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2007/11/17のBlog
[ 15:42 ]
[ 趣味 ]
わたしが先日立ち上げたミクシィ・コミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックに、【ファウストの劫罰】という恐ろしくマニアックなコミュニティ(笑)の創設者・ちょさんからコメントが入りました。以下にコピーします。
ファウストの劫罰って、こんな音楽です。タケセン
お勧めのCD(ジョルジュ・プレートル指揮・パリ管弦楽団)入手された方いらっしゃいますか?
おせっかいながら、少し説明してみます。
「ファウストの劫罰」は、オペラでもなく交響曲でもないが、両方でもある、分類不可能な曲で、「劇的交響曲」と呼ばれます。
フランス語訳されたばかりのゲーテの「ファウスト」を読んで熱病につかれたように感激したベルリオーズは、作曲にあたり、原作を大胆・自由に変えて台本をつくりました。
お勧めしたCDは輸入盤で日本語の対訳や解説がないので、簡単にご紹介します。この曲は音楽がすべてなので、細かい話はどうでもよいのですが。
粗筋は次のようなものです。
主人公のファウストは、自然にも人生にも飽きて毒杯を飲もうとするが、そこに復活祭の歌が聞こえてきて思い留まる。
突如メフィストフェレスが現れ、酒と歌は人生を楽しくすると言う。
メフィストフェレスの力で美青年に変身したファウストは、マグリートの部屋で愛を確かめ合う。マグリートの恋の歌。ファウストの大自然を讃える歌。
マグリートは母親殺しの罪で死刑の宣告、それを救いたい一心からファウストの地獄堕ちが決まる。メフィストフェレスは勝利感に酔う。
ファウストは地獄の炎に焼かれ、天国から天使たちの合唱する「マグリートへの賛歌」が聞こえてきて幕。
CD1
第一部 ハンガリーの平原(注・ゲーテの原作には全くない)
第二部 ドイツの北部
第三部 マグリートの部屋12幕まで
CD2
第三部 マグリードの部屋13幕以降
第四部 マグリートのロマンス、自然への祈願、地獄への騎行、天国にて
(余白には「クレオパトラの死」(20分)が収録されている)
まさに天才の作、霊感に満ちた天衣無縫の響きをぜひご堪能下さい。
武田康弘
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コメント(2件)
1 2007年11月08日 04:24 ちょ
はーい♪聴きました
>第一部 ハンガリーの平原(注・ゲーテの原作には全くない)
私は、この場面がものすごくすきなのですが、ご推薦のプレートル盤は、第2部からが凄く素敵です。
特に第3部以降のオペラティックな各場面。
なんといっても、ゲッダ、ベイカー、バッキエの名人達の絡み合いが素晴らしすぎる!
バッキエのメフィストフェレスは、古今東西最高のメフィストのような気がします。かっこよすぎ。
>酒と歌は人生を楽しくする
バッキエは、ホントに楽しそうに歌いますね。
ゲッダとベイカーの温かく人間的なファウストとマルガリーテもぐっときます。
この二人のヂュエットは絶品です。
また、彼らを支えるプレートル&パリ管の明るくふっくらした管弦楽も実に気持ち良いですね。
ベルリオーズの「天衣無縫」を楽々と嬉々として表現していると思います。
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2007年11月09日 12:56 タケセン
ちょさん、
さすが「ファウストの劫罰」のスペシャリストですね。
見事なコメントをありがとう!!
自由人・情熱人バンザイ!ですね。
武田康弘
2007/11/15のBlog
[ 10:02 ]
[ 社会思想 ]
当たり前でしかないと思われるでしょうが、
民主主義の国家(戦後の主権在民の日本)と国体思想の国家(明治憲法下の天皇主権の日本)との違いは何か?を明確にしておくことは、極めて重要です。
ひとりひとりの自由で対等な人間が集まって、その権利と安全を担保するために国家という制度をつくる、と考える民主主義の国家観に対して、
国体思想による国家観は、予め日本はどういう国であるかを規定し、その観念的な国家像に合うようにひとりひとりは生きるべきだ、と考えるわけです。
個人の実存を基底に据え、国家とはその社会に住む人々の人権を守るために必要な制度だとする民主制の国家思想と、国体思想=国家主義とは原理がまったく異なります。前者は、理念としての人権思想―自由の相互承認を基盤として、ルール的人権の思想により営まれる市民自治国家であり、後者は、上からの「公」の思想によるエリート支配の国家です。
日本語を使い、日本の気候風土の中で生活するする私たちは、自ずと「日本的」な感性と思考(私は「水の国ー日本」と考えます)を持ちます。日本で生きる人々の実存は、アメリカや中国で生きる人々の実存とは「異」なる部分がありますが、それは予め日本主義の思想を政府・教育機関が教えるのとは違います。気候風土に合致した自然性・合理性が生む個性(日本性)はよいものですが、国家主義による誘導を行えば、人々の想念は固定化・保守化してナショナリズム(国家主義)に傾斜し、頑なになってしまいます。柔軟で自由な発想・思想が失われると、個人も国家も弱体化します。他在を受け入れる柔らかさ・しなやかさがなくなるのは「死」に近づくことだからです。
国家という制度の価値は、人々のよき生のための条件整備にどれだけ貢献しているか、その程度にあると言えます。同じことを逆から言えば、人々が自分たちのよき生(互いの人権の確保)のために、国家制度を有用なものとしてつくり運用しているかどうか、ということです。現代における国家とは、【人権と民主主義を守るための制度】と考える以外にはありません。「市民国家」以外の国家、たとえば「天皇元首の国体国家」を目がけることはできません。自由の相互承認に基づく民主主義と異なる政治体制を選択することはできない、というのが市民社会の哲学=根源ルールだからです。
武田康弘
2007/11/11のBlog
[ 22:07 ]
[ 恋知(哲学) ]
【白樺教育館】ホームに13名のとても興味深い原稿を公開しました。
13名13通りで、似たものは一つもありません。
年齢は16歳の高校1年生から76歳の主婦の方まで、職業もそれぞれ異なる人々の【公共哲学】をめぐる討論会後の【感想と意見】は、ほんとうに深く面白いものです。ここにはほんらいの「知」が生き生きと脈打っています。
ここに掲載された【感想と意見】をお読みになって、「真に有用な知とは何か?」をお考え頂けれたら、わたしは望外の幸せです。
武田康弘
「白樺教育館」公式ホームページ(クリック)
83. 幻の「白樺特集号」
『公共的良識人』07年2月号掲載予定の原稿公開
久々の更新です。
大分前のこと、2006年12月23日に【金さん・武田さんを軸にした白樺討論会<第5回白樺討論会>】を開催したのですが、この討論会に参加したメンバーの感想文を後日、公共的良識人紙に載せようということになっていました。が、残念ながら編集部の都合により、この企画はお流れとなってしまいました。
「民知」に共鳴する皆さんの書かれた文章が、おそらくは「進みすぎて」いて、従来の「公共哲学」運動の中に位置づかないと判断された故のようですが、この「白樺特集号」が「学」を職業としている皆さんに読まれれば、大変よい刺激となり、運動の前進に寄与したのではないかと思われます。とても残念です。
今日はその幻の「白樺特集号」の原稿をご紹介します。ここに掲載する13名の方の文章は、 金泰昌(キム・テチャン)さんからの依頼=「白樺特集」を組みたいので、12月23日の「白樺討論会」の感想を参加者のみなさんに書いて頂きたい=を受けて、討論会参加者の方が暮から正月にかけて書き上げたものです。
(ただし、最初の私・古林治の文は、金泰昌さんからの依頼により、「この討論会に至った経緯と概略」を書いたものです。)
古林治
みなさんの原稿は白樺教育館ホームでご覧下さい。
2007/11/09のBlog
[ 11:55 ]
[ 社会思想 ]
「育ちのいかがわしい者を哲学に近づけてはならない」(ソクラテス)
今回の騒動―福田首相と小沢民主党党首との大連立のための閉鎖会談は、読売新聞会長・主筆によって画策されたものであることが明らかになりました。
渡邉恒雄〈81歳)とは、名前の通り、恒(つね)に雄(ゆう)でいたいようですが、彼は、東大文学部・哲学科(法学部というエリート学部ではなく)の時、「全学連委員長」になれず、大きなルサンチマンを抱えたと言われています。就職は、当時はまだ朝日、毎日に遅れをとっていた読売新聞社。そこで一記者から社長になるのが当初からの夢だったようです。言論界を支配することで、傷ついたエゴを慰めようとしたのでしょう。彼は、「日本はアメリカの不沈空母」発言の天皇主義者・中曽根元首相と共に、「哲学者」気取りで、哲学を政治支配(己のエゴの満足)の道具として利用しようとします。
プラトンは、主著『国家』(市民国家ポリスの教育論・社会論)で、こういう輩を「育ちのいかがわしい者」とよび、ソクラテスの言葉として、そのような者を哲学に近づけてはならないと警告しています。「政治を哲学化」しようとして手痛い失敗をしたプラトンの自戒を込めての発言だったのかもしれません。元来、理念次元の探求を行う哲学と現実次元の得を実現しようとする政治を並列させて捉えることはできません。中曽根が言う「政治に哲学を!」という発想ほど危険なものはないのです。哲学の探求は、人間の生の意味と価値を問うものであらゆる営みの基盤となりますが、それをそのままの形で現実化するのは不可能ですし、もしそれを強行すれば、理念が現実を支配するという「理念主義・ロマン主義」を招来してしまいます(戦前の「八紘一宇」や「天皇現人神」という理念は、集団的ロマン主義の最たるものでした)。
話を戻しますが、今朝の東京新聞には、仁木啓孝さんと魚住昭さんの証言が報じられていて、それによると、
渡邉氏が中心となり、有識者や官房長官、ときに首相まで呼ぶ「山茶花会」(さざんかかい)という内密の親睦会があり、2000年の「加藤の乱」もこの会が発端とのこと。また、1998年の「自自連立」も渡邉氏の画策で、犬猿の仲とされた野中広務官房長官は、渡邉氏に料亭でひれ伏したが、野中氏の役が今回は福田康夫首相である、と魚住さんは語っています。
今回の件で、首相の代理として使われたのが、森元首相。
渡邉氏にこういうことができるのは、巨大新聞のドンという立場を悪用しているからでしょう。彼は、取材対象と一体となることで情報を集め、それによって政治を動かす古い派閥記者の典型であり、ジャーナリストとしては不適格者です。己のエゴの拡大を公共の新聞を使って行うというのは、民主主義の基本ルールを侵す暴挙としか言えません。
彼のような超自我主義者が全権を持つ新聞社が、日本最大規模の読売新聞です。民主制の根幹である報道の公正・公平という【公共】を実現するためには、現在の経営体制の変革が必要ではないでしょうか。そのためには【不買運動】も有効な手段だと思いますが、みなさんいかかでしょうか?
武田康弘
2007/11/07のBlog
[ 18:51 ]
[ 社会思想 ]
小沢一郎は、政治家として愚直に、全身全霊で生きてきた為に、上手に、大人の腹芸で生きてきた「政治家」には、その存在意味が分からないのだろう。
自民党の古だぬきたちは、最悪の意味で、実に大人である。
彼らには、真実・原理・理念は始めからなく、【戦略的思考を身体化】させているために、【シニカル(冷嘲的)な現実主義】で生きている。その点は俗世間的価値観(意識)しか持てない多くのマスコミ人も同様である。
この現実主義=悪しき大人の考え方が、日本をいつまでも「悦び」のない社会にしている。真に主体的(=「私」のロマン・理念・価値意識で生きる)ことがなく、外に・周りに合わせて生きる為に、永遠に幸福(=充足・意味充実)はやってこない。いつまでも不幸な生の再生産が続く。
いま、小沢一郎の記者会見を見ていて、小沢は「悪しき大人」にはなっていないと感じた。日本政界最大の男が「悪しき大人」でないのは、とても喜ばしいことだ。
自民党は大人である。しかし、この国は【大人】には変えられない。けっしてこの「官僚独裁国家」を変革することはできない。それだけは間違いない。
民主党は青い。しかし、【青い大人】でなければ、変革はできない。「混迷の民主党」にわたしはエールを贈る。
武田康弘
2007/11/05のBlog
[ 23:59 ]
[ 社会思想 ]
もう分かったでしょう。
国民も、あなたが選んだ民主党の幹部も、あなたより進んだ理念を持ち、思想は進歩しているのですよ。
政局として見るというレベルではなく、政治として・政権(交代)として政治を見ているのです。
政局としてしか見ることのできない遅れた頭脳の【渡辺や中曽根】をそれなりに優れたものと勘違いしているのは、愚かなマスコミであり、「国を憂う」などという気色の悪い騙しの言説を吐く【町村や伊吹】などの自民党の古だぬきグループだけなのです。
小沢一郎よ、あなたはせっかく半分変わったのですから、元の半身の方に逆戻りする愚だけは犯してなりませんよ。
国民は、暫くの政治の混乱は大きな改革のためには甘受するのです。
小手先の騙しのような改革ではこの「官僚独裁国家」はどうにもならないことを十分に知っているのです。厳しい対立や混乱を経由しなければ、改革はできないことを。
既得権を持っている人やグループ、もちろん前記の【老害】でしかない【古き自我主義者】たちは真の改革を何よりも恐れているわけですから、そのような人たちは遠ざけなければいけません。
あなたの近くには、こういう【戯けた老人】よりも桁違いに優れた人が多くいます。育っているのです。足元を見なさい。岡田や枝野や長妻や・・・彼ら若手のいう事に耳を傾けるのです。
時代遅れの古き「実力者」たちの政局主義に幻惑されているのは、マスコミ人であり、国民はもっと賢く先にいるのです。
民を信じなさい。この国では「エリート」よりも「民」の方が進んでいるのですよ。
小沢一郎よ、古だぬきの策謀から真に自由になるためには、後半分、自分自身を変革することしか方法はないのです。
あなたはまだ古い武将や明治維新期の政治家に範も求める気持ちがありますが、過去に範を求める精神を乗り越えないと、未来は未来に値するものとしては開けないのです。範を求めることのできない領域に入らなければまだ何事も成しえないのだ、ということを深く自覚しなければならないはずです。
あなたがしなければいけないのは、政治の変革なのです。
武田康弘
2007/11/04のBlog
[ 11:32 ]
[ メール・往復書簡 ]
以下は、「金泰昌・武田康弘の往復書簡・第二次「恋知と楽学の哲学対話」ドキドキの展開!! 」への荒井達夫さんのコメントです。
[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 21:24]
「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」というのが、金泰昌さんの思想ですね。国際的経験が豊富な金さんらしい思想ですが、特に「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などの議論は、日本国内の諸問題を考える際にも、問題の重要な側面を際だたせ、非常に有用な視点を提供するものと思います。
そこで、最近問題になっている防衛省の公務員倫理違反などを考えると、「国民主権(憲法前文)→全体の奉仕者(憲法15条)→公務員倫理法」という発想で思考し、行政運営を行うことの重要性を痛感します。なぜなら、個々の公務員(特に霞ヶ関キャリア)が、憲法の依拠する民主制原理を深く理解し、「活私開公」を徹底的に実践すれば、当然、「私」から「公共」が開かれ、その結果、「真の全体の奉仕者」となり、「良き公」(=公務の民主的で能率的な運営)が実現することになるからです。
-――――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/29 22:51]
荒井さん、
そうですね。自由対話による民主主義を原理中の原理に据えなければ、公共は成立しません。原理がボケれば、「公共」はすぐに「公」という名の官僚主義へと転落します。日本の現状は、その官僚主義ですが、彼らが「市民の公共的利益」とは違う独自の公(おおやけ)を持つことができると思うなら、それは言語道断という他ありません。主権在民の民主制を否定することにしかなりませんから。
コメント、感謝です。
―――――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 23:15]
私は、1年前、山脇さんとずいぶん厳しい論争をしたのですが、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などについて、上記のように理解するようになって、実は、あまり問題意識において違いはないのではないかと思うようになりました。今の日本で、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」とやっていくと、そのような理解が最も自然で、結局、皆そうなるのではないかと考えているところです。
補足です。
「公務の民主的で能率的な運営」とは、国家公務員法(1条)の究極目的で、公務が実現すべき「国民一般の共通な利益」を意味します。当然、「官」の利益ではあり得ません。
――――――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/29 23:52]
そうですよね。
【官の利益】、なんてまったくどこにも位置付かない意味不明の話でしかありませんものね。組織の利益のために組織がある!?とうバカげたことにしかなりませんからーそれを主権者の税金で維持する!?無間地獄に落ちますよ(笑)。
山脇さんも「民主主義派」ですからね、荒井さんとも一緒にいろいろやれますよ~
――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/10/30 21:14]
金泰昌さんは、「三次元相関思考」と言っていますね。私は「三元論」よりも、こちらの呼び方が好きです。「三元論」ですと、単なる理論モデルのようですし、また、内容も公共哲学の「原理」とは違うからです。大事なことは、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」という点であって、だからこそ、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」が、現実問題を考える上で重要な視角を提供してくれると考えています。金さんも、本来はこういう意図なのではないでしょうか。そうでなければ、金さんが一番心を痛めている日・中・韓の関係など、複雑困難な問題の解決が、さらに難しいものになってしまうからです。(これは、切ない話です。)例えば、「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/30 23:40]
荒井さん、
わたしが、キムさんのほんらいは?を言うわけにもいきませんので、返事は無理ですが、荒井さんの言う、【「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。】は、
誰が考えてもそう言うしかないでしょう。
そこが「官」の問題の核心のはず。
――――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/04 09:03]
山脇さんは徹底した民主主義派で、その三元論は、どこまでも、個人一人一人から成る「民の公共(活動)」が「政府の公(的行動)」と「私企業の行動」の「正当性(legitimacy)」を成し、前者が後者を方向付けるという観点で使っているようです。これですと、上のコメント欄の私の論や、その基礎にある武田思想とも矛盾しませんから、「官」の問題についても基本的な認識はそれほど変わらないということになるでしょうね。
――――――――――――――――――――――――――――――
11月7日補足。
以下にコメント欄の9つのコメントを張り付けます。
荒井達夫 ] [2007/11/05 23:50]
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(憲法前文)
これは、我が国が「地球的規模の公共性」の実現を目指すという宣言と言えますが、憲法を遵守し、実施する義務を負う「官」が率先してその実現に努力しなければならないことは、明らかです。また、この「地球的規模の公共性」の基礎にあるのは、当然「市民的公共性」であると言えますから、「官=公」でも、結局、「官とは市民的公共性を実現するための権力機構である」ということになるでしょう。私は、最近、「和」や「グローカル」の公共哲学をこのように考えています。
―――――――――――――――――――――
荒井達夫 ] [2007/11/06 21:18]
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
これは、「市民的な公共」の実現(正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)により、「官」が「最悪の公」(政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る)とならないようにする。そのために、憲法を確定するに当たり、はじめに「主権在民」を明らかにしたものであると言えるでしょう。この思想についての深い探求なくして公共哲学はあり得ないと考えます。
――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/11/07 09:16]
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
そうです。
当たり前と思うこの箇所こそ核心中の核心、原理中の原理であり、【主権在民】の徹底なくしては、武田の考える公共哲学は成立しません。
そこが【第二次哲学対話】(金泰昌と武田康弘)の論争点になっています。
まだ、発表していませんが、10月4日の『主権者は「天皇」から「国民」へーこの原理を徹底させたい』と、10月10日の『天皇制と主権在民について』は、この原理の確認と徹底化による【新たな公共哲学】の開示なのです。
新語・造語に惑わされず、「当たり前」を愚直に掘ること、それがほんものの哲学・公共哲学であるはずです。
―――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/07 20:49]
「官=公」の「公」と「公共」は次元を異にする概念であり、そのように理解してはじめて、金さんの「三次元相関思考」が活きてくるのではないかと思います。「官=公」の「公」は、「良き公」(公務の民主的能率的運営など)と「悪しき公」(最悪は、政府の行為により起こる戦争の惨禍)に分けられますが、「公共」については、このような区分けはあり得ません。「公共」とは、市民一般の共通利益(市民的公共)を意味するからです。「官」とは本来「公共」を実現するための権力機構のはずですが、実際には「公共」の実現につながる「良き公」と、つながらない「悪しき公」となる場合があり、我が国ではそれが「最悪の公」となった過去があります。そのために主権在民・民主制原理を確認し、「公共」の徹底的な実現を図る(諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)というのが、憲法前文の思想であると考えるのです。
――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/11/08 11:08] [ Myblog ]
荒井さん、
なぜ、【「官=公」の公は、】などと言わなくてはならないのか?
わたしは、「官」は、公共を下支えする組織であり、公共を「民意の代行機関であ
る議会」の決定の下に遂行する組織である。だから「官」は、絶えずその仕事が公
共(民意と人権)の実現に値するものかどうかを検証する義務がある、と言えばよ
いのだと思います。
「官の公」、というのは誤解を招く言い方であり、「官の仕事」、と言うべきであり、それならば、極めて分明に、「官の仕事は、民の公共を担保するのがほんらいだ」となり、そこに危うさが入る余地がなくなるわけです。そのような言い方=思想が民主主義の徹底化による公共の実現になる、わたしはそう考えています。
――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/08 21:21]
おっしゃるとおりだと思います。私は、現行法制を分析してみましたが、以下のように理解しなければ、「三元論」と「三次元相関思考」を使って憲法前文や国家公務員法の目的規定(1条)を合理的に説明することは不可能である、と考えています。 ①「官=公」は「政府の組織と活動」を、「公共」は「市民一般の共通利益」を意味する。その意味で、「公共」は「官=公」と次元を異にする概念である。(そう考えなければ、三次元思考にならない。) ②「政府の組織と活動」の目的は、「公共」の実現である。また、「公共」の実現に反する「政府の組織と活動」は、認められない。これは民主制国家において当然である。 ③「三元論」は公共哲学の「原理」ではなく、「現実問題の重要な側面を際だたせて説明する道具の一つ」である。また、「三次元相関思考」は、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」という点に重要な意味がある。
――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/11/08 22:39] [ Myblog ]
荒井さん、
官を公と置くという思想=キムさんの「公共哲学」の基本姿勢を引き受けて、それを現行の日本の社会制度と法体系に合致させようとすれば、ここに示された「荒井解釈」しかない、とわたしは判断します。
しかし、ふつうの多くの人の共通了解を命とする公共性に関する思想・考察が、「注釈」の必要な用語法の上にしか成立しないのは致命的な欠陥だと言えます。さらに、なぜ「三次元相関性」が、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」ことにつながるのか?論証抜きの結論先取りは、論理の基本に反しますが、荒井さんの悪戦苦闘!?(笑)ぶりはよく伝わります。
―――――――――――――――――――――――
[ 古林 治 ] [2007/11/08 22:58]
荒井さんが悪戦苦闘している姿を見てじっくり考えてみました。
『【公】という語を単独で使った刹那、公と公共は峻別され、公共とは別の正当な主体者が存在することを(暗に)喚起してしまいます。これはどう考えても民主制の原理とは相反する考えです。』
やはり、原理レベルでの調停、妥協、折衷というのは成立しない、それは現実レベルでのお話である、という結論になりますね。
――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/09 00:11]
私が、公共哲学の検証に憲法と国家公務員法を題材にしたのは、これらが公共哲学の実践において最重要の法制であることと、民主制原理を明確にしている法であることが理由です。その結果は以下のとおりですが、公共哲学関係者にとって無視できない重大な意味を持っていると考えます。是非、真正面から検討し、議論していただけるよう希望します。
2007/11/02のBlog
[ 09:14 ]
[ 趣味 ]
以下は、【ベルリオーズの世界】(ミクシィ内につくったコミュニティ)のトピックです。
まず、クリックして下さいーベルリオーズの世界
ファウストの劫罰って、こんな音楽です。
お勧めのCD、入手された方いらっしゃいますか?
おせっかいながら、少し説明してみます。
「ファウストの劫罰」は、オペラでもなく交響曲でもないが、両方でもある、分類不可能な曲で、「劇的交響曲」と呼ばれます。
フランス語訳されたばかりのゲーテの「ファウスト」を読んで熱病につかれたように感激したベルリオーズは、作曲にあたり、原作を大胆・自由に変えて台本をつくりました。
お勧めしたCD(クリック)は輸入盤で日本語の対訳や解説がないので、簡単にご紹介します。この曲は音楽がすべてなので、細かい話はどうでもよいのですが。
粗筋は次のようなものです。
主人公のファウストは、自然にも人生にも飽きて毒杯を飲もうとするが、そこに復活祭の歌が聞こえてきて思い留まる。
突如メフィストフェレスが現れ、酒と歌は人生を楽しくすると言う。
メフィストフェレスの力で美青年に変身したファウストは、マグリートの部屋で愛を確かめ合う。マグリートの恋の歌。ファウストの大自然を讃える歌。
マグリートは母親殺しの罪で死刑の宣告、それを救いたい一心からファウストの地獄堕ちが決まる。メフィストフェレスは勝利感に酔う。
ファウストは地獄の炎に焼かれ、天国から天使たちの合唱する「マグリートへの賛歌」が聞こえてきて幕。
CD1
第一部 ハンガリーの平原(注・ゲーテの原作には全くない)
第二部 ドイツの北部
第三部 マグリートの部屋12幕まで
CD2
第三部 マグリードの部屋13幕以降
第四部 マグリートのロマンス、自然への祈願、地獄への騎行、天国にて
(余白には「クレオパトラの死」(20分)が収録されている)
まさに天才の作、霊感に満ちた天衣無縫の響きをぜひご堪能下さい。
武田康弘
2007/10/31のBlog
[ 19:48 ]
[ 社会思想 ]
政治家は、お人形!
官僚は、人形使い!
実務を仕事とする官僚が、なぜ、選挙で選ばれた政治家をコントロールできるのか?
民主主義=市民的公共が実現しないわが日本の悲しい現実は、霞ヶ関の官僚が、実質的に政治家を支配しているところに直接的な原因ありますが、
この事務・実務を担当する者の意思が、政治思想と政策を左右できてしまうというのは、日本では、大元に戻して考える哲学次元の営みが乏しいからだ、とわたしは見ています。生活世界の具体的経験を踏まえて、自分の頭で納得できるまで考えてみるという自問自答と、互いにその根のある考えを自由対話によって交換し合う世界がないために、「なぜ、なんのため」の原理的追求ではなく、「どうすればうまくできるか?」という実務的思考だけが大手を振るうのではないでしょうか?
その日本の精神風土は、なにがよりよい考えなのか?の追求を放棄し、ただ多様であればよいという「価値相対主義」及びそれとセットになっている自己感情絶対の「自分教」、それとは反対に見えるが実はひとつメダルの表裏にすぎない「集団同調」による「全体一致」-それは「協調性」という言い方で美化される-の【二つの間をいったりきたりする】現象を生んでしまいます。
絶対や超越という発想とは無縁の「普遍了解性」を求める知的努力は、ダサいもの時代遅れのものとして体(てい)よく排除されてしまうのですが、これは1980年代に隆盛を極めた「ポストモダン」という名の現代思想とうまく符号しています。ヨーロッパのあまりに普遍主義的な哲学への欧米人自身による「自己批判」の尻馬に乗っかって、普遍主義とは反対に「曖昧さと自己感情の絶対化」を得意とする?日本においてポストモダンが言われるのですから、これはもうマジメな突き詰めを一切せず各自が勝手な事を言うだけ、という思想状況―知的退廃しか生みません。日本の大学でも新しい学部ほどこの傾向は強いようです。意味への探求による意味充溢がない知であれば、人間の生とは無縁の「知の為の知」しか生まず、「学」はそれ自体が目的化されて現実に対する有用性を失う結果、面白くなく意味のない「形だけの知」が支配する愚かな世界が現出してしまうわけです。これでは知も学も「職業」か「趣味」以上にはなれません。人間の具体的な生を支えるほんとうの知=恋知(哲学)として考える悦びはないのです。学者がつくった新語や新説を一生懸命に暗記する「バカバカしい知のゲーム」をまともな人や生活者はやりません。
「知」が中心的な役割を担う現代社会では、知のありようが、しらずに人間の行動を決め、社会のありようを決定してしまいます。生活世界の具体的経験につき、深く強く考えること、土台・原理を探り、その上にしっかりとした考えをつくることが健康な社会を生むのですが、そういう地味で正当な根のある「知」から逃げ、ポストモダンの知の遊戯―底の浅い言葉や新説の羅列に幻惑されて右往左往する状況では先が見えません。
このように健康な思想がない状況では、ますます、事務・実務という「現実次元」が、政治思想という「理念次元」を配下に治めるという逆転現象に拍車がかかり、その時々の状況と都合でただ流れゆくだけという事態にしかなりません。「なぜ、なんのため」という原理的追求をパスし、「どうすればうまくできるか」という実務的思考ですべてが決まるのですから、問題の本質的解決は出来ません。原理・本質・理念などの目に見えないものには関わらず、ただ実務的能力をつけ事務仕事をこなせばいいのだ、というのであれば、人間の生はエロースを失い、灰色の時空間が支配するしかないでしょう。
理念・ロマンなき現実とは、みすぼらしき現実しかうみません。理念・ロマンなき現実には意味がないのですが、そのことを深く了解できている人は、あまり多くはないようです。「人間は物質的欠乏には耐えられても、意味の欠乏には耐えられない」(竹内芳郎)はずです。
官僚と政治家のことで書き出したら、こういう話になってしまいましたが、日本の「思想なき現実主義」が根源的な不幸を生むことだけは確かです。
武田康弘
2007/10/30のBlog
[ 09:14 ]
[ 恋知(哲学) ]
①役所が市民の利便性をはかる仕事を「公」(おおやけ)の仕事と呼び、
個人や民間団体(例えば白樺教育館の活動)が市民的な利益をはかる仕事を「公共」と呼ぶとすれば、もちろん「公」と「公共」は異なるものです。単純化して言えば、前者は一般的な利益をはかる仕事であり、後者は普遍的な利益をはかる仕事だ、と言えましょう。
②わたしが、官の仕事を公と呼んで市民的な利益と分けてしまうのはダメだ、というのは、「官」が市民的な利益とは異なる独自の「公」という領域をつくり、その場所に居直ることは許されない、という意味です。
わたしの教育の仕事は、経営形態は個人ですが、その内容においては極めて公共性の強いものです。しかし、「私」から始まる個人経営の形態であるために、公共的な仕事とは一般には認められてきませんでした。わたし自身は、31年間一貫として「公共的な仕事」であると考え、そう言ってきましたが。だから、わたしは、「私」からはじまる個人経営であっても、それは内容によって「私」に留まらず「公共」である、と考えるわけです。その場合は、「公」と「公共」とは明らかに区別されます。
そういうわけですから、①の視座から言えば、役所の仕事(「公」)と私から始まり皆の利益を生む仕事・活動(「公共」)は当然異なるもので区別されますが、②の視座から言えば、「官」はあくまでも市民の共通利益をはかるために存在するのですから、それ独自の公を持ってはならず、公共の利益のために、というところに常に照準を合わせて仕事をしなければいけない、ということになります。
なお、わたしは30年間以上、①の公共的な活動・仕事を続けてきたのですが、そこでの「私」は、私的利益を追求する私ではなく、「私の可能性を社会的現実において開き、社会の中で私を活かす私」(6月14日の書簡「自己という中心から公共は生まれる」)であったわけです。ほんとうの「公共」とは、己を犠牲にして得るものではなく、広く社会全体を私(たち)のものとする発想・知恵であり、広義の「得」を生むものです。「私」を堀り・開発することが「公共世界」をつくるわけです。その公共をこそ「官」(税金でつくられた公共実現の機関)はサポートするべきであり、利潤の追求を目的とした企業活動と結びつき便宜をはかるのは、言語道断と言わねばなりません。これからは、【「私」から始まる市民的公共】が称揚されねばならず、大企業の【企業的私益】と政・官が結びついた社会は、人間を営利存在としてしか見ない文化を生み、多くの人を堕落させ、全体を不幸にしていくだけです。
【私から始まる市民的公共】とは、これからの「自然環境 内 存在」としての人間の生―新たな豊かさ・内的な悦びの生をつくるために最も必要な概念・思想である、とわたしは思っています。30年間以上にわたる不変の確信として。
武田康弘
2007/10/29のBlog
[ 09:10 ]
[ 恋知(哲学) ]
5月から6月にかけて行われたキムさんとわたし(武田)の「恋知と楽学の哲学対話」(クリック)は、『公共的良識人』紙(京都フォーラム発行)の7月号・8月号に掲載され、嬉しいことに、多くの読者の方から絶賛を浴びました。
その続きの第二次「恋知と楽学の哲学対話」は、9月5日から始まり、昨日のわたしの分ですでにA4(1400字)で23枚を越えています。これは、金泰昌さんのお考えにより、前回のように途中でインターネット(白樺教育館・ホーム)に公開してご意見ご感想を受けることはしないで、いきなり『公共的良識人』紙の11月号か12月号に載せて、新聞の読者を驚かせようということになっています。
したがって、いま全文を公開することはできませんが、その内容は、極めて本質的な話になっていて、ドキドキ・ワクワク・ハラハラの緊張感に富んだものです。全文が載れば、また、同時にインターネットで公開されれば、話題騒然!!笑(自画自賛ですみません)だと思います。なお、『公共的良識人』の7月号、8月号は、京都フォーラムで入手できます。電話06-6344-2715 Eメール institute@felissimo.co.jp
上記のようなキムさんのお気持ちがありますので、まだ全文を公開できませんが、このブロに、以下にわたしの一日分だけを公開しますので、前後を予想?してみて下さい。
民主主義の原理からの出発は、「公」ではなく「公共」を生む。2007年10月22日 武田康弘
キムさん、論じなければならない点がいろいろありますね。
ゆっくり楽しみながら往復書簡による恋知(哲学)対話を続けたいと思います。
まず、「日本では政治権力の正当性の暗黙的根拠が天皇の文化的象徴的権威によって担保されている」というキムさんのご意見ですが、外国の方が見るとそのように見えてしまうのだな、と思いました。確かに「象徴天皇制」とは極めて曖昧で、明晰な分析を拒むために、さまざまな解釈を呼び寄せてしまうものでしょうね。
わたしは、日本の皇室はイギリスの王室とは違い「神話的世界」に留まる文化的象徴であるべきで、現実政治の領域には関与しないのがほんらいの姿であると思っています。明治政府がつくった「近代天皇制」は日本の伝統とはひどく異なるものですが、「天皇史観」の徹底で日本史は大きく改竄されてしまいました。歴史を正しく民衆史として見ると(NHK大河ドラマなどは「英雄史観」を刷り込む歪んだ放送です)日本には500年以上前からの民主政治・自治政治の伝統があることが分かりますが、これについては、池上裕子(成蹊大学教授)さんらの優れた日本史研究家にお聞きになられるのがよいと思います。
話を戻しますが、「国民の主権は、特にその行使は、何らかの装置もしくは誰かの人格に象徴的、もしくは法制的に仮託・代理・代表させるというかたちを取らざるを得ない」というキムさんのご見解は、原理次元の話と現実具体次元の話を混ぜて語られているように思えます。民主主義とは、理念としては直接民主制―自由対話による自治のことです。もちろん現実においては不可能(とくに国単位)なので代議制をとるわけですが、それがよいのではなく、そうするしかないからです。あくまで理念次元に直接民主制を置かなければ、代議制もその正当性の根拠を失ってしまいます。また、市民社会の成熟・テクノロジーの進歩に応じて直接民主的な手法を多く取り入れていくことも重要で、現に地方政治からその方向に向かっていますが、これも理念次元に直接民主制を置いているから可能なわけです。
また、前回の書簡内容を繰り返しますが、「天皇に仮託された主権」というキムさんのご意見は、そこから市民・住民自治を進める上でのよき結論が導き出せないと思いますので、わたしはその見方をとりません。
次に公と公共の区別ですが、わたしは原理次元でこれを区別する思想は、国民(市民)主権の民主主義社会においては成立しないと見ます。国民(市民)的な公共性とは異なる公を担う「官」(行政機関)を認めることは、原理に反すると思うからです。
以下にわたしが考える「民主制の原理」について簡潔に記してみます。
まず、言葉の定義ですが、行政機関の機能・役割・仕事をひと言で「官」と呼ぶことにし、市民の共通利益になる考えや行為を「公共」と呼ぶことにします。この場合、「官」は、それ独自の組織を持ちますが、その組織の存在理由は、市民の「公共」を支え、実現するところにあります。
明治憲法(欽定憲法)下の日本の場合には、「官」が市民的な公共とは別に「公」という国家的な公共をもちましたが、それは、主権者が天皇であり、国民は臣民と位置づけられ、天皇の赤子とされたからです。しかし、現・日本国憲法下の日本では、主権者は国民(市民)であり、国民(市民)に税金で雇われている行政マンは、主権者の公共的利益を実現するために働く義務を負う訳です。
したがって、市民的な「公共」とは別に「官」独自の公共=公を置くことは、原理上許されないはずです。「官」とは、「公共」の中にあるのであり、官と公共が並立しているのではなく、「公共」を支えるためにのみ「官」は存在するのですから、公共⊃官なのです。
わたしは、以上の「主権在民という民主制社会の統治原理」の深い自覚が何より大切で、それが曖昧だと全ては砂上の楼閣になってしまう、と考えています。
キムさんの言にもありますように、民主制の社会を前に進めるためには何をどう考え、どうしたらよいのか?それが社会問題を考え、解決するための最良の立場・視点のはずです。「自由の相互承認」に基づき、主権者の共通利益を探っていく営みが民主制社会における広い意味での政治であり、そのために何より必要なのが「自由対話」です。民主主義という思想を深めてゆくこと=民主主義を哲学することが「公共」を実現するための基盤であり、自由対話は民主主義による統治=自治の実践であって、それにより「公共」は現実のものとなるのでしょう。
以上は原理上の話ですが、翻って現実を見ると、市民的公共は、官の独裁的とも思える強権によって押さえ込まれ、国民は、自分たちが税金で雇ったはずの官僚に逆に支配されているようです。官僚は威張り、実際上大臣さえ更迭できるほどの「公」をもち、その権力は天を突くほどです。外国の学者が日本を「官僚独裁国家」と規定するのも頷けます。
ほんらいは、市民の公共を実現する機関・組織である「官」が、市民的な公共性とは異なる(上回る?)独自の公共性=「公」を持っているかのように振舞っています。厚生労働省が製薬会社の利益を「公」と考えて市民の命を犠牲にしたり、文部科学省が独自の「公」の思想によって教科書検定という思想統制を行ったり、警察や検察の「公」を建前とした人権軽視は後を絶たず、冤罪天国になるほどで、例を上げたらきりがないわけですが、このような彼ら「エリート官僚」の言動を支えているのが、市民的公共とは分立した国家的「公」という想念ではないでしょうか。
ひろく市民の英知につくこと以上の価値=国家の「公」があるという妄想を官僚が持つのは、彼らが歪んだ受験知の勝者で、国家公務員上級職という特別な地位にあるからでしょう。試験秀才は、思考力や想像力や創造力などの人間の最も人間的な能力においてはかえって劣っていることが多く、いわゆる正解が決まっている問題を早く解くだけの「パターン人間」です。わたしが「東大病」と呼ぶこのステレオタイプの頭脳の官僚は、前例に従って仕事をこなすに過ぎないのですが、「テスト秀才」であるが為に、自分を優秀だと思い込み、市民的公共以上の価値=「公」を持てるという反・民主主義的な倒錯した世界に生きるのです。
このイマジネーションに乏しい試験知=規格知=官知に基づく「お上意識」の横行が、日本社会からエロースを奪っているのですが、この有害な「公」という想念を生む「知」のありように現代の人間・社会問題の深因があることを指摘したのが、キムさんが「深い感動と熱い共感」をもたれた「白樺フィロソフィーと民知の理念」であったわけです。
わたしは、民主主義社会の原理につくならば、「公」とは幻想に過ぎず、原理上は、市民的公共以外に「公共」はなく、「官」の仕事は、国民からの委託で「公共」を支え、実現するものであり、官僚は国民のサービスマンである、と考えているのです。官僚は、「公」なる幻想上の花を愛でるのではなく、「公共」実現のための国民のサービスマンたれ!!
以上がわたしの見方ですが、それは、「公」と「私」を媒介する「公共」というキムさんのお考えとは、残念ながら整合しません。現実論、運動論としての理論を考えるキムさんと、原理を踏まえることに重きを置くわたしの立場が「違い」を生んでいるようです。わたしは、原理を繰り返し捉え返す営みによって現状に対する根底的な批判をしてくことが、遅いように見えても最も有効で早い現実変革への道だと考え、実践してきた者です。なぜなら、原理的思考の内実を豊饒化することが、不退転の意思を生むだけではなく、臨機応変・当意即妙の自由でしなやかな現実対応をも可能にすると思ってきたからです。
また、「私」の捉え方の違いも大きいのではないか?と思うのですが、長くなりましたので、今日のところはここまでにして、次回に書きたいと思います。キムさんとの認識及び基本視座の違いは違いとして尊重しつつ、お互いに更なる協力を進められたら幸いだと思う次第です。キムさんはいかがお考えでしょうか?
武田康弘
2007/10/27のBlog
[ 15:21 ]
[ 恋知(哲学) ]
以下は、白樺ML内のメールです。
うんと原理的な話ですが、
なぜ、ソクラテスが実践した問答法(ディアレクティケーー)だけが,その後の世界で、圧倒的な普遍性を獲得したのか?インドや中国の思想ではなく。
わたしは、大きく3つの理由があると思います。
①ふつうの話ことばで考えた。
②町のなかで、ふつうの人々の中で行われた。
③権威に従わず、考えられた内容のよさにのみ従った。
これは、現代においても哲学する上での基本だと思います。ぜひ愚直に実践したいもの。
武田康弘
2007/10/26のBlog
[ 11:12 ]
[ 趣味 ]
ミクシィ内にコミュニティ【ベルリオーズの世界】をつくりました。
以下にその案内文と、「ベルリオーズの音楽の聴き方」と「ファウストの劫罰」についての記事をコピーします。
(参加される方は、ミクシィのメンバーになる必要がありますので、わたし宛にメール( shirakaba2002@k.email.ne.jp )を下されば、ご招待します)
【ベルリオーズの世界】
想像的創造力そのもののようなベルリオーズの音楽を愛でるためのコミュニティです。
形式による統一ではなく、情熱が自ずと形式を与えるようなベルリオーズの音楽のほんとうの素晴らしさは、専門の音楽学者や批評家にはよく分からないようですし、音楽学校で型どおりの音楽教育を受けた演奏者もまたその真価を知らない人が多いように思えます。
想像力がそのまま音になったようなベルリオーズの音楽は、機械化が進み、技術主義が支配し、叙情性が失われた現代では理解され難いのかもしれませんが、人間の自由と情熱と叙情性の回復のために今もっとも注目されて然るべき、と思っています。
わたしは、人間は「想像力動物」(ホモ・イマージネス)だと考えていますが、ベルリオーズほど想像力を刺激する音楽は他にないと感じて三十数年がたちます。同じ気持ちを持つ方はもちろん、これから聴いてみようかな?痺れてみたいな!(笑)という方、ぜひぜひご参加下さいね。
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【ファウストの劫罰】
ベルリオーズは、「幻想交響曲」だけが有名ですが、その真価は劇音楽にあります。
まず一曲という方、「ファウストの劫罰」をぜひお聴き下さい。
演奏は、シャルル・ミンシュの全曲盤、アンドレ・クリュイタンスの抜粋盤などの名演がありますが、わたしは、ジョルジュ・プレートル指揮の全曲盤をお勧めします(クリック)。
エレガントで強く分かりよい演奏です。録音は古いのですが、最新録音のように切れがよく美しい音ですし、二枚組みで1000円は、超お買い得です。余白には、若きベルリオーズの恐るべき天才性が刻印された「クレオパトラの死」が収められています。
35年前に買ったLPは、イギリスからの輸入盤でした。音質が国内盤よりよいと言われていたので購入した記憶がありますが、今も現役(笑)です。
これは、1970年にパリで録音されたもので、ファウスト役のテノールのニコライ・ゲッタ、マルガリート役のメゾソプラノのジャネット・ベーカーが指揮者のジョルジュ・プレートル(46才)と共に笑顔で写っています。フランスの威信をかけてつくられて3年目のパリ管弦楽団、その熱気が伝わってくるようなリハーサル風景の写真もあります。
このフランスの自由主義者・プレートルは、今年で83才ですが、来年1月のウイーンフィルのニューイヤーコンサートを指揮するそうです。
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ベルリオーズを愛して三十数年、突然思い立って今日、【ベルリオーズの世界】というコミュニティを立ち上げました。
劇音楽で長い曲が多いので、あまり一般的ではないようですが、天才という言葉はベルリオーズのためにある、わたしはずっとそう思ってきました。イマジネーションの化身のような音楽は、生涯の宝になります。
聴き方には、ちょっとしたコツがいります。大きな壁画を見るように聴くのです。細部を見るとか、一つひとつの音符を追いかけるのではなく、全体をそのまま感じ取るようにします。理屈や言葉で説明しようという構えを持つと、全くお手上げになります。
イマジネーションを喚起し、解放する音楽なので、全曲をまとめて聴く必要はありません。
大きく構えてアバウトに接すると、そのよさを堪能できます。
みなさん、ぜひ【ベルリオーズの世界】を知ってください。
武田康弘
2007/10/21のBlog
[ 11:25 ]
[ 趣味 ]
ほんとうの【感動】とは、
言葉を失わせるもの、どのような言葉も無力であることを悟らせるもの、ただその前に沈黙するしかないもの。
それは自我からの解放であり、解脱であり、大いなる覚醒である。
心はうち震えながらも、静かで透明になり、無言のまま悦びそのものとなる。
そういう心の事態が感動であるとするならば、
小沢征爾の指揮する音楽は、そこからは遠い。
音響としての快や美に留まり、
【感動】=自我からの解脱、精神の覚醒とは無縁だ。
もしこれでよいのなら、音楽の真髄はこの世からなくなる。
武田康弘
2007/10/18のBlog
[ 23:36 ]
[ 私の信条 ]
間違いを犯す私、欲に突き動かされる私、・・・・「よくない私」がそれでも夢や希望を失わずに、よきもの美しきものに憧れて生きるーそのような人間が互いを認め合い、「ご同胞ご同行」で生きるのが民主制社会ではないでしょうか。
「理想的な政治」というのは概念矛盾でしょう。失敗を繰り返し試行錯誤でその都度修正しながら歩むしかないのが人間社会であって、「正しい」理論で政治を行えば、恐ろしい事態を招くのは、すでに歴史が証明済みです。
個々のよくないことや失敗が許容されるから人間は生きられるのであり、個々の悪をすべて無くせば、生の全体が崩壊するしかありません。
個々への潔癖性は、著しい全体不合理を招きます。部分の悪や不合理を許容するゆとりを持ち、個々の「悪」の前に萎縮せずに、「よい・美しい」を目がけるたくましく健康な生を築きあうのが、「ご同胞ご同行」の民主制社会でしょう。
民主主義とは、人間をその存在において深く肯定する思想です。それと対極にあるのがエリート主義で、その思想は人間のありのままの姿を認めず、特定の理想で人を縛りますが、それは必ず生の否定というニヒリズムを招来します。
間違いを犯し、欲に突き動かされながら、それでもよきもの・美しきものへの憧れを持ち続ける「現実の人間」を愛せない思想は、必ず滅びると思います。愛がないからです。
武田康弘
