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Verdiのレコード置き場 今日車で聴いたものblog
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2008/04/05のBlog
こんなことでエントリー増やすのは誠に情けないんですけどね。

 結局、「公開する」ということを自分できちんと考えたことの無い人達は、公開することの負担に思いが到らないのでしょうね。
 blogにトラックバックという機能があるのは、blogという勝れて個人的なものに、如何に他の人との関係性という性格を与えるか、ということを考えた結果なのだと思います。パソ通の会議室から、ネットの掲示板、blogに到るまで、情報発信だとか情報のやり取りという功利主義的な発想をする人とは別に、それをコミュニケーションツールとして使うことを考える人達は間違いなくいるのです。
 でも、結局、コミュニケーションツールが公開されてしまうものである以上、それらは「目的外使用」から身を守ることは難しくなってしまい、結局少数の人間によって簡単に壊れてしまうものになっている、というのが実情でしょうか。

 情けない話です。

 私は巨大掲示板などを否定する気はありませんが、それがネットのあり方の全てだと規定してしまう気も毛頭ありません。ただ、私は、「参加者の大半がその場を維持することを考えなくても問題が起きない」システムがいいか悪いかはともかく、"その場を維持すること"について何も考える必要がない所での振る舞い方しか知らない人が量産されてしまうことは、ネットワークのあり方としては決して良くないと思います。
 それは、言ってみれば、観光客の振る舞いに似ています。blogなどを開くのは、自分の庭に綺麗な花が咲いたから道行く人にも見せてみよう、んでもって評価を聞こう、とするのに似ているかも知れません。無謀と言えば無謀ですけどね。でも、それを「見せることを考えた人」が無謀と言い、責任は取らなきゃと言うのは真実味がありますが、そんなことしたことも無い人達が入り込んで大声で騒ぎ立てた挙げ句、「見せるからには責任取らなきゃね」というのは物凄く腹立たしいのです。
 人の努力や善意にフリーライドしておいて、何を言うかと。

 努力を払う側は、しみったれたことは考えていませんが(それこそ皆好きでやってるのだから)、それを見て好き勝手失礼なことを言っておいて「見せる方に責任がある」と嘯くのはなんともやり切れません。そんな人達は、結局つまみ食いして回るだけなのだから。せめて人を批判するなら礼儀と節度を弁え、それ以上は自分で同じようにblogを作って書き立てるべきなのです。
 とそういう人達は言ってもやるわきゃないし、そうした個人の好きずきで出来たblogが細っていったら、何処か「自分には負担が無い所」を探して回るだけで、決して自分では立てないのでしょうね。

 ああ全く腹立たしい。

 さて、今日からちと過激な言動を繰り広げようと思います。
 一部の人は不快に思われるかも知れませんが、正直不快に思う奴ぁ勝手に不快になってろ、と思っています。ただ、以前から付き合いのある方もそう思われるかも知れませんが、そういう方には「ああVerdiがなんか噴いとるわい」くらいに怒り笑って流して下さると幸いでございます。って、嫌われても、それはそれで仕方無いですけどね。それはもう私の不徳の致す所でしかないのですから。

シューベルト:さすらい人幻想曲 D.760(*)
シューマン:クライスレリアーナ op.16 / 森の情景

 ブルーノ・レオナルド・ゲルバー (*)、ミシェル・ベロフ (piano)
 東芝EMI/新星堂 SAN-49

 また古いCDを持ち出してきました。以前も別の録音を取り上げた、新星堂の廉価盤シリーズです。1992年頃発売のもの。演奏者がゲルバーとベロフ。1970年代の録音で、ベロフもいいのですが、今回はゲルバー。例によって、演奏のセンスはいいのですが、帯の惹句が凄い。今回は「ピアノ......その深遠な響き。」.............いや、だから、どうしろと........

 シューベルトという人は本当にややこしい人で、自分は正統的な作曲家ではない、というコンプレックスを抱いていたらしい、というのは前にも触れたと思います。まぁ、確かに、今から見返してみれば、ロマン派のハシリであったと見えても、それは後からの話。ロマン派の方向へと突っ走って行ったベートーヴェンを後ろから見ながら、さて自分はどうすりゃいいんだと立ちすくんでいたであろう当人にしてみれば、たまったもんではなかったのでしょう。
 シューベルトには、後年であれば「ソナタ」と堂々と書かれたのではないかと思えるような作品に、「幻想曲」といった作品名が付いているケースがままあります。前に取り上げたヴァイオリンとピアノの為の「幻想曲」とか、今は独立した4つの曲で出来ていると見られている「即興曲集」もソナタの一種と看做す向きもあります。そして、この「さすらい人幻想曲」もそう。後のシューマンの「幻想曲」やリストの「ソナタ」にも影響を与えたと言われているらしいこの曲ですが、それらに比べればよほど「ソナタ」らしいとも言えるのに、あくまで「さすらい人幻想曲」なのです。

 曲自体はとても面白い曲です。題名は、第2楽章の主題を取って来た歌曲「さすらい人」に由来するのですが、全体は第1楽章で出て来る主題を全体に渡って繰り返し変奏しながら展開して行く4楽章構成。第1楽章は、ソナタ形式と言えなくもない展開をしつつ、第2楽章で短調に転じて、「さすらい人」の主題を変奏して行く。この2つの楽章の展開は、後のD.800番台以降のソナタに通じるものがあります。第3楽章では、冒頭の主題を使いながらトリオ楽章のように続けて行き、最後はよりスケールの大きなフィナーレへと繋いで行く。
 厳密な意味ではソナタ形式とは言えないであろうこと、全体が「4楽章」とは言いながら切れ目無く続いて行くこと、主題が繰り返し使われる上に、題名の通り歌曲の引用もあることなど、確かに古典的なソナタ、というには抵抗があるのは確かなのですけどね。
 だからといってそんなに遠慮しなくても、という気はします。そのへんがシューベルトらしいと言えばそうなのですが。

 実はこの曲、不思議なことにそれほど聞く機会は多くはありません。やはり「ソナタ」の方がいいんでしょうか。生演奏もそうですが、録音でもあまり多くはありません。ソナタの全集なんかには、即興曲集などと並んで収まるようにはなってますが。シューベルトにしては、比較的簡潔な割にスケールも大きくて、面白い曲なんですが.....ちょっと技巧的と言うか演奏効果が目に付き過ぎて敬遠されるのかな?
 ゲルバーの演奏は、スケールの大きさを上手く活かした演奏で、この曲の良さがよく出ています。私は結構高評価です。

2008/04/01のBlog
オ・ソレ・ミオ / ビー・マイ・ラヴ デル・モナコ・ソング・アルバム
 マリオ・デル・モナコ (tenor)
 エルネスト・ニチェッリ指揮オーケストラ
 マントヴァーニ指揮マントヴァーニ・オーケストラ
 DECCA / ユニバーサルクラシック UCCD-7100

 さて、世の中は全く憂き世と言うが如し、悪貨は良貨をいとも簡単に駆逐するのでありますが、我ながら悪貨の端くれとしましては、精々憎まれっ子として世に憚ることと致したく思うのであります。

 で、今更ながらデル・モナコのアルバムです。この録音も、昔々キング時代にも持っていて、デッカ=ロンドンでは「デル・モナコ大全集」でも持っているのに、車載用としてついつい中古で出ていたのを拾ってしまったCD。我ながらこの録音何度聞いてることやら.....
 実は、オリジナルには「イタリアン・ソングス」と「ソング・フォー・ユー」なる二枚のアルバムだったのを1枚に収録し直したもの。なので、録音年月日も1954年と1962年、伴奏も二組に分かれています。全体としては、まぁ、気晴らしに聞くあれこれ、というところなんでしょうか。
 前半が「イタリアン...」の方。メジャーどころでは「オ・ソレ・ミオ」「泣かないお前」「グラナダ」「帰れソレントへ」などが入ってます。後半が「ソング・フォー・ユー」。といっても、カーペンターズで一躍不動の名曲となったジョン・ラッセルのあの曲とは関係ありません。「禁じられた音楽」「マリウ、愛の言葉を」(どうでもいいけど、これ、「マイウー」に聞こえてきそうで仕方無いのですが....)「トゥナイト」「カタリ」と、これまた名曲揃い。しかし、1962年に「トゥナイト」を録音しているのですから、デル・モナコもチャレンジャーと言うべきか、レコード会社も目先が利くというか......

 デル・モナコは、しかし、ドスの利いた声と言うべきか、本当に「気楽に聞く」歌になってるか、と言われると微妙なんですよね。
 昔、それこそデル・モナコが活躍していた頃、マリオ・ランツァというテノールが居て、この人、まぁ実際のところはオペラ歌手というより限りなくポップスの「シンガー」に近い人だったのですが、恐らくこのCDに収まっている曲は、ランツァあたりで聞くと「いい気晴らし」になるんでしょう。そこまで言わなくても、例えば、フェルッチョ・タリアヴィーニあたりの甘い柔らかい声で歌われたりすれば、ね。

 でも、それはそれとして、この録音楽しくないかというと、これはこれで楽しいのです。多分、私なんかはここでは「気楽な曲」ではなくて、「デル・モナコ」を聞いているんでしょう。
 正直、デル・モナコは、あまりにも声が特徴的過ぎて、「何を歌ってもデル・モナコ」になってしまう面があります。デル・モナコのドン・ホセ(カルメン)とかマントヴァ公爵(リゴレット)なんて武張ってて物凄いですからね。Questa o quera なんて、一体なんでそんなに激情に駆られておられるのでしょう?って訊きたくなるくらいにミスマッチ(苦笑)
 でも、それでもやはりデル・モナコの声は捨て難いし、その声を聞きたくて聞いているのでもあります。

 昔々、年配の方を訪ねて行った時、何かの話からレコードでフランコ・コレッリのナポリ民謡集を聞くことになったのですが、それを聞きながら「ああ、これを聞くと、"イタリアだなぁ" という気になるんですよ」というお話をしておられたのを思い出します。コレッリの声も特徴的で、「何を歌ってもコレッリ」で、ナポリ民謡集なんて何処か合ってないんだけど、でも、そこが良くて聞きたくなるんですよね。

 このデル・モナコのCDもそう。デル・モナコの本気は、トロヴァトーレやオテロを聞くのが一番いいんだけど、でも、ちょっと「デル・モナコを聞きたい」とか、「イタリアのテノールの力強いところをちょっと聞きたい」なんて思う時、いいんですよね、これ。


2008/03/31のBlog
先日、↓のコメントを残したのですが、Doblogの機能強化に伴い、コメントを3月31日夜より開放することに致します。
 これまで以上に宜しくお願いします。
 あ、ともあれ、ゴミダミーは既に削除してしまいました。悪しからず......

 但し。一言申し添えますが、私のblogは元々私的な物なので、皆様のコメントに対し返答する「責任」は一切負いません。具体的には、「常識」を持とうとする努力をしないままにコメントを垂れ流す輩は遠慮無く無視の上排除します。私は、自分のblogを公的なものと位置付ける気は無いから。ここは公開の匿名掲示板などではないから。
 一般「常識」なんてネットの世界で期待してはいません。ただ、この場の主である私と共通理解を持とうとする努力が無い人とはお付き合いしません、ということ。反論や批判を受け付けないというのではありません。ただ、コミュニケートしたいんではなく、自分の考えを述べたいだけなら、私や他の皆のように、勝手に自分でblog開いてやって頂戴、ということです。ま、私はそんな奴のblog、見に行かないけどさ。

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誠に残念ではあるのですが、相変わらずゴミコメントが猖獗を極めておりますので、当面の間doblogユーザー以外のコメントはブロックさせて頂くことと致しました。
 .....まぁ、しょうがないんですけどね。

 これに伴い、ゴミダミーも近日削除致します。予め御了承下さい。

久々に怒っています。いや、本当に。

 実は、インターネットになってから、ネット上で個人が維持していた掲示板が失われるという事態を少なからず目にしています。その時、必ず壊れる発端は、ユーザー側にありました。
 大体ね、コメント付け始めるんですよ。ちょっと偉そうに。その内、言いたい放題になるんです。で、ああだこうだ文句付けたりして、周りから何か言われたりしてぶちギレル。で、さんざん引っ掻き回した挙げ句撤退宣言して逃げてっちゃう。

 このタイプの人達に共通していることがあります。
 まず第一に、自分では決してそうした場を持ったり管理したりしたことが無い。つまり、人が作った物には平気で乗っかるけれど、それを維持することは絶対に考えない。ましてや、自分で作ることなど面倒だからやらない。その一方で、そんなもの持つのは個人の問題だから自分には関係ないと思っている。
 第二に、その割に、書くことに中身が無いのです。これが重症でして、つまり、本人は某か書いているつもりなのだけれど、薄っぺらいのです。何故かと言うと、「私のこと」を書かないから。書く内容を持ち合わせてないのか、意識して書かないようにしているのか、怖くて書けないのか、分からないけれど、大抵の場合、その人が考え、思うことを、誰かに伝えようとする内容になっていないのです。
 「場を維持するコスト」は払う気がないが利用はする。でも、利用する代わりに何かその場に寄与出来るものもない。使うだけ使って、好き勝手振る舞って、後は知らない。

 blogが普及した最大の理由は、「簡単に出来るから」だった筈です。つまり、blogは、はっきり言えば書いてナンボ、書かなきゃ意味無し、なのです。ホームページを作るのは確かに大変だし、掲示板なんて小規模な物でも面倒だけど、blogは簡単なのです。予め用意されたテンプレートでちょっと細工すれば、すぐ体裁が整う。
 そう言っちゃなんですが、それで書けなきゃ、そもそも書くことを持ち合わせてないんですよ。

 それでも、減らないんですよね。言いたいことだけ言って荒らして出て行く輩というのは。

 blogは確かに公開の物です。だから、誰が読んでも文句は言えないし、それを読んだ人がどのような感想を抱くのも自由ではある。
 ただ、blogは、それでもやはり、「個人の物」なのです。コメント付けようがトラックバック付けようが、ある範囲内ではやはり管理しなければならないと思います。実は、これまではそうは思っていませんでした。たとえ如何に小規模であろうと、拙かろうと、発信した言葉に対しては責任を持つべきである、と。でも、結局、腐ったリンゴはゴミ箱に捨てるしか無いのです。断固として。責任を取るべきでない相手には、責任を取ってはいけないのだと。何故なら、そういう輩は、そもそもコミュニケーションを取ることを意図していないのだから。blog主は断じて掲示板の管理人ではありません。blog主、です。blogを書くことが自分の思うことを書くことに繋がっている人の場合、blogを続けることはとても大変だと思います。内容についての感想はいろいろあるでしょうが、blogというかなり楽な形であっても場を維持すること、言葉を紡ぐことに対しては、相応の礼を払うべきだと思うのです。
 blogは他の誰かが発言する為の場ではない。発言したければ、blogを自分で持てばいい。それすら出来ない癖に、他所で得手勝手なコメントを書いて回るようなフリーライダーは相手にしなくて構わないのだと思う次第です。

 そんな風に「読者」を選ぶのは好ましくないと思うけれど、それこそパソコン通信の時代から、この手の勘違いフリーライダーは居なくならないのだから、止むを得ないな、と思うのです。
 別にblog持ってない奴読むの禁止、とは申しません。ただ、中身の無い人は相手にしないし、遠慮無く削除するぞ、というだけの話でして。ハイ。
 御陰様でコメントもトラックバックも承認制になりましたので、いい時期かな、と思う訳です。勿論、私とは違う意見をお持ちの方のトラックバック、歓迎です。それが中身のある物である限り、意見が違っていても決して拒否しようとは思わないですからね。

F.J.Haydn : String Quartet D major op.64 No.5 "Lark" / B minor op.33 No.1 / G major op.76 No.1
 Quatuor Ebene
 MIRARE MIR013

 今回は、「にほんブログ村」のトラックバックコミュニティ「弦楽四重奏」の企画、「ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲」に参加するのであります。ちなみに、もう一つのトラコミュ「ヨーゼフ・ハイドンの音楽」との共催だそうですが、残念ながらdoblogではトラックバックは一つしか付けられないので、そちらにはTBしていないのであります。悪しからずご了承下さい。

 というわけで、本日は私の好きなハイドンの弦楽四重奏曲である「セレナード」を.....と思ったのですが、事前に「アレはホフシュテッターの作品であることが判明しているので」ということで却下されてしまいました。そう。かつては「ハイドンの初期の名作」と目されていた「セレナード」は、既に20世紀前半には「偽作」であると同定され、ハイドンの作品からは除外されているのです。

 まぁ、確かに、そうなんですけどね。

 じゃぁ、偽作でないハイドンの弦楽四重奏では次は何が好き?と問われると、咄嗟に出て来るのは「ひばり」なのです。
 この曲は、クラシックを聞き始めの頃、スメタナ四重奏団の演奏で聞いて以来の付き合いです。第一楽章冒頭、スタッカートで第二ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロが入って来る。そこへ、高みを飛ぶが如く伸びやかに第一ヴァイオリンが歌い出す。もう、これだけで嬉しくなってしまうのです。
 嬉しくなる?そう。ついつい嬉しくなってしまうのです。少し奇妙に感じられるかも知れませんが、でも、ハイドンの音楽には、何処かそういう風に感じさせるものがある曲が少なからずあるな、と思うのです。機嫌の良さ、と言い換えてもいいかも知れません。勿論、ハイドンは、決してそんな音楽ばかりではありません。気難しげな音楽、内向し沈潜するような音楽、荘厳な音楽、そういう音楽もあります。でも、私にとってハイドンの第一印象は何かと考えると、やはり「機嫌のいい音楽」が思い浮かぶのです。それで済ましてしまうのは幾ら何でも失礼だろ、と言われそうだとしても。
 それは、ハイドンの職業的立場故ではないか?という見方もあると思いますが、この「機嫌の良さ」は、後年のエステルハージ家との関係が一度絶たれた後も決して失われてはいません。やはり、ハイドンという人の音楽がそうであった、と考えた方がいいのじゃないかと思うのです。この「ひばり」が書かれたのは1790年、既にハイドンはモーツァルトから「ハイドンセット」を受け、「プロシア四重奏曲」を書いています。その上で尚こういう曲が書ける。

 「セレナード」が偽作だったのは事実なのでしょうが、「セレナード」にもこの「機嫌の良さ」のようなもの、ハイドンらしさとでもいうようなものが感じられるのは確かなのです。かつて人々が「セレナード」をしてハイドン作と然らしめたのは、決して故無きことではないと思うのです。

 「ひばり」も数多の録音がありますが、今回は最近の録音で、エベーヌ四重奏団のものを。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの公演で来日している、まだ結成して10年そこそこの団体です。一度聞いたことがありますが、その時の印象も、この録音も、共にとても新鮮な演奏。決して尖った演奏をするわけではなくて、むしろ「丸い」演奏ですが、よく和していて、それでいて決して小さく纏まっているわけではない。伸びやかな演奏です。よくよく聞いていると、時々細かい仕込みが見え隠れするのは御愛嬌、でしょうか。
 ハイドンの「機嫌の良さ」によく似合う、と思う所以であります。

 ちなみに、「セレナード」の録音は、意外とあります。イタリア四重奏団(PHILIPS)、ウィーン四重奏団(カメラータ)、コダーイ四重奏団(CAPRICCIO)など。いずれも決して悪くない演奏です。別に誰が書いてたっていいじゃないか(^-^)、と思わず言いたくなるような、ハイドンだってそう言うんじゃないかな、と思わせるような、機嫌のいい演奏です。


2008/03/29のBlog
F.Schubert : Piano Sonata No.16 A minor, D.845 / 3 Klavierstuecke D.946
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 422 075-2

[ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのサイトはこちら]

 シューベルトはまず歌の人。次にピアノの人、と言ってしまうとちと乱暴でしょうか?
 まぁ、シューベルトといえば、交響曲は「未完成」と「グレート」、「ます」と「魔王」と「野ばら」、そして即興曲に楽興の時、といったあたりが定番ですから、当然と言えば当然ですが。
 今日はその中でも、「のだめカンタービレ」にも出て来て、何故か人気曲になってしまったこの曲。ピアノ・ソナタ第16番、D.845。実は、今回のラ・フォル・ジュルネでは、あんまり演奏回数は多くないみたいなんですけどね....

 前にも書きましたが、この曲、いい曲ではあるけれど、若干地味目の曲ではあります。劇的表現もあるにはあるけれど、のだめが言う「シューベルトは気難しい」と言いたくなる気持ちもわからんではない曲です。
 まぁ、シューベルトのピアノ曲の魅力の一端は、実はそういうところにあるのだと思いますけれども。弾けるような開放感、とか、悲劇的な結末、みたいなはっきりしたカタルシスが必ずしもはっきりせず、内へ内へと沈潜して行く曲が少なくない。まぁ、流石に最終楽章はそうなっていることも多いけど、そこに辿り着くまでが大変。語弊はありますが、実は結構人によって向き不向きのある音楽かも知れません。プロの演奏家としては、ちょっと試しに手を出してみる、ではすまない部分があるのだと思います。
 思えば、シューベルトをプロフェッショナルとして取り上げるピアニストは、実は限られているように思います。演奏家として専門の作曲家を持つようになる、というのは、現代の演奏家に見られる傾向で、特にピアニストにはその傾向が強いようにも思いますが、シューベルトの場合、結構前からそういう傾向は強かったのではないでしょうか。それは、必ずしも「そういう傾向」では済まないような気がします。言い換えると、シューベルトの場合、やはり独特の内省的な傾向を上手く処理出来るか否かに鍵があるのではないかと思うのです。

 4楽章構成で、緩-緩-急-急のシューベルト独特の構成です。最初の緩は中庸と称すべきかも知れないですが。この構成は、実は第21番のそれと同じパターン。非常にリリカルで沈潜するような前半から、一気に駆け抜けて行くような後半。よく似ています。前半楽章の重苦しさで聞かせる魅力もよく似ています。確かに、こういう曲と一戦交えて、お客に納得行くように聞かせるのは、なかなか大変なものだと思います。

 ブレンデルは、現役最年長世代としては、最もシューベルトを得手として来たピアニストだと思います。当代の第一人者でしょう。その前の世代にはケンプなども居たけれど、シューベルトのソナタを全集に近い形で二度録音しているのは、今のところブレンデルくらいじゃないかと思います。
 そのブレンデルの演奏、個人的には結構複雑なところです。いい演奏だと思いますし、実演でも聞いたこともあるし、いいと思います。概して。でも、繰り返しを結構省いたりしているのが、玉に瑕なんですよね。そこが個人的には許せなかったりするのだけど。
 とはいえ、演奏それ自体は、確かに素晴らしい。現役のシューベルト弾きと言えば、シフ、ピリス、白井光子も一応、あたりが浮かびますが、やはりブレンデルは大御所としては外せない。自信を持って繰り返しを省いて来るだけのことはあって、全体の構成を睨んでの演奏にしても、個々の細部に渡る表現にしても、一貫してブレが感じられません。そこがブレンデルの魅力でしょうか。
 このCDには、D.946の3つの小品がカップリングされています。「小品」と言っても、実際には「即興曲」とも称されることのある作品群。一曲一曲が結構長いのですが、その中にいろんな表情を持っていたりして、なかなか面白い曲集です。ここでのブレンデルも、面白い。自分の中の音楽的な抽き出しを幾つも動員して、多彩な音楽を聞かせてくれる。そんな感じです。そう、芸達者とは言わないけれど、シューベルトは、結構複雑。いろんな抽き出しを求められる音楽かも知れません。しかも、「これを売りにしておけば大丈夫」というのがあるとも言えないから、大変なのかも知れないです。



2008/03/28のBlog
ヴェルディ:「ドン・カルロ」
 ホセ・カレーラス (tenor)
 ミレッラ・フレーニ、エディタ・グルベローヴァ、バーバラ・ヘンドリックス (soprano)
 アグネス・バルツァ (mezzo-soprano)
 ピエロ・カップッチッリ (bariton)
 ニコライ・ギャウロフ、ルッジェーロ・ライモンディ、ホセ・ファン・ダム
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
 ヘルベルト・フォン・カラヤン (conduct)
 東芝EMI TOCE-6437-39

 今月は新国立劇場で「アイーダ」を上演中。なかなかの人気だそうです。ま、自分も行ければ千秋楽に行こうと....... でも、正直言うと、自分としては、同じヴェルディでもアイーダより好きな曲は沢山あるのでして...... 例えば、「ドン・カルロ」。

 「ドン・カルロ」の何処がいいか?
 何はともあれ、配役とその音楽的バランスがいいのです。
 ヴェルディは、モーツァルトと並んで低声、それも男性の低声を使うことに極めて長けていた人です。もっと言ってしまえば、バス・バリトン役こそヴェルディの真骨頂、バス・バリトンの活躍度合いが傑作度とリンクしていると言っても過言ではありません。ヴェルディの人気曲で、バス・バリトン役があまり活躍しないのは、椿姫くらいでしょうか。あれでも、2幕前半はパパ・ジェルモン出ずっぱりですし。ドン・カルロでは、ロドリーゴ、フィリッポ二世、宗教裁判長と低声の共演が勢揃い。
 しかも音楽の密度が高い。オーケストラも厚いのですが、登場人物も多い分、アリアや重唱が多い。音楽的に逃げ場無し(笑)話の筋が重苦しいのも、この傾向に拍車を掛けます。まぁ、イタリア・オペラで舞台がスペインといっても、原作はドイツ人のシラーですからね。イタリア語版だと、いきなり廟堂の前で話が始まるし。物語中には本来恋人同士だったとはいえ義母と息子の悲恋、暴動に不倫、処刑に暗殺、最後は亡霊まで出て来るし。重いです。しかし、この黒い重さが、ヴェルディの音楽に合うのです。

 この密度の濃い音楽を、カラヤンがベルリン・フィルを率いて録音したのがこのCD。ちなみにカラヤンはこのプロダクションをザルツブルク音楽祭で演し物にしていたのでした。なので、この録音は、ライブではないけれど、ザルツブルクの記録という面もあるにはあるのです。
 カラヤンがベルリン・フィルを振っての録音なのですから、配役も豪華絢爛。外題役にカレーラス、エリザベッタにフレーニ、エボリの姫にバルツァ。まぁ、この時点で十分豪華ですが、凄いのが低声陣。ロドリーゴにピエロ・カップッチッリ、フィリッポ二世にニコライ・ギャウロフ。もうこの時点で凄い。1幕2場後半のこの2人のやり取りは迫力がありますが、それ以上に「怖い」のが、3幕1場。宗教裁判長がルッジェーロ・ライモンディ。この、ライモンディとギャウロフのやり取りは、まるでゴッドファーザー同士の対決さながらであります。ついでに、端役である修道士にホセ・ファン・ダム。もう何というか.......
 とにかくこの録音、豪華版なのです。1幕に出て来る小性役のテバルドにエディタ・グルベローヴァ(!)、2幕の火刑の場面で出て来る「天上の声」にバーバラ・ヘンドリックス。
 1980年前後の時期の録音からすれば、普通にはなかなか集まらない面子です。1960年前後のデッカのオペラ録音で集まっていた面々に匹敵する豪華さでしょう。ちょっとこれだけの面子を集めるのは、もう無理じゃないかな。

 オーケストラの演奏も極上。かくあれかし、と思うような演奏です。テンポ、歌わせ方、響き、デュナミークのコントロール、タイミング、全て申し分無し。一つの完成形でしょう。歌手もそうなのですが、無理を感じる場面が無いのです。極めてスムーズ。

 やはりカラヤンの真骨頂はオペラにあり、ですね。演奏する側も極上でしょうが、それを纏め上げるカラヤンの手腕は流石です。かゆいところに手が届く、と言ってもいいのでしょうか。
 ドン・カルロには名演も多く、この録音も全てに秀でている訳ではないと思いますが、やはり「ドン・カルロを聞きたい」と思うとこの録音を手に取っていることが多いです。総合点も高いけれど、一つ一つの粒が揃っていて、何処を聞いても聞き応えがありますね。

2008/03/25のBlog
I.Stravinsky : Pulcinella Suite / Concerto in E flat for Chamber Orchestra "Dumbarton Oaks" / Eight Instrumental Miniatures (for fifteen players)
 Orpheus Cnamber Orchestra
 Deutshe Grammophon 419 628-2

 ストラヴィンスキー。「春の祭典」「火の鳥」「ペトルーシュカ」のバレエ・リュス3部作(って言うのかどうか知りませんが)もいいですが、実は後年の擬古典主義の時代の作品が結構好きです。
 その代表作とも言えるのが、ここに最初に収録されている「プルチネッラ」。最近は演奏される機会も増えて来たようですが、さすがに初期のバレエ3部作に比べれば知名度は劣ると思います。でも、これ、面白いんですよね。

 いや、冷静に考えてみると、何処がどう「擬古典」なの?って話ではあるんですよね。確かに曲の形式は「古典」、というか、バロック期の組曲形式を踏襲しているのですが、なんだか違う。ちゃんと調べた訳じゃないけれど、形式は踏襲していても、リズムやハーモニーが「古典」じゃないようなのです。特にハーモニーというか響きが不思議で、言ってみれば古典から一度ロマン派、近代、無調を経て、先祖返りしました、という感じなんですね。
 何処がどう、と説明するにはちゃんと解析しないと無理なんだと思いますが、鳴っている音の積み重ねが、一見自然なようで、実はロマン派以降の不協和音や「禁じ手」を知ってしまった耳には違和感はないけれど、本来有り得ないんじゃないでしょうか......というもののようなのです。
 それは単にハーモニーの積み重ねだけでなく、楽器の使い方にしても、各声部の積み重ねにしても、微妙に「合ってない」のです。その不思議な違和感がまた面白みを増すのです。楽しいんだけど、ちょっと一筋縄ではいかない音楽ですね。

 この録音はオルフェウス室内管弦楽団の演奏。指揮者を置かないということで珍しがられたり却ってネガティヴに見られたりということもある団体ですが、個人的には結構好きな団体です。響きを練り上げている、丁寧に音楽を作っているという感じです。
 カップリングで、室内管弦楽の為の協奏曲「ダンバートン・オークス」、器楽の為の8つのミニアチュア、の2曲が収録されています。どちらも、擬古典主義の時代ながら、もう少し殻を出ている音楽です。特に「ダンバートン・オークス」はかなり現代的な響きが混じっていて、「ああ、20世紀の音楽だったな、やっぱり」と思わせる一面を持っています。
 こういう曲も好きです。

2008/03/23のBlog
バトル:アヴェ・マリア
 キャスリーン・バトル (soprano)
 クリストファー・パークニング (guitar)
 東芝EMI TOCE-13360

 キャスリーン・バトル。今となっては懐かしい名前になってしまいました。20年以上前にニッカウィスキーのCMで、「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデル "セルセ" )を歌って一般に大ブレーク(って言い方当時はしなかったなぁ)したソプラノです。当時、リサイタルも行われて、聞きに行った覚えがあります。神奈川県民ホールだったかな。綺麗な声でした、確かに。
 その後、オペラなどでも活躍していたのが、あまりに態度が悪いとのことで、結局METを閉め出されてしまいました。その後、オペラの舞台には立たなくなっているようです。リサイタルなどはやっているそうですが、日本にまではあまり情報は伝わって来ないですね。もう、今年還暦になるのだそうです。あの「オンブラ・マイ・フ」の時点で、もう40近かった訳で。なるほどねぇ。

 このアルバム、原題は "Pleasure of Their Company" となっています。Their とは、バトルと伴奏のギターを弾くクリストファー・パークニング。アメリカのギタリストで、若くして名手と呼ばれながら、早々に田舎に引っ込んで、あまり演奏活動は引き受けない、という生活を送っているそうです。うーん、知らないなぁ、この人。
 とはいえこのコンビの演奏は素晴らしい。どちらかというと線が細めで透明感のあるバトルの声に、ギターの伴奏はよく合います。主張し過ぎず、でもしっかりと寄り添うパークニングの演奏もいい。このアルバムの最初はダウランドの曲を5曲、内2曲はギター独奏なのですが、現代ギターの筈なのだけど、違和感は全くありません。今ならリュートか、それでなくてもバロックギターか何か使うでしょうが、そんなこと関係なくいい演奏です。
 ダウランドで最近記憶に残っているのはスティングの歌ったものですが、こちらのバトルのものもいい歌唱です。といって、いわゆる「ルネッサンス期のイングランドの音楽・ダウランドを歌う」って感じではなくて、普通に歌を歌っている。それがたまたまダウランドでした、と。ダウランドの歌自体、そういう性格のものなのかも知れませんね。そういえば、エマ・カークビーのようなスペシャリストの歌うダウランドより、スティングやバトルみたいなのの方が、私は好きなのかも知れません。構えた所が無くて。

 他には、バッハのプレリュードの旋律に載せた、グノーの「アヴェ・マリア」、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」、グラナドスやファリャ、ブラジルの歌曲、それに黒人霊歌、と、全20曲。クラシックのソプラノのアルバムとしては少々風変わりかも知れませんが、バトルの可憐な美声(とギター)を存分に楽しめるアルバムです。
 そう、改めて聞くと、本当にバトルの声はいい声なんですよね。わかってはいる事だけど、再認識させられます。もう少し色々と録音しておいてくれればよかったのに。
 残りの曲では、やはりバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」もいいけど、黒人霊歌もひと味違っていいですね。古くはレオンタイン・プライスとか、最近ならバーバラ・ヘンドリックスあたりが歌っていますが、バトルの、ドラマティックな感じとはちょっと違う声で歌われると、随分印象が変わります。こんなに抒情的なものだったのか、と。
 やっぱり勿体無いよなぁ、バトル......

2008/03/22のBlog
[ 23:50 ] [ クラシック ]
WEIHNACHTEN IM MITTELALTER
 ensemble fuer fruehe musik augsburg
 Christophorus CHE 0116-2

 全く季節外れなものを聞いております。もう春酣というのに、なんでクリスマス(苦笑)例によってお安く出ていたCDを拾って来たんですけどね。

 「古楽器演奏」はあまり好きではありませんが、古楽は結構聞くのです。その中でも古い方、バロックより前の音楽を割合に好むのは、やっぱり少しあまのじゃくなんでしょうね、私の場合。
 バロック以前になると、そもそも「弦楽合奏」みたいなものはあまり出てきません。基本は声楽曲ですし、器楽もあるにはあるけど、古楽器も古楽器、現代では滅多にお目にかかれないような木管楽器(蛇みたいにうねうねとした管楽器なんて見たことあります?)やチャルメラの元祖みたいな金管楽器とか、そんな楽器での小アンサンブルによる演奏とか。ここまでくると、そもそもどういう音楽だったのかの解明から始まります。音楽そのものも、バロック以降主流となる和声法以前、教会旋法やそれ以前のものが基礎になりますから、今聞かれる音楽とは随分違います。
 なんでそんなのがいいのか、と言われると困るんですが、まぁ、言ってみれば、エスニック音楽を聞くのとそう遠くない感覚なのかも知れませんね。もっとも、南方系のリズミックなエスニックではないですけどね、やっぱり。でもまぁ、ビザンツ聖歌とか聞いてると、やはり「ワールド・ミュージック」の範疇だよなぁ、とか思うので、昔々の欧州の音楽だって、その一部と考えた方がすっきりするかも知れません。

 さて、CDの話に戻ります。
 ドイツのCHRISTOPHORUSというレーベルから出たCDです。会社自体はハイデルベルクにあるようですが、このCD、2004年のものなのに、既に記載されているサイトはありません。ううむ。演奏は、ensemble fuer fruehe musik augsburg というところ。録音自体はもっと古く、1985年のようです。
 アンサンブル、と言っても5人でやってるようで、皆で歌ったり、リコーダーやら打楽器やらリュートやらフィドルやらオルガンやらその他色々とっかえひっかえやってます。でも、合唱主体なのですが、なかなか豊穣で、とても3人(歌うのは3人だけらしい)でやってるとは思えないくらい。
 「中世のクリスマス」という題名通り、12世紀から15世紀にかけての、宗教的な曲を演奏しています。全17曲の内器楽曲は2つくらいで、後は声楽曲。内容的には、主の栄光を讃えるという風の曲が主です。まぁ、クリスマスですからね。死者を悼み、平穏を祈る、みたいなのはさすがにありません。曲想も、まぁ「クラシック音楽」の感覚からはかなりずれるにせよ、祝祭的と言うか、賑々しいと言うか、やや華やかな感じを抱かせる曲が多いです。世俗曲とそう変わらないような気がしてきます。
 宗教曲、というと、どうもバロック期の、それもバッハなんかの曲を思い浮かべることが多いのですが、思うに、あの時期のプロテスタントの重厚な曲も悪くないのですが、やはりそればっかりではないと思うのですね。合唱なんかで、マショーとか、バロック以前の曲をやったりしたことのある人なら先刻承知、って話かも知れないですが。気難しいばっかりじゃ確かにやってられないですしね。


2008/03/21のBlog
L.v.Beethoven : Piano Sonata No.21 op.53 "Waldstein" / No.26 op.81a "Les Adieux" / No.27 op.90
Inger Soedergren (piano)
 Calliope CAL6306

 実は、私、ベートーヴェンのソナタは繰り返し年中聞いているようです。気が付くと、誰かのCDで聞いていたりする。実際、CDショップのバーゲンなんかで見つけると、結構拾ってしまったりしている。で、そんなもの聞くのかと言われると、結構聞いていたりします。やっぱり好きなんでしょうね。

 と言っても、満遍なく全32曲聞いてる訳ではありません。正直、初期のソナタはあまり聞きません。やはり名前付きのソナタはよく聞いています。特に14番以降。「月光」「田園」「テンペスト」「ワルトシュタイン」「熱情」「告別」......「ハンマークラヴィーア」は、大曲なのもあって、あまり聞いてはいませんが、op.90以降のソナタは結構聞いています。特にop.109,110,111!
 それぞれの曲の魅力は本当にそれぞれで。でも、どうして、私、ベートーヴェンなんでしょうね?昔から繰り返し聞いて耳慣れているということはあるにせよ。

 思うに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタというのは、存外わかりやすいのではないかと思うのです。簡単だとか言ってる訳ではないですよ。ただ、旋律にしても、展開にしても、取り敢えず鑑賞するレベルでは、決して掴みにくいというわけではないと思うのです。構成にしても、最後期のものはともかく、中期のものは決してわかりにくいとは言わないだろうし。ベートーヴェンも、そういう点では結構はっきりした音楽を書いた人だと思うし。
 それと、割合に「違い」がわかりやすいのかな、とも思うのです。どうアプローチして、どのように構成し、表現するか、その差異が比較的わかりやすいのかな、と。繰り返し聞いているから、という単純な理由かも知れませんが。

 まぁ、そんなこんなで、またベートーヴェンを聞いているのです。
 今日は、インゲル・ゼーダーグレン、というピアニストの演奏を聞いています。まぁ、正確にはどう読むのか、分からないんですけどね。ゼーダーグレンは、先日取り上げたナタリー・シュトゥッツマンの「白鳥の歌」で伴奏を務めているピアニスト。同じCALIOPEレーベルでの録音です。ストックホルムで勉強して、後にウィーンとザルツブルクで学び、フランスではナディア・ブーランジェに師事.....てなとこですね。
 曲目は、「ワルトシュタイン」「告別」、op.90の3曲。なかなかメージャーながらいいところを突いた組み合わせです。好きな曲ばかりというのもポイント高いです。演奏内容は、悪くないですが、個性的ではあります。一部、妙にテンポが揺れたりして、崩れる部分もあります。まぁそれも個性の内だよ、と言えば言えなくはないんでしょうが。でも、正直言うと、どうしてそうなるのか、そういう表現になるのか、ピンと来ない部分もあります。
 良し悪しで言うとどうなるんだろうなぁ。まぁ、「こういう演奏もある」ということかな。結構達者なだけに、少し不思議な演奏ですね。好き嫌いもあると思いますが。
 んな微妙なもん聞いてどうするんだ、って言われるかも知れませんが、そういう演奏も含めて、それぞれに違う色が出ているのが面白い、ってところでしょうか。それでいて、どの演奏も、ベートーヴェンはやっぱりベートーヴェンになってる、というところも。

2008/03/17のBlog
ilha de sol
 Chie (vocal)
 ビデオアーツ・ミュージック/コロムビアミュージックエンタテインメント VACL 0007

 珍しくボサノヴァなんぞ聞いております。普段もまるで聞かない訳ではないんですけどね。
 先月、銀座の方に出たついでにMacストアに寄ったら、たまたま店内のイベントスペースでライブをやっていたので、聞いてみた人です。Chieさんとおっしゃる。まだメジャーデビューで4年目にして2枚目のアルバム、という人です。
 声が綺麗なんですよ。まぁ、日本人でボサノヴァ歌う女性って、大抵声は綺麗なんでしょうが、この人のは清々しさのある、シンプルで綺麗な声です。

 ジャケットがとても印象的。
 紙製のデジパック仕様で、全面白一色。その中央に小さめに、歌い手自身が何も着ず、付けず、ぐっと膝を抱えて胎児のように座っている写真。でも、全くいやらしい感じはなくて、むしろ清潔感が漂います。ジャケットの、柔らかい白一色、というのがそれを後押ししているのでしょう。彼女の声同様にシンプルなイメージ。
 特にポップスの場合、ジャケットイメージは重要です。クラシックなどは、最初からどんな曲、どんな音楽が入っているか、概ね分かってるので、ジャケットが与えるイメージはあまり議論されませんが、ポップスの場合はそもそも何が入ってるか、知名度の高いグループなら概ね分かってても、いや、その場合だって、意外と「何が入ってるだろう?」と思われることは多いと思うし。イメージ戦略は大事でしょう。その点、このジャケットは大変よく出来てると思うのです。

 ライナーノートも大変シンプルで、解説らしき物はおろか、歌詞も、オリジナルの歌詞しか載っていません。で、殆どがポルトガル語の歌なので、私には何歌ってるのかさっぱり分かりません(笑)一部の曲は、先だってのライブの時に説明を聞いてるから、一応何歌ってるか、大意はわかるんですが。
 でも、それでどうこうって気は勿論しないのです。シンプルでいいじゃん、みたいな(笑)

 音楽的には、えー、ボサノヴァです(笑)
 全10曲、いずれも誰かの書いた曲を選んで歌っています。中では、2曲目、Kleiton Ramil と Kleidir Ramil という2人の手による「A ilha」が、浮遊感一杯の不思議でかつリラックスさせてくれる曲です。3曲目のCaetano Veloso に