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思索の日記
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2008/02/23のBlog

君の存在は、○○君の存在より優れている。
あなたの存在は、○○さんの存在より劣っている。
そんなことを言える人は、この世の誰ひとりとしていません。

100メートル走の優劣や、計算能力の優劣は言えても、その人の存在価値の優劣は誰にも分からない、と言うより、元来決めることが不可能な領域の話です。

天皇家に生まれた人間は、あなたより価値が上だ、ということももちろんありません。どこの生まれ、などで存在を規定するのは、最も下劣な想念です。

土台、ある特定の人間が他の人間すべてを「象徴」するなどということが出来るはずがないのは、誰にでも分かることで、子どもたちはみな、そんな話がデタラメだ、ということを知っています。特定の思想教育を受けていないふつうの子どもは、赤ちゃんの時から「○○さま」と敬語で呼ばれる特別な存在がいることを訝(いぶか)しく思います。

話が脱線しましたので、戻しますが、
人間の存在、いま、わたしがここに生きてあること、それ以上の価値はないのです。わたしの存在、あなたの存在、存在していることの驚異・輝きは一切の基盤であり、価値論として考えても、一人ひとりが「生きてある」こと以上の価値はどこにもありません。至上の価値とは、一人ひとりの存在にあるのであり、したがって、わたしの心の想いや良心は、何よりも貴重な宇宙なのです。

人間が類的存在であること・関係性の存在であることの深い意味と価値は、個々人の何よりも貴重な存在の輝きに照らされてはじめて現実に価値あるものとなるのであり、その実存の価値を少しでも減じるようなシニカルなものの見方は、必ず人間的なよきものを潰します。自分の命や存在を軽視する思想は、実り豊かな関係性をつくらず、あだ花を咲かせるに過ぎません。

己の存在の価値を深く自覚するに比例して、公共性=関係性は豊かな内容を持つよきものとして広がるのであり、形式的・儀式的思考や、要請や命令の言説は、形だけ・うわべだけのエロースのない「関係・間・あわい」しか生まないのです。これは原理です。


武田康弘

2008/02/19のBlog

「公共的良識人」紙の2007年12月号、及び、2008年1月22日の参議院でのパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」における私(武田康弘)と金泰昌氏との論争の核心点である【公と公共の区分け】の問題について、再度簡明に記します。



官庁が、民間の組織とは異なるものであることは当然です。
①官庁の組織があり、②民間会社があり、③NPOなどの市民団体があり、④趣味の集まりがある。それぞれは大きく異なっています。

では、官庁は、みなに共通する利益(市民的な公共性)とは異なる独自の「公」(おおやけ)という世界をつくっていいのか?となれば、当然、市民主権の民主主義社会では許されないことです。近代市民社会では、官とは、主権者の共通の利益を実現するものとして主権者のお金=税金でつくられたのであり、主権者の利益とは異なる独自の世界(官が考える国家!?)を持つことはできないからです。
これは、原理・原則に属する話であり、ほんらい意見の違いが出るような場面ではないはずです。公私二元論だの、三元論だのというようなことではなく、基本的な近代社会の常識に属する話でしょう。

④の「私の趣味の集まり」が、社会人みなの共通利益とは無関係に独自の世界を持つことには何の問題もありませんが、官庁が「市民的公共」とは異なる独自の「国家のため」という世界をもつことは許されないはずです。【「公共」(市民)と「公」(官)を自立・分立させることが必要だ】という金泰昌氏(「公共哲学」運動推進の第一人者)の主張を受け入れることは、近代市民社会の原理からの逸脱であり、到底できません。

どうも、ここでは、金泰昌氏が理論の次元・位相の混同を起こしているために、極めて錯綜した話に陥るのだと思います。公や公共という言葉の意味は、実体=具体的な組織を指すのではなく、性質やありようを示すものですが、それを実体化させた官や民や私に対応させるために、異なる位相の話が一緒になり、話が混乱してしまうのです。

官であれ民であれ、異なる組織や団体や個人がそれぞれの特性を生かし・協力しながら、【公共世界】をより豊かに開くことが必要なのであり、官は「公」をめがけ、市民は「公共」をめがける、というのでは訳が分かりません。【官という組織は、市民の利益=公共を実現するために、市民の意思とお金でつくられたもの】、という原則を曖昧にしては、わたしたちの「近代市民社会」(民主主義国家)は成立しようがありません。もう一度、「天皇制国家」(天皇に仕える官吏としての公務員)に戻すのでない限りは。

武田康弘
2008/02/18のBlog

わたしは、下のブログに書きましたように、鳩山法務大臣(この人は文部大臣も務めた)の発言を生む想念は、自由・民主主義とは根本的に異なるもので、その言動は、お気軽な【お坊ちゃんの政治遊び】としか思えません。市民が主権者であり、政治家とは「代行者」でしかないはずの民主主義の思想・制度とは相いれない人物、と評する他ないようです。

検察と警察に対する厳重・厳格な処分】をしなければ、主権在民の民主主義は崩壊します。これは絶対的な要件です。

以下に、毎日新聞の記事を貼り付けます。

武田康弘


<鳩山法相発言>志布志事件の元被告ら反発 「謝罪も形式」
(毎日新聞 - 02月18日 )

 12人全員の無罪が確定した鹿児島県議選の選挙違反事件(志布志事件)を巡り、鳩山邦夫法相(衆院福岡6区)が「冤罪(えんざい)と呼ぶべきではない」と発言した問題で、元被告や支援者らから批判と反発が強まっている。鳩山法相は「おわび」の言葉を繰り返す一方で、 「法務省や検察が常日ごろ言っていることをそのまま言った」とも発言。大臣の資質を問う声も上がる。12人のうち最高齢の永山トメ子さん(78)は理不尽な事件を振り返りながら、法相発言への憤りを語った。

 「巻き込まれた一人一人の気持ちに立っておらず、謝罪も形式的なものにしか感じられない」。無罪判決(07年2月23日)から間もなく1年。少しずつ心の傷が癒やされつつあった中での鳩山法相発言に、永山さんは憤りを隠せない。

 夫東(あずま)さん(84)の手元にたくさんのノートがある。妻の無実を信じて事件の記事をスクラップし続けたものだ。永山さんの拘置中、病床にいた東さんはそこに自作の詩を記した。「何糞(なにくそ)頑張れ 吾(わ)が家族 何時か微笑む 春は訪る」--。最近ようやく、ノートを見ながら夫婦で笑い合えるようになった。

 半年に及んだ拘置生活。否認を貫いたため、朝から晩まで刑事に怒鳴られ続けた。一番の気がかりは、足が不自由で「自分では何もできない」夫のことだった。

 03年4月20日正午過ぎ、志布志署に任意出頭を求められた。理由は聞かされなかった。「すぐに済むだろう」と食事もせずに応じたが、取り調べ中は水さえ口にできず「お前はうそをついている」と責め立てられた。帰宅が許されたのは午後10時。翌日、自宅トイレで倒れ、救急車で病院へ。その後も再三、出頭を求められたが、簡易郵便局長の仕事や夫の介護を理由に拒み続けた。

 同年5月13日朝、職場に刑事が来た。示されたのは、同4月の県議選で当選した中山信一氏派から現金を受け取った容疑の逮捕状。身に覚えがなく「でたらめ、でたらめ」と叫んだが一方的に逮捕され、介護者を失った東さんは入院せざるをえなかった。

 接見禁止が続き、手紙を書くことも許されない日々。「50年近い結婚生活で、これほど長い間離れたことはなく本当に不安だった」。だが弁護士を通じて夫の詩を聞き、頑張ろうと決意したという。

 「無罪判決を受けたことで精神的に楽になった」と永山さん。全国各地から、励ましや応援の手紙が今も届く。鳩山法相の「あまりにも軽すぎる」発言。「苦しみは、体で味わった人にしか分からない」と永山さんはつぶやいた。
2008/02/14のBlog

わたしは、自由でやわらかな子どもたち、何の特権的な力も持たないふつうの人たちこそがほんものの人間だ、という不動・絶対の確信をもって、小学生以来、ずっと生きてきました。小学5年~6年生のとき先生に頼んでつくってもらった「政治クラブ」で学んだ日本国憲法の人権思想は、まさに人類普遍の原理であり、これに反する思想を持つことは許されない、と深く・強く確信したのです。
「職業に貴賎はない」という考えを持ち・実践する人間ではない人、いわゆる「「エリート」という意識を持つ人は、もっとも恥ずべき人間で、そういう人は犯罪者よりもはるかに悪い=【反・倫理的人間】だ、と強く思い続けてきました。
だから、まだ自分の家の宗教(浄土真宗)については何の興味もなかった高校生の頃に、神田の書店で偶然立ち読みした『歎異抄』に身が震えるような感動を覚えたのです。

学歴や履歴が「立派」で、哲学的=人間的=本質的に劣っている人は、必ず「エリート風」を吹かせるものです。

鳩山法務大臣の発言―【鹿児島県の選挙違反事件】(手柄をあげるために警察官がでっち上げた事件で、これに検察も同調し、違法な脅しによる取り調べで村人を逮捕・起訴・抑留したおぞましい事件。わたし(武田)は、自国民を拉致するような【警察と検察=公(おおやけ)】による犯罪で、北朝鮮を非難する資格はない、とブログに書きました)での無罪判決を「冤罪(えんざい)と呼ぶべきではない」と述べたとのことですが、愚かな発言と言うほかありません。

ただ、「被告にされた方々に大変なご迷惑をおかけした痛切な気持ちはもっている」と補足したと新聞には書かれていますが、無実の罪で(明白なアリバイがあったにも関わらず)1年間も刑務所に入れられていた人に対して、「ご迷惑をかけた」で済むと思うのは、まさに特権階級者の意識=民主主義国家では許されないおぞましき意識という他ありません。証拠もないのに起訴した【鹿児島県の検察と警察】に対して処分らしい処分は何も行わないという法務大臣は、法務大臣としての最低限の資格すらない、と言えます。法律とは、市民を守るために存在する(それが法律の本質)という基本さえ知らず、【市民的公共】とは別に【「公」という名の国家権力】が存在するかのような妄想にとりつかれている人には、市民の代行者としての政治家の資格はありません。現代の日本は、「天皇の下での臣民」の時代ではないのです。

どうも政治家にしても検察官にしても、自分が「主権者のサービスマン」であることを忘れて、人の上にたつ「エリート」とでも思っているふしがあります。
対等な個人という近代民主主義の大原則さえわきまえない人物は、一刻も早く辞めてもらわなければなりません。

武田康弘

追伸・
ニュースを見ていたら、鳩山法務大臣が的外れな物言いで「おわび」をしていましたが、誰が考えてもそれで済むはずはありません。検察と警察への【厳しい処分】が行われなければ、【法治国家】とは言えません。無実の人間に罪を被せ、長いこと監獄へ閉じ込めた罪は極めて重いものであり(その人の立場になって考えてみなさい!)、そのことへの言及がない不見識な人に「法の番人」が務まるはずがありません。検察や警察という官僚組織への厳しい目がないならば、一般国民の利益をはかる代行者としての政治家ー法務大臣の役割は果たせないのです。また、町村官房長官の人ごとのようないい加減な発言も極めて不愉快です。



2008/02/13のBlog

改憲論者であった小林節慶応義塾大教授は、自民党の憲法改正案が出た後では、護憲派になりましたが、それは、近代市民社会の原理(民主主義原理)を踏まえれば、あまりに当然の帰結です。
為政者を主権者である市民の意思で縛るのが「近代憲法」の立憲主義ですが、主権者である天皇が臣民に与えた「欽定憲法」も、名前が「憲法」だから同じ、というのでは、あまりにお粗末です。
その根本的な違いもわきまえずに新憲法をつくろう、というのだから、小林教授に限らず、主権在民の民主主義思想を理解する人ならば、誰であれ呆れ返ることでしょう。自民党の憲法改正案は、主権者である国民の方を管理するような発想で憲法をつくろうとするもので、これでは「近代憲法」にはなりません。
近代市民社会(自由の相互承認に基づくルール社会)の【良識】とは異なる考えを現代に持ち込むことは、明らかに間違いです。
いまもテレビを見ていたら、宮内庁長官が、天皇に皇太子が会いに行く回数が少ない、と苦言を呈していましたが、家族問題まで政府の役人が口を挟み、管理しようとするー論評するのも厭になるほど愚かな話です。
これは、個々人からエロースを奪う人間管理主義の【象徴】のような話ですが、この問題については、以前わたしは、『皇族の人権と市民精神の涵養』という文を書きましたので、よろしければご覧ください。

武田康弘

2008/02/11のBlog

去る1月22日に行われた参議院調査室主催のパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」は、大変白熱した議論となりました。
この催しの形式も内容も全てが【前代未聞】であったようですが、今後は、こういう丁々発止の本音トークが「あたりまえ」になれば、日本の社会も大きく開けるはず、そう私は確信します。

「真理の保持者はいない」、それが民主制の社会です。この社会・国家をつくっているのは、われわれ一人ひとりの市民であり、代行者(政治家)やサービスマン(行政職員)はいても、特権者はいないー認めないのが近代民主制の政治と社会の原理です。それを現実のものにするためには多くの努力ー意識と制度の改革が必要ですが、その営みには大きなよろこびがあると思います。

人間の生き方や社会のありように関しての専門家は存在せず、生活者の日々の具体的経験についた「よい・美しい・ほんとう」への試行錯誤があるだけだ、という原理を踏まえ、【自問自答と自由対話】によって物事を進める、それを私たちの社会の大原則としなければなりません。

1月22日の模様は、白樺教育館のホームページで見ることができます(クリック)。
また、無修正の音声ファイルも公開されています(クリック)ので、興味がおありの方は、ぜひ見て(聞いて)みてください。

また、このディスカッションの激論をそのまま活字化した『立法と調査』も発刊されるとのことです。国会職員と衆参の国会議員に配布されるそうですが、発刊後に参議院のホームページで公開されるとのことです。


武田康弘



2008/02/08のBlog

マイケル・テルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団によるベルリオーズの『幻想交響曲』は、現代的でシャープ、同時に緻密で細やかな演奏ですが、聴く込むほどに味わいが増し、繰り返し聴きたくなる名演です。

音色の美しさや華麗さはありませんが、明晰でリズム感がよく、しっかりとした構成力が抒情性の表出を支えています。ロマン主義の権化とも目される曲ですが、全体に古典的とも言える落ち着きがあります。

パッと面白く聴かせる演奏ではないのですが、終楽章の迫力は怖くなるほどで、サンフランシスコ響の巧さにも舌を巻きます。余白には、声楽付きの「レリオー生への帰還」の抜粋が入っていますが、これが選曲もよくとても聴きごたえがあります。

録音も分解能とバランスがよく、ダイナミックレンジが大変広く、強奏時に大音量にしてもまったく歪まず、極めて優秀です。

ぜひ、みなさんお聴きになってみて下さい。

以上は、わたしが管理人を務めるmixiのコミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックとして書いたものです。


武田康弘
2008/02/03のBlog

敗戦後すぐの東大総長であった南原繁は個人と共同体との調和をめがけた「理想主義的現実主義者」であったわけですが、
キリスト者であった南原の「真の神が発見されない限り、人間や民族ないし国家の神格化は跡を絶たないだろう」という言を貴重な真実として語る宗教学者の稲垣久和さんの「公共哲学メール」に、わたしは批判的なメールを出しました。
しかし稲垣さんの返信がないうちにわたしの友人の山脇直司(東京大学教授)さんが介入ましたので、山脇さんとの10回以上にわたる長いやりとりに変わってしまいましたが、それが一段落した時点で、稲垣さんからMLのみなに宛てたメールがありました。
稲垣メールは、山脇さんへの最後のメールでわたしが確認した「近代市民社会の常識」を批判する趣旨のものでしたので、それに応える必要を感じ、メールを出しました。

これは、とても深い哲学上の論争だと思います。
「公共的霊性」「公共的宗教」の必要性を強く訴える稲垣さんの思想は、
宗教や霊性を個人の自由の範囲で十分に認めつつ、しかしそれは現実政治の世界とは次元を異にするものという原則を徹底させる必要がある、というわたしの考えとは大きく異なります。
わたしは、「近代民主制」の思想の本質をしっかり見据え、それを深め広げることが何よりも重要な現代社会の課題であると考えていますので、以下に稲垣さんに宛てたメールをコピーします。



稲垣さん 、みなさん、

「宗教心を克服して人間の理性・感性から近代の人権や自由等の問題を考えてきたのがこれまでの常識的な近代化論でしょう。しかし、そんな常識論が、うまくいっていないことがありありと出てきているのが現代世界であり、」(稲垣)

わたしは、【近代の社会原理】(稲垣さんの言う常識的な近代社会論)が、①政治世界において哲学・思想的意味として理解→了解されていないこと、②政治家を含むふつうの多くの人の意識として、まだ極めて不十分な認識しか持たれていないこと、③それは民主主義をほんとうに実現するための「考える(覚えるではなく)教育」と自由対話の実践が学校と家庭教育の双方でほとんど行われていない!!ことが問題の核心だと思っています。

要するに、近代の原理が極めて不徹底・不十分(意識としても制度としても教育としても)であるところに現代社会の問題の根を見ているわけですので、稲垣思想と武田思想は大きく異なります。「公共宗教」がないことが原因だ、という考えは持ちません。

そこで、ひとつ整理しておかねばならぬ問題について書きます。

わたしの師であった竹内芳郎氏(哲学者でサルトルの『弁証法的理性批判』ポンティの『知覚の現象学』その他の翻訳者かつ解説者、また、独自の「宗教論」「文化論」「言語論」を生み、現代思想の批判的紹介者でもあった)は、普遍宗教、中でもキリスト教のもつ「超越性原理」を高く評価し、個人の自立の思想だけではエゴイズムに陥る危険性があり、また世俗の価値を相対化するためには、超越性の原理はなくてはならぬものと考えていました。

しかし、わたしは、ふつうの多くの人(幼い子どもから成人者・高齢者まで)との数知れぬ(日常的な)会話・対話・議論・交際を通して、氏の超越性原理の思想は、現代の日本社会ではほとんどリアリティを持たないと確信しました。世俗の雑駁な日々の生の中から「よいや美しいや真実」の世界(理念やロマン)を見出すこと、そこから飛躍せずに自・他・世界の課題とその解決策を見出すこと、要するに内在的に思考し「超越項」をつくらずに自他のふつうの人の生の実情に沿って深い納得が得られるように考えること。理論の体系や累積的な知識ではなく、恋知(深い納得)する営みが何より大きな価値があると思うに至ったのです。(「生活」は「学」よりも価値的に上位であり、これは原理中の原理です。)

そこで、整理しますと、①なんらかの超越的な原理をもって思考し生きること(宗教者の生)と、
そうではなく、②「至高のもの」を内在化させて(日常生活のふつうの体験につき)生きること、従って、至高のよきもの・美しきものは、具体的な経験(恋や音楽や民芸や美術や自然・よきもの美しきものとの出会い)から得ること(世俗者の生)、
この両者をともに認め合うことが必要だと思います。
自分の信念が他に優越するという考えを心の深部に隠し持てば、生きた意味ある対話はけっして成立しませんし、民主的な分け隔てのないしなやかで柔らかな人間性ー上下意識を廃した自由で気持のよいざっくばらんさ・明るさは生まれようがありません。

市民の自立ー個人の自由を阻む国家主義のイデオロギーと教育は共通の敵だと思います。国民国家としての近代国家を、市民(シチズン)国家としての近代国家へと変えていくことが必要であり、それは十分可能であるし、そうすることが日本という国をよくすること・強くすることであり、またそれはそのまま世界平和ー友好につながるはずだと思っています。
わたしは広義の「愛国者」です。ゆえに、従来の日本文化(政治等も含む広義の文化)をエロース豊かなものに変革しようとしているわけです。

武田康弘


2008/01/31のBlog

矜持(きょうじ)・プライドとは、自分の存在の肯定・誇りであり、一人ひとりの比較することのできない、存在の独自の輝きを生む意識です。内側から湧き上がるものであり、特定能力の比較によって生じる上下意識ではありません。

個々人が異なる色・形・力を持ち、それぞれのユニークさを肯定し合うことで成立する社会を民主制と呼ぶわけですので、特定の能力を基準にしてその優劣で人間を評価する思想から生じる「エリート」という意識は、民主主義とは背反します。

具体的な個々の能力に優劣があるのは当然で、その優秀者が評価されるのはよいことですが、エリートという人間が存在するという意識・思想は、最悪の想念だと言わざるを得ません。「私」の努力は、内側から湧き上がる力=存在していることが価値であるという思いから開始されるのであり、他者の上に立とうとする思想・態度は、人間的なよきもの・美しきものを根こそぎにしてしまいます。自他を存在の深部で殺すのが、序列主義―エリートという意識です。

誰でもが自然にもっている矜持=プライドを肯定し健全に育てることが、民主制社会の教育・倫理の土台であり、それが互いの個性を伸ばし合うことで全体を支え・強くするのです。それとは別次元に国家意思や国家利益があるという想念は、エリートという上下意識が生みだす妄想に過ぎません。

みなの【内側から湧き上がる力】を伸ばすことがどれだけできるか?それが鍵ですが、そのためには、オープンであること・情報の共有が基本条件です。絶対者や特権者がいないからこそ大きく豊かになれる社会、それが民主制という社会であり、そのような基本思想を踏まえて生きるのが民主的人間です。深い納得を得るための自問自答と上下関係を廃した自由対話が、哲学と民主主義を成立させる基盤なのです。

武田康弘

2008/01/30のBlog

幼い子供たちを見ていると、「プライド」の塊です。
彼らは、【命の自負心】とでも呼んだらいいようなプライドを持っています。
だから、わたしは子供たちが大好きです。
自負心・矜持・プライドがあるから命が燃え、生き生きと輝いて、個人の自由がぐるぐると渦巻くのです。日々、人間として向上するのは、このプライドの力です。
大人でも精神の健全な発達をやめない人は、みな豊かなプライドを持っています。

ところが、個人を成長させるこのプライドを潰し、外的価値による序列意識に変質させてしまう教育がおこなわれると、プライドは歪んで病的になり、上下意識―序列主義へと変化してしまいます。いわゆるエリート意識です。

エリート意識は、民主主義の思想と社会を土台から破壊してしまう愚かな想念ですが、このことに気付いている人は、少ないように思えます。「エリート」という言葉をプラス価値だと思い込んでいる人が多いようです。驚くべきことに、「公共哲学」運動を進める代表的な学者の一人である桂木隆夫さん(学習院大学法学部教授・法哲学と公共哲学を教授)は、自著(「公共哲学とはなんだろう」)で、これからのあるべき民主主義の姿として、「大衆の中のエリート」とそれとは区別された「エリート」の双方の育成が不可欠だ、と論じていますが、こういう思想が生まれるのは、日本社会が、学歴を信仰する東大病とも呼ぶべき病にかかっているからでしょう。明治の超保守主義(天皇主義)の政治家である山県有朋らがつくった官僚制度(キャリアシステム)もまた、この信仰=病の中で生き延びてきたのです。

もし、公共と民主主義とが背反することになるならば、「公共哲学」とは、詐欺の名称に過ぎないと言わざるをえません(注)。なぜならば、個々人の自由に考える営みに依拠するのが哲学であり、哲学成立のためには、民主主義が必要であり、また逆に民主主義は哲学に支えられなければ形骸化するほかないからです。単なる理論の体系や思想ならば、独裁国家にもありますが、個々人の深い納得に支えられる哲学するという営みは、民主主義社会でなければ成立しないのです。史上はじめて民主制を敷いた古代アテネで哲学が誕生し、キリスト教が国教となった古代ローマで哲学が禁止された{ミラノ勅令により900年以上続いた『アカデメイア』(プラトンが創設した私塾の延長のような自由な学園)が閉鎖―「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」}という歴史的経緯を見てもそれは明らかでしょう。

プライドなくして哲学する営みは成立しませんが、エリート意識に支配されれば、哲学は消え、単なる理論や知の体系による支配が生じてしまいます。健全で豊かなプライドの肯定・育成は個々人を輝かせ、民主的な公共社会を生みますが、病的に歪んだプライド=エリート意識の支配する社会は、序列主義・様式主義・管理主義しか生みません。

(注)もし、民主主義(対等な個々人の「自由の相互承認」に基づくルール社会)ではない公共性や公共社会について語るのであれば、「公共哲学」とは呼ばずに、「公共学」ないし「公共社会学」または「公共理論」とでも言うべきでしょう。

Ps.猫はプライド高き動物として有名ですが、彼らは序列社会をつくりませんし、飼い主とも対等です。犬との大きな違いです。


武田康弘
2008/01/26のBlog

民主主義国家における「官」の本質は?
一言で言えます。
【民主主義を現実化・具現化するための機構・組織である】、これで終わりです。

「民がつくる腑に落ちる考え=公論=一般意思」を具体化するのが官のほんらいの仕事であり、それとは異なる「公=国家」のためというような形而上的なイデオロギーとは無縁でなければいけません。

特定の主義(例えば天皇主義とか共産主義とか○△宗教)によらず、「民の公共」を実現するために主権者によってつくられたのが「官」であり、従って官僚とは、市民サービスマンのことです。公共的なサービスをし、一般意思を実現するための努力・創意工夫をするのが好きだ、というのが官僚の適性です。

官という組織は、特権者のためではなく、ふつうの民のためにある。
官僚とは、特権者のためではなく、ふつうの民のために働く。
それが本質です。

民主主義とは、個々人を対等な存在とみなし、あらゆる価値の源泉を個々人の存在に求め、個々人の良心の自由に依拠して、自由対話によって多くの人が納得できる考えをつくり・従うという思想です。一口でいえば、「自由の相互承認に基づくルール社会」ということができます。それを現実のものにしていくためにつくられたのが「官」なのですから、官が市民的公共と別のものであっていいわけはありません。これは原理です。

武田康弘

2008/01/25のBlog

22日の参議院でのディスカッションは、丁々発止のやりとりになり、とても面白いものでした。その丁々発止の大元はわたしです(笑)済みません!?

おそらくは、前代未聞の会であったのではないか?と推察されますが、ただ人の話を黙って聞くだけという時代はとっくに終わっています。

「自分で考える」ためのヒントや刺激を得るためでなければ、ディスカッションにせよ、講習会・講演会にせよ、暇人の時間潰しにしかなりませんし、まともな人は、そのような会に出席させられるのは心底「うんざり」でしかないでしょう。

 わたしは31年間教育の仕事をしていますが、数学や国語にしても単なる技術として「教える」ー「教えられる」ことほどつまらないものはないと思っています。一緒にその場で頭を使う・回すところにエロースがあるので、わたしは、たとえ講演会であっても、リアルタイムでもう一度考え直すという心で臨みます。

 当日も繰り返しお話したように、【「官」は「市民的な公共」とは異なる独自の「公」という世界をもつ】という思想は民主主義の原理に反する、というのがわたしの確信ですが、何にせよ一番必要なのは、自分自身が民主的な人間になることだと思っています。

民主的な人間とは?民主的な倫理とは?民主的な言葉とは?・・・それらについて思索し実践することをわたしは続けてきましたが、その道をこれからもまっすぐに進もうと思っています。

当日の参加者の皆様には、国会開会中にも関わらず出席され、極めて真摯に話を聞いて頂いたことに深く感謝しています。


武田康弘
2008/01/21のBlog

わたしたちの住む21世紀の日本は、民主主義国家ですが、
では、民主主義とはどのような思想なのだろうか?
そのことの自覚が弱いと社会は住みにくくなり、個々人の可能性は小さなものとなり、国は衰退していきます。

明日の参議院の会議室で行われる官の人たちとの交流でもある「パネルディスカッション」のテーマは、「公共哲学と公務員倫理」(クリック)ですが、【哲学】(生の意味・ありようを自己決定する営み)とは、個々人が集団性の縛りから解放された時にはじめて成立する世界で、したがってそれは民主制を必要とし、また民主制を支えるもの、と言えます。
民主主義を単なる手段としてではなく、思想として鍛えることーー社会を大元からよくしていくのは、それ以外にはないはずです。

具体的に何をどう考え、どのように実践したらよいのか?それを探求する旅の始まりです。
この試みが軌道に乗れば、日本社会には、大きな希望が開けるはずです。

武田康弘



2008/01/18のBlog
[ 09:24 ] [ メール・往復書簡 ]

下のブログに対するミクシィのコメントです。


ヨッシー 2008年01月16日 23:43

タケセンさん

 生活世界から立ち上がる匂い、そこにエロスを感じます。

 知に恋することの意味は、問いを問い続けることではないかと思っています。

 ではでは ヨッシー

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タケセン 2008年01月17日 11:17

ヨッシーさん、
コメントありがとう。
わたしは、生活世界から立ち上がるー立ち上げる、ということを、二次的な言語世界で言うのではなく、ナマの具体的現実を踏まえて、生活世界で通用するような言葉ー思想として語るのが固有名詞としての「公共哲学」ではなく、一般名詞としての公共哲学ー公共思想だと思っています。その点、ヨィシーさんとも共通すると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーー

ヨッシー 2008年01月18日 00:21

タケセンさん

 本来、哲学と命名すると、何れ劣らずアカデミズムに接近すると思います。「立ち上がる匂い」という喩は、ノンバーバルな事象も含む現実へと思いが至ることへの思いからです。

 問いを問い続けることの意味は、ノンバーバルな世界へと接近する唯一の方法だと感じています。

 語りたい欲求はあっても、語り得ないという焦燥、それが現実だと思うのです。

 固有名詞としてではない、一般名詞としての、という感覚は理解できます。多分共通していると思います。

 ではでは ヨッシー
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タケセン 2008年01月18日 09:22

言語化できない、あるいは、とてもしずらいことを、なんとか言語化しよう、という無理な努力!?が哲学の営みのように思います。人間の生に関する問題の考察・判断は、広義の感情世界の中でしか成立しないと思いますが、その言語化できない心の赤裸々な思いをどのようにして言葉にするか?ある種文学とも共通する課題ですが、それを全体的な論理=悟性に対して弁証法的理性として行おうという試みです。わたしはそれを日常言語の世界に引きずり降ろして、ふつの言語で語る文化を生む出せないか?と考え、実践しているわけですが、「ドンキホーテ」かもしれません。

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おまけーー

さあ、今日は、今から鎌ヶ谷市公民館で「てつがく講座」です。2008年最初の講座なので、新年会気分(笑)で出かけます。もう10年になりますが、主婦の方中心の会です。何事も長く続けるには、よき理念の強い意識化と持続する意思を支える場の二つが必要です。
何があってもブレないのがわたしですが、煮ても焼いても食えない、とも言われます。これ以上はない最高の賛辞だと感じています。みなさんありがとう!

武田康弘。
2008/01/16のBlog

生活世界における具体的な経験から自分の感覚により自分の頭で考える、という意味でのほんらいの哲学、書物からもしっかりと学ぶが、書物に頼らずに、自身の経験を反省することで哲学する営み--そのような哲学=恋知は、専門の学者よりもふつうの生活者の方がはるかに広く的確に行えるはずです。

哲学を、書物上の営みから解き放ち、ふつうの人の生活世界で生き生きと働くものにしていくことは、人間生活を大きく変える力を持ちます。
「ふつう」の生活には無限の意味が埋蔵されています。家事をし、仕事をし、テレビを見、街を歩き、電車に乗り、散歩をし、音楽を聴き、家族や人と話し、・・・・・生きる現場は、エロースの泉です。ほんらいの哲学とは、自分の心身で感じ知り、そこから考える営みなのです。過去の書物を思考の訓練やヒントのために使うのはよいことですが、それを後生大事にいつまでもありがたがっているようでは、生きた今を呼吸する思想にはならず、未来は開くことなどできるはずがありません。

未来を開き、今を充実させる有用な哲学とは、現実の生の現場に埋蔵されている豊かなエロースの世界を「言語化する」営みなのだと言えますが、そのためには自由に飛翔するイマジネーションが必要です。そのイマジネーションを無意味な空想に陥らずに開発するのがわたしの言う「意味論的な知」なのです(その実践の場が「白樺教育館」です)。

市民社会(互いの自由を認め合うルール社会)に生きるわれわれは、「権威」をありがたがるのではなく、日々の具体的経験の世界からよきもの・美しきものを見出し、それを交換し合うことで、この現実の生活を豊かで魅力あるものにしていく営みに力を注ぐべきでしょう。絶対者がいない民主主義社会で生きるわたしたちにとっては、生の意味は自分で決めざるを得ず、したがって哲学は必然です。

現代の社会においてよく生きる=意味の豊かなエロースの人生を送るには、自問自答と自由対話としての哲学=恋知としての哲学=民知の発想と実践が必要です。【自分で考える面白さ】は、それを体験として一度味わうと、もう後には戻れません。

武田康弘


2008/01/13のBlog

昨日夕方、「完全読解・ヘーゲル『精神現象学』」(講談社選書メチエ)という怪しげな名の本(笑・失礼!)が著者謹呈で竹田青嗣さんから送られてきました(数日前に「出版社のミスで遅くなってしまった」旨、竹田さんからメールがありました)。

ヘーゲルという人間は、文章が下手で、かつ、自分でつくった術語をたいした定義もなしに使う悪癖のある人なのですが、そのしつこく込み入った文章、しかも後期の神学丸出しのへんてこな「哲学書」に幻惑されずに、よくもまあ、これだけ良心的に読解したな~というのが1時間くらいで速読したはじめのわたしの感想です。「完全読解」!と言いたいのもよく分かりました。

竹田さんとは人間のタイプが異なる西研(にし・けん)さんとの共同作業が素晴らしい成果を上げた!と思います。お二人は共に、現実次元ではなく「哲学世界」で力を発揮するタイプですが、おそらくこれほどのヘーゲル本(「精神現象学」が中心)は空前絶後のような気もします。

こういう本が世に出ると、大学でヘーゲル哲学を講じる先生は大変でしょう。学生にこれを読まれてしまうと立場なし!ですもの~(笑)。禁書、いや焚書かな!?

ヘーゲル哲学の真髄を知りたい方、および、ヘーゲル哲学から現代哲学(ポストモダンという名の知の退廃)を越える思想を汲み取りたい方は、この本を熟読されるといいと思います。1000年もつづき難攻不落と思えたキリスト教の「スコラ哲学」を打ち破った【近代思想】が、脆弱で甘ちゃんの現代思想よりもはるかに優れたものであることが了解されるはずです。

ただし、わたしは、小さい子どもたちから成人者までの「意味論的・対話的な学習・教育」の仕事やいろいろと変化に富む生活の中で、直接経験から書物に拠らずに自分で考えを生み出すタイプの人間(頭脳)ですので、哲学書の解読は、竹田さんや西さんにお任せです。お二人とも実に優れた稀に見る解析者―読解者であることは、わたしが太鼓判を押します。

武田康弘


2008/01/11のBlog

「ふつうに考えることが哲学」(クリック)に対して寄せられたhirominさん、荒井達夫さん、古林治さんのコメントと武田の応答をあわせて記事にします。核心的なコメントを寄せて頂いた3名の方に、深く感謝します。


[ hiromin ] [2007/09/03 08:46]
私はタケセンの考えに深く共感します。かけがえのない命、生きていることの驚きを常に日々連続して意識したり感動しているわけではないのですが、対話をとうしてほりさげて考える営みがなされていてはじめて大元(生きるってなに?自分はどう生きたいのか?)にもどして思考することが可能になるのではないか?と思うのです。今の日本の社会、家庭や教育現場においてあまりにも対話をするということがなされていないがために、「ふつう」ということが多くの場合既成概念の中で生きることに意味づけられて言われ使われてしまっているのではないかと私は感じてるのですが、、。
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[ 荒井達夫 ] [2007/09/03 09:14]
「公共的良識人紙」の武田さんと金さんの対談、本当に楽しみにしておりますが、二回目の8月1日号では、金さんの話がひどく難しくなってしまったように思います。これでは一般市民には通じないでしょう。また、金さんのお話は「他者を尊重し、対話することが大切」という趣旨のようですが、では具体的にどうすれば、それが成り立つのか、がこれからの対談で関心があるところです。一般市民にも理解できる「ふつうに考える」対談を期待しております。
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[ タケセン ] [2007/09/04 01:14]
対話の拒否・考えることの停止・知識と実務に逃げるー「ポストモダン」といわれる現代の人間精神の特徴です。「ふつう」ということが多くの場合既成概念の中で生きることに意味づけられて、というhirominさんのご指摘通り、こどものように自由に考えること=本質的な探求や原理的思考をすることを古いとか宗教的とかと言って嫌い、既成社会の中で既製品を消費するだけの生き方に陥っている人が多いです。それでいい、というかそれしかないと思い込んでいるわけですが、悲しいことです。わたしがこどもたちに「もてる」のは、エロースの人だからでしょう(笑)

もし、金さんが哲学対話ー往復書簡を続けられる意思がおありならば、わたしはますます「ふつう」にを心がけます。エールをどうもありがとう。
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[ hiromin ] [2007/09/04 05:42]
「現代人の人間精神の特徴」
やはりそうなのですね。
タケセンは教育館に通う子供たちみなの「ありのまま」をうけいれひきうけていますよね。だから子供たちは生き生きし、タケセンに心身でぶつかり、よろこび、心の安定がえられるのだと感じています。このような生き方接し方をし続けている大人や場は今の社会の中にはほとんどないように思います。教育現場は無論、家庭の中においてさえも「ありのまま」や、当然すぎて言うのもなんですが「子供の権利」(せまい意味ではないです)すら無いことのほうが多いのだと私は実感しています。子供たちが窮屈な型にはめられ悲鳴がきこえてくるような現状。日本は民主主義国家ということになっていますが、うそでしょって思います。
生きた対話や思考が活発に実践され続けている教育館の価値たるやなんて貴重なのだろうとつくづく思っています。
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[ タケセン ] [2007/09/04 10:38]
hirominさん、
武田の想いを深く了解してくれたコメント、感謝です。
わたしも自分で「貴重な場」であると思います(笑)。心も体も頭も、わたしの全実存を賭けてつくりあげてきた場が【白樺教育館】です。日本及びアジアの「公共哲学」運動の第一人者・金泰昌さんのような外国人の目にも、最も注目すべき日本の試みのひとつと評価されたのはとても嬉しいことですが、たえず近くで実践の場を見ているhirominさんの高い評価は、更に深い悦びです。ほんとうに感謝です。
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[ 荒井達夫 ] [2007/09/04 14:16]
ついでに、ですが・・・・・武田さんと金さんの対談、このHPに掲載されているものと、公共的良識人紙に掲載されているものとが、相当に違っています。金さんの発言の部分です。非常に専門用語も増えてわかりにくくもなっているのですが、これは、どういうことなのでしょうか?
対話になっていないところも、多々あるように思います。
お二人とも、対話が大切という点では共通していますし、そのまま掲載するのが筋ではないでしょうか。後から書き換えては、対談を伝えることになりません。興味半減で、読者としても、面白くないのです。是非、改善をお願いします。
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[ 古林 治 ] [2007/09/04 22:02]
件の対談、私もキム・テチャンさんが大幅な加筆修正したことで本来の対話のダイナミズムが失われ、モノローグのようになっていると感じます。読者への期待効果を想定し、そのように追加修正したのだと思いますが、そこには危ういものも感じます。なぜなら、『他者性の尊重』を訴えながら、一方的な加筆修正によって、読者と武田さんを自己の内的世界に回収しようとしている、とも取れるからです。
その点で、8月号の『公共的良識人』紙には少々失望しました。対話はまだ続くと思いますが、率直でエキサイティングなものを期待します。それが他者との出会いの醍醐味だからです
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[ タケセン ] [2007/09/07 00:20]
荒井さん、古林さん、コメントありがとうございます。
新聞編集の独自の方針があるのでしょうが、わたしとしては、さらに明瞭に平明にを心がけていきます。「ふつう」を貫き続けたら、まだ誰も見ない景色ーいまだ誰も見たことのない世界が開けるような気がしてしかたないのです。不思議な直感が、確かなものとしてわたしの内部にあります。

武田康弘


2008/01/07のBlog

下のブログに対する荒井達夫さんとのコメント問答=哲学です。
とてもよい対話になったと思いますので、記事にします。


荒井達夫 ] [2008/01/05 00:21]
「公共する」とは、徹底した思想良心の自由に基づく行為で、本質的に万人に対し開かれているものと言うべきです。ですから、特定思想や宗教的信念のために、他人に何らかの考えをするよう求める行為は「公共する」ことに真っ向から反することになります。また、そのために集団を作ることも、反公共的です。このようなことは、日々の具体的生活の中で「公共する」とは何かを考えれば、当然のことと思いますが、どうも学問の世界は違うようです。深刻な問題と考えていますが、いかがでしょう?
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[ タケセン ] [2008/01/05 11:20]
荒井さん、コメントありがとう。
学問として「公共哲学」を行い、そこで研究者の見解を出すのは、学問の自由ですから全く問題ありませんが、それが具体的な現実問題に関わってくると、その良否・適否は、現実の場面で試されることになり、その思想にどれだけの普遍性があるか?が問われるわけです。それを決めるのは、ふつうの多くの人の常識・良識ですので、情報公開と自由対話が不可欠なものとして要請されます。それが民主制社会の大原則のはずです。
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[ 荒井達夫 ] [2008/01/05 19:28]
学問としての公共哲学も、現実具体の問題との関わりの中で、その存在意義や有用性が真正面から問われています。この傾向は、今後、ますます強くなるでしょう。民主制社会において「公共する」、「哲学する」とは何か、この一番大事な基本事項を原点に立ち返って、きちんと考える必要があるのではないかと思います。
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[ タケセン ] [2008/01/06 11:42]
荒井さん、
人間の生き方や社会のありように関する思想は、それがもつ社会的な影響について「責任」がある、とわたしは考えています。まして、公共を掲げる思想であれば、なおのことでしょう。
自分の言動に対する厳しい目=【良心】を欠けば、思想は死にます。【良心の自由】というもっとも人間的な営みは、人間性の深い肯定であり、それは、実存の深みから立ち上がる社会的存在としての「私」の価値を表現するもの、と言えるはずです。
「日本国憲法第19条ー思想及び良心の自由」、には深い哲学的意味があります。
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[ 荒井達夫 ] [2008/01/06 14:32]
思想良心の自由は、自分が常に社会的存在であるという意識を持っていなければ、成り立たない。また、それは、最も人間的な営みであるために、人間性に対する深い肯定がなければ、成り立たない。さらに、人間性に対する深い肯定は、実存を深めることからしか得られない。これが憲法19条の哲学的土台であるということですね。公共哲学をはじめる第一歩であり、ふつうの多くの人の常識・良識では何ら違和感がありませんが、学問としての公共哲学に欠けているのは、この認識ではないかと思います。
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[ タケセン ] [2008/01/06 21:30]
荒井さん、その通りでしょう。
己の実存を踏まえて【良心の自由の行使】として公共について思考し実践することは、学としての「公共哲学」には欠けていますが、それは致命傷になりかねません。その点については、『公共的良識人』紙の8月号でも力説したところです(6月14日の書簡ー「自己という中心から公共性は生まれる」)。
最も注意しなければならないのは、順番です。実存が先=出発点であるという原理を曖昧にし、他者や社会を先立てると、途端に不毛な「理念主義」に陥ります。生の現実につく哲学的な思考ではなく、新術語や新理論をつくり、横へ横へと無用な拡大をするはめに陥ります。水面下をよく見ることで新たな世界をひらくという哲学の営みとは逆になります。
この荒井さんとの「コメント問答=哲学」はとても有益で、気持ちがいいですね。

武田康弘
2008/01/04のBlog