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2008/09/16のBlog
[ 21:51 ]
[ 読書 ]
最近高校生を教えるようになって気付いたが、おれはかなり頭いいんだな(よかったんだな)と思った。
自分の中で、これぐらい教わったらこれぐらい理解できるはずだ、というレベルが明らかに異なっている。そのレベルにいるのはクラスに平均二人ぐらい。
100人いたら、まあ3~4人。
進学校でそれだから、おどろく。
正直に、びっくりした。
能力差というか、個人差というのは如実にあるんだと実感した。
全校で、名門大学に行くのは10名そこそこか。
まあそんなとこだろう。
しかし、びっくりした。
みんな、本当にわかってなかったんだな、と、なんだか、本当にわかった気がした。
ま、それはいいとして、最近、大学院時代からの友人と話していて、学問をすることの意義、または興奮はどこにあるかという話になり、結論として
「自分の中の常識が覆されていく」
ことだということになった。
満足できる結論だ。
学問とは、
「役に立つから」ではなく、
「自分を高めてくれる」からでもなく、
まして「世の中のためになる」からやるものでもない。
単に自身の知的興奮の探究、それが学問だと思う。
それ以外に学問をやる動機などやすっぽい自己欺瞞以外の何物でもない。
さて、
「凡人として生きるということ」
本書には、残念ながら既知の知識だけで「覆される」ことは何もなかった。
自分の中で、これぐらい教わったらこれぐらい理解できるはずだ、というレベルが明らかに異なっている。そのレベルにいるのはクラスに平均二人ぐらい。
100人いたら、まあ3~4人。
進学校でそれだから、おどろく。
正直に、びっくりした。
能力差というか、個人差というのは如実にあるんだと実感した。
全校で、名門大学に行くのは10名そこそこか。
まあそんなとこだろう。
しかし、びっくりした。
みんな、本当にわかってなかったんだな、と、なんだか、本当にわかった気がした。
ま、それはいいとして、最近、大学院時代からの友人と話していて、学問をすることの意義、または興奮はどこにあるかという話になり、結論として
「自分の中の常識が覆されていく」
ことだということになった。
満足できる結論だ。
学問とは、
「役に立つから」ではなく、
「自分を高めてくれる」からでもなく、
まして「世の中のためになる」からやるものでもない。
単に自身の知的興奮の探究、それが学問だと思う。
それ以外に学問をやる動機などやすっぽい自己欺瞞以外の何物でもない。
さて、
「凡人として生きるということ」
本書には、残念ながら既知の知識だけで「覆される」ことは何もなかった。
2008/08/26のBlog
[ 22:17 ]
[ 読書 ]
書くことがないというわけでもないし、特別忙しいというわけでもない。
今はやらなければならないことがはっきりしているので、それほど書く必要がない、といったところか。
とはいえ、田舎の進学校。
一般の目線で見れば、忙しくないわけはない。
いやいや、まあ普通に言えば、田舎の進学校ほど忙しい場所はあまりないだろう。
課外・授業・校務でやることが山積している。
周りの連中と比べても、明らかに普通の社会人より教員のほうが忙しい。
一般的にいえば、今、教員の忙しさは臨界点一歩手前まで来ていると思う。
世の先生方はわかるでしょう、先生は忙しい。
ただ、「忙しさ」の質が問題で、今になって大学院でのあの極限状態を体験してみれば、「社会人」の忙しさも別にどうってことはない。
誤解されそうだから、単純にまず言おう、うん、そう、今の生活は忙しい。
だが、それは空虚な忙しさと言うべきもので、終わりが決まっている「塗り絵」をひたすら塗りつぶしているような感覚に近い。
確かに教員一年目、授業準備にも人一倍時間がかかるが、「塗り絵」である以上、特に焦りはない。「かったるい」という感じに近い。
そういえば、「論理的である、とは冗長である、ということなのだ」とは大森荘蔵の言葉だが、それを強く思い出す。
社会人であるとは、まず、冗長である、ということなのだろう。
仕事はそこそここなしており、同期の先生連中から聞くような、上司の先生からの叱咤もない。
※
感じることといえば田舎の哀しさ、それだけは強く感じる。
田舎は自然があって、素朴な学生がいて、云々、という牧歌的なイメージを持ち続けている人には伝わりにくいだろうが、田舎の閉塞、これに一番辟易とさせられる。言うまでもなく、田舎は単なる田舎であってまさしくパノプティコンそのままだと俺は思う。監視し、監視され、監視を文化とする。俺はこの状況に音を上げたならば、また東京に戻ると思う。今は先のことはわからない。
※
色んな仕事が同時に押し寄せてきたとき、大変だとは思ったが、テンパることはなかった。初体験の仕事で結構わからないことばかりだったが、プレッシャーは全くなかった。
これを「忙しい」ということには俺は若干の抵抗を感じる。これは「忙しい」のではなく、「かったるい」と呼ぶべきだろう。こんな「かったるい」生活を全国何十万・何百万の人々が過ごしている事実は奇跡としか思えない。
数ヶ月前までの生活は、テンパりの連続だった。
自分の持てる能力を極限まで出し切って、なおかつ血反吐を吐いた。
その体験からすれば、今の社会人生活で、特にテンパりというテンパりはいまだない。
あるのは、「塗り絵」のイメージだけである。
最近ふと「岬」が読みたくなり再読したが、やはり素晴らしい本だと思った。
社会人になると本を読む時間がなくなるなどという人がいるが、そういう人は元々本など読みたくない人なのだろう。
今はやらなければならないことがはっきりしているので、それほど書く必要がない、といったところか。
とはいえ、田舎の進学校。
一般の目線で見れば、忙しくないわけはない。
いやいや、まあ普通に言えば、田舎の進学校ほど忙しい場所はあまりないだろう。
課外・授業・校務でやることが山積している。
周りの連中と比べても、明らかに普通の社会人より教員のほうが忙しい。
一般的にいえば、今、教員の忙しさは臨界点一歩手前まで来ていると思う。
世の先生方はわかるでしょう、先生は忙しい。
ただ、「忙しさ」の質が問題で、今になって大学院でのあの極限状態を体験してみれば、「社会人」の忙しさも別にどうってことはない。
誤解されそうだから、単純にまず言おう、うん、そう、今の生活は忙しい。
だが、それは空虚な忙しさと言うべきもので、終わりが決まっている「塗り絵」をひたすら塗りつぶしているような感覚に近い。
確かに教員一年目、授業準備にも人一倍時間がかかるが、「塗り絵」である以上、特に焦りはない。「かったるい」という感じに近い。
そういえば、「論理的である、とは冗長である、ということなのだ」とは大森荘蔵の言葉だが、それを強く思い出す。
社会人であるとは、まず、冗長である、ということなのだろう。
仕事はそこそここなしており、同期の先生連中から聞くような、上司の先生からの叱咤もない。
※
感じることといえば田舎の哀しさ、それだけは強く感じる。
田舎は自然があって、素朴な学生がいて、云々、という牧歌的なイメージを持ち続けている人には伝わりにくいだろうが、田舎の閉塞、これに一番辟易とさせられる。言うまでもなく、田舎は単なる田舎であってまさしくパノプティコンそのままだと俺は思う。監視し、監視され、監視を文化とする。俺はこの状況に音を上げたならば、また東京に戻ると思う。今は先のことはわからない。
※
色んな仕事が同時に押し寄せてきたとき、大変だとは思ったが、テンパることはなかった。初体験の仕事で結構わからないことばかりだったが、プレッシャーは全くなかった。
これを「忙しい」ということには俺は若干の抵抗を感じる。これは「忙しい」のではなく、「かったるい」と呼ぶべきだろう。こんな「かったるい」生活を全国何十万・何百万の人々が過ごしている事実は奇跡としか思えない。
数ヶ月前までの生活は、テンパりの連続だった。
自分の持てる能力を極限まで出し切って、なおかつ血反吐を吐いた。
その体験からすれば、今の社会人生活で、特にテンパりというテンパりはいまだない。
あるのは、「塗り絵」のイメージだけである。
最近ふと「岬」が読みたくなり再読したが、やはり素晴らしい本だと思った。
社会人になると本を読む時間がなくなるなどという人がいるが、そういう人は元々本など読みたくない人なのだろう。
2008/07/17のBlog
[ 22:57 ]
最近、歎異抄を読み始めたが、爆裂的におもしろい。
こんな本を読むこともひとつの「教材研究」という名で通ってしまうなら教師という仕事はやめられまへんで、という感じである。
さて、同勤のパートナーの先生が運良く素晴らしい先生で、おれのやりたいようにやらせてもらっている。
同期の奴の話を聞くと、かなりキツい指導を受けている奴もいるようだが、教育実習さながら、指導教官には恵まれている。
さて、俺が教えているクラス、結構ありえない指導法だが、なんと昨日行われた定期テストや小テストではなかなかの高得点をマークした。パートナーの先生は超ベテランで、指導技術は最高のものを持っていらっしゃるが、この先生とさほど差のない指導ができているということは奇跡的なことで、現在の教え子が受験するときにはどこまで伸びているか、非常に楽しみだ。
個人的な目標として、平年の本校の偏差値+5を目標としているが、主要教科でこれをマークすることができたら学校にとって「事件」であることは間違いない。「平年の本校の偏差値+5」というのはそれくらいあり得ないことなのである。しかし、現実的に可能だと思っているし、今のところ順調にコトは進んでいる。
担当クラスでは、おれのことを「師匠」と呼ぶ奴がいる。
他にも色々あるが、彼らの期待を裏切らないようにしたいと思う。
俺が押さえているのはいわゆる「やんちゃ」な奴等である。
俺は彼らの気持ちがよくわかるし、彼らに期待することはとても大事なことだと思う。
男女共学校だが、女子はほとんど無視している。
女子は放っておいても大丈夫だからである。
男子の元気のいい奴等のエネルギーを「正しい」方向に導くことができれば、高校のクラスはうまくいく。
しかし居眠りの指導はもちろん、その他一切の「指導」と呼ばれる指導は行っていない。「静かにしろ」とか、そういうことである。まだ一度も声を荒げたことすらない。
そういった指導は、「無意味」ではないが、「無意義」になりやすい。ただそのことだけに気をつけたいだけだ。学校には無駄な仕事が多い、というのはひとつの感想である。
最初は楽な教師だ、とか思っていた奴もいたようだが、
「勉強とはおまえらの自身ためにするものだ」「自分をスポイルするな」
とか真顔で言い続ける教師に興味を示したのかもしれない。
しかし、「指導」はいずれすると思う。当然の話だ。
俺がやりたくないのは、というよりなりたくないのは、いわゆる「狼少年現象」である。
教師にしても、親にしても、小言を始終言い続けていると、「指導」そのものの効果は薄れる。本当に大事なこと、絶対に指導しなければならないこと、それが訪れればイヤでも指導するだろう。たとえば「イジメ」。
そのときに真顔で起こっても効果がないとすれば、それは「罪」だと思う。
ともかく、かなり異常な教師の道を歩き始めたが、教科指導、受験指導で実績を残すことが手っ取り早い、というよりそれが現実に求められていることだから、それで結果を残す。正直にいえば今の関心ごとはそれしかないが、子供にストレスゼロでそれを達成することができたら凄いことに違いない。
とはいえ、「おもしろおかしく日々を過ごす。」
これが一番大事だし、言い続けたいことだし、
「人生なんていつ終わりがくるかわからねぇぞ!?」
核心部分だけいえば、そういうことだけである。
眠りこけているヒマはないし、やりたくないことをやっているヒマもない。
もちろん、面白くもないことをやっているヒマもないし、マイナス思考に陥っている場合でもない。
ただ、それだけである。
こんな本を読むこともひとつの「教材研究」という名で通ってしまうなら教師という仕事はやめられまへんで、という感じである。
さて、同勤のパートナーの先生が運良く素晴らしい先生で、おれのやりたいようにやらせてもらっている。
同期の奴の話を聞くと、かなりキツい指導を受けている奴もいるようだが、教育実習さながら、指導教官には恵まれている。
さて、俺が教えているクラス、結構ありえない指導法だが、なんと昨日行われた定期テストや小テストではなかなかの高得点をマークした。パートナーの先生は超ベテランで、指導技術は最高のものを持っていらっしゃるが、この先生とさほど差のない指導ができているということは奇跡的なことで、現在の教え子が受験するときにはどこまで伸びているか、非常に楽しみだ。
個人的な目標として、平年の本校の偏差値+5を目標としているが、主要教科でこれをマークすることができたら学校にとって「事件」であることは間違いない。「平年の本校の偏差値+5」というのはそれくらいあり得ないことなのである。しかし、現実的に可能だと思っているし、今のところ順調にコトは進んでいる。
担当クラスでは、おれのことを「師匠」と呼ぶ奴がいる。
他にも色々あるが、彼らの期待を裏切らないようにしたいと思う。
俺が押さえているのはいわゆる「やんちゃ」な奴等である。
俺は彼らの気持ちがよくわかるし、彼らに期待することはとても大事なことだと思う。
男女共学校だが、女子はほとんど無視している。
女子は放っておいても大丈夫だからである。
男子の元気のいい奴等のエネルギーを「正しい」方向に導くことができれば、高校のクラスはうまくいく。
しかし居眠りの指導はもちろん、その他一切の「指導」と呼ばれる指導は行っていない。「静かにしろ」とか、そういうことである。まだ一度も声を荒げたことすらない。
そういった指導は、「無意味」ではないが、「無意義」になりやすい。ただそのことだけに気をつけたいだけだ。学校には無駄な仕事が多い、というのはひとつの感想である。
最初は楽な教師だ、とか思っていた奴もいたようだが、
「勉強とはおまえらの自身ためにするものだ」「自分をスポイルするな」
とか真顔で言い続ける教師に興味を示したのかもしれない。
しかし、「指導」はいずれすると思う。当然の話だ。
俺がやりたくないのは、というよりなりたくないのは、いわゆる「狼少年現象」である。
教師にしても、親にしても、小言を始終言い続けていると、「指導」そのものの効果は薄れる。本当に大事なこと、絶対に指導しなければならないこと、それが訪れればイヤでも指導するだろう。たとえば「イジメ」。
そのときに真顔で起こっても効果がないとすれば、それは「罪」だと思う。
ともかく、かなり異常な教師の道を歩き始めたが、教科指導、受験指導で実績を残すことが手っ取り早い、というよりそれが現実に求められていることだから、それで結果を残す。正直にいえば今の関心ごとはそれしかないが、子供にストレスゼロでそれを達成することができたら凄いことに違いない。
とはいえ、「おもしろおかしく日々を過ごす。」
これが一番大事だし、言い続けたいことだし、
「人生なんていつ終わりがくるかわからねぇぞ!?」
核心部分だけいえば、そういうことだけである。
眠りこけているヒマはないし、やりたくないことをやっているヒマもない。
もちろん、面白くもないことをやっているヒマもないし、マイナス思考に陥っている場合でもない。
ただ、それだけである。
2008/06/06のBlog
[ 23:15 ]
[ 読書 ]
はい、どうも、ご無沙汰です、働き始めました。教員です、ええ。
やめてもよかったけど、読んでくださる方もいらっしゃるようなので、続けようかと。
さて、思いもしなかった、母校から声がかかった。
で、まあ、勤務、実際のところ、楽勝か、シンドイか、どっちかって言われたら、即答で「楽勝。」
ただ、古典・漢文が全くわからないのが困った。
授業中間違えまくり。けど、一年か二年、教えながらこっちも勉強できるんだから、けっこう楽しい。ラッキー。ただ、漢字は間違える、読みも間違える、授業態度の指導はしない、ある意味ではけっこうひどい教師だと思う。進学校でこれはやはりありえないんだろうと思う。普通に考えて、生徒の謀反が起きてもおかしくはない状況。
あの、授業態度の指導をしない、というのは、たとえば寝ている生徒がいても一切起こさない、うるさくても「うるさいぞー」なんて面倒くさいことイチイチ言わないとか、そういうこと。俺は一切そういう指導はしたくない。理想は、そういう指導一切なしで、生徒がみな礼儀も挨拶もキチンとしていること。え?そんなのムリだって?ムリだと思ってたらそりゃムリでしょうよ。でも今のところ一切そういう指導してないのに授業崩壊してないからとりあえずオッケー。それだけでもある意味奇跡だけど。
それに、まず言えるのは、惹きつけられる魅力的な授業をすれば、彼らは聞くはずだと思うから。
寝るってことは、授業が魅力的じゃないんだというバロメーターになるから、それを力で押さえつけてもしょうがない。だから、あと一・二年あれば、と思うけど、残念ながら今の俺にはまだそれほどの魅力的な授業を展開する力がない。でも、ありがたいのは、生徒は今のところ俺に対して悪い感情は持っていないだろうということ。ヒドい授業やっても聞いてくれるし、フォローしてくれる。ありがたいと思う。それなりに授業以外のところで魅力的でもなければならないと思う。
思うに、国語の授業というのは、おそらく最も講義するのが難しい教科だろうと思う。
現代文が特に難しいらしい(というのは、もちろん単に<教える>というのが難しいのではなく、<魅力的な授業>を展開するのが難しいということだ)。けれども、俺は全く逆で、古文・漢文がとにかくしんどい。読んでないし、わからない。俺は高校のとき一番わからなかった、成績が悪かった教科が国語なのだ。今のところ、サッパリわからない。生徒と一緒に学んでいるが、ただ、受験レベルのことなら、集中的にやれば二・三週間で全部理解できるとは思う。でも、他の仕事も忙しいし、べつに生徒と一緒にやればいいかなと思ってる。それに、最近読んだ方丈記、これがなかなか面白く、おう、いいじゃん古典。って感じで古典をこれから色々読むと思う。「ゆく川の流れは~」なんて、なかなかいいよね。古典を読みたかったから、ちょうどいいと思う。うーん、ラッキーだ。
あまり詳しく書くと素性がバレる恐れがあるので何一つ詳しく書けないのがもどかしいが、なかなかユニークな教師だと思う。しかし、自分の中で悔しいのは、古文・漢文が全く分からないということだ。そう、俺は古文・漢文が全くわからない。だから、あと三年、いや、二年欲しい。それだけあれば、必ずカリスマ教師になってみせる。それだけの自信と過信はある。
やっぱり、今のこの学校の教育方針、ほとんどすべてに「NO」と言いたい。俺があと二・三年、誰にもグウの音も言わせなくなったら、やりたい放題言わせてもらおうと思っている。しかし、それまでは、力がいる。俺はいま誰にも文句を言わせないための力を蓄える時期だと思っているし、かといって時間がかかり過ぎてもダメだ。あと二年。二年経ったら動く。今のこんなクソ教育を押し付けられている子供を今救えないのがもどかしいし、無力感を感じる。ただ、あと二年待っていて欲しい。
だから、充実しているといえばしているが、焦燥感も同じ程度に募っている。
子供たちは、うん、かわいい。
この子供たちに素晴らしい未来を歩んでいって欲しい。
この子供たちの人生を少しでも豊かにする手助けができれば、と思う。
その感慨は、おれの予想外だったし、そういう意味では教師に向いているのかもしれない。
やめてもよかったけど、読んでくださる方もいらっしゃるようなので、続けようかと。
さて、思いもしなかった、母校から声がかかった。
で、まあ、勤務、実際のところ、楽勝か、シンドイか、どっちかって言われたら、即答で「楽勝。」
ただ、古典・漢文が全くわからないのが困った。
授業中間違えまくり。けど、一年か二年、教えながらこっちも勉強できるんだから、けっこう楽しい。ラッキー。ただ、漢字は間違える、読みも間違える、授業態度の指導はしない、ある意味ではけっこうひどい教師だと思う。進学校でこれはやはりありえないんだろうと思う。普通に考えて、生徒の謀反が起きてもおかしくはない状況。
あの、授業態度の指導をしない、というのは、たとえば寝ている生徒がいても一切起こさない、うるさくても「うるさいぞー」なんて面倒くさいことイチイチ言わないとか、そういうこと。俺は一切そういう指導はしたくない。理想は、そういう指導一切なしで、生徒がみな礼儀も挨拶もキチンとしていること。え?そんなのムリだって?ムリだと思ってたらそりゃムリでしょうよ。でも今のところ一切そういう指導してないのに授業崩壊してないからとりあえずオッケー。それだけでもある意味奇跡だけど。
それに、まず言えるのは、惹きつけられる魅力的な授業をすれば、彼らは聞くはずだと思うから。
寝るってことは、授業が魅力的じゃないんだというバロメーターになるから、それを力で押さえつけてもしょうがない。だから、あと一・二年あれば、と思うけど、残念ながら今の俺にはまだそれほどの魅力的な授業を展開する力がない。でも、ありがたいのは、生徒は今のところ俺に対して悪い感情は持っていないだろうということ。ヒドい授業やっても聞いてくれるし、フォローしてくれる。ありがたいと思う。それなりに授業以外のところで魅力的でもなければならないと思う。
思うに、国語の授業というのは、おそらく最も講義するのが難しい教科だろうと思う。
現代文が特に難しいらしい(というのは、もちろん単に<教える>というのが難しいのではなく、<魅力的な授業>を展開するのが難しいということだ)。けれども、俺は全く逆で、古文・漢文がとにかくしんどい。読んでないし、わからない。俺は高校のとき一番わからなかった、成績が悪かった教科が国語なのだ。今のところ、サッパリわからない。生徒と一緒に学んでいるが、ただ、受験レベルのことなら、集中的にやれば二・三週間で全部理解できるとは思う。でも、他の仕事も忙しいし、べつに生徒と一緒にやればいいかなと思ってる。それに、最近読んだ方丈記、これがなかなか面白く、おう、いいじゃん古典。って感じで古典をこれから色々読むと思う。「ゆく川の流れは~」なんて、なかなかいいよね。古典を読みたかったから、ちょうどいいと思う。うーん、ラッキーだ。
あまり詳しく書くと素性がバレる恐れがあるので何一つ詳しく書けないのがもどかしいが、なかなかユニークな教師だと思う。しかし、自分の中で悔しいのは、古文・漢文が全く分からないということだ。そう、俺は古文・漢文が全くわからない。だから、あと三年、いや、二年欲しい。それだけあれば、必ずカリスマ教師になってみせる。それだけの自信と過信はある。
やっぱり、今のこの学校の教育方針、ほとんどすべてに「NO」と言いたい。俺があと二・三年、誰にもグウの音も言わせなくなったら、やりたい放題言わせてもらおうと思っている。しかし、それまでは、力がいる。俺はいま誰にも文句を言わせないための力を蓄える時期だと思っているし、かといって時間がかかり過ぎてもダメだ。あと二年。二年経ったら動く。今のこんなクソ教育を押し付けられている子供を今救えないのがもどかしいし、無力感を感じる。ただ、あと二年待っていて欲しい。
だから、充実しているといえばしているが、焦燥感も同じ程度に募っている。
子供たちは、うん、かわいい。
この子供たちに素晴らしい未来を歩んでいって欲しい。
この子供たちの人生を少しでも豊かにする手助けができれば、と思う。
その感慨は、おれの予想外だったし、そういう意味では教師に向いているのかもしれない。
2008/03/14のBlog
[ 23:52 ]
先日、修士論文が受理され、なんとか卒業の見込みが確定して、あとは卒業を残すのみとなったけど、なんか感慨深いというか、ついにこのときが来たなって感じがする、このブログを書き始めたときにはまだ院に入学もしていなかった頃で、その頃にも色々あったし、それから現在にかけても、色々あった、ほんとに、色々・・ただ、とりあえず卒業が決まったからには院のことはもうどうでもいい。縁を切る。俺はこういうところに必要な人間じゃないと思ったし、それは誰がなんと言おうと間違ってない、俺はここにいるべきじゃないし、ただ誤解されたくないけど悲観とかじゃないんだな、とりあえず故郷・地元に帰るけど高校の教諭にでもなるしかねーべや、という感じで、口を探しているけど、なんせ実家がドイナカなもので、近隣の学校から話が来るか、それが問題、あと一週間かそこらのうちに話が来るらしい、今日、地元の教育委員会の人から電話があったが、どうにか話は来そうだ。たしかにまあこの学歴、教員の話ぐらいは来てもおかしくはないかもしれないけど、ただ、こっちでいくつか紹介してもらった話が実は二つあって、両方ともすごく名門というか、世間的、社会的ステータスから言えば文句ない学校で、あっさり断ったら周りは「え、マジかよ」ってな反応・・特にその片方は最高といってもいいほどのところで、条件は、ステータスでいえば最高のところだったみたいだけど、ハァ・・って感じで、はいどうもすみません、でも、そういうもんだったっけ・・?そんなステータス?いや、当然クソくらえだろ?名門?金?クソくらえだろ?だって俺らはそういう場所にいるんじゃなかったの・・?先日、地元の友人と飲んでいて終盤盛り上がり口にした言葉「俺が九州の教育界を変える。」別に飲んだ勢いでもない。単なる本音で、これぐらいないとやってられんだろ、教員なんて、って話で、今時こんな泥臭い仕事もなかなかないだろうよ、一言で言って、恥ずかしい職業。自分が教育学部を卒業して思ったのは、とりあえず日本の(たとえば)高等学校の教員は詐欺みたいな人たちばっかりだということで、自分が今、この地点に立って振り返って、高校の担任なんてペテン師みたいなもんで「あんた、何にもしらねーのに、よくもしたり顔で俺らに教員ヅラしてくれたな」みたいなルサンチマンで胸いっぱいの心境なんだ、詐欺じゃんって。俺は今思うけど、キレそうになってるけど、とはいえ、これはシステムの問題で、俺の個人的な想いだから俺はおれの生き方で証明する。
ただ、公立学校って所は特に、まあ、俺の言葉で言えば、公立学校なんてところは単なる国の教育機関のチェーン店だから、そこでどこまで教えられるか、スタンスを貫けるかという恐れはあるし、ウぜーんだろーなと思うけど、俺はもう変な自信だけはあるし、やりたい放題やらせてもらう、でも塾・予備校・なんとかスクールみたいな学校を自分で作ろうかと考えたけど、さすがにいきなりそこまでやれるほどじゃないし、でもいつかはやりたいっていうのはあるし、ダメだって思ったらいつでも辞めてやりたい、それぐらいのスタンスで教員やらないとどうしようもないでしょ。現今の「教育」に対する憎しみみたいなものはあるし、でも、ま、劣等性だったよ、そりゃ、俺も確かにヒドかったけど先生は卑劣だったよね、だから俺がこうやってある意味最強の学歴つけて帰って来て、バカみたいにいるおれの同期のダチたちもいずれ上のほうに行くだろうし、そうなったら俺たちの時代がやってくるわけだろ。教育は俺が変えるからあとはお前らもヤレよ、って。
酒の勢いもあったけど、それは勢いだけであって、本音の部分だよね。勢いでそれを出せたけど俺はマジだから。だからまあ、俺が教育界に行くことは、教育界にとってほんと貴重なことであるわけ。勘違い?いや、それぐらい思ってないやつは教育界になんて来て欲しくないわけ。でも、そんな奴ばっかだよな。でも繰り返すけど大丈夫。教育は俺が変える。といっても実際教師になったら愚直にやるだろうね、でも授業はやっぱりぶっ飛んだものになると思うけど。受験教育仕様では当然やらないよね、でもやらなきゃいけないだろ、って?そりゃそうだ、でも、勉強?そんなの、お前らで勝手にやれ、だね。そんな退屈なもの教える気はないし、勉強したいのはこっちだから。おまえらに教えられるほど俺は何も知らないから。けれど、そんなことを言う教師なんていなかったし、したり顔で愚にもつかないこと言ってただけだし、「知を愛する」なんて程遠かったし。でも、「知とは何か」みたいなところから話したいよね、もちろんすごく卑俗なメタファーでさ、まあ、でも、俺は俺の理想の教師になるしかないわけだし、それが間違ってるとしたら、俺はいつでも教師なんて仕事は辞めてやろうと思ってるよ。
・・え、何?頭オカシイ?そう、その通り。
こんな奴はそのうちノタレ死ぬから余計なご心配は無用。それじゃ。
ただ、公立学校って所は特に、まあ、俺の言葉で言えば、公立学校なんてところは単なる国の教育機関のチェーン店だから、そこでどこまで教えられるか、スタンスを貫けるかという恐れはあるし、ウぜーんだろーなと思うけど、俺はもう変な自信だけはあるし、やりたい放題やらせてもらう、でも塾・予備校・なんとかスクールみたいな学校を自分で作ろうかと考えたけど、さすがにいきなりそこまでやれるほどじゃないし、でもいつかはやりたいっていうのはあるし、ダメだって思ったらいつでも辞めてやりたい、それぐらいのスタンスで教員やらないとどうしようもないでしょ。現今の「教育」に対する憎しみみたいなものはあるし、でも、ま、劣等性だったよ、そりゃ、俺も確かにヒドかったけど先生は卑劣だったよね、だから俺がこうやってある意味最強の学歴つけて帰って来て、バカみたいにいるおれの同期のダチたちもいずれ上のほうに行くだろうし、そうなったら俺たちの時代がやってくるわけだろ。教育は俺が変えるからあとはお前らもヤレよ、って。
酒の勢いもあったけど、それは勢いだけであって、本音の部分だよね。勢いでそれを出せたけど俺はマジだから。だからまあ、俺が教育界に行くことは、教育界にとってほんと貴重なことであるわけ。勘違い?いや、それぐらい思ってないやつは教育界になんて来て欲しくないわけ。でも、そんな奴ばっかだよな。でも繰り返すけど大丈夫。教育は俺が変える。といっても実際教師になったら愚直にやるだろうね、でも授業はやっぱりぶっ飛んだものになると思うけど。受験教育仕様では当然やらないよね、でもやらなきゃいけないだろ、って?そりゃそうだ、でも、勉強?そんなの、お前らで勝手にやれ、だね。そんな退屈なもの教える気はないし、勉強したいのはこっちだから。おまえらに教えられるほど俺は何も知らないから。けれど、そんなことを言う教師なんていなかったし、したり顔で愚にもつかないこと言ってただけだし、「知を愛する」なんて程遠かったし。でも、「知とは何か」みたいなところから話したいよね、もちろんすごく卑俗なメタファーでさ、まあ、でも、俺は俺の理想の教師になるしかないわけだし、それが間違ってるとしたら、俺はいつでも教師なんて仕事は辞めてやろうと思ってるよ。
・・え、何?頭オカシイ?そう、その通り。
こんな奴はそのうちノタレ死ぬから余計なご心配は無用。それじゃ。
2008/03/06のBlog
[ 01:25 ]
[ 読書 ]
中学から高校にかけて聴いてきた音楽はシンプルだ。
もし、それがブルーハーツではなく、尾崎豊ではないのならば、それは、イエローモンキーだ。イエモンを聴き始めたきっかけもはっきりしている。
友人宅で初めて聴いたロマンティスト・テイスト。
「かっこいいな」
そう思った。
一番好きなのが「SICKS」だった。
自伝の中で吉井氏が最も好きなアルバムとして挙げていることに感動してしまった。
当時、よくわからない楽曲があった。
たとえば、「father」。
たとえば「人生の終わり」。
どちらも、すごく好きな曲だった。
歌われている内容はよくわからなかったが、奇妙なほどに引きつけられた。
「ラブラブショウ」。
今でもカラオケで歌える曲としてお世話になっている。
本書に触れよう。
先に言えば、たいしたことない書である。・・・苦笑。
けれども、イエモンファンだった人から見れば、
「ああ、あの曲は、こういう背景があったんだ」
とか、新たに知ることができる部分は多くて興味深いと思う。
ただ、文学研究というものにある程度触れてしまったせいなのか、歳を取ったせいなのか、よくわからないが今聴くと詩とメロディは陳腐だなと痛感する。
とくにリズム(メロディ)はラップに触れてしまったことが致命的に影響しているように思う。正直に言えば、もう聴けない。
けれど、「人生の終わり」の詩は今思えば衝撃だったのだろう。
僕が犯されたロックンロールに希望なんてないよ
あるのは気休めみたいな興奮だけ
それだけさ
血が泣いてるんだよ
後期の売れ線路線はどうでもいいとして、初期(というか中期の危ういバランスの奇跡的な一場面)に花咲いた、「SICKS」を頂点として、イエモンになぜか強烈に引きつけられた。
尾崎、ブルハ、吉井。彼らの共通する、自己実存のカオス、それを臆面もなくぶつけてくる彼らの詩とエネルギーに圧倒されつつも畏敬はしていた。
もう一度言う。
今、俺は彼らの詩を陳腐かつ稚拙なものとして退けようとしている。
けれども俺が彼らを畏敬する気持ちに微塵の躊躇もない。
昔、ギターをやっていた。
初めて「合わせた」ときのことはよく覚えている。
ブルハの「青空」だった。
全身が鳥肌立った。音楽とは脳内麻薬そのものだと思った。
イエモンもやった。思えば、すべてやった。
なぜだろう、キノコ食ったことを思い出した。
今では非合法だけど、当時は合法。
いや、やっぱどうでもいいな。
僕が犯されたロックンロールに希望なんてないよ
あるのは気休めみたいな興奮だけ
それだけさ
もし、それがブルーハーツではなく、尾崎豊ではないのならば、それは、イエローモンキーだ。イエモンを聴き始めたきっかけもはっきりしている。
友人宅で初めて聴いたロマンティスト・テイスト。
「かっこいいな」
そう思った。
一番好きなのが「SICKS」だった。
自伝の中で吉井氏が最も好きなアルバムとして挙げていることに感動してしまった。
当時、よくわからない楽曲があった。
たとえば、「father」。
たとえば「人生の終わり」。
どちらも、すごく好きな曲だった。
歌われている内容はよくわからなかったが、奇妙なほどに引きつけられた。
「ラブラブショウ」。
今でもカラオケで歌える曲としてお世話になっている。
本書に触れよう。
先に言えば、たいしたことない書である。・・・苦笑。
けれども、イエモンファンだった人から見れば、
「ああ、あの曲は、こういう背景があったんだ」
とか、新たに知ることができる部分は多くて興味深いと思う。
ただ、文学研究というものにある程度触れてしまったせいなのか、歳を取ったせいなのか、よくわからないが今聴くと詩とメロディは陳腐だなと痛感する。
とくにリズム(メロディ)はラップに触れてしまったことが致命的に影響しているように思う。正直に言えば、もう聴けない。
けれど、「人生の終わり」の詩は今思えば衝撃だったのだろう。
僕が犯されたロックンロールに希望なんてないよ
あるのは気休めみたいな興奮だけ
それだけさ
血が泣いてるんだよ
後期の売れ線路線はどうでもいいとして、初期(というか中期の危ういバランスの奇跡的な一場面)に花咲いた、「SICKS」を頂点として、イエモンになぜか強烈に引きつけられた。
尾崎、ブルハ、吉井。彼らの共通する、自己実存のカオス、それを臆面もなくぶつけてくる彼らの詩とエネルギーに圧倒されつつも畏敬はしていた。
もう一度言う。
今、俺は彼らの詩を陳腐かつ稚拙なものとして退けようとしている。
けれども俺が彼らを畏敬する気持ちに微塵の躊躇もない。
昔、ギターをやっていた。
初めて「合わせた」ときのことはよく覚えている。
ブルハの「青空」だった。
全身が鳥肌立った。音楽とは脳内麻薬そのものだと思った。
イエモンもやった。思えば、すべてやった。
なぜだろう、キノコ食ったことを思い出した。
今では非合法だけど、当時は合法。
いや、やっぱどうでもいいな。
僕が犯されたロックンロールに希望なんてないよ
あるのは気休めみたいな興奮だけ
それだけさ
2008/03/02のBlog
[ 03:16 ]
最近の生活はすごく規則正しい。
といっても、普通の人のそれとは全く異なるものであるので間違いない。
夜、酒でも飲みながらパソコンで行きつけのパチンコ店のデータを何店かチェックする。
前日、当日、一昨日の出玉などを参照しながら、波、勘、経験を頼りに、翌日に打つ台の目星をつける。
朝、夜にチェックしておいた台やデータの情報を確認する。
打つ台の候補を絞り、最終確認する。
ここで一言しておくと、出る台の法則は自分なりにあるが、そのシステムに従って候補を絞りイメージトレーニング(具体的には負けたときの対処法、心の準備)を行うのは案外苦ではない。
開店と同時に店に赴く。
平日に集まる顔は知った顔も多い。
もちろん俺ぐらいの若輩層は俺だけだ。
昼、店の目の前にあるKFCで一人昼食を採る。
メニューは毎日決まっている。
その際に読む本だけは持参している。
一日で人間的(?)な時間があるとすればこの時間だけだ。
10分で食事を済ますと、すぐに店に戻り、打ち続ける。
一日打ち、収支を計算し、帰途に着く。
風呂に入り、飯を食べ、酒を飲みながらデータをチェックする。
※
こんな生活で負けたら目も当てられない。
バイトを拒否しパチプロ的な手段を選んだからには勝たなければいけない。
しかし、デジタル(ボーダー理論)だけなら誰でも実戦できるが、流れ(波)までキッチリ読みに入れて勝つのはかなり骨が折れるが、楽しい。というより、充実感がある。
勝たなければいけない。
だから、誰よりもストイックに、シビアに打つ。
こんな生活の実態は誰にも話していないが、負けたら即死亡、の条件から(タネ銭がほとんどなかった)今の状態まで勝てているのは幸運だと思う。
一番難しいのはこれからだ。
この勝ち運を逃すか勝ち続けられるかが、アマとプロの差だと思う。
負け(ボーダー理論)の甘えはアマだ。
これからの一週間でおれの腕が問われると思う。
もちろん勝ちたいが、そう簡単ではないのはわかっている。
ともかく、明日から本当の勝負がはじまると思うし、この勝ち分を逃したら意味がないのでがんばりたいと思う。
2.24+26000
2.25-10000
2.26+55000
2.27+65000
2.28-10000
3.2+116000
3.4+10000
3.5-20000
計+232000
といっても、普通の人のそれとは全く異なるものであるので間違いない。
夜、酒でも飲みながらパソコンで行きつけのパチンコ店のデータを何店かチェックする。
前日、当日、一昨日の出玉などを参照しながら、波、勘、経験を頼りに、翌日に打つ台の目星をつける。
朝、夜にチェックしておいた台やデータの情報を確認する。
打つ台の候補を絞り、最終確認する。
ここで一言しておくと、出る台の法則は自分なりにあるが、そのシステムに従って候補を絞りイメージトレーニング(具体的には負けたときの対処法、心の準備)を行うのは案外苦ではない。
開店と同時に店に赴く。
平日に集まる顔は知った顔も多い。
もちろん俺ぐらいの若輩層は俺だけだ。
昼、店の目の前にあるKFCで一人昼食を採る。
メニューは毎日決まっている。
その際に読む本だけは持参している。
一日で人間的(?)な時間があるとすればこの時間だけだ。
10分で食事を済ますと、すぐに店に戻り、打ち続ける。
一日打ち、収支を計算し、帰途に着く。
風呂に入り、飯を食べ、酒を飲みながらデータをチェックする。
※
こんな生活で負けたら目も当てられない。
バイトを拒否しパチプロ的な手段を選んだからには勝たなければいけない。
しかし、デジタル(ボーダー理論)だけなら誰でも実戦できるが、流れ(波)までキッチリ読みに入れて勝つのはかなり骨が折れるが、楽しい。というより、充実感がある。
勝たなければいけない。
だから、誰よりもストイックに、シビアに打つ。
こんな生活の実態は誰にも話していないが、負けたら即死亡、の条件から(タネ銭がほとんどなかった)今の状態まで勝てているのは幸運だと思う。
一番難しいのはこれからだ。
この勝ち運を逃すか勝ち続けられるかが、アマとプロの差だと思う。
負け(ボーダー理論)の甘えはアマだ。
これからの一週間でおれの腕が問われると思う。
もちろん勝ちたいが、そう簡単ではないのはわかっている。
ともかく、明日から本当の勝負がはじまると思うし、この勝ち分を逃したら意味がないのでがんばりたいと思う。
2.24+26000
2.25-10000
2.26+55000
2.27+65000
2.28-10000
3.2+116000
3.4+10000
3.5-20000
計+232000
2008/01/28のBlog
[ 00:55 ]
[ 読書 ]
前にも書いたが、風俗店に月に数度通っている。
経済的にヤバイと前回書いたが、もちろん安っすい風俗である。
この安さを聞いたら特に女性は驚くと思う。
毎回同じ子を指名している。
と、ここまで読んだ時点で、多くの人の印象と書いている俺のイメージは大きくかけ離れているのだろうと思う。何度も言ってきたが、それは「風俗」というものに対する漠然とした先入観を誰しも持っているからだ。
「店外」という言葉(風用語?)がある。
これは店の外で嬢と会うことを意味する言葉で、たとえば2ちゃんの風俗板などではよく話題になる。こういう掲示板を見ると世の男が風嬢をどれほどの蔑視の視線で見ているかがよくわかる。
ただし、誤解されたくないのだが、俺は風俗という仕事を称揚しているわけではない。
はっきり言えば、褒められた仕事ではないと思う。リスクが高すぎる。
しかし、これだけは言えると思う、彼女達はすべてのリスクを自分の存在の中に背負って働いている。彼女たちの問題は彼女達の問題だし、それよりも、第一、俺が、あなたが、彼女達にイチャモンを付けられるほどオエライ仕事、生き様、理念を持っているのだろうか?その中傷が自己満足の範囲を超え出るものだろうか?
自慢以外なにものでもないが、俺は風俗嬢にすごくモテる。
「嘘つけ。勘違い野郎。」
こう思われる方は風俗をある程度知っている方だと思う。
証拠を挙げてもいいがそんなアホらしいことはしない。けれど、信じる信じないは別にして、これは俺のブログであり俺の意見を書く場所だから勝手に書かせてもらうが、これは実は俺がモテるのとは違う。他の男たちがオワッテルのだ。
風俗でモテる男は普段の生活でも必ずモテる男だと思う。
キャバでモテる男が普段もモテる男であるように。
元風嬢である酒井さんは実体験を振り返って次のように書いている。
「当然と言えば当然なのですが、「百二十分の女遊び」のために八万円も払える人たちは、三十分一万円の人たちとはやはり違いました。お金のゆとりは心のゆとり、とでも言えばいいのでしょうか。それがたとえまやかしでも、お客様の多くは「風俗嬢も一人の女性」だという当たり前のことを知っている大人の愛情を持った男性が多かった」P65
「風俗嬢も一人の女性」。こういう認識を世間も、男も、実際のところ誰も実はほとんど持っていない。だから俺はモテる。風俗を語るとき、私たちは風俗を蔑視することを前提として話をする。
※
ただし特別な風俗を除いて、今風俗嬢をやっている人のほとんどは、マジで素人、だという現実を、女性側はほとんど知らないと思う。俺の大学は世間的に見てかなりオカタイ、マジメで真っ当な、ぶっちゃけて言えば「良い大学」だと思われているような大学だが、こんな大学の普通の学生が普通に風俗で働いている。友だちにもほとんど言わないだろうし、親にはもちろん内緒だろう。大学でも誰も隣のこの子がまさか風俗嬢だなんて夢にも思っていないと思う。俺がいつも会っている嬢の大学名を聞いたら、ある程度年配の方だったらビックリして腰を抜かすと思う。
つまり、お客の男と店員以外誰も知らない。風俗ははっきり言ってもはや何も特別なものではない。
全く誇張していない。
しかし世間のイメージがそんな現実に全く追いついていない。
どうでもいいことを付け足しておけば、仲のいい女友達によく聞かれた話題、風俗ってどんなとこ?テクはやっぱ凄いの?
この問いの後者にだけ答えるなら、テクは全く凄くない。
なぜなら、彼女達は、どこにでもいる、普通の女性だから。
※
風俗=買われる女、買う男
だなんて素朴な図式はもはや牧歌的な時代の野蛮な図式でしかなくなっている。
女性たちは誰にも強制させられていない。彼女達はいつでも辞めることができる。
店にとって一番大事なのは風嬢であって、クソ客ではない。莫大な借金を抱えて風俗業界に泣く泣く足を踏み入れた、なんて子がいないわけではないと思うが、そんな子を探すのは高校時代よりも熱心に勉強している日本の大学生を探すぐらいレアな存在だと思う。
樋口一葉という作家がいた。
彼女は花魁の世界を誰よりも美しく、甘美に、そして哀愁に満ちた世界として描いた。
彼女の代表作の一つに、ある遊女が、お客と駆け落ちし、心中するという作品がある。
今、この話を現代に蘇らせたらどうだろうか。笑われるだろうか。あり得ないと言われるのだろうか、バカだなと一言されて終わるだろうか。
しかし、一葉の作品は名作として位置づけられている。
※
久しぶりに、何が言いたいのかわからなくなってきた。
ただ、俺が「性」のことを話題にするのは、「性」が人間にとって最重要な本質に触れるものだと思っているからだ。「性」は人間の核心部分を突いている。
風俗という世界は、人間のむき出しの欲望が渦巻くすごい現実がある、それだけは間違いないと思う。俺はそんなむき出しの現実の世界が嫌いではないのだろうと思う。
※
俺は「店外」などどうでもいい。そんなことに価値を見出そうとは全く思わない。
けれど今定期的に会っている嬢とはこの先(何年か先)も連絡を取る友だちになるかもしれないと思う。そんなことを言う俺のことを蔑む、笑う、信じない、意味が分からない、という人は多いだろうと思う。でも、そんな人がいても俺の現実は何も変わらない。
そしてもう一つ普遍の現実、それは、俺は今通っている風嬢に感謝しているということだ。俺は彼女にたくさん癒された。彼女の存在がなければ辛いことが多かった大学院生活を乗り切れたかどうかわからない。
※
今日、ケンから連絡があった。
最近週に一回はケンから連絡がある。
ケンのことは過去に何度も書いたことがあるのでよく読んで下さっている方はご存知かもしれない。
ケンは一人暮らしで、両親は既に亡くなっている。
今、地元で働いているが、今日はさっき友人達と別れて、これから一人で弁当を買いに行って食って明日からまた仕事だという。
俺はこういうときに電話をくれるケンと話す時間がいとおしいような気持ちになることがある。ケンがこんなときに暇を持て余して電話をくれるのが俺だというのが誇らしくなるような、変な気持ちになることがある。ケンとの会話は、ほかの誰との会話よりも、楽しく、面白く、スリリングで、優しい。
俺はケンのために、ケンと共に時間を過ごしたいから実家に帰省したいという気持ちが大きい。
経済的にヤバイと前回書いたが、もちろん安っすい風俗である。
この安さを聞いたら特に女性は驚くと思う。
毎回同じ子を指名している。
と、ここまで読んだ時点で、多くの人の印象と書いている俺のイメージは大きくかけ離れているのだろうと思う。何度も言ってきたが、それは「風俗」というものに対する漠然とした先入観を誰しも持っているからだ。
「店外」という言葉(風用語?)がある。
これは店の外で嬢と会うことを意味する言葉で、たとえば2ちゃんの風俗板などではよく話題になる。こういう掲示板を見ると世の男が風嬢をどれほどの蔑視の視線で見ているかがよくわかる。
ただし、誤解されたくないのだが、俺は風俗という仕事を称揚しているわけではない。
はっきり言えば、褒められた仕事ではないと思う。リスクが高すぎる。
しかし、これだけは言えると思う、彼女達はすべてのリスクを自分の存在の中に背負って働いている。彼女たちの問題は彼女達の問題だし、それよりも、第一、俺が、あなたが、彼女達にイチャモンを付けられるほどオエライ仕事、生き様、理念を持っているのだろうか?その中傷が自己満足の範囲を超え出るものだろうか?
自慢以外なにものでもないが、俺は風俗嬢にすごくモテる。
「嘘つけ。勘違い野郎。」
こう思われる方は風俗をある程度知っている方だと思う。
証拠を挙げてもいいがそんなアホらしいことはしない。けれど、信じる信じないは別にして、これは俺のブログであり俺の意見を書く場所だから勝手に書かせてもらうが、これは実は俺がモテるのとは違う。他の男たちがオワッテルのだ。
風俗でモテる男は普段の生活でも必ずモテる男だと思う。
キャバでモテる男が普段もモテる男であるように。
元風嬢である酒井さんは実体験を振り返って次のように書いている。
「当然と言えば当然なのですが、「百二十分の女遊び」のために八万円も払える人たちは、三十分一万円の人たちとはやはり違いました。お金のゆとりは心のゆとり、とでも言えばいいのでしょうか。それがたとえまやかしでも、お客様の多くは「風俗嬢も一人の女性」だという当たり前のことを知っている大人の愛情を持った男性が多かった」P65
「風俗嬢も一人の女性」。こういう認識を世間も、男も、実際のところ誰も実はほとんど持っていない。だから俺はモテる。風俗を語るとき、私たちは風俗を蔑視することを前提として話をする。
※
ただし特別な風俗を除いて、今風俗嬢をやっている人のほとんどは、マジで素人、だという現実を、女性側はほとんど知らないと思う。俺の大学は世間的に見てかなりオカタイ、マジメで真っ当な、ぶっちゃけて言えば「良い大学」だと思われているような大学だが、こんな大学の普通の学生が普通に風俗で働いている。友だちにもほとんど言わないだろうし、親にはもちろん内緒だろう。大学でも誰も隣のこの子がまさか風俗嬢だなんて夢にも思っていないと思う。俺がいつも会っている嬢の大学名を聞いたら、ある程度年配の方だったらビックリして腰を抜かすと思う。
つまり、お客の男と店員以外誰も知らない。風俗ははっきり言ってもはや何も特別なものではない。
全く誇張していない。
しかし世間のイメージがそんな現実に全く追いついていない。
どうでもいいことを付け足しておけば、仲のいい女友達によく聞かれた話題、風俗ってどんなとこ?テクはやっぱ凄いの?
この問いの後者にだけ答えるなら、テクは全く凄くない。
なぜなら、彼女達は、どこにでもいる、普通の女性だから。
※
風俗=買われる女、買う男
だなんて素朴な図式はもはや牧歌的な時代の野蛮な図式でしかなくなっている。
女性たちは誰にも強制させられていない。彼女達はいつでも辞めることができる。
店にとって一番大事なのは風嬢であって、クソ客ではない。莫大な借金を抱えて風俗業界に泣く泣く足を踏み入れた、なんて子がいないわけではないと思うが、そんな子を探すのは高校時代よりも熱心に勉強している日本の大学生を探すぐらいレアな存在だと思う。
樋口一葉という作家がいた。
彼女は花魁の世界を誰よりも美しく、甘美に、そして哀愁に満ちた世界として描いた。
彼女の代表作の一つに、ある遊女が、お客と駆け落ちし、心中するという作品がある。
今、この話を現代に蘇らせたらどうだろうか。笑われるだろうか。あり得ないと言われるのだろうか、バカだなと一言されて終わるだろうか。
しかし、一葉の作品は名作として位置づけられている。
※
久しぶりに、何が言いたいのかわからなくなってきた。
ただ、俺が「性」のことを話題にするのは、「性」が人間にとって最重要な本質に触れるものだと思っているからだ。「性」は人間の核心部分を突いている。
風俗という世界は、人間のむき出しの欲望が渦巻くすごい現実がある、それだけは間違いないと思う。俺はそんなむき出しの現実の世界が嫌いではないのだろうと思う。
※
俺は「店外」などどうでもいい。そんなことに価値を見出そうとは全く思わない。
けれど今定期的に会っている嬢とはこの先(何年か先)も連絡を取る友だちになるかもしれないと思う。そんなことを言う俺のことを蔑む、笑う、信じない、意味が分からない、という人は多いだろうと思う。でも、そんな人がいても俺の現実は何も変わらない。
そしてもう一つ普遍の現実、それは、俺は今通っている風嬢に感謝しているということだ。俺は彼女にたくさん癒された。彼女の存在がなければ辛いことが多かった大学院生活を乗り切れたかどうかわからない。
※
今日、ケンから連絡があった。
最近週に一回はケンから連絡がある。
ケンのことは過去に何度も書いたことがあるのでよく読んで下さっている方はご存知かもしれない。
ケンは一人暮らしで、両親は既に亡くなっている。
今、地元で働いているが、今日はさっき友人達と別れて、これから一人で弁当を買いに行って食って明日からまた仕事だという。
俺はこういうときに電話をくれるケンと話す時間がいとおしいような気持ちになることがある。ケンがこんなときに暇を持て余して電話をくれるのが俺だというのが誇らしくなるような、変な気持ちになることがある。ケンとの会話は、ほかの誰との会話よりも、楽しく、面白く、スリリングで、優しい。
俺はケンのために、ケンと共に時間を過ごしたいから実家に帰省したいという気持ちが大きい。
2008/01/23のBlog
[ 22:55 ]
先日、修士論文を出した。
このブログでは触れてこなかったが大学院生(修士)生にとってほんとうの懸案事項は修士論文以外に何もない。
ここで何か書くと愚痴になりそうだったので書かなかった。
しかし実際のところかなりヤバイ状況になっている。
修士論文の枚数目安は大体200枚前後なのだが、100枚しか書いていない。
しかも時間が間に合わず、誤字脱字の嵐、形式がかなり滅茶苦茶のまま提出してしまった。
リアルに留年かもしれない。
いや、留年自体は痛くも痒くもないのだが、実家の経済事情がかなり逼迫していて、どうしても実家に帰らざるを得ない状況になっているため、留年は避けたいのだ。
経済事情の逼迫、と言ったが、おれの場合、普通の大学生が口にする状況の200倍ぐらいヤバイ状況である。そこら辺の大学生が「実家がキツいらしくて・・」みたいな話を聞くと殴りたくなる。俺の状況よりヤバイやつは全国にもそうそういないだろう。
家がなくなるかもしれない、というほどの状況なのだが、そんな話を聞いたのはごく最近で、しかも家族からは何も聞いていない。親父は「金の心配はするな。」とずっと言っていた。ときに数十万円をいきなり振り込んで「好きに使え」と言ってくれたりする親父である。ほんとうに経済的に厳しい家庭は、逆にそうなると思う。
だから、「家がキツいらしいからバイトで稼がなきゃいけないんだよね~」とか、「自分で学費作らないといけないんだ~」とか言っている人を見ると羨ましいと思う。その「余裕」に。
奨学金がすべて学費と家の借金に消える大学生は、いそうでなかなかいない。
ダブル貸与、相当借りた。
そのすべてはもうどこにもない。
ただ、勘違いされては困るが、俺は家族が好きだ。
オヤジも母も、ばあちゃんも、じいちゃんも、みんな愛している。
家族はキツいのに、じいさんなんかが、正月には大金を送ってくる。
こんなイカした家族はなかなかないと思う。
ほんとうに経済的にキツい家庭は、こうなる。
実家の援助がない、などと自慢気に言っている奴は、まだまだ余裕がある。
自分で学費を稼ぐことにナルシシズムを感じている奴は、まだまだ余裕がある。
ほんとうにヤバイ奴は、人にそんなことを話している余裕がない。
変な話で恐縮だが、
いや、しかし俺は貧乏というのは耐えられるが、貧乏臭い、というのは我慢ならない。
けれど小金持ちほど貧乏臭いのが面白い。
へんな話なので書き直すと思うが、
修士論文を書いているとき、近所の川原を昼夜を問わず徘徊した。
夜中の三時だろうが、真昼三時だろうが、すれ違う人は時折シャドーボクシングする俺を見て「コイツなんなんだ」と思う人もいたかもしれない。
おれの一年後、どうなっているのか全く見当がつかないが、人生は、なかなか面白い。
この人生の面白さを味わっている奴は、なかなかいないだろうと思う。
人生は、上々だ。
これはどうでもいいtこだが、今日「タクシードライバー」を借りて観ようかどうかかなり迷った。自分で思った。「借りすぎ、見すぎ、やばくないか?」
とりあえず、止めた。
この映画が観たいという時点でかなりヤバイ人間だということは確定だが、「タクシードライバー」みたいな映画をほかに知らないのでこれを借りるしかないのだ。
こんな映画がほかにないのだろうか。
俺はほかに知らないから何度でもこの映画を観ることになる。
このブログでは触れてこなかったが大学院生(修士)生にとってほんとうの懸案事項は修士論文以外に何もない。
ここで何か書くと愚痴になりそうだったので書かなかった。
しかし実際のところかなりヤバイ状況になっている。
修士論文の枚数目安は大体200枚前後なのだが、100枚しか書いていない。
しかも時間が間に合わず、誤字脱字の嵐、形式がかなり滅茶苦茶のまま提出してしまった。
リアルに留年かもしれない。
いや、留年自体は痛くも痒くもないのだが、実家の経済事情がかなり逼迫していて、どうしても実家に帰らざるを得ない状況になっているため、留年は避けたいのだ。
経済事情の逼迫、と言ったが、おれの場合、普通の大学生が口にする状況の200倍ぐらいヤバイ状況である。そこら辺の大学生が「実家がキツいらしくて・・」みたいな話を聞くと殴りたくなる。俺の状況よりヤバイやつは全国にもそうそういないだろう。
家がなくなるかもしれない、というほどの状況なのだが、そんな話を聞いたのはごく最近で、しかも家族からは何も聞いていない。親父は「金の心配はするな。」とずっと言っていた。ときに数十万円をいきなり振り込んで「好きに使え」と言ってくれたりする親父である。ほんとうに経済的に厳しい家庭は、逆にそうなると思う。
だから、「家がキツいらしいからバイトで稼がなきゃいけないんだよね~」とか、「自分で学費作らないといけないんだ~」とか言っている人を見ると羨ましいと思う。その「余裕」に。
奨学金がすべて学費と家の借金に消える大学生は、いそうでなかなかいない。
ダブル貸与、相当借りた。
そのすべてはもうどこにもない。
ただ、勘違いされては困るが、俺は家族が好きだ。
オヤジも母も、ばあちゃんも、じいちゃんも、みんな愛している。
家族はキツいのに、じいさんなんかが、正月には大金を送ってくる。
こんなイカした家族はなかなかないと思う。
ほんとうに経済的にキツい家庭は、こうなる。
実家の援助がない、などと自慢気に言っている奴は、まだまだ余裕がある。
自分で学費を稼ぐことにナルシシズムを感じている奴は、まだまだ余裕がある。
ほんとうにヤバイ奴は、人にそんなことを話している余裕がない。
変な話で恐縮だが、
いや、しかし俺は貧乏というのは耐えられるが、貧乏臭い、というのは我慢ならない。
けれど小金持ちほど貧乏臭いのが面白い。
へんな話なので書き直すと思うが、
修士論文を書いているとき、近所の川原を昼夜を問わず徘徊した。
夜中の三時だろうが、真昼三時だろうが、すれ違う人は時折シャドーボクシングする俺を見て「コイツなんなんだ」と思う人もいたかもしれない。
おれの一年後、どうなっているのか全く見当がつかないが、人生は、なかなか面白い。
この人生の面白さを味わっている奴は、なかなかいないだろうと思う。
人生は、上々だ。
これはどうでもいいtこだが、今日「タクシードライバー」を借りて観ようかどうかかなり迷った。自分で思った。「借りすぎ、見すぎ、やばくないか?」
とりあえず、止めた。
この映画が観たいという時点でかなりヤバイ人間だということは確定だが、「タクシードライバー」みたいな映画をほかに知らないのでこれを借りるしかないのだ。
こんな映画がほかにないのだろうか。
俺はほかに知らないから何度でもこの映画を観ることになる。
2008/01/14のBlog
[ 23:11 ]
[ 読書 ]
巷で何かと話題になっている書は割りと目を通す。
一応書いておくと、先日酷評したミシェランガイドももちろん読んだ。
さて、今回は「スローセックス」だが、読む前から嫌な予感がしていた。
その予感は見事に的中した。
クソ下らん。
これで終わりだったが、某サイトのレビューなどを読むといつもどおり私のような批判者は少数で、ほとんどすべてが絶賛となっていた。
「はァ・・。」
簡潔にいこう。
こんなのは「常識」のはずだと思っていた。この書に書かれていることで「なるほど~」と思った部分は一つもない。きわめて常識。「本書は常識100%果汁でできています」と帯につけて欲しいぐらいだった。しかし、世の中の大多数の人々は目から鱗だという。
しかし、腑に落ちることもあった。
女は大体セックス中毒になる生物だと思った時期がある。
私は過去にセックスを介して女を「寝取った」ような経験が何度もある。
詳細は面倒なので書かないが一度寝てしまえば女をセックス中毒にさせるぐらいの自信はあった。これは私なりに必死の研鑽に励んだ結果だと思うが、いつも思っていた、「おまえ今までどんなセックスさせられてたんだ。」
馳星周の小説に、誘拐犯にセックスドラッグを打たれて涙を流しながら「お願いだから解放して!」といいつつ腰を振り続け、誘拐犯が離れようよするとその女が誘拐犯の腰をガッチリつかんで話さないという話があったが、女性の本当のセックスの依存度というのはそれぐらいハンパじゃない。しかしそんなのは一般人には到底信じられない話で、むしろセックスに苦痛を与えている男がほぼ100%・・。
本書にデータがあるが(実戦書のほうだったかも。両方読んだけどよく覚えていない)日本人のセックス満足度は一割ぐらいらしい。100人のうち10人しか満足していないと答えるのだ。
けれど、個人的にはこの国の男のセックス技術は向上しないほうがいい。私のテクの価値が高まるからだ。
しかし、思い当たるフシがある。
それは、世の中の男の多くがAVを参考にしているかもしれないという点だ。
あんなもの、爪の垢ほどのメディアリテラシーが少しでも備わっていたら誰でも影響を受けることはないと思うが、どうもこの国の男たちはアレを本気で参考にしているようだ。
大丈夫かよ。
アダム氏は日本人の男の多くのセックスが「ジャンクセックス」であると名づけているが、それはそれでいい。そういう人々が一生ジャンクセックスしていても私は痛くも痒くもない。
ただ、本書を読み、なぜ過去に付き合った女性たちが歓喜の声を上げていたのか、その原因がわかったという意味で、本書を読んだ価値はあったといえる。
世の男たちに問いたい。
一体、どういうセックスを要求してるんだ。
一応書いておくと、先日酷評したミシェランガイドももちろん読んだ。
さて、今回は「スローセックス」だが、読む前から嫌な予感がしていた。
その予感は見事に的中した。
クソ下らん。
これで終わりだったが、某サイトのレビューなどを読むといつもどおり私のような批判者は少数で、ほとんどすべてが絶賛となっていた。
「はァ・・。」
簡潔にいこう。
こんなのは「常識」のはずだと思っていた。この書に書かれていることで「なるほど~」と思った部分は一つもない。きわめて常識。「本書は常識100%果汁でできています」と帯につけて欲しいぐらいだった。しかし、世の中の大多数の人々は目から鱗だという。
しかし、腑に落ちることもあった。
女は大体セックス中毒になる生物だと思った時期がある。
私は過去にセックスを介して女を「寝取った」ような経験が何度もある。
詳細は面倒なので書かないが一度寝てしまえば女をセックス中毒にさせるぐらいの自信はあった。これは私なりに必死の研鑽に励んだ結果だと思うが、いつも思っていた、「おまえ今までどんなセックスさせられてたんだ。」
馳星周の小説に、誘拐犯にセックスドラッグを打たれて涙を流しながら「お願いだから解放して!」といいつつ腰を振り続け、誘拐犯が離れようよするとその女が誘拐犯の腰をガッチリつかんで話さないという話があったが、女性の本当のセックスの依存度というのはそれぐらいハンパじゃない。しかしそんなのは一般人には到底信じられない話で、むしろセックスに苦痛を与えている男がほぼ100%・・。
本書にデータがあるが(実戦書のほうだったかも。両方読んだけどよく覚えていない)日本人のセックス満足度は一割ぐらいらしい。100人のうち10人しか満足していないと答えるのだ。
けれど、個人的にはこの国の男のセックス技術は向上しないほうがいい。私のテクの価値が高まるからだ。
しかし、思い当たるフシがある。
それは、世の中の男の多くがAVを参考にしているかもしれないという点だ。
あんなもの、爪の垢ほどのメディアリテラシーが少しでも備わっていたら誰でも影響を受けることはないと思うが、どうもこの国の男たちはアレを本気で参考にしているようだ。
大丈夫かよ。
アダム氏は日本人の男の多くのセックスが「ジャンクセックス」であると名づけているが、それはそれでいい。そういう人々が一生ジャンクセックスしていても私は痛くも痒くもない。
ただ、本書を読み、なぜ過去に付き合った女性たちが歓喜の声を上げていたのか、その原因がわかったという意味で、本書を読んだ価値はあったといえる。
世の男たちに問いたい。
一体、どういうセックスを要求してるんだ。
2008/01/04のBlog
[ 22:55 ]
[ 読書 ]
少し前の話だが、ワイドショーで「ミシェランガイド」という本がバカ売れしているという報道を見た。
「くだらねえ」
これ以外に感想などない。一言も費やす気はない。
では、何が下らないのか?
すべてが下らない。
それですべてである。
日本のマスコミの知能指数は単細胞生物以下の脳みそしかないと思っているが、これはマスコミの人間が悪いのではない。
人間は誰しも権威に包摂されてしまえばすべてを失う。
権威とは何か?
それは自分以外の他律的なものすべてを指す。
だから俺が下らないと思うのは、典型的なところでいえば、たとえば風俗産業に従事する方々を何の屈託もなくバカにする連中である。彼らは自分とそういった人々との間に本質的な差異が何もないということに徹底的に無自覚だ。え?彼らはお金のために体お売っているじゃないかって?私にはそれがどういった根拠から「悪」であると断定されるのかがイマイチ理解できないが、結婚相手に収入を求める女性像と一体どれほどの差があるというのか?風俗嬢との愛人契約とどれほどの差があるというのか?私は今までこのことについて納得する言説に出くわしたことがない。一応断っておくが、私には別に風俗嬢を擁護する理由もトラウマも何もない。私は事実を見つめたいと思っているだけだ。資本主義の奴隷と化している企業のさらなる奴隷となる人々と、お金のために風俗で働く人々になんらの差別する根拠はないと思う。風俗嬢の最大のデメリットは、自分の自尊心の切り売りであり、両親や近しい人々への背徳であるという面だろう。しかし前者については自分でリスクを負っているという点で、つまり他者への依存を排しているという点ではある意味模範となる生き様だと言えなくもない。だが、後者についてはどうか。確かに近しい人々への背徳は首肯されるべきものではない。しかしこれも組織の奴隷となる生き様が単に世間に認められているというだけであって、それ以上の理由は実はどこにもない。もちろん体を商品にするような生き方は褒められたものではないが、それを糾弾できる人間が果たしてどれだけこの社会に存在するだろう?
他人に委任する、ということは、「悪」なのだ。
「女性の品格」の坂東氏は「私は組織の中でしか生きられない人間ですから・・」と言っていたが、組織で生きるとは世間で言われるほど褒められた生き方なのだろうか?
モノを考えるときにいつも意識の底に沈んでいる想念、それはアウシュビッツの悲劇だ。人類史上未曾有の大虐殺、最大の悲劇を生んだ当事者ヒトラーを選んだのは民主制によって「民意」によって選ばれた人間だった。私は常にこの事実に戦慄する。小熊英二「民主と愛国」でも読めば一発でわかることだが、組織に依存するということは、本当はそれだけで「罪」に値することなのだろうと思う。先の戦争は一部の「A級戦犯」の暴走がすべての根源だというのは教科書レベルの遊戯的歴史理解であることは今では常識である。あれほどの戦争を強いたのは、国民の屈託のない追従主義以外の何者でもなく、さらに言えば日本的気質―盲従的権威主義が決定的な影響を及ぼしていることはもはや明らかになっている。もちろんこれは日本国民の気質というよりも人間の拭い難い本性なのかもしれないが、私はこのことを思うと言葉を失う。
この国の人々が全く何も学ばず、知らないことさえ知らされず、あの事件が起きた前夜と全く同じように、何も変わっていないことに。
しかし、私がほんとうに困惑するのは、この種の「事実」に全く無自覚である人々だ。
この種の「畏れ」に全く無頓着な人だ。
「くだらねえ」
これ以外に感想などない。一言も費やす気はない。
では、何が下らないのか?
すべてが下らない。
それですべてである。
日本のマスコミの知能指数は単細胞生物以下の脳みそしかないと思っているが、これはマスコミの人間が悪いのではない。
人間は誰しも権威に包摂されてしまえばすべてを失う。
権威とは何か?
それは自分以外の他律的なものすべてを指す。
だから俺が下らないと思うのは、典型的なところでいえば、たとえば風俗産業に従事する方々を何の屈託もなくバカにする連中である。彼らは自分とそういった人々との間に本質的な差異が何もないということに徹底的に無自覚だ。え?彼らはお金のために体お売っているじゃないかって?私にはそれがどういった根拠から「悪」であると断定されるのかがイマイチ理解できないが、結婚相手に収入を求める女性像と一体どれほどの差があるというのか?風俗嬢との愛人契約とどれほどの差があるというのか?私は今までこのことについて納得する言説に出くわしたことがない。一応断っておくが、私には別に風俗嬢を擁護する理由もトラウマも何もない。私は事実を見つめたいと思っているだけだ。資本主義の奴隷と化している企業のさらなる奴隷となる人々と、お金のために風俗で働く人々になんらの差別する根拠はないと思う。風俗嬢の最大のデメリットは、自分の自尊心の切り売りであり、両親や近しい人々への背徳であるという面だろう。しかし前者については自分でリスクを負っているという点で、つまり他者への依存を排しているという点ではある意味模範となる生き様だと言えなくもない。だが、後者についてはどうか。確かに近しい人々への背徳は首肯されるべきものではない。しかしこれも組織の奴隷となる生き様が単に世間に認められているというだけであって、それ以上の理由は実はどこにもない。もちろん体を商品にするような生き方は褒められたものではないが、それを糾弾できる人間が果たしてどれだけこの社会に存在するだろう?
他人に委任する、ということは、「悪」なのだ。
「女性の品格」の坂東氏は「私は組織の中でしか生きられない人間ですから・・」と言っていたが、組織で生きるとは世間で言われるほど褒められた生き方なのだろうか?
モノを考えるときにいつも意識の底に沈んでいる想念、それはアウシュビッツの悲劇だ。人類史上未曾有の大虐殺、最大の悲劇を生んだ当事者ヒトラーを選んだのは民主制によって「民意」によって選ばれた人間だった。私は常にこの事実に戦慄する。小熊英二「民主と愛国」でも読めば一発でわかることだが、組織に依存するということは、本当はそれだけで「罪」に値することなのだろうと思う。先の戦争は一部の「A級戦犯」の暴走がすべての根源だというのは教科書レベルの遊戯的歴史理解であることは今では常識である。あれほどの戦争を強いたのは、国民の屈託のない追従主義以外の何者でもなく、さらに言えば日本的気質―盲従的権威主義が決定的な影響を及ぼしていることはもはや明らかになっている。もちろんこれは日本国民の気質というよりも人間の拭い難い本性なのかもしれないが、私はこのことを思うと言葉を失う。
この国の人々が全く何も学ばず、知らないことさえ知らされず、あの事件が起きた前夜と全く同じように、何も変わっていないことに。
しかし、私がほんとうに困惑するのは、この種の「事実」に全く無自覚である人々だ。
この種の「畏れ」に全く無頓着な人だ。
2007/12/31のBlog
[ 01:43 ]
最近、喫茶店に入って本腰を入れる題材に取り掛かる前に、息抜き、ウォーミングアップ、現実逃避がてらに一冊読むのが習慣になっている。ここ最近は梁石日氏の作品を読んでいるのだが、氏の作品の中では「修羅を生きる」これが一番面白い。
「男の性」「夜の河を渡れ」等もほぼ同時に読んだが、「修羅を生きる」がダントツである。
前者について言えば、やや学術的・衒学趣味が露呈されているところが微妙だった。
後者について言えば、エンターテイメントの作品としてやや甘いところがある。
馳星周や白川道の作品の完成度に比べると、落ちると思った。
「修羅を生きる」は自伝だが、小説よりも作家の自伝のほうが面白い、ということは悲しいかな、よく出くわす事実である。
これまた最近読んだところを挙げれば、浅田次郎「極道放浪記」吉田潤喜「人生も、商売も、出る杭打たれてなんぼやで」は面白かった。(共に幻冬社、吉田は作家ではないが)
しかし、最近読んだ本で人に薦めたい本があるとすれば「余命一ヶ月の花嫁」(マガジンハウス)である。
喫茶店で読みながら、涙が出た。
ガラにもない、そう思いながら涙を止めるために何度も読むのを中断し、店員の視線に気を払いながら読んだが、もし誰かに薦めるのなら俺はこの本を薦める。
死を思って生きる、というどこかの諺がある。これはすごい諺だと思う。
死を思って生きればすごい生き方ができるか、というとそういうわけでもないのだが、この諺はある一つの真理を言いえていると思う。
「男の性」「夜の河を渡れ」等もほぼ同時に読んだが、「修羅を生きる」がダントツである。
前者について言えば、やや学術的・衒学趣味が露呈されているところが微妙だった。
後者について言えば、エンターテイメントの作品としてやや甘いところがある。
馳星周や白川道の作品の完成度に比べると、落ちると思った。
「修羅を生きる」は自伝だが、小説よりも作家の自伝のほうが面白い、ということは悲しいかな、よく出くわす事実である。
これまた最近読んだところを挙げれば、浅田次郎「極道放浪記」吉田潤喜「人生も、商売も、出る杭打たれてなんぼやで」は面白かった。(共に幻冬社、吉田は作家ではないが)
しかし、最近読んだ本で人に薦めたい本があるとすれば「余命一ヶ月の花嫁」(マガジンハウス)である。
喫茶店で読みながら、涙が出た。
ガラにもない、そう思いながら涙を止めるために何度も読むのを中断し、店員の視線に気を払いながら読んだが、もし誰かに薦めるのなら俺はこの本を薦める。
死を思って生きる、というどこかの諺がある。これはすごい諺だと思う。
死を思って生きればすごい生き方ができるか、というとそういうわけでもないのだが、この諺はある一つの真理を言いえていると思う。
2007/12/30のBlog
[ 00:50 ]
まあ、書くことは色々あるにはあるのだが、今日、ニコで宮台真司と江川達也の対談を見た。(というよりラジオなので、正確には、聴いた。)
宮台の凄いというか偉いところは、決して感情に任せたモノの言い方をせずに、あくまで言葉とロジックのみを武器に話すところだ。この対談では江川達也はかなり声を荒げて自分の主張を展開しているが、宮台は絶対にそういう言い方をしない。それでいて、日本でも最高の論客の一人に数えられている点は敬服に値すると思う。
宮台の深層には「俺には知識とロジックと会話的レトリックだけでいいんだ」という自負があると思う。
※
話はズレるが、お笑いでもそうだ。
先日M-1があったが、最近俺が感じていることをある審査員が述べた。
「これは漫才というよりコントに近いのではないか。その点で私は評価できない」
その審査員とは松本人志だが、松本がここで言いたかったことを一言で注釈すれば、次のようになると思う。
「言葉だけで勝負しろ」
俺は自分の想いを代弁してくれたような気がしてテンションが上がった。
その通りで、コントまがいのことをやりゃ誰でも笑うだろ、そう思ってしまう。
しかし本当の芸人ならば眉一つ動かさず言葉だけで客を笑わせなければならないのではないだろうか。そういった人間こそ、本当の意味で「芸がある」といえるのではないだろうか。
なんだかんだ言って松本がすごいのは―「ガキ」「放送室」でのトークなどがわかりやすい例だが―言葉だけでずっと「お笑い」というものに対峙してきたからだ、そう思う。
そういえば、先の宮台と江川の対談では二人は何度も「大衆はやっぱり馬鹿だから」というフレーズを口にしている。つまり、彼らの眼から見れば、ほとんどの人は無知だということだ。宮台はある映画審査のときに「こんな映画は過去の映画を見ていればすぐにジャンクとわかるのだが誰もわからない。くっだらねえ」みたいなことを口にしているが、これは俺が先日書いた東野圭吾について全く当てはまる。俺は全く同じことを感じ、書いた。ここ数年、ずっとそんな思いが強くなってきた。
久しぶりに話が脱線してきたが、もうしばらく続けよう。
三島由紀夫という作家がいた。
よく知られているように、彼は自衛隊の基地に乗り込み、演説をし、割腹自殺を遂げた。
彼は一昔前の知識人の典型だと思うが、死に至る直前まで膨大な本を読み、恐ろしいほどの知識を付け、死に至った。視点を変えれば、彼は死ぬために知識を身に付けたということになる。ボディビルやボクシングを行い、肉体と「知」の両面を磨き上げ、死に至った。名声に関してもそうだ。彼は当時知識人としてのヒーローだった。それらを背負い込み、死に至った。
惜しまれるようになったときが初めて引退時だ、という言葉があるが、彼はその理想形を体現したわけだ。
しかし、そうであればこそ、彼にとって「知」の意味を考えるのも面白い。
知を背負い込むことの恐怖感、という問題はあると思う。
俺は知っている、しかし誰も知らない、そんな恐怖心に静かに満たされる時がある。
その総量少ないうちは単なる自負に昇華される。
しかしある臨界点を超えると次第にそれは恐怖感へと変わってゆく。
この恐怖感は厄介だ。解消するための打つべき手がなかなか見つからない。
芸術というものの存在の意味はそこで今一度考え直される。
宮台の凄いというか偉いところは、決して感情に任せたモノの言い方をせずに、あくまで言葉とロジックのみを武器に話すところだ。この対談では江川達也はかなり声を荒げて自分の主張を展開しているが、宮台は絶対にそういう言い方をしない。それでいて、日本でも最高の論客の一人に数えられている点は敬服に値すると思う。
宮台の深層には「俺には知識とロジックと会話的レトリックだけでいいんだ」という自負があると思う。
※
話はズレるが、お笑いでもそうだ。
先日M-1があったが、最近俺が感じていることをある審査員が述べた。
「これは漫才というよりコントに近いのではないか。その点で私は評価できない」
その審査員とは松本人志だが、松本がここで言いたかったことを一言で注釈すれば、次のようになると思う。
「言葉だけで勝負しろ」
俺は自分の想いを代弁してくれたような気がしてテンションが上がった。
その通りで、コントまがいのことをやりゃ誰でも笑うだろ、そう思ってしまう。
しかし本当の芸人ならば眉一つ動かさず言葉だけで客を笑わせなければならないのではないだろうか。そういった人間こそ、本当の意味で「芸がある」といえるのではないだろうか。
なんだかんだ言って松本がすごいのは―「ガキ」「放送室」でのトークなどがわかりやすい例だが―言葉だけでずっと「お笑い」というものに対峙してきたからだ、そう思う。
そういえば、先の宮台と江川の対談では二人は何度も「大衆はやっぱり馬鹿だから」というフレーズを口にしている。つまり、彼らの眼から見れば、ほとんどの人は無知だということだ。宮台はある映画審査のときに「こんな映画は過去の映画を見ていればすぐにジャンクとわかるのだが誰もわからない。くっだらねえ」みたいなことを口にしているが、これは俺が先日書いた東野圭吾について全く当てはまる。俺は全く同じことを感じ、書いた。ここ数年、ずっとそんな思いが強くなってきた。
久しぶりに話が脱線してきたが、もうしばらく続けよう。
三島由紀夫という作家がいた。
よく知られているように、彼は自衛隊の基地に乗り込み、演説をし、割腹自殺を遂げた。
彼は一昔前の知識人の典型だと思うが、死に至る直前まで膨大な本を読み、恐ろしいほどの知識を付け、死に至った。視点を変えれば、彼は死ぬために知識を身に付けたということになる。ボディビルやボクシングを行い、肉体と「知」の両面を磨き上げ、死に至った。名声に関してもそうだ。彼は当時知識人としてのヒーローだった。それらを背負い込み、死に至った。
惜しまれるようになったときが初めて引退時だ、という言葉があるが、彼はその理想形を体現したわけだ。
しかし、そうであればこそ、彼にとって「知」の意味を考えるのも面白い。
知を背負い込むことの恐怖感、という問題はあると思う。
俺は知っている、しかし誰も知らない、そんな恐怖心に静かに満たされる時がある。
その総量少ないうちは単なる自負に昇華される。
しかしある臨界点を超えると次第にそれは恐怖感へと変わってゆく。
この恐怖感は厄介だ。解消するための打つべき手がなかなか見つからない。
芸術というものの存在の意味はそこで今一度考え直される。
2007/12/25のBlog
[ 22:22 ]
人が文字を読むということはどういう行為なのだろうか。
そう、もちろんそれは、まず、ある個人の実存に関わるものであること。
これが根源的な条件ではある。しかしこれではわけがわからない。
そこから、二つに分けよう。
まず、自己存在感とでもいうべきものに関するもの。
次に、五感を通じた人間の本能的な欲求に答えるもの。
書物の本質はこの二つに大別できると思う。
前者は所謂<実存>に関する思索のヒントを与えてくれるものであり、所謂「純文学」と呼ばれてきたものが主に当てはまると言っていいだろう。
後者は俗的な言い方をすればエンターテイメントと称される類のものである。
もちろんこれらははっきりと分別できるものではない。
互いの要素が入り混じったところに、それを見出す者=「読者」が誕生する。
そう、もちろんそれは、まず、ある個人の実存に関わるものであること。
これが根源的な条件ではある。しかしこれではわけがわからない。
そこから、二つに分けよう。
まず、自己存在感とでもいうべきものに関するもの。
次に、五感を通じた人間の本能的な欲求に答えるもの。
書物の本質はこの二つに大別できると思う。
前者は所謂<実存>に関する思索のヒントを与えてくれるものであり、所謂「純文学」と呼ばれてきたものが主に当てはまると言っていいだろう。
後者は俗的な言い方をすればエンターテイメントと称される類のものである。
もちろんこれらははっきりと分別できるものではない。
互いの要素が入り混じったところに、それを見出す者=「読者」が誕生する。