ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
Verdiのレコード置き場 今日車で聴いたものblog
Blog
[ 総Blog数:457件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2008/04/20のBlog
W.A.Mozart : Don Giovanni
 Dietrich Fischer=Dieskau, Ezio Flagello, Martti Talvela, Peter Schreier, Alfredo Mariotti,
 Birgit Nilsson, Martina Arroyo, Reri Grist
 Tschechischer Saengerchor Prag
 Orchester des Nationaltheaters Prag
 Karl Boehm (conduct)
 Deutsche Grammophon 429 870-2

 久々にオペラ濃度が随分下がってるようだったので、古いCDを引っ張り出してきました。そりゃ、あんなに執拗にベートーヴェンばかり書いてりゃなぁ。
 ベーム指揮、プラハ国立歌劇場管弦楽団。え?ウィーンじゃないの?ハイ。ウィーンじゃないんですね~ 恐らく、ドン・ジョヴァンニということで、初演地という縁のあるプラハのオケを起用したのでは。同じ、ベームの録音のシリーズでは、他はウィーン・フィルだったり、ドレスデン・シュターツカペレだったりですからね。

 ドン・ジョヴァンニ。モーツァルトの中で一番のオペラを挙げろと言われたら、私はこれです。一般的には、フィガロの結婚か魔笛か、という話なのでしょうが、オペラとしてはドン・ジョヴァンニの方がオペラ濃度が高いと思っています。なんと言うか、高密度なんですよ。
 例えば、フィガロの結婚や魔笛って、実はストーリーの面で支持を得ている部分ってあると思うのです。フィガロの結婚は喜劇、魔笛はメルヒェン。そこへいくと、ドン・ジョヴァンニは、いわばダークサイド。アンチ・ヒーローの物語ですし、最後は地獄落ち。でも、その分ドラマチックであることは間違いない。
 音楽にしても、確かにフィガロは有名曲も多いし、軽快で楽しくなるような音楽。魔笛だって、音楽で言えば夜の女王の二つのアリアは超が付く有名曲だし。そこへいくとドン・ジョヴァンニは、知られてるようで実はちょっと弱い。カタログの歌とか、Deh! Vieni なんかはそこそこ知られているけれど、というところ。そのかわり、ドン・ジョヴァンニには、デモーニッシュな迫力に溢れる序曲と、これまたドラマチックなことこの上ない地獄落ちの音楽がある。個々のアリアにしても、ドン・ジョヴァンニは結構重量級のいいアリアがそれぞれの役に付いているので、その分歌唱陣も充実されるし。

 もっとも、それって言い換えれば、粒を揃えるのが大変ということでもあるのですが。実際、この録音でも、決して100点満点ではないのですが。とはいえ結構豪華版ですよ、これは。
 女声陣は、とにかく力があります。ドンナ・アンナにニルソン、ドンナ・エルヴィーラにマーティナ・アーロヨ、そしてツェルリーナにレリ・グリスト。強力な布陣ですが、個人的にはレリ・グリストがいいなぁ。他の二人が駄目ではないんですが、ニルソンなんて、薙刀持って出て来そうですからね。そこ行くと、グリストは「ああ、コロラトューラだなぁ」というレッジェーロ加減が大変によございます。ツェルリーナがマゼット共々出て来るあたり、弾けるようでとてもいい雰囲気。
 そこいくと、男声陣はちょっとね。でも、私は外題役のフィッシャー=ディースカウが好きなので、結構高評価なのです。贔屓の引き倒しが無いとは申しませんが。実際、改めて冷静に聞くと、「ああ、確かにイタリア語のオペラには合わないなぁ」という気はします。いや、ドイツ語でも、合わないかも。というより、やはりこの人「何を歌ってもフィッシャー=ディースカウ」なんだなぁ。でも、それも含めて、好きなんですけどね。
 騎士長にはマルッティ・タルヴェラ。これも贅沢。地獄落ちの場面は、迫力満点です。そこ行くと、レポレロが弱いんですよ。エツィオ・フラジェッロ。イタリア系のアメリカ人らしいですが、ちょっとね。綺羅星のような豪華キャストに比すると、ちょっと非力。他の二人が特徴的なだけにねぇ。
 ドン・オッターヴィオのシュライヤーは言うことなし。マゼットは、これもちょっと....
 まぁ、贅沢は言えばきりがないですからね。

 プラハ国立歌劇場管の出来映えは、まぁ、上々。田舎のオケ、って感じが漂いますが、下手っていうわけではありません。垢抜けない感じなんだけど、それも含めて面白みが出ていると言っていいでしょうか。

 ドン・ジョヴァンニの魅力に話を戻すと、やはりダーク・サイドを盛り込んだストーリーが、登場人物それぞれに役柄の性格に厚みを与えて、音楽的にも厚みを付けている、そんな気がします。
 真剣で重々しいドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ、真剣だけれどヒステリックな分コミカルでもあるドンナ・エルヴィーラ、声同様に役柄的にもレッジェーロで、その分取り敢えず話を転がしてくれるツェルリーナとマゼット。対するドン・ジョヴァンニは、話を動かす原動力であり、実は物語全体に翻弄される存在でもあり、それに程よい相方を務めるのがレポレロ、といったところでしょうか。色分けがはっきりして分かり易く、そのわりにバランスがいいんですね。
 実際、音楽も、それぞれが交互にやり取りをするように進んで行くので、音楽的に飽きないのです。フィガロや魔笛は、多彩なようで、実は結構近似しているように思いますから。
 まぁ、人によりけりでしょうが、そんなわけで私は実演でも録音でも、ドン・ジョヴァンニは好きなのです。なんとなく最近影が薄いような気がして、ちょっと不満なんですけどね.....




2008/04/19のBlog
L.v.Beethoven : The complete piano sonatas (including op.109, op.110, op.111) [Disk 10]
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 454 621-2

 変奏曲という形式は、いわゆる楽曲展開の方式としては基本中の基本、という話は前回書きました。言い換えると、最も原始的、ということでもあります。
 というのは、原理的に、変奏曲には構造が存在しにくいのです。勿論、構造を持たせられないとは限りません。ただ、例えばソナタ形式のように、主題があって、第2主題があって、一度提示されてから反復されて、というような、言葉で説明出来て、それによって時間軸を整理統合して説明する、ということがやりにくいのです。
 それでも、変奏のタイプ、種類を意図的にかつ周到に配置することで、変奏曲にも構造を持たせることが出来ない訳ではありません。しかし、それは、構造としては把握しにくいものでもあります。むしろ、端的な言い方をすれば、時間軸に対しては、殆ど統御する力を持たないのが多くの変奏曲の宿命です。

 そう、変奏曲は、時間軸を統御する構造を持たないのです。前回、「時間と共に移ろう景色の変化を眺めるようなもの」と喩えましたが、ここで鍵になるのは「時間と共に」ということです。形式と構造、という捉え方は、元々時間軸に支配されている音楽というものをいわば要約しようとする手段ですが、変奏曲というのはその手が効かないのです。
 むしろ、変奏曲を聞くには、先を急ぐにせよ何にせよ、淡々と歩を進める旅人のように、丹念にその道を辿っていくしかないのです。と言うよりは、作曲家達も、それを分かった上で、その道を辿っていくことに意味がある、辿っていくこと自体が楽しみである、そのように書いたのではないでしょうか。辿るのが旅人なのか、観察者なのか、そこまでは想像してはいなかっただろうけれど。

 私が、変奏曲に限らず、「音楽を知的に理解しようとする」態度に懐疑的なのは、「音楽とは時間軸に支配されるものである」という事実と齟齬を起こしかねないからです。というのも、大抵の場合、知的に、論理的に物事を理解しようということは、事物を論理的に整理・統合して要約しよう、ということだからです。音楽そのものを文学的にせよ言葉で表現しようとすることも、これに相通ずるものがあります。誠に、言葉で説明出来るなら音楽は要らない、のです。むしろ、論理で以て統御しようとしている時間そのものに、音楽の本質があるのかも知れないのですから。
 まして、ベートーヴェンが晩年に多用した、変奏曲の如きは、上述の通り、最も時間軸の軛を逃れられない、むしろ時間軸の軛を感じさせることが音楽としての重要なポイントであるかも知れない作品なのですから、本当はそのような「要約する論理」で括ることが一番相応しくないのではないかと思うのです。

 ベートーヴェンの最後のピアノソナタ、op.111 は2楽章構成で、その第2楽章が変奏曲となっています。
 ベートーヴェンが古典派と目される理由には、勿論時代的なこともありますが、実質的な点としてソナタ形式を用いた、器楽ソナタの数々や、弦楽四重奏曲、交響曲など、古典派によって完成されたとされる形式の楽曲が作品群の中心に据えられているということがあります。
 けれども同時に、ベートーヴェンの、特に後期の作品は、その古典派の形式の枠を超えようとする試みの足跡でもあります。2楽章構成のピアノソナタ、というのも形式の逸脱ですが、この変奏曲は更に異例。第1楽章との急-緩のコントラストはありますが、これではさすがに全体に構造らしきものも見出すのは難しい。
 しかも、この変奏曲はかなり自由な変奏です。規則性を持って、次はこういう変奏、次はそれを発展させて、或いは対比させて、というような、変奏のスタイルに秩序があるとは言えない。だから、構造で把握することは出来ない。書かれた音符を淡々と追体験していくしかないのです。旅人のように。
 けれども、その眼前に繰り広げられる景色と言ったら!
 ベートーヴェンの書いた景色は、決して派手なパノラマではありません。勿論、音楽として、相応のダイナミズムも持ってはいるけれど、基本はあくまで主題と変奏。昔からある、原始的な音楽の展開方法でしかありませんが、一歩一歩音楽に添って歩いていくことで見えてくる美があります。
 楽想記号のアリエッタ、小アリアの名の通りここで歌われているのが、ベートーヴェンの「歌」なのです。歌というものが、理論的に総括出来ない音楽であり、等身大の時間をかけて聞くことでしか結局はその姿が見えてこないように、ベートーヴェンも同様に時間をかけて辿ることでしか全貌が分からない変奏曲を用いて、自分の歌を歌ったのではないかと思うのです。

 本当に、ベートーヴェンの「歌」は素晴らしい。

 但し。ベートーヴェンは、確かに変奏にかけては天才的であるし、素晴らしい曲を書いてはいるのだけれど、彼が「歌う」時、メロディを書いて歌うのではなく、変奏という技巧を用いて歌ってしまうところに、ベートーヴェン特有の問題があるのも事実でしょう。例えばシューベルトであれば、そんな風に歌わずとも、歌曲を一つ書いてしまうと思うのです。それは、勿論それぞれの持ち味ということでしかないのだけれど、やはりベートーヴェンという作曲家の、特殊な病理とも言うべき状況があるのも事実でしょう。この変奏曲それ自体が如何に素晴らしいかということとは全く別に。



2008/04/15のBlog
L.v.Beethoven : The complete piano sonatas (including op.109, op.110, op.111) [Disk 10]
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 454 621-2

 忙しさにかまけて、間が開いてしまいました。やれやれ。

 前回、「歌」なのに器楽的に扱われている、という話を書きました。しかし、何故それが問題なのでしょう?
 それは、歌というものが、本来は言葉と密接に関係したものである筈だからです。グレゴリオ聖歌やいわゆる賛美歌の類いは、その歌詞内容を正確に伝えると共に、その内容を音楽表現で補強する、という意味合いがあります。後に、歌詞内容を正確に伝える、という権能は衰えましたが、それでも歌われる内容に関連することには変わりません。

 言えば、第九の終楽章だって、歌詞の内容と関連はありましょう。でも、その関連というのは実はそれほど重くはなくて、音楽的に補強するというよりは、むしろ、音楽として作り上げる際、声楽合唱を使う為の一種の口実として使ってるのではないか、という感じなのですよね。別の言い方をすれば、他の歌詞でも、或いはそもそも合唱の代わりに別の器楽を使うことも出来なくはないと思うのです。

 聖歌や賛美歌は、基本的には歌詞を聞き取るのが前提ですが、バロック期のミサ曲や宗教カンタータは、むしろ演奏を通じて神を称えるという側面が強まります。そこでは、歌詞の聞き取りよりも、如何に荘厳であったり華麗であったりするかを強調したり、より完全な均整のとれた音楽を提示するか、の方に重点が置かれたりします。それでも、それらはまだ「歌」ではあったのです。歌詞に意味がある、或いは人が歌うことに意味がある。
 第九の場合、その辺が怪しいのです。もう人が歌ってなくてもいいんじゃないか、と。

 変奏、というのは、クラシック音楽の作曲法の基本中の基本でしょう。主題となる旋律を、リズムやテンポを変えたり、音程を変えたり調を変えたり、装飾音を付けたり、演奏する楽器を変えたり、と、バリエーションを付けて演奏していく。ソナタ形式も、結局はこの変奏の一種に過ぎません。
 歌と変奏というものがもう一つしっくりこないのは、そもそも「変奏」というものと歌とは親和性が無いのです。勿論、歌だってバリエーションが付くということはあります。でも、歌というものが「歌詞を聞かせる」というものであるなら、変奏などされると何を歌っているのかよく分からなくなってしまう。
 ちなみに、人の声というものに人間は鋭く反応するので、声を器楽のように使うのは実は難しい。合唱などを器楽的に扱う例は無いではないですが、独唱を器楽のように扱うのは、通常はヴォカリーズによるものくらいです。ちなみに、本当に楽器同様に扱うのは、いわゆる現代音楽を除けば、1例だけ、2楽章形式の「コロラトューラソプラノ協奏曲」というのが存在しますが、それくらいではないかと。

 さて、話を戻すと、変奏というのは、基になる旋律があって、それをどう加工したか、がポイントなので、元の旋律をつい追い掛けてしまうし、全然違うようでも大概は「ああ、この辺が一緒」というように分かる書き方をしています。なので、我々は聞いている内に、つい分析してしまうのです。「この変奏は、元の旋律に対してどのように変えているのか」という風に。
 この分析は、演奏する側にとってはやはり必要なので、どうしてもついこの視線で捉えようとする聞き手も出てきます。但し、ここがポイントで、演奏者というのは、音楽を構築する為にはその音楽がどのようなものであるか、全体像の把握も含めて構造を熟知しているべき(控えめに言っても望ましい)ですが、それが聞き方としてもあるべき姿か、と問われると、さて如何なものかと思うのです。
 変奏の全貌を捉える、というのは、言い換えれば各々の変奏がどのように出来ていて、どのような差異があるかを把握する、ということです。変奏曲の楽しみを、時間と共に移ろう景色の変化を眺めやるのに似たもの、とするなら、変奏曲の出来方・差異を予め分析して知覚しておく、というのは、次にどんな景色が来るかを知っていて、しかもそれがどのようであるかよりも、他と何処が違うかを重視して眺めているようなものです。それは、旅人の目線ではなく、観察者の目線です。

 クラシック音楽の場合、このような「知的アプローチ」とでも言うべき聞き方が、人によってはあるべき姿として賞賛されてしまうという面があります。このへんが、クラシック音楽を理詰めで聞こう、知的解釈を以て当たろうとする態度の因って来る所でしょう。それが、末期症状的には、某かの理論を援用し、それを無理矢理音楽に当て嵌め、形式的な類似点を見出して理解した気になってしまうようなところまで行ってしまうのです。

 しかし、音楽は何処まで行っても音楽でしかあり得ません。

 ベートーヴェンは、彼の「後期」と呼ばれる時代に於いて、変奏曲を多用しました。元々、即興ピアニストとしての腕前を武器にしていたベートーヴェンには、若い頃からピアノ曲を初めとして変奏曲の作品は数多かったのですが、それをより積極的に様々な楽曲で使うようになっていったのが後期。弦楽四重奏曲、第九、そして後期三大ピアノソナタ。ソナタという形式自体、かなり崩していった時期に、主題と変奏という、見ようによっては最もプリミティヴな方式で、しかも結構長く内省的な作品を多く書いていったのは、やはりベートーヴェン自身がこの形式に拘りを持っていたからと思えてなりません。いや、ここに取り上げたop.109など、この変奏曲を書きたかったから、最初の2楽章を付けたのではないか、とさえ思えてくるのです。勿論、それだけの価値がある作品だとは思いますけど。

 ブレンデルは、いわば知性派のピアニストということになっていますが、実際の所はどうなんだろうな、と思う時があります。このop.109の第3楽章の変奏曲にしても、純粋に器楽曲でありながら、知的解釈を超えたアプローチを聞かせてくれます。むしろ非常に抒情的な演奏です。聞く方の思うほどのウェイトが、分析的な解釈にかかっているわけではないのでしょう。

 次回は、もう一つの「抒情的な変奏曲」の話をして、ベートーヴェンにとっての変奏曲が後期に多用された理由を考えようと思います.

2008/04/08のBlog
L.v.Beethoven : Folksong Settings
25Scottish Songs op.108 and others

 Dame Felicity Lott, Janice Watson, Catrin Wyn Davies (sopran)
 Ann Murray, Ruby Philogene, Sarah Walker (mezzo-sopran)
 John Mark Ainsley, Timothy Robinson, Toby Spence (tenor)
 Thomas Allen, Christopher Matman (bariton)
 Marieke Blankestijn, Elizabeth Layton, Krysia Osostowicz (violin)
 Ursula Smith (cello), Malcom Martineau (piano)
 Deutsche Grammophon 00289 477 5128
 
 第九の第4楽章は言わずと知れた「合唱付き」の楽章であります。シラー作の詩「自由に寄す」を底本にしたテキストが、独唱4部と合唱4部とで歌い上げられる、言わば小オラトリオです。

 西洋古典音楽の基礎の一つであるキリスト教音楽の源流は、まずは各種聖歌に求められるでしょう。特に影響が強いのは、やはり今で言うグレゴリオ聖歌でしょうが、その最初の頃の聖歌は基本的にユニゾンで歌われる単声部のものであったと言われます。つまり、ハーモニーが無かったし、同時に違う旋律が進行することもなかった。そもそも聖歌とは、初めに音楽があった訳ではなく、まず聖書を朗読することがあり、それが朗唱に変わった、と考えられているようです。
 これは、中世に於ける識字率と書物の普及率とに密接に関係します。平たく言えば、中世に於いては、聖書自体数が少なく見ることも大変な状況だったし、そもそも識字率が低くて読めないという状況でした。
 なので、聖書の言葉を誰かが読み聞かせるしかなかったし、それをある程度覚えさせるには、節を付けて読むのが好都合だった、と言う訳です。ただ叫ぶよりは朗誦する方がよく聞かせられたでしょうし。しかも、その言葉をきちんと聞かせる為には、出来る限り音楽的には単純である方が聞き取りやすいですから、単旋律であることは好都合だった訳です。
 ともあれ、音楽の基本の一つである歌というものが、言葉で綴られたものを伝えるという目的を有していたことは、恐らくは確かでしょう。

 では、第九の終楽章の「歌」というものは、どのような理由で「歌」になっているのでしょう?

 第九の終楽章の歌詞は、数度に渡って繰り返されています。それらは、まず独唱者のソロか2重唱、或いは合唱の単声部による歌唱で歌われ、それからより複雑な重唱で歌われます。つまり、聴衆は、まず何が歌われているかを聞き取ることが出来るのです。その後で、様々に歌われながら、あの合唱によるフーガが歌われますが、この部分ではどうしても各声部が重なり合うので、歌われている内容は聞き取りにくくなる。
 ドイツ語を十分に理解出来る人、例えばネイティヴのドイツ人であれば、そこで何が歌われているか最初に捉えることが出来るでしょう。但し、本来この曲はロンドンの演奏団体から委嘱された作品ですから、必ずしも歌詞を十全に捉えられたかどうかは分からないですが。
 ところで、ここで気付きませんか?「最初にはっきりそれと分かるように聞き取らせておいて、その後色々に違う形で歌って行く。」これ、要するに変奏曲なんです。つまり、ベートーヴェンはここで「歓喜の歌」というモティーフを使って変奏曲を書いたのです。あのフーガにしても、つまりはこの変奏曲の一部であるわけです。
 別に声楽で変奏曲を書いちゃいけないわけではないですが、やはり少し妙な気はします。大体が、第九の第4楽章の詞は、同じ詞の繰り返しが多いのです。同じ詞を手を変え品を変えて出してくる。なんと言うか.....つくづく「声楽的」じゃないんですよね。扱い方が器楽的なのです。いや、もう少しストレートに、「歌」として取り扱ってくれていない、と言う方がいいでしょうか。

 でも、ベートーヴェンが歌の取り扱いは駄目だったかというと、そうでもないのです。ここに挙げたのはベートーヴェンが編曲した「25のスコットランド民謡」op.108。あの最後の3つのピアノソナタの直前に位置しています。これらは、エディンバラ在住のトムソンなる人物の依頼によって書かれたもの。言わば、頼まれ仕事ではあります。それかあらぬか、あまり人気もなく大きく取り上げられることもありませんが、決してただのやっつけ仕事には終わっていません。この曲集ではヴァイオリン・ピアノ・チェロの三重奏が伴奏に付いていますが、これが、裏に回るわけではないけれど、決して出しゃばらず、うまい具合に歌の方を引き立てているのです。
 ベートーヴェンだってやりゃ出来るんです。それにも関わらず、やらなかった、歌を歌として扱わずに「器楽曲」として変奏曲形式で最終楽章を作った、というのがポイントなのでしょう。

 もうちょっと続きます。

2008/04/07のBlog
L.v.Beethoven : Symphony No.9 D minor, op.125 "Choral"
 Heather Harper (soprano)
 Alfreda Hodgson (alto)
 Robert Tear (tenor)
 Gwynne Howell (bass)
 The Sinfonia Chorus, Members of London Symphony Chorus
 Northern Symphonia of England
 Richard Hickox (conduct)
 resonance CD RSB504

 ベートーヴェンの第九交響曲です。日本では、毎年年末には数多くの公演が開かれる名曲ですね。
 さて。この曲、難解でしょうか?そう尋ねれば、恐らくは多くの人が「いや、難解とは言わないだろう」と答えるでしょう。いわゆるクラシック音楽のファンでなく、一般人で、第九くらいは聞いたことがある、という位の人なら、そのように答えるか、「難しくはないんじゃない?」と答えるか。そういう人が多いと思います。
 でも、第九は、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏のどの曲よりも長いし、複雑です。編成だって、弦楽器4本に対して、弦5部に管楽器群、打楽器群、最終楽章では更に独唱4部と合唱4部が入ります。こんな複雑で長い曲なのに、どうして「難解ではない」のでしょう?仮に、それが、言ってみれば気分的なものに過ぎないとしても、何故そのように思うのか?

 理由は幾つかあると思います。まず、何と言っても、繰り返し聞く機会がある、ということ。このことは既に前回も触れましたから割愛しますが、繰り返し聞くことが親近感を生み出し、「難解」「解り難い」という印象を持たせないようにする要素であること、それが実は音楽そのものとは直接には関係がない、ということです。
 更に、そうは言っても、その音楽に使われるパーツ、則ち主題がキャッチーなものであること。つまり、比較的覚えやすいものであることも挙げられるでしょう。
 そしてもう1つは、巨大編成であるということは、一方で音楽を複雑化するけれど、もう一方では色彩感を豊かにし、表現の幅を広げる、つまりは音楽の器を広げることになるからだと思います。複雑なものが狭い範囲に押し込まれていると、確かに受け止め難い。けれど、それがある程度の大きな器に入っていれば、受け取る方も取り敢えずは受け取りやすいし、更には、終楽章のように、聞くものを圧倒することで、取り敢えず受け入れさせてしまう、という技も期待出来るし。
 けれども、「難解ではない」とされる最大の理由は、恐らくは、第九には「プログラム」があるからだと思います。あの、「苦悩から歓喜へ」というやつ。この話は必ず第九を説明する際に持ち出されますし、場合によっては譜例を出したりしながら、この主題が何を表していて、という風に、楽曲分析と密に連携していたりする。それを辿るようにしていけば、第九という音楽が理解出来る、という仕組み。「理解する」という点から行けば、こうしたロジカルな理解の仕方が可能であるということは、「難解ではない」という見解の源泉としては有力でしょう。

 でも。もし、言葉によって説明されたプログラムを辿ることで理解出来るならば、そもそも音楽なんていらないんじゃないでしょうか?実際、ベートーヴェンが底本にしたのは、シラーの書いた「詩」なのですし。それを更に書き足すことがあるとして、言葉で説明出来るなら、音楽にする必要は無いでしょう。それとも、理解すべき内容はその程度のことで、それに対する効果としての音楽がある、ということなのか?でも、それなら、理解しているのは音楽ではないですよね。
 でも、頭で考え始めてしまった人達は、この、「理解する」というわかり方から逃れることが出来ません。かくて、解釈という名の毒物(薬物なんて可愛いものではないでしょう)中毒が始まります。ありとあらゆる己の持ち合わせの論理的アイテムを持ち出して「理解する為の形」を組み立て始めるのです。哲学、論理学、言語学、果ては物理学まで持ち出して説明をつけて「理解」しようとする。でも、それらは結局個々人が作っていて、尚かつ曖昧さに耐えられない人達が独自のロジックを組んでいるので、どうしたって普遍性は得られない。俺流トンデモ解釈が肥大化して生産され、しかも再生産に繋がることは無い。

 結局、音楽はそもそも理解する為に聞くもんじゃないだろう、と思うのです。

 ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を聞いて、大抵の人は、理解する・しないということは考えないでしょう。そういうことを抜きにして「楽しめる」かどうか、というところで聞いていると思います。全ての音楽が単純にそのようであるとは限らないにしても。

 第九の第3楽章は、プログラム的には、この交響曲の最終到達点からすれば、否定されるべき存在です。ここには安寧・安らぎと呼べるものがあるけれど、それは否定され乗り越えられなければならない。この点は、その安らかな音楽が後半で一度ならず破られる、という経緯からしても、ロジカルにはその通りなのでしょう。
 それはそうなのですが、にも関わらず、この第3楽章を愛する人は少なくありません。そうした人達は、この音楽が最終的に否定されるべきもの、乗り越えられるべきものとして書かれたことは重々承知の上で、それでもこの音楽を愛する、と語ります。その魅力、安らぎの音楽には抗い難い、と。
 これもまた、一種の中毒ではあるのでしょう。けれど、この人達の取るスタンスは、「正しいプログラムの理解」を一旦受容した先にあります。勿論彼らはそれが「より先へ進んだ態度」である、とか言う風には考えていないでしょうし、この「安らぎの音楽」という捉え方も又プログラムの影響に依るでしょう。それでも、頭で論理的に理解するのとは別の、音楽を聞いてどのように受け取り、味わうか、ということの結果である、という事は言えると思います。
 前回最後に言及した、弦楽四重奏op.132の第3楽章は、音楽としてはこの第九の第3楽章によく似ています。ただ、第九の方では、その音楽自身の内部でも、全体としても、乗り越えられるべき音楽として書かれているのに対し、op.132の方は、それ自体決して否定されるべき存在としては描かれていません。それだけに、率直に言えば、より中毒的に身を浸し、委ねたいという欲望に駆られるのですが、それは私だけでしょうか?

 ついつい頭で理解するしか出来ない、重度の知性ジャンキーには訊いても無駄なのでしょうけれど。

 第九について言及した以上、やはり第4楽章の問題、ひいては言葉と音楽の問題も避けては通れないでしょう。もう少し長い隘路を行くことになりそうです。



2008/04/06のBlog
L.v.Beethoven : Streichquartette op.74, 95, 127, 132, 133, 135
 Melos Quartett Stuttgart
 CONCERTO ROYALE 206212-360

 ベートーヴェンの後期弦楽四重奏と言えば、ともあれ名作の誉れ高く、かつ難解、と言われています。だからこそ、これらの音楽について語りたがる人も多いし、語れること、わかることを滔々と語る人も少なくありません。ちょっと意地悪に言ってしまうと、概ねそうした人達はある種の知的興味を以てこれらの音楽を語るようでもあります。
 しかし、冷静に考えてみると、そもそも「音楽が難解」ってどういうことでしょうか?「音楽がわかる」ってどういうことなのでしょう?

 お察しとは思いますが、私はどちらかというとそうした人達に少なからず批判的であります。いや、そのような聞き方をしているだけなら構わないし、それを例えば自分の場で語る分には結構なのですが、それを他所に出張して礼儀も弁えずに人に押し付けたりする失礼な輩には誠に我慢がならないのであります。
 勿論、室内楽が好きで、そのようにも見える聞き方をされながら、礼儀を弁え、かつ自分のblogで責任を持って発言をされる方もおられます。私はそういう人に向かってどうこう言うつもりではないのです。ただ、今回から数回に渡って書き連ねていく中では、そうしたきちんとした方にも不愉快な内容があるかも知れないな、とは思うのですが、それは今回は申し訳ないけれど止むを得ないと思っております。御容赦下さいとは申しませんが....... 実のところ、その中には、私自身にも当てはまる内容は多々あります。そのくらいのことは分かっていますが、それでも言わずにはいられないのです。

 私は、正直に言って、「予習する」とか「聴き込む」とかいうのが大嫌いです。そうすること自体もどうかと思いますが、そのような考え方、そのような発想が嫌いです。浅薄だから。
 何故かと言うと、そういう人達の少なからぬ部分は、そうすることで「わかった」と言うからです。しかし、そういう人の多くは、実は何が「わかった」のでしょう?

 率直に言えば、「予習する」とか「聴き込む」の正体は、「繰り返し聞く」ということでしかありません。そして、ここがポイントなのですが、音楽というものは、個人差はありますが、繰り返し聞くことで耳に馴れるのです。モーツァルトが一回聞いただけで云々、てな話はありますが、何、常人だって繰り返して何回か聞けば、丸ごと覚えはせずとも「あ、これ聞いた」とばかりに耳に馴れて来るのです。その結果、どんなに聞き慣れない音楽でも、「生理的にダメ」みたいな拒否反応さえ無ければ、覚え、或いは慣れてくるのです。この効果は、聞く部分を細分化することで更に加速出来ます。
 昔、黒田恭一が「指環の攻略法」として、一ヶ月掛けて指環4夜を部分毎に聞いていって「ものにする」という話を書いていましたが、それがまさにこの効果なのです。ただ、黒田恭一は、そうすることで親しみを持ち、聞けるようになる、とは言っていたけれど、「わかるようになる」とは言わなかった。
 「聴き込んでわかるようになった」というのは、まぁ大抵はこの「馴れた」だけと考えていいでしょう。「馴れる」のと「わかる」のとは全くの別問題。馴れれば抵抗も無くなるし、取っ付きやすくなって、何事か蘊蓄を垂れる余裕も出るようになる。でも、それは、何かわかる、ということとは本来全く別の話なのです。それは、当人達が思っていることとは全く違って極めて幼稚なレベルの話に過ぎない。だって、ここでの問題は「馴れ」なんですから。だから、最初から馴れる必要の無い、取っ付きやすい音楽に付いて小手先で語ることと、レベルは何ら変わらないのです。
 でも、一生懸命「馴れた」人達は、自分達は手間暇掛けて取っ付きにくい音楽でも聞けるようになった、努力したんだから、だから自分のやったことにはある種の特異性がある筈だ、このように考えるのです。何、モー娘。の新曲聞いてどうこう言うのと、なんらレベルに差異はないのです。ただ単に時間を掛けて同レベルに持って来ただけの話で。その勘違いが有害である訳ですが。

 いや、そうは言っても、聞けなきゃ分かりようも無いんだし、決して有益でないわけではないだろう、と仰るか?それは確かにそうです。でも、問題は、そもそも「わかる」ということにあるのです。
 一生懸命な人達も、「わかる」為のステップとして聴き込んだりしたのでしょう。そうした人達に「難解ですよね」と尋ねれば、ある人は「難解じゃないよ」と言い、ある人は「確かに難解だ」と言い、まぁ大半は何れかでしょう。「難解」だからこそ繰り返し聞いて「わかろう」とする。
 しかし。「難解」という漢語は、訓読すれば「解り難い」「解き難い」となります。この「解る」「解く」という言葉は、通常、某かの論理性を伴った事物を「解る」、「理解する」時に使われます。「解く」は問題を解く、の解くですから、これも通常は論理性を伴ったものに使われます。
 しかし、音楽を「論理性を伴った事物」として「理解する」対象と看做す前提で考える、というのは、どういうことなのでしょう?ベートーヴェンの後期弦楽四重奏は、そういうものなのでしょうか?

 op.132の第3楽章は、40分以上掛かるこの曲でも、特に長い部分です。Molto Adagio。なかなかに情感の籠った緩徐楽章で、オリジナルの「大フーガ」op.133を付けなければ、この作品で最も長い楽章ですし、美しさを伴ったこの音楽は恐らくop.132の中心とされるでしょう。
 でも、そういう中心を持った音楽が「難解」、「解り難い」とはどういうことなのでしょう?この結論へ行く前に、この第3楽章と、ある面ではよく似た音楽について次回は触れたいと思います。

 って書いてから、有り難くも御指摘を受けました。そうでした、大フーガがくっつくのはop132 ではなくてop.130でした。おいおいしっかりしろって.....
 持つべきはちゃんとしたコミュニケーションが取れる他者であります。(有り難う御座いました>凛虞さん)

2008/04/05のBlog
こんなことでエントリー増やすのは誠に情けないんですけどね。

 結局、「公開する」ということを自分できちんと考えたことの無い人達は、公開することの負担に思いが到らないのでしょうね。
 blogにトラックバックという機能があるのは、blogという勝れて個人的なものに、如何に他の人との関係性という性格を与えるか、ということを考えた結果なのだと思います。パソ通の会議室から、ネットの掲示板、blogに到るまで、情報発信だとか情報のやり取りという功利主義的な発想をする人とは別に、それをコミュニケーションツールとして使うことを考える人達は間違いなくいるのです。
 でも、結局、コミュニケーションツールが公開されてしまうものである以上、それらは「目的外使用」から身を守ることは難しくなってしまい、結局少数の人間によって簡単に壊れてしまうものになっている、というのが実情でしょうか。

 情けない話です。

 私は巨大掲示板などを否定する気はありませんが、それがネットのあり方の全てだと規定してしまう気も毛頭ありません。ただ、私は、「参加者の大半がその場を維持することを考えなくても問題が起きない」システムがいいか悪いかはともかく、"その場を維持すること"について何も考える必要がない所での振る舞い方しか知らない人が量産されてしまうことは、ネットワークのあり方としては決して良くないと思います。
 それは、言ってみれば、観光客の振る舞いに似ています。blogなどを開くのは、自分の庭に綺麗な花が咲いたから道行く人にも見せてみよう、んでもって評価を聞こう、とするのに似ているかも知れません。無謀と言えば無謀ですけどね。でも、それを「見せることを考えた人」が無謀と言い、責任は取らなきゃと言うのは真実味がありますが、そんなことしたことも無い人達が入り込んで大声で騒ぎ立てた挙げ句、「見せるからには責任取らなきゃね」というのは物凄く腹立たしいのです。
 人の努力や善意にフリーライドしておいて、何を言うかと。

 努力を払う側は、しみったれたことは考えていませんが(それこそ皆好きでやってるのだから)、それを見て好き勝手失礼なことを言っておいて「見せる方に責任がある」と嘯くのはなんともやり切れません。そんな人達は、結局つまみ食いして回るだけなのだから。せめて人を批判するなら礼儀と節度を弁え、それ以上は自分で同じようにblogを作って書き立てるべきなのです。
 とそういう人達は言ってもやるわきゃないし、そうした個人の好きずきで出来たblogが細っていったら、何処か「自分には負担が無い所」を探して回るだけで、決して自分では立てないのでしょうね。

 ああ全く腹立たしい。

 さて、今日からちと過激な言動を繰り広げようと思います。
 一部の人は不快に思われるかも知れませんが、正直不快に思う奴ぁ勝手に不快になってろ、と思っています。ただ、以前から付き合いのある方もそう思われるかも知れませんが、そういう方には「ああVerdiがなんか噴いとるわい」くらいに怒り笑って流して下さると幸いでございます。って、嫌われても、それはそれで仕方無いですけどね。それはもう私の不徳の致す所でしかないのですから。

シューベルト:さすらい人幻想曲 D.760(*)
シューマン:クライスレリアーナ op.16 / 森の情景

 ブルーノ・レオナルド・ゲルバー (*)、ミシェル・ベロフ (piano)
 東芝EMI/新星堂 SAN-49

 また古いCDを持ち出してきました。以前も別の録音を取り上げた、新星堂の廉価盤シリーズです。1992年頃発売のもの。演奏者がゲルバーとベロフ。1970年代の録音で、ベロフもいいのですが、今回はゲルバー。例によって、演奏のセンスはいいのですが、帯の惹句が凄い。今回は「ピアノ......その深遠な響き。」.............いや、だから、どうしろと........

 シューベルトという人は本当にややこしい人で、自分は正統的な作曲家ではない、というコンプレックスを抱いていたらしい、というのは前にも触れたと思います。まぁ、確かに、今から見返してみれば、ロマン派のハシリであったと見えても、それは後からの話。ロマン派の方向へと突っ走って行ったベートーヴェンを後ろから見ながら、さて自分はどうすりゃいいんだと立ちすくんでいたであろう当人にしてみれば、たまったもんではなかったのでしょう。
 シューベルトには、後年であれば「ソナタ」と堂々と書かれたのではないかと思えるような作品に、「幻想曲」といった作品名が付いているケースがままあります。前に取り上げたヴァイオリンとピアノの為の「幻想曲」とか、今は独立した4つの曲で出来ていると見られている「即興曲集」もソナタの一種と看做す向きもあります。そして、この「さすらい人幻想曲」もそう。後のシューマンの「幻想曲」やリストの「ソナタ」にも影響を与えたと言われているらしいこの曲ですが、それらに比べればよほど「ソナタ」らしいとも言えるのに、あくまで「さすらい人幻想曲」なのです。

 曲自体はとても面白い曲です。題名は、第2楽章の主題を取って来た歌曲「さすらい人」に由来するのですが、全体は第1楽章で出て来る主題を全体に渡って繰り返し変奏しながら展開して行く4楽章構成。第1楽章は、ソナタ形式と言えなくもない展開をしつつ、第2楽章で短調に転じて、「さすらい人」の主題を変奏して行く。この2つの楽章の展開は、後のD.800番台以降のソナタに通じるものがあります。第3楽章では、冒頭の主題を使いながらトリオ楽章のように続けて行き、最後はよりスケールの大きなフィナーレへと繋いで行く。
 厳密な意味ではソナタ形式とは言えないであろうこと、全体が「4楽章」とは言いながら切れ目無く続いて行くこと、主題が繰り返し使われる上に、題名の通り歌曲の引用もあることなど、確かに古典的なソナタ、というには抵抗があるのは確かなのですけどね。
 だからといってそんなに遠慮しなくても、という気はします。そのへんがシューベルトらしいと言えばそうなのですが。

 実はこの曲、不思議なことにそれほど聞く機会は多くはありません。やはり「ソナタ」の方がいいんでしょうか。生演奏もそうですが、録音でもあまり多くはありません。ソナタの全集なんかには、即興曲集などと並んで収まるようにはなってますが。シューベルトにしては、比較的簡潔な割にスケールも大きくて、面白い曲なんですが.....ちょっと技巧的と言うか演奏効果が目に付き過ぎて敬遠されるのかな?
 ゲルバーの演奏は、スケールの大きさを上手く活かした演奏で、この曲の良さがよく出ています。私は結構高評価です。

2008/04/01のBlog
オ・ソレ・ミオ / ビー・マイ・ラヴ デル・モナコ・ソング・アルバム
 マリオ・デル・モナコ (tenor)
 エルネスト・ニチェッリ指揮オーケストラ
 マントヴァーニ指揮マントヴァーニ・オーケストラ
 DECCA / ユニバーサルクラシック UCCD-7100

 さて、世の中は全く憂き世と言うが如し、悪貨は良貨をいとも簡単に駆逐するのでありますが、我ながら悪貨の端くれとしましては、精々憎まれっ子として世に憚ることと致したく思うのであります。

 で、今更ながらデル・モナコのアルバムです。この録音も、昔々キング時代にも持っていて、デッカ=ロンドンでは「デル・モナコ大全集」でも持っているのに、車載用としてついつい中古で出ていたのを拾ってしまったCD。我ながらこの録音何度聞いてることやら.....
 実は、オリジナルには「イタリアン・ソングス」と「ソング・フォー・ユー」なる二枚のアルバムだったのを1枚に収録し直したもの。なので、録音年月日も1954年と1962年、伴奏も二組に分かれています。全体としては、まぁ、気晴らしに聞くあれこれ、というところなんでしょうか。
 前半が「イタリアン...」の方。メジャーどころでは「オ・ソレ・ミオ」「泣かないお前」「グラナダ」「帰れソレントへ」などが入ってます。後半が「ソング・フォー・ユー」。といっても、カーペンターズで一躍不動の名曲となったジョン・ラッセルのあの曲とは関係ありません。「禁じられた音楽」「マリウ、愛の言葉を」(どうでもいいけど、これ、「マイウー」に聞こえてきそうで仕方無いのですが....)「トゥナイト」「カタリ」と、これまた名曲揃い。しかし、1962年に「トゥナイト」を録音しているのですから、デル・モナコもチャレンジャーと言うべきか、レコード会社も目先が利くというか......

 デル・モナコは、しかし、ドスの利いた声と言うべきか、本当に「気楽に聞く」歌になってるか、と言われると微妙なんですよね。
 昔、それこそデル・モナコが活躍していた頃、マリオ・ランツァというテノールが居て、この人、まぁ実際のところはオペラ歌手というより限りなくポップスの「シンガー」に近い人だったのですが、恐らくこのCDに収まっている曲は、ランツァあたりで聞くと「いい気晴らし」になるんでしょう。そこまで言わなくても、例えば、フェルッチョ・タリアヴィーニあたりの甘い柔らかい声で歌われたりすれば、ね。

 でも、それはそれとして、この録音楽しくないかというと、これはこれで楽しいのです。多分、私なんかはここでは「気楽な曲」ではなくて、「デル・モナコ」を聞いているんでしょう。
 正直、デル・モナコは、あまりにも声が特徴的過ぎて、「何を歌ってもデル・モナコ」になってしまう面があります。デル・モナコのドン・ホセ(カルメン)とかマントヴァ公爵(リゴレット)なんて武張ってて物凄いですからね。Questa o quera なんて、一体なんでそんなに激情に駆られておられるのでしょう?って訊きたくなるくらいにミスマッチ(苦笑)
 でも、それでもやはりデル・モナコの声は捨て難いし、その声を聞きたくて聞いているのでもあります。

 昔々、年配の方を訪ねて行った時、何かの話からレコードでフランコ・コレッリのナポリ民謡集を聞くことになったのですが、それを聞きながら「ああ、これを聞くと、"イタリアだなぁ" という気になるんですよ」というお話をしておられたのを思い出します。コレッリの声も特徴的で、「何を歌ってもコレッリ」で、ナポリ民謡集なんて何処か合ってないんだけど、でも、そこが良くて聞きたくなるんですよね。

 このデル・モナコのCDもそう。デル・モナコの本気は、トロヴァトーレやオテロを聞くのが一番いいんだけど、でも、ちょっと「デル・モナコを聞きたい」とか、「イタリアのテノールの力強いところをちょっと聞きたい」なんて思う時、いいんですよね、これ。


2008/03/31のBlog
先日、↓のコメントを残したのですが、Doblogの機能強化に伴い、コメントを3月31日夜より開放することに致します。
 これまで以上に宜しくお願いします。
 あ、ともあれ、ゴミダミーは既に削除してしまいました。悪しからず......

 但し。一言申し添えますが、私のblogは元々私的な物なので、皆様のコメントに対し返答する「責任」は一切負いません。具体的には、「常識」を持とうとする努力をしないままにコメントを垂れ流す輩は遠慮無く無視の上排除します。私は、自分のblogを公的なものと位置付ける気は無いから。ここは公開の匿名掲示板などではないから。
 一般「常識」なんてネットの世界で期待してはいません。ただ、この場の主である私と共通理解を持とうとする努力が無い人とはお付き合いしません、ということ。反論や批判を受け付けないというのではありません。ただ、コミュニケートしたいんではなく、自分の考えを述べたいだけなら、私や他の皆のように、勝手に自分でblog開いてやって頂戴、ということです。ま、私はそんな奴のblog、見に行かないけどさ。

--------------------------------------------------------------------------------------------

誠に残念ではあるのですが、相変わらずゴミコメントが猖獗を極めておりますので、当面の間doblogユーザー以外のコメントはブロックさせて頂くことと致しました。
 .....まぁ、しょうがないんですけどね。

 これに伴い、ゴミダミーも近日削除致します。予め御了承下さい。

久々に怒っています。いや、本当に。

 実は、インターネットになってから、ネット上で個人が維持していた掲示板が失われるという事態を少なからず目にしています。その時、必ず壊れる発端は、ユーザー側にありました。
 大体ね、コメント付け始めるんですよ。ちょっと偉そうに。その内、言いたい放題になるんです。で、ああだこうだ文句付けたりして、周りから何か言われたりしてぶちギレル。で、さんざん引っ掻き回した挙げ句撤退宣言して逃げてっちゃう。

 このタイプの人達に共通していることがあります。
 まず第一に、自分では決してそうした場を持ったり管理したりしたことが無い。つまり、人が作った物には平気で乗っかるけれど、それを維持することは絶対に考えない。ましてや、自分で作ることなど面倒だからやらない。その一方で、そんなもの持つのは個人の問題だから自分には関係ないと思っている。
 第二に、その割に、書くことに中身が無いのです。これが重症でして、つまり、本人は某か書いているつもりなのだけれど、薄っぺらいのです。何故かと言うと、「私のこと」を書かないから。書く内容を持ち合わせてないのか、意識して書かないようにしているのか、怖くて書けないのか、分からないけれど、大抵の場合、その人が考え、思うことを、誰かに伝えようとする内容になっていないのです。
 「場を維持するコスト」は払う気がないが利用はする。でも、利用する代わりに何かその場に寄与出来るものもない。使うだけ使って、好き勝手振る舞って、後は知らない。

 blogが普及した最大の理由は、「簡単に出来るから」だった筈です。つまり、blogは、はっきり言えば書いてナンボ、書かなきゃ意味無し、なのです。ホームページを作るのは確かに大変だし、掲示板なんて小規模な物でも面倒だけど、blogは簡単なのです。予め用意されたテンプレートでちょっと細工すれば、すぐ体裁が整う。
 そう言っちゃなんですが、それで書けなきゃ、そもそも書くことを持ち合わせてないんですよ。

 それでも、減らないんですよね。言いたいことだけ言って荒らして出て行く輩というのは。

 blogは確かに公開の物です。だから、誰が読んでも文句は言えないし、それを読んだ人がどのような感想を抱くのも自由ではある。
 ただ、blogは、それでもやはり、「個人の物」なのです。コメント付けようがトラックバック付けようが、ある範囲内ではやはり管理しなければならないと思います。実は、これまではそうは思っていませんでした。たとえ如何に小規模であろうと、拙かろうと、発信した言葉に対しては責任を持つべきである、と。でも、結局、腐ったリンゴはゴミ箱に捨てるしか無いのです。断固として。責任を取るべきでない相手には、責任を取ってはいけないのだと。何故なら、そういう輩は、そもそもコミュニケーションを取ることを意図していないのだから。blog主は断じて掲示板の管理人ではありません。blog主、です。blogを書くことが自分の思うことを書くことに繋がっている人の場合、blogを続けることはとても大変だと思います。内容についての感想はいろいろあるでしょうが、blogというかなり楽な形であっても場を維持すること、言葉を紡ぐことに対しては、相応の礼を払うべきだと思うのです。
 blogは他の