェ・マリア」。この曲は元々朗唱風のところがあるし、比較的テンポも緩いので、ピアノでの表現がしっくり来ていて、違和感があまりありません。
メフィスト・ワルツ以下は、まぁ、そういう音楽ですね。勿論悪くはありません。でも、まぁ、あのシューベルトを聴いた後でこれを聞いても、どうかなぁ。
このレーベルが今でもあるのかどうかも定かではないのですが、埋もれてしまうには惜しい演奏だと思います。ライブでこれだけの演奏というのはなかなかありませんから。
F.Liszt : Schubert Songs Transcriptions (Der Leiermann, Taeuschung, Gretchen am Spinnrade, Die junge Nonne, Ave Maria, Erlkoenig) / Mephisto-Waltz / Chapelle de Guillaume Tell (Annee de Pelerinage 1 Annee)
S.Rachmaninov : Marche Turque (after Beethoven)
Lazar Berman (piano)
DISCOVER INTERNATIONAL DICD 920164-5
今日は寒かったせいもあるのでしょうか、結構アクセスを頂いたようです。そんでもって、日付が変わるとぱったり.......寒いから、皆さっさと寝ちゃったのかしら..........?
閑話休題。
ラザール・ベルマンというピアニスト、どの程度知られている、と言うより、人気があるのでしょうか。
1930年生、2005年没。かつてギレリスに「自分とリヒテルと4手でかかっても敵わない」と言わしめ、その言葉のイメージ通り、リストの超絶技巧練習曲集の録音で鉄のカーテンの向こう側からデビューを果たしたピアニスト。こんなところでしょうか。今でも、リストの「巡礼の年報」や、カラヤンの指揮での、チャイコフスキーの協奏曲の録音などが手に入ります。ロシアの超絶系ピアニスト、というところでしょうか。
私がベルマンを最初に聞いたのは学生の頃ですが、確かにリストの録音ではあったのですが、リスト編曲によるシューベルトの歌曲のピアノ演奏だったのです。水車屋の「どこへ?」とか、5曲、10曲はなかったと思うけれど、いずれも決して超絶技巧派の曲では無く、むしろメロディックなものでした。それはLPのB面で、A面は多分リストのピアノソナタじゃなかったかと思うのですが、もう忘れてしまいました。ただ、そのシューベルト編曲ものが鮮烈に記憶に残っています。
技術がどうこうではなくて、そういうリストを弾く人、として。
一般にリストは超絶技巧のピアニストのイメージで知られていると思います。事実、リストは超絶技巧の人として知られていたし、それを誇示するような作品も多く残しています。けれど、彼の音楽が必ずしも技巧を誇示する為のものとしてあったわけではない、というのもまた事実です。
彼のものした多くのオペラや歌曲の編曲物は、必ずしもそうした音楽にアクセスすることが容易では無かった時代には、決して際物ではなく、真面目に音楽を紹介する手段としても機能していた面はあったわけです。また、彼のシューベルト歌曲の編曲は、基本的に元の歌曲から逸脱したものではありません。ただ、本来の伴奏に、歌自体を加えた音楽を一人で演奏するから大変だ、というだけのことなのです。音楽表現を豊かにする為の手段として技巧を求めた、というのがリストの音楽。その辺が、後々のロシア等の「技巧の為の技巧」を中心に据えた作品群とは違うのではないかと思います。
私にとってのベルマンは、そういう、豊かな音楽を求めたリストの像と重なるのです。シューベルトをこよなく愛し、その編曲を書き続けたリスト。
1992年6月27日、既に「壁」が崩壊し、ベルマンもイタリアに移住した後、ベルギーで行われた Juillet Musical d'Aulne という音楽祭での公演を録音したものです。
実のところ、この音楽祭、2007年の内容を見る限りでは、それほど大規模ではないし、出演者もそれほどではないし、果たしてこのクレジットは本当なの?とちょっと思ってしまうのではあります。ただまぁ、一応ベルギーのレコード会社の手によるようだし、間違いではないのでしょう。
当日の記録は無いので、想像ですが、2枚組で公演の全てを収めているのではないかと思います。1枚目がシューベルトの最後のソナタ、D.960。これが名演です。2枚目が、リスト編曲によるシューベルトの歌曲6曲。それにリストのメフィストワルツと巡礼の年報から一曲、そしてラフマニノフ編曲のトルコ行進曲。これはアンコールでしょうね。
そう、どちらかというと、この公演、シューベルト中心のプログラムなのです。
D.960ですが、素晴らしい演奏です。何がどう、という格別のことがある訳ではないのです。強いて言えば、インテンポで淡々としたように聞こえる演奏。けれど、シューベルトの歌心が遂にソナタの中に収まりどころを見つけたとも言えるこの曲では、むしろ淡々と演奏して、内在する歌が自然に歌い出すのを待つ方がいい演奏になるのだと思うのです。下手に表現しようと立ち回ってしまうと、却って折角の歌を矯めてしまうことになりかねないように思うのです。ハスキル然り、ルービンシュタイン然り、ポリーニ然り。ベルマンのこの演奏も、そうした歌心を理解した演奏ではないかと思うのです。まぁ、ライブということもあって、若干の揺らぎはありますが、十分です。
勿論、この淡々とした演奏を維持出来るのは、相応のテクニックがあるからに他なりません。結局、楽譜に書かれている音符を追っ掛けるだけで精一杯になってしまうような音楽は、技術的には大変だけど、音楽としてはそれだけのことなんですよね。
それと、ベルマンの演奏の清々としたこと。音色が澄んでいるのです。確かベルマンはこの頃にはイタリアのファツィオーリ社のピアノを使っている筈で、それが一因かも知れませんが、それにしてもこの音色は本当にこの時期のシューベルトに合います。
この演奏、生で聞けたらどんなに素晴らしいかと思います。と同時に、これを聞いた後、恐らく後半を聞かなければならない「不幸」も。いや、正直言うと、このシューベルトを生で聴いたら、あとはもう聞きたくなくなっちゃうかも知れないなと思います。
その後半の歌曲編曲ものですが、リストには悪いけど、やはりオリジナルの手によるD.960を聞いた後では、ちょっとね。曲も演奏も決して悪くはないですが、元の歌も知っている身としては、やはり限界があります。特に最後の「魔王」はちょっと苦しいですね。「歌って」しまっているのです。原曲には無いリタルダントも掛かってるし。何より魔王の語りが、遂に最後豹変する禍々しさは、やはり人の声には勝てないのではないかと。
そんな中でいいのは、「アヴェ・マリア」。この曲は元々朗唱風のところがあるし、比較的テンポも緩いので、ピアノでの表現がしっくり来ていて、違和感があまりありません。
メフィスト・ワルツ以下は、まぁ、そういう音楽ですね。勿論悪くはありません。でも、まぁ、あのシューベルトを聴いた後でこれを聞いても、どうかなぁ。
このレーベルが今でもあるのかどうかも定かではないのですが、埋もれてしまうには惜しい演奏だと思います。ライブでこれだけの演奏というのはなかなかありませんから。
2008/01/13のBlog
[ 03:14 ]
[ クラシック ]
J.S.BACH : Brandenburgishe Konzerte Nr.4-6 BWV.1049-51
Kammerorchester Berlin
Helmut Koch
Berlin Classic 0185312BC
かくて新年第一週は終わりました。いや、きつかった..... 身体がまだ鈍ってるので、普通に出掛けて仕事するだけで疲れてしまいます。そんな調子だと、音楽聴くのも何やら億劫で、手近にあるCDをカーステレオのスロットに突っ込んで掛けっぱなしでありました。ま、さすがにたまには取り替えますが。
で、そんな風にして聴いていたCDの一枚がこれ。バッハのブランデンブルグ協奏曲、46番までを収めたもの。ヘルムート・コッホ指揮、ベルリン室内管弦楽団のもの。最近出たBerlin Classicsの廉価盤シリーズです。録音年月等細かい情報は書かれていませんが、1972年頃の模様。
ブランデンブルグ協奏曲は、年始に曽根麻矢子のチェンバロで第5番を聞く機会がありました。第5番は第1楽章に長大なカデンツァがあるなど、チェンバロ大活躍の曲。それにフルートとヴァイオリンの独奏が絡みますので、同じバッハのチェンバロ(というか鍵盤楽器の為の)協奏曲なんかとはやはり違いますが、それにしても少々ブランデンブルクの中でも異色かも知れません。この曲が頭にあって、このCDを車に置いていたのです。
ブランデンブルグ協奏曲はどれも華やか、或いはちょっと厳かな感じで始まりますが、この第5番は華やかながらも少し落ち着いた感じがあります。
第1楽章は10分を超える中々の大曲です。聴きもののチェンバロのカデンツァは後半半ば過ぎ。とはいうものの、実は聞いてみると、チェンバロの、繊細とまでは言いませんが、ピアノはおろかフルートに比べても決して大きくない小音量、華麗な独奏が大活躍、というわけにはいかないのが実体ではあるんですけどね....
実の所、最初それと意識しないで聞いていると、録音のせいもあるでしょうが、どうしてもこの曲、フルートとヴァイオリンが独奏楽器、と思ってしまうような調子です。チェンバロはなかなか旋律楽器として躍り出ては来ないですから。正直、気を付けていないと、いつの間にかチェンバロのカデンツァに入っているのでして。ちょっと影が薄いような。
実際、意外と頑張ってるのがフルート。まぁ、元々チェンバロは通奏低音担当というケースが多い訳ですし、ヴァイオリン独奏よりは音色的にも目立ち易いですから。結構美味しい役ではあります。しっとりと落ち着いた、抒情的な緩徐楽章を経て、第3楽章は軽やかなヴァイオリンとフルートの掛け合いが楽しいジグ風のアレグロ。この冒頭は、最近コンタクトレンズ用の目薬だかの広告にも使われました。ああ、確かに、そういうのに向いてそうだねぇ、という感じのバロック的爽やかさを感じさせる音楽です。
コッホといえば、旧東独の指揮者として、Berlin Classics シリーズに録音が残っていますが、ちょっと知る人ぞ知る、みたいな感じかも知れません。演奏自体は、この第5番だけでなく、いずれもちょっとタイト気味な、けれど感じのいい演奏で揃っています。今の、古楽器演奏に非ずんば音楽に非ず、みたいな感じとは違って、一昔前の、派手では無いけどレガートだしそれなりにヴィヴラートも掛かる、といった趣の演奏です。だからチェンバロが少々役不足気味なのは、まぁ、それはそれで仕方無いかな、と思うのです。
それと、このCDでは、何れの曲でも、それぞれの独奏者が誰、という情報が出ていません。オーケストラと指揮者の名前が出ているだけ。まぁ、恐らくフルートやヴァイオリンといった楽器の独奏は、オーケストラのメンバーが担当しているんじゃないかな、と思います。チェンバロは.....どうなんだろ?流石にこれはメンバーではないだろうし。せめてそのくらいの情報は残しておいて欲しいですよね。
Kammerorchester Berlin
Helmut Koch
Berlin Classic 0185312BC
かくて新年第一週は終わりました。いや、きつかった..... 身体がまだ鈍ってるので、普通に出掛けて仕事するだけで疲れてしまいます。そんな調子だと、音楽聴くのも何やら億劫で、手近にあるCDをカーステレオのスロットに突っ込んで掛けっぱなしでありました。ま、さすがにたまには取り替えますが。
で、そんな風にして聴いていたCDの一枚がこれ。バッハのブランデンブルグ協奏曲、46番までを収めたもの。ヘルムート・コッホ指揮、ベルリン室内管弦楽団のもの。最近出たBerlin Classicsの廉価盤シリーズです。録音年月等細かい情報は書かれていませんが、1972年頃の模様。
ブランデンブルグ協奏曲は、年始に曽根麻矢子のチェンバロで第5番を聞く機会がありました。第5番は第1楽章に長大なカデンツァがあるなど、チェンバロ大活躍の曲。それにフルートとヴァイオリンの独奏が絡みますので、同じバッハのチェンバロ(というか鍵盤楽器の為の)協奏曲なんかとはやはり違いますが、それにしても少々ブランデンブルクの中でも異色かも知れません。この曲が頭にあって、このCDを車に置いていたのです。
ブランデンブルグ協奏曲はどれも華やか、或いはちょっと厳かな感じで始まりますが、この第5番は華やかながらも少し落ち着いた感じがあります。
第1楽章は10分を超える中々の大曲です。聴きもののチェンバロのカデンツァは後半半ば過ぎ。とはいうものの、実は聞いてみると、チェンバロの、繊細とまでは言いませんが、ピアノはおろかフルートに比べても決して大きくない小音量、華麗な独奏が大活躍、というわけにはいかないのが実体ではあるんですけどね....
実の所、最初それと意識しないで聞いていると、録音のせいもあるでしょうが、どうしてもこの曲、フルートとヴァイオリンが独奏楽器、と思ってしまうような調子です。チェンバロはなかなか旋律楽器として躍り出ては来ないですから。正直、気を付けていないと、いつの間にかチェンバロのカデンツァに入っているのでして。ちょっと影が薄いような。
実際、意外と頑張ってるのがフルート。まぁ、元々チェンバロは通奏低音担当というケースが多い訳ですし、ヴァイオリン独奏よりは音色的にも目立ち易いですから。結構美味しい役ではあります。しっとりと落ち着いた、抒情的な緩徐楽章を経て、第3楽章は軽やかなヴァイオリンとフルートの掛け合いが楽しいジグ風のアレグロ。この冒頭は、最近コンタクトレンズ用の目薬だかの広告にも使われました。ああ、確かに、そういうのに向いてそうだねぇ、という感じのバロック的爽やかさを感じさせる音楽です。
コッホといえば、旧東独の指揮者として、Berlin Classics シリーズに録音が残っていますが、ちょっと知る人ぞ知る、みたいな感じかも知れません。演奏自体は、この第5番だけでなく、いずれもちょっとタイト気味な、けれど感じのいい演奏で揃っています。今の、古楽器演奏に非ずんば音楽に非ず、みたいな感じとは違って、一昔前の、派手では無いけどレガートだしそれなりにヴィヴラートも掛かる、といった趣の演奏です。だからチェンバロが少々役不足気味なのは、まぁ、それはそれで仕方無いかな、と思うのです。
それと、このCDでは、何れの曲でも、それぞれの独奏者が誰、という情報が出ていません。オーケストラと指揮者の名前が出ているだけ。まぁ、恐らくフルートやヴァイオリンといった楽器の独奏は、オーケストラのメンバーが担当しているんじゃないかな、と思います。チェンバロは.....どうなんだろ?流石にこれはメンバーではないだろうし。せめてそのくらいの情報は残しておいて欲しいですよね。
2008/01/09のBlog
[ 01:02 ]
[ オペラ ]
L.Delibes "Lakme" (Highlights)
Mado Robin (Lakme, soprano), Agnes Disney (Malika, mazzo-soprano), Libero de Luca (Gerald, tenor), Jean Borthayre (Nilakantha, bariton)
Orchestre et Choeur de L'Opera-Comique, Paris
Georges Sebastian (conduct)
DECCA 475 6158
「莫迦」というの、好きです。
「馬鹿」じゃないんですよ。「バカ」でもない。この用法を見掛けたのは、新井素子に遡るのですが、うむ、仰る通り、この「莫迦」はいいなぁ、と思うので、喜んで使っているのであります。いわゆるバカにしているのではない、頭が弱いとかいうのとも違う。一番近いのは「空手バカ一代」でしょうか。似てるようで違うけど。
音楽、というより、オペラなんかでつい「莫迦だなぁ、こいつ」と思ってしまうことがあります。声楽系で、こやつ何でこんなとこでこんなことを........と思わざるを得ないようなことをしてくれる人が居るのです。
いや、正確には、居ました、でしょうね。それも、私が生まれる前とか。
勿論、古い録音ですから、真偽の程は分からないのです。でも、それにしても、「何だ何だこれは」と慌てふためかざるを得ないようなものが時々あるのです。最近でも、ある意味、グルベローヴァの録音など、「なんじゃこれは.....」と唖然とせざるを得ない、というようなことは起きるのです。古い所ではマリオ・デル・モナコとフランコ・コレッリ。こいつら、ライブ録音で聞くと、莫迦です。何故そこまで歌う........という歌唱を展開しているのです。
で、時々、あれこれ聞いていると、そういう「莫迦録音」にでっ食わしてしまうのです。
古いです。1952年録音。キャスティングは、正直「あんた、誰?」の世界。しかし、これが正規のデッカの録音なのであります。
ラクメというと、「花の二重唱」と「鐘の歌」くらいしか知りません。いや、全曲盤も持ってはいるけど、殆ど聞いてません。で、そういうオペラのハイライト盤なのですが、正直古めかしい。特に、ラクメ役のソプラノ、マド・ロビン(と読むのでしょうね)の歌い方は特に古めかしい。ファルセットで歌ってるような感じで、決して後々のグルベローヴァはおろか、デセイ、あるいはそれ以外の歌手と比べても、如何なものか......
しかし。この人、古めかしいながら、軽い声で、コロコロと転がすというよりは、ハチドリのように高音域の音符を飛び回るが如き歌い方で、それが決して固くなくて、それはそれで聞けるのです。
いや、聞けるなんてもんじゃない。今時コロラトューラで歌うのなら、ここまでの速さでは歌えない。それ以上に、見知らぬ男を助ける場面に入る前の高音、これは何?普通より、というのはつまり、グルベローヴァやサザランドと比べても、3度は高いぞ!いや、それ以上?
転がす方も、これまた通常の40%増くらいで転がしてるし。声も、線は細い分、伸ばす伸ばす。
正直、決して美声ではないと思うんですよ。ブレスも、時々変な所で入るし。決して褒められたものではない。
しかし、私の魂の奥底で(笑)、呼び声がするのです。こ奴、徒者ではない、と。
で、少し調べました。マド・ロビン。フランス人。1918年生まれ、1960年に癌で亡くなっています。42歳の誕生日を間近にしての死だったそうで。で、いわゆるHigh Cの上のDesまで出せたとか。録音やライブ映像も若干残っていて、ルチアでは、最後の最後にBまで出してるなんてのもあるのですが、ここまで来るとそもそも終始感が得られないので、流石にやり過ぎ。
つまり、莫迦ってことです。
いいなぁ、これ(笑)正直言うと、そこまでやると完全にイロモノですね。確かに、この歌い方で、ワールドクラスになるのはちょっと無理があったかも、と思います。実際、高い声が出るから、という理由で、アリアの最後を本来の調性と関係ない音で終わらせるのは、あまり宜しくないのです。普通はドミナントあたりの音に落とし込みますからね。それで初めて「ああ、アリアが終わった!凄いなぁ!」と安心して聞き終われるというものですから。
でも、まぁ、何、そんなこと構うものか!ってところなんでしょうね。実際、そこまで無関係に声を上げていくのを聞くと、莫迦だなぁこいつ、と思ってしまうのです。思いながら微苦笑を禁じ得ない。生で聞いたら面白かっただろうなぁ、きっと。
他はよく分かりません。まぁ、この「鐘の歌」聞くだけで価値があるというものでしょう。彼女の数少ない正規録音の一つのようですので、ご興味のある方は是非どうぞ。
Mado Robin (Lakme, soprano), Agnes Disney (Malika, mazzo-soprano), Libero de Luca (Gerald, tenor), Jean Borthayre (Nilakantha, bariton)
Orchestre et Choeur de L'Opera-Comique, Paris
Georges Sebastian (conduct)
DECCA 475 6158
「莫迦」というの、好きです。
「馬鹿」じゃないんですよ。「バカ」でもない。この用法を見掛けたのは、新井素子に遡るのですが、うむ、仰る通り、この「莫迦」はいいなぁ、と思うので、喜んで使っているのであります。いわゆるバカにしているのではない、頭が弱いとかいうのとも違う。一番近いのは「空手バカ一代」でしょうか。似てるようで違うけど。
音楽、というより、オペラなんかでつい「莫迦だなぁ、こいつ」と思ってしまうことがあります。声楽系で、こやつ何でこんなとこでこんなことを........と思わざるを得ないようなことをしてくれる人が居るのです。
いや、正確には、居ました、でしょうね。それも、私が生まれる前とか。
勿論、古い録音ですから、真偽の程は分からないのです。でも、それにしても、「何だ何だこれは」と慌てふためかざるを得ないようなものが時々あるのです。最近でも、ある意味、グルベローヴァの録音など、「なんじゃこれは.....」と唖然とせざるを得ない、というようなことは起きるのです。古い所ではマリオ・デル・モナコとフランコ・コレッリ。こいつら、ライブ録音で聞くと、莫迦です。何故そこまで歌う........という歌唱を展開しているのです。
で、時々、あれこれ聞いていると、そういう「莫迦録音」にでっ食わしてしまうのです。
古いです。1952年録音。キャスティングは、正直「あんた、誰?」の世界。しかし、これが正規のデッカの録音なのであります。
ラクメというと、「花の二重唱」と「鐘の歌」くらいしか知りません。いや、全曲盤も持ってはいるけど、殆ど聞いてません。で、そういうオペラのハイライト盤なのですが、正直古めかしい。特に、ラクメ役のソプラノ、マド・ロビン(と読むのでしょうね)の歌い方は特に古めかしい。ファルセットで歌ってるような感じで、決して後々のグルベローヴァはおろか、デセイ、あるいはそれ以外の歌手と比べても、如何なものか......
しかし。この人、古めかしいながら、軽い声で、コロコロと転がすというよりは、ハチドリのように高音域の音符を飛び回るが如き歌い方で、それが決して固くなくて、それはそれで聞けるのです。
いや、聞けるなんてもんじゃない。今時コロラトューラで歌うのなら、ここまでの速さでは歌えない。それ以上に、見知らぬ男を助ける場面に入る前の高音、これは何?普通より、というのはつまり、グルベローヴァやサザランドと比べても、3度は高いぞ!いや、それ以上?
転がす方も、これまた通常の40%増くらいで転がしてるし。声も、線は細い分、伸ばす伸ばす。
正直、決して美声ではないと思うんですよ。ブレスも、時々変な所で入るし。決して褒められたものではない。
しかし、私の魂の奥底で(笑)、呼び声がするのです。こ奴、徒者ではない、と。
で、少し調べました。マド・ロビン。フランス人。1918年生まれ、1960年に癌で亡くなっています。42歳の誕生日を間近にしての死だったそうで。で、いわゆるHigh Cの上のDesまで出せたとか。録音やライブ映像も若干残っていて、ルチアでは、最後の最後にBまで出してるなんてのもあるのですが、ここまで来るとそもそも終始感が得られないので、流石にやり過ぎ。
つまり、莫迦ってことです。
いいなぁ、これ(笑)正直言うと、そこまでやると完全にイロモノですね。確かに、この歌い方で、ワールドクラスになるのはちょっと無理があったかも、と思います。実際、高い声が出るから、という理由で、アリアの最後を本来の調性と関係ない音で終わらせるのは、あまり宜しくないのです。普通はドミナントあたりの音に落とし込みますからね。それで初めて「ああ、アリアが終わった!凄いなぁ!」と安心して聞き終われるというものですから。
でも、まぁ、何、そんなこと構うものか!ってところなんでしょうね。実際、そこまで無関係に声を上げていくのを聞くと、莫迦だなぁこいつ、と思ってしまうのです。思いながら微苦笑を禁じ得ない。生で聞いたら面白かっただろうなぁ、きっと。
他はよく分かりません。まぁ、この「鐘の歌」聞くだけで価値があるというものでしょう。彼女の数少ない正規録音の一つのようですので、ご興味のある方は是非どうぞ。
2008/01/08のBlog
