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2008/06/28のBlog
[ 02:28 ]
[ クラシック ]
レオンハルト/クラヴィコード・リサイタル
グスタフ・レオンハルト (Klavichord)
PHILIPS/ユニバーサル・クラシックス UCCP-3463
クラヴィコード。チェンバロ、ハープシコード、クラヴサンは大体似たような楽器を指していると考えていいのですが、クラヴィコードはちょっと違います。チェンバロは、直角三角形(或いは長方形から直角三角形を切り取ったような形)の、ピアノの小型版のような筐体を持っています。鍵盤を押すと、その先がピアノで言うハンマーを押し上げて、先端の金属片が弦を弾く。クラヴィコードはより小型で、構造も単純。鍵盤の先に金属片が付いていて、直接弦を弾く。だから、チェンバロより細かいニュアンスを弾き方で表現する事が出来る。その代わり、構造的にどうしても音は小さくなります。チェンバロが筐体の共鳴も活かした、まだしも響きのある音を出すとするなら、クラヴィコードは本当に弦の音だけで聞かせる楽器です。ギターにより近い音でしょうか。ただ、ギターのような共鳴箱が無いので、より弦を爪弾くだけに近い感じですね。
チェンバロだって決して大きい音は出ませんが、チェンバロが広間で演奏されるのに向いている、とでもするならば、クラヴィコードは自室で、せいぜい数人で楽しむのに適した楽器、となります。
当年取って80歳のグスタフ・レオンハルト。いや全くあちこちに録音のある人で、DHMあり、SEONあり、PHILIPSあり、と、忙しい人であります。そのレオンハルトが1988年に録音したのがこのCD。題して、クラヴィコード・リサイタル。なるほど、これはクラヴィコードを聞くCDなのでしょう。
ここでは、J.S.バッハの先人であるリッター、或いは彼の子供達であるヴィルヘルム・フリーデマン・バッハやカール・フィリップ・エマニュエル・バッハの作品が取り上げられています。勿論J.S.バッハ自身の作品も演奏されています。これらの曲が特にクラヴィコードの為に書かれたという訳ではありません。が、基本的にクラヴィーア曲=鍵盤楽器の曲ですし、音域さえカバー出来れば普通に演奏出来る訳ですが、ただ、趣はやはり変わって来るというものです。
本当を言えば、CDのように録音で聞いてしまうと、音の小ささ加減が分かりにくいものではあります。でも、独特の、乾いた感じの、けれど可愛らしさを感じさせる音を聞けば、チェンバロとはまた違った楽しさを感じられるのではないでしょうか。ピアノどころかチェンバロの音すら、いや、むしろチェンバロだからこそかも知れませんが、あの小さな音すら金属的で煩わしく感じられるような時、もっとシンプルなクラヴィコードの方が、存外落ち着くのかも知れません。
ところで、こういう楽器、あったら楽しいかもしれないですね。聞けるのは普通に弾いても周りの何人かでしかないけれど、音は小さいし、ちょっと金属的な感じもあるだけに、なかなか「上手く」行かないのかも。
J.S.バッハの曲では、フランス組曲第二番が演奏されていますが、こうやって聞くと確かにクラヴィコードに合う/合わないというのがあるのかも知れませんが、なかなか面白く聞けます。
グスタフ・レオンハルト (Klavichord)
PHILIPS/ユニバーサル・クラシックス UCCP-3463
クラヴィコード。チェンバロ、ハープシコード、クラヴサンは大体似たような楽器を指していると考えていいのですが、クラヴィコードはちょっと違います。チェンバロは、直角三角形(或いは長方形から直角三角形を切り取ったような形)の、ピアノの小型版のような筐体を持っています。鍵盤を押すと、その先がピアノで言うハンマーを押し上げて、先端の金属片が弦を弾く。クラヴィコードはより小型で、構造も単純。鍵盤の先に金属片が付いていて、直接弦を弾く。だから、チェンバロより細かいニュアンスを弾き方で表現する事が出来る。その代わり、構造的にどうしても音は小さくなります。チェンバロが筐体の共鳴も活かした、まだしも響きのある音を出すとするなら、クラヴィコードは本当に弦の音だけで聞かせる楽器です。ギターにより近い音でしょうか。ただ、ギターのような共鳴箱が無いので、より弦を爪弾くだけに近い感じですね。
チェンバロだって決して大きい音は出ませんが、チェンバロが広間で演奏されるのに向いている、とでもするならば、クラヴィコードは自室で、せいぜい数人で楽しむのに適した楽器、となります。
当年取って80歳のグスタフ・レオンハルト。いや全くあちこちに録音のある人で、DHMあり、SEONあり、PHILIPSあり、と、忙しい人であります。そのレオンハルトが1988年に録音したのがこのCD。題して、クラヴィコード・リサイタル。なるほど、これはクラヴィコードを聞くCDなのでしょう。
ここでは、J.S.バッハの先人であるリッター、或いは彼の子供達であるヴィルヘルム・フリーデマン・バッハやカール・フィリップ・エマニュエル・バッハの作品が取り上げられています。勿論J.S.バッハ自身の作品も演奏されています。これらの曲が特にクラヴィコードの為に書かれたという訳ではありません。が、基本的にクラヴィーア曲=鍵盤楽器の曲ですし、音域さえカバー出来れば普通に演奏出来る訳ですが、ただ、趣はやはり変わって来るというものです。
本当を言えば、CDのように録音で聞いてしまうと、音の小ささ加減が分かりにくいものではあります。でも、独特の、乾いた感じの、けれど可愛らしさを感じさせる音を聞けば、チェンバロとはまた違った楽しさを感じられるのではないでしょうか。ピアノどころかチェンバロの音すら、いや、むしろチェンバロだからこそかも知れませんが、あの小さな音すら金属的で煩わしく感じられるような時、もっとシンプルなクラヴィコードの方が、存外落ち着くのかも知れません。
ところで、こういう楽器、あったら楽しいかもしれないですね。聞けるのは普通に弾いても周りの何人かでしかないけれど、音は小さいし、ちょっと金属的な感じもあるだけに、なかなか「上手く」行かないのかも。
J.S.バッハの曲では、フランス組曲第二番が演奏されていますが、こうやって聞くと確かにクラヴィコードに合う/合わないというのがあるのかも知れませんが、なかなか面白く聞けます。
2008/06/25のBlog
[ 01:29 ]
[ 歌曲 ]
F.Schubert : Winterreise D.911 / Die Schoene Muellerin D.795
Claudio Desderi (bariton)
Dino Ciani (piano)
ISTITUTO DISCOGRAFICO ITALIANO(Dynamic) IDIS 6462/3
今日は少々風変わりなものを。
ディーノ・チアーニというピアニストが居ます。居ました。居たそうです。
1941年生まれのイタリア人。コルトー門下で、1961年にはウィーンでのベートーヴェン・コンペティション、ブダペストでのリスト=バルトーク・コンペティションで成果を挙げ、いよいよキャリアを積み始め、録音も少なからず行われたのですが、1974年に交通事故で亡くなってしまいました。実は相当の実力の持ち主だったようです。今残っている録音を聞いても、癖もあるけど面白い演奏をする人のようです。グラモフォンやDynamicに纏まった録音集があります。
享年32歳、今生きていれば67歳。確かに惜しいですね。
一方、クラウディオ・デズデーリ。こちらも、そこそこ知名度はあれど、決して皆様ご存知というわけではないでしょう。イタリアのバリトンで、実はスカラなんかにも出ているけれど、主役級ではない。ドン・ジョヴァンニだったら外題役じゃなくてレポレロ、みたいな人です。こちらは割合最近も歌っている人です。やっぱり癖もあるけど面白い、みたいな人。
この二人が、チアーニが亡くなる直前に遺した録音があります。正しくはライブ録音なのですが。うん、イタリア特有のちょっと怪しげな......いや、まぁ、一応Dynamicレーベルの一環ではあるんですが。
歌手とピアニストですから、当然歌物になります。イタリア人歌手にピアニストであれば、ナポリ民謡集かイタリア・オペラアリア集か、はたまたトスティの歌曲か?いえいえ、これが、シューベルトの「冬の旅」なのです。なんでまたよりによって冬の旅。いや別に歌っちゃいけないわけではないんですが、しかし、これが.......
大体が、デズデーリ、決して緻密なタイプの歌い手ではありません。どちらかといえば大らか。チアーニも、きっちりと音楽を刻んでいくというよりは、フレーズを歌わせるのが得意、それが音楽なんだから、多少の揺れはあるものよ、というタイプ。この二人が組む訳ですから、テンポは揺れる、表現は振幅が大きい、発音も何か変。しかもライブなので抑えも効かないし。今時のドイツリート歌いに慣れた身には、おいおいおいおいと言いたくなるような演奏であります。
確かに、今のドイツリート歌唱というのは、基本的には端正で丁寧、発音もしっかりして何を歌っているか分かるように、という方向です。非ドイツ人の歌唱でも、発音には気を使っているのが一般的。そもそも、最近のイタリア人歌手で、シューベルト、しかも冬の旅などの歌曲集を歌うような人が居たかな?居ないんじゃないでしょうか。
というわけで、ちょっと聞くとなんじゃこりゃ?的な、少々破天荒な演奏なのですが、これはこれで面白いのです。自由に、繊細なニュアンス、みたいなところは気にせず歌っていく。でも、無茶かというと決してそうでもない。よくよく聞いてみると、典型的なドイツリートの表現、ではないのだけれど、それなりに表現の方向は曲に合ってはいる。勿論、様式感、という点では厳しいです。でも、これはこれで一応理に適っているのではあります。
思うに、これは「クラウディオ・デズデーリとディーノ・チアーニの夕べ」というべき演奏なのでしょう。デズデーリを聞くリサイタル。素材がたまたま冬の旅。そう割り切って聞くと、これ、面白いのです。デズデーリの歌唱の雄弁な事!嵐のような伴奏に立ち向かって吠えるが如きデズデーリ。録音も悪いですし、これだけ聞いていると確かにしんどい面もありますが、これを生で聞いていたらさぞや面白かったろうなぁ.....と思わせるのです。
ちなみにこれは2枚組で、もう1枚は「美しき水車屋の娘」。これも録音悪いんですが同系統の演奏で......面白いです。
Claudio Desderi (bariton)
Dino Ciani (piano)
ISTITUTO DISCOGRAFICO ITALIANO(Dynamic) IDIS 6462/3
今日は少々風変わりなものを。
ディーノ・チアーニというピアニストが居ます。居ました。居たそうです。
1941年生まれのイタリア人。コルトー門下で、1961年にはウィーンでのベートーヴェン・コンペティション、ブダペストでのリスト=バルトーク・コンペティションで成果を挙げ、いよいよキャリアを積み始め、録音も少なからず行われたのですが、1974年に交通事故で亡くなってしまいました。実は相当の実力の持ち主だったようです。今残っている録音を聞いても、癖もあるけど面白い演奏をする人のようです。グラモフォンやDynamicに纏まった録音集があります。
享年32歳、今生きていれば67歳。確かに惜しいですね。
一方、クラウディオ・デズデーリ。こちらも、そこそこ知名度はあれど、決して皆様ご存知というわけではないでしょう。イタリアのバリトンで、実はスカラなんかにも出ているけれど、主役級ではない。ドン・ジョヴァンニだったら外題役じゃなくてレポレロ、みたいな人です。こちらは割合最近も歌っている人です。やっぱり癖もあるけど面白い、みたいな人。
この二人が、チアーニが亡くなる直前に遺した録音があります。正しくはライブ録音なのですが。うん、イタリア特有のちょっと怪しげな......いや、まぁ、一応Dynamicレーベルの一環ではあるんですが。
歌手とピアニストですから、当然歌物になります。イタリア人歌手にピアニストであれば、ナポリ民謡集かイタリア・オペラアリア集か、はたまたトスティの歌曲か?いえいえ、これが、シューベルトの「冬の旅」なのです。なんでまたよりによって冬の旅。いや別に歌っちゃいけないわけではないんですが、しかし、これが.......
大体が、デズデーリ、決して緻密なタイプの歌い手ではありません。どちらかといえば大らか。チアーニも、きっちりと音楽を刻んでいくというよりは、フレーズを歌わせるのが得意、それが音楽なんだから、多少の揺れはあるものよ、というタイプ。この二人が組む訳ですから、テンポは揺れる、表現は振幅が大きい、発音も何か変。しかもライブなので抑えも効かないし。今時のドイツリート歌いに慣れた身には、おいおいおいおいと言いたくなるような演奏であります。
確かに、今のドイツリート歌唱というのは、基本的には端正で丁寧、発音もしっかりして何を歌っているか分かるように、という方向です。非ドイツ人の歌唱でも、発音には気を使っているのが一般的。そもそも、最近のイタリア人歌手で、シューベルト、しかも冬の旅などの歌曲集を歌うような人が居たかな?居ないんじゃないでしょうか。
というわけで、ちょっと聞くとなんじゃこりゃ?的な、少々破天荒な演奏なのですが、これはこれで面白いのです。自由に、繊細なニュアンス、みたいなところは気にせず歌っていく。でも、無茶かというと決してそうでもない。よくよく聞いてみると、典型的なドイツリートの表現、ではないのだけれど、それなりに表現の方向は曲に合ってはいる。勿論、様式感、という点では厳しいです。でも、これはこれで一応理に適っているのではあります。
思うに、これは「クラウディオ・デズデーリとディーノ・チアーニの夕べ」というべき演奏なのでしょう。デズデーリを聞くリサイタル。素材がたまたま冬の旅。そう割り切って聞くと、これ、面白いのです。デズデーリの歌唱の雄弁な事!嵐のような伴奏に立ち向かって吠えるが如きデズデーリ。録音も悪いですし、これだけ聞いていると確かにしんどい面もありますが、これを生で聞いていたらさぞや面白かったろうなぁ.....と思わせるのです。
ちなみにこれは2枚組で、もう1枚は「美しき水車屋の娘」。これも録音悪いんですが同系統の演奏で......面白いです。
2008/06/22のBlog
[ 10:17 ]
[ クラシック ]
GLENN GOULD : SALZBURG RECITAL 25. August 1959
J.P.Sweelinck : Fantasia in D
A.Schoenberg : Suite fuer Klavier op.25
W.A.Mozart : Klaversonate C-Dur K.330
L.S.Bach : Goldberg Variationen BWV.988
Glenn Gould (piano)
SONY SMK53474
うう、忙しいっす...........煮詰まってますねぇ........
グレン・グールド。もう四半世紀以上前に50歳そこそこで亡くなった、「コンサートをドロップアウトした」ピアニスト。いや、「音楽家」とか、「アーティスト」とか、はたまたいっそ「哲学者」とか、色々に呼ぶのが正しいのでしょうか?
実際、人口に膾炙したクラシックの演奏家で、この人ほど長くカリスマorアイコンorアイドルとしての地位を保っている人も珍しいと思います。これ以外では、カラヤンくらいしかいないんじゃないでしょうか。ただ、グールドが強烈なのは、知的ブランドとして機能しているというところでしょう。
ある人達は、村上春樹からグールドに入り、またある人達は坂本龍一からグールドに入り、また別の人は浅田彰だか誰だかから入り、しまいには木村拓哉から入る、という具合。嫌味な言い方をすれば、グールドを聞く、好むというのは、自分を知的に演出する為のアイテムの一つなのです。そして、その装いは、亡くなって四半世紀を過ぎた今でも十分機能する、というところが恐ろしいというべきか。
いや、決してそうしたファッションとしてのグールドの使われ方だけでなく、もう少し真面目に音楽家、ピアニストとして云々する人々にしても、未だにグールドは非常に興味深い対象であるようなのです。グールドを云々すれば、取り敢えず皆引っ掛かってくれる(騙される、と言う意味ではないですよ)、しかもそれによって知的であるという演出も可能、そんな雰囲気なのです。
端的に言って、グールドは、便利な記号なのです。
そのグールドが、生前、コンサートを拒絶して録音による演奏発表を中心とした中で、録音を編集することについて大体こんなようなことを言っています。
コンサートは一回限りのもので、しかもやり直しが効かない(「Take 2 がない」。むしろ、編集によって自らがあるべきと思う姿へと作り上げていくことが出来る録音の方がいい。
更には、聞き手による音楽の選択を可能にする為にも、演奏を幾つかのパーツに分けて複数通り用意し、最終の完成形は聞き手の好みによって決めることが出来るようになればいい。
(前者は比較的良く知られていますが、後者は、一部の対談形式のエッセイなどで述べられている程度なので、あまり知られていないかも知れませんが。)
これ、ある面では「危険思想」ですし、それ故にグールドを「非常に進んだ」音楽家として認知させる契機にもなったのではあります。ただ、そうしたこと故にグールドは確かに「先進的音楽家」ということにはなっているけれど、彼が亡くなったのは1982年なのです。つまり、グールドはCDなんてものは知らなかった。今なら、ある録音を部分毎に取り出して組み替えるなんてことは容易な話になっています。技術の進化はグールドの想定をとっくに越えてしまいました。
いや、それ以上に、例えばipod shuffleの基本思想って、「次に何が来るか分からない」という状態を楽しむ所にあると思うのです。そこに入っているものこそ自分で選び取ったものだけれど、次に何を聴くか、どのような順序で聴くかは、演奏家の意思はおろか、聞き手の意思すら介入せず、機械がランダムに決めている。ここではもはや「誰の作品か」ということすら重視されなくなりつつあるのです。
勿論、グールドの演奏は曲によるにせよ特徴的ではあるので、ipodから聞こえてくればそれと分かってしまうのでしょうけれど。でも、それは言い換えれば、「グールドである」という事実への依存度が高いということでもあるのでして。
音楽家として最も先進的と看做される演奏家だったグールドの人気が、実は旧来の縛りである「演奏家」という個人の属性に最も依存しているという皮肉な事実。
この録音は、グールドが1959年夏のザルツブルク音楽祭で開いたリサイタルのライブ録音です。演奏自体は私は嫌いではないんですが、当たり前のことながら、この録音が相応に価値のあるものとして遇されている一因には、やはり「グールドである」という事があるのは否めません。決して貶めて言う訳ではないのです。ただ、この事実、果たしてグールド自身にとってはどのように受け止められる話なのでしょうね。
......まぁ、そんな風に考える事自体、健全ではないんでしょうけど。
グールドの演奏それ自体は面白いです。あまり唸ってないのもポイントが高い(苦笑)
メインのゴールドベルクは、いわゆる最初の録音のアプローチとほぼ同系統です。ライブ故の傷、と思われるようなところが無いのは流石に凄い。表現上のわずかなアンバランス感が幾つかある、という程度でしょうか。それも含めていい演奏。
だけれど、好き嫌いを言えば、むしろゴールドベルクの前に入っている曲の方が音楽としては好きです。特に冒頭のスヴェーリンク。グールドのバロック音楽では、バードやギボンズなどの作品を録音したものがありましたが、あれに連なる系統の演奏です。いや、時期としてはこのスヴェーリンクの方が先ですね。独特の気怠さと寂寥感を感じさせる、なんとも言えない演奏です。まぁ、この辺の曲は、スタンダード的には、レオンハルトあたりのチェンバロ演奏で耳をブラッシュアップして貰った方がいいかも知れませんが....
J.P.Sweelinck : Fantasia in D
A.Schoenberg : Suite fuer Klavier op.25
W.A.Mozart : Klaversonate C-Dur K.330
L.S.Bach : Goldberg Variationen BWV.988
Glenn Gould (piano)
SONY SMK53474
うう、忙しいっす...........煮詰まってますねぇ........
グレン・グールド。もう四半世紀以上前に50歳そこそこで亡くなった、「コンサートをドロップアウトした」ピアニスト。いや、「音楽家」とか、「アーティスト」とか、はたまたいっそ「哲学者」とか、色々に呼ぶのが正しいのでしょうか?
実際、人口に膾炙したクラシックの演奏家で、この人ほど長くカリスマorアイコンorアイドルとしての地位を保っている人も珍しいと思います。これ以外では、カラヤンくらいしかいないんじゃないでしょうか。ただ、グールドが強烈なのは、知的ブランドとして機能しているというところでしょう。
ある人達は、村上春樹からグールドに入り、またある人達は坂本龍一からグールドに入り、また別の人は浅田彰だか誰だかから入り、しまいには木村拓哉から入る、という具合。嫌味な言い方をすれば、グールドを聞く、好むというのは、自分を知的に演出する為のアイテムの一つなのです。そして、その装いは、亡くなって四半世紀を過ぎた今でも十分機能する、というところが恐ろしいというべきか。
いや、決してそうしたファッションとしてのグールドの使われ方だけでなく、もう少し真面目に音楽家、ピアニストとして云々する人々にしても、未だにグールドは非常に興味深い対象であるようなのです。グールドを云々すれば、取り敢えず皆引っ掛かってくれる(騙される、と言う意味ではないですよ)、しかもそれによって知的であるという演出も可能、そんな雰囲気なのです。
端的に言って、グールドは、便利な記号なのです。
そのグールドが、生前、コンサートを拒絶して録音による演奏発表を中心とした中で、録音を編集することについて大体こんなようなことを言っています。
コンサートは一回限りのもので、しかもやり直しが効かない(「Take 2 がない」。むしろ、編集によって自らがあるべきと思う姿へと作り上げていくことが出来る録音の方がいい。
更には、聞き手による音楽の選択を可能にする為にも、演奏を幾つかのパーツに分けて複数通り用意し、最終の完成形は聞き手の好みによって決めることが出来るようになればいい。
(前者は比較的良く知られていますが、後者は、一部の対談形式のエッセイなどで述べられている程度なので、あまり知られていないかも知れませんが。)
これ、ある面では「危険思想」ですし、それ故にグールドを「非常に進んだ」音楽家として認知させる契機にもなったのではあります。ただ、そうしたこと故にグールドは確かに「先進的音楽家」ということにはなっているけれど、彼が亡くなったのは1982年なのです。つまり、グールドはCDなんてものは知らなかった。今なら、ある録音を部分毎に取り出して組み替えるなんてことは容易な話になっています。技術の進化はグールドの想定をとっくに越えてしまいました。
いや、それ以上に、例えばipod shuffleの基本思想って、「次に何が来るか分からない」という状態を楽しむ所にあると思うのです。そこに入っているものこそ自分で選び取ったものだけれど、次に何を聴くか、どのような順序で聴くかは、演奏家の意思はおろか、聞き手の意思すら介入せず、機械がランダムに決めている。ここではもはや「誰の作品か」ということすら重視されなくなりつつあるのです。
勿論、グールドの演奏は曲によるにせよ特徴的ではあるので、ipodから聞こえてくればそれと分かってしまうのでしょうけれど。でも、それは言い換えれば、「グールドである」という事実への依存度が高いということでもあるのでして。
音楽家として最も先進的と看做される演奏家だったグールドの人気が、実は旧来の縛りである「演奏家」という個人の属性に最も依存しているという皮肉な事実。
この録音は、グールドが1959年夏のザルツブルク音楽祭で開いたリサイタルのライブ録音です。演奏自体は私は嫌いではないんですが、当たり前のことながら、この録音が相応に価値のあるものとして遇されている一因には、やはり「グールドである」という事があるのは否めません。決して貶めて言う訳ではないのです。ただ、この事実、果たしてグールド自身にとってはどのように受け止められる話なのでしょうね。
......まぁ、そんな風に考える事自体、健全ではないんでしょうけど。
グールドの演奏それ自体は面白いです。あまり唸ってないのもポイントが高い(苦笑)
メインのゴールドベルクは、いわゆる最初の録音のアプローチとほぼ同系統です。ライブ故の傷、と思われるようなところが無いのは流石に凄い。表現上のわずかなアンバランス感が幾つかある、という程度でしょうか。それも含めていい演奏。
だけれど、好き嫌いを言えば、むしろゴールドベルクの前に入っている曲の方が音楽としては好きです。特に冒頭のスヴェーリンク。グールドのバロック音楽では、バードやギボンズなどの作品を録音したものがありましたが、あれに連なる系統の演奏です。いや、時期としてはこのスヴェーリンクの方が先ですね。独特の気怠さと寂寥感を感じさせる、なんとも言えない演奏です。まぁ、この辺の曲は、スタンダード的には、レオンハルトあたりのチェンバロ演奏で耳をブラッシュアップして貰った方がいいかも知れませんが....
2008/06/20のBlog
[ 01:52 ]
[ クラシック ]
G.Gershwin : Rhapsody in Blue / An American in Paris
M.Ravel : Concerto for the left hand in D
Pascal Roge (piano)
RSO Wien
Bertrand de Billy (conduct)
OEHMS CLASSICS OC623
最近更新がありませんでした。忙しいのもありますが、正直、不作が続いてまして、書くことがあまり無かったんですね。ハイ。まぁ、まるで無かった訳でもないんですけども。例えばこんなのとか......
パスカル・ロジェ。フランスのピアニストで、ラヴェルなどのフランス音楽に録音が多いのですが、彼がウィーン放送交響楽団と録音したのがこのCD。確かこれの前に、同じガーシュインとラヴェルの組み合わせ(各々のピアノ協奏曲)を録音したのがあって、このCDはその続編みたいなものだった筈。指揮はベルトランド・ド・ビリー。
ま、ラヴェルの左手の為の協奏曲もありますが、やはり耳目を引くのはラプソディー・イン・ブルーというのが正直な所ではあります。勢い、そちらの出来が気になるのですが...............うーん(笑)
率直に言って、ラプソディー・イン・ブルーは難しいのです。演奏が技術的に難しいと言うより、それらしく演奏して雰囲気をきちんと出すのが難しい。元々普通にやったら「楽譜上合ってるけど音楽的には不整合」みたいなところがあるのでして、それを上手くそれっぽく聞かせるようにしないと駄目なんですよね。このへんは大体こんな感じで聞かせよう、みたいなノリが大事。
そのへんが、このコンビ、なんか変なのです(苦笑)或いは真面目にクラシック音楽として取り組んだ結果、なのかも知れないのですが、なんというか、全然ノレないんですよね。
強いて言えば協奏曲としての演奏なのでしょうか。それならそれで、思いっきりクラシックの交響音楽の方に振り切ってしまうのなら、それで突破口も開けるのでしょうけど、そうでもない。或いは、この組み合わせだったら、例えばモーツァルトの協奏曲なんかやってもいい演奏になるかと思うので、その方向で、モーツァルトに取り組むみたいに演奏してみました、とかいうなら、それもまた面白いのだろうけど、「モーツァルトにモーツァルトらしく取り組む」ように、「ガーシュインにガーシュインらしく取り組んだ」結果、なんですよね。あまりにも当たり前すぎるというか、なんかこうもう一つ突破口が開けない。演奏レベルとしては多分良く出来てるだけに、なんだかなー、という感じが強いのです。
演奏はちゃんとしてますよ。してるけど、ちゃんとしてるからなんとかなる曲じゃないと思うんですよね。いっそ、昔の、オーマンディー指揮でアントルモンが弾いた録音みたいに、ド真面目にやるって手もあると思うんですが、なまじそっちがわを向きつつやるもんだから......
悪い演奏とは言わないと思うんですよね。でも、なぁ。こういう曲、結構デリケートだし。難しいもんなんだなぁ、と、ちょっと思ったのでした。
M.Ravel : Concerto for the left hand in D
Pascal Roge (piano)
RSO Wien
Bertrand de Billy (conduct)
OEHMS CLASSICS OC623
最近更新がありませんでした。忙しいのもありますが、正直、不作が続いてまして、書くことがあまり無かったんですね。ハイ。まぁ、まるで無かった訳でもないんですけども。例えばこんなのとか......
パスカル・ロジェ。フランスのピアニストで、ラヴェルなどのフランス音楽に録音が多いのですが、彼がウィーン放送交響楽団と録音したのがこのCD。確かこれの前に、同じガーシュインとラヴェルの組み合わせ(各々のピアノ協奏曲)を録音したのがあって、このCDはその続編みたいなものだった筈。指揮はベルトランド・ド・ビリー。
ま、ラヴェルの左手の為の協奏曲もありますが、やはり耳目を引くのはラプソディー・イン・ブルーというのが正直な所ではあります。勢い、そちらの出来が気になるのですが...............うーん(笑)
率直に言って、ラプソディー・イン・ブルーは難しいのです。演奏が技術的に難しいと言うより、それらしく演奏して雰囲気をきちんと出すのが難しい。元々普通にやったら「楽譜上合ってるけど音楽的には不整合」みたいなところがあるのでして、それを上手くそれっぽく聞かせるようにしないと駄目なんですよね。このへんは大体こんな感じで聞かせよう、みたいなノリが大事。
そのへんが、このコンビ、なんか変なのです(苦笑)或いは真面目にクラシック音楽として取り組んだ結果、なのかも知れないのですが、なんというか、全然ノレないんですよね。
強いて言えば協奏曲としての演奏なのでしょうか。それならそれで、思いっきりクラシックの交響音楽の方に振り切ってしまうのなら、それで突破口も開けるのでしょうけど、そうでもない。或いは、この組み合わせだったら、例えばモーツァルトの協奏曲なんかやってもいい演奏になるかと思うので、その方向で、モーツァルトに取り組むみたいに演奏してみました、とかいうなら、それもまた面白いのだろうけど、「モーツァルトにモーツァルトらしく取り組む」ように、「ガーシュインにガーシュインらしく取り組んだ」結果、なんですよね。あまりにも当たり前すぎるというか、なんかこうもう一つ突破口が開けない。演奏レベルとしては多分良く出来てるだけに、なんだかなー、という感じが強いのです。
演奏はちゃんとしてますよ。してるけど、ちゃんとしてるからなんとかなる曲じゃないと思うんですよね。いっそ、昔の、オーマンディー指揮でアントルモンが弾いた録音みたいに、ド真面目にやるって手もあると思うんですが、なまじそっちがわを向きつつやるもんだから......
悪い演奏とは言わないと思うんですよね。でも、なぁ。こういう曲、結構デリケートだし。難しいもんなんだなぁ、と、ちょっと思ったのでした。
2008/06/14のBlog
[ 11:09 ]
[ クラシック ]
L.v.Beethoven : Piano Sonata No.22 F major, op.54 / No.23 f minor, op.57 "Appassionata" / No.24 F-sharp major, "a Therese" / No.25 G major, op.79 / No.26 E-flat major, op.81a "Les Adieux"
Andras Schiff (piano)
ECM ECM 1947
なんだか同じようなものばかり聞いてる気がしないでもないような......ま、いいか。
この数年で、ベートーヴェンのピアノソナタの全集を録音しているピアニストが実は集中しているのです。良し悪しはそれぞれですが、内田光子がフィリップスに、アンジェラ・ヒューイットがハイペリオンに、そしてアンドラーシュ・シフがECMに。個人的には、最初にがっかりしてしまった(^^;内田光子はちょっとアレですが、ヒューイットはファツィオリのピアノの音もあって、なかなか面白い演奏。そして、シフの堂々たる演奏。
たまたま今日だか昨日だかの新聞を眺めていたら、このCDの評が出ていました。シフの演奏をTVゲームで次々と難敵をクリアしていくよう、という風に。ふん.......そんな風に感じる人もいるのだねぇ。
番号順に録音されてきたシフの全集は、既に第6巻を数えるに至りました。今回は番号では22番から26番まで、作品番号ではop.81a まで来ました。ここから先がまた大変で....後6曲、大曲揃いですから。チューリッヒ・トーンハレでのコンサート録音。そういえば、数年前に、以前チケットを買った関係で、このコンサート・ツィクルスのDMが来てましたっけ。そうか、あのツィクルスがこの録音になるのか。
「堂々たる」と言ったものの、「大家」「巨匠」「ヴィルトゥオーゾ」という演奏ではありません。大体がシフはそういうイメージのある演奏家ではないですし。バッハ、モーツァルト、シューベルト、そうしたところがメインのレパートリーになるピアニストですが、どことなく「アンチ・ヴィルトゥオーゾ」的な演奏です。外連味がなくて、むしろスクェアだけれど、窮屈ではない。プログラミングも結構な内容なのだけれど、「弾きたいものを弾いている」という感じです。でも決して気まぐれだったりはしない。
演奏自体も、とても確りしたものです。揺らぎや迷いが感じられない。大上段に構えて「かくあれかし」と叫ぶのではないけれど、整然と、こうでこうだからこう、というような組み立てが出来ている。けれど、「理路整然」という風でもないのですよね。
分かりやすいのが、2曲目の「熱情」。この曲、最近はかなりいろいろに弾かれるようになってしまって、随分とテンポを揺らして、時には性急に畳み掛けるように弾いたかと思うと、今度は思い入れたっぷりに弾いてみせる、なんて人が多いのですが、シフの演奏は極めて堅実。イン・テンポと言ってしまえばそれまでですが、安易にルバートを掛けるようなことをせずに、一定のテンポを堅持する。確かに、ベートーヴェンのソナタは、曲想が如何に激しかろうとも、あくまで古典派のソナタなのですから(後期のソナタ群は微妙な所でもありますが)、同じ楽章の中であまりテンポを変えない方がいいのでしょうし。
勿論、演奏的に不足はありません。緻密、という感じではないですが、それでも細部までよくコントロールされていて、「あれ?」と思うようなところもない。全体的にも分かりやすい、見通しの利く演奏です。録音だから、という以上に、ちゃんと気配りされている、というところでしょう。
勿論、それぞれの曲想に合わせた表現もよく練られていますし、構成もきちんと押さえられている。王道を行くが如し、やはり堂々とした演奏、と言っていいのだと思います。
Andras Schiff (piano)
ECM ECM 1947
なんだか同じようなものばかり聞いてる気がしないでもないような......ま、いいか。
この数年で、ベートーヴェンのピアノソナタの全集を録音しているピアニストが実は集中しているのです。良し悪しはそれぞれですが、内田光子がフィリップスに、アンジェラ・ヒューイットがハイペリオンに、そしてアンドラーシュ・シフがECMに。個人的には、最初にがっかりしてしまった(^^;内田光子はちょっとアレですが、ヒューイットはファツィオリのピアノの音もあって、なかなか面白い演奏。そして、シフの堂々たる演奏。
たまたま今日だか昨日だかの新聞を眺めていたら、このCDの評が出ていました。シフの演奏をTVゲームで次々と難敵をクリアしていくよう、という風に。ふん.......そんな風に感じる人もいるのだねぇ。
番号順に録音されてきたシフの全集は、既に第6巻を数えるに至りました。今回は番号では22番から26番まで、作品番号ではop.81a まで来ました。ここから先がまた大変で....後6曲、大曲揃いですから。チューリッヒ・トーンハレでのコンサート録音。そういえば、数年前に、以前チケットを買った関係で、このコンサート・ツィクルスのDMが来てましたっけ。そうか、あのツィクルスがこの録音になるのか。
「堂々たる」と言ったものの、「大家」「巨匠」「ヴィルトゥオーゾ」という演奏ではありません。大体がシフはそういうイメージのある演奏家ではないですし。バッハ、モーツァルト、シューベルト、そうしたところがメインのレパートリーになるピアニストですが、どことなく「アンチ・ヴィルトゥオーゾ」的な演奏です。外連味がなくて、むしろスクェアだけれど、窮屈ではない。プログラミングも結構な内容なのだけれど、「弾きたいものを弾いている」という感じです。でも決して気まぐれだったりはしない。
演奏自体も、とても確りしたものです。揺らぎや迷いが感じられない。大上段に構えて「かくあれかし」と叫ぶのではないけれど、整然と、こうでこうだからこう、というような組み立てが出来ている。けれど、「理路整然」という風でもないのですよね。
分かりやすいのが、2曲目の「熱情」。この曲、最近はかなりいろいろに弾かれるようになってしまって、随分とテンポを揺らして、時には性急に畳み掛けるように弾いたかと思うと、今度は思い入れたっぷりに弾いてみせる、なんて人が多いのですが、シフの演奏は極めて堅実。イン・テンポと言ってしまえばそれまでですが、安易にルバートを掛けるようなことをせずに、一定のテンポを堅持する。確かに、ベートーヴェンのソナタは、曲想が如何に激しかろうとも、あくまで古典派のソナタなのですから(後期のソナタ群は微妙な所でもありますが)、同じ楽章の中であまりテンポを変えない方がいいのでしょうし。
勿論、演奏的に不足はありません。緻密、という感じではないですが、それでも細部までよくコントロールされていて、「あれ?」と思うようなところもない。全体的にも分かりやすい、見通しの利く演奏です。録音だから、という以上に、ちゃんと気配りされている、というところでしょう。
勿論、それぞれの曲想に合わせた表現もよく練られていますし、構成もきちんと押さえられている。王道を行くが如し、やはり堂々とした演奏、と言っていいのだと思います。
2008/06/10のBlog
[ 02:01 ]
[ クラシック ]
J.Haydn : Symphony D-dur Hob.I/104 "London"
R.Schumann : Symphony No.2 op.61, C-dur
SWR RADIO-SINFONIEORCHESTER STUTTGART
Roger Norrington (conduct)
Haenssler CD93.011
ノリントン卿の録音....と言おうとしたけど、よく見たら「サー」が付いてない。あれ?ノリントンが爵位を貰ったのって、そんなに最近だったっけ?ちなみにこの録音、1999年のもので、発売は多分2000年。そんなもんかな?
ノリントンが当時の手兵、南西ドイツ放送交響楽団(うーん、でも、直訳するとこれって「SWR・シュトゥットガルト放送交響楽団」とでも訳すべき?)を率いての録音です。一応ライヴらしく、拍手なんかが入ってます。
さて、ノリントンらしいと言えば、ハイドンの方なのかシューマンの方なのか、どちらなんでしょう。最近のノリントンならどっちもあり、なのかも知れませんが。
シューマンの交響曲を聴くのは久しぶりです。2番は、暫く前にラジオで掛かったのを覚えていますが、それ以来です。結構間が空いてるなぁ。実は、本当は1番や4番の方がどちらかというと好き、というか、聞きたい方なのですが、このCDに入っているのは2番なので仕方ない。こちらはというと、元々は「ノリントンのハイドン」を聞こうと買ったのだし。
で、実際聞いてみると、どちらもいい演奏なのだけど、かえってハイドンよりシューマンの方が面白いかも、という、お約束のパターンなのであります。
いや、決してハイドンがつまらない訳ではありませんが、まぁ、予想の範囲内というか、「ノリントンのハイドン」として普通にいい、というか。そんな感じでして。多少ノリントンらしい「活きの良さ」は感じるけれど、こりゃ凄いぞ!というほどではないし。むしろ、この「ロンドン」ハイドンなんだけど、交響曲では一番最後の作品(1795年)であり、何処かロマン派に通ずる感じがあって、そうした面が面白い。
で、シューマンです。
シューマンの交響曲は、なんとなく評価が定まらない部分があるような気がします。決して軽んじられる訳ではないんでしょうが、「交響曲の系譜」からすると大抵外される。つまり、ベートーヴェン以降ブラームスまでの間は傍流なんですよね、交響曲の「正史」からは。で、なんとなくこちらもそんな気分になってきて、つい「そういうもんか」と納得してしまうような。人気はあると思うんですけどねぇ.....
中でも2番はちょっとメリハリがはっきりしないし。交響曲の構成としてはちょっと難しいようにも思います。この曲の肝は.....第3楽章かな?強いて言えば急-急-緩-急という構成の中で、唯一の緩徐楽章ながら、存在感がある第3楽章。ロマン派の代表格シューマンのピアノ曲、例えば幻想曲の中間部あたりを思わせる、やや瞑想的な面も感じさせる音楽です。決して勿体ぶってるわけではないけれど、重みは感じさせられます。ところが、構成的に厳しいなぁ、と思うのは、最終楽章が承前獅子奮迅して取り纏めるが如し、とはいかないあたりがですね.......
全体に、かっちりとしたまとまりが感じられにくい。各々の楽章は、結構魅力的で面白いんですが。このへんはロマン派の交響曲に多かれ少なかれ共通する悩みなんでしょうか。
ノリントンの演奏は、このまとまりを感じにくい音楽を、きびきびと明晰に演奏していきます。明晰と言っても、理詰めみたいなのではありません。ロマン派はロマン派らしく、でも、一つ一つのフレーズを明確に、けれど相応しい表現で演奏していく。だから、構成感の希薄さはあっても、迷子にはならない。格別奇を衒った風も無いのも、好感を持てます。
強いて言えば「それっぽくない」って言われるんでしょうか。でも、シューマンみたいな音楽だったら、むしろこういうアプローチの方がいいんじゃないかという気がします。それっぽい演奏も、それはそれでいいんですけどね。
R.Schumann : Symphony No.2 op.61, C-dur
SWR RADIO-SINFONIEORCHESTER STUTTGART
Roger Norrington (conduct)
Haenssler CD93.011
ノリントン卿の録音....と言おうとしたけど、よく見たら「サー」が付いてない。あれ?ノリントンが爵位を貰ったのって、そんなに最近だったっけ?ちなみにこの録音、1999年のもので、発売は多分2000年。そんなもんかな?
ノリントンが当時の手兵、南西ドイツ放送交響楽団(うーん、でも、直訳するとこれって「SWR・シュトゥットガルト放送交響楽団」とでも訳すべき?)を率いての録音です。一応ライヴらしく、拍手なんかが入ってます。
さて、ノリントンらしいと言えば、ハイドンの方なのかシューマンの方なのか、どちらなんでしょう。最近のノリントンならどっちもあり、なのかも知れませんが。
シューマンの交響曲を聴くのは久しぶりです。2番は、暫く前にラジオで掛かったのを覚えていますが、それ以来です。結構間が空いてるなぁ。実は、本当は1番や4番の方がどちらかというと好き、というか、聞きたい方なのですが、このCDに入っているのは2番なので仕方ない。こちらはというと、元々は「ノリントンのハイドン」を聞こうと買ったのだし。
で、実際聞いてみると、どちらもいい演奏なのだけど、かえってハイドンよりシューマンの方が面白いかも、という、お約束のパターンなのであります。
いや、決してハイドンがつまらない訳ではありませんが、まぁ、予想の範囲内というか、「ノリントンのハイドン」として普通にいい、というか。そんな感じでして。多少ノリントンらしい「活きの良さ」は感じるけれど、こりゃ凄いぞ!というほどではないし。むしろ、この「ロンドン」ハイドンなんだけど、交響曲では一番最後の作品(1795年)であり、何処かロマン派に通ずる感じがあって、そうした面が面白い。
で、シューマンです。
シューマンの交響曲は、なんとなく評価が定まらない部分があるような気がします。決して軽んじられる訳ではないんでしょうが、「交響曲の系譜」からすると大抵外される。つまり、ベートーヴェン以降ブラームスまでの間は傍流なんですよね、交響曲の「正史」からは。で、なんとなくこちらもそんな気分になってきて、つい「そういうもんか」と納得してしまうような。人気はあると思うんですけどねぇ.....
中でも2番はちょっとメリハリがはっきりしないし。交響曲の構成としてはちょっと難しいようにも思います。この曲の肝は.....第3楽章かな?強いて言えば急-急-緩-急という構成の中で、唯一の緩徐楽章ながら、存在感がある第3楽章。ロマン派の代表格シューマンのピアノ曲、例えば幻想曲の中間部あたりを思わせる、やや瞑想的な面も感じさせる音楽です。決して勿体ぶってるわけではないけれど、重みは感じさせられます。ところが、構成的に厳しいなぁ、と思うのは、最終楽章が承前獅子奮迅して取り纏めるが如し、とはいかないあたりがですね.......
全体に、かっちりとしたまとまりが感じられにくい。各々の楽章は、結構魅力的で面白いんですが。このへんはロマン派の交響曲に多かれ少なかれ共通する悩みなんでしょうか。
ノリントンの演奏は、このまとまりを感じにくい音楽を、きびきびと明晰に演奏していきます。明晰と言っても、理詰めみたいなのではありません。ロマン派はロマン派らしく、でも、一つ一つのフレーズを明確に、けれど相応しい表現で演奏していく。だから、構成感の希薄さはあっても、迷子にはならない。格別奇を衒った風も無いのも、好感を持てます。
強いて言えば「それっぽくない」って言われるんでしょうか。でも、シューマンみたいな音楽だったら、むしろこういうアプローチの方がいいんじゃないかという気がします。それっぽい演奏も、それはそれでいいんですけどね。
2008/06/07のBlog
[ 15:45 ]
[ 車で音楽 ]
My Heart Will Go On Zauber keltischer Harfenmusik
Belfast Harp Orchestra, Sileas, etc.
DECCA 4428238
忙しくてまいってます。ちょっとたまらんなぁ、という今日この頃。今日も仕事中です。メリハリがあればともかく、もうちょっとこの状態は何とも......
DECCAってことになってますが、まぁ、コンピレーションもののイージーリスニングですね。難しいものを聞く気力はありません。
大体がタイトル曲なんて、タイタニックのアレでしょ。その他、ロンドンデリーの歌など、有名無名の民謡編曲、などなどを様々な奏者がハープで演奏していくのであります。ハープといっても、アイリッシュ・ハープもあれば、Celtic Electroharpなるもの、Wire-strung Harpなるものもありまして、どれがどれやら.....
ま、あれですね、コンピレーションですから、仕方ないですね。
一応、「民族音楽」という期待で聞いたのですが、これはたいしたことなかった、というのが正直な感想。それほど感銘を受けるようなものではない。まぁ、今時の「ケルト音楽」って、リズミックなの、ポップミュージック、イージーリスニング、と、大体そういう方向性になってますからね。あまりハードな期待をしても無理か......
と言いながら、聞いてしまうのは、あんまり難しいこと考えたくない状態の身には、こういうのも悪くない、と思えるので。「癒し」なんて口が裂けても言いたくない、と日頃思っているけれど、こういう音楽もあれば聞くし、聞けばそれなりに心地よく感じてしまうのも事実なのであります。ううううむ(笑)
Belfast Harp Orchestra, Sileas, etc.
DECCA 4428238
忙しくてまいってます。ちょっとたまらんなぁ、という今日この頃。今日も仕事中です。メリハリがあればともかく、もうちょっとこの状態は何とも......
DECCAってことになってますが、まぁ、コンピレーションもののイージーリスニングですね。難しいものを聞く気力はありません。
大体がタイトル曲なんて、タイタニックのアレでしょ。その他、ロンドンデリーの歌など、有名無名の民謡編曲、などなどを様々な奏者がハープで演奏していくのであります。ハープといっても、アイリッシュ・ハープもあれば、Celtic Electroharpなるもの、Wire-strung Harpなるものもありまして、どれがどれやら.....
ま、あれですね、コンピレーションですから、仕方ないですね。
一応、「民族音楽」という期待で聞いたのですが、これはたいしたことなかった、というのが正直な感想。それほど感銘を受けるようなものではない。まぁ、今時の「ケルト音楽」って、リズミックなの、ポップミュージック、イージーリスニング、と、大体そういう方向性になってますからね。あまりハードな期待をしても無理か......
と言いながら、聞いてしまうのは、あんまり難しいこと考えたくない状態の身には、こういうのも悪くない、と思えるので。「癒し」なんて口が裂けても言いたくない、と日頃思っているけれど、こういう音楽もあれば聞くし、聞けばそれなりに心地よく感じてしまうのも事実なのであります。ううううむ(笑)
2008/06/05のBlog
[ 01:40 ]
[ クラシック ]
W.A.Mozart : Piano Concertos <no.17 no.21 c-dur no.20 d-moll k.467, a-dur k.488, k.453, k.466, g-dur k.491 c-moll no.24 no.23>
Arthur Rubinstein (piano)
RCA Victor Symphony Orchestra
Alfred Wallenstein, Josef Krips[K.491] (conduct)
RCA/BMG 09026-63061-2
[関連したBlog]
アルトゥール・ルービンシュタイン。LPでクラシックを聴き始めた頃にまとめて聞いて(安かったのです)、以来折に触れ聞いています。とはいえ、今時ルービンシュタインなんて流行らないですかね。実際、ルービンシュタインの影は年々薄くなっているように思います。まぁ、なんとなく分からないでもない気がします。
ルービンシュタインは、良くも悪くもピアニストの王様だったんだと思います。王様ってのは、死んで代が替わり、次の王に取って代わられてしまいますからね。亡くなってもう四半世紀。
それでも、ホロヴィッツのように癖のある怪人だったら、或いはバックハウスのように気難しげな職人だったら、それ故に名も後々まで残るというものだと思うのですが、ルービンシュタインの場合、音楽家として正道に過ぎたのかな、という気がします。とてもいい演奏なんですけどね。
そんなわけですが、そういえば、私の場合、よく聞くのは協奏曲だったりします。オーケストラと渡り合うには、こういう正道を行く演奏がいいのかな。
で、今日はモーツァルトの協奏曲の20番を聞きました。モーツァルトの20番から24番は、名曲揃いですが、中でも20番は好きです。長調で華やかさと抒情性を兼ね備えた21番が一番人気かも知れませんが、陰翳のある、それも陰の方がやや優位の20番はやはり捨て難い。
この録音は1961年のものですが、この時点で既にルービンシュタインは70を越えています。確かに、忘れられてしまうわけです。本来なら、SP・モノラル録音時代の、いにしえのピアニスト扱いされるところが、1960年代のステレオ時代に晩年の録音が遺されて、しかもそれが尋常でなく立派、というわけですから。
いや、実際、この録音は本当に王道。立派にして堂々たるものです。スタインウェイを操るピアニストがモーツァルトの書いた協奏曲を弾くなら、このように弾いて、楽器と音楽の可能性を引き出してやるものだ、という手本のようなものです。まぁ、そういうのは代り映えもしないしつまらない、ということなのかも知れませんが。でも、代り映えしないと偉そうに言うほど聞いたんかい、という気もしないではないですね。
この曲で好きなのは、第2楽章。ロマンスと題された緩徐楽章で、その名の通り確かにちょっとロマンチック。でも、ちょっと危なげな雰囲気も垣間見えるのです。決して中間部の激しさを伴う部分のことではなく、最初のあの緩やかな長調の音楽が。この曲は、映画「アマデウス」の最後、自殺を図り、精神病院に入れられたサリエリが、「凡人に幸いあれ」と患者達を祝福して回る場面で使われているのですが、この曲を選んだ監督だか音響担当だかの眼力は生半ではないと思います。
これが聞きたくて時々この曲をかけるのですが、ルービンシュタインも、指揮のウォーレンシュタインも、淡々とした表現がとてもいいなと思うのです。
過剰には歌わず、必要以上に突慳貪にもならず、ピアノの性能を十二分に発揮して、きちんと演奏すれば、自ずと結果は付いて来る。なんとなく、そんな風に演奏している、いや、音楽をやっている印象を受ける演奏です。
Arthur Rubinstein (piano)
RCA Victor Symphony Orchestra
Alfred Wallenstein, Josef Krips[K.491] (conduct)
RCA/BMG 09026-63061-2
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アルトゥール・ルービンシュタイン。LPでクラシックを聴き始めた頃にまとめて聞いて(安かったのです)、以来折に触れ聞いています。とはいえ、今時ルービンシュタインなんて流行らないですかね。実際、ルービンシュタインの影は年々薄くなっているように思います。まぁ、なんとなく分からないでもない気がします。
ルービンシュタインは、良くも悪くもピアニストの王様だったんだと思います。王様ってのは、死んで代が替わり、次の王に取って代わられてしまいますからね。亡くなってもう四半世紀。
それでも、ホロヴィッツのように癖のある怪人だったら、或いはバックハウスのように気難しげな職人だったら、それ故に名も後々まで残るというものだと思うのですが、ルービンシュタインの場合、音楽家として正道に過ぎたのかな、という気がします。とてもいい演奏なんですけどね。
そんなわけですが、そういえば、私の場合、よく聞くのは協奏曲だったりします。オーケストラと渡り合うには、こういう正道を行く演奏がいいのかな。
で、今日はモーツァルトの協奏曲の20番を聞きました。モーツァルトの20番から24番は、名曲揃いですが、中でも20番は好きです。長調で華やかさと抒情性を兼ね備えた21番が一番人気かも知れませんが、陰翳のある、それも陰の方がやや優位の20番はやはり捨て難い。
この録音は1961年のものですが、この時点で既にルービンシュタインは70を越えています。確かに、忘れられてしまうわけです。本来なら、SP・モノラル録音時代の、いにしえのピアニスト扱いされるところが、1960年代のステレオ時代に晩年の録音が遺されて、しかもそれが尋常でなく立派、というわけですから。
いや、実際、この録音は本当に王道。立派にして堂々たるものです。スタインウェイを操るピアニストがモーツァルトの書いた協奏曲を弾くなら、このように弾いて、楽器と音楽の可能性を引き出してやるものだ、という手本のようなものです。まぁ、そういうのは代り映えもしないしつまらない、ということなのかも知れませんが。でも、代り映えしないと偉そうに言うほど聞いたんかい、という気もしないではないですね。
この曲で好きなのは、第2楽章。ロマンスと題された緩徐楽章で、その名の通り確かにちょっとロマンチック。でも、ちょっと危なげな雰囲気も垣間見えるのです。決して中間部の激しさを伴う部分のことではなく、最初のあの緩やかな長調の音楽が。この曲は、映画「アマデウス」の最後、自殺を図り、精神病院に入れられたサリエリが、「凡人に幸いあれ」と患者達を祝福して回る場面で使われているのですが、この曲を選んだ監督だか音響担当だかの眼力は生半ではないと思います。
これが聞きたくて時々この曲をかけるのですが、ルービンシュタインも、指揮のウォーレンシュタインも、淡々とした表現がとてもいいなと思うのです。
過剰には歌わず、必要以上に突慳貪にもならず、ピアノの性能を十二分に発揮して、きちんと演奏すれば、自ずと結果は付いて来る。なんとなく、そんな風に演奏している、いや、音楽をやっている印象を受ける演奏です。
2008/06/01のBlog
[ 02:52 ]
[ クラシック ]
LAND OF HOPE AND GLORY
'The Last Night of the Proms'
Sarah Walker (mezzo-soprano)
Thomas Allen (baritone)
London Philharmonic Choir
London Philharmonic Orchestra
Sir Roger Norrington (conduct)
DECCA 480 0476
The Last Night of the Proms" と副題が付いてますが、ラストナイトのライブではありません。大体が、オケがBBCではなくてロンドン・フィルですし。しかしまぁベタな演目です。これを振ってるのがノリントン。1996年の録音ですから、もうノリントンだって相応の評価は得てるだろうに。でも、そうでした。サー・ロジャー・ノリントン。卿はブリティッシュなのでした。なるほど。
Land of Hope and Glory、日本語では希望と栄光の地、と訳されます。元々はエルガーの「威風堂々」第1番の中間部として作曲されたものを、エドワード7世の戴冠を祝して作曲された戴冠式頌歌 (Coronation Ode)に用いられ、その際に歌詞が付けられました。それが、元の「威風堂々」第1番を演奏する際に、合唱を付けて、この頌歌に付けられた詩の一部を歌うようになった、というわけです。
但し、「威風堂々」に逆輸入したのはエルガーではないので、これはまぁ勝手にやってる訳ですね。ロンドンの夏の音楽祭、プロムスのラストナイトの定番です。
日本人にとっては、あのラストナイトの雰囲気は異様に感じられるという向きもあるようです。まぁ、確かに、異様と言えば異様ですね。ただ、例えばこの曲や、 "Rule, Britannia!" なんかを、極めて愛国心の強い歌として観じるのも、まぁ気持ちは分かるのですが、ちょっと違うような気がします。
確かに、歌詞を見ると、「Wider still and wider」とか言ってますし、大体自分達が住んでる場所を平気で「希望と栄光の地」と言っているあたり、なんとも、ではるんですけどね。でもね。Land of hope and glory なのです。決してImperial でもState でもCountry でもないんです。Land なんです。「希望と栄光の国」とよく訳されますが、Landなのです。
アーン作曲のRule, Britannia! にしても、よくよく考えてみると、Britannia はブリテンを象徴した女神なのですが、あくまで Rule, Britannia! Britannia rule the waves なのです。Britons never never never shall be slaves. なのです。つまり、ブリティッシュは決して奴隷にならないぞ!と言っているのです。.........愛国心の高揚、と言う割には、ちょっと弱気でないかい?
もう一つ、ラストナイトの定番に、Jerusalemがあります。パリー作曲。確かにこの曲、イングランドにイェルサレムを建てよう、と歌うのではあります。でも、そこで歌われているのは、この楽園とはほど遠いイングランドの地に、イェルサレムを建てるまで、我らはこの心の戦いを収めるまい、という内容なのです。
一度だけ、ラストナイトに潜り込んだことがあります。別に不法侵入した訳じゃありませんが。そこでやっているのは、日本人が「国」とか「愛国」とか考えているのとは相当に違ったものだと思います。
勿論、そこにいるのはイングランドだけじゃない。GBの旗もあるけど、スコットランド旗もウェールズの旗もある。恐らくは旧英領と思しき知らない旗もあれば、何故かフランスもドイツもブラジルも日本も中国の旗もある。誰かが持って来ているのです。ちなみに私は旗が無いので白いシャツに赤い◎書いて持って行きました(苦笑)要するに、まぁ、なんでもありなのです。とはいえ、確かに多いのはGBの人ですね。
でも、こうした歌を歌っていることが、ナショナリズムみたいなものか、と言われると、そうだけどちょっと違う、と思うのです。簡単に言えば、排他的なものが、上手く隠してるだけかも知れないけど、あまり感じられない。確かにViva Britain! Viva England! なイヴェントではあるのだけど。でも、それは、どちらかというと、Land を称えるイヴェントのような気がするのです。国、じゃないんですね。国を愛するというよりは、今自分がいる、この地が好きだ、という感情、なのでしょうか。強いて言えば愛郷心、でも、日本語の愛という言葉自体が合わないような気がします。
プロムスの会場であるロイヤル・アルバート・ホールが最後の舞台になる映画で、ブラス!というのがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。あれは、炭鉱が閉山の危機にあって、活動も覚束無くなった貧しい鉱夫達(というか失業者達?)を中心にしたブラスバンドが、全国大会で優勝するという話。でも、決してハッピーエンドではない。優勝はしたけれど、明日の生活もどうなるかわからない。まぁとにかくどうにかしようとは思うけれど、という形で終わります。その最後、主人公達が、夜の観光バスの二階で真摯に演奏するのが、威風堂々第1番の中間部。つまりは、失業者によって演奏されるLand of Hope and Glory。映画としては痛烈な皮肉でもあります。でもまぁ、演奏してる彼等に、そういう考えはないんじゃないでしょうか。
まぁ、どう捉えるかはそれぞれですが、善くも悪くももうちょっと素朴というかニュートラルな感じじゃないのかな、と思うのです。鈍すぎる、って言われるかも知れませんけどね。
しかし、よくこんなの録音してるな......<ノリントン
あ、演奏ですが、実はノリントンらしさもちょっと出ていて、なかなかです。威風堂々の中間部とか、平生はゆったり演奏したくなる所をきびきびと進めてみせたり、やはり一筋縄ではいきません。
'The Last Night of the Proms'
Sarah Walker (mezzo-soprano)
Thomas Allen (baritone)
London Philharmonic Choir
London Philharmonic Orchestra
Sir Roger Norrington (conduct)
DECCA 480 0476
The Last Night of the Proms" と副題が付いてますが、ラストナイトのライブではありません。大体が、オケがBBCではなくてロンドン・フィルですし。しかしまぁベタな演目です。これを振ってるのがノリントン。1996年の録音ですから、もうノリントンだって相応の評価は得てるだろうに。でも、そうでした。サー・ロジャー・ノリントン。卿はブリティッシュなのでした。なるほど。
Land of Hope and Glory、日本語では希望と栄光の地、と訳されます。元々はエルガーの「威風堂々」第1番の中間部として作曲されたものを、エドワード7世の戴冠を祝して作曲された戴冠式頌歌 (Coronation Ode)に用いられ、その際に歌詞が付けられました。それが、元の「威風堂々」第1番を演奏する際に、合唱を付けて、この頌歌に付けられた詩の一部を歌うようになった、というわけです。
但し、「威風堂々」に逆輸入したのはエルガーではないので、これはまぁ勝手にやってる訳ですね。ロンドンの夏の音楽祭、プロムスのラストナイトの定番です。
日本人にとっては、あのラストナイトの雰囲気は異様に感じられるという向きもあるようです。まぁ、確かに、異様と言えば異様ですね。ただ、例えばこの曲や、 "Rule, Britannia!" なんかを、極めて愛国心の強い歌として観じるのも、まぁ気持ちは分かるのですが、ちょっと違うような気がします。
確かに、歌詞を見ると、「Wider still and wider」とか言ってますし、大体自分達が住んでる場所を平気で「希望と栄光の地」と言っているあたり、なんとも、ではるんですけどね。でもね。Land of hope and glory なのです。決してImperial でもState でもCountry でもないんです。Land なんです。「希望と栄光の国」とよく訳されますが、Landなのです。
アーン作曲のRule, Britannia! にしても、よくよく考えてみると、Britannia はブリテンを象徴した女神なのですが、あくまで Rule, Britannia! Britannia rule the waves なのです。Britons never never never shall be slaves. なのです。つまり、ブリティッシュは決して奴隷にならないぞ!と言っているのです。.........愛国心の高揚、と言う割には、ちょっと弱気でないかい?
もう一つ、ラストナイトの定番に、Jerusalemがあります。パリー作曲。確かにこの曲、イングランドにイェルサレムを建てよう、と歌うのではあります。でも、そこで歌われているのは、この楽園とはほど遠いイングランドの地に、イェルサレムを建てるまで、我らはこの心の戦いを収めるまい、という内容なのです。
一度だけ、ラストナイトに潜り込んだことがあります。別に不法侵入した訳じゃありませんが。そこでやっているのは、日本人が「国」とか「愛国」とか考えているのとは相当に違ったものだと思います。
勿論、そこにいるのはイングランドだけじゃない。GBの旗もあるけど、スコットランド旗もウェールズの旗もある。恐らくは旧英領と思しき知らない旗もあれば、何故かフランスもドイツもブラジルも日本も中国の旗もある。誰かが持って来ているのです。ちなみに私は旗が無いので白いシャツに赤い◎書いて持って行きました(苦笑)要するに、まぁ、なんでもありなのです。とはいえ、確かに多いのはGBの人ですね。
でも、こうした歌を歌っていることが、ナショナリズムみたいなものか、と言われると、そうだけどちょっと違う、と思うのです。簡単に言えば、排他的なものが、上手く隠してるだけかも知れないけど、あまり感じられない。確かにViva Britain! Viva England! なイヴェントではあるのだけど。でも、それは、どちらかというと、Land を称えるイヴェントのような気がするのです。国、じゃないんですね。国を愛するというよりは、今自分がいる、この地が好きだ、という感情、なのでしょうか。強いて言えば愛郷心、でも、日本語の愛という言葉自体が合わないような気がします。
プロムスの会場であるロイヤル・アルバート・ホールが最後の舞台になる映画で、ブラス!というのがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。あれは、炭鉱が閉山の危機にあって、活動も覚束無くなった貧しい鉱夫達(というか失業者達?)を中心にしたブラスバンドが、全国大会で優勝するという話。でも、決してハッピーエンドではない。優勝はしたけれど、明日の生活もどうなるかわからない。まぁとにかくどうにかしようとは思うけれど、という形で終わります。その最後、主人公達が、夜の観光バスの二階で真摯に演奏するのが、威風堂々第1番の中間部。つまりは、失業者によって演奏されるLand of Hope and Glory。映画としては痛烈な皮肉でもあります。でもまぁ、演奏してる彼等に、そういう考えはないんじゃないでしょうか。
まぁ、どう捉えるかはそれぞれですが、善くも悪くももうちょっと素朴というかニュートラルな感じじゃないのかな、と思うのです。鈍すぎる、って言われるかも知れませんけどね。
しかし、よくこんなの録音してるな......<ノリントン
あ、演奏ですが、実はノリントンらしさもちょっと出ていて、なかなかです。威風堂々の中間部とか、平生はゆったり演奏したくなる所をきびきびと進めてみせたり、やはり一筋縄ではいきません。
2008/05/31のBlog
[ 11:14 ]
[ クラシック ]
武満徹:室内楽作品集成 1
妖精の距離 / 悲歌 / 十一月の霧と菊の彼方から / 揺れる鏡の夜明け / 犂 / ア・ウェイ・ア・ローン
清水高師 (violin)
小賀野久美、藤井一興 (piano)
上村昇 (cello)
アルディッティ四重奏団
フォンテック FOCD9226
武満に限らずそうなのですが、ついでに言えばこないだ書いた話にも通じるのですけれど、現代音楽に関しては、どうも、大規模な管弦楽などよりは、室内楽の方が取っ付きやすいのではないか、という気がします。あくまで「気がする」だけで、極めて個人的な感想なんですけども。
多分、管弦楽とかは、複雑すぎるんですね、私には。現代の作曲家は、作品を書くに当たってはかなり自由度が高いですから、使おうと思えばどんな楽器でも使うように指示出来るし、どんな音の積み重ねを連ねることも許されるし、楽曲構成なども縛られることはない。勿論、それが良さなのだ、ということでもあるのですが、そのように音楽の枠を拡げることが、複雑さを増す方向に行っているのは確かです。それでも勿論そうした音楽を受け取ることは可能なのですが、人によっては - 私のように - 聞く側にとっての負担が増している、と感じないこともないかと思うのです。
平たく言うと疲れちゃうんですね。ま、もっとも、ブルックナーとかだって長過ぎて疲れちゃう、てなことはあるので、現代音楽に限った話じゃないだろ!と言われると一言も無いのですが(苦笑)
武満徹は日本人作曲家としても、現代作曲家としても、異例の人気を保っている、と言っていいと思います。確かにこの人聞きやすい音楽も多くて、人気あるのもうなずけるんですよね。でも、やっぱり、聞き疲れるとかいうのは、それとはちょっと別の話で、あるにはあるのです。
そういう意味で言うと、確かにこの室内楽だって、疲れるには疲れます。とっても取っ付きやすい、というわけではないと思います。でも、やっぱり、編成としての簡潔さが、聞く側にとっての受け取りやすさの一因になってるのではないかな、と思うのです。調性感こそ曖昧なものの、決して突拍子も無い音楽にはならない安定感や、武満特有の「音の少なさ」とも相俟って、そうした印象を受けるのかも知れません。そういえば、武満の音楽にはアレグロな音楽が比較的少ないのですが、ここに入っている作品、急テンポのものは少ないですね。そうしたこともありますね。きっと。
このCDの中では、ピアノとチェロの為の作品で、ORION <犂> という作品が収録されていますが、これなんかが今の所一番気に入っているかな。どちらかというと気難しい風で、決して親しみやすい顔をした音楽ではないのだけど、気が付くと聞き入ってしまうというか引き込まれているのに気付く、そんな音楽です。ちなみに、なんでORIONなのか、聞いている限りではすぐに合点が行くという訳ではありません。武満の表題付き音楽は、存外、「なんでそういう表題なのかよくわからない」というのが少なくないのでは。でも、そういうこととは別に、「ああ、これは"夜の音楽"だな」と感じさせるものがあります。矛盾してるようですが。
妖精の距離 / 悲歌 / 十一月の霧と菊の彼方から / 揺れる鏡の夜明け / 犂 / ア・ウェイ・ア・ローン
清水高師 (violin)
小賀野久美、藤井一興 (piano)
上村昇 (cello)
アルディッティ四重奏団
フォンテック FOCD9226
武満に限らずそうなのですが、ついでに言えばこないだ書いた話にも通じるのですけれど、現代音楽に関しては、どうも、大規模な管弦楽などよりは、室内楽の方が取っ付きやすいのではないか、という気がします。あくまで「気がする」だけで、極めて個人的な感想なんですけども。
多分、管弦楽とかは、複雑すぎるんですね、私には。現代の作曲家は、作品を書くに当たってはかなり自由度が高いですから、使おうと思えばどんな楽器でも使うように指示出来るし、どんな音の積み重ねを連ねることも許されるし、楽曲構成なども縛られることはない。勿論、それが良さなのだ、ということでもあるのですが、そのように音楽の枠を拡げることが、複雑さを増す方向に行っているのは確かです。それでも勿論そうした音楽を受け取ることは可能なのですが、人によっては - 私のように - 聞く側にとっての負担が増している、と感じないこともないかと思うのです。
平たく言うと疲れちゃうんですね。ま、もっとも、ブルックナーとかだって長過ぎて疲れちゃう、てなことはあるので、現代音楽に限った話じゃないだろ!と言われると一言も無いのですが(苦笑)
武満徹は日本人作曲家としても、現代作曲家としても、異例の人気を保っている、と言っていいと思います。確かにこの人聞きやすい音楽も多くて、人気あるのもうなずけるんですよね。でも、やっぱり、聞き疲れるとかいうのは、それとはちょっと別の話で、あるにはあるのです。
そういう意味で言うと、確かにこの室内楽だって、疲れるには疲れます。とっても取っ付きやすい、というわけではないと思います。でも、やっぱり、編成としての簡潔さが、聞く側にとっての受け取りやすさの一因になってるのではないかな、と思うのです。調性感こそ曖昧なものの、決して突拍子も無い音楽にはならない安定感や、武満特有の「音の少なさ」とも相俟って、そうした印象を受けるのかも知れません。そういえば、武満の音楽にはアレグロな音楽が比較的少ないのですが、ここに入っている作品、急テンポのものは少ないですね。そうしたこともありますね。きっと。
このCDの中では、ピアノとチェロの為の作品で、ORION <犂> という作品が収録されていますが、これなんかが今の所一番気に入っているかな。どちらかというと気難しい風で、決して親しみやすい顔をした音楽ではないのだけど、気が付くと聞き入ってしまうというか引き込まれているのに気付く、そんな音楽です。ちなみに、なんでORIONなのか、聞いている限りではすぐに合点が行くという訳ではありません。武満の表題付き音楽は、存外、「なんでそういう表題なのかよくわからない」というのが少なくないのでは。でも、そういうこととは別に、「ああ、これは"夜の音楽"だな」と感じさせるものがあります。矛盾してるようですが。
2008/05/28のBlog
[ 01:20 ]
[ クラシック ]
L.v.Beethoven : Piano Sonata Nr.22 F Major op.54 / Nr.24 F sharp minor op.78 / Nr.29 B flat Major "Hammerklavier"
Gerhard Oppitz (piano)
Haenssler classic CD98.207
おかげさまで、アクセス数が累計8万件を超えました。このblog、2005年の6月から始めてますから、この6月で丸3年になります。合計すれば1日平均70アクセスくらい、でしょうか。随分前にも書いたけど、毎日更新するでなく、画像も載せない、と、人気の出る要素をことごとく回避している筈なのに、よくお越し頂けるものです。御礼申し上げます。
それはいいんですが、最近、昔の記事を読み返してみたのですが..........なんか理屈っぽくなってますねぇ、近年。書くことが。始めた頃は、せいぜい5行くらいの記事しか書いてないですもんね。今じゃ、下手すると一つの記事でその10倍くらい書いてるし。
まぁ、正直言うと、以前は「あまりぐだぐだ書かないようにしよう」と心がけて、軽い内容で気楽にやって行こう、と思ってやっていたのですが、その内本性が(?)出始めて、ぐだぐだと埒も無いことを書き連ねるようになってしまったのであります。人間、猫被ってるのにも限界があるのです。まぁ、本性出てしまったものは今更引っ込みがつきません<引っ込めろよ
それにしても、いつも思うのだけど、一体どなたが読んでおられるのでしょうね。不徳の致す所ながら、コメントもTBも大して付かないので(ま、コメントはDoblogメンバーに限ってしまっているのも大きいですが)、一体どうなっているのだろうと思っているのですが。どこぞでさらし者にでもなっているのでしょうか。失礼ながら、いわゆる落語のアレでしょうか。「いやぁ、あいつは本当に暇な奴だねぇ。昨日も一日中釣れもしないのに、ずーっと釣り糸垂れて待ってやがったよ。朝から晩まで!本当だって!俺、ずーっと見てたんだもん。」
.........すみません。これは本当に失礼ですね(^^;
さて本題。
ゲルハルト・オピッツ。近年は毎年冬に来日して、オペラシティでベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会を続けています。ヴィルヘルム・ケンプの弟子で、ドイツの正統派ピアニスト、なんだそうです。一度聞いたことがありますが、むしろやや軽めの音で、正直言うと「ドイツの正統的」って感じはあまりしなかったですけどね。まぁ、それは、「ドイツの正統」に対する偏見かも知れないし。
でも、確かに、ケンプも録音で聞く限りでは重々しい音では無いよなぁ、などと思ったりもするのではあります。
そのオピッツが、独Haensslerに、ベートーヴェンのソナタを録音しています。一応全集になるのかな?これはその1枚。22番、24番と29番「ハンマークラヴィーア」を収録しています。少々異端的な3曲の組み合わせ。
これが、オピッツのやや軽め - というより軽快と言った方がいいのかも知れませんね - の音によく合うのです。録音も微妙に違えていて、前二曲はいずれも二楽章構成で、基本的に全部アレグロ楽章なのですが、これが臨場感溢れるなかなか楽しい聞き物。ベートーヴェンには珍しく機嫌の良い音楽というのも合ってます。
一方、「ハンマークラヴィーア」は、ちょっと引いた感じの録音で、演奏も力押しすることもない品のいい演奏。これがなかなか趣味が良くていいのです。大体が、ハンマークラヴィーア、ついつい「大曲」らしく弾いてしまう演奏も少なくないのですが、考えてみれば「長い」=「大曲」、というわけでもありませんからね。
いや、確かに大曲ではあるのだろうと思います。でも、大仰に表現してみたり、徒に声を荒げてみたりすればいいのか、というと、それはそうでもないわけで。力こぶを入れてみせることが、こういう曲を弾く秘訣というわけでもないだろう、と言っているかのような演奏。この演奏を聞いていると、確かに大曲だけれど、この曲、最後の3つのソナタと地続きなのだな、と思わされるような繊細さを感じるのです。
となれば、やはり、オピッツの「最後の三曲」も聞いてみたいのではありますが.......出てるのかな?出てるよなぁ?今度探してみよう......
Gerhard Oppitz (piano)
Haenssler classic CD98.207
おかげさまで、アクセス数が累計8万件を超えました。このblog、2005年の6月から始めてますから、この6月で丸3年になります。合計すれば1日平均70アクセスくらい、でしょうか。随分前にも書いたけど、毎日更新するでなく、画像も載せない、と、人気の出る要素をことごとく回避している筈なのに、よくお越し頂けるものです。御礼申し上げます。
それはいいんですが、最近、昔の記事を読み返してみたのですが..........なんか理屈っぽくなってますねぇ、近年。書くことが。始めた頃は、せいぜい5行くらいの記事しか書いてないですもんね。今じゃ、下手すると一つの記事でその10倍くらい書いてるし。
まぁ、正直言うと、以前は「あまりぐだぐだ書かないようにしよう」と心がけて、軽い内容で気楽にやって行こう、と思ってやっていたのですが、その内本性が(?)出始めて、ぐだぐだと埒も無いことを書き連ねるようになってしまったのであります。人間、猫被ってるのにも限界があるのです。まぁ、本性出てしまったものは今更引っ込みがつきません<引っ込めろよ
それにしても、いつも思うのだけど、一体どなたが読んでおられるのでしょうね。不徳の致す所ながら、コメントもTBも大して付かないので(ま、コメントはDoblogメンバーに限ってしまっているのも大きいですが)、一体どうなっているのだろうと思っているのですが。どこぞでさらし者にでもなっているのでしょうか。失礼ながら、いわゆる落語のアレでしょうか。「いやぁ、あいつは本当に暇な奴だねぇ。昨日も一日中釣れもしないのに、ずーっと釣り糸垂れて待ってやがったよ。朝から晩まで!本当だって!俺、ずーっと見てたんだもん。」
.........すみません。これは本当に失礼ですね(^^;
さて本題。
ゲルハルト・オピッツ。近年は毎年冬に来日して、オペラシティでベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会を続けています。ヴィルヘルム・ケンプの弟子で、ドイツの正統派ピアニスト、なんだそうです。一度聞いたことがありますが、むしろやや軽めの音で、正直言うと「ドイツの正統的」って感じはあまりしなかったですけどね。まぁ、それは、「ドイツの正統」に対する偏見かも知れないし。
でも、確かに、ケンプも録音で聞く限りでは重々しい音では無いよなぁ、などと思ったりもするのではあります。
そのオピッツが、独Haensslerに、ベートーヴェンのソナタを録音しています。一応全集になるのかな?これはその1枚。22番、24番と29番「ハンマークラヴィーア」を収録しています。少々異端的な3曲の組み合わせ。
これが、オピッツのやや軽め - というより軽快と言った方がいいのかも知れませんね - の音によく合うのです。録音も微妙に違えていて、前二曲はいずれも二楽章構成で、基本的に全部アレグロ楽章なのですが、これが臨場感溢れるなかなか楽しい聞き物。ベートーヴェンには珍しく機嫌の良い音楽というのも合ってます。
一方、「ハンマークラヴィーア」は、ちょっと引いた感じの録音で、演奏も力押しすることもない品のいい演奏。これがなかなか趣味が良くていいのです。大体が、ハンマークラヴィーア、ついつい「大曲」らしく弾いてしまう演奏も少なくないのですが、考えてみれば「長い」=「大曲」、というわけでもありませんからね。
いや、確かに大曲ではあるのだろうと思います。でも、大仰に表現してみたり、徒に声を荒げてみたりすればいいのか、というと、それはそうでもないわけで。力こぶを入れてみせることが、こういう曲を弾く秘訣というわけでもないだろう、と言っているかのような演奏。この演奏を聞いていると、確かに大曲だけれど、この曲、最後の3つのソナタと地続きなのだな、と思わされるような繊細さを感じるのです。
となれば、やはり、オピッツの「最後の三曲」も聞いてみたいのではありますが.......出てるのかな?出てるよなぁ?今度探してみよう......
2008/05/25のBlog
[ 21:49 ]
[ クラシック ]
Schweizer Musik fuer Floete und Klavier aus der Mitte des 20.Jahrhunderts
Werner Wehrli : suite, op.16 / Sonata, op.54
Robert Oboussier : Pavane et Gaillarde
Constantin Regamey : Sonatina
Peter Mieg : Sonate
Thomas Straessle (floete)
Christian Zaugg (Klavier)
MIGROS MUSIQUES SUISSES MGB CD 6222
例えば、日本のレコード会社は、儲からないと言いながらも、一応、日本の作曲家や音楽家の演奏を録音して発売してくれたりします。まぁ、一種の自国文化支援みたいなもんですね。
どうしても日本はクラシック音楽プロパーの国ではないから、こういうことが必要。ヨーロッパ諸国はそんな必要も無い.....かというと、これがそうでもなかったりします。UKには、ニムバスやシャンドス、ハイペリオンといったレーベルがあって、自国の作曲家や演奏家の作品を多く録音しています。どうしても、クラシック音楽の世界で見れば、特に作曲関係ではUKは非主流ですから、仕方ないかもしれません。
もう一つ、大陸にある、いわゆるクラシック音楽の中心地の一つのような顔をして、実は辺境地区、という場所があります。スイス。
はい。ここで、スイスの作曲家を挙げて下さい、と言われて、挙がりますか?俄には出てこないのではないでしょうか。私は、よく知りません。
元々スイスは、周りを取り囲むドイツ・フランス・イタリアという3つの大国の文化圏に属する人達で成っている国です。つまり、元々民族国家ではない上に、州の集まりから成る連邦国家です。独自の文化が無い訳では無いけれど、それは事実上少数民族と言うべき位置付けですし、そもそもスイス国全体を代表する文化というわけではない。
クラシック音楽で言えば、そうした文化を育む宮廷はなかったし、都市に育った筈のブルジョワ層も、厳格なプロテスタントが多い土地柄もあって、華やかな音楽文化には繋がらなかったのでしょう。
そんなスイスには、自国の音楽を積極的に取り上げているレーベルが2つあります。一つは、これは結構有名なClaves。そしてもう一つが、MIGROS。スイスのスーパーマーケット・チェーン、MIGROSが持っているレーベルなのです。Clavesが言わば「普通の」レコード会社なので、決してスイスに特化しているとは限らない(ベルガンサのスペイン歌曲集なんかを出していましたし)のに対し、MIGROSはかなりラディカルな方針を採ってます。即ち、伝統音楽から現代音楽まで、スイスの音楽に特化していること。特に、20世紀のスイス作曲家の作品について積極的に録音しています。いや、さすがにここまで付き合うのは大変.......
にも関わらずお値段はフルプライス。なので、たまに投げ売りセールの中に入っているのを拾って来るぐらいなのですが。演奏、録音は、結構質がいいので、面白いには面白いのです。
んでもって、そんな経緯で入手したのがこれ。20世紀中期の、フルートとピアノの為のスイス音楽。うーん。そうは言うものの、幾らなんでも、なんでこんなの買ったんだっけ(笑)
と言っても、そう突拍子も無い音楽でもありません。ここで取り上げられている作曲家は4人ですが、最初に取り上げられているヴェールリ(と読むのでしょうか?この、Wehrli という綴り)の作品など、調性感ばっちりの後期ロマン派と呼ぶに相応しい作品です。むしろ肩透かしにあったようで、物足りないくらい(謎)まぁ、1921年の作品ですから、そんな所なのでしょう。
とはいえ、ここで取り上げられている作品、率直に言えばあまり現代音楽してい
ません。元々、フルートとピアノの二重奏、という組み合わせも、あまりとんがった方向に行きにくい組み合わせかも知れませんし。ただ、時期的には、先の1921年の作曲を筆頭に、最も新しい年代のものでも1963年の作ですから、やはり作品としては随分聞きやすいのかも知れません。
実際、メロディアスと言っていい作品が多いのです。20世紀音楽の、旋律や和声体系を解体して、バラバラにすることに目的があるような風の音楽が無い。まぁ、最近は、むしろそういう音楽の方が主流だった、ということになってるのかも知れませんが、ともあれ、これは聞いて「時間の無駄だったー!」と思わせない(その種の「先進的音楽」こそ20世紀音楽!という向きには時間の無駄と言わしめるかも知れませんが....)作品群です。
まぁ、普通に買うと高いし、気軽に「お勧めします」というようなCDでは御座いませんが、何処ぞの投げ売りセールで巡り会ったらどうぞ、てなとこでしょうか。
Werner Wehrli : suite, op.16 / Sonata, op.54
Robert Oboussier : Pavane et Gaillarde
Constantin Regamey : Sonatina
Peter Mieg : Sonate
Thomas Straessle (floete)
Christian Zaugg (Klavier)
MIGROS MUSIQUES SUISSES MGB CD 6222
例えば、日本のレコード会社は、儲からないと言いながらも、一応、日本の作曲家や音楽家の演奏を録音して発売してくれたりします。まぁ、一種の自国文化支援みたいなもんですね。
どうしても日本はクラシック音楽プロパーの国ではないから、こういうことが必要。ヨーロッパ諸国はそんな必要も無い.....かというと、これがそうでもなかったりします。UKには、ニムバスやシャンドス、ハイペリオンといったレーベルがあって、自国の作曲家や演奏家の作品を多く録音しています。どうしても、クラシック音楽の世界で見れば、特に作曲関係ではUKは非主流ですから、仕方ないかもしれません。
もう一つ、大陸にある、いわゆるクラシック音楽の中心地の一つのような顔をして、実は辺境地区、という場所があります。スイス。
はい。ここで、スイスの作曲家を挙げて下さい、と言われて、挙がりますか?俄には出てこないのではないでしょうか。私は、よく知りません。
元々スイスは、周りを取り囲むドイツ・フランス・イタリアという3つの大国の文化圏に属する人達で成っている国です。つまり、元々民族国家ではない上に、州の集まりから成る連邦国家です。独自の文化が無い訳では無いけれど、それは事実上少数民族と言うべき位置付けですし、そもそもスイス国全体を代表する文化というわけではない。
クラシック音楽で言えば、そうした文化を育む宮廷はなかったし、都市に育った筈のブルジョワ層も、厳格なプロテスタントが多い土地柄もあって、華やかな音楽文化には繋がらなかったのでしょう。
そんなスイスには、自国の音楽を積極的に取り上げているレーベルが2つあります。一つは、これは結構有名なClaves。そしてもう一つが、MIGROS。スイスのスーパーマーケット・チェーン、MIGROSが持っているレーベルなのです。Clavesが言わば「普通の」レコード会社なので、決してスイスに特化しているとは限らない(ベルガンサのスペイン歌曲集なんかを出していましたし)のに対し、MIGROSはかなりラディカルな方針を採ってます。即ち、伝統音楽から現代音楽まで、スイスの音楽に特化していること。特に、20世紀のスイス作曲家の作品について積極的に録音しています。いや、さすがにここまで付き合うのは大変.......
にも関わらずお値段はフルプライス。なので、たまに投げ売りセールの中に入っているのを拾って来るぐらいなのですが。演奏、録音は、結構質がいいので、面白いには面白いのです。
んでもって、そんな経緯で入手したのがこれ。20世紀中期の、フルートとピアノの為のスイス音楽。うーん。そうは言うものの、幾らなんでも、なんでこんなの買ったんだっけ(笑)
と言っても、そう突拍子も無い音楽でもありません。ここで取り上げられている作曲家は4人ですが、最初に取り上げられているヴェールリ(と読むのでしょうか?この、Wehrli という綴り)の作品など、調性感ばっちりの後期ロマン派と呼ぶに相応しい作品です。むしろ肩透かしにあったようで、物足りないくらい(謎)まぁ、1921年の作品ですから、そんな所なのでしょう。
とはいえ、ここで取り上げられている作品、率直に言えばあまり現代音楽してい
ません。元々、フルートとピアノの二重奏、という組み合わせも、あまりとんがった方向に行きにくい組み合わせかも知れませんし。ただ、時期的には、先の1921年の作曲を筆頭に、最も新しい年代のものでも1963年の作ですから、やはり作品としては随分聞きやすいのかも知れません。
実際、メロディアスと言っていい作品が多いのです。20世紀音楽の、旋律や和声体系を解体して、バラバラにすることに目的があるような風の音楽が無い。まぁ、最近は、むしろそういう音楽の方が主流だった、ということになってるのかも知れませんが、ともあれ、これは聞いて「時間の無駄だったー!」と思わせない(その種の「先進的音楽」こそ20世紀音楽!という向きには時間の無駄と言わしめるかも知れませんが....)作品群です。
まぁ、普通に買うと高いし、気軽に「お勧めします」というようなCDでは御座いませんが、何処ぞの投げ売りセールで巡り会ったらどうぞ、てなとこでしょうか。
