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2006/02/14のBlog
[ 10:26 ]
[ 私の信条 ]
人類または人間の話です。
このごろしきりと、わたしたち日本人は・・・とか、日本人として・・・とか、日本の伝統を守るためには・・・ということが言われます。
私はこの歳(53歳)になっても、こういう言辞を弄する政治家や評論家や学者や教育者や役人が何を言っているのかさっぱりわかりません。
中国人という人類(人間)がいる? 韓国人という人類(人間)がいる? 日本人という人類(人間)がいる?
あべこべですよね。
人類=人間としてはみな同じであり、たまたま私は日本という地域に生まれ育っただけです。
日本人という意匠をもった人間がいるのであり、韓国人という意匠をもった人間がいるのであり、中国人という意匠をもった人間がいる、そういうことにすぎません。
普遍的な了解への道が開けるような考えや行為をつくるにはどうしたらよいか? 国家エゴイズム(自分たちだけが特別な存在だという思想)をどうしたら小さくできるか?そういう方向での言動をするように、ひとりひとりが努力する、それがおおきな意味での利益=ほんとうの得をもたらすのではないでしょうか?
日本だけは時代区分まで「一人の人間の生死」で変えるのだ!「元号制度」こそ世界のどこにもない日本の個性だ!
私はそのような頑なな思想=制度は、ひどい自我主義であり、幸福をつくらないシステムでしかないと深く、強く確信しています。開かれた文明―開かれた国家―開かれた思想のためには、まず何よりも自分の心身を開かなければダメですね。
日々、新鮮。日々、創造。
囚われのない自由な心の想いを羽ばたかせてこそ、真の友好、真の国益は得られるのです。
「国益」を先に考えるような思想は、小さく固いです。そういう想念では何事もなしえません。これは原理です。個人でも政府でも、ひょうひょうと「狭い自我」を超えられる者が豊かな世界を生み出すのではないでしょうか?
相手を変えようとするから失敗するのです。己を変えることです。自分が変われば相手も変わります。人間の生・文化は「逆説」でできているのですから。
武田康弘
2006/02/13のBlog
[ 10:44 ]
[ 教育 ]
1月28日に金泰昌(キムテチャン)さんが「白樺教育館」のソクラテス教室(大学クラス)の授業に参加されて述べられていたことですが(「公共的良識人」紙にも書かれていますーキムさんの「生い立ち」からくる実体験に基づく話です)、
中国人は「理」(合理・論理・・・・)
韓国は「気」(気持ち・元気・・・・)
日本人は「場」(場所・場合・・・)
を重んじる。
この三つが揃うことが大事。
これはほんとうにその通りで、深く噛みしめたい言葉だと思いました。
どれか一つが欠ければ、その言動は無価値になってしまいます。
心しようと思いました。
キムさんに感謝です。
2006/02/12のBlog
[ 09:48 ]
[ メール・往復書簡 ]
以下は、公共哲学ML内でのメール対話です。
武田です。
久松さんらの努力に感謝します。
小学生の時以来の考えですが(まったく進歩なし!笑)、自衛隊は、大規模災害の救助をその中心任務とすると規定し、日本の領土が攻撃された場合のみ、防衛のために闘うとすればいいのにな~、それが一番現実的な考えなのに、なぜそうしないのか?今日までずっと不思議に思っています。
そうすれば自衛隊に入りたいという人も増えるし、皆から喜ばれて仕事のやりがいも出て「得」なのに、という考えは今も変わりません。幼稚でしょうかね?
いい年のおじさんが毎日本気で「戦争ゴッコ」をやっているなんて、「頭がおかしい」としか私には思えません。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
武田さん、まったく同感。きくちゆみ
On Feb 7, 2006, at 8:58 AM, 白樺教育館ー武田康弘 wrote:
> 武田です。
> 久松さんらの努力に感謝します。
>
> 小学生の時以来の考えですが(まったく進歩なし!)、自衛隊は、大
> 規模災害の救助をその中心任務とすると規定し、日本の領土が攻撃さ
> れた場合のみ、防衛のために闘うとすればいいのにな~、それが一番
> 現実的な考えなのに、なぜそうしないのか?今日までずっと不思議に
> 思っています。
>
> そうすれば自衛隊に入りたいという人も増えるし、皆から喜ばれて仕
> 事のやりがいも出て「得」なのに、という考えは今も変わりません。
> 幼稚でしょうかね?
いえ、戦争ごっこをやっている方が幼稚ですよ。
男の子と女の子を育てていると、つくづく思うのですが、うちの男の子
(4歳)はやっぱり戦う事や戦闘機などをかっこいいと思い、そ
ういうもので遊びたがり(うちはそういうおもちゃは買ってあげないの
で)、自分で作ったりして、戦争ごっこをします。女の子(5歳)は
まったく興味をしめしません。男の子はいつもいつも「バババーン」と
やっています。
性差なんですかね。それとも個性なのかな。男の子でも違う子もいるで
しょうが。
>
> いい年のおじさんが毎日本気で「戦争ゴッコ」をやっているなんて、
> 「頭がおかしい」としか私には思えません。
ねえ。
――――――――――――――――――――――――――――――――
きくちゆみ様。
武田です。
人間は本能で規定されている部分が少ないために、それに変わる第二の本能とでも言うべき「文化」=秩序をつくり、それに従って生きているわけですが、それは必ず制度疲労を起こします。たえず賦活化していかないと、人間の生の実情と合わなくなり、「文化」による自己疎外が起きます。
人間の文化のありよう=型は、壊し、創る作業を不可避のものとして要請してくるというわけです。
男の子が怪獣や最新鋭の機械、強力な破壊兵器に興味を持つのは、破壊と創造=「型」そのものの変更への欲求で、頼もしい能力です。そうでなくっちゃ!
でもそれが成長しないで、止まる(親が止めてしまう)と、社会をよく変えていくための営為=新たな建築・創造へという方向に進歩せずに、単純な力=戦争への潜在的な憧れを抱えもつ大人になるようです。心の成長が止まってしまった結果です。欲求は十分に肯定される(認められる)と階段を昇るようにできていますが、せき止められると、隠れて増殖してしまいますね。
ダイナミックな逆説を必要とするのが人間とくに男(の子)です。男はバガでどうしようもないですが、そのバカゆえに「地上の星」にもなるというわけです。女性でももちろんそういう人はいますが、大雑把に巨視的に見れば、そういう傾向を持つ、というように思えます。
では、また。
メール、ありがとうございました。
2006/02/09のBlog
[ 13:12 ]
[ 社会思想 ]
私のブログに反証するかのような番組が、いま、お昼の6チャンネルの番組で流されました。東京拘置所はホテルのようです!?お正月には豪華な重箱もでます!?と。
しかし、よく内容を聞けば、「情報」はまったく遮断され、拘置所で編集したラジオが聞けるだけ。黙秘者には接見も差し入れも不可、とのこと。「腕立て伏せ」をすることも禁止!?!?
これは、間違いなく、「日本国憲法」と「世界人権宣言」に反すると私は判断します。責任ある教育者として。
「黙秘権」は、基本的人権の一部として明文化され、人権宣言にも大事な権利として掲げられています。なぜ為政者―「官」は、法律を守らないのですか?どなたか納得のいくようにご説明願えませんでしょうか?
「容疑者の人権」をもしっかり守ること、それができない稚拙な思想=制度では国が滅びます。
人権に対してどれだけ敏感か?それがよき社会=健康な社会のバロメーターなのです。おおきく深く全体的に考えることができない人々ばかりでは、活力ある健全な国にはなれません。これは原理です。
武田康弘
(付き) 10日(今日)の新聞をみると、横浜事件で、また裁判所は自己の非を認めず、逃げを打ったとのことです。裁判所や警察、検察を市民の良識でチェックする第三者機関=オンブズマンをつくらないと、民主制とは名ばかりの「官僚独裁社会」から抜け出せません。なにかどんどんひどくなるとの思いを強くします。無実の人が警察と検察によって罪人にさせられる日本という社会を正していくのは、良識ある市民の役目でしょう。
[ 10:56 ]
[ メール・往復書簡 ]
武田の「主観を消去する日本というシステム」(クリック) に対して以下の紹介文が「ソフィオロジー(叡智学)へむけて」に載りました。感謝です。
『 以下は、正鵠を射た洞察である。私が日本社会における桎梏であると考える父権的部族主義・封建的共同体主義を捉えて、的確に日本社会の病巣・患部を指摘し、また、処方箋を説いていると考えられる。多くの日本人に読んでいただきたい。』=「主観を消去する日本というシステム」 武田康弘
また、破れる前に目覚めよ(クリック)にも 「海舌」に以下の紹介文が載りました。これも合わせて感謝です。
『⇒端的で深い内容の記事で何も付け足す必要が無い。』=深く感動的な名社説ー今朝の東京新聞ー破れる前に目覚めよ。ー「思索の日記」
2006/02/08のBlog
[ 08:21 ]
[ 恋知(哲学) ]
以下は、松戸市の市民団体からの依頼で書いたものです(一部加筆)。現・我孫子市長の福嶋浩彦の政治思想と武田の哲学(民知という発想による「恋知」)との関係についてです。
豊かな主観性を! 発想の転換ー福嶋浩彦の原点
まず、皆が自分のありのままの「思い」を肯定し、そこから出発しようではないか。深く豊かな「主観性」を形成しあおうではないか。誰でも自分の頭の外には出られないのだから、絶対的な合意は得られないことを互いに了解しあおうではないか。
人間・社会問題においては、「客観的な真理」という想定は背理であること。したがって、目指すべきは、原理的にはありえない「正しい」人間や社会とは?を考えるのではなく、「魅力」ある人間や社会とは?を考えること。これが武田の思想ですが、その思想を支える認識論(哲学)の基盤は、解釈し直された「現象学」(最大の功労者は私の旧友・竹田青嗣さん)です。
1987年の冒頭から始めた「哲研」(哲学研究会)では、従来の客観主義的な思想や哲学(その象徴は社会主義・共産主義)と様式主義=「型」の文化(その象徴は近代天皇制・靖国思想)とは全く次元を異にする「実存論」的な思想とそれを支える「現象学」の探求をその主要テーマとしました。右と左の同時超克を目がけたのです。当時私が師事していた竹内芳郎さん(サルトルやポンティの訳者)の思想を徹底することで「民知」(この造語は後のものですが)をつくろうと苦闘しました。直接体験(内在としての知覚―情感)から出発する哲学、従来の哲学とは次元を異にする哲学ならざる哲学を生むための猛烈!な努力を続けました。
私の心友、現・我孫子市長の福嶋浩彦(当時33才・我孫子市会議員)は、最初から「哲研」のメンバーでしたが、1988年6月に私の提案により個人紙「緑と市民自治」を発行。我孫子市の全家庭に新聞折込による配布を始めました。福嶋さんと私の二人で作成・編集したそのミニコミ紙の内容は、上記の思想・哲学に基づいたもので、当時まだどこにもなかった「思想」をつくり、それに拠る新しい「実存論に基づく社会運動」を創造しよう!という意気軒昂なものだったのです。
あえて文学的な言い方をすれば、私は私に閉じ込められているという「絶望」からの出発が、深い地点で、生産性に富む思想の湧出と、人間関係の深化・拡大を可能にしたのです。当時、社会党市議だった現我孫子市長の福嶋さんが依拠していた「社会主義」という体系的な思想から「市民自治」という「民知」に基づく不定形な思想への跳躍が、その後の彼の発展・飛躍を可能にした原動力だと言えましょう。
「合意」とは得がたいものであること、「客観的な真理」や「絶対的な基準」とは背理であることを互いに自覚しあうことが、非生産的で無用な言葉の応酬や、互いの「真理」の主張による深刻な対立を回避するための基本ルールではないのか?
こういう当時としては(今でも?)逆転の発想は、人を強くします。自ずと心を鍛えます。しがみつく「学の伝統」や「思想信条」や「権威ある他者」は存在しないわけですから、自他の知恵、生活世界から立ち昇るふつうの知=健康な知だけが頼りであり、それを生かし合う道だけが残されている、ということになります。真理の保持者はいない、という民主制社会の原理=初心を絶えず賦活化させるこの「考え」を貫くことができるか否か?それが核心。
当時、一人の社会党市議であった福嶋浩彦は、実は、社会党内のルール破り!全戸配布の個人新聞―「緑と市民自治」を出すことで、一人の自立した政治家への道を歩み出したのです。この新聞の発行はその原点です。地域割りして出していた「社会新報・福嶋浩彦版」を廃止し、市内全域に配布する個人新聞を出すということは、当時どれほどの勇気を必要としたか?は、今では想像し難いことでしょう。
最後の確認、「青刷り」を前にして、柏市の岡田印刷・待合室で再び悩む彼の姿は、今でも鮮明に脳裏に焼きついています。「もし、社会党内で困った事態になれば、私が責任をもって彼らを説得する。私が強引に全戸配布を決めたのだから。」という悪魔(笑)武田の断固たる囁き?で、社会党市議・福嶋浩彦は、ルビコン川を渡ったのでした。
武田康弘
2006/02/05のBlog
[ 10:40 ]
[ 書評 ]
戦艦「大和」に散った人たちの悲痛な叫び声が聞こえます。
「負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。敗れて目覚める、それ以外に日本はどうして救われるか。今目覚めずしていつ救われるのか・・」(臼淵磐大尉)
という書き出しで始まる今日の東京新聞の社説は、頭脳を感動させることで、涙さえさそう見事な社説です。
昭和初期、革新官僚と呼ばれた人たちが日本を次第に泥沼に引きずりこんでいった歴史の真実を思い起こし、改憲・改革の集団催眠からさめ、「今度こそ破れる前に目覚めよ」の声を聴こなければ、とい結語に至る「論説」をぜひご覧下さい。
ココをクリックすれば出ます。
武田康弘
2006/02/04のBlog
[ 13:56 ]
[ 教育 ]
1970年代初頭、学生運動終結後に、
自民党文教族と文部官僚は、徹底してこどもたちの管理に乗り出しました。
こどもの自発性を封じ込める三点セット
① 長時間の運動部活動
② 管理主義の校則
③ 受験主義の勉学です。
これを私は、こども「囲い込み」運動と呼びます。
左派もこの管理化には抵抗せず、彼らの「理論の中」にこどもを閉じ込めたのです。
ありのままの元気横溢な子どもの姿は次第に見ることができなくなりました。
それは意図的な「囲い込み」運動の成果であり、自然な成り行きなどではありません。まことしやかに囁かれるコンピューターゲームの普及などとは無関係です。
こどもたちの「自由」は意図的に消去されたのです。
管理者たちは、「集団同調」の圧力を作り出すことで、個人の自由を盗んだのです。
体力の低下も、学力の低下も、この管理化―「囲い込み」運動の結果です。
責任が政府と文部官僚にあることは明白です。三十数年前からの保守主義の見事な!「成果」だ、と皮肉を込めて言いましょう。
スポーツ部活動、学外の子どもたちの自由な運動ーあそびもまた大人の統制化におく「スポーツクラブ」。「あそび」クリックが奪われ、単一のスポーツ競技をさせられることで、総合的な体力は落ちていきました。
受験第一の効率主義は、自分で考え出す面白さを奪い、底力のない上っ面な知性を生みました。なぜ?どうして?何のため?が奪われ、技術主義的な知がもてはやされれば、勉学に内的な意味や面白みを感じることは不可能です。
競技主義のスポーツ訓練が「体力」を奪い、技術主義の効率主義が「頭脳」を奪ったのです。大きな悦び、面白み、ワクワク・ドキドキの自分からする体験が奪われれば、人間の生の力-人間力は落ちていきます。さまざまな物質的条件が整えられても、自由が奪われれば、人間は死ぬのです。後にはただの事実としての人=「事実人」(フッサール)しか残りません。
このひどい、あまりに愚かな政策の立案者(共同正犯)は、一体どのように責任をとるのでしょうか?
偽装・偽造建築程度の問題ではありません。人間の活力根絶やしの「根源悪」を生み出した管理主義=こども「囲い込み」運動を早急に改めなければ、未来はありません。
おどけ・ふざけ・悪さ(クリック)の上にしか、未来は築けないのです。これは原理です。
武田康弘
以下は、「公共哲学ML」内でのメール交歓です。
武田さん みなさん 平野慶次@京都です。
今の子どもらに起きている変化は、もう既に大人になっている人にも起きていると感じています。
新人類なんて言われた来た人たちがもう既に40歳代です。マニュアル世代もそろそろ40歳代です。
つい先頃、京都で中学校教師をしていた友人が言ってましたが、「最近の教師は何でもできるのに言われないことはしない。」と。これが、今の「でもしか先生」です。
そんな教師の指導によって良い影響があるとすれば反面教師ってことしかないでしょうね。
特に公立中学校は、みんな揃っててな掛け声によって更なる同調圧力が高まってい
ます。
実は今我が家にも「不登校」のレッテルを戴いているのが一人います。中学校3年
です。14歳と言うと、人生の重荷を一度降ろす時期です。感受性豊かな息子は、徹
底的にさせられる勉強を避けています。
このレッテル貼りをするまでは、毎日のように電話と訪問がありました。仲の良い
クラスメートの派遣もありました。一度レッテルが貼られると週に一度のアクセスに
なりました。とてもデジタルな対応ですね。
息子に関しては、これからどうなるのか見当もつかないですが、愉しみです。
「囲い込み」については、似たような感覚です。更に言い進めるなら、「思考の時
間の剥奪」でしょうね。運動系のクラブ浸けにし、余計なことを考える気力も体力も
奪います。文系クラブでも似たような忙しさに浸らせます。
ではでは
(平野さんの専攻は数学で、「ホリスティク教育」の推進者の一人です)
―――――――――――――――――――――――――――――――
平野様。皆様。
武田です。
「今の子どもらに起きている変化は、もう既に大人になっている人にも起きていると感じています。
新人類なんて言われた来た人たちがもう既に40代です。マニュアル世代もそろそろ40歳代です。」(平野)
全く同感です。
構造欠陥人間が構造欠陥社会をつくっています。不定形なものをそのまま掴む、という深い力がなく、マニュアルがないと何もできない頭の硬い人間は、「管理社会」でなければ生きられないようです。
カタログで商品を選ぶがごとく、右のマニュアルか?左のマニュアルか?西洋風のマニュアルか?和風のマニュアルか?はたまた第三のマニュアルか?(笑)
どれにしようかな、と思案!?するわけです。三十数年間もの「囲い込み・思考消去」の集団同調主義教育は、自己決定するとはどういうことかが分からない人間だけをつくり出してしまいました。
硬い岩盤の下を支えるのは流動物だ、ということが分からない硬直した精神では何事もなしえませんね。
ここからいろいろ書きたいのですが、もう遅いので今日はここまでにします。
では、また。
武田。
―――――――――――――――――――――――――――――――
(色平哲郎さんから)
「感受性豊かな息子は、徹底的にさせられる勉強を避けています。」(平野)
いやーっ、「させられる勉強」、、、
レジスタンスは必要ですよね!
私の場合、小学校2年で、九九を覚えること、漢字の書き取り、の二つにレジスタンスして、「お宅のお子さん、特殊学級、いかがですか?」と担任の先生に言われちゃったのよ、と母が語っております
今も、九九は半分しか言えないし、漢字も中途半端で、かっこ悪い、、、でも現実にはほとんど困っておりません。
信州・佐久にて いろひら拝
(色平さんは、医師で、いろいろな社会活動もしている人です)
―――――――――――――――――――――――――――――――
武田です。
レジスタンスは必要ですよね!(いろひら)
そうです!!
盗まれ、消去された「自由」を取り戻し、さらに新たな「自由」を生み出すために、徹底した「非暴力不服従」のレジスタンスを日本中で巻き起こしたいですね。
子どもの心を失わない大人と子ども自身との「連帯」で。
2006/02/01のBlog
[ 12:33 ]
[ 社会思想 ]
いざという時のため、という理屈でアメリカ軍と自衛隊の共同の軍事訓練が始まりました。
中国が仮想敵国だそうです。
中国が日本に攻めてくる!?そんなことを本気で考えている人がいるなら「病気」でしかありませんが、
実はそれがウソだということは、当事者たちも分かっているのでしょう。
軍事力には、強烈な自己保存、自己拡張の「本能」があります。
お金と同じです。それ自体が自己目的化するのです。
明瞭な意志、その「力」をコントロールする健全な思想のパワーが弱まれば、ただちに増殖を始めてしまいます。
極めて分かりのよい直接的な力―単純な暴力という力で問題を解決し(もちろん解決はしませんが)、己の優越を示すというのは、男が金や暴力で女を支配するという発想や、東大だから一番偉い!という発想と同じです。
こういう不幸を呼ぶ不毛な発想を断つのは、とてもやっかいです。
文明は「力の論理」に乗って発展してきたわけで、それを覆すためには、人間の生きることーその意味と価値に対する見方をおおもとから変えなくてはなりません。
多くの人がエロース豊かな生を生きるためには、その「力」の論理を支えている「所有」に価値を置く見方の変更が必要です。知識・履歴・財産の所有を追いかける人生から、存在そのものの魅力を広げる生き方への転換です。( 「主観を消去する日本というシステム」クリック)私たちの「哲学の会」―それが発展した「民知の会」を支える中心理念は、『所有から存在へ』なのですが、それを生き方のエロース革命と呼んでいます。
アメリカも世界中から嫌われる露骨な「力」の論理から、柔らかな共生の論理へ転換する必要がありますが、相当に困難な話です。軍事力の維持を自己目的化し、そのためにさまざまな「脅威」を意図的に作り上げる政策を転換するためには、アメリカ人の生の実存的回心が必要だからです。
私たちも日本人という枠組みを越えて、ひとりの人間としてどう考え、生きるのがよいか?というおおきなスケールで物事を捉えたいと思います。囚われのない普遍性の強い見方ができれば、皆の「得」になるのですから。
中国・韓国とのダイナミックで生産的な関係の構築は、日本とアジアの発展と世界平和のために何よりも大切なもの。私はそう確信します。
為にする宣伝、扇情的な言説(石原慎太郎のような)に惑わされるのは、誰にとっても「損」なことです。
武田康弘
2006/01/31のBlog
[ 14:31 ]
[ メール・往復書簡 ]
武田 様
金先生のお話、身に染み入りました。以前、武田先生と[対話と文字(書かれたもの)]についてメールのやりとりをしたことがありました。あの時、対話を重視する必要からなのかしらと思うほど、書くことに冷淡なご意見を見て、違和感を持っていたのですが、金先生の靖国問題に関するお話はスーと身に浸みました。つまり[ 百聞は一見に如かず]、つまり「見」は文字も含むのかもしれないと思いました。でもこういうこともあります。見た目もパーとしないし、話し下手、ところが書いたものを読んではじめてそのひととなりがわかったなんてこと、あります。その人の自己表現はその人にいちばんふさわしいあり方があるのではと思うのです。見た目の好感度高く、書いたもの、話もよくできる、しかし、こういうことをする人とは思わなかったということもありますものね。五感、第六感などということ大切にしたほうがよいということをフィロソフィする必要があるのでしょう。
ではまた USAKO
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
USAKOさま。
武田です。
私は、たしかに書くことに「冷淡」かもしれません。どうもすみません。ただし、毎日書いています(笑)。
もう少していねいに言えば、書くことで逃げを打つことは許さないぞ!(きつくて失礼)という意味での「冷淡」な姿勢です。
この社会が、日々の生きた生々しい具体的経験を軽んじ、「書かれたもの」に権威を与えていることは事実だと思います。その中で、全身で感じる力が鋭く強くても、文字的思考や表現を得意としない、または嫌う人の声は不当に低く評価されてしまいます。書き言葉を、いまの生きた現実よりも上に置くという価値意識があるとすれば、不健全だな、不幸だな~、と私は思っているわけです。書き言葉を権威化させてしまうと生の悦びを押さえてしまい、損だ。悦びを広げるように、上手に書き言葉を利用しようよ!書き言葉を現実の生を助けるよきアイテムになるように、「得」を生み出すように遇するようにしようよ。私は、そう考えているわけです。
書くことを得意とする人、または、書くことでしか自分を表現できない人を尊重しない、というのではありません。今までの社会では「書き言葉が偉い」という価値観が強いために、わざとその「危うさ」を強調している、というに過ぎません。
書き言葉の方が優れている点も多々ある、また書く作業によって思考が明晰になることも確かだと私は考えています。だからこそ皆に「書かせる」授業もし、書くことを奨励してもいるわけです。
私も「思索の日記」をはじめ、いろいろ(頼まれ原稿を含めて)書いている、毎日、メールも書いているわけです。
ただ問題は、書くことで解決したと思い込んだり、またさらに、批判的ないしは弁証法的思考の訓練をして、そういう種類の言い方ー言語使用をすれば、何事かがなし得るという信仰は困ったものだなあ~、かえって納得をつくること、合意や妥当を生み出すことを阻害してしまう。広い意味での「考える」というエロースが消されてしまい、みんなが民知や恋知のよさ=面白さを体験しつつ社会(世界)をつくっていくことにはならない、そう思うのです。
それでは「よい」ことをしようとして、かえって不幸を生みだすことになってしまう。自他のありのままの意識を掬い上げる方法は、試行錯誤で少しづつ互いの納得のもとに絶えず変容させていくもの、そうした臨機応変、当意即妙の自在の精神に支えられてはじめて「人間的なエロースの生」は可能になる。特権者はいない、、おっと、
話がズレてきましたので、このへんでお仕舞いにします。失礼。
いつもよいご指摘をありがとうございます。
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武田 様
USAKO
お忙しいのに、あれだけ書いていただいて、恐縮いたしております。自分のを読んで、舌足らずであったと気がつきました。
文字(書かれたもの)は、「百聞は一見に如かず」でいうと、「聞」にもなるし、「見」にもなるということを言いたかったのです。文字(書かれたもの)に対する気迫溢れるお言葉(書かれたもの)はよく伝わりましたよ。なにか、私が書いて済ましていると思われているのかなと思ったり
するくらいにネ。
人が恋をしたとします。そのことを人に話したり、書いたりしても「ゴチソウサマ」と思われるだけの場合があります。しかし、すぐれた文学作品に接したとき、その想いが自分の実感と重なって共有できることがしばしばあります。文学というジャンルには、(書かれたもの)のなかにこのような魅力をもっているものがあります。この(書かれたもの)をそのようにしてしまう力量のようなものをフィロソフィに求めることはむりなのでしょうか。こんなことを考えてしまいます。
お返事は今後の先生の作品のなかに反映していただければうれしいかぎりです。
お風邪など召しませんように。
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USAKOさま。
武田です。
具体的にことが進んでいるとき(成果が得られているとき)、そこでの思考―言葉の進展は、なかなか「作品」にはならないですね。恋愛も、関係がうまく進んで愉悦の時間が流れているときには、その有様は「文学作品」にはなりません。終わったあと、挫折した時にはじめて「作品」成立の可能性が出てくる。
作品ならざる作品の新しい世界を開拓する、従来とは異なる異次元の領域を拓くことができれば確かに面白いし、有益だと思います。それは図ってできることではないでしょうが、新しい知や学を生み出す実践の中で、常識を打ち破る作業の中で、もしかしたら思いもよらない文字―活字世界がつくられるかもしれません。そうなったら凄いですね。ワクワク・ドキドキ、ウルトラC、D、E、F、G・・・恋知のエロースが天上より降り来たる!!!!
分かりやすくて、面白くて、カジュアルなのに高品位、親しみいっぱいで、華があり、精緻にしてラフ、優美にして最強、、、、、
どんどん脱線していきそうですので、このへんにしておきます。
では、また。失礼。
2006/01/30のBlog
[ 23:02 ]
[ その他 ]
今度の日曜日―2月5日、「男女共同参画講演会」が開かれます。
場所は、我孫子市民会館(市役所のとなり)
時間は、13:30~15:30。
講師は、小西聖子(精神科医)さんです。
上記の案内をブログに出してもらえませんか、というメールがカワイ・スミエさんからありましたので、喜んでお引き受けしました。カワイさんは、このブログにコメントを寄せてくれている方で、元、竹田青嗣さんの生徒さん。西研さん夫妻とも親しくされているようです。現在二児の母で、「あびこ女性会議」に所属しているとのことです。私も昨年暮に「白樺教育館」でお話をしました。
『 2月5日に男女共同参画講演会が市民会館であります。児童虐待及びDV問題を被害者支援の視点からの講演です。お忙しいとは思いますが、ぜひ、来て頂きたい!と思います。
男女共同参画というとどうしても女性がクローズアップされますが、これは男性にとってもとてもイイ!施策と思ってるのですが、それをわかってる男性は少ない…伝える方がへたくそなのだ、というのも一理あると思うのですが、人の話しを聞けない男性が多いのもまた事実。タケセンからの意見をぜひお聞きしたいですし、ブログでこの問題を扱っていただけるととても嬉しいです。』(カワイ・スミエ)
私も参加します。講演者の小西聖子さんは、だいぶ前ですが、福嶋さん(現・我孫子市長)と私の二人で出していたミニコミ誌―『緑と市民自治』(我孫子市内全域に新聞折込で配布・4万部)にご登場願った方で、とても感じのよい女性です。お時間に都合のつく方は、ぜひどうぞ。
武田康弘
2006/01/29のBlog
[ 14:04 ]
[ 教育 ]
サルに芸を仕込むように、犬を躾ける様に人間の子どもを教育すれば、サルのような、犬のような属性を示す人間しか育ちません。
芸・型・パターンを仕込むことを目的とする教育は、人間をその深部で殺します。
思い・悩み・全身で思考すること(私の教育実際を知ったキムテチャンさんはそれを「身考」・「身想」と名付けてくれました)なくしては、人間は人間になりません。
人間になるとは、自分から始まる人生を生きる存在になるということです。
その核心は、「あそび」です。特定のスポーツ競技の訓練ではなく、「あそび」は「人間力」を育てます。人間ならざる人間=機械的な紋切り人ではなく、自由な広がりと輝きもったエロース人をつくるのが「あそび」です。仕込まれた「型はまり人」ではなく、自分からはじまる不定形な世界をあそぶことができる能力―この人間に与えられた最高の能力は、技術主義的なステレオタイプの教育では、全く育ちません。消去されてしまいます。
「あそび」とは、身体と頭脳の双方-心身全体の最高の「トレーニング」であり、ほんものの教育(知育・徳育・体育)への鍵です。
「考える」ということも広義の「あそび」です。あそび心がなければ、考えることはできませんし、考えることはあそび心を広げます。厳禁の精神や技術主義な知に陥れば、人間はエロースを失い、人間としては死ぬしかありません。
金泰昌(キムテチャン)さん、来館
昨日午前10時40分にわが我孫子の「白樺教育館」を訪れた金泰昌(キムテチャン)さんは、福嶋市長と私との三者会談に引き続き、大学生・社会人の「恋知」(哲学)の授業に参加され、深い共感と大きな喜びを表されました。
一週間ほど前に、私が30年間続けている子どもたちの式根島「キャンプ・ダイビング」の様子をビデオで見られたキムさんは、「いや~、凄い!素晴らしい!これは通常の言葉では言い表せない教育であり、それを支える思想だ。身育―身考ー身想という言葉を創ってみました。」と電話で話されていましたが、昨日、授業に参加されても同様な感想を述べられていました。
大変うれしいことです。深く感謝します。
それにしても71才のキムさんは、大阪から来館され、食事も取らずに9時間休みなく(おやつをつまみながら)、話し続けたのでした!!!!
武田康弘
2006/01/27のBlog
[ 12:53 ]
[ 社会思想 ]
どうして行政を中心とする不当な権力行使に対して、マスコミをはじめ多くの人は、自己規制して黙っているのでしょうか?
ふつうに見れば明らかにおかしいこと、それも個人の思想信条に関わる重大な問題への侵害に対してなぜ見て見ぬふりをするのでしょうか?
自衛隊宿舎のポストにビラを入れた反戦市民グループの人が、ただそれだけの理由で何ヶ月間も拘留された、ということが、なぜ、政治の重要問題にならないのでしょうか?
私は、そのビラの内容には賛同できませんでしたが、ビラを入れたことで何ヶ月間も警察署内に拘留されて自由を奪われるということが、民主制社会で許されることでないことは、自明の話だと思います。極めて重大な人権侵害を公務員(警察官)が白昼堂々と行い、それがまかり通る国が、民主制国家? 私にはどういうことなのか全く理解できません。
嫌がる人にまで、歌を歌うことを強要する(明治天皇に捧げられた天皇賛歌「君が代」斉唱の教育現場での強制)というのも重大な人権侵害ですが、なぜふつうの多くの人は黙っているのでしょうか?
一昨日「無罪判決」が出た幼児殺害事件でも、一つの物的証拠もないのに起訴した検察庁の役人は、議論の余地無くただのバカ(かつ冷血漢)でしかありません(私は教育者として責任をもって断言します)。憲法にはっきり規定されている原則(第38条―何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない)さえ守らない人間が司法官憲・検察官だとしたら、外国から「官僚独裁国家」と規定されても当然ですね。こんな判断しかできない人間でも司法試験に合格する、これもひどい偽装・偽造問題です。
個人の感じ方―思いー考えを最大限尊重することが民主制社会の基本原則であり、そうであるからこそ、社会には豊かなエロースが広がり、エネルギーが漲るのです。法律を行政権力に都合のよいように解釈・運用して、「思想および良心の自由」を押さえ込む国、気の弱い口下駄な人間を「殺人者」にしてしまう国、
それに対して「ノー」という意思表示を皆がしなければ、間違いなく日本はおおもとから腐ってダメになります。思想信条が管理され、統制されれば、まともな人は窒息死し、後にはただの事実としての人=事実人(フッサール)しか残りません。
「主観を消去する日本というシステム」(クリック)を見てください。
以下は、ヴォルテールの有名な格言―民主制社会の屋台骨を支える言葉です。
小学5年生の時に、この言葉を『社会のしくみ』という本の中で見つけたときの痺れるような感動を、私は53歳の今でも鮮明に記憶しています。
「私は、あなたの言うことには一言も賛成できない。しかし、あなたにはそれを言う権利がある。私はその権利を死を賭けても守るつもりだ。」
2006/01/25のBlog
[ 11:37 ]
[ 社会思想 ]
新聞、テレビの報道を見る限り、「東京拘置所」は、人権侵害の問題で国連から改善勧告をうけるような状態にあると言えるでしょう。
鈴木宗男氏の証言を見るにつけても、容疑者を裁判を受ける前に「犯罪人」と決めつけ、外も見えない(小さな曇りガラスの窓)非人間的な環境に閉じ込めるという「東京拘置所」の実態を知ると、わが日本という国は、「野蛮な後進国」にすぎないとつくづく思います。
経済だけを追求し、人権という民主制社会の基本前提について本気では考えない非道で非人間的な国家、それがわが日本という国なのですね。
法務省のお役人さん・検察庁のお役人さん・警察庁のお役人さんには猛省を促したいと思います。
下の再録ブログにもあるように、私は、ホリエモンの生き方ー思想には根本的に反対ですが、人権を蹂躙する人間とその組織は、明らかにホリエモン以下だと確信します。
東大法学部卒の官僚が支配する「愚か者」国家から早いところ脱却したいものです。
(「日本社会を本気でよくしていきたいと思っている人にとって、ウォルフレンの「日本権力構造の謎」クリックは今なお必読の名著です。)
武田康弘
2006/01/24のBlog
[ 09:55 ]
[ 社会思想 ]
以下は、昨年の3月7日のブログのコピーです。
2005/03/07のBlog
同じ穴の狢―ホリエモンと旧・経営者―べジータが偉い!?
「何のため」はないーただイチバン強いことを求める、というのが『ドラゴンボールZ』のべジータでした。
一番金持ちになること、一番大きな会社になること、自分または一族が覇権を維持すること。それが目的!?!? ニーチェが描いた超人・ツァラトゥストラの「ライオン」段階(両者ともかなりみすぼらしいライオンですが)に留まる人たちの「学芸会」にはエロースが乏しいですね。
「真実はなくても、金さえあれば皆がついてくる」というのが、彼らの本音のようです。
「点数」それ自体、「貨幣」それ自体、「権力」それ自体、「腕力」それ自体、「性交」それ目体が目的!? 目的ならざる目的の世界。理念やロマンのない人間が幅を利かせる世の中には「ニヒリズム」しか与えられませんね。
「点数」も「貨幣」も「権力」も「腕力」も「性交」も、豊かな理念やロマンの世界に支えられた日常を《地》として持っていないと意味を失います。人間を幸福にしません。これは原理です。
何よりも人間に必要なのは、真・善・美に憧れるロマンの心です。美しいこと(人)・よいこと(人)・真実なこと(人)に憧れ、それを求める心です(哲学①②③を見て下さい)。
ソクラテスが二千数百年前に看破した人間の生きる意味と価値=善美のイデアという幻想価値だけがあらゆる人間の営みを支えるという「実存の原理」が忘れられ、貨幣いう幻想価値が、善美という幻想価値を上回ると、人間―社会は死んでしまいます。
ベジータではなく、悟空がいいですね。そう、あの超人・ツァラトゥストラは、「駱駝(らくだ)」から「ライオン」、そして「子ども」へと進化したのでした。
リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラ』(小澤征嗣・ボストンso)を聞きながら。
2005/03/07 武田康弘
2006/01/23のBlog
[ 15:48 ]
[ メール・往復書簡 ]
1月11日のブログー「主観を消去する日本というシステム」クリック)を読まれた森下さん(イギリス・ロンドンの大学院で社会学を学んでいる方)からコメントがありましたので、以下に貼り付けます。
1月17日森下
日本では学術論文を書くとき「私は」(I)という主語を使ってはいけないと指導されました。学術論文は客観的なものでなければならないという観点からです。
欧米でももちろん「客観的な真実」という伝統は残っていると思います。でも、社会学の分野に限っていえば、その伝統は既に大きく崩れています。おそらくポストモダンとか(その言葉自体はあまりすきではありませんが)そんなことが影響しているのでしょうが、逆に「私」を前面に出して書くことが奨励されます。学術論文であっても、論文を書いている「私」の存在を無視することは出来ないし、それを前面に面と向かって読者に暴露した方が、下手に隠すよりは親切だし、自分のやっていることへの責任感のあらわれにもなるということです。
博士課程をこちらで始めた当初、ボクも「私」を極力さけながら論文を書いていました。でも、ある時それを指導教官に指摘されました。「自分が論点を引っ張って行くんだし、自分が利用する理論や文献を選択するわけだし、それはきちんと書いておいた方がいいのです」と言われ、なるほどと思いました。
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1月20日武田
ロンドンからの貴重な生証言!、どうもありがとうございます。
たいへん参考なり、感謝しています。
これからもこのような話をぜひお聞かせ下さい。
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「主観」を消去する詐術、それが「人間を幸福にしないシステム」をつくっている深因だと思います。
よろしければ再読してみて下さい。クリック
2006/01/20のBlog
[ 16:01 ]
[ 私の信条 ]
(以下は、私からUSAKOさんへの返信メールより、その一部です。)
自分自身の日々の経験と照らし合わせて、なるほど、と深く納得できるように知るのが、ほんらいの勉強でしょう。
私は、そのようにして知ったことの集合を「知」という名詞形で語っているわけです。
それは、今さら言うまでもなく当たり前のやりかたであり、その結果として知ったことやその方法をわざわざ「ほんらいの知」=「民知」だ、と言うこともないのかもしれません。
ところが、学校で、あるいは進学塾で、勉強がよく分からなくなってしまった子に、その子が納得できるように教えようとすると、数字や文字の世界と具体的な経験世界の結びつきが著しく弱いことに気づかされます。
記号化された世界がそれ自身「自立」してしまっているのです。
実は、このことは、どうやら文字や数字等の記号操作を得意とする人間にも共通する問題(私自身を含めて)であり、しかもより深く、当の本人が自覚出来ぬまでに身体化してしまっている、とある時子どもたちによって気付かされたのです。
だから、事象や物事の知り方やそこで得られた知そのものを問題にしなければいけない、と思った私は、自己改造をはじめたわけです。30年近くやってきてようやく少し自信がもてるようになったので(遅くてどうもすみません)、打って出ようか!というわけです。
したがって、そのような問題をはじめからクリアーしている人にとっては、意味のない運動ということになりますが、、、。
「知る」とは?=土門拳の言葉をヒントに
を見てください。(クリック)
武田康弘
2006/01/18のBlog
[ 13:12 ]
[ 恋知(哲学) ]
「民知」対「制度知」という対比に対して、もう一つ、別の対比が「主観学」と「客観学」です。
読み書き計算や幾何とその延長線上にある勉強・学問は「客観学」で、これは知の基礎です。
「主観学」はその基盤の上にあるもので、解釈、批評、総合判断、創意、コンセプトづくり・・・・・などの知のことです。知の基礎に対して知の目的とも言えるのが「主観学」ですが、これには「正解」や客観的な「答え」はありません。優劣の基準は、それが扱う対象に関心をもつ人々にどれだけ深い納得や共感を与えることができるか?です。「魅力価値」が基準だと言ってもよいでしょう。
日本社会では、小学校から大学院まで、著しく「客観学」に偏り、「主観学」が育っていません。というよりも、「主観性の学」」が知や学として自覚されていないというのが現状です。あらかじめ「正解」が決まっている「客観学」だけを学知だとしています。
「民知」は客観学、主観学の双方を含むものですが、われわれが立ち上げる成人者の「民知の会」は、そうした現状を踏まえて、「主観学(知)」を主に追求することになるでしょう。
武田康弘
2006/01/15のBlog
[ 12:49 ]
[ 趣味 ]
ニューミニ、21世紀のミニ、とも呼ばれているBMWミニの2004年後期型が納車されたのが04年10月30日。普段乗りユーザーとしてのレポートを書きましょう。今までのところ故障・トラブルはゼロです。
可愛い!おしゃれ!ミニを見たほとんどの人の第一声です。
スタイルがよいのは確かにその通りですが、ミニはスタイルを優先させた車ではなく、ましてやファン・カーなどでは全くありません。大変合理的な車です。ドイツBMWが、数々のレースで優勝した伝説的な初代ミニ(英・ローパー)のブランドイメージに挑戦し、コンパクトカーとしての「よさ」を徹底追求していった末に生まれたスタイル。だからこそ強い存在感=華がある、というわけです。個性豊かなクラシック・モダンのデザインは飽きることのない落ち着きがあります。
車内は、「動く快適な居室」ではなく、「走りを愉しむ車」としての魅力に溢れています。インテリアは手作りの工芸品のような面持ちです。また、操作部は、航空機のように中央にトルグスイッチを集中させています。その上の円形スピードメーターの大きさは市販車中最大でしょう。初代ミニを彷彿とさせ
