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Verdiのレコード置き場 今日車で聴いたものblog
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2008/05/13のBlog
Taenze der Renaissance
 Collegium Aureum
 Deutsche Harmonia Mundi / SONY=BMG 88697268732

 ルネッサンス期のダンス・ミュージックであります。
 この手の曲集は結構好きで、見つけるとつい手が伸びてしまうのであります。体系的に聞いている訳でもないし、あれやこれやと聞いても仕方ないと言えば仕方ないんですけど。

 廉価盤故、あまり詳しい情報は載っていないのですが、どうやら1961年頃のようなので、結構古い録音です。コレギウム・アウレウム。8人ほどの演奏団体だったようです。ブロックフレーテ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどを使ったバリバリの古楽器集団ですが、これがまたなんとも楽しい音楽を繰り広げています。
 大体が、バロックより前の古楽の場合、宗教曲でなければダンス・ミュージックであることが多いのですが、ここに収められているのはどれもダンス・ミュージック、しかも結構アップテンポ系の賑やかなのが多いのです。16世紀のヒップホップ?(笑)まぁ、ヒップホップとは言わないだろうけど。
 でも、この演奏、本当に楽しいのです。これなら確かに踊れるな、という感じの演奏です。1960年代は、古楽演奏が戦後再度興隆した時期になりますが、後年の論理と研究の成果を発表するの図、的な演奏に比べると、ずっと音楽として楽しいと思います。ここに収められている曲は全部で8曲ですが、その8曲が全部異なる作曲家の作品になっています。しかも、名前から窺うに、地域もバラバラ。多分ドイツ系とフランス系ですが、中にはイタリア系かも知れない名前もあるようだし。
 さっき、体系的に聞いてない、なんて書きましたが、この録音自体があんまり体系的じゃない。もう最初っからコンピレーションものという感じなのです。この時期の演奏家なら、デヴィッド・マンロウなんかはお気に入りですが、彼にも、この録音にも共通して感じられるのが、「まず演奏してみよう」という、進取の気風とでも言えそうなスタンス。それと、演奏・音楽自体を楽しんでいる雰囲気。要は、「成果」みたいなものはまぁいいじゃないか、とでも言うような姿勢なのですね。これも毎度言うことだけれど。

 過剰に演出もせず、奏法にあまり拘りもせず、自然に身体が動き出すような感じの、伸び伸びとした音楽です。古楽というなら、このへんまで遡ってしまうと、あまり細かい理屈も追いついてこられなくて、ちょっとほっとします。

 このCD、ソニーの廉価盤シリーズ "esprit" の一枚として出ているのですが、原盤はDeutsche Harmonia Mundi なんですね。SONYがBMGと統合した際に、BMGグループに入っていたDeutsche Harmonia Mundi も転がり込んで来た、というわけ。SONYグループには、これで、DHM の他に、SEON シリーズや更には Vivace シリーズなんかもあって、古楽系ではかなり結構なラインナップを誇るようになったのですが、これからどうするんだろう。




2008/05/11のBlog
Peter Schreier : Legendary Recordings
Volkslieder zur Gitarre

 Peter Schreier (tenor)
 Konrad Ragossnig (guitar)
 BERLIN CLASSICS 0002852CCC (CD6)

 歌をききたいな、と思った時に、何をどのように選ぶか、最初にちょっと考えます。

 例えば「シューベルトの水車屋の娘を聴こう」と決めている場合はいいのですが、「何かドイツ歌曲でも聴こうか」というようにして歌を聴く場合、どのような軸で聴くものを選ぶか、ちょっと考えどころではあります。
 大きく分ければ、歌い手軸と作曲家軸、ということになります。歌手だったり合唱団だったり、要は歌い手で選ぶ場合と、シューベルトのこの曲、シューマンのこの曲、というように選ぶ場合。勿論、歌手軸でも歌曲集を聴いたりすることはあるのですが、やっぱり選び方としてはどちらかを基準にしている感じです。
 歌手軸の場合は、この間のプライにせよ、トレーケルにせよそうなのですが、色々なものを聴く、というパターンが多くなります。リサイタルを聴きに行く感覚に近いかも知れません。

 このCD、シュライヤーの録音を集めたBOXものの一枚です。このBOX自体シュライヤー・レアリティーズみたいな感じなのですが、このCDはその中でもちょっと変わっています。民謡集なのですが、伴奏がギターなのです。
 歌曲のギター伴奏というのはたまにあるのですが、意外と面白いのです。なんとなく、クラシック音楽の中で、ギターというのは傍流扱いに近い面があって(最近の村治らの活躍などで変わって来てはいますが)、歌曲でもピアノ伴奏が本来、という感じはあるのですが、ギター伴奏の方が、人の声に音量的には近いんですよね。表現力が求められる場面では、確かにピアノの方がキャパシティーは高いのですが、音量的に近いことで得られる親密さのようなものがプラスに働く面もあると思います。
 音域的にも、シュライヤーはテノールですから、ギターの音域にあっているのではないかと思います。バス・バリトンになってくると、その下の音で伴奏を付けるのは、ギターだと少々苦しいかも知れません。加えて、シュライヤーのやや軽めの声も、合っているのでしょう。

 歌われているのは、主にドイツ各地の民謡。中にはウェルナーの「野ばら」や、「ローレライ」(シルヒャー)、シューベルトの「菩提樹」の編曲版なども歌われていますが、まぁ、このへんも「ドイツ民謡」でしょうね。対訳はおろか、歌詞すらついていないので、何を歌っているかは、一部の曲を除けば正確には分かりません、というのが実情なのですが、それでも面白い。
 面白いと言えるのは、やはりシュライヤーの声のよさ。軽めの、透明感のある声で歌われる、あまり複雑さの無い民謡たちは、柔らかいギターの音と相俟って、耳に心地よく響きます。このギター演奏も、決して超絶技巧ではなくて、まぁ単純なものではあるのですが、それが合っているのですね。シュライヤーのドイツ語の発音も、クリアで、でも決して硬くない。
 こんな風に歌曲を聞くというのは、邪道なのかも知れませんが、民謡というのは、必ずしも歌われる意味内容を深く追求するものでもない、という面もあると思いますし。そんなわけで、「XXが聴きたい」というよりは、「何か歌でも聞きたいな」という感じの時に、結構アバウトに楽しんでいるのであります。






2008/05/10のBlog
F. Schubert : Im Fruehling D882, Der Musensohn D764, Auf der Wasser zu singen D774, Nacht und Traeume D827, Der Wanderer D489, etc.
J. Brahms : Vier ernste Gesaenge op.121
H. Duparc : Chanson triste, etc.

 Roman Trekel (br)
 Olivier Pohl (p)
 ARTE NOVA 74321 83013 2

 というわけで、ハードな日常へリハビリ中です。うう、スピンアウトしたい......

 「予習」なんて大嫌い、という話は前にも書きましたが、「復習」は結構好きなのです。矛盾してるとも言われそうですが、生演奏重視派としては、どっちがどうと言うよりは、事前によく知っておきたいと思うのか、聞いてみて興味が湧けば更に突っ込んでみようと思うか、という違いなんだろうと思っています。
 まぁ、そんな訳で、ラ・フォル・ジュルネ後も、結構シューベルト中心に聞いていたりします。それも歌曲。元々好きですが、こういう機会があれば尚のこと。で、今日はその内の一枚から。
 ローマン・トレーケル。最近はOHEMS CLASSICSで録音していて、シューベルトの冬の旅なども入れていますが、これは2000年の録音。1989年頃にキャリアを始めているので、今は40代前半じゃないかと思います。これは、だから、35歳前後なんでしょうか。この頃はARTE NOVAに録音しています。

 当たり前のことを言うようですが、声がいいですね、トレーケル。
 最近のドイツ出身の人は皆そうなのですが、ごく自然に、テクストが聞き取りやすい発音なんですね。それで歌・音楽が犠牲になっているでもなし。選ばれている曲も、そういう歌い方が有効に働くタイプの歌。「春に」とか、「水の上にて歌う」「夜と夢」なんか、特にいいですね。
 この歌い方は、どちらかと言えばフィッシャー=ディースカウの歌い方の系譜にあると思います。テクストがきちんと聞こえるということは、やはりその分奇麗に聞こえるということでもありますし、言葉に込められた意味も的確に伝わる。何より、作曲家が言葉の響きを考慮して作曲していれば(つまりシューベルトなどはそうなのだけれど)、音楽的にもより好ましく歌われる、というわけ。

 そんな訳で、トレーケルのシューベルトは大変いいのであります。選曲も、前述の通り、恐らくは自分の歌に合う曲を選んでいるので、尚更です。そしてまた、我ながら、好みの曲が多いんだな.......静かで、ゆっくり目のテンポ。陰の存在を感じさせる。言ってみれば「夜の音楽」とでも言いたくなるような、そういう音楽。「夜と夢」や「さすらい人」は正にそうだし、「春に」や「水の上にて歌う」など、ちょっと目にはそうでない曲も、奥を覗いてみると、同傾向があるように思います。
 トレーケルは、こういうの、上手いですね。

 ブラームスも同様、いい歌です。
 デュパルクは、ちょっと好みによりけりで評価が分かれるかも知れないですね。これはこれで歌として私は楽しく聞くけれど、人によってはちょっと.....と思われるのではないでしょうか。こちらがフランス語がわからないのもあって、詩と音楽、というアドバンテージもないですしね。

 このシリーズ、大手ショップなら1枚千円を切るので、コストパフォーマンスは抜群です。それを思えば、是非お試しあれ、というところでしょうか。


2008/05/08のBlog
Lciano Pavarotti : ti adoro
 DECCA 475 8390

 GW中のラ・フォル・ジュルネも終わってしまいました。
 今年のテーマはシューベルトだったので、期間中はシューベルト三昧。やはり堪りません、シューベルト。で、基本的に予習は嫌いだけど復習は嫌いじゃない(それも考えてみるとなんか変かも知れませんが)私としては、今日以降暫くシューベルト三昧、でも良かったのですが、さすがにちょっとシューベルト漬けでオペラ濃度が下がっていたので、連休前に届いたパヴァロッティのスタジオ録音BOXセットを開けてみたのでした。

 ......しかし、それでもって、よりによってこれかい(苦笑)

 ti adoro。2003年のアルバムで、パヴァロッティが現代イタリアのポップスを歌ったCDです。それ故に、発売時点は、これ、聞いてません。正直、このBOXに入ってなければ、聞かないと思います。
 で、聞いてみたんですが、うーん、微妙(苦笑)
 歌声は、確かにパヴァロッティだし、それはそれでいいんですけど、それだけでもねぇ。いい声を聞きたければ、他のアルバムを選ぶよ、と思う訳です。無理に現代イタリアポップス聞かなくても、というわけ。
 但し、最後に「カルーソー」が入ってます。パヴァロッティが亡くなった時に、ダルラの歌った「カルーソー」の話を書きましたが(という表現も問題で、あれはそもそもダルラが書いた曲)、このアレンジはちょっとポップス系に振り過ぎで、いまいち。
 ギター・ソロにジェフ・ベックが入っているのですが、これがまた微妙で、どうしてもギターを聞かせたがるのだけど、パヴァロッティの声と重ねるとエレキギターの音はどうしても安っぽく聞こえてしまう。使い方が悪いんですよね。普通にパヴァロッティに歌わせつつ、途中で間奏を入れて、そこで存分にアドリブさせれば全然違うと思うんですよ。もっとギターを泣かせて欲しいのです。

 まぁ、でも、パヴァロッティはパヴァロッティなのは変わらないし、これもたまにはいいかな、と。本当に、たまに、だけですが。このCD、次に聞くのはいつになるだろう......
 社会復帰用に、てなとこですね。


2008/05/03のBlog
理由は、そっちに出かけてて忙しいので(笑)

 いやまぁ、気が向いたら何か書くかも知れませんが、そんなわけで連休中はこちらの更新は多分御座いませんので、あしからず。

 期間中は、下記の別館の方でレポートをアップしておりますので、宜しくお願いします。

 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008 & 普段のコンサート通いのblog


2008/05/02のBlog
F.Schubert : Symphony No.8 B minor, D.795 "Unfinished" / "Die Zauberharfe" Overture D.644 / "Rosamunde" D.797 - Ballet Music No.1 and 2
 Wiener Symphoniker
 Nikolaus Harnoncourt (conduct)
 TELDEC 0630-14537-2

 もう、日付は5月2日になってしまいました。夜が明けた今日から、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008が始まります。
 昨年同様、ラ・フォル・ジュルネ関連の楽曲を4月は紹介しようと思っていましたが、色々あって果たせずに当日になってしまいました。いや、他の話を延々書いてたとか、単純に忙しかったとかいうことは勿論あるんですが、実は、一番大きかったのは、「書きたくても書けない」だったりします。
 私は成り行きでVerdiなんてハンドルを使ってますが、作曲家として本当に一番好きなのはシューベルト。「冬の旅」なんて本気で書き始めればなんぼでも書くことがあるし、他の歌曲だって幾らでも書ける。涙無くしてどころではない、戦慄を伴わずに聞くこと能わぬ弦楽五重奏だって書いてない。ピアノ曲だって、D.960は書いたけど、D.959やD.958、即興曲集だって楽興の時だって書いてない。
 書けるけど、おいそれと書けないんです。半端に書けないから。別に普段の記事が半端だなんて言ってる訳ではないのですが、やはり、何処か書くに躊躇してしまう部分がある。好きだから、手を付けかねていたというのが正直なところです。

 でも、それじゃしょうがないんでね(苦笑)まぁ、失敗です。なので、改めて書いてなかった一曲を。未完成。でも、この曲、「ラ・フォル・ジュルネ」を謳う前に、ミュンシュの録音で取り上げたんですけどね。その時の記事がこちら。

 今にして思うと、ってたかだか3、4ヶ月前の話ですが、この時私、アーノンクールを引き合いに出してるんですね。「アーノンクールなら、もっと各々の響いている音の構成が分かるように聞かせるんじゃないか」なんちゃって。
 で、実際どうかというと、そうでもあり、そうでもなし。一番大きいのは、アーノンクールが振っているのが、コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンみたいなとこでなくて、ウィーン交響楽団だということ。あそこはなんだかんだ言って、あくまで現代オーケストラですからね。ただ、確かに、アーノンクールのアプローチは、渾然一体とした響き、という方向ではない。やはり、各々が分かるように、とまではいかなくても、誰が何やってるかを見極める方向ですね。

 シューベルトの話でした。

 未完成というのは結構妙な曲で、今一般に聞かれているのは、途中まで書かれた結果、とされている、第1・2楽章の2楽章のみ。これが、どちらも遅めの音楽で、聴感上は同じようなテンポの音楽が続く。しかも、どちらも基本は短調。第2楽章は長調ではありますが、転調しながら進む音楽には、常に短調の影がまとわりつく。さらに言えば、聴感上も未完成。少なくとも、交響曲としての始まりと終わりがある、という感じではない。なのに、何故かこの曲人気があります。
 何がそんなに惹き付けるのか?
 単純に言えば、よく言われる「デモーニッシュなもの」に惹かれるのでしょう。よくあるありきたりの説明ですが、でも、やはりそこだと思うのです。
 シューベルトに終始つきまとうのは、この影です。陽の当たるところ、必ず陰が生まれる。陰と陽、と言ってしまえばそれまでですが、それまでの音楽家の大半は、陰そのものを織り込んで表現しようとはしてこなかったのではないかと思います。この「陰」を描くことに成功したのが、シューベルトではないかと。我々がシューベルトに求めるのは、陽の光に照らされたものではなく、その陰になってひっそりとあるもの、ではないでしょうか。
 この「未完成」にしても、表に見えている雄弁なるもの - それが短調であろうと長調であろうと - に対し、その陰にあって、音楽の中に織り込まれているもの、その部分に惹かれるのではないかと思うのです。
 そういう面はシューベルトのどの作品にもあると思うのですが、やはり、一般に名高い曲は、某かそうした二面性を持っているように思います。それがシューベルトを聴くポイントの一つ、というには、ちょっと時機を失してしまってはいるのですが。



2008/05/01のBlog
J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲 BWV.1046-1051
 ミラノ・スカラ座管弦楽団員
 クラウディオ・アバド (conduct)
RCA/BMG/TOWER RECORDS TWCL-3020/1

 折角の休みですが、仕事も少しはやらないといけない上に、風邪気味で、やれやれです。なんだかなぁ......

 というわけで、若干めげながら、いろいろと聞いております。これだけは懲りませんねぇ。今聞いているのは、バッハのブランデンブルク協奏曲。オーケストラは、クラウディオ・アバド指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団員(笑)197576年の録音です。
 いやまぁ、なんと言っていいか、失笑を買いそうな録音ではありますよね、確かに。この21世紀に、現代オケ、それもミラノ・スカラ座管でブランデンブルクって、なんでそんなもの聞くの?てなもんで。でも、面白いんですよ、これ。

 なんと言っても、音、音色。「ミラノ・スカラ座管」とは言っても、あくまで「楽団員」ですから、トゥーランドットかなにかをやるような大編成ではないのでしょう。それなりに音は厚いけれど、決して厚化粧ではないし、といって必要以上に禁欲的にもなっていない。清潔感のある演奏、という言い方が当たっているのでしょうか。
 ただ、年代的には、決していい録音とは言えないと思います。音質的には難ありと言われる面もあるでしょう。実際、ちょっと響きが物足りなくもあります。ダイナミックレンジも、今時のCDとしては物足りないですし。
 でも、そういうこととは別に、明るい感じの響きが、このブランデンブルク協奏曲にはよく合うのです。歌わせることにかけては、流石にミラノ・スカラ座というところでしょうが、それ以上にこの響き、音色が好きなのです。あるいは、この響き、音色で歌われるのがいい、ということなのかも知れないですが。

 演奏としては、むしろオーソドックスなのでしょう。奇を衒うでなし、極端なテンポで「バロック感」を演出するでなし、良くも悪くも特別なところがない。でも、音楽としてはとても豊かなものを持っている、そう言っていいのでしょう。
 あまり根を詰めずに聞く分には、いいんじゃないでしょうか、こういうの。

 アバドは、この録音を除くと、正規に録音したバッハ作品はないんだそうです。確かに、バッハの録音って無いんですよね。放送録音音源の、ロ短調ミサってのがあったと思うけど。まぁ、アバドという人の得意分野を考えると、分かるような気もしますが、指揮者として、確かに歌うことを身上に置いている人には、バッハって難しいかも知れないですね。音楽として、ではなく、録音作品として残すに足るものが少ないという意味で。
 それでも、マタイなんかやったら面白そうとは思うんですが、録音して残すまでではないんでしょう。結局、このブランデンブルクだけは別格、ってことなのでしょうか。


2008/04/29のBlog
ヘルマン・プライ / 世界の民謡を歌う
 ヘルマン・プライ (bariton)
 ベルリン交響楽団
 RIAS合唱団
 ヴェルナー・アイスブレナー (conduct)
 DENON / Eurodisk COCQ-84449

 つい先日、それこそ1週間前に再発されたCDですが、待ってました!とばかりに早速買いに走ったのであります。元の録音は1968年、1988年に一度出ているのですが、聞きたくて持ってなければどうしようもないですからね。

 ライナーノートにも書かれていますが、プライの良さは、例えばディースカウなどとは別種のものなのであって、比較してどっちがどう、などと言えるものではないのだ、ということだそうです。同感。ちなみに私はどっちも好きです。
 けれど、こういう曲目はプライならではのものとも言えます。ディースカウはこういう曲目では、確かに歌わないでしょう。

 1:マリア・マリア (ディ・カプア)
 2:理想の人 (トスティ)
 3:海に来れ! (ナポリ民謡)
 4:ヴェーザー川で (ブレッセル)
 5:ボヘミアの森深く (ドイツ民謡)
 6:歌はやんだ (ゾンマー)
 7:黒い瞳 (ロシア民謡)
 8:鐘の音は単調に鳴る (ロシア民謡)
 9:ハイサ!トロイカ (シュタインベルク)
 10:故郷の人々 (フォスター)
 11:懐かしいヴァージニアへ (ブラント)
 12:ケンタッキーの我が家 (フォスター)
 ドイツ語の歌、3曲しか無いし(苦笑)

 正直、これに似たようなプライの録音、持ってない訳ではないのですが、それはそれこれはこれ。もう一つのプライ、を聞く為ならば.......
 こういうプログラムで歌いそうな人と言えば、エーリッヒ・クンツがドイツ民謡集みたいなのを出してますが(ドイツ学生の歌)、あれとはまた別の世界ですね。「ヘルマン・プライ愛唱歌集」みたいなノリだと思うのですが、まぁそれにしても国際的。ドイツの他にイタリアとロシアとアメリカですからね。
 こういうアルバムだとどうしても出て来るのが発音の問題ですが、正直、非ネイティヴとしては、聞いていてさほどの違和感は感じていません。と言うより、ロシア語なんてそもそもドイツ語に訳してから歌っていますが。
 それにしても、プライの歌には違和感がないんですね。イタリア語で歌っても、ドイツ語で歌っても、英語で歌っても、ロシア語の歌をドイツ語で歌っても、いいものはいい、くらいしか感じない。しっくりくるのです。

 安直な言い方ですが、結局、これがプライの歌心の現れではないのかな、と思うのです。プライという人、この「その曲の大事な所は何処か」を押さえることに長けた人なのでしょう。だから、彼の歌は常に音楽的にいい所を押さえています。どのように歌えば、人の琴線に触れることが出来るか、を知っている。そんな感じです。

 個人的には、アメリカもの3種が、結構好きです。他もいいけれど。

2008/04/27のBlog
L.v.Beethoven : String Quartet No.15 A minor, op.132 / No.16 F major, op.135
 Prazak Quartet
 PRAGA DSD 350 013-7

 もう一度、ベートーヴェンの四重奏曲へ帰ってきました。

 シューベルトが、歌うことを本質的に内在していながら、様式というものを求めたとするならば、ベートーヴェンは、様式の確立とその解消までしてみせながら、自ら決して豊かではなかった歌を求めた作曲家、と言っていいと思います。歌わない訳ではないけれど、表現方法で歌おうとするのがベートーヴェン。
 けれど、ベートーヴェンはあくまで「構成と展開の作曲家」。理詰めで理解する余地があるように見えてしまう。そこに、言ってみればベートーヴェンの悲喜劇があるのではないでしょうか。その音楽が誤解されている、とまでは言わないけれど、結局はついついやってることが分析され解釈され、説明を試みられてしまう。それはやはり音楽としては少々いびつなアプローチです。

 確かに、仮にそうだとしても、「理解出来る/難解」という言い方が、これまで述べてきたような問題を孕んでいるのだ、というのは、強弁に過ぎると言われるかも知れません。いや、そもそもアプローチとして問題がある、という考え方自体間違っているかも知れません。
 けれども、やはり、「難解」という言い方が違和感無く受け容れられるというのは、何かがずれているのです。仮に、音楽がロジカルに理解可能なものだとしても、そのようなロジカルなアプローチが音楽を聞く為の最善の物だとはやはり思えないのです。それを象徴する言葉のように、「歌」という言い方をしてきました。それは何処か間違っているかも知れませんが、要は、ロジカルなアプローチは、仮に有り得ても、音楽を説明しきれるものではないだろう、ということです。

 op.132の第3楽章、ここから話を始めた訳ですが、やはりこの曲は理解する対象ではないように思います。丹念に付き合って聞いていく種類の音楽なのでしょう。
 最後に、プラジャーク四重奏団の演奏を引っ張り出してきました。ラ・フォル・ジュルネにも出演する、プラハの手練の四重奏団ですが、ここに聞く彼らの演奏は、そう言ってよければ、決して聞く側を理詰めで聞こうという気にさせないように思います。
 演奏スタイル、音色、技術、そうしたものが最善であるのか、正直私にも判りかねる部分はあるのですが、ここにはベートーヴェンなりの歌があります。それはとてもぎこちない物であるかも知れないけれど。だから、受け取りにくいものかも知れないけれど。「難解」というのは、言葉の適不適を抜きにすればこういうことなのかも知れません。
 そういうことを描き出すのに、この演奏は申し分無いと思いますし、15分ほどの時間を共に付き合ってみるか、という気にさせてもくれます。こういう演奏は、私は好きです。

2008/04/20のBlog
W.A.Mozart : Don Giovanni
 Dietrich Fischer=Dieskau, Ezio Flagello, Martti Talvela, Peter Schreier, Alfredo Mariotti,
 Birgit Nilsson, Martina Arroyo, Reri Grist
 Tschechischer Saengerchor Prag
 Orchester des Nationaltheaters Prag
 Karl Boehm (conduct)
 Deutsche Grammophon 429 870-2

 久々にオペラ濃度が随分下がってるようだったので、古いCDを引っ張り出してきました。そりゃ、あんなに執拗にベートーヴェンばかり書いてりゃなぁ。
 ベーム指揮、プラハ国立歌劇場管弦楽団。え?ウィーンじゃないの?ハイ。ウィーンじゃないんですね~ 恐らく、ドン・ジョヴァンニということで、初演地という縁のあるプラハのオケを起用したのでは。同じ、ベームの録音のシリーズでは、他はウィーン・フィルだったり、ドレスデン・シュターツカペレだったりですからね。

 ドン・ジョヴァンニ。モーツァルトの中で一番のオペラを挙げろと言われたら、私はこれです。一般的には、フィガロの結婚か魔笛か、という話なのでしょうが、オペラとしてはドン・ジョヴァンニの方がオペラ濃度が高いと思っています。なんと言うか、高密度なんですよ。
 例えば、フィガロの結婚や魔笛って、実はストーリーの面で支持を得ている部分ってあると思うのです。フィガロの結婚は喜劇、魔笛はメルヒェン。そこへいくと、ドン・ジョヴァンニは、いわばダークサイド。アンチ・ヒーローの物語ですし、最後は地獄落ち。でも、その分ドラマチックであることは間違いない。
 音楽にしても、確かにフィガロは有名曲も多いし、軽快で楽しくなるような音楽。魔笛だって、音楽で言えば夜の女王の二つのアリアは超が付く有名曲だし。そこへいくとドン・ジョヴァンニは、知られてるようで実はちょっと弱い。カタログの歌とか、Deh! Vieni なんかはそこそこ知られているけれど、というところ。そのかわり、ドン・ジョヴァンニには、デモーニッシュな迫力に溢れる序曲と、これまたドラマチックなことこの上ない地獄落ちの音楽がある。個々のアリアにしても、ドン・ジョヴァンニは結構重量級のいいアリアがそれぞれの役に付いているので、その分歌唱陣も充実されるし。

 もっとも、それって言い換えれば、粒を揃えるのが大変ということでもあるのですが。実際、この録音でも、決して100点満点ではないのですが。とはいえ結構豪華版ですよ、これは。
 女声陣は、とにかく力があります。ドンナ・アンナにニルソン、ドンナ・エルヴィーラにマーティナ・アーロヨ、そしてツェルリーナにレリ・グリスト。強力な布陣ですが、個人的にはレリ・グリストがいいなぁ。他の二人が駄目ではないんですが、ニルソンなんて、薙刀持って出て来そうですからね。そこ行くと、グリストは「ああ、コロラトューラだなぁ」というレッジェーロ加減が大変によございます。ツェルリーナがマゼット共々出て来るあたり、弾けるようでとてもいい雰囲気。
 そこいくと、男声陣はちょっとね。でも、私は外題役のフィッシャー=ディースカウが好きなので、結構高評価なのです。贔屓の引き倒しが無いとは申しませんが。実際、改めて冷静に聞くと、「ああ、確かにイタリア語のオペラには合わないなぁ」という気はします。いや、ドイツ語でも、合わないかも。というより、やはりこの人「何を歌ってもフィッシャー=ディースカウ」なんだなぁ。でも、それも含めて、好きなんですけどね。
 騎士長にはマルッティ・タルヴェラ。これも贅沢。地獄落ちの場面は、迫力満点です。そこ行くと、レポレロが弱いんですよ。エツィオ・フラジェッロ。イタリア系のアメリカ人らしいですが、ちょっとね。綺羅星のような豪華キャストに比すると、ちょっと非力。他の二人が特徴的なだけにねぇ。
 ドン・オッターヴィオのシュライヤーは言うことなし。マゼットは、これもちょっと....
 まぁ、贅沢は言えばきりがないですからね。

 プラハ国立歌劇場管の出来映えは、まぁ、上々。田舎のオケ、って感じが漂いますが、下手っていうわけではありません。垢抜けない感じなんだけど、それも含めて面白みが出ていると言っていいでしょうか。

 ドン・ジョヴァンニの魅力に話を戻すと、やはりダーク・サイドを盛り込んだストーリーが、登場人物それぞれに役柄の性格に厚みを与えて、音楽的にも厚みを付けている、そんな気がします。
 真剣で重々しいドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ、真剣だけれどヒステリックな分コミカルでもあるドンナ・エルヴィーラ、声同様に役柄的にもレッジェーロで、その分取り敢えず話を転がしてくれるツェルリーナとマゼット。対するドン・ジョヴァンニは、話を動かす原動力であり、実は物語全体に翻弄される存在でもあり、それに程よい相方を務めるのがレポレロ、といったところでしょうか。色分けがはっきりして分かり易く、そのわりにバランスがいいんですね。
 実際、音楽も、それぞれが交互にやり取りをするように進んで行くので、音楽的に飽きないのです。フィガロや魔笛は、多彩なようで、実は結構近似しているように思いますから。
 まぁ、人によりけりでしょうが、そんなわけで私は実演でも録音でも、ドン・ジョヴァンニは好きなのです。なんとなく最近影が薄いような気がして、ちょっと不満なんですけどね.....




2008/04/19のBlog
L.v.Beethoven : The complete piano sonatas (including op.109, op.110, op.111) [Disk 10]
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 454 621-2

 変奏曲という形式は、いわゆる楽曲展開の方式としては基本中の基本、という話は前回書きました。言い換えると、最も原始的、ということでもあります。
 というのは、原理的に、変奏曲には構造が存在しにくいのです。勿論、構造を持たせられないとは限りません。ただ、例えばソナタ形式のように、主題があって、第2主題があって、一度提示されてから反復されて、というような、言葉で説明出来て、それによって時間軸を整理統合して説明する、ということがやりにくいのです。
 それでも、変奏のタイプ、種類を意図的にかつ周到に配置することで、変奏曲にも構造を持たせることが出来ない訳ではありません。しかし、それは、構造としては把握しにくいものでもあります。むしろ、端的な言い方をすれば、時間軸に対しては、殆ど統御する力を持たないのが多くの変奏曲の宿命です。

 そう、変奏曲は、時間軸を統御する構造を持たないのです。前回、「時間と共に移ろう景色の変化を眺めるようなもの」と喩えましたが、ここで鍵になるのは「時間と共に」ということです。形式と構造、という捉え方は、元々時間軸に支配されている音楽というものをいわば要約しようとする手段ですが、変奏曲というのはその手が効かないのです。
 むしろ、変奏曲を聞くには、先を急ぐにせよ何にせよ、淡々と歩を進める旅人のように、丹念にその道を辿っていくしかないのです。と言うよりは、作曲家達も、それを分かった上で、その道を辿っていくことに意味がある、辿っていくこと自体が楽しみである、そのように書いたのではないでしょうか。辿るのが旅人なのか、観察者なのか、そこまでは想像してはいなかっただろうけれど。

 私が、変奏曲に限らず、「音楽を知的に理解しようとする」態度に懐疑的なのは、「音楽とは時間軸に支配されるものである」という事実と齟齬を起こしかねないからです。というのも、大抵の場合、知的に、論理的に物事を理解しようということは、事物を論理的に整理・統合して要約しよう、ということだからです。音楽そのものを文学的にせよ言葉で表現しようとすることも、これに相通ずるものがあります。誠に、言葉で説明出来るなら音楽は要らない、のです。むしろ、論理で以て統御しようとしている時間そのものに、音楽の本質があるのかも知れないのですから。
 まして、ベートーヴェンが晩年に多用した、変奏曲の如きは、上述の通り、最も時間軸の軛を逃れられない、むしろ時間軸の軛を感じさせることが音楽としての重要なポイントであるかも知れない作品なのですから、本当はそのような「要約する論理」で括ることが一番相応しくないのではないかと思うのです。

 ベートーヴェンの最後のピアノソナタ、op.111 は2楽章構成で、その第2楽章が変奏曲となっています。
 ベートーヴェンが古典派と目される理由には、勿論時代的なこともありますが、実質的な点としてソナタ形式を用いた、器楽ソナタの数々や、弦楽四重奏曲、交響曲など、古典派によって完成されたとされる形式の楽曲が作品群の中心に据えられているということがあります。
 けれども同時に、ベートーヴェンの、特に後期の作品は、その古典派の形式の枠を超えようとする試みの足跡でもあります。2楽章構成のピアノソナタ、というのも形式の逸脱ですが、この変奏曲は更に異例。第1楽章との急-緩のコントラストはありますが、これではさすがに全体に構造らしきものも見出すのは難しい。
 しかも、この変奏曲はかなり自由な変奏です。規則性を持って、次はこういう変奏、次はそれを発展させて、或いは対比させて、というような、変奏のスタイルに秩序があるとは言えない。だから、構造で把握することは出来ない。書かれた音符を淡々と追体験していくしかないのです。旅人のように。
 けれども、その眼前に繰り広げられる景色と言ったら!
 ベートーヴェンの書いた景色は、決して派手なパノラマではありません。勿論、音楽として、相応のダイナミズムも持ってはいるけれど、基本はあくまで主題と変奏。昔からある、原始的な音楽の展開方法でしかありませんが、一歩一歩音楽に添って歩いていくことで見えてくる美があります。
 楽想記号のアリエッタ、小アリアの名の通りここで歌われているのが、ベートーヴェンの「歌」なのです。歌というものが、理論的に総括出来ない音楽であり、等身大の時間をかけて聞くことでしか結局はその姿が見えてこないように、ベートーヴェンも同様に時間をかけて辿ることでしか全貌が分からない変奏曲を用いて、自分の歌を歌ったのではないかと思うのです。

 本当に、ベートーヴェンの「歌」は素晴らしい。

 但し。ベートーヴェンは、確かに変奏にかけては天才的であるし、素晴らしい曲を書いてはいるのだけれど、彼が「歌う」時、メロディを書いて歌うのではなく、変奏という技巧を用いて歌ってしまうところに、ベートーヴェン特有の問題があるのも事実でしょう。例えばシューベルトであれば、そんな風に歌わずとも、歌曲を一つ書いてしまうと思うのです。それは、勿論それぞれの持ち味ということでしかないのだけれど、やはりベートーヴェンという作曲家の、特殊な病理とも言うべき状況があるのも事実でしょう。この変奏曲それ自体が如何に素晴らしいかということとは全く別に。



2008/04/15のBlog
L.v.Beethoven : The complete piano sonatas (including op.109, op.110, op.111) [Disk 10]
 Alfred Brendel (piano)
 PHILIPS 454 621-2

 忙しさにかまけて、間が開いてしまいました。やれやれ。

 前回、「歌」なのに器楽的に扱われている、という話を書きました。しかし、何故それが問題なのでしょう?
 それは、歌というものが、本来は言葉と密接に関係したものである筈だからです。グレゴリオ聖歌やいわゆる賛美歌の類いは、その歌詞内容を正確に伝えると共に、その内容を音楽表現で補強する、という意味合いがあります。後に、歌詞内容を正確に伝える、という権能は衰えましたが、それでも歌われる内容に関連することには変わりません。

 言えば、第九の終楽章だって、歌詞の内容と関連はありましょう。でも、その関連というのは実はそれほど重くはなくて、音楽的に補強するというよりは、むしろ、音楽として作り上げる際、声楽合唱を使う為の一種の口実として使ってるのではないか、という感じなのですよね。別の言い方をすれば、他の歌詞でも、或いはそもそも合唱の代わりに別の器楽を使うことも出来なくはないと思うのです。

 聖歌や賛美歌は、基本的には歌詞を聞き取るのが前提ですが、バロック期のミサ曲や宗教カンタータは、むしろ演奏を通じて神を称えるという側面が強まります。そこでは、歌詞の聞き取りよりも、如何に荘厳であったり華麗であったりするかを強調したり、より完全な均整のとれた音楽を提示するか、の方に重点が置かれたりします。それでも、それらはまだ「歌」ではあったのです。歌詞に意味がある、或いは人が歌うことに意味がある。
 第九の場合、その辺が怪しいのです。もう人が歌ってなくてもいいんじゃないか、と。

 変奏、というのは、クラシック音楽の作曲法の基本中の基本でしょう。主題となる旋律を、リズムやテンポを変えたり、音程を変えたり調を変えたり、装飾音を付けたり、演奏する楽器を変えたり、と、バリエーションを付けて演奏していく。ソナタ形式も、結局はこの変奏の一種に過ぎません。
 歌と変奏というものがもう一つしっくりこないのは、そもそも「変奏」というものと歌とは親和性が無いのです。勿論、歌だってバリエーションが付くということはあります。でも、歌というものが「歌詞を聞かせる」というものであるなら、変奏などされると何を歌っているのかよく分からなくなってしまう。
 ちなみに、人の声というものに人間は鋭く反応するので、声を器楽のように使うのは実は難しい。合唱などを器楽的に扱う例は無いではないですが、独唱を器楽のように扱うのは、通常はヴォカリーズによるものくらいです。ちなみに、本当に楽器同様に扱うのは、いわゆる現代音楽を除けば、1例だけ、2楽章形式の「コロラトューラソプラノ協奏曲」というのが存在しますが、それくらいではないかと。

 さて、話を戻すと、変奏というのは、基になる旋律があって、それをどう加工したか、がポイントなので、元の旋律をつい追い掛けてしまうし、全然違うようでも大概は「ああ、この辺が一緒」というように分かる書き方をしています。なので、我々は聞いている内に、つい分析してしまうのです。「この変奏は、元の旋律に対してどのように変えているのか」という風に。
 この分析は、演奏する側にとってはやはり必要なので、どうしてもついこの視線で捉えようとする聞き手も出てきます。但し、ここがポイントで、演奏者というのは、音楽を構築する為にはその音楽がどのようなものであるか、全体像の把握も含めて構造を熟知しているべき(控えめに言っても望ましい)ですが、それが聞き方としてもあるべき姿か、と問われると、さて如何なものかと思うのです。
 変奏の全貌を捉える、というのは、言い換えれば各々の変奏がどのように出来ていて、どのような差異があるかを把握する、ということです。変奏曲の楽しみを、時間と共に移ろう景色の変化を眺めやるのに似たもの、とするなら、変奏曲の出来方・差異を予め分析して知覚しておく、というのは、次にどんな景色が来るかを知っていて、しかもそれがどのようであるかよりも、他と何処が違うかを重視して眺めているようなものです。それは、旅人の目線ではなく、観察者の目線です。

 クラシック音楽の場合、このような「知的アプローチ」とでも言うべき聞き方が、人によってはあるべき姿として賞賛されてしまうという面があります。このへんが、クラシック音楽を理詰めで聞こう、知的解釈を以て当たろうとする態度の因って来る所でしょう。それが、末期症状的には、某かの理論を援用し、それを無理矢理音楽に当て嵌め、形式的な類似点を見出して理解した気になってしまうようなところまで行ってしまうのです。

 しかし、音楽は何処まで行っても音楽でしかあり得ません。

 ベートーヴェンは、彼の「後期」と呼ばれる時代に於いて、変奏曲を多用しました。元々、即興ピアニストとしての腕前を武器にしていたベートーヴェンには、若い頃からピアノ曲を初めとして変奏曲の作品は数多かったのですが、それをより積極的に様々な楽曲で使うようになっていったのが後期。弦楽四重奏曲、第九、そして後期三大ピアノソナタ。ソナタという形式自体、かなり崩していった時期に、主題と変奏という、見ようによっては最もプリミティヴな方式で、しかも結構長く内省的な作品を多く書いていったのは、やはりベートーヴェン自身がこの形式に拘りを持っていたからと思えてなりません。いや、ここに取り上げたop.109など、この変奏曲を書きたかったから、最初の2楽章を付けたのではないか、とさえ思えてくるのです。勿論、それだけの価値がある作品だとは思いますけど。

 ブレンデルは、いわば知性派のピアニストということになっていますが、実際の所はどうなんだろうな、と思う時があります。このop.109の第3楽章の変奏曲にしても、純粋に器楽曲でありながら、知的解釈を超えたアプローチを聞かせてくれます。むしろ非常に抒情的な演奏です。聞く方の思うほどのウェイトが、分析的な解釈にかかっているわけではないのでしょう。

 次回は、もう一つの「抒情的な変奏曲」の話をして、ベートーヴェンにとっての変奏曲が後期に多用された理由を考えようと思います.

2008/04/08のBlog
L.v.Beethoven : Folksong Settings
25Scottish Songs op.108 and others

 Dame Felicity Lott, Janice Watson, Catrin Wyn Davies (sopran)
 Ann Murray, Ruby Philogene, Sarah Walker (mezzo-sopran)
 John Mark Ainsley, Timothy Robinson, Toby Spence (tenor)
 Thomas Allen, Christopher Matman (bariton)
 Marieke Blankestijn, Elizabeth Layton, Krysia Osostowicz (violin)
 Ursula Smith (cello), Malcom Martineau (piano)
 Deutsche Grammophon 00289 477 5128
 
 第九の第4楽章は言わずと知れた「合唱付き」の楽章であります。シラー作の詩「自由に寄す」を底本にしたテキストが、独唱4部と合唱4部とで歌い上げられる、言わば小オラトリオです。

 西洋古典音楽の基礎の一つであるキリスト教音楽の源流は、まずは各種聖歌に求められるでしょう。特に影響が強いのは、やはり今で言うグレゴリオ聖歌でしょうが、その最初の頃の聖歌は基本的にユニゾンで歌われる単声部のものであったと言われます。つまり、ハーモニーが無かったし、同時に違う旋律が進行することもなかった。そもそも聖歌とは、初めに音楽があった訳ではなく、まず聖書を朗読することがあり、それが朗唱に変わった、と考えられているようです。
 これは、中世に於ける識