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2007/12/25のBlog
[ 00:01 ]
[ メール・往復書簡 ]
金泰昌と武田康弘の往復書簡―【楽学と恋知の哲学対話】が、「公共的良識人」紙の7月8月号に続き、12月号に掲載されましたので、その部分を「パート2」として白樺教育館ホームに古林治さんがアップしてくれました。(クリック)
12月号に掲載されたのは、再開された往復書簡の前半(9月5日から10月10日まで)ですが、これは、武田による【言語至上主義】への批判―【想像力次元】への着目という主張からはじまり、「イメージと言語のたえざる往復を心がけつつ対話する」という基本方針を確認した上で、「官」の位置づけの問題を主題としました。
「公」と「公共」の問題―これを分けるのが金泰昌さんの進めてきた「公共哲学」の要諦ですが、武田の考えは、主権在民の民主主義国家においては、「官」独自の「おおやけ」があるとする考え(公と公共の区分け)は、原理上成立しないというものです。
大変重要な論点だと思います。ぜひ、ご覧下さい。
武田康弘
2007/12/23のBlog
[ 22:33 ]
[ 恋知(哲学) ]
【恋知と楽学の哲学対話】が掲載された「公共的良識人」紙の12月号が出ましたが、すでに対話は次の段階に進んでいます。以下に武田の第三次の一回目を載せます。
「命」 2007.12.13 武田康弘
第三次の往復書簡をはじめるにあたり、キムさんからお電話でテーマは「命」(生命・生活)でどうだろうか?というご提案でしたが、わたしもそれがよいと思います。
ちょうど日曜日に『生命のフリーズ』(フリーズとは装飾性をもつ連作)をライフワークとしたムンクの特別展(上野の国立西洋美術館)を見てきたところです。愛と性を根源のモチーフとしたムンクの絵画は、有名な「叫び」に代表される前期の実存の不安・狂気性、マドンナ・性愛から後期の思春期のこどもたち・長老と少年・女性と子供・働く人々へとテーマは変わりますが、一貫として生命をモチーフとした実存的な絵画です。
わたしは幼い頃から体調のよくない日が多く、内臓疾患に苦しめられた経験から、「生と死」の観念は、恐怖や不安と一体となって自己存在を支配してきました。「命の哲学」としての人間性の肯定―【知・歴・財の所有ではなく、存在の魅力こそが人間の価値である】というわたしの中心思想は、この「生と死」の観念にその源流があります。「既存の制度の中で序列を競うような生き方は、全く生きるに値しない」という思いは、そのような意味での「命の哲学」から来る必然でしょう。
9月5日の第二次往復書簡の最初の書きましたように、認識論の原理中の原理は【直観=体験】であり、実存論の原理中の原理は【欲望】だ、とわたしは考えていますが、この欲望とは「命」の別名だと思います。「命」とは燃えるもの、輪郭線のないもの、不定形なもので、死の確実性とは対極にあります。それゆえにネクロフィリア(死んでいるもの・固定しているものへの愛)の傾向にある人たちが対峙することをひどく恐れるものです。わたしは、日々幼い小学生とも30年間以上交流(授業を越えた授業)をしてきましたが、幼い子ほど初発・初源の「命」の輝きー直接的な生のパワーをもち、大人の固定観念に嵌(は)まらない自由な発想をしますので、彼・彼女らと交わるのは実に悦ばしいことです。
「命」について考えると言えば、地球環境の問題について考えることにもなりますし、生命の誕生という話になれば、特異点からのビックバンに始まる宇宙創生の物語、恒星の誕生―核融合によるFeまでの重い元素の合成と(超)新星爆発によるFe以上の元素の生成、そこで得られた多層な物質による第二次以降の恒星+惑星系の誕生と、危ういバランスを保つ惑星表面でのDNAの生成、40億年以上にわたる幾度の壊滅的な危機を乗り越えての生命の進化―「奇蹟のドラマ」、そのような視点とスケールで対話をするのも楽しいことではありますが、わたしたちは、人間が人間として生きる上でなによりも大事な「生の意味と価値」=恋知=哲学についての考察をしていますので、「命」というテーマを、「人間としていかに生きるか?」「生きることの内実をエロース豊かなものにする条件は何か?」として考えてみたいと思いますが、キムさん、いかかでしょうか?
命の価値への意識が薄らいでいるように見える現代社会の中で、自分がかけがえのない生を営んでいることへの自覚もまた薄らいでいるようです。他の誰とも取り替えられない私の命=生を肯定し、愛することを可能にするための条件とはどのようなものでしょうか?キムさんのお考えをお聞かせ願えれば、と思います。
武田康弘
2007/12/22のBlog
[ 09:52 ]
[ メール・往復書簡 ]
以下は、この下のブログー「姑息極まる官府(厚生労働省と政府)ー「30億を勝手にお分けください」!? に対してのミクシィ内のコメント(Zさんとのやりとり)です。
Z 2007年12月20日 23:57
タケセンさんもいいかげん認識が甘すぎますよ。(爆)
だから、この国は最初から民主主義国家じゃないんですってば。
民主主義を実現するだけの民衆の意識の高さが、最初から無いです。
仮に在ったとしても、我々に民主主義を実現する力がありません。
戦前は奴隷の軍隊、戦後は社畜です。
最初から人間ではない。
日本民族など、家畜人にしか過ぎません。
単なるヤプーです。
国民はこの国では、アメリカと、役人と、
大企業に奉仕するだけの家畜です。
ミサイルに使う金は有るんですよ。
でも政府によって病気にさせられた人々に謝罪し、
補償する金はないということですね。
どうせ連中が死ぬのを待てばいい訳だし・・・・(爆)
この国のいつもの事であります。
これは政府の失策なのだから、
全部ケツを拭かせなければならない。
この場合、踏み倒しは絶対に許してはなりません。
無いという事であれば、ミサイルに使うお金を奪うしか有りません。
さて、そこまで腹を据えて戦う人間としての尊厳を持った奴が、
どれほど居るか見物ですな?
私は心の底から、日本のあちこちで暴動とテロが
起きて欲しいと熱望しています。
それでも、唯一の救いがあります。
それはこの国が末期的な状況にあるという事です。
おそらく今の政府は、近い将来に非常に危機的な状況に
立たされる事になると思います。
近代日本とはなんであったのか、
日本国の滅亡を前にして、
きちんと総括しておかなければならないと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
タケセン 2007年12月21日 00:32
Zさん、
末期的であることはその通りですが、たとえ日本国が滅亡するにしても、よくなる可能性への道は示しておかないと、後が困ります。
また、わたしは小学生のころから、「非暴力不服従」の思想と行動をもって生きてきましたので、暴力には反対なのです。
非暴力で、改革への強い意思をもった人の輪を少しずつ広げてきました。「間に合う」かどうか?は分かりませんが、それを続けるのがわたしの最善なのです。
――――――――――――――――――――――――――――――
Z 2007年12月21日 10:54
このままでは良くなる可能性は、おそらくないです。
自らの力で自らの腐敗から脱却したなんていうケースは、
極めて稀です。
私が唯一、希望を持っている事は、
今の政治機構がガタガタになり、
政治権力と官僚制が機能不全を起こすことです。
そうすれば暴動が起き、テロが起き、内戦が起き、
その混乱の中から、必ずや新しい政治権力が誕生する。
南米のどこぞの国のように、とことんボロボロになるかも知れません。
それでもその混乱の過程の中から、人々が過去の教訓を活かし、
真に人々の為の政治体制を樹立させる為に立ち上がることが出来るかも知れません。
日本国のみならず、世界中の人々の幸福と、
自然と人間とが共存する道を選ぶ政府を樹立する事。
これこそ我々に残された唯一の希望です。
今の政府はいろんな意味で戦前の体制を継承しています。
この負の遺産をすべて断ち切らない限り、
日本国の立ち直りに残された希望はありません。
もはや政府を転覆すること以外には、方法がありません。
おそらくタケセンさんの努力は、
今の政府の崩壊を食止めることには、
間に合わないでしょう。
しかし、プラトンやアリストテレスの存在がそうであったように、
必ずや、いつの日か未来に、新しい社会を実現させる上で
タケセンさんの骨折りは無駄にはならない日がきっと来ると思います。
――――――――――――――――――――――――――――
タケセン 2007年12月21日 12:11
Zさん、
私に対する高い評価、どうもありがとう。
もちろん、わたしは現政府を認めていませんし、また、明治の山県有朋らのつくった詐欺のような官僚主導の政治体制(わたしはそれを「靖国思想ー天皇教・官僚主義ー東大病」と呼んでいます)を根本的に批判し変えていかなければ、市民主権の未来社会を開くことはできないと思っています。
これは、
哲学の土台から現実の法体系、
人生観ー社会観、
型の文化の枠内に人間の意識を閉じ込める教育、
それらを支える日々の生活仕方・意識、
いわゆる「文化」の全体を変革していくことと一つです。
――――――――――――――――――――――――――――
Z 2007年12月21日 15:02
タケセンさんのご指摘は、正しいです。
必要最低条件として、当然、要求される事ですね?
(残念ながら、今の日本の大衆にそれが出来る程度の
知的能力が存在するとは到底思えないですが・・・・)
近代日本を支えてきたエートスへの徹底した自己批判と自己検証を
前提としない限り、仮に新しい政府が樹立しても同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。
――――――――――――――――――――――――――
タケセン 2007年12月21日 23:18
Zさん、
「近代日本を支えてきたエートスへの徹底した自己批判と自己検証を 前提としない限り、仮に新しい政府が樹立しても同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。」は、
まったくその通りだと思います。
同時に、わたしは従来の左翼思想にある暴力肯定にも反対です。どこまでも【非暴力を貫く強さ】が大切だと考えています。
粘り強く、何千回でも繰り返す【持続力の文化】を生み出す営みと社会改革はひとつです。
自分自身の実存を豊かにしつつ公共的な思想と行動(【行動する良心】)をする、そのプロセスを悦びと愉しみにするのがわたしの生き方=哲学なのです。
武田康弘
2007/12/20のBlog
[ 13:35 ]
[ 社会思想 ]
自分たちだけが補償を受けるのをよしとせず、同じ薬害にあった人はみな一緒に救済されえるべきだとの極めて【公共性】の高い思い・考えのC型肝炎薬害被害者の原告団の方々には、ほんとうに頭が下がりますが、いまニュースを聞いて、わたしは怒りと憤りで、身が震えました。
厚生労働省のいかにも役人=官僚が考えそうな【姑息極まる言語道断な和解案】には、全身が煮えくり返るような思いです。
全患者を救うと1800億円もかかる。ゆえに被害者に官府が30億円支払うので、「あなたたちが全員を救いたいと言うなら、分け方はお好きなように」という話なのです。その作文をそのまま読む枡添大臣と背後の福田首相。
これが民主制社会における官府の結論!!??
わが日本は、アメリカの軍事戦略の為なら天文学的な額のお金を議論もなしに融通する、しかし、市民・国民のためにはお金は出せないー官の失策による病人・死人も救済しない。
【公共性】をもち、みなのためを考えるのは、貧しいふつうの市民であり、政府や官僚は、自分自身のこととグループのことしか考えない。
もう、末期です。
武田康弘
[ 10:32 ]
[ 社会思想 ]
アメリカの利益確保のために、「北朝鮮の驚異」!?(どこが驚異か?お笑い草でしかありませんが)という「マンガ」のようなお話を極めて意図的に流布し、「大人のおもちゃ」でしかない「迎撃ミサイル配備」などという愚か極まる政策を推し進める人間の頭脳はどうなっているのか?わたしには、これほど不可思議なことはありません。恐らくは、「巨額の利権」(何兆円にもなる湯水のような税金の放水―桁違いの利権)が背後にあるからこそ、まったくリアリティのない「架空のストーリー」を真実らしく思わせる情報操作がなされるのでしょう。
「戦争ゴッコ」が好きなお兄さんやおじさんの「大はしゃぎ」を見ると、男(や男を真似る女)の頭脳・心は、いつも同じなんだなあ~、と変な感慨にとらわれます。
いつの世も「恐怖の捏造」と「恐怖への誘導」で、人々は、一部の歪んだ心身の持ち主に翻弄されてきましたが、もういい加減に目を覚ましたら?と思います。
ミサイル防衛!!??この愚かな「倒錯の極み」のような政策に、天文学的な額の血税を使うーわが日本人はほんとうに賛成しているのでしょか?
武田康弘
2007/12/17のBlog
[ 22:22 ]
[ 教育 ]
現代の知性は、当て嵌め勉強―パターン認識の上に成立していると言えます。
わたしが多くの子どもたちを見てきた経験から言えば、公文式に代表される公式主義=自分の頭を使わず、パターンを識別して解答を導く方法が現代の学習の主流になっています。
その方法を緻密化―高度化させて東京大学に象徴されるエリート校に入る、そのための努力に人生で一番大事な少年―青年期を費やす、これが現代の日本の「知」の現実です。
このようにして得た「知」には、具体的経験という根がなく、認識内容の真偽を確かめる最終の根拠である「体験」(五感による経験の反省)がありません。始めから記号化され、様式化された「知」を自身に仕込む勉学を続けてきた人間は、内的な確信の世界がつくれず、自分自身をシステムの歯車としてしか意識するほかないのです。
したがって、現代では「優秀」と目される人ほど、内容―意味充実のない形式頭脳の持ち主に過ぎないということになります。パッチワークのために必要な「あてはめ情報」を多く集める作業が「知」とされるので、知者ほど愚者である、という逆転が生じます。
具体的な体験―直観抜きに概念操作の技術だけを仕込まれた(仕込んだ)人間では、真に有用な知は生み出せず、無意味で非現実的な衒学=本質的に愚かな知が跋扈(ばっこ)するだけです。
現代のこのような知的退廃からわれわれ自身を解放するには、原初的な生の現場に戻って、心身に深く届くような認識仕方を獲得するほかはありません。子どもたちと「意味論」としての学習を一緒にしてみるのが、一番の早道です。知的職業につく高学歴の人ほど、もう一度すべてをやり直す覚悟で、知の再構築に取り組む必要があるはずです。わたしは、24歳のとき私塾を開きましたが、そのとき以来31年間、上記の課題に取り組み続けてきました。日々の教育実践という具体的経験の中で、「パターン知」に依拠した現代の「知的退廃」=東大病を乗り越える必要を痛感しています。
わたしは、自由なイマジネーションに依拠し、具体的経験のプールから豊かな実質をもった概念化を目がけたいと思います。有用な知の世界を共に!!
武田康弘
2007/12/14のBlog
[ 11:41 ]
[ 恋知(哲学) ]
官は、そこに勤める役人が給料をもらうためにあるのではないはずです。
官は、関係する企業や組織の利益・利便性をはかるために存在するのではないはずです。
官は、ふつうの市民の利益・安全を担保するための組織でなければならないはずです、
官は、市民サービスのための機関であり、役人は市民サービスマンです。これは原理であり、誰も異論・反論はできません。
ところが、いま毎日報道されている事態は、恐ろしいほどの【原理違反】です。このような事態が続けば、旧社会主義国の崩壊と同じことが起きても不思議はありません。謝って済むレベルを超えています。もしこれで経済的な貧困層が増えれば、何が起きるか分かりません。序列・権威主義による不公平・不公正や金持ち優遇の政策を転換して、政治的・経済的格差の是正に本気で取り組まないと、物騒な事件・社会を破壊するような事件が起きる可能性もあります。
どだい、同じ日本という国に住む者同士がひどい【較差】のある生活を強いられるのは、道義的にも許されることではありません。こういう不公正を助長するような政策を続ければ、政治に対す不信感が増大し、国としての安定・安全も脅かされていくでしょう。
官の不祥事は、政治の貧困(政権交代のない遅れた政治文化)とセットになって、いまわが国を【無・倫理】の国にしていますが、これは大変危険なことです。
まず官に何よりも求められるのは、自分たち官の存在とはなにか?という存在規定です。存在意識の明晰化が何よりも必要で、それが曖昧であれば、後はすべて砂上の楼閣に過ぎなくなります。主権者が市民である民主主義社会において官が仕えるのは、ふつうの市民である、この簡明な原理を深く意識化していく営みが問題解決の鍵なのです。「当たり前」の実行を可能にする哲学とその具体的実践が求められます。
公共哲学とは、専門の哲学者(大学教授等)によって特別な言葉で語られる哲学ではありません。ふつうの多くの人が【生活世界】という共通の基盤の上で共に語り合うことを可能にする【開かれた対話的理性】のことです。知識の累積や披露とはまったく別次元の考える営みを指すのです。「当たり前」を実現する市民の公共性を、私や民や官が共働でとり組むのが公共哲学の原義であり、意義です。ほんらい市民の哲学である公共哲学は、そうであるからこそ官にも必須科目・実践として与えられるものなのです。
武田康弘
2007/12/13のBlog
[ 01:08 ]
[ 社会思想 ]
首相の職を国会開会の当日に投げ出した人間が、「まだ美しい国をつくる道半ばですので、・・」と言い、衆議院選挙出馬に向けて地元で旗揚げ! これは一体なんだろうか?と考えてしまった。
首相として行き詰まってギブ・アップした後で、このような発言が出来るというのは、わたしの常識では到底考えられないことだ
戦後民主主義を否定し、戦前回帰の思想を具現化する法律をつぎつぎと提出し、数の力で強行採決をし、参議院議員選挙で歴史的大敗北を喫した安倍晋三は、この期におよんでまだ、「戦後体制からの脱却―美しい国つくりー日本主義への回帰」を言う。
このような言動を行う元首相をきちんと批判しなければ、【公共道徳】は成り立たない、とわたしは考える。自分の言動・思想への主権者の審判に従う覚悟がなければ、民主主義国家における政治家とは言えないのだ。
政界・財界に深く根を張る「エリート」家系であれば何でも通る!?それではわが国の政治は土台から腐ってしまう。【政治倫理】の確立を切に望む。
武田康弘
2007/12/11のBlog
[ 14:54 ]
[ 書評 ]
『公共的良識人』紙の7月号・8月号に掲載された【恋知と楽学の哲学対話】のつづきが、12月号に載ります(再開後の対話のうち、9月5日から10月10日までの分)。
これは、金泰昌氏(シリーズ「公共哲学」全20巻の編者)と私との視点・観点の違い(公と公共をめぐる)がはっきり言明されたために、互いの思想の内実が明瞭になり、とても有意義な対話になっていると思います。「違い」の明晰化が現実を前に進めるのに寄与すれば、長期にわたる往復書簡の価値がはっきりします。互いの立場・視点や国、仕事の違いを超えて、ここまで粘り強く対話を続けてきたのには、大きな価値・意味があるのでは、と感じています。
「違い」は生産的であることを示せれば、金氏も私も幸せです。
今週末の「公共的良識人」紙12月号の発行と同時に、「白樺教育館ホーム」にもアップしますので、ぜひご覧下さい。
なお、この12月号にもまだ載らない10月22日の武田の書簡のみ、10月29日のブログに載せていますので、ご覧下さい(次号の予告編みたいですが・笑)。
さらに、この後の第三次往復書簡も始まりました。テーマは「命」です。
武田康弘
2007/12/10のBlog
[ 22:14 ]
[ 私の信条 ]
個人と個人で人間関係をもつ場合、わたしは、相手に対して「・・・してあげた。」とは思いません。
してあげた、のではなく、した、のです。わたしが「した」のです。頼まれてする場合も同じです。もし、ほんとうにイヤなら断るべきで、「あなたのためにしてあげた」、という考え方・言い方ほどイヤラシイものはありません。
それは個人に対してではなく、社会への関わりにおいても同じです。皆のためにしてあげた、という言い方は、不遜です。
してあげている、という意識は自他を殺します。
自分自身が心身の健康を保ち、人とのよい人間関係を築くためには、自分がしているのだ、という意識を持ち、前向きに取り組むことが大切です。したのだ、という責任意識を持つと、自分の生が充実し、自分が得をするのです。
自分から、という能動的な心は、心身の免疫力を高め、パワーを生み、健康をつくる。わたしは、そう思います。
武田康弘
2007/12/09のBlog
[ 12:01 ]
[ 恋知(哲学) ]
「私」が、私のロマンー恋愛や芸術や趣味を追及する自由や、「私」が、私の恋人や友人や・・と共に幸福を追求する自由をお互いに認め合うこと。それを不動の基盤(普遍的原理)として社会=公共世界をつくること。
以上は、近代以降の【国家存立の原理】であり、この原理に反する思想は認められない、というのがシチズンシップ(市民精神)によってつくられる「主権在民国家」=民主制国家の中心思想=「社会契約論」です。
ここで注意しなければならないのは、各人の幸福追求は、「私」の世界内でのことであり、極めて主観的なものであることです。「公共」という領域においては、各人が自他の幸福追求ができるような条件を整備することが課題となるのであり、「公共が幸福をつくる」のではありません。「幸福実現を目的にした公共」と言えば、それは宗教であり、公共とは背反してしまいます。繰り返しますが、個人が幸福を自由に追求できるような前提条件を整えるのが公共領域の仕事・役目であり、幸福という極めて主観的な「私」の領域を「公共」がつくることはできないのです。
【公共とは、合意によってつくられるルールの束】のことです。
それ以上でもそれ以下でもありません。その合意形成のプロセス=自由対話こそが命です。したがって、民主制国家における教育の本質は、各人がエロース豊かな自由対話を交わせるようになるための知的訓練だと言えます。自問自答と自由対話の繰り返しによって有用な考えを生み出す力を育成することが、民主制国家における教育の屋台骨です。この自問自答と自由対話のセットは、それ自身がとても面白いもので、一度ほんとうに他者との考えの自由な交歓を楽しむ経験をした後では、もう後には戻れません(笑)。【自由を互いに認め合うことのエロース】は、人類が到達した最高の境地だと言えましょう。民主制社会における国家とは、その原理(自由の相互承認)の具現化でなければいけないのです。
武田康弘
2007/12/05のBlog
[ 11:28 ]
[ 趣味 ]
以下は、昨日のトピック【ベルリオーズの世界】ー「ベンヴェヌート・チェッリーニ」へのコメントです。
コメント(2件)
ちょ
1 2007年12月04日 20:09 ちょ
素晴らしいオペラです。
輸入盤ですと、ノーリントンの録音(ヘンスラー)があります。
これは、かなりの名演です。セリフを大分カットしてますが、まとまりのよい、徹底した解釈で同曲が楽しめます。
序曲から思いっきり引き込まれました。
私は、このオペラは、正規初録音のデイヴィス指揮コベントガーデン(チェッリーニ;N.ゲッダ、テレーサ;エダ・ピエール)で初めて聴きました。
これも素晴らしい録音です。
>民衆が主役を演じる作品
仰るとおりだと思います。
まさにこの曲の合唱は、民衆的な生命力に満ち溢れております。
徒弟たちの合唱は素晴らしいです。
また、素晴らしい音楽が、一部の主人公達に集約されること無く、酒場の主人や若きチェッリーニの徒弟(女声)など、様々な「声」に音楽が満ち溢れております。
とはいえ、いわゆる「オペラ」というジャンルにくくってしまうと、つまらない曲かもしれません。
しかし、「音楽」という、「声」も器楽も同等の世界から眺め聴けば、この曲の凄さは感得できるのではないでしょうか?
「ローマの謝肉祭」の原曲である場面も、実に生き生きとした「音楽」です。
オペラ的な効果を考えていません。
後輩たるフランスの作曲家達は、この勢いを真似しようとしますが、真似出来ません。
破綻したオペラを初っ端からは企画できないのでしょう(笑)
ワーグナーを頂点とする音楽劇の流れの中では、まさに「落ちこぼれ」的な曲ですが、巨大な声楽付管弦楽の極め付け、幻想交響曲の後編とも言うべき「レリオ」のさらなる後編と考えると、しっくりくる曲であります。
空転する劇的音楽、挑戦的で管弦楽的なイマジネーション、ぶっとんだ最終幕、何がなんだかわからないこの終結、まじめに聴くより、楽しみましょう、ベルリオーズ!
重々しくシリアスな「トロイ人」より好きな曲であります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2 2007年12月05日 11:06 タケセン
タケセン
「素晴らしい音楽が、一部の主人公達に集約されること無く、酒場の主人や若きチェッリーニの徒弟(女声)など、様々な「声」に音楽が満ち溢れております。
とはいえ、いわゆる「オペラ」というジャンルにくくってしまうと、つまらない曲かもしれません。 しかし、「音楽」という、「声」も器楽も同等の世界から眺め聴けば、この曲の凄さは感得できるのではないでしょうか? 」
ちょさん、ほんとうにそうですね。素晴らしい洞察に感謝です。
「オペラデータベース」からのリンクで、優れたコメントを見つけましたので、以下に貼り付けます(コリン・ディビス指揮の全曲盤について)
By hector (東京都)
ベンヴェヌ-ト・チェリーニは、その音楽の素晴らしさにもかかわらず、オペラとしては不当に無視された作品と言えます。この演奏はべルリオーズの傑作を見事に具現化しており、極めて貴重な音楽的資料と言えます。BBC交響楽団とロイヤルオペラの合唱団はコリン・デイヴィスの指揮下で高度な演奏を繰り広げています。第一幕では管弦楽と大合唱の活躍の場が随所に見られ、非常にエキサイティングで輝かしい表現に満ちています。一幕最後のオーケストラ表現はとりわけ奇抜なトリッキーな表現で圧倒的な興奮を聞き手に引き起こさせてくれます。勿論、第二幕にも聴き所は多く、飽きることの無いスリリングな演奏です。特に、ペルセウスの像が奇跡的な完成を見せた後の盛り上がりは圧倒的で、一気に終幕まで熱狂的表現が続く部分はべルリオーズの面目躍如といったところです。華麗な管弦楽と合唱に目を惹かれ勝ちですが、アリアやデュエットなども充実しており、20世紀の音楽に接した我々にも全く古さを感じさせない内容です。また、録音も年代的には古いですが、音質に格別の不満を感じることは、まず無いものと思われます。歌手では主役のニコライ・ゲッタが素晴らしいですが、テレーザ役のクリスティーヌ・エダ・ピエールとアスカーニオ役のジャーヌ・ベルビーの健闘も光っています。バルドゥッチのジュール・バスタンは声の質が役に合っており、いい味を出しています。ロジェ・ソワイエのクレメンス7世もほぼ同じことが言えます。私は実際にMETのこの作品の上演を観てきましたが、これほど興奮させられるオペラ作品を他に知りません。べルリオーズには、「トロイ人」というもうひとつの最高傑作がありますが、このCDで、是非ベンヴェヌ-ト・チェリーニの素晴らしさを味わって頂きたいと思います。恐らくこの作品が再評価されることが、べルリオーズ再評価の最終段階であろうと確信しています。
2007/12/04のBlog
[ 22:01 ]
[ 趣味 ]
(以下は、ミクシィ・コミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックです。)
ベルリオーズの最初のオペラ、「ベンヴェヌート・チェッリーニ」(史上はじめて民衆が主役を演じる作品)の音楽の素晴らしさ=切れば血が出るような響き・生き生きとした情熱・飛翔するイマジネーション・感覚神経を刺激するめくるめく色彩・音楽的パワーの炸裂には、わたしは心身が圧倒されて言葉もありませんが、これほどの傑作でありながら、おそらくは、その多彩・多重な変化についていけない聴衆が多いためか、残念ながら作曲から170年たったいまもなおその真価が一般には知られていません。
ぜひ、天才ベルリオーズのこの独創的な音楽の魅力を多くの方に知ってもらいたいと思い、トピックを立てます。
なお、このオペラのあらすじは、「オペラ・データベース」を見てください(クリック)。
CDは、コリン・ディビス指揮の名演がありますが、HMVやアマゾンで調べたところ、この曲を含む三曲のベルリオーズのオペラ9枚組みセットが出ています(クリック)。「ベンヴェヌート・チェッリーニ」のみは、廃盤か品切れです。
国内盤のCDは、残念ながら今のところ一つもありません。廉価で入手しやすいのは、小沢征爾指揮の輸入盤(クリック)です。
「ベンヴェヌート・チェッリーニ」について、ぜひコメントをお願いします。
武田康弘
2007/12/01のBlog
[ 11:35 ]
[ 恋知(哲学) ]
多くのわが日本人は、政治的・社会的な意見を言いません。家庭でも話しません。
また、15年戦争・天皇神格化の近代史について話すこともしません(親や教師も事実を知らないようです)。
しかし、これは、人間の品位を下げます。
自分自身が生きる場であるこの社会いついての考えを練り、きちんと表明するという社会人としての基本がないのは、ひとりの人間として致命的な欠陥です。
関心のあることは「即物的な価値」についてでしかないというのは、下品な存在であることの証です。政治批判がなく、保守政治への迎合しか示さないのは、ドレイの生でしかありません。
品位の低い人たち=保守主義者が大手を振るう社会では、現状維持がいいところですが、それはジリ貧の社会=ぬるま湯の社会=カエルの釜茹による「死」しかもたらさないでしょう。
批判精神と現状に挑戦する気概のない「せこい」人は、自分自身が不幸になるだけではなく、周囲や社会を緩慢な死へと陥れる【根源悪】であり、愚かで下品な存在だとしか言えません。
【理念の絶対化による固着・硬直した精神=理念・ロマン主義】とは無縁の【厳しい現実の中で豊かな理念やロマンを育てつつ生きる】という人間の人間としての品位ある生を営むためには、自己保身・現状無批判・保守主義に陥らずに、しっかりと意見表明ができる人間になることです。
そのような日本人が少数なのは、ほんとうに困ったことです。政治・社会問題についての考えをまとめ、きちんとした意見が言えるようになるための努力はよく生きるための基本です。そうでないと、「エリート主義」という名の下劣なイデオロギーに支配されてしまいす。民主主義国家の主人は、主権者=わたしとあなたなのに、です。
武田康弘
2007/11/27のBlog
[ 13:48 ]
[ その他 ]
以下は「白樺ML」です。みなさん、これからもよろしく。
武田です。
「ブログ」とは何かも知らず、ただ簡単に更新できるホームページみたいなものがあればいいのにな~、と思ってみなに聞いたら、管君が、「アメリカですごく流行っているブログというのがあります」というので、綿貫君と管君に頼んで【思索の日記】という名のブログをつくりましたが、早いもので、今月で4年が経ちます。
当初は勝手が分からず、どういう人が読むかのかの見当もつかず、おっかなびっくりで記事を書いていました。途中でネットウヨクのような人のコメントがしつこく入ったこともありましたが、断固として反論していたらすっかり消えてしまい、寂しいくらいです(笑)。
丸4年たって、今日でアクセス数が16万件に達しそうです。振り返れば、このブログを出したために、いろいろ面白いこと、大変なことが招来したのですね~(笑)。今後ともみなさんよろしく。コメントもお願いします。
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祝!「思索の日記」四年!
16万件ってすごい・・・
ここ2年くらいはすさまじく根気のいるテチャン(金泰昌)さんとの往復書簡(これも山脇直司さんをつうじてブログがキッカケだったでしたっけ?)も続いていましたし、たまった疲れがでたり風邪もぶりかえしているようですが、タケセン、どうかお大事にしてください。
今もこれまでも、過労だろうが風邪で熱がでようが何があろうが、授業などでそんなところを微塵もみせないタケセンですから、あとからたまたま百代さんに聞いたりしてビックリしたことは何度もあります。百代さんでさえあとからビックリってことがあると言っていました。
これって、タケセンが仕事や日々の生活の中でもそうとうな試行錯誤や創意工夫を実践して想像できないくらいのプラスのエネルギーをうみだしながら生きているからできることなのかしら、と最近思います。
教室は建物はもちろん、教室内においてあるさまざまなもの、ただよう空気、空間には、ほんとうってなんだろうと問い続ける「哲学の土台]や、おしゃれ心、いろんなエッセンスがちりばめられている感じがして、いるだけでなんだかたのしくてみてふれるともっとたのしくて、発見もあり、会でみなさんと自由対話を深めていく時間も有意義で、貴重な場だなぁと私は思っています。
もう一度、祝!4年ー16万件
今私はタケセンや白樺のみなさんに心から感謝の気持ちでいっぱいになっています。
染谷ひろみ
2007/11/23のBlog
[ 10:09 ]
[ 恋知(哲学) ]
3回に分けて書いたものをひとつにまとめて以下に再録します。
『事実学は事実人しかつくらないー意味論は人間と民主主義を生む』
【好きなこと】のない人は、悲しく不幸です。
よろこびを持たずに生きるしかないからですが、自分からはじまる面白いこと・楽しいことがなければ、生に意味を感じることができません。フッサールの言葉を借りれば、ただの【事実人】(犬でも猿でもないという意味で人間であるだけ)でしかないということです。
外なる価値=履歴や財産や・・・がなければ自立できない人。
知識や技術を集積するだけで、心の内側に生きる意味を見出せない人。
他者=親・教師・上司・・・からの指令や要請によって生きる人。
社会人という仮面をつけ、実存としての生を歩めない人。
そういう人として生きるのは、誰にとっても悦びのない人生です。
生きる意味と価値を自ら生み出すことができないと、いつも上から(上位者)の・外から(世間)の価値に従うほかないわけですが、それでは【根源的不幸の生】を生きるしかありません。その人がその人としての意味と価値を持った生を歩めず、「事実としての人」以上にはなれないからです。外的には申し分のない地位や財産や履歴を所有していても、それらは何の助けにもなりません。内的な意味の欠乏を外的な価値で埋めることはできないからです。心・内的世界の開発を人生の中心に置かないと、何もかもが【空しさ】に支配されてしまいます。その空しさを紛らわせるために、他者からエロースを奪うしかない人生を歩むのでは、存在そのものが腐ってしまいます。他者を表向き尊重する態度を取りながら、実のところ他者を自己実現の手段として利用する人生には救いがありません。
これは恐ろしい話ですが、なぜそのような事態が招来してしまうのか?以下にそれを考えたいと思います。「事実学は事実人しかつくらない」(フッサール)がキーワードです。
興味・関心から切り離された点数のための勉強を毎日こなす人生を歩まされる子供、幼い頃から面白みのない紋切り型の勉強をするように躾けられる子供、それでは、人間は人間にはなれません。意味と価値のない世界を生きるのは、人間としては生きないことだからです。自分からはじまる「好き」の世界が中心・土台になければ、人間は人間にはなれず、自動人形に陥ってしまいます。
人間の知性―「知る」とは、心身全体による会得のことであり、感情世界にまで届く悦びや面白みのことです。丸暗記や冷たい理性ではないのです。知ることが生の充実に結びつかないならば、その知は、「悪しき知」でしかありません。人間のよい=よいのイデア{生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、溌剌(はつらつ)としていること、瑞々(みずみず)しいこと、高揚感のあること、愉快なこと=自由と愉悦の心}を広げ深めることに寄与しない「知」には存在理由がないのです。ただ他者に優越するための知であれば、それは自我主義をしか招来せず、自他の幸福を元から奪う「悪しき知」としか言えないからです。
【意味論としての知】ではなく、【事実学としての知】を累積することを続ければ、内側から湧き上がる世界のない人間=自動人形に陥るしかありません。内面世界の豊饒化とは無縁の技術主義に落ちていくわけです。スタティクな形式主義、四角四面の灰色空間、悦びを消去する厳禁の精神、外的価値しか分からない不毛な生、に沈んでしまいます。
内的世界の形成のための基本の条件は、【自分が引き付けられることに集中する時間をもつこと】です。既存の路線に沿って「こなす」ことをしていてもダメです。自分の創意工夫と試行錯誤でつくる世界を持たないと、内面世界はつくれません。
自分からする創意工夫と試行錯誤の営み抜きには、けっして人が独自世界をひらくことはないのです。「型にはまった個性!?」の演出は空しいだけです。【好きなことを自分のやりかたで追求する】、その営みを続けることで、少しずつその人の独自の内面世界は形成されていきます。
したがって、余裕のないスケジュールに縛られた生活を送れば、心のエロースは開発されず、精神世界=内面世界が形成されることはありません。
現代の優秀と言われる子どもたちの生活をみると、細かく管理され、時間を縛られていて、自由がありません。優秀と言われる子ほど心の世界が単調で機械的です。【固く決まりきった理屈】と【紋切り型の感情】に支配されていては、生の意味・価値は減じてしまいます。内側からはエロースがやってきません。
「事実学」を累積した人間を優秀だと考えるような社会では、「事実人」でしかない人間が増え、新たな事態に対応することのできない紋切り型の「優秀人」(という名の愚か者)が評価されます。自分から始まる世界をもち、「意味論」としての知を生きる人間はあまり評価されないことになりますが、それでは【根源的不幸の社会】を生んでしまいます。
幸福とは、内から湧き上がる力=情熱がなければ得られません。魅力ある人間、悦びの人生をつくるのは、【意味の濃さ】です。事実学は事実人しかつくりません。
その内面世界を鍛え、豊かにする必須の手段が対話・討論です。内面世界を「自分教」に陥らずに深め広げるには、日常的な「自由対話」の実践が求められます。閉じれば腐るのです。民主主義とは政治の体制ではなく、人間の生き方のことだと思います。事実学の累積は「エリート主義」しか生まず、意味論の探求は豊かな人間性を育むことで「民主主義」を生むのです。
武田康弘
2007/11/22のBlog
[ 10:00 ]
[ 目次(番号をクリック) ]
2007/11/21のBlog
[ 11:59 ]
[ 恋知(哲学) ]
内的世界の形成のための基本の条件は、【自分が引き付けられることに集中する時間をもつこと】です。既存の路線に沿って「こなす」ことをしていてもダメです。自分の創意工夫と試行錯誤でつくる世界を持たないと、内面世界はつくれません。
自分からする創意工夫と試行錯誤の営み抜きには、けっして人が独自世界をひらくことはないのです。「型にはまった個性!?」の演出は空しいだけです。【好きなことを自分のやりかたで追求する】、その営みを続けることで、少しずつその人の独自の内面世界は形成されていきます。
したがって、余裕のないスケジュールに縛られた生活を送れば、心のエロースは開発されず、精神世界=内面世界が形成されることはありません。
現代の優秀と言われる子どもたちの生活をみると、細かく管理され、時間を縛られていて、自由がありません。優秀と言われる子ほど心の世界が単調で機械的です。【固く決まりきった理屈】と【紋切り型の感情】に支配されていては、生の意味・価値は減じてしまいます。内側からはエロースがやってきません。
「事実学」を累積した人間を優秀だと考えるような社会では、「事実人」でしかない人間が増え、新たな事態に対応することのできない紋切り型の「優秀人」(という名の愚か者)が評価されます。自分から始まる世界をもち、「意味論」としての知を生きる人間はあまり評価されないことになりますが、それでは【根源的不幸の社会】を生んでしまいます。
幸福とは、内から湧き上がる力=情熱がなければ得られません。魅力ある人間、悦びの人生をつくるのは、【意味の濃さ】です。事実学は事実人しかつくりません。
その内面世界を鍛え、豊かにする必須の手段が対話・討論です。内面世界を「自分教」に陥らずに深め広げるには、日常的な「自由対話」の実践が求められます。閉じれば腐るのです。民主主義とは政治の体制ではなく、人間の生き方のことだと思います。事実学の累積は「エリート主義」しか生まず、意味論の探求は豊かな人間性を育むことで「民主主義」を生むのです。
武田康弘
2007/11/20のBlog
[ 12:03 ]
[ 恋知(哲学) ]
興味・関心から切り離された点数のための勉強を毎日こなす人生を歩まされる子供、幼い頃から面白みのない紋切り型の勉強をするように躾けられる子供、それでは、人間は人間にはなれません。意味と価値のない世界を生きるのは、人間としては生きないことだからです。自分からはじまる「好き」の世界が中心・土台になければ、人間は人間にはなれず、自動人形に陥ってしまいます。
人間の知性―「知る」とは、心身全体による会得のことであり、感情世界にまで届く悦びや面白みのことです。丸暗記や冷たい理性ではないのです。知ることが生の充実に結びつかないならば、その知は、「悪しき知」でしかありません。人間のよい=よいのイデア{生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、溌剌(はつらつ)としていること、瑞々(みずみず)しいこと、高揚感のあること、愉快なこと=自由と愉悦の心}を広げ深めることに寄与しない「知」には存在理由がないのです。ただ他者に優越するための知であれば、それは自我主義をしか招来せず、自他の幸福を元から奪う「悪しき知」としか言えないからです。
【意味論としての知】ではなく、【事実学としての知】を累積することを続ければ、内側から湧き上がる世界のない人間=自動人形に陥るしかありません。内面世界の豊饒化とは無縁の技術主義に落ちていくわけです。スタティクな形式主義、四角四面の灰色空間、悦びを消去する厳禁の精神、外的価値しか分からない不毛な生、に沈んでしまいます。
(つづく)
2007/11/18のBlog
[ 19:43 ]
[ 恋知(哲学) ]
