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2007/09/15のBlog
[ 10:01 ]
[ 社会思想 ]
自由とか民主とか言いながら、靖国(国体)思想を振りかざす「靖国神社」を支持するというのは、論理的にはメチャクチャです。なぜこんな矛盾した言動を多くの政治家はするのか?わたしには全く意味不明です。このブログは、国会議員の方にも読まれているようなので、どなたかにきちんとした説明をして頂けたらありがたいと思います。このような誤魔化しを続けているようでは、新たな日本の未来を拓くことなどできるはずはないでしょう。「靖国でよい」という点では民主党の党首である小沢一郎も同じです。
明治政府がつくった、したがってわずか百数十年の歴史しかない「新宗教」(政治と直接結びついた国家神道)の総本山、天皇現人神(てんのうあらひとがみ)という思想を持つこの靖国という宗教は、どう考えたところで、自由や民主主義とは二律背反でしかありません。
いまなお靖国=国体思想を主張する明治政府作成の「神社」、戦前の「国民教化」(天皇史観の徹底)という洗脳教育を象徴する「靖国神社」は、天皇主義の洗脳思想教育によって犠牲になった人々の霊を慰める場所としては、一番ふさわしくないところです。「現人神=天皇陛下のため」と言われて戦争に駆り出され戦死した若者たちをほんとうに弔う気持ちがあるのなら、戦前の国体思想を掲げる「神社」にその御霊を独占させておくことなどできるはずがありません。【洗脳教育に始まった国家の戦争政策】の犠牲となった人たちの霊をほんとうに弔うには、政府の責任で公立の追悼施設をつくる他に道はないのです。なぜ、こんな簡明なことを国会議員は理解できないのか?いつまで御霊を放置しておくのか?わたしは激しい憤りを持ちます。もう戦後60年以上がたつのです。死者をどのように弔うのか?そこに人の心の本音が表れる、とわたしは見ています。もし、真に一人ひとりの生の悦び・幸福を願う心を持ち、何よりも大事なのは一人ひとりの人間の存在=実存であることを思う思想を持つならば、死者をなお靖国=国体思想の下に縛り続ける残酷な行為に加担できるはずはありません。
自然豊かな水の国、自由と民主主義の国にふさわしい公立の追悼施設をつくり、反戦への誓いをしない限り、日本人の真の再生はないはずです。わが国は、15年戦争という恐ろしい戦争政策を官民一体となって推し進めたわけですから、それを支えた思想(靖国=国体思想)をきちんと清算しなければ、美しい未来はつくれないーわたしは強くそう確信しています。人々の生と政治の一番根っ子にある問題を避けて通れば、永遠に不幸です。
武田康弘
2007/09/12のBlog
[ 21:08 ]
安倍首相の思想的同志であった松岡農水大臣の公的問題による自殺は、現職大臣としては歴史上例のないものでありましたが、この「事件」をきっかけにして、安倍内閣への支持率は急速に悪化していきました。
この松岡大臣の自殺と今回の安倍首相の突然の辞任―国会で所信表明演説をして2日後!!―は、同じような「事件」です。実存=裸の個人としての力が乏しいために、政治家=公人としての思想を鍛えられず、ダダッ子のように権力の座にしがみついていたと思ったら、国会審議も始まる前に突如「ぼく、やめた!」。これでは、お笑い番組―しかも極めて次元の低いーでしかありません。こんな脆弱な人間が一国のリーダーになる(なれる)ような国はろくなものではないでしょう。
いよいよ自民党崩壊へのカウントダウンが始まった。わたしはそう見ます。
後任とされる麻生太郎は、「靖国神社」を非宗教法人化し国営にするという考えですが、これは、明治の保守政権が「靖国神社」の国家主義思想を宗教ではないとして、全国民に靖国・国体思想=天皇崇拝を義務化した(それを国民の義務とし、その枠内で信教の自由を認めた)政策(=国民教化)と同じ思想です。
まさに安倍首相の言う「戦後レジームからの脱却」(明治政府がつくった靖国思想への回帰)路線を大胆に能天気に推し進めようというのが麻生太郎です。
安倍首相の誕生前から、わたしはブログで繰り返し(何十回も)安倍首相のネオ・ウヨク思想の愚かさと危険性を書いてきましたが、次期総理になるであろう麻生太郎に対しても引き続き緊張感のあるブログを書いていこうと思います。日本社会をよくするには、シチズンシップの育成による【市民自治】の政治を深め広げるしかありません。ウヨク思想ー国家主義は、日本人を幸福にしない愚かな想念でしかないのです。
武田康弘
2007/09/11のBlog
[ 00:14 ]
[ 趣味 ]
知られていない(私が知らない)指揮者の演奏ながら、オーケストラはドイツシュターツカペレだし、価格は400円!ということで購入したCDがとてもいい。ビックリ!です。
一口で言えば、【燻し銀の愉悦】-のびのび生き生きの愉しい演奏ですが、ドイツシュターツカペレの木質の音色が自然な落ち着きを感じさせます。序曲集は名指揮者のものがたくさん出ていますが、続けて聞くと疲れてしまいます。これは反対に、ずっと聴いていたくなるような流れのよい、気持ちのよい演奏です。このHans Vonkという指揮者は大変な実力者です。「嬉しい不覚」?でした。
曲目も代表的なオペラのものに留まらず、モーツァルト15歳の時の「アルバのアスカニオ」の序曲(フェルデナント皇子の結婚を祝うセレナーデ、大成功を収めた)や「ルチオ・シラ」(16歳)という珍しい初期の作品が途中で「中休み」のように入ります。可愛らしく覇気に溢れた作品が有名な序曲の中でよい役割を果たしています。最晩年の「皇帝ティトゥスの慈悲」、デモーニッシュな「ドン・ジョバンニ」で終わりますが、全11曲の配列もよく考えられています。
録音も自然で聴きやすいものですーわたしは二種類の異なるオーディオで聴いていますが(真空管出力のものと大型のトランジスタ出力のもの)どちらで再生してもよい音です。
Hans Vonk指揮 ドレスデンシュターツカペレ 輸入盤(米)
HMVで購入出来ますのでどうぞ。http://www.hmv.co.jp/product/detail/754225
2007/09/09のBlog
[ 16:14 ]
[ 社会思想 ]
「白樺ML」の公開です。
議員(政治家)の「対話を通し、市民の英知を積極的に集めていくこと」という言い方=考え方は、一見よいように思えるかもしれませんが、実は、重大な問題を孕(はら)んでいます。
まず、「英知」というのは、深い知恵のことであり、技術知や情報知ではないのですから、それを誰かが「集める」ことはできないのです。
体験に根差した知恵やよく吟味された思想=英知とは、人や物や自然や事象に深く関わって自ら獲得するものであって、単に「知る」ことは出来ません。
したがって、もし「英知を集める」ことが出来る人がいるなら、それは人間を越えたスーパーマンのような存在ということになってしまいます。英知とは己が獲得するものであり、集めることは不可能です。
こういう言い方が出てくるのは、自分の実存を基底に据えて生きていない証拠です。自分が自分として主体的に生きるということができないと、どこか「外」からの発想・言い方になり、生の基本が「戦略的」(本質から逸れて曲がる)になってしまいます。それでは悦びがひろがりません。
わたしが福嶋浩彦前我孫子市議・前市長とともにすすめてきたのは、「ひとりひとりの市民の英知で直接参加民主主義を広げよう」(『緑と市民自治』紙(新聞折込で我孫子市全域に配布)という理念ですが、これは、【市民の英知によって市政を進める】という思想であり、「政治家が英知を集める」(不可能です)などという発想とは全く無縁―180度逆の発想です。その理念を生み出した政治哲学は、直接民主主義がほんらいの(価値の高い)民主主義であるという思想です。代議制は致し方ないものであり、だからそれを補うためにさまざまな創意工夫が必要なわけです。
市民の要望や意見を聴くーそれを集めるというのならよいですが、英知を集めるという発想―言い方は本質的な錯誤でしかないのです。
議員は、「対話は通じて自分自身を少しづつ鍛えてく」という基本姿勢が必要で、そういう基本姿勢と営みの上で、市民の一般意思の代行者(断じて代表者ではない)の仕事が可能になるのです。市民の意見をまとめていくコーディネーターの役目もその土台があってこそ可能になるわけです。
武田康弘
2007/09/06のBlog
[ 11:42 ]
[ 恋知(哲学) ]
以下に、わたしの生と仕事を支える哲学の芯を簡潔に記してみます。
わたしは、ものごとをよく「知る」のに何よりも大切なのは、言語による整理や概念化以前の【感じられ思われる世界】だと思っています。「私」の心身にどのように感じられるか?どんな感じがするか?その【体験=直観】を抜きに言語を用いたのでは、「死んだ言葉」にしかなりませんから。概念主義による死んだ言語=感じられ思われる世界の言葉を下に見るような歪んだ言語主義(「学」を職業にする人にしばしば見られる)に囚われていては、自分で考えること=恋知は始まりようがありません。この「言語中心主義」と、それと符合する問題でもある様式・型が優先する従来の日本文化―「様式による意識の支配」を変えていくことは、自分が真に自分として生きる(恋知の生)ための不可避の作業だ、わたしはそう確信しているわけです。
言い換えれば、よく見、聴くこと・よく触れ、味わうことがものごとを知るための絶対の基盤であることの深い自覚です。五感をフルに用いて全身で直截知ろう=心身全体で会得しようとする構えです。言葉で誤魔化(ごまか)さない、概念化して分かった気にならない、理論に逃げないことが何より大事だとわたしは思っています。
写真家の土門拳が言った通り「たとえ一本の松の木を撮るにも、ただ概念として「松」を見ていたのでは、いくら構図的にまとまった写真でも【生きた松の木】にはならない。知るとは、まずギョロリと睨み、それがどのように生えているかをよく見て、松の木を心中に深く感じ知ることだ。ただ知識として概念的に知っているだけでは、知ったことにはならず、それでは松の木一本といえども撮れないのだ」(要約・文責は武田)というわけです。
感じ知る世界→広大無限のイメージの世界を開拓していくことが、言語による思考とコミュニケーションを生きた価値あるものとするための基本条件だ、わたしはそう考えています。認識論の原理中の原理は【直観=体験】である、それがわたしの哲学の前提=基盤です(また、実存論の原理中の原理は【欲望】であると思っていますが、それについては後で書きます)。
以上簡潔に記したわたしの哲学は、「白樺教育館」に通う父母の方にお示ししている『心身全体による愛』という子育て・教育論と符合していますので、以下に書き写します。
『子育てー教育の基本は、心身全体による愛です。文字通りの触れ合い、だっこしたり、おんぶしたり、ほほ擦りしたり、ふざけ合ったりすること。また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のあることばで接すること。一言で言えば、心身全体による愛です。理屈以前の身体的な触れ合いこそが核心です。断言します。それがなければ、まともな人間には決して育ちません。
愛とは、心身全体によるもの。子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。子どもを「言葉」だけで教育できると思っている人は、全くの能天気です。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足からではなく、「愛」の不足からなのです。
自分を自分で肯定でき・受け入れ・愛することができなければ、他者を肯定し・受け入れ・愛することは、不可能です。他者を肯定できなければ、中身のある人間付き合い=真の人間関係は決して生じません。人間関係とは、言葉で教育できるものではありません。愛や思いやりや優しさは、具体的に態度で示すことができるだけです。「教え込む」ことが不可能な領域です。
大人である私たちが、形だけで他者と関わる外面人間であっては、よい子は育ちません。本気、本音で他者と関わる勇気が必要です。愛の心があれば、「ぶつかり合い」は生産的になります。しかし、「勝ち負け」の意識が支配する愛のない不幸な心は、すべてを壊してしまいます。
「心身全体による愛」は、人間の様々な営みを「よい」ものにするための絶対の条件なのです。言葉―理屈ではなく、実践です。そのように生きること、態度で示すこと、それ以外に方法がありません。心身全体で愛し生きることのできる人間を育てなければ、私たちの社会は砂漠化して生きる意味が消えてしまいます。』
固い概念によって生身の人間を縛る思想をわたしは「言語中心主義」と呼んでいますが、これは人間の幸福を元から奪う癌細胞のようなものです。それを越えていくには、【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組むことが大切で、その基盤を広げ強めることが【言語による思索と交流】を価値あるものとする鍵であり、前提だ、それがわたしの不動の確信です。
武田康弘
2007/09/02のBlog
[ 18:47 ]
[ 恋知(哲学) ]
ふつうに考えること、恋知(哲学)とは、徹底して「ふつう」に考える営みです。ふつうに、というのは、専門用語に逃げずに、大元に戻して、全体的に考えることです。恋知者(哲学者)とは、徹底して「ふつう」に考える人。
ふつうとは、こどものように、囚われなく、という意味です。既成の秩序、考え、常識に縛られずに考えるには、溜め込んだ「知識」を「考える」ことの代用にしない覚悟が必要です。既存の「知」や「学」を前提にすると、まったく哲学=考えることにはなりません。逆に、知識に縛られて、考えは狭小なもの、既成概念のドレイに陥ってしまうからです。
恋知(哲学)対話の面白味・醍醐味とは、誰でもが知らずに縛られている「常識」や「習慣」に抗って考えるところにあります。組織・団体的思考とは対極にあるもので、個人の思考の自由な羽ばたきのエロースです。自由闊達、臨機応変・当意即妙の精神を発揮することは、深いよろこびをもたらしますが、そのためになくてはならぬもの、それが恋知の自由対話です。形式ばらずに、丁々発止のやりとりで自他の生の悦びと可能性を広げる営みは、実に愉快です。
いまの日本人は、若い人もみな既成の価値意識のドレイでしかなく、既成秩序・常識に抗って考える力・心・意思がひどく乏しく、自分自身をまるで、管理社会の管理された部分品のように扱っているとしか見えません。55才のわたしよりも、古い想念やつまらぬ常識に縛られて、心や頭の若い人がいないのは、ほんとうに寂しい限りです。既成の権威者・権力者・成金に頭をさげるようなテイタラクでは、生きるよろこびなどやってくるはずもありません。ただ生存するのではなく、かけがえのないたった一人の人間としてのエロースを存分に発揮して生きるための努力をしませんか。わたしは恋知の自由対話を続けていますが、これを読まれているあなたは、わたしの見方・考えをどう思われるでしょうか?
武田康弘
2007/09/01のBlog
[ 08:18 ]
[ 私の信条 ]
恋する心―恋とは、聖なる「狂気」ですが、人に恋し、音楽や美術や文学に恋し、知に恋し・・・という恋知(哲学)の生を歩む人と歩まぬ人がいるようです。
どうも人間には二種類いるようです。
恋知の人と、恋知とは縁のない人と。
でも「大人」化させられていない子どもはみな、恋知の人が好きです。
どうやら、恋知の生は、人間の自然性に合致しているようです。
【恋知】の代わりに【型・パターン】で生きる人も多いようです。
心の内側から沸きあがるものが乏しいために、外からの要請で生きるしかないからでしょう。
わたしには耐えられない人生ですが。
パターンで生きている人は、そのことに無自覚なのかも知れません。それが幸せ?
まさか、ですね。
武田康弘
2007/08/30のBlog
[ 18:02 ]
[ 恋知(哲学) ]
われわれ日本人の困った問題が生じる原因は、「タケセンのブログにある通り、存在次元において自己を肯定できないために、具体次元において自己批判ができない」―ですよね。
と、高城長生館(整体院)の高城久さんが、今日、語気を強めて言っていましたが、ほんとうにその通りだと思います。
ここにあらゆる人間問題の根源がある、と言ってもよいでしょう。子育て・教育論もこのことに無自覚だと、何をどう考え・話してもみな砂上の楼閣です。
私が生きて在ること・存在していることの【驚異】-この私の存在を受容し、肯定すること。まず、その生の前提がしっかり得られないと、具体的・現実的な次元で自己省察・自己批判を繰り返しながら前進することはできません。逆に言えば、自己批判できずに、自己防衛ばかりしているのは、自己の存在を肯定できないところから生じる不幸だと言えます。
われわれ日本人の困った問題、
戦争責任を曖昧にする態度も、「理論」に隠れて実存(欲望)問題から逃げ、自己を欺瞞するような生き方も、世間体を気にして脅迫神経者のごとくにしか生きられない仮面の生も、他者への道徳的批判をしたり顔で繰り返すマスコミ人の無価値な言説も、「存在次元と具体・現実次元の混同ないしは無自覚」がもたらすものではないでしょうか。
24日のブログー「自己批判なき自己肯定は、よきものをなにも生みません」をぜひご覧下さい。クリック
武田康弘
2007/08/27のBlog
[ 15:19 ]
[ 恋知(哲学) ]
みな人は、言葉にならない「想い」を抱えて生きていて、それは何よりも大事な実存の基盤ですが、言葉という一般化のアイテムを通じて「私」の想いを伝え、考えを述べ、表現することがなければ、「共に生きる」ことはできません。その努力を止めてしまうと、人は既存の組織体の中で「役割」をこなすだけとなり、社会人=公共人ではなく、団体人=組織人に陥っていきます。言語化(一般化)する努力を怠ると、逆に、仮面を被った「一般人」に陥るというわけです。
心の「想い」の世界・実存の生は、言語化という「一般化」の試練を経ないと、狭く固着し、個人性の開花・深化(普遍性)が得られません。自分で自分を抑圧する世界に入り、自我の内的成長を阻害させてしまう結果、自他のよろこびを生むことができなくなるわけです。
幼児が階段を上る=わがままの克服とは、私の世界を放棄することではなく、私という中心を豊かなものにし、私を実現することですが、そのためには、言語化という一般化の努力が必要です。たしかに一般化は、私の黙せるコギトー(自己意識)を抑圧する作用もありますが、しかし、その努力なしには、黙せるコギトーはよきものを生み出せないのです。私は私であることをやめないで、私の内実を豊かにしつつ、公共人になるーそれが人間精神の健康な成長です。
そのためには、【自問自答】と共に、【生きた対話】が必要で、それをわたしは実践(白樺・民知)しているのですが、多くの人が、実存から出発する自由対話=実存を活かす公共性の試みを生活の中で実践されることを願っています。公共性の獲得とは私を現実において活かすことであり、私を滅することとは反対です。空想ではなく、現実に私を活かすこと、実存の生を広げ豊かにすること、そのためには言葉によって一般化する努力、言葉にならぬ想いを多少とも言語化する・対話する努力が必要です。
心―実存世界の言語化を諦め、放棄すると、逆に個人性のよさは開花しません。個々人から立ち昇るパワー・面白み・魅力が減じてしまい「一般人」に陥っていきます。それが多くのわが日本人の現実ですが、ほんらい個性的に生きる他はない生身の人間が「一般化」してしまえば、生の悦びは消えるほかありません。
武田康弘
2007/08/24のBlog
[ 11:31 ]
[ 恋知(哲学) ]
「私」がよく生きるには、自分の存在を深く肯定できなくてはなりません。自分を愛し大切にすることが必要です。「自己という中心」をしっかり持って考えることがないと、思考は宙に浮き概念遊戯にしかなりませんし、行為はパターン化してしまい、『生きた言動』ができなくなります。そうなれば、自他のよろこびは減じてしまいます。
しかし、自己の存在を大切なものと思い、受容し、肯定し、愛することは、具体・現実レベルの言動においての自己省察・自己批判がないと、自我主義や自己絶対化に陥っていきます。自己を存在次元において肯定し愛するというのではなく、「私」の具体的現実の言動に無批判的になれば、その人は人間性においては「死んでいる」ということにしかなりません。人間の心・意識・精神とは、いまの状態を越え出ることをその本質としているからです。言い換えれば、【常に変わることで自己同一を保つ】のが人間精神であり、変わり続けていなければ、心・精神は止水が濁るようにダメになっていきます。
具体・現実という次元において自分の言動を吟味し、反省し、批判することは、自己の存在を深く肯定できるようになるための基本条件だと思います。生き生きとした心身・ダイナミックな言動・人間性の魅力とは、具体・現実レベルでの厳しい自己批判の精神が生み出すもの、そうわたしは確信しています。
武田康弘
2007/08/20のBlog
[ 11:22 ]
[ 私の信条 ]
わたしは、いいこと聞いたな、と思うと、○○さんがこんなことを言っていたんだ、とみなに言う。いいよね~~と。子どもの言ったこと・したことでも、何々ちゃんがね、と紹介する。
わたしは、読んで感動した本があると、その著者を偉いと思い、ありがたいと思う。だから皆に紹介する。本の題名だけでなく、その中身を要約して。
それは自他の悦びを広げるすてきなことだと思うから。
でも、わたしは何度も何度も驚いた。
人から教えてもらったこと、人にやってもらったこと、本で読んだことなのに、○○さんという人がね、こんないいこと、面白いこと言ってたよ・やってるんだよ、とは言わないで、みんな自分の手柄にする人が大勢いることに。40歳もすぎてから知った。
自分が偉い!?!?って人に思わせたいのかもしれないけれど、いいこと・すてきなこと・楽しいこと・助かること・ありがたいことをしてくれた人に感謝する心がなければ、幸せや充実がやってくるとは思えない。
隠匿(いんとく)とは感謝の心がない証左で、ほんとうに恥ずべきこと、嫌らしいことだと思う。
武田康弘
2007/08/16のBlog
[ 00:38 ]
[ 教育 ]
子育て・教育に何よりも恐ろしいのは、親や教師が「理想」を持つことです。
目の前にいる子どもをよく接すること・よく見ることで、何をしたらよいか?を探るのではなく、親や教師の「理想」に子どもを誘導しようとするのは、根源悪だと言えます。
さまざまな不適応・自他への暴力が生じるのは、ありのままの姿を受容されなかった子ども=人間の心の悲劇です。
わたしは、過去に多くの実にさまざまな「不適応者」を見てきましたが、共通するのは、大人が「理想」をもって子どもに接した点にあります。
さまざまなヒステリー症状は、「ありのまま」を受け入れずに、「あるべき」姿を追い求めた結果です。
たとえ、既成の考え方や見方からはどんなに「異様」に見えても、それをまずは肯定し、受け入れることがはじめの一歩です。人間に「異常」というものはない、あるいは逆に人間とはすべて「異常」なものであるという認識を持つことで、人ははじめて「正常」になれる存在だという逆説を知らないと、よき子育て・教育はできませんし、悦びをもった人生は歩めません。
文字通りの「正常」であることは、人間が善・美という幻想上の価値を生きる存在であるかぎり有り得ない話であって、恋愛に象徴される聖なる「狂気」を自覚したときに、はじめて人間のよき生や美しき生は始まるのだと言えましょう。
「理想」―「あるべき」姿ではなく、赤裸々な自他の心の中に埋もれている善・美を発見すること、既成の基準にあてはめずに、自他のありのままの姿の中によきものを見出す努力、それが子育て・教育の核心であり、よく生きることです。「ありのまま」が肯定されたときにだけ、ただその時にだけ、人間は階段を上ることができるのです。
武田康弘
2007/08/11のBlog
[ 07:51 ]
[ 恋知(哲学) ]
言語による思索と交流=ほんとうに「生きた言葉」を用いるのに何より大切なことは何か?
それは、言語以前の「感覚や想像世界」を豊かにすることだと思います。
皮膚感覚で捉えること、
感じ知ること、
イメージを膨らませること、
全身で察知すること、です。
【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組む。その基盤を広げ強めることが、【言語による思索と交流】のためにも何より大切。わたしは、そう確信しています。
言語を先立てれば、言語は硬直化して死にます。先立つものは、こころ=感覚とイメージの世界のはず。「言語中心主義」に囚われていると、言語による思索も、狭く固い「言語 内 思考」に留まり、事象や事態や物事を「言語形式」の枠内でしか捕まえることが出来ず、ことばを増やすほど却って事象や事態や物事は見えなくなっていきます。本質からはどんどん外れ、誤魔化(ごまか)しの緻密化、一人よがりの衒学(げんがく)趣味に陥るだけです。
「哲学者とは哲学することで馬鹿になった人種のことだ」では、悲しく愚かです。
本を読み、あるいは情報を収集するだけでは、事象や事態や物事を掬(すく)い取るように掴(つか)むことは出来ず、有用な知は得られません。皮膚感覚やイメージ喚起力が弱ければ、「馬鹿になった人種」でしかないのです。
「言語による思索と交流」を豊かで意味深いものとするためには、【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組まなくてダメです。
皮膚感覚で捉えること、
感じ知ること、
イメージを膨らませること、
全身で察知すること、を日々の生活の中で心がけたいと思います。
以下は、以前に書いた『心身全体による愛』です。
子育てー教育の基本は、心身全体による愛です。
文字通りの触れ合い、だっこしたり、おんぶしたり、ほほ擦りしたり、ふざけ合ったりすること。また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のあることばで接すること。一言で言えば、心身全体による愛です。
理屈以前の身体的な触れ合いこそが核心です。断言します。それがなければ、まともな人間には決して育ちません。
愛とは、心身全体によるもの。子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。
子どもを「言葉」だけで教育できると思っている人は、全くの能天気です。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足からではなく、「愛」の不足からなのです。
自分を自分で肯定でき・受け入れ・愛することができなければ、他者を肯定し・受け入れ・愛することは、不可能です。他者を肯定できなければ、中身のある人間付き合い=真の人間関係は決して生じません。
人間関係とは、言葉で教育できるものではありません。愛や思いやりや優しさは、具体的に態度で示すことができるだけです。教え込むことが不可能な領域です。
大人である私たちが、形だけで他者と関わる外面人間であっては、よい子は育ちません。本気・本音で他者と関わる勇気が必要です。愛の心があれば、ぶつかり合いは生産的になります。しかし、勝ち負けの意識が支配する愛のない不幸な心は、すべてを壊してしまいます。
「心身全体による愛」は、人間の様々な営みを「よい」ものにするための絶対の条件なのです。言葉―理屈ではなく、実践です。そのように生きること、態度で示すこと、それ以外の方法がありません。
子育てー人間を育てる基盤は、「心身全体による愛」にあるのです。心身全体で愛し生きることのできる人間を育てなければ、私たちの社会は砂漠化して生きる意味が消えてしまいます。
武田康弘
2007/08/09のBlog
[ 13:24 ]
[ 教育 ]
2007/08/01のBlog
[ 11:15 ]
[ 社会思想 ]
安倍首相の思想の愚かさと危うさについては、昨年から今年にかけて何度も(何十度も)ブログに書きましたが、わたしの予言どおり(笑)―自民党38(実際は37)と民主党58(実際は60)の結果で新ウヨク思想は封じられることとなりました。
さあ今月からは、参議院の民主党が名前の通り民主主義を貫けるか?が焦点になります。経済的格差がひどければ、政治的に民主主義を現実のものとすることは不可能です。経済の格差を広げるような政治は、必ず軍事力を内外にアピールする必要に迫られてしまいます。
この根源悪を正すのが参議院です。なんと無用論まで出ていた参議院が、日本の政治を元から変える主戦場になります。理念通り、「良識の府」としての役割を果たすことになります。民主党がその初心を貫くことができれば、民主制を真に担保する法律を議員立法で参議院から出すことで、また、政府の国家主義的法案を否決することで、民主主義を具現化することが可能です。もし、否決法案を衆院に戻して三分の二の多数で強行採決をすれば、いよいよ大混乱で、解散総選挙が早まります。
いま、どこよりも参議院が熱い!
参議院の国会職員の人たちにも最高の舞台が回ってきました。縁の下の力持ちがどこまでよい仕事が出来るか?
武田康弘
2007/07/29のBlog
[ 13:44 ]
[ 私の信条 ]
わたしは、愛する者を、平面的に愛するのではなく、立体的に愛する。
どうしたら、より相手のよさ・美質を引き出すことができるか?と考え、行為するのが立体愛だ。
わたしは、相手のほんらいのよさを開花させるために、狭く自己を限定している心身を解放させようと試みる。
関わりが深くなるにつれ、時には相手を追い込むこともする。生来イジワルだから?否まったく違う。わたしにはイジワルの要素が少しもない。子どもたちを追い詰め、追い込んだことは数知れずある。でも彼らの大多数は、わたしの本心―真心を少しの誤解もなくまっすぐに分かってくれる。
わたしはよく考え、配慮し、長い目で見てほんとうによい結果を生むためにはどうしたらよいかを思案する。一時の効果・正しさを求めて全体をダメにすることを避けようと努力する。大胆さと繊細さ、情熱と冷静、強引と慎重の双方が必要だ。
平面的に愛しても、互いに真の得・悦びはつくれない。現実の人間の生は立体だからだ。愛を立体化するのは、もちろん想像力。
これがわたしの基本姿勢。もちろん、個々の失敗については反省しつつ、姿勢は少しも変わらない。
武田康弘
2007/07/27のBlog
[ 22:48 ]
[ 書評 ]
「楽学と恋知の哲学対話=金泰昌と武田康弘の往復書簡」が、7月号の『公共的良識人』紙に掲載されました。一面から5面までを使い、往復書簡の前半が載っています。後半は来月8月号に掲載されます。
往復書簡の内容は、このブログー「思索の日記」と「白樺教育館ホームページ」クリックに掲載したものを多少手直ししました。金泰昌さんの文章は、かなり大幅に改められています。
『公共的良識人』紙は、主に全国の県知事および市長、各大学の総長や学部長および哲学や社会学関係の大学教授、会社経営者に郵送されている新聞ですが、お読みになりたい方は、京都フォーラムまでお申し出下さい。送料程度で入手できるはずです。
京都フォーラム(「公共的良識人」紙・発行元)
〒.530-0001 大阪市 北区 梅田 1―1-3 大阪駅前第三ビル25F.
TEL.06-6344-2715 FAX.06-6344-2716
Eメール institute@felissimo.co.jp
なお、以下に、7月号冒頭の「はじめに」を載せます。
【はじめに】
金泰昌氏と武田康弘の『哲学対話』に到る経緯について。
わたしと金泰昌氏との出会いは、二年前の6月です。まったく未知の方であったキム氏とのご縁は、本紙2005年7月号に書きました通り、わたしが、白樺派の精神を現代に生かそうというコンセプトの下につくった「白樺文学館」(出資者は日本オラクル初代社長の佐野力氏)の基本理念を東大教授の山脇直司氏がキム氏に送ったことに始まります。この基本理念は、今は白樺文学館ではなく、「白樺教育館」のものですが、それを読んで感動・共感されたキム氏がわたしとの対話のために来館されたのです。
キム氏は、都合4回白樺教育館を訪れ、白樺に集う大学生や市民たちとの自由対話を楽しみ、皆に大いなる刺激を与えましたが、その間にもかなりの頻度で電話での対話を続けました。それは、従来大学で行われてきた哲学=「哲学史 内 哲学」ではなく、もっと有用な広い意味での哲学=生活世界でふつうの市民が哲学する道を切り開くためにはどうしたらよいのかを模索する対話であり、その中には往復書簡も含まれています。それを皆に示すことで、「哲学の民主化」のために多くの方のお力を得ようではないかという共通了解に達しましたので、公開することになったのです。
なお、キム氏の基本姿勢は哲学することは「大楽」であるべきだということですが、わたしは、「フィロソフィー」を語源どおり「恋知」と訳して立場としています。恋とは聖なる狂気ですが、この「狂気」の善用のみが、人間の生きる意味・悦びの産出を可能にすると考えているからです。
最後に、自己紹介をします。
わたし武田康弘は、1952年5月東京神田生まれで、大学では哲学を学びましたが、それは哲学の専門家になるためではなく、自分で哲学するための一助と考えてのことでした。在学中から哲学を現代社会に生かす「意味論としての学習」を行う教育機関をつくろうと決め、1976年に独力で小さな「私塾」を開きました。
それが「白樺教育館」の前身「我孫子児童教室」ですが、そこでの教育実践を哲学するために同時に「我孫子児童教育研究会」を開き、それが後に管理教育是正のための市民運動を推し進めることになったのです。その経緯は、岩波書店からの依頼による「我孫子丸刈り狂騒曲」(「世界」92年8月号)に詳しく記しました。
わたしは、この1986年に始まる教育改革運動の直前からの数年間、哲学者の竹内芳郎氏に師事し、言語論を中心に、宗教論、文化論を学びました。1987年から「哲学研究会」を開きましたが、その主要メンバーであった佐野力氏の依頼で1999年2月から「白樺文学館」の創設に全精力を注ぎ、2001年1月の開館からは初代館長を務めました。そこでの活動を活かして、より明瞭に当初の理念を生かすべく2002年初頭から二年をかけて「白樺教育館」をつくり現在に到っています。
では、刺激的な楽学と恋知の哲学対話、ぜひ最後までお読み下さることを。
白樺教育館館長 武田康弘
2007/07/25のBlog
[ 15:42 ]
[ 恋知(哲学) ]
さりげなく何気ない心遣いを「配慮」というわけですが、もし、「配慮すべきだ」という要請の下に配慮すると、あからさまな配慮―いかにもという配慮になってしまいます。いわば配慮の押し売りで、これはありがたくもうれしくもありません。これでは「配慮」ではなくなります。
かっこいい、すてき、・・・というのもそれを意識的に演出すると、つまらないものーかっこ悪いもの、キザなものにしかなりません。田舎くさかったり、これみよがしの成金趣味にしかなりません。しかし、今はテレビ局が、このような下劣な趣味ーお金がすべてという思想を振りまく番組を日常的に流していますので、人間の感性が猥雑なものに成り下がってしまい、その「異常さ」「愚劣さ」が分からなくなっているようです。
知にしても然りです。多くの知識をひけらかすのは、知者とはほど遠い人ですし、理念や固い論理を振り回す人は、思考力のない人です。求められるのは、実情に即して静かに深く考えることによって「常識」の底を破る思索力でしょう。また、そうすることで生み出される思想は、人間を勇気づけ、生によろこびをもたらさなければ存在理由がありません。
かつて社会主義のソビエトの工場で、「結核は生産を阻害する」という標語が掲げられていたという話がありますが、これでは生産の増大のために健康が大事という逆転した話になってしまいます。よく生きるために何を、どう考え、どうしたらよいか?を追求することができなくなり、思考が逆立ちしてしまうのは、知的と思われている仕事・身分が保証されている仕事についている人に顕著に見られることです。
逆転・逆立ち、結果と過程を取り違えるマヌケな思考--
あらゆる人間文化の基盤であるイマジネーション(想像力)のありようも同じ愚に染まっているようです。いかにも・・・という想像力を強調したものは、【空想】でしかありません。人間の生を広げ、深め、豊かにする有用な想像力を鍛え伸ばすことが肝要なのであり、中空に漂うような物思いを発達させる!?ことではありません。飛翔する想像力も、生に奉仕する質をもたなければ、何の価値もないはずです。現実を動かし、現実に新たな視点をもたらし、非現実への飛翔が現実に豊かなエロースを生み出す、そういう自由と強靭と豊穣を兼ね備えた想像力が求められます。
人間のあらゆる営みは、【裸の個人としての人間の生のよろこび】に結びつくことで、はじめて意味と価値が生じるのです。これは原理です。既存の序列意識を満足させるような、あるいは特権的生を享受しようとする欲望は、根源悪でしかありません。
武田康弘
2007/07/20のBlog
[ 21:54 ]
[ 恋知(哲学) ]
一昨日のブログで、道徳の基盤は想像力だと書きましたが、
なんの突っ込みもないので(笑)、自分で突っ込みます。
道徳のみならず【想像力】なしには人間の人間的な営みは全て成立しません。
言語においても、事象と意味を一対一で対応させることはできません。もしイメージを喚起する力がなければ、人間は言葉を使うことすら不能となります。広大なイマジネーションの世界に支えられてはじめて言語を用いることもできるわけです。
したがって、わたしは言語を固い概念世界に閉じ込めて使用するのは、本質的に愚かであると思っています。イメージをよく喚起できるような言語使用を心がけないと、硬直して死んだ言葉となり、言語から現実的な力が失われます。
わたしは、想像力は文化全体のもっとも深く大きな問題で、人間社会の未来を拓くためには、想像力についての探求が不可欠だと確信しています。同時に、個々人の現実的で有用な想像力の開発が求められます。その能力なしには、生のエロースは広がらず、社会問題の解決も不可能だからです。
問題を解決し、豊かな生を営み、未来を拓く条件は、自覚的に積極的にイマジネーションを活用することではないでしょうか。
武田康弘
2007/07/19のBlog
[ 21:59 ]
[ 恋知(哲学) ]
人は、陰謀を廻らせることがあります。陰謀とは言わずとも騙したり欺いたりすることはあるでしょう。また、いまの自分の立場を守るためによくないと思う事をすることもあります。自我の満足のために他者を手段として利用することもあります。また人は、人の不幸を期待することもできます。わざと人に害を与えることもできます。人を振り回して悦に入ることもできます。
人間は自由に選択できる可能性を持っているからこそ、道徳・倫理が問題となるわけです。昨日のブログに書いたように、自他のよろこびを広げるための道徳は、エロースを肯定する生への愛を条件とします。外からの要請ではなく、自分の心の内側からよろこびを生み出そうとするのは、生への愛がなければ不可能です。生を否定する想念は、外なる規範に従い形式的に生きるロボットもどきの生しかつくりません。
形式的な生=社会人としての仮面を被って生き、内容の生=実存として生きることが少なければ、人は根源的不幸に沈むしかありません。教育によって「正解」を導く技術だけを仕込まれた人間は、大人になれば「成功」を導く技術だけを仕込まれた人間になる他はなく、なぜ?どうして?(内容)を問うことの出来ない外的人間に陥ります。現代では、哲学までも自分の頭で考えることではなく、本の理解と情報知に過ぎませんし、芸術もパターン化し、パッチワークに過ぎないものが主流です。命の内なる躍動とパワーが外的価値によって抑圧・消去されてしまうために、内的世界のよろこびの開発が制限されるのです。
自分で自分の生の意味と価値をつくり、それに責任を負うのが道徳であり、ほんらい道徳の価値は、自分の生の内側から生きるパワーを湧出させるところにあります。混沌とした不定形な人間(己)の生に意味と方向を与えることを使命とし、外なる価値に屈することのない内的充実を創造するのが道徳です。その意味で道徳とは、人間が人間として生きる上で何よりも大事なものと言えます。
序列主義・形式主義は最も反・道徳的な意識です。外的価値に従い、権力にへつらい、権威への従順を示すことは、何よりもひどい反道徳的態度です。道徳とは、個人としての人間の尊厳を守るものであり、道徳的精神とは、自分の自由を行使しその結果に責任を負う「自立した精神」の別名です。自他のよろこびをつくり出そうとするプラスのエネルギーがうむ営みは、型はまりの固い精神、上位者に従う上意下達の精神とは無縁です。自分の存在を自分の決断―自由と責任で価値あるものとし輝かせるのが道徳です。
どうも、今もなお、「日本人には道徳は存在しない。ただ目上の者に従うだけである」(「日本を知れ」六十数年前のアメリカ映画)から抜けられないようです。安倍首相の言う道徳教育が、ナショナリズムを植えつける反道徳教育でしかないことは、火を見るより明らかでしょう。
武田康弘
