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2008/03/28のBlog
[ 02:17 ]
[ オペラ ]
ヴェルディ:「ドン・カルロ」
ホセ・カレーラス (tenor)
ミレッラ・フレーニ、エディタ・グルベローヴァ、バーバラ・ヘンドリックス (soprano)
アグネス・バルツァ (mezzo-soprano)
ピエロ・カップッチッリ (bariton)
ニコライ・ギャウロフ、ルッジェーロ・ライモンディ、ホセ・ファン・ダム
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン (conduct)
東芝EMI TOCE-6437-39
今月は新国立劇場で「アイーダ」を上演中。なかなかの人気だそうです。ま、自分も行ければ千秋楽に行こうと....... でも、正直言うと、自分としては、同じヴェルディでもアイーダより好きな曲は沢山あるのでして...... 例えば、「ドン・カルロ」。
「ドン・カルロ」の何処がいいか?
何はともあれ、配役とその音楽的バランスがいいのです。
ヴェルディは、モーツァルトと並んで低声、それも男性の低声を使うことに極めて長けていた人です。もっと言ってしまえば、バス・バリトン役こそヴェルディの真骨頂、バス・バリトンの活躍度合いが傑作度とリンクしていると言っても過言ではありません。ヴェルディの人気曲で、バス・バリトン役があまり活躍しないのは、椿姫くらいでしょうか。あれでも、2幕前半はパパ・ジェルモン出ずっぱりですし。ドン・カルロでは、ロドリーゴ、フィリッポ二世、宗教裁判長と低声の共演が勢揃い。
しかも音楽の密度が高い。オーケストラも厚いのですが、登場人物も多い分、アリアや重唱が多い。音楽的に逃げ場無し(笑)話の筋が重苦しいのも、この傾向に拍車を掛けます。まぁ、イタリア・オペラで舞台がスペインといっても、原作はドイツ人のシラーですからね。イタリア語版だと、いきなり廟堂の前で話が始まるし。物語中には本来恋人同士だったとはいえ義母と息子の悲恋、暴動に不倫、処刑に暗殺、最後は亡霊まで出て来るし。重いです。しかし、この黒い重さが、ヴェルディの音楽に合うのです。
この密度の濃い音楽を、カラヤンがベルリン・フィルを率いて録音したのがこのCD。ちなみにカラヤンはこのプロダクションをザルツブルク音楽祭で演し物にしていたのでした。なので、この録音は、ライブではないけれど、ザルツブルクの記録という面もあるにはあるのです。
カラヤンがベルリン・フィルを振っての録音なのですから、配役も豪華絢爛。外題役にカレーラス、エリザベッタにフレーニ、エボリの姫にバルツァ。まぁ、この時点で十分豪華ですが、凄いのが低声陣。ロドリーゴにピエロ・カップッチッリ、フィリッポ二世にニコライ・ギャウロフ。もうこの時点で凄い。1幕2場後半のこの2人のやり取りは迫力がありますが、それ以上に「怖い」のが、3幕1場。宗教裁判長がルッジェーロ・ライモンディ。この、ライモンディとギャウロフのやり取りは、まるでゴッドファーザー同士の対決さながらであります。ついでに、端役である修道士にホセ・ファン・ダム。もう何というか.......
とにかくこの録音、豪華版なのです。1幕に出て来る小性役のテバルドにエディタ・グルベローヴァ(!)、2幕の火刑の場面で出て来る「天上の声」にバーバラ・ヘンドリックス。
1980年前後の時期の録音からすれば、普通にはなかなか集まらない面子です。1960年前後のデッカのオペラ録音で集まっていた面々に匹敵する豪華さでしょう。ちょっとこれだけの面子を集めるのは、もう無理じゃないかな。
オーケストラの演奏も極上。かくあれかし、と思うような演奏です。テンポ、歌わせ方、響き、デュナミークのコントロール、タイミング、全て申し分無し。一つの完成形でしょう。歌手もそうなのですが、無理を感じる場面が無いのです。極めてスムーズ。
やはりカラヤンの真骨頂はオペラにあり、ですね。演奏する側も極上でしょうが、それを纏め上げるカラヤンの手腕は流石です。かゆいところに手が届く、と言ってもいいのでしょうか。
ドン・カルロには名演も多く、この録音も全てに秀でている訳ではないと思いますが、やはり「ドン・カルロを聞きたい」と思うとこの録音を手に取っていることが多いです。総合点も高いけれど、一つ一つの粒が揃っていて、何処を聞いても聞き応えがありますね。
ホセ・カレーラス (tenor)
ミレッラ・フレーニ、エディタ・グルベローヴァ、バーバラ・ヘンドリックス (soprano)
アグネス・バルツァ (mezzo-soprano)
ピエロ・カップッチッリ (bariton)
ニコライ・ギャウロフ、ルッジェーロ・ライモンディ、ホセ・ファン・ダム
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン (conduct)
東芝EMI TOCE-6437-39
今月は新国立劇場で「アイーダ」を上演中。なかなかの人気だそうです。ま、自分も行ければ千秋楽に行こうと....... でも、正直言うと、自分としては、同じヴェルディでもアイーダより好きな曲は沢山あるのでして...... 例えば、「ドン・カルロ」。
「ドン・カルロ」の何処がいいか?
何はともあれ、配役とその音楽的バランスがいいのです。
ヴェルディは、モーツァルトと並んで低声、それも男性の低声を使うことに極めて長けていた人です。もっと言ってしまえば、バス・バリトン役こそヴェルディの真骨頂、バス・バリトンの活躍度合いが傑作度とリンクしていると言っても過言ではありません。ヴェルディの人気曲で、バス・バリトン役があまり活躍しないのは、椿姫くらいでしょうか。あれでも、2幕前半はパパ・ジェルモン出ずっぱりですし。ドン・カルロでは、ロドリーゴ、フィリッポ二世、宗教裁判長と低声の共演が勢揃い。
しかも音楽の密度が高い。オーケストラも厚いのですが、登場人物も多い分、アリアや重唱が多い。音楽的に逃げ場無し(笑)話の筋が重苦しいのも、この傾向に拍車を掛けます。まぁ、イタリア・オペラで舞台がスペインといっても、原作はドイツ人のシラーですからね。イタリア語版だと、いきなり廟堂の前で話が始まるし。物語中には本来恋人同士だったとはいえ義母と息子の悲恋、暴動に不倫、処刑に暗殺、最後は亡霊まで出て来るし。重いです。しかし、この黒い重さが、ヴェルディの音楽に合うのです。
この密度の濃い音楽を、カラヤンがベルリン・フィルを率いて録音したのがこのCD。ちなみにカラヤンはこのプロダクションをザルツブルク音楽祭で演し物にしていたのでした。なので、この録音は、ライブではないけれど、ザルツブルクの記録という面もあるにはあるのです。
カラヤンがベルリン・フィルを振っての録音なのですから、配役も豪華絢爛。外題役にカレーラス、エリザベッタにフレーニ、エボリの姫にバルツァ。まぁ、この時点で十分豪華ですが、凄いのが低声陣。ロドリーゴにピエロ・カップッチッリ、フィリッポ二世にニコライ・ギャウロフ。もうこの時点で凄い。1幕2場後半のこの2人のやり取りは迫力がありますが、それ以上に「怖い」のが、3幕1場。宗教裁判長がルッジェーロ・ライモンディ。この、ライモンディとギャウロフのやり取りは、まるでゴッドファーザー同士の対決さながらであります。ついでに、端役である修道士にホセ・ファン・ダム。もう何というか.......
とにかくこの録音、豪華版なのです。1幕に出て来る小性役のテバルドにエディタ・グルベローヴァ(!)、2幕の火刑の場面で出て来る「天上の声」にバーバラ・ヘンドリックス。
1980年前後の時期の録音からすれば、普通にはなかなか集まらない面子です。1960年前後のデッカのオペラ録音で集まっていた面々に匹敵する豪華さでしょう。ちょっとこれだけの面子を集めるのは、もう無理じゃないかな。
オーケストラの演奏も極上。かくあれかし、と思うような演奏です。テンポ、歌わせ方、響き、デュナミークのコントロール、タイミング、全て申し分無し。一つの完成形でしょう。歌手もそうなのですが、無理を感じる場面が無いのです。極めてスムーズ。
やはりカラヤンの真骨頂はオペラにあり、ですね。演奏する側も極上でしょうが、それを纏め上げるカラヤンの手腕は流石です。かゆいところに手が届く、と言ってもいいのでしょうか。
ドン・カルロには名演も多く、この録音も全てに秀でている訳ではないと思いますが、やはり「ドン・カルロを聞きたい」と思うとこの録音を手に取っていることが多いです。総合点も高いけれど、一つ一つの粒が揃っていて、何処を聞いても聞き応えがありますね。
2008/03/25のBlog
[ 01:55 ]
[ クラシック ]
I.Stravinsky : Pulcinella Suite / Concerto in E flat for Chamber Orchestra "Dumbarton Oaks" / Eight Instrumental Miniatures (for fifteen players)
Orpheus Cnamber Orchestra
Deutshe Grammophon 419 628-2
ストラヴィンスキー。「春の祭典」「火の鳥」「ペトルーシュカ」のバレエ・リュス3部作(って言うのかどうか知りませんが)もいいですが、実は後年の擬古典主義の時代の作品が結構好きです。
その代表作とも言えるのが、ここに最初に収録されている「プルチネッラ」。最近は演奏される機会も増えて来たようですが、さすがに初期のバレエ3部作に比べれば知名度は劣ると思います。でも、これ、面白いんですよね。
いや、冷静に考えてみると、何処がどう「擬古典」なの?って話ではあるんですよね。確かに曲の形式は「古典」、というか、バロック期の組曲形式を踏襲しているのですが、なんだか違う。ちゃんと調べた訳じゃないけれど、形式は踏襲していても、リズムやハーモニーが「古典」じゃないようなのです。特にハーモニーというか響きが不思議で、言ってみれば古典から一度ロマン派、近代、無調を経て、先祖返りしました、という感じなんですね。
何処がどう、と説明するにはちゃんと解析しないと無理なんだと思いますが、鳴っている音の積み重ねが、一見自然なようで、実はロマン派以降の不協和音や「禁じ手」を知ってしまった耳には違和感はないけれど、本来有り得ないんじゃないでしょうか......というもののようなのです。
それは単にハーモニーの積み重ねだけでなく、楽器の使い方にしても、各声部の積み重ねにしても、微妙に「合ってない」のです。その不思議な違和感がまた面白みを増すのです。楽しいんだけど、ちょっと一筋縄ではいかない音楽ですね。
この録音はオルフェウス室内管弦楽団の演奏。指揮者を置かないということで珍しがられたり却ってネガティヴに見られたりということもある団体ですが、個人的には結構好きな団体です。響きを練り上げている、丁寧に音楽を作っているという感じです。
カップリングで、室内管弦楽の為の協奏曲「ダンバートン・オークス」、器楽の為の8つのミニアチュア、の2曲が収録されています。どちらも、擬古典主義の時代ながら、もう少し殻を出ている音楽です。特に「ダンバートン・オークス」はかなり現代的な響きが混じっていて、「ああ、20世紀の音楽だったな、やっぱり」と思わせる一面を持っています。
こういう曲も好きです。
Orpheus Cnamber Orchestra
Deutshe Grammophon 419 628-2
ストラヴィンスキー。「春の祭典」「火の鳥」「ペトルーシュカ」のバレエ・リュス3部作(って言うのかどうか知りませんが)もいいですが、実は後年の擬古典主義の時代の作品が結構好きです。
その代表作とも言えるのが、ここに最初に収録されている「プルチネッラ」。最近は演奏される機会も増えて来たようですが、さすがに初期のバレエ3部作に比べれば知名度は劣ると思います。でも、これ、面白いんですよね。
いや、冷静に考えてみると、何処がどう「擬古典」なの?って話ではあるんですよね。確かに曲の形式は「古典」、というか、バロック期の組曲形式を踏襲しているのですが、なんだか違う。ちゃんと調べた訳じゃないけれど、形式は踏襲していても、リズムやハーモニーが「古典」じゃないようなのです。特にハーモニーというか響きが不思議で、言ってみれば古典から一度ロマン派、近代、無調を経て、先祖返りしました、という感じなんですね。
何処がどう、と説明するにはちゃんと解析しないと無理なんだと思いますが、鳴っている音の積み重ねが、一見自然なようで、実はロマン派以降の不協和音や「禁じ手」を知ってしまった耳には違和感はないけれど、本来有り得ないんじゃないでしょうか......というもののようなのです。
それは単にハーモニーの積み重ねだけでなく、楽器の使い方にしても、各声部の積み重ねにしても、微妙に「合ってない」のです。その不思議な違和感がまた面白みを増すのです。楽しいんだけど、ちょっと一筋縄ではいかない音楽ですね。
この録音はオルフェウス室内管弦楽団の演奏。指揮者を置かないということで珍しがられたり却ってネガティヴに見られたりということもある団体ですが、個人的には結構好きな団体です。響きを練り上げている、丁寧に音楽を作っているという感じです。
カップリングで、室内管弦楽の為の協奏曲「ダンバートン・オークス」、器楽の為の8つのミニアチュア、の2曲が収録されています。どちらも、擬古典主義の時代ながら、もう少し殻を出ている音楽です。特に「ダンバートン・オークス」はかなり現代的な響きが混じっていて、「ああ、20世紀の音楽だったな、やっぱり」と思わせる一面を持っています。
こういう曲も好きです。
2008/03/23のBlog
[ 22:31 ]
[ 歌曲 ]
バトル:アヴェ・マリア
キャスリーン・バトル (soprano)
クリストファー・パークニング (guitar)
東芝EMI TOCE-13360
キャスリーン・バトル。今となっては懐かしい名前になってしまいました。20年以上前にニッカウィスキーのCMで、「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデル "セルセ" )を歌って一般に大ブレーク(って言い方当時はしなかったなぁ)したソプラノです。当時、リサイタルも行われて、聞きに行った覚えがあります。神奈川県民ホールだったかな。綺麗な声でした、確かに。
その後、オペラなどでも活躍していたのが、あまりに態度が悪いとのことで、結局METを閉め出されてしまいました。その後、オペラの舞台には立たなくなっているようです。リサイタルなどはやっているそうですが、日本にまではあまり情報は伝わって来ないですね。もう、今年還暦になるのだそうです。あの「オンブラ・マイ・フ」の時点で、もう40近かった訳で。なるほどねぇ。
このアルバム、原題は "Pleasure of Their Company" となっています。Their とは、バトルと伴奏のギターを弾くクリストファー・パークニング。アメリカのギタリストで、若くして名手と呼ばれながら、早々に田舎に引っ込んで、あまり演奏活動は引き受けない、という生活を送っているそうです。うーん、知らないなぁ、この人。
とはいえこのコンビの演奏は素晴らしい。どちらかというと線が細めで透明感のあるバトルの声に、ギターの伴奏はよく合います。主張し過ぎず、でもしっかりと寄り添うパークニングの演奏もいい。このアルバムの最初はダウランドの曲を5曲、内2曲はギター独奏なのですが、現代ギターの筈なのだけど、違和感は全くありません。今ならリュートか、それでなくてもバロックギターか何か使うでしょうが、そんなこと関係なくいい演奏です。
ダウランドで最近記憶に残っているのはスティングの歌ったものですが、こちらのバトルのものもいい歌唱です。といって、いわゆる「ルネッサンス期のイングランドの音楽・ダウランドを歌う」って感じではなくて、普通に歌を歌っている。それがたまたまダウランドでした、と。ダウランドの歌自体、そういう性格のものなのかも知れませんね。そういえば、エマ・カークビーのようなスペシャリストの歌うダウランドより、スティングやバトルみたいなのの方が、私は好きなのかも知れません。構えた所が無くて。
他には、バッハのプレリュードの旋律に載せた、グノーの「アヴェ・マリア」、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」、グラナドスやファリャ、ブラジルの歌曲、それに黒人霊歌、と、全20曲。クラシックのソプラノのアルバムとしては少々風変わりかも知れませんが、バトルの可憐な美声(とギター)を存分に楽しめるアルバムです。
そう、改めて聞くと、本当にバトルの声はいい声なんですよね。わかってはいる事だけど、再認識させられます。もう少し色々と録音しておいてくれればよかったのに。
残りの曲では、やはりバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」もいいけど、黒人霊歌もひと味違っていいですね。古くはレオンタイン・プライスとか、最近ならバーバラ・ヘンドリックスあたりが歌っていますが、バトルの、ドラマティックな感じとはちょっと違う声で歌われると、随分印象が変わります。こんなに抒情的なものだったのか、と。
やっぱり勿体無いよなぁ、バトル......
キャスリーン・バトル (soprano)
クリストファー・パークニング (guitar)
東芝EMI TOCE-13360
キャスリーン・バトル。今となっては懐かしい名前になってしまいました。20年以上前にニッカウィスキーのCMで、「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデル "セルセ" )を歌って一般に大ブレーク(って言い方当時はしなかったなぁ)したソプラノです。当時、リサイタルも行われて、聞きに行った覚えがあります。神奈川県民ホールだったかな。綺麗な声でした、確かに。
その後、オペラなどでも活躍していたのが、あまりに態度が悪いとのことで、結局METを閉め出されてしまいました。その後、オペラの舞台には立たなくなっているようです。リサイタルなどはやっているそうですが、日本にまではあまり情報は伝わって来ないですね。もう、今年還暦になるのだそうです。あの「オンブラ・マイ・フ」の時点で、もう40近かった訳で。なるほどねぇ。
このアルバム、原題は "Pleasure of Their Company" となっています。Their とは、バトルと伴奏のギターを弾くクリストファー・パークニング。アメリカのギタリストで、若くして名手と呼ばれながら、早々に田舎に引っ込んで、あまり演奏活動は引き受けない、という生活を送っているそうです。うーん、知らないなぁ、この人。
とはいえこのコンビの演奏は素晴らしい。どちらかというと線が細めで透明感のあるバトルの声に、ギターの伴奏はよく合います。主張し過ぎず、でもしっかりと寄り添うパークニングの演奏もいい。このアルバムの最初はダウランドの曲を5曲、内2曲はギター独奏なのですが、現代ギターの筈なのだけど、違和感は全くありません。今ならリュートか、それでなくてもバロックギターか何か使うでしょうが、そんなこと関係なくいい演奏です。
ダウランドで最近記憶に残っているのはスティングの歌ったものですが、こちらのバトルのものもいい歌唱です。といって、いわゆる「ルネッサンス期のイングランドの音楽・ダウランドを歌う」って感じではなくて、普通に歌を歌っている。それがたまたまダウランドでした、と。ダウランドの歌自体、そういう性格のものなのかも知れませんね。そういえば、エマ・カークビーのようなスペシャリストの歌うダウランドより、スティングやバトルみたいなのの方が、私は好きなのかも知れません。構えた所が無くて。
他には、バッハのプレリュードの旋律に載せた、グノーの「アヴェ・マリア」、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」、グラナドスやファリャ、ブラジルの歌曲、それに黒人霊歌、と、全20曲。クラシックのソプラノのアルバムとしては少々風変わりかも知れませんが、バトルの可憐な美声(とギター)を存分に楽しめるアルバムです。
そう、改めて聞くと、本当にバトルの声はいい声なんですよね。わかってはいる事だけど、再認識させられます。もう少し色々と録音しておいてくれればよかったのに。
残りの曲では、やはりバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」もいいけど、黒人霊歌もひと味違っていいですね。古くはレオンタイン・プライスとか、最近ならバーバラ・ヘンドリックスあたりが歌っていますが、バトルの、ドラマティックな感じとはちょっと違う声で歌われると、随分印象が変わります。こんなに抒情的なものだったのか、と。
やっぱり勿体無いよなぁ、バトル......
2008/03/22のBlog
[ 23:50 ]
[ クラシック ]
WEIHNACHTEN IM MITTELALTER
ensemble fuer fruehe musik augsburg
Christophorus CHE 0116-2
全く季節外れなものを聞いております。もう春酣というのに、なんでクリスマス(苦笑)例によってお安く出ていたCDを拾って来たんですけどね。
「古楽器演奏」はあまり好きではありませんが、古楽は結構聞くのです。その中でも古い方、バロックより前の音楽を割合に好むのは、やっぱり少しあまのじゃくなんでしょうね、私の場合。
バロック以前になると、そもそも「弦楽合奏」みたいなものはあまり出てきません。基本は声楽曲ですし、器楽もあるにはあるけど、古楽器も古楽器、現代では滅多にお目にかかれないような木管楽器(蛇みたいにうねうねとした管楽器なんて見たことあります?)やチャルメラの元祖みたいな金管楽器とか、そんな楽器での小アンサンブルによる演奏とか。ここまでくると、そもそもどういう音楽だったのかの解明から始まります。音楽そのものも、バロック以降主流となる和声法以前、教会旋法やそれ以前のものが基礎になりますから、今聞かれる音楽とは随分違います。
なんでそんなのがいいのか、と言われると困るんですが、まぁ、言ってみれば、エスニック音楽を聞くのとそう遠くない感覚なのかも知れませんね。もっとも、南方系のリズミックなエスニックではないですけどね、やっぱり。でもまぁ、ビザンツ聖歌とか聞いてると、やはり「ワールド・ミュージック」の範疇だよなぁ、とか思うので、昔々の欧州の音楽だって、その一部と考えた方がすっきりするかも知れません。
さて、CDの話に戻ります。
ドイツのCHRISTOPHORUSというレーベルから出たCDです。会社自体はハイデルベルクにあるようですが、このCD、2004年のものなのに、既に記載されているサイトはありません。ううむ。演奏は、ensemble fuer fruehe musik augsburg というところ。録音自体はもっと古く、1985年のようです。
アンサンブル、と言っても5人でやってるようで、皆で歌ったり、リコーダーやら打楽器やらリュートやらフィドルやらオルガンやらその他色々とっかえひっかえやってます。でも、合唱主体なのですが、なかなか豊穣で、とても3人(歌うのは3人だけらしい)でやってるとは思えないくらい。
「中世のクリスマス」という題名通り、12世紀から15世紀にかけての、宗教的な曲を演奏しています。全17曲の内器楽曲は2つくらいで、後は声楽曲。内容的には、主の栄光を讃えるという風の曲が主です。まぁ、クリスマスですからね。死者を悼み、平穏を祈る、みたいなのはさすがにありません。曲想も、まぁ「クラシック音楽」の感覚からはかなりずれるにせよ、祝祭的と言うか、賑々しいと言うか、やや華やかな感じを抱かせる曲が多いです。世俗曲とそう変わらないような気がしてきます。
宗教曲、というと、どうもバロック期の、それもバッハなんかの曲を思い浮かべることが多いのですが、思うに、あの時期のプロテスタントの重厚な曲も悪くないのですが、やはりそればっかりではないと思うのですね。合唱なんかで、マショーとか、バロック以前の曲をやったりしたことのある人なら先刻承知、って話かも知れないですが。気難しいばっかりじゃ確かにやってられないですしね。
ensemble fuer fruehe musik augsburg
Christophorus CHE 0116-2
全く季節外れなものを聞いております。もう春酣というのに、なんでクリスマス(苦笑)例によってお安く出ていたCDを拾って来たんですけどね。
「古楽器演奏」はあまり好きではありませんが、古楽は結構聞くのです。その中でも古い方、バロックより前の音楽を割合に好むのは、やっぱり少しあまのじゃくなんでしょうね、私の場合。
バロック以前になると、そもそも「弦楽合奏」みたいなものはあまり出てきません。基本は声楽曲ですし、器楽もあるにはあるけど、古楽器も古楽器、現代では滅多にお目にかかれないような木管楽器(蛇みたいにうねうねとした管楽器なんて見たことあります?)やチャルメラの元祖みたいな金管楽器とか、そんな楽器での小アンサンブルによる演奏とか。ここまでくると、そもそもどういう音楽だったのかの解明から始まります。音楽そのものも、バロック以降主流となる和声法以前、教会旋法やそれ以前のものが基礎になりますから、今聞かれる音楽とは随分違います。
なんでそんなのがいいのか、と言われると困るんですが、まぁ、言ってみれば、エスニック音楽を聞くのとそう遠くない感覚なのかも知れませんね。もっとも、南方系のリズミックなエスニックではないですけどね、やっぱり。でもまぁ、ビザンツ聖歌とか聞いてると、やはり「ワールド・ミュージック」の範疇だよなぁ、とか思うので、昔々の欧州の音楽だって、その一部と考えた方がすっきりするかも知れません。
さて、CDの話に戻ります。
ドイツのCHRISTOPHORUSというレーベルから出たCDです。会社自体はハイデルベルクにあるようですが、このCD、2004年のものなのに、既に記載されているサイトはありません。ううむ。演奏は、ensemble fuer fruehe musik augsburg というところ。録音自体はもっと古く、1985年のようです。
アンサンブル、と言っても5人でやってるようで、皆で歌ったり、リコーダーやら打楽器やらリュートやらフィドルやらオルガンやらその他色々とっかえひっかえやってます。でも、合唱主体なのですが、なかなか豊穣で、とても3人(歌うのは3人だけらしい)でやってるとは思えないくらい。
「中世のクリスマス」という題名通り、12世紀から15世紀にかけての、宗教的な曲を演奏しています。全17曲の内器楽曲は2つくらいで、後は声楽曲。内容的には、主の栄光を讃えるという風の曲が主です。まぁ、クリスマスですからね。死者を悼み、平穏を祈る、みたいなのはさすがにありません。曲想も、まぁ「クラシック音楽」の感覚からはかなりずれるにせよ、祝祭的と言うか、賑々しいと言うか、やや華やかな感じを抱かせる曲が多いです。世俗曲とそう変わらないような気がしてきます。
宗教曲、というと、どうもバロック期の、それもバッハなんかの曲を思い浮かべることが多いのですが、思うに、あの時期のプロテスタントの重厚な曲も悪くないのですが、やはりそればっかりではないと思うのですね。合唱なんかで、マショーとか、バロック以前の曲をやったりしたことのある人なら先刻承知、って話かも知れないですが。気難しいばっかりじゃ確かにやってられないですしね。
2008/03/21のBlog
[ 01:15 ]
[ クラシック ]
L.v.Beethoven : Piano Sonata No.21 op.53 "Waldstein" / No.26 op.81a "Les Adieux" / No.27 op.90
Inger Soedergren (piano)
Calliope CAL6306
実は、私、ベートーヴェンのソナタは繰り返し年中聞いているようです。気が付くと、誰かのCDで聞いていたりする。実際、CDショップのバーゲンなんかで見つけると、結構拾ってしまったりしている。で、そんなもの聞くのかと言われると、結構聞いていたりします。やっぱり好きなんでしょうね。
と言っても、満遍なく全32曲聞いてる訳ではありません。正直、初期のソナタはあまり聞きません。やはり名前付きのソナタはよく聞いています。特に14番以降。「月光」「田園」「テンペスト」「ワルトシュタイン」「熱情」「告別」......「ハンマークラヴィーア」は、大曲なのもあって、あまり聞いてはいませんが、op.90以降のソナタは結構聞いています。特にop.109,110,111!
それぞれの曲の魅力は本当にそれぞれで。でも、どうして、私、ベートーヴェンなんでしょうね?昔から繰り返し聞いて耳慣れているということはあるにせよ。
思うに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタというのは、存外わかりやすいのではないかと思うのです。簡単だとか言ってる訳ではないですよ。ただ、旋律にしても、展開にしても、取り敢えず鑑賞するレベルでは、決して掴みにくいというわけではないと思うのです。構成にしても、最後期のものはともかく、中期のものは決してわかりにくいとは言わないだろうし。ベートーヴェンも、そういう点では結構はっきりした音楽を書いた人だと思うし。
それと、割合に「違い」がわかりやすいのかな、とも思うのです。どうアプローチして、どのように構成し、表現するか、その差異が比較的わかりやすいのかな、と。繰り返し聞いているから、という単純な理由かも知れませんが。
まぁ、そんなこんなで、またベートーヴェンを聞いているのです。
今日は、インゲル・ゼーダーグレン、というピアニストの演奏を聞いています。まぁ、正確にはどう読むのか、分からないんですけどね。ゼーダーグレンは、先日取り上げたナタリー・シュトゥッツマンの「白鳥の歌」で伴奏を務めているピアニスト。同じCALIOPEレーベルでの録音です。ストックホルムで勉強して、後にウィーンとザルツブルクで学び、フランスではナディア・ブーランジェに師事.....てなとこですね。
曲目は、「ワルトシュタイン」「告別」、op.90の3曲。なかなかメージャーながらいいところを突いた組み合わせです。好きな曲ばかりというのもポイント高いです。演奏内容は、悪くないですが、個性的ではあります。一部、妙にテンポが揺れたりして、崩れる部分もあります。まぁそれも個性の内だよ、と言えば言えなくはないんでしょうが。でも、正直言うと、どうしてそうなるのか、そういう表現になるのか、ピンと来ない部分もあります。
良し悪しで言うとどうなるんだろうなぁ。まぁ、「こういう演奏もある」ということかな。結構達者なだけに、少し不思議な演奏ですね。好き嫌いもあると思いますが。
んな微妙なもん聞いてどうするんだ、って言われるかも知れませんが、そういう演奏も含めて、それぞれに違う色が出ているのが面白い、ってところでしょうか。それでいて、どの演奏も、ベートーヴェンはやっぱりベートーヴェンになってる、というところも。
Inger Soedergren (piano)
Calliope CAL6306
実は、私、ベートーヴェンのソナタは繰り返し年中聞いているようです。気が付くと、誰かのCDで聞いていたりする。実際、CDショップのバーゲンなんかで見つけると、結構拾ってしまったりしている。で、そんなもの聞くのかと言われると、結構聞いていたりします。やっぱり好きなんでしょうね。
と言っても、満遍なく全32曲聞いてる訳ではありません。正直、初期のソナタはあまり聞きません。やはり名前付きのソナタはよく聞いています。特に14番以降。「月光」「田園」「テンペスト」「ワルトシュタイン」「熱情」「告別」......「ハンマークラヴィーア」は、大曲なのもあって、あまり聞いてはいませんが、op.90以降のソナタは結構聞いています。特にop.109,110,111!
それぞれの曲の魅力は本当にそれぞれで。でも、どうして、私、ベートーヴェンなんでしょうね?昔から繰り返し聞いて耳慣れているということはあるにせよ。
思うに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタというのは、存外わかりやすいのではないかと思うのです。簡単だとか言ってる訳ではないですよ。ただ、旋律にしても、展開にしても、取り敢えず鑑賞するレベルでは、決して掴みにくいというわけではないと思うのです。構成にしても、最後期のものはともかく、中期のものは決してわかりにくいとは言わないだろうし。ベートーヴェンも、そういう点では結構はっきりした音楽を書いた人だと思うし。
それと、割合に「違い」がわかりやすいのかな、とも思うのです。どうアプローチして、どのように構成し、表現するか、その差異が比較的わかりやすいのかな、と。繰り返し聞いているから、という単純な理由かも知れませんが。
まぁ、そんなこんなで、またベートーヴェンを聞いているのです。
今日は、インゲル・ゼーダーグレン、というピアニストの演奏を聞いています。まぁ、正確にはどう読むのか、分からないんですけどね。ゼーダーグレンは、先日取り上げたナタリー・シュトゥッツマンの「白鳥の歌」で伴奏を務めているピアニスト。同じCALIOPEレーベルでの録音です。ストックホルムで勉強して、後にウィーンとザルツブルクで学び、フランスではナディア・ブーランジェに師事.....てなとこですね。
曲目は、「ワルトシュタイン」「告別」、op.90の3曲。なかなかメージャーながらいいところを突いた組み合わせです。好きな曲ばかりというのもポイント高いです。演奏内容は、悪くないですが、個性的ではあります。一部、妙にテンポが揺れたりして、崩れる部分もあります。まぁそれも個性の内だよ、と言えば言えなくはないんでしょうが。でも、正直言うと、どうしてそうなるのか、そういう表現になるのか、ピンと来ない部分もあります。
良し悪しで言うとどうなるんだろうなぁ。まぁ、「こういう演奏もある」ということかな。結構達者なだけに、少し不思議な演奏ですね。好き嫌いもあると思いますが。
んな微妙なもん聞いてどうするんだ、って言われるかも知れませんが、そういう演奏も含めて、それぞれに違う色が出ているのが面白い、ってところでしょうか。それでいて、どの演奏も、ベートーヴェンはやっぱりベートーヴェンになってる、というところも。
2008/03/17のBlog
[ 01:05 ]
[ 車外(?)で音楽 ]
ilha de sol
Chie (vocal)
ビデオアーツ・ミュージック/コロムビアミュージックエンタテインメント VACL 0007
珍しくボサノヴァなんぞ聞いております。普段もまるで聞かない訳ではないんですけどね。
先月、銀座の方に出たついでにMacストアに寄ったら、たまたま店内のイベントスペースでライブをやっていたので、聞いてみた人です。Chieさんとおっしゃる。まだメジャーデビューで4年目にして2枚目のアルバム、という人です。
声が綺麗なんですよ。まぁ、日本人でボサノヴァ歌う女性って、大抵声は綺麗なんでしょうが、この人のは清々しさのある、シンプルで綺麗な声です。
ジャケットがとても印象的。
紙製のデジパック仕様で、全面白一色。その中央に小さめに、歌い手自身が何も着ず、付けず、ぐっと膝を抱えて胎児のように座っている写真。でも、全くいやらしい感じはなくて、むしろ清潔感が漂います。ジャケットの、柔らかい白一色、というのがそれを後押ししているのでしょう。彼女の声同様にシンプルなイメージ。
特にポップスの場合、ジャケットイメージは重要です。クラシックなどは、最初からどんな曲、どんな音楽が入っているか、概ね分かってるので、ジャケットが与えるイメージはあまり議論されませんが、ポップスの場合はそもそも何が入ってるか、知名度の高いグループなら概ね分かってても、いや、その場合だって、意外と「何が入ってるだろう?」と思われることは多いと思うし。イメージ戦略は大事でしょう。その点、このジャケットは大変よく出来てると思うのです。
ライナーノートも大変シンプルで、解説らしき物はおろか、歌詞も、オリジナルの歌詞しか載っていません。で、殆どがポルトガル語の歌なので、私には何歌ってるのかさっぱり分かりません(笑)一部の曲は、先だってのライブの時に説明を聞いてるから、一応何歌ってるか、大意はわかるんですが。
でも、それでどうこうって気は勿論しないのです。シンプルでいいじゃん、みたいな(笑)
音楽的には、えー、ボサノヴァです(笑)
全10曲、いずれも誰かの書いた曲を選んで歌っています。中では、2曲目、Kleiton Ramil と Kleidir Ramil という2人の手による「A ilha」が、浮遊感一杯の不思議でかつリラックスさせてくれる曲です。3曲目のCaetano Veloso による「Trilhos Urbanos」、それに6曲目の「Samba do Grande Amor」(Chico Buarque)もいいですね。Samba do Grande Amor は、題の通りリズミックな曲なのだけど、とても上品で少し気怠いという、上質のボサノヴァのイメージそのもののような仕上がりです。
たまたま知って手に取って、というわけですが、なかなかよいですよ。たまにはこういうのも。
3月17日(って今日じゃん)、大阪・心斎橋、18日には東京・渋谷のClub Quattroでライブがあるそうです。勿論私は忙しいので行きませんが、興味のある方はどうぞ。なかなかええですよ。
Chie (vocal)
ビデオアーツ・ミュージック/コロムビアミュージックエンタテインメント VACL 0007
珍しくボサノヴァなんぞ聞いております。普段もまるで聞かない訳ではないんですけどね。
先月、銀座の方に出たついでにMacストアに寄ったら、たまたま店内のイベントスペースでライブをやっていたので、聞いてみた人です。Chieさんとおっしゃる。まだメジャーデビューで4年目にして2枚目のアルバム、という人です。
声が綺麗なんですよ。まぁ、日本人でボサノヴァ歌う女性って、大抵声は綺麗なんでしょうが、この人のは清々しさのある、シンプルで綺麗な声です。
ジャケットがとても印象的。
紙製のデジパック仕様で、全面白一色。その中央に小さめに、歌い手自身が何も着ず、付けず、ぐっと膝を抱えて胎児のように座っている写真。でも、全くいやらしい感じはなくて、むしろ清潔感が漂います。ジャケットの、柔らかい白一色、というのがそれを後押ししているのでしょう。彼女の声同様にシンプルなイメージ。
特にポップスの場合、ジャケットイメージは重要です。クラシックなどは、最初からどんな曲、どんな音楽が入っているか、概ね分かってるので、ジャケットが与えるイメージはあまり議論されませんが、ポップスの場合はそもそも何が入ってるか、知名度の高いグループなら概ね分かってても、いや、その場合だって、意外と「何が入ってるだろう?」と思われることは多いと思うし。イメージ戦略は大事でしょう。その点、このジャケットは大変よく出来てると思うのです。
ライナーノートも大変シンプルで、解説らしき物はおろか、歌詞も、オリジナルの歌詞しか載っていません。で、殆どがポルトガル語の歌なので、私には何歌ってるのかさっぱり分かりません(笑)一部の曲は、先だってのライブの時に説明を聞いてるから、一応何歌ってるか、大意はわかるんですが。
でも、それでどうこうって気は勿論しないのです。シンプルでいいじゃん、みたいな(笑)
音楽的には、えー、ボサノヴァです(笑)
全10曲、いずれも誰かの書いた曲を選んで歌っています。中では、2曲目、Kleiton Ramil と Kleidir Ramil という2人の手による「A ilha」が、浮遊感一杯の不思議でかつリラックスさせてくれる曲です。3曲目のCaetano Veloso による「Trilhos Urbanos」、それに6曲目の「Samba do Grande Amor」(Chico Buarque)もいいですね。Samba do Grande Amor は、題の通りリズミックな曲なのだけど、とても上品で少し気怠いという、上質のボサノヴァのイメージそのもののような仕上がりです。
たまたま知って手に取って、というわけですが、なかなかよいですよ。たまにはこういうのも。
3月17日(って今日じゃん)、大阪・心斎橋、18日には東京・渋谷のClub Quattroでライブがあるそうです。勿論私は忙しいので行きませんが、興味のある方はどうぞ。なかなかええですよ。
2008/03/16のBlog
[ 03:01 ]
[ ジャズ ]
ソニー・ロリンズ:ザ・ソロ・アルバム
ソニー・ロリンズ (tenor saxophone)
MILESTONE/ビクターエンタテインメント VICJ-41854
これはなかなか凄いCDです。
まず、全編テナー・サックス・ソロ、というのが凄い。サックスなどのソロで1曲吹き通す、というのは無くはないけれど、流石にサックス・ソロだけでアルバム作りました、というのはそうは多くない筈です。
しかも、このCD、実はトラックが1つしかありません。「ソロスコープ」と題名は付いてますが、全編56分が1トラックで1曲ということになっている。まぁ、実際には、途中で拍手で一度切れたりとかしてはいるんですけどね。でも、基本的には、56分出ずっぱり一本勝負というアルバム。実は聞く方も大変です。LPより大変。だって、切れ目がないんですから、始まったら最後まで聞かなきゃ状態。
更に、これ、ライブ録音なんですね。1985年7月19日、ニューヨークのMOMA、近代美術館で行われたライブの録音。管楽器は息を吹き込んで音を出すので、結構体力使います。それを56分出ずっぱり。しかもソロなので止める訳にはいかない。止めたら音楽が止まってしまいます。いや、先述の通り、流石に時々拍手が入って止まりはするけど、すぐ始めてしまう。それがライブで。
しかも、吹いているのが、ソニー・ロリンズなんですから、これは......(笑)
演奏の方はというと、流石に、密度の点で苦しい部分もあると思います。聞いていると、何処かで聞いたことのあるフレーズが出て来るし、似たようなフレーズの繰り返しで、ん?と思うような部分も無きにしも非ずだし。
正直、ソニー・ロリンズ、50年代のサキソフォン・コロッサスの頃が一番尖ってたと思うんですね。後々には、決して素晴らしく独創的 - サキソフォン・コロッサスのように、というレベルで - とは言えない、というのはあると思います。
でも、この演奏のある種の集中力はさすが大御所。これだけの時間、ろくに休みも入れずに、サクソフォン一本で音楽を持続させてしまうというのは、やはりなまなかなことではないと思います。密度、という点で、とは言ったものの、生演奏ということを考えれば決して薄い訳ではない。むしろ、実際ライブで聞いていたら、これはかなり凄かったんじゃないかと思います。大音響や異形の演奏で逃げることもないですし。56分も演奏していれば、何処かで音楽的に休みたい部分があるのも道理。そのくらいの緩急が、却ってライブ感を感じさせるというものかも知れません。
ソニー・ロリンズ (tenor saxophone)
MILESTONE/ビクターエンタテインメント VICJ-41854
これはなかなか凄いCDです。
まず、全編テナー・サックス・ソロ、というのが凄い。サックスなどのソロで1曲吹き通す、というのは無くはないけれど、流石にサックス・ソロだけでアルバム作りました、というのはそうは多くない筈です。
しかも、このCD、実はトラックが1つしかありません。「ソロスコープ」と題名は付いてますが、全編56分が1トラックで1曲ということになっている。まぁ、実際には、途中で拍手で一度切れたりとかしてはいるんですけどね。でも、基本的には、56分出ずっぱり一本勝負というアルバム。実は聞く方も大変です。LPより大変。だって、切れ目がないんですから、始まったら最後まで聞かなきゃ状態。
更に、これ、ライブ録音なんですね。1985年7月19日、ニューヨークのMOMA、近代美術館で行われたライブの録音。管楽器は息を吹き込んで音を出すので、結構体力使います。それを56分出ずっぱり。しかもソロなので止める訳にはいかない。止めたら音楽が止まってしまいます。いや、先述の通り、流石に時々拍手が入って止まりはするけど、すぐ始めてしまう。それがライブで。
しかも、吹いているのが、ソニー・ロリンズなんですから、これは......(笑)
演奏の方はというと、流石に、密度の点で苦しい部分もあると思います。聞いていると、何処かで聞いたことのあるフレーズが出て来るし、似たようなフレーズの繰り返しで、ん?と思うような部分も無きにしも非ずだし。
正直、ソニー・ロリンズ、50年代のサキソフォン・コロッサスの頃が一番尖ってたと思うんですね。後々には、決して素晴らしく独創的 - サキソフォン・コロッサスのように、というレベルで - とは言えない、というのはあると思います。
でも、この演奏のある種の集中力はさすが大御所。これだけの時間、ろくに休みも入れずに、サクソフォン一本で音楽を持続させてしまうというのは、やはりなまなかなことではないと思います。密度、という点で、とは言ったものの、生演奏ということを考えれば決して薄い訳ではない。むしろ、実際ライブで聞いていたら、これはかなり凄かったんじゃないかと思います。大音響や異形の演奏で逃げることもないですし。56分も演奏していれば、何処かで音楽的に休みたい部分があるのも道理。そのくらいの緩急が、却ってライブ感を感じさせるというものかも知れません。
2008/03/15のBlog
[ 11:37 ]
[ ラ・フォル・ジュルネ ]
F.Schubert : Schwanengesang D.957, 5Lieder
(Sehnsucht D.879, Der Tod und das Maedchen D.531, Auf der Bruck D.853, Fischerweise D.881, Der Wanderer D.493)
Nathalie Stutzmann (contralto)
Inger Soedergren (piano)
CALIOPE CAL9359
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのサイトはこちら
いよいよ今日からチケットの一般発売も始まった、ラ・フォル・ジュルネでありますが、今年はシューベルトということもあって、声楽曲が目白押しです。
歌というのには、詩が付いている以上、その内容によっては性差があります。何も難しい話ではありません。恋人であった娘の不実を嘆く歌であれば、まぁ歌ってるのは青年であろう、というように考えるのが、19世紀以前の歌曲であれば取り敢えずは自然というものでしょう。
ただ、そうは言っても、だから"男性" の歌は女性は歌いません、"女性" の歌は男性は歌いません、とはならないものではあります。確かに歌詞の中での語り手の性別と、実際の歌い手の性別が一致するのであれば、その方がより「それらしい」ということにはなるのでしょうが、だから「歌うべきではない」とも言えないのでして。実際、歌うに相応しい声の持ち主なら、必ずしも性別にこだわる必要もないのでしょう。
例えば、今回のラ・フォル・ジュルネでは、メゾソプラノの白井光子がシューベルトの歌曲集「冬の旅」を歌います。でも、この歌曲集、明らかに「主人公」は青年男性なんですよね。冒頭に挙げた「恋人だった娘の不実を嘆く」そのものなのであります。そういう観点からすれば、これは少々おかしいのではないか、とも言えるのです。
でも、実際にそのようにして歌われるのが違和感があるかというと、必ずしもそうでもない、とも言えます。歌手の中には、そうしたことについてあまり前向きに評価しない向きもありますが、上手に歌えるのならいいじゃないか、という考えはあるのだと思います。実際、J-POPや演歌なんかで、女性が主人公の歌を男性が歌い、男性が主人公の歌を女性が歌っているケースは決して少なくないのですし。
「白鳥の歌」は、必ずしも男性が主人公の歌曲集、という訳ではありません。そもそも、「冬の旅」や「美しき水車屋の娘」と違って、この歌曲集は全体にストーリーのあるものではなく、言わば単発の歌曲を集めたもの。とはいえ、そもそも詩を書いたのが皆男性で、内容的にも多分主語は男性と思われる詩ばかりです。なので、基本的に皆「男性の歌」ではあります。でも、ストーリー性が無い分、違和感は少ないかも知れません。もっとも、ここで取り上げたナタリー・シュトゥッツマンは、「冬の旅」だって歌っているのですから、「白鳥の歌」くらい不思議はないのかも知れません。
一方、聞き手の話で言えば、私は日本語が母国語の日本人で、ドイツ語は分かりません。いや、多少は分かりますけど、ドイツ語で1分間スピーチしろとか、会話を成立させろとか、辞書無しで読めとか言われると、とてもとても。なので、そもそも女声で歌われているドイツ語の歌が何を歌っているのか、よく分かりません。ネイティヴだったら分かるであろう「変な感じ」がピンと来ないんですよね。予め日本語で意味は分かっていたりするけれど、歌われる言葉と、状況と、ニュアンスとが、リアルに理解出来てはいない。
それってつまり、分からない、分かってない、ってことなんじゃないの?と言われると、一言もありません。それなりに調べてるとか、聴き込んでるとか、言い訳するつもりはありません。そう、自分でも思うけど、やっぱり「分からない」のです。
でも、じゃぁなんでドイツ歌曲なんて聞くの?と言われると困ってしまうのですが.......... 実はやっぱり「わかる」んだと思うのですね。
「白鳥の歌」の中に、「セレナード」という歌があります。「シューベルトのセレナード」として、何処かで耳にしたことがあるかも知れない。なかなかにおセンチなメロディですが、そんなことを言ってみてもなかなかに魅力的な曲です。でも、この歌で何を歌われているか、正確に御存知でしょうか?多分、大抵の人は御存じないのでは。いや、私だって一言一句知ってる訳じゃないです。
「セレナーデとかいうんだし、恋人にあてて、愛してるとかなんとか歌ってるんじゃないの?大体が恋歌なんてそんなもんだし、それでいいんだよ。」はい、その通り。実際、そんなとこなんですけどね。「恋人よ、ここへおいで!」みたいなね。で、その程度の「分かり方」で聞いている我々が、じゃぁこの「セレナーデ」という曲を「わかっている」か、と問われれば、多分YESでありNOだと思うのです。
こういう分かり方が結構横着なものだというのは、自分でも自覚はあるのです。本当は、ドイツ語ならドイツ語をある程度分かった上で、これはどんな歌か、と熟読玩味するべきだし、出来るべき、なのでしょう。それでなければ「分かった」ことにはならないし、なんで男性の歌を女性が歌うの?という違和感なんて本当はわかりっこない。
でも、そうでなくても、我々は「分からない」ドイツ語で歌われる歌を聴いて、その旋律や、歌われる声の調子などから、大体どんな歌であるか、「わかる」し、その上で、音楽としていいか悪いか、ということも、相応に「わかる」と思うのです。その「わかりかた」が決して間違っているとは思わないのです。
私の知人で、ドイツ語に一応堪能で、というのは現地で歌を勉強していたことがあるから、という人がいるのですが、彼に言わせると、例えば英国人のボストリッジのドイツ語はやっぱりおかしい、ということなのだそうです。別に当人がもっと上手いとか言ってるのではなくて、ボストリッジのドイツ語はネイティヴのそれと明らかに違い、フレーズの切り方がドイツ語の自然な箇所ではない、英語にとって自然な箇所だ、というのです。.......んなこと俺に言われてもわからん(笑)
でも、彼は同時に、でもそれって聞き手にとっては別の問題かも知れないよね、とも言うのです。それにも私は同意します。聞き手にとっては、完璧に分かっている訳ではない「わかり方」でも楽しむに支障はないし、そうして得られる感銘というものが決して勘違いではないんだろう、とも思うのです。
でないと、そんな風にしてしか歌曲やオペラを「わかってない」私はどうすりゃいいの(笑)でも、大抵の聞き手は、私と同様、そういう「わかり方」なんじゃないかな、と思うのです。それって、日本で伝統的に受け入れられているだけの考えかも知れないけれど、決して的外れではないと思うのです。
「白鳥の歌」はレルシュタープ、ザイドル、ハイネの3人の詩人の詩を元に書かれた14曲からなりますが、ハイネの詩による曲の中にDoppelgaenger、「影法師」という歌があります。失恋した相手がかつて住んでいた家の前に、夜、誰かが立ち尽しているのを私は見た。おお、あれは、私自身ではないか!こんな夜更けにお前は何をしているのだ!そんな内容の歌です。ちなみに、自身の影法師を見た者は死ぬ、という言い伝えがあるそうで、つまりはこれはとても不吉な歌。その内容を示唆するように、シューベルトは極めて重苦しく、恐ろしい曲を付けました。
内容的には男性が主語になる歌なのですが、男性が歌うと、最後は恐ろしいフォルティッシッシモで終わるのが常で、それは楽譜通りなのですが、シュトゥッツマンはそこまでの激しい終わらせ方はしていません。実はこれも楽譜通りで、要はどちらに力点を置いているか、の差だと思うのです。これはどっちがいい悪いではないと思うのです。シュトゥッツマンの「私」は、己の影法師に戦いてはいるけれど、同時に、その影法師が体現する「私」の哀しみに直面し、改めて動揺し、或いは悲しんでいる。そのようにも聞こえるのです。
言葉が分からなくても、そういうことは一応わかることはわかる、と思うのです。
声楽曲は言葉がよく分からないから苦手、という理由で敬遠される方もおられるのですが、それは勿体無いな、と思うのです。今度のラ・フォツ・ジュルネは、声楽曲が多く演奏されます。もう、今日から一般発売なので手に入らないかも知れないけれど、こういう機会に、「外国語の歌」も敬遠せず、試しに聞いてみては如何かな、と思うのです。
(Sehnsucht D.879, Der Tod und das Maedchen D.531, Auf der Bruck D.853, Fischerweise D.881, Der Wanderer D.493)
Nathalie Stutzmann (contralto)
Inger Soedergren (piano)
CALIOPE CAL9359
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのサイトはこちら
いよいよ今日からチケットの一般発売も始まった、ラ・フォル・ジュルネでありますが、今年はシューベルトということもあって、声楽曲が目白押しです。
歌というのには、詩が付いている以上、その内容によっては性差があります。何も難しい話ではありません。恋人であった娘の不実を嘆く歌であれば、まぁ歌ってるのは青年であろう、というように考えるのが、19世紀以前の歌曲であれば取り敢えずは自然というものでしょう。
ただ、そうは言っても、だから"男性" の歌は女性は歌いません、"女性" の歌は男性は歌いません、とはならないものではあります。確かに歌詞の中での語り手の性別と、実際の歌い手の性別が一致するのであれば、その方がより「それらしい」ということにはなるのでしょうが、だから「歌うべきではない」とも言えないのでして。実際、歌うに相応しい声の持ち主なら、必ずしも性別にこだわる必要もないのでしょう。
例えば、今回のラ・フォル・ジュルネでは、メゾソプラノの白井光子がシューベルトの歌曲集「冬の旅」を歌います。でも、この歌曲集、明らかに「主人公」は青年男性なんですよね。冒頭に挙げた「恋人だった娘の不実を嘆く」そのものなのであります。そういう観点からすれば、これは少々おかしいのではないか、とも言えるのです。
でも、実際にそのようにして歌われるのが違和感があるかというと、必ずしもそうでもない、とも言えます。歌手の中には、そうしたことについてあまり前向きに評価しない向きもありますが、上手に歌えるのならいいじゃないか、という考えはあるのだと思います。実際、J-POPや演歌なんかで、女性が主人公の歌を男性が歌い、男性が主人公の歌を女性が歌っているケースは決して少なくないのですし。
「白鳥の歌」は、必ずしも男性が主人公の歌曲集、という訳ではありません。そもそも、「冬の旅」や「美しき水車屋の娘」と違って、この歌曲集は全体にストーリーのあるものではなく、言わば単発の歌曲を集めたもの。とはいえ、そもそも詩を書いたのが皆男性で、内容的にも多分主語は男性と思われる詩ばかりです。なので、基本的に皆「男性の歌」ではあります。でも、ストーリー性が無い分、違和感は少ないかも知れません。もっとも、ここで取り上げたナタリー・シュトゥッツマンは、「冬の旅」だって歌っているのですから、「白鳥の歌」くらい不思議はないのかも知れません。
一方、聞き手の話で言えば、私は日本語が母国語の日本人で、ドイツ語は分かりません。いや、多少は分かりますけど、ドイツ語で1分間スピーチしろとか、会話を成立させろとか、辞書無しで読めとか言われると、とてもとても。なので、そもそも女声で歌われているドイツ語の歌が何を歌っているのか、よく分かりません。ネイティヴだったら分かるであろう「変な感じ」がピンと来ないんですよね。予め日本語で意味は分かっていたりするけれど、歌われる言葉と、状況と、ニュアンスとが、リアルに理解出来てはいない。
それってつまり、分からない、分かってない、ってことなんじゃないの?と言われると、一言もありません。それなりに調べてるとか、聴き込んでるとか、言い訳するつもりはありません。そう、自分でも思うけど、やっぱり「分からない」のです。
でも、じゃぁなんでドイツ歌曲なんて聞くの?と言われると困ってしまうのですが.......... 実はやっぱり「わかる」んだと思うのですね。
「白鳥の歌」の中に、「セレナード」という歌があります。「シューベルトのセレナード」として、何処かで耳にしたことがあるかも知れない。なかなかにおセンチなメロディですが、そんなことを言ってみてもなかなかに魅力的な曲です。でも、この歌で何を歌われているか、正確に御存知でしょうか?多分、大抵の人は御存じないのでは。いや、私だって一言一句知ってる訳じゃないです。
「セレナーデとかいうんだし、恋人にあてて、愛してるとかなんとか歌ってるんじゃないの?大体が恋歌なんてそんなもんだし、それでいいんだよ。」はい、その通り。実際、そんなとこなんですけどね。「恋人よ、ここへおいで!」みたいなね。で、その程度の「分かり方」で聞いている我々が、じゃぁこの「セレナーデ」という曲を「わかっている」か、と問われれば、多分YESでありNOだと思うのです。
こういう分かり方が結構横着なものだというのは、自分でも自覚はあるのです。本当は、ドイツ語ならドイツ語をある程度分かった上で、これはどんな歌か、と熟読玩味するべきだし、出来るべき、なのでしょう。それでなければ「分かった」ことにはならないし、なんで男性の歌を女性が歌うの?という違和感なんて本当はわかりっこない。
でも、そうでなくても、我々は「分からない」ドイツ語で歌われる歌を聴いて、その旋律や、歌われる声の調子などから、大体どんな歌であるか、「わかる」し、その上で、音楽としていいか悪いか、ということも、相応に「わかる」と思うのです。その「わかりかた」が決して間違っているとは思わないのです。
私の知人で、ドイツ語に一応堪能で、というのは現地で歌を勉強していたことがあるから、という人がいるのですが、彼に言わせると、例えば英国人のボストリッジのドイツ語はやっぱりおかしい、ということなのだそうです。別に当人がもっと上手いとか言ってるのではなくて、ボストリッジのドイツ語はネイティヴのそれと明らかに違い、フレーズの切り方がドイツ語の自然な箇所ではない、英語にとって自然な箇所だ、というのです。.......んなこと俺に言われてもわからん(笑)
でも、彼は同時に、でもそれって聞き手にとっては別の問題かも知れないよね、とも言うのです。それにも私は同意します。聞き手にとっては、完璧に分かっている訳ではない「わかり方」でも楽しむに支障はないし、そうして得られる感銘というものが決して勘違いではないんだろう、とも思うのです。
でないと、そんな風にしてしか歌曲やオペラを「わかってない」私はどうすりゃいいの(笑)でも、大抵の聞き手は、私と同様、そういう「わかり方」なんじゃないかな、と思うのです。それって、日本で伝統的に受け入れられているだけの考えかも知れないけれど、決して的外れではないと思うのです。
「白鳥の歌」はレルシュタープ、ザイドル、ハイネの3人の詩人の詩を元に書かれた14曲からなりますが、ハイネの詩による曲の中にDoppelgaenger、「影法師」という歌があります。失恋した相手がかつて住んでいた家の前に、夜、誰かが立ち尽しているのを私は見た。おお、あれは、私自身ではないか!こんな夜更けにお前は何をしているのだ!そんな内容の歌です。ちなみに、自身の影法師を見た者は死ぬ、という言い伝えがあるそうで、つまりはこれはとても不吉な歌。その内容を示唆するように、シューベルトは極めて重苦しく、恐ろしい曲を付けました。
内容的には男性が主語になる歌なのですが、男性が歌うと、最後は恐ろしいフォルティッシッシモで終わるのが常で、それは楽譜通りなのですが、シュトゥッツマンはそこまでの激しい終わらせ方はしていません。実はこれも楽譜通りで、要はどちらに力点を置いているか、の差だと思うのです。これはどっちがいい悪いではないと思うのです。シュトゥッツマンの「私」は、己の影法師に戦いてはいるけれど、同時に、その影法師が体現する「私」の哀しみに直面し、改めて動揺し、或いは悲しんでいる。そのようにも聞こえるのです。
言葉が分からなくても、そういうことは一応わかることはわかる、と思うのです。
声楽曲は言葉がよく分からないから苦手、という理由で敬遠される方もおられるのですが、それは勿体無いな、と思うのです。今度のラ・フォツ・ジュルネは、声楽曲が多く演奏されます。もう、今日から一般発売なので手に入らないかも知れないけれど、こういう機会に、「外国語の歌」も敬遠せず、試しに聞いてみては如何かな、と思うのです。
2008/03/11のBlog
[ 00:59 ]
[ クラシック ]
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲 ト短調 op.26
レオニード・コーガン (violin)
ベルリン放送交響楽団
ロリン・マゼール (conduct)
DENON COCO-70843
もともとそれほどヴァイオリン協奏曲の類いは好んで聞いているとは言えないのですが、それでもコンサートで聞くこともあるし、たまに聞けばいいなと思ったりもするし、時には聞きたくなってCDを出して来ることもあるのです。ま、要はそんな日であった、というわけでして。
で、ヴァイオリン協奏曲と言えば、やはり王道はこの曲ではないかと。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。
なんとなく、メンデルスゾーンというと、あまり「大作曲家様」みたいに思われてない節があるような気がします。いい曲は沢山あるんだけど、例えば交響曲なら3・4・5番はどれも結構なものだけど、だからといってメンデルスゾーンが交響曲の第一人者と言われるかというと、そうでもない。無言歌だっていい作品が沢山あるけど、だからといってメンデルスゾーンをピアノ曲の作曲家ベスト3に入れるかというと、多分入れない。ベスト5でも、ちょっと怪しい。曲が悪い訳ではないんですけどね。声楽曲なら、宗教音楽としては「エリヤ」があるけど、これもなぁ。
そんなメンデルスゾーンが「第一人者」として胸を張ってトップの座に付けそうなのが、ヴァイオリン協奏曲ではないかなと思うのです。
実際の所、この曲、よく出来てると思います。第1楽章冒頭、いきなり独奏ヴァイオリンが第一主題を弾いてしまう。結構大胆な、見ようによってはギャンブルだと思いますが、これが上手くいっているのは、やはりこの主題がとってもキャッチーだからでしょう。曲名や作曲家の名前を忘れても、この主題を忘れるのはかなり難しい。短調でメランコリック、だけども憂鬱でお先真っ暗というのとも違う。綿々としたメンデルスゾーン、なんてつまらない駄洒落まがいの連想をしてしまいます。
正直、この曲これが全てとは言わないにしても、半分くらいは「ここ」なんじゃないでしょうか。
この短調の第1楽章に続く緩徐楽章がハ長調。このコントラストの妙。牧歌的、というのともちょっと違う。安らぎを感じさせる、けれど、例えばマーラーのような病的な感じではない。
メンデルスゾーンという人は、時期的にも、音楽の造りや何かにしても、明らかにロマン派の人ではあるのですが、何処か古典派的な音楽に通じるものを持っているのかなと思います。それが功を奏するのか、メンデルスゾーンの音楽は「溺れる」ということが無いように思います。これだけ綿々とした音楽を書いていながら、崩れない。これはなかなか不思議なことだと思います。まぁ、見ようによっては、そのへんの御行儀の良さがなんだかな、という方もおられるのかも知れませんが。でも、この辺の魅力が、彼の交響曲なんかにも通じるのかも知れません。
そして、ヴァイオリンが跳ね回る、終楽章の大団円。やはりよく出来てます。
長さも大体30分。丁度いい感じなんですよね。ベートーヴェンやブラームスもよく出来てるけど、ちょっと長い。長過ぎる。モーツァルトもいいけど、少し軽くて物足りないかも知れない。ロマン派諸氏の作品は、確かにヴァイオリンにぴったりだけど、それぞれにアクが強くて、つい道を踏み外すというか........ 古典派の清潔感と、ロマン派のメランコリーの魅力とを兼ね備えた、という所でしょうか。
演奏はレオニード・コーガンの独奏。マゼール指揮ベルリン放送響。録音がいいのです。音がいい、というより、すっきりとした録音で。演奏自体もそうした感じがあります。決して叫ばず、泣かず、ほどよく淡々と、けれど表情はちゃんとある。
コーガン自体はそれほどに評価の高いヴァイオリニスト、というわけではないと思うのですが、この曲に程良く合う清潔感がいいのです。ハイ。
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲 ト短調 op.26
レオニード・コーガン (violin)
ベルリン放送交響楽団
ロリン・マゼール (conduct)
DENON COCO-70843
もともとそれほどヴァイオリン協奏曲の類いは好んで聞いているとは言えないのですが、それでもコンサートで聞くこともあるし、たまに聞けばいいなと思ったりもするし、時には聞きたくなってCDを出して来ることもあるのです。ま、要はそんな日であった、というわけでして。
で、ヴァイオリン協奏曲と言えば、やはり王道はこの曲ではないかと。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。
なんとなく、メンデルスゾーンというと、あまり「大作曲家様」みたいに思われてない節があるような気がします。いい曲は沢山あるんだけど、例えば交響曲なら3・4・5番はどれも結構なものだけど、だからといってメンデルスゾーンが交響曲の第一人者と言われるかというと、そうでもない。無言歌だっていい作品が沢山あるけど、だからといってメンデルスゾーンをピアノ曲の作曲家ベスト3に入れるかというと、多分入れない。ベスト5でも、ちょっと怪しい。曲が悪い訳ではないんですけどね。声楽曲なら、宗教音楽としては「エリヤ」があるけど、これもなぁ。
そんなメンデルスゾーンが「第一人者」として胸を張ってトップの座に付けそうなのが、ヴァイオリン協奏曲ではないかなと思うのです。
実際の所、この曲、よく出来てると思います。第1楽章冒頭、いきなり独奏ヴァイオリンが第一主題を弾いてしまう。結構大胆な、見ようによってはギャンブルだと思いますが、これが上手くいっているのは、やはりこの主題がとってもキャッチーだからでしょう。曲名や作曲家の名前を忘れても、この主題を忘れるのはかなり難しい。短調でメランコリック、だけども憂鬱でお先真っ暗というのとも違う。綿々としたメンデルスゾーン、なんてつまらない駄洒落まがいの連想をしてしまいます。
正直、この曲これが全てとは言わないにしても、半分くらいは「ここ」なんじゃないでしょうか。
この短調の第1楽章に続く緩徐楽章がハ長調。このコントラストの妙。牧歌的、というのともちょっと違う。安らぎを感じさせる、けれど、例えばマーラーのような病的な感じではない。
メンデルスゾーンという人は、時期的にも、音楽の造りや何かにしても、明らかにロマン派の人ではあるのですが、何処か古典派的な音楽に通じるものを持っているのかなと思います。それが功を奏するのか、メンデルスゾーンの音楽は「溺れる」ということが無いように思います。これだけ綿々とした音楽を書いていながら、崩れない。これはなかなか不思議なことだと思います。まぁ、見ようによっては、そのへんの御行儀の良さがなんだかな、という方もおられるのかも知れませんが。でも、この辺の魅力が、彼の交響曲なんかにも通じるのかも知れません。
そして、ヴァイオリンが跳ね回る、終楽章の大団円。やはりよく出来てます。
長さも大体30分。丁度いい感じなんですよね。ベートーヴェンやブラームスもよく出来てるけど、ちょっと長い。長過ぎる。モーツァルトもいいけど、少し軽くて物足りないかも知れない。ロマン派諸氏の作品は、確かにヴァイオリンにぴったりだけど、それぞれにアクが強くて、つい道を踏み外すというか........ 古典派の清潔感と、ロマン派のメランコリーの魅力とを兼ね備えた、という所でしょうか。
演奏はレオニード・コーガンの独奏。マゼール指揮ベルリン放送響。録音がいいのです。音がいい、というより、すっきりとした録音で。演奏自体もそうした感じがあります。決して叫ばず、泣かず、ほどよく淡々と、けれど表情はちゃんとある。
コーガン自体はそれほどに評価の高いヴァイオリニスト、というわけではないと思うのですが、この曲に程良く合う清潔感がいいのです。ハイ。
2008/03/10のBlog
[ 01:44 ]
[ 歌曲 ]
G.Mahler : Kindertotenlieder
R.Wagner : Wesendonck-Lieder
H.Wolf : In der Fruehe / Denk'es, o Seele! / Wo find'ich Trost
Waltraud Meier (mezzo-soprano)
Orchestra de Paris
Daniel Barenboim (conduct)
WarnerClassics (Elatus) 2564-60439 2
ワルトラウト・マイヤーは、去年バレンボイム率いるベルリン国立歌劇場の引っ越し公演で一緒に来日して、イゾルデを歌って行きました。それは行かなかったけれど、歌曲のリサイタルがあったのでそれには出掛けました。シューベルト、R=シュトラウス、ヴォルフだったかな?なかなかいい歌を聴かせてもらいました。どちらかと言うと、精緻な歌を聴かせるタイプじゃなさそうだし、イゾルデの方は一部ではあまり評判良くなかったとも聞きますが、「ライブでドイツ歌曲を聞く」という機会としてはかなりいいものを聞かせて貰った、という所でした。結構自分としては点が高かったのですが、まぁ、確かに、歌手としてのポテンシャルは高い人ですから。
そのマイヤーが、やはりバレンボイムと組んで、パリ管をバックに録音した歌曲集がこれです。実は、録音は1988年10月。もう20年前の話なんですね。でも、正直、それほど「古い録音」という気はしないのですが。全てオーケストラ伴奏で、マーラーの「子供の死の歌」、ワーグナーのヴェーゼンドンク・リーダー、それにヴォルフの管弦楽伴奏の歌曲3曲、という構成です。
マーラーの「子供の死の歌」、日本では以前から一般的には「亡き子を偲ぶ歌」と呼ばれてます。でも、原題は、Kindertotenlieder。実は直訳すると「子供の死の歌」なんですね。でも、日本人は優しいのでしょうね。あまりに直截的なこの題に耐えられず、「亡き子を偲ぶ歌」と誰かがしたのでしょう。決して内容的には間違っては居ないんですが。
この歌曲集は正直難しいのだと思います。あまりに感情が直接的に出ている感じがあって、題材とも相俟って、ちょっと近寄り難い感じがあります。近寄り難い、ってのも変ですが、距離を置きたくなってしまうのですね。いわゆる「引いてしまう」という奴です。マーラーの奥さんのアルマが、"自分の妻と子供が幸せそうに暮らしている側で、こんな恐ろしい不吉な歌曲を作曲出来るなんて" というようなことを言っています。実際、この曲が書かれた後で、この夫婦は子供を亡くしています。アルマという人、外野から見ていると決して好感を持てない人物ではあるのですが、この一件に関しては、気持ちは分かります。たとえ後付けの理屈だとしても、そりゃ一言言いたくなるでしょうね。
で、マイヤーはというと、感情をセーブして、あまり思い入れが強くならないようなアプローチで歌っています。まぁ、これが王道ではあるんですけどね。ただ、元々表現力の豊かなマイヤーの声ですから、よくセーブしてるな、と思います。いや、一部、抑えかねてるところもあるかな(笑)
正直言うと、そういう、セーブしなきゃいけない曲が多いんですけどね、このアルバムは。続いてのワーグナーのヴェーゼンドンク・リーダー。これも、5曲の歌曲からなる歌曲集ですが、別の意味で抑え気味の表現が求められる曲です。一部の曲では「トリスタンとイゾルデ」の呼び声が聞こえて来ます。実際、「トリスタン」の習作として書かれた曲もあるくらい。で、時には何とも言えない退廃的な雰囲気も漂う。そんな作品ですが、ここでもマイヤー、抑えながら、でも表現する所はきっちり表現してます、という歌唱で聞かせてくれます。
で、実は、ヴォルフもその系統の曲なんですけどね。マイヤー、抑えっぱなし(笑)最終曲、ちょっと走ってみた感もありますが、基本的な基調は変わりません。正直、今やワーグナーを歌うソプラノとしてはトップクラスの存在であるマイヤーの歌、としては、かなりイメージが違うかも。まぁ、別の言い方をすれば、そんなマイヤーにこういう歌曲を歌わせる贅沢、とも言えましょうか。
バレンボイム指揮のパリ管はどうか、というと、正直あまり印象が無い。マイヤーばっかり一生懸命聞いてるもんですから.......でも、足を引っ張るようなことは全くありません。きっと、いい伴奏なのでしょう。
R.Wagner : Wesendonck-Lieder
H.Wolf : In der Fruehe / Denk'es, o Seele! / Wo find'ich Trost
Waltraud Meier (mezzo-soprano)
Orchestra de Paris
Daniel Barenboim (conduct)
WarnerClassics (Elatus) 2564-60439 2
ワルトラウト・マイヤーは、去年バレンボイム率いるベルリン国立歌劇場の引っ越し公演で一緒に来日して、イゾルデを歌って行きました。それは行かなかったけれど、歌曲のリサイタルがあったのでそれには出掛けました。シューベルト、R=シュトラウス、ヴォルフだったかな?なかなかいい歌を聴かせてもらいました。どちらかと言うと、精緻な歌を聴かせるタイプじゃなさそうだし、イゾルデの方は一部ではあまり評判良くなかったとも聞きますが、「ライブでドイツ歌曲を聞く」という機会としてはかなりいいものを聞かせて貰った、という所でした。結構自分としては点が高かったのですが、まぁ、確かに、歌手としてのポテンシャルは高い人ですから。
そのマイヤーが、やはりバレンボイムと組んで、パリ管をバックに録音した歌曲集がこれです。実は、録音は1988年10月。もう20年前の話なんですね。でも、正直、それほど「古い録音」という気はしないのですが。全てオーケストラ伴奏で、マーラーの「子供の死の歌」、ワーグナーのヴェーゼンドンク・リーダー、それにヴォルフの管弦楽伴奏の歌曲3曲、という構成です。
マーラーの「子供の死の歌」、日本では以前から一般的には「亡き子を偲ぶ歌」と呼ばれてます。でも、原題は、Kindertotenlieder。実は直訳すると「子供の死の歌」なんですね。でも、日本人は優しいのでしょうね。あまりに直截的なこの題に耐えられず、「亡き子を偲ぶ歌」と誰かがしたのでしょう。決して内容的には間違っては居ないんですが。
この歌曲集は正直難しいのだと思います。あまりに感情が直接的に出ている感じがあって、題材とも相俟って、ちょっと近寄り難い感じがあります。近寄り難い、ってのも変ですが、距離を置きたくなってしまうのですね。いわゆる「引いてしまう」という奴です。マーラーの奥さんのアルマが、"自分の妻と子供が幸せそうに暮らしている側で、こんな恐ろしい不吉な歌曲を作曲出来るなんて" というようなことを言っています。実際、この曲が書かれた後で、この夫婦は子供を亡くしています。アルマという人、外野から見ていると決して好感を持てない人物ではあるのですが、この一件に関しては、気持ちは分かります。たとえ後付けの理屈だとしても、そりゃ一言言いたくなるでしょうね。
で、マイヤーはというと、感情をセーブして、あまり思い入れが強くならないようなアプローチで歌っています。まぁ、これが王道ではあるんですけどね。ただ、元々表現力の豊かなマイヤーの声ですから、よくセーブしてるな、と思います。いや、一部、抑えかねてるところもあるかな(笑)
正直言うと、そういう、セーブしなきゃいけない曲が多いんですけどね、このアルバムは。続いてのワーグナーのヴェーゼンドンク・リーダー。これも、5曲の歌曲からなる歌曲集ですが、別の意味で抑え気味の表現が求められる曲です。一部の曲では「トリスタンとイゾルデ」の呼び声が聞こえて来ます。実際、「トリスタン」の習作として書かれた曲もあるくらい。で、時には何とも言えない退廃的な雰囲気も漂う。そんな作品ですが、ここでもマイヤー、抑えながら、でも表現する所はきっちり表現してます、という歌唱で聞かせてくれます。
で、実は、ヴォルフもその系統の曲なんですけどね。マイヤー、抑えっぱなし(笑)最終曲、ちょっと走ってみた感もありますが、基本的な基調は変わりません。正直、今やワーグナーを歌うソプラノとしてはトップクラスの存在であるマイヤーの歌、としては、かなりイメージが違うかも。まぁ、別の言い方をすれば、そんなマイヤーにこういう歌曲を歌わせる贅沢、とも言えましょうか。
バレンボイム指揮のパリ管はどうか、というと、正直あまり印象が無い。マイヤーばっかり一生懸命聞いてるもんですから.......でも、足を引っ張るようなことは全くありません。きっと、いい伴奏なのでしょう。
2008/03/09のBlog
[ 01:30 ]
[ ジャズ ]
セロニアス・モンク・トリオ
セロニアス・モンク (piano)
ゲイリー・マップ, パーシー・ヒース (bass)
アート・ブレイキー, マックス・ローチ (drums)
Prestige/ユニバーサル クラシック&ジャズ UCCO-9057
日本盤のCDなのですが、ジャケットには「セロニアス・モンク」と表記されています。うーん、確かにそういう表記が一般的なの?でも、なんとなく、自分の中では「テロニアス」の表記がしっくり来るので、CDの表記についてだけ「セ」にして、残りは「テ」にしました。悪しからず。
テロニアス・モンクは、時々聞いてます。でも、そう熱心な聞き手というわけではありません。RIVERSIDEへの録音は結構聞いているのですが、何故かPRESTIGEへの録音はあまり聞いていないのです。まぁ、傾向的には、RIVERSIDEへの録音の方が、割合にスクェアな印象があって、そのへんが影響してるのかも知れません。単なる巡り合わせという話もあるけど。
このアルバムも最近入手したもの。某ショップの閉店セールで拾ってきました。あううう、ごめんよぉ、そんなのばっかりで.......
録音は1952年から54年にかけてですので、結構古いのです。まぁ、モダンジャズなんてどれも古いと言えば古いのではありますが。正直シャビーな録音状況ではあります。演奏は、それとは別に面白いのですが.......... テロニアス・モンクを「難解」とか、「一般的でない」というように仰る方が居られるようなのですね、世の中には。正直、RIVERSIDEの録音から入った私にはよく分からないのですが、これを聞いていると、ああ、そういう人は、この辺の録音から聞いたのかな、とかつい思ってしまうのです。
と言っても、そんなに「難しい」訳ではないと思うのです。ただ、ファンキーだったり、ホンキイトンクだったり、聞き様によっては分かり易いのですが、時々妙に調子っぱずれだったりするのです。それが、ジャズらしくないというか、シュールに響いたりするのです、これが。
別段理屈っぽい訳でもないし、凄くアクロバティックなことをする訳でもない。ただ、少しだけ「ズラす」感じなんでしょうかね、これは。その少しの「ズレ」が特別なテイストを感じさせるというのか......
いや、元々ブルーノートだって、通常の和声進行から少しだけズラして生まれたものではあるんだけど、そこからもう一歩ズラしてみました、というのがテロニアス・モンクなのかな、という気がするのです。そんなに難しいことはしてないと思うんですけどね。でも、そのへんがやっぱりモンクの良さの依って来たる所なのかな。
セロニアス・モンク (piano)
ゲイリー・マップ, パーシー・ヒース (bass)
アート・ブレイキー, マックス・ローチ (drums)
Prestige/ユニバーサル クラシック&ジャズ UCCO-9057
日本盤のCDなのですが、ジャケットには「セロニアス・モンク」と表記されています。うーん、確かにそういう表記が一般的なの?でも、なんとなく、自分の中では「テロニアス」の表記がしっくり来るので、CDの表記についてだけ「セ」にして、残りは「テ」にしました。悪しからず。
テロニアス・モンクは、時々聞いてます。でも、そう熱心な聞き手というわけではありません。RIVERSIDEへの録音は結構聞いているのですが、何故かPRESTIGEへの録音はあまり聞いていないのです。まぁ、傾向的には、RIVERSIDEへの録音の方が、割合にスクェアな印象があって、そのへんが影響してるのかも知れません。単なる巡り合わせという話もあるけど。
このアルバムも最近入手したもの。某ショップの閉店セールで拾ってきました。あううう、ごめんよぉ、そんなのばっかりで.......
録音は1952年から54年にかけてですので、結構古いのです。まぁ、モダンジャズなんてどれも古いと言えば古いのではありますが。正直シャビーな録音状況ではあります。演奏は、それとは別に面白いのですが.......... テロニアス・モンクを「難解」とか、「一般的でない」というように仰る方が居られるようなのですね、世の中には。正直、RIVERSIDEの録音から入った私にはよく分からないのですが、これを聞いていると、ああ、そういう人は、この辺の録音から聞いたのかな、とかつい思ってしまうのです。
と言っても、そんなに「難しい」訳ではないと思うのです。ただ、ファンキーだったり、ホンキイトンクだったり、聞き様によっては分かり易いのですが、時々妙に調子っぱずれだったりするのです。それが、ジャズらしくないというか、シュールに響いたりするのです、これが。
別段理屈っぽい訳でもないし、凄くアクロバティックなことをする訳でもない。ただ、少しだけ「ズラす」感じなんでしょうかね、これは。その少しの「ズレ」が特別なテイストを感じさせるというのか......
いや、元々ブルーノートだって、通常の和声進行から少しだけズラして生まれたものではあるんだけど、そこからもう一歩ズラしてみました、というのがテロニアス・モンクなのかな、という気がするのです。そんなに難しいことはしてないと思うんですけどね。でも、そのへんがやっぱりモンクの良さの依って来たる所なのかな。
2008/03/03のBlog
[ 23:46 ]
[ クラシック ]
L.v.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 op.53 "ワルトシュタイン" / 第27番 ホ短調 op.90 / 第32番 ハ短調 op.111
ブルーノ=レオナルド・ゲルバー (piano)
DENON COCQ-84053
Doblogのアクセスの内、かなりの数はやはりロボット、それもくだらんレス付けの為なのでしょうねぇ、と、しつこいゴミコメントに辟易している今日この頃であります。今月には新機能導入で対策強化の見通しのようですが、果たして?
さて、気を取り直して。
昨日も出掛けつつも、いろいろ聞いていました。何を書こうかな、と考えた結果、わりと代わり映えしないものを取り上げることにしました。すみませんねぇ.....
実は、この録音は、一部取り上げたことがあります。というか、被ってるんですよね。
前回のエントリーはこちら。
この時取り上げたのは、DENONのクレスト1000シリーズで出された、再発のコンピレーション物。なので、"テンペスト" "ワルトシュタイン" "告別" と、名前入り有名曲が3曲揃い踏みしています。今回取り上げるのは、その後買ったゲルバーのソナタ集としての再発シリーズ。なので、選曲が違います。第21番"ワルトシュタイン"、第27番op.90、そして第32番op.111。
結構思い入れのある内容のライナーによると、ゲルバーは1995年までに19曲を録音して、以後、ストップしている状態のようです。ゲルバー自身の問題もあったようですし、やはりバブル経済後のDENONレーベルの経営の苦しさもあったのでしょう。確かに、ゲルバーの演奏はいいものなので、「全集完結が望まれる」ところであります。
このCDでの目当ては、やはりop.111。この曲、例によって好きなので、どうしても聞きたくなってしまうのです。このブログでも、この曲として4回目のエントリーのようです。実は内心(まだそれだけか....)とか思ってるんですが。
で、どうか?
実は前回のエントリーで、「線が細い訳じゃないけど、でも繊細」とか、評価が難しいとか、そんなこと書いてます。うん、なんとなく分かるような気がします。
敢えて言えば、思いの外安定感が感じられないピアニスト、なんですよね。線が細いとか、不安定とか、そういう感じではないのだけど、どことなく、聞いていて「あれ?大丈夫?」と思わせるところがあるのです。不思議なんですよね。こういうのもエキセントリックと言うのかな。どうもそういうのとも違うのだけど。
多分、普段聞こえないものが聞こえるんじゃないかと思うのです。例えば、トリルなんだけど、トリルがそれぞれの音として聞こえる、というような感じ。よく言えばしっかり弾いている。疎かにしないから、ちゃんと音が聞こえている。聞く側がアバウトに聞いていると、気が付かず「こんな感じ」で流しているところをきっちりやっている、ということかも知れませんが.....
本当に、別段変なことをやってるわけではないんですよ。テンポだって特別遅い訳でないし。
演奏としては、音楽的には、聞きたくなる、という意味でも十分魅力的です。op.111の演奏としての評価は、まぁベストではないですね。私はもう少しどっしりしたのが好き。でも、このゲルバーの録音は、それはそれとして、ピアノ演奏として何か惹かれるものがあります。
好き嫌いのレベルで言えば、意外と面白いのはop.90かも知れません。聞く側の楽しみという点ではこちらの方が楽しめるやも。元々ベートーヴェンのソナタの中でも、やや異色に近い扱われ方をしている曲で、前後の作品との連関性もあまりなくて、規模もやや小規模と、忘れられる可能性あり、という曲ですが、やや変わった光の当たり方がこの曲では面白い方に作用しているのでしょう。
ゲルバーが録音し残している作品には、op.109 と op.110 も入ってます。聞いてみたいなぁ、確か
ブルーノ=レオナルド・ゲルバー (piano)
DENON COCQ-84053
Doblogのアクセスの内、かなりの数はやはりロボット、それもくだらんレス付けの為なのでしょうねぇ、と、しつこいゴミコメントに辟易している今日この頃であります。今月には新機能導入で対策強化の見通しのようですが、果たして?
さて、気を取り直して。
昨日も出掛けつつも、いろいろ聞いていました。何を書こうかな、と考えた結果、わりと代わり映えしないものを取り上げることにしました。すみませんねぇ.....
実は、この録音は、一部取り上げたことがあります。というか、被ってるんですよね。
前回のエントリーはこちら。
この時取り上げたのは、DENONのクレスト1000シリーズで出された、再発のコンピレーション物。なので、"テンペスト" "ワルトシュタイン" "告別" と、名前入り有名曲が3曲揃い踏みしています。今回取り上げるのは、その後買ったゲルバーのソナタ集としての再発シリーズ。なので、選曲が違います。第21番"ワルトシュタイン"、第27番op.90、そして第32番op.111。
結構思い入れのある内容のライナーによると、ゲルバーは1995年までに19曲を録音して、以後、ストップしている状態のようです。ゲルバー自身の問題もあったようですし、やはりバブル経済後のDENONレーベルの経営の苦しさもあったのでしょう。確かに、ゲルバーの演奏はいいものなので、「全集完結が望まれる」ところであります。
このCDでの目当ては、やはりop.111。この曲、例によって好きなので、どうしても聞きたくなってしまうのです。このブログでも、この曲として4回目のエントリーのようです。実は内心(まだそれだけか....)とか思ってるんですが。
で、どうか?
実は前回のエントリーで、「線が細い訳じゃないけど、でも繊細」とか、評価が難しいとか、そんなこと書いてます。うん、なんとなく分かるような気がします。
敢えて言えば、思いの外安定感が感じられないピアニスト、なんですよね。線が細いとか、不安定とか、そういう感じではないのだけど、どことなく、聞いていて「あれ?大丈夫?」と思わせるところがあるのです。不思議なんですよね。こういうのもエキセントリックと言うのかな。どうもそういうのとも違うのだけど。
多分、普段聞こえないものが聞こえるんじゃないかと思うのです。例えば、トリルなんだけど、トリルがそれぞれの音として聞こえる、というような感じ。よく言えばしっかり弾いている。疎かにしないから、ちゃんと音が聞こえている。聞く側がアバウトに聞いていると、気が付かず「こんな感じ」で流しているところをきっちりやっている、ということかも知れませんが.....
本当に、別段変なことをやってるわけではないんですよ。テンポだって特別遅い訳でないし。
演奏としては、音楽的には、聞きたくなる、という意味でも十分魅力的です。op.111の演奏としての評価は、まぁベストではないですね。私はもう少しどっしりしたのが好き。でも、このゲルバーの録音は、それはそれとして、ピアノ演奏として何か惹かれるものがあります。
好き嫌いのレベルで言えば、意外と面白いのはop.90かも知れません。聞く側の楽しみという点ではこちらの方が楽しめるやも。元々ベートーヴェンのソナタの中でも、やや異色に近い扱われ方をしている曲で、前後の作品との連関性もあまりなくて、規模もやや小規模と、忘れられる可能性あり、という曲ですが、やや変わった光の当たり方がこの曲では面白い方に作用しているのでしょう。
ゲルバーが録音し残している作品には、op.109 と op.110 も入ってます。聞いてみたいなぁ、確か
