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2008/02/13のBlog
[ 22:23 ]
[ 社会思想 ]
改憲論者であった小林節慶応義塾大教授は、自民党の憲法改正案が出た後では、護憲派になりましたが、それは、近代市民社会の原理(民主主義原理)を踏まえれば、あまりに当然の帰結です。
為政者を主権者である市民の意思で縛るのが「近代憲法」の立憲主義ですが、主権者である天皇が臣民に与えた「欽定憲法」も、名前が「憲法」だから同じ、というのでは、あまりにお粗末です。
その根本的な違いもわきまえずに新憲法をつくろう、というのだから、小林教授に限らず、主権在民の民主主義思想を理解する人ならば、誰であれ呆れ返ることでしょう。自民党の憲法改正案は、主権者である国民の方を管理するような発想で憲法をつくろうとするもので、これでは「近代憲法」にはなりません。
近代市民社会(自由の相互承認に基づくルール社会)の【良識】とは異なる考えを現代に持ち込むことは、明らかに間違いです。
いまもテレビを見ていたら、宮内庁長官が、天皇に皇太子が会いに行く回数が少ない、と苦言を呈していましたが、家族問題まで政府の役人が口を挟み、管理しようとするー論評するのも厭になるほど愚かな話です。
これは、個々人からエロースを奪う人間管理主義の【象徴】のような話ですが、この問題については、以前わたしは、『皇族の人権と市民精神の涵養』という文を書きましたので、よろしければご覧ください。
武田康弘
2008/02/11のBlog
[ 21:25 ]
[ 社会思想 ]
去る1月22日に行われた参議院調査室主催のパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」は、大変白熱した議論となりました。
この催しの形式も内容も全てが【前代未聞】であったようですが、今後は、こういう丁々発止の本音トークが「あたりまえ」になれば、日本の社会も大きく開けるはず、そう私は確信します。
「真理の保持者はいない」、それが民主制の社会です。この社会・国家をつくっているのは、われわれ一人ひとりの市民であり、代行者(政治家)やサービスマン(行政職員)はいても、特権者はいないー認めないのが近代民主制の政治と社会の原理です。それを現実のものにするためには多くの努力ー意識と制度の改革が必要ですが、その営みには大きなよろこびがあると思います。
人間の生き方や社会のありように関しての専門家は存在せず、生活者の日々の具体的経験についた「よい・美しい・ほんとう」への試行錯誤があるだけだ、という原理を踏まえ、【自問自答と自由対話】によって物事を進める、それを私たちの社会の大原則としなければなりません。
1月22日の模様は、白樺教育館のホームページで見ることができます(クリック)。
また、無修正の音声ファイルも公開されています(クリック)ので、興味がおありの方は、ぜひ見て(聞いて)みてください。
また、このディスカッションの激論をそのまま活字化した『立法と調査』も発刊されるとのことです。国会職員と衆参の国会議員に配布されるそうですが、発刊後に参議院のホームページで公開されるとのことです。
武田康弘
2008/02/08のBlog
[ 09:54 ]
[ 趣味 ]
マイケル・テルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団によるベルリオーズの『幻想交響曲』は、現代的でシャープ、同時に緻密で細やかな演奏ですが、聴く込むほどに味わいが増し、繰り返し聴きたくなる名演です。
音色の美しさや華麗さはありませんが、明晰でリズム感がよく、しっかりとした構成力が抒情性の表出を支えています。ロマン主義の権化とも目される曲ですが、全体に古典的とも言える落ち着きがあります。
パッと面白く聴かせる演奏ではないのですが、終楽章の迫力は怖くなるほどで、サンフランシスコ響の巧さにも舌を巻きます。余白には、声楽付きの「レリオー生への帰還」の抜粋が入っていますが、これが選曲もよくとても聴きごたえがあります。
録音も分解能とバランスがよく、ダイナミックレンジが大変広く、強奏時に大音量にしてもまったく歪まず、極めて優秀です。
ぜひ、みなさんお聴きになってみて下さい。
以上は、わたしが管理人を務めるmixiのコミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックとして書いたものです。
武田康弘
2008/02/03のBlog
[ 18:49 ]
[ 恋知(哲学) ]
敗戦後すぐの東大総長であった南原繁は個人と共同体との調和をめがけた「理想主義的現実主義者」であったわけですが、
キリスト者であった南原の「真の神が発見されない限り、人間や民族ないし国家の神格化は跡を絶たないだろう」という言を貴重な真実として語る宗教学者の稲垣久和さんの「公共哲学メール」に、わたしは批判的なメールを出しました。
しかし稲垣さんの返信がないうちにわたしの友人の山脇直司(東京大学教授)さんが介入ましたので、山脇さんとの10回以上にわたる長いやりとりに変わってしまいましたが、それが一段落した時点で、稲垣さんからMLのみなに宛てたメールがありました。
稲垣メールは、山脇さんへの最後のメールでわたしが確認した「近代市民社会の常識」を批判する趣旨のものでしたので、それに応える必要を感じ、メールを出しました。
これは、とても深い哲学上の論争だと思います。
「公共的霊性」「公共的宗教」の必要性を強く訴える稲垣さんの思想は、
宗教や霊性を個人の自由の範囲で十分に認めつつ、しかしそれは現実政治の世界とは次元を異にするものという原則を徹底させる必要がある、というわたしの考えとは大きく異なります。
わたしは、「近代民主制」の思想の本質をしっかり見据え、それを深め広げることが何よりも重要な現代社会の課題であると考えていますので、以下に稲垣さんに宛てたメールをコピーします。
稲垣さん 、みなさん、
「宗教心を克服して人間の理性・感性から近代の人権や自由等の問題を考えてきたのがこれまでの常識的な近代化論でしょう。しかし、そんな常識論が、うまくいっていないことがありありと出てきているのが現代世界であり、」(稲垣)
わたしは、【近代の社会原理】(稲垣さんの言う常識的な近代社会論)が、①政治世界において哲学・思想的意味として理解→了解されていないこと、②政治家を含むふつうの多くの人の意識として、まだ極めて不十分な認識しか持たれていないこと、③それは民主主義をほんとうに実現するための「考える(覚えるではなく)教育」と自由対話の実践が学校と家庭教育の双方でほとんど行われていない!!ことが問題の核心だと思っています。
要するに、近代の原理が極めて不徹底・不十分(意識としても制度としても教育としても)であるところに現代社会の問題の根を見ているわけですので、稲垣思想と武田思想は大きく異なります。「公共宗教」がないことが原因だ、という考えは持ちません。
そこで、ひとつ整理しておかねばならぬ問題について書きます。
わたしの師であった竹内芳郎氏(哲学者でサルトルの『弁証法的理性批判』ポンティの『知覚の現象学』その他の翻訳者かつ解説者、また、独自の「宗教論」「文化論」「言語論」を生み、現代思想の批判的紹介者でもあった)は、普遍宗教、中でもキリスト教のもつ「超越性原理」を高く評価し、個人の自立の思想だけではエゴイズムに陥る危険性があり、また世俗の価値を相対化するためには、超越性の原理はなくてはならぬものと考えていました。
しかし、わたしは、ふつうの多くの人(幼い子どもから成人者・高齢者まで)との数知れぬ(日常的な)会話・対話・議論・交際を通して、氏の超越性原理の思想は、現代の日本社会ではほとんどリアリティを持たないと確信しました。世俗の雑駁な日々の生の中から「よいや美しいや真実」の世界(理念やロマン)を見出すこと、そこから飛躍せずに自・他・世界の課題とその解決策を見出すこと、要するに内在的に思考し「超越項」をつくらずに自他のふつうの人の生の実情に沿って深い納得が得られるように考えること。理論の体系や累積的な知識ではなく、恋知(深い納得)する営みが何より大きな価値があると思うに至ったのです。(「生活」は「学」よりも価値的に上位であり、これは原理中の原理です。)
そこで、整理しますと、①なんらかの超越的な原理をもって思考し生きること(宗教者の生)と、
そうではなく、②「至高のもの」を内在化させて(日常生活のふつうの体験につき)生きること、従って、至高のよきもの・美しきものは、具体的な経験(恋や音楽や民芸や美術や自然・よきもの美しきものとの出会い)から得ること(世俗者の生)、
この両者をともに認め合うことが必要だと思います。
自分の信念が他に優越するという考えを心の深部に隠し持てば、生きた意味ある対話はけっして成立しませんし、民主的な分け隔てのないしなやかで柔らかな人間性ー上下意識を廃した自由で気持のよいざっくばらんさ・明るさは生まれようがありません。
市民の自立ー個人の自由を阻む国家主義のイデオロギーと教育は共通の敵だと思います。国民国家としての近代国家を、市民(シチズン)国家としての近代国家へと変えていくことが必要であり、それは十分可能であるし、そうすることが日本という国をよくすること・強くすることであり、またそれはそのまま世界平和ー友好につながるはずだと思っています。
わたしは広義の「愛国者」です。ゆえに、従来の日本文化(政治等も含む広義の文化)をエロース豊かなものに変革しようとしているわけです。
武田康弘
2008/01/31のBlog
[ 12:22 ]
[ 社会思想 ]
矜持(きょうじ)・プライドとは、自分の存在の肯定・誇りであり、一人ひとりの比較することのできない、存在の独自の輝きを生む意識です。内側から湧き上がるものであり、特定能力の比較によって生じる上下意識ではありません。
個々人が異なる色・形・力を持ち、それぞれのユニークさを肯定し合うことで成立する社会を民主制と呼ぶわけですので、特定の能力を基準にしてその優劣で人間を評価する思想から生じる「エリート」という意識は、民主主義とは背反します。
具体的な個々の能力に優劣があるのは当然で、その優秀者が評価されるのはよいことですが、エリートという人間が存在するという意識・思想は、最悪の想念だと言わざるを得ません。「私」の努力は、内側から湧き上がる力=存在していることが価値であるという思いから開始されるのであり、他者の上に立とうとする思想・態度は、人間的なよきもの・美しきものを根こそぎにしてしまいます。自他を存在の深部で殺すのが、序列主義―エリートという意識です。
誰でもが自然にもっている矜持=プライドを肯定し健全に育てることが、民主制社会の教育・倫理の土台であり、それが互いの個性を伸ばし合うことで全体を支え・強くするのです。それとは別次元に国家意思や国家利益があるという想念は、エリートという上下意識が生みだす妄想に過ぎません。
みなの【内側から湧き上がる力】を伸ばすことがどれだけできるか?それが鍵ですが、そのためには、オープンであること・情報の共有が基本条件です。絶対者や特権者がいないからこそ大きく豊かになれる社会、それが民主制という社会であり、そのような基本思想を踏まえて生きるのが民主的人間です。深い納得を得るための自問自答と上下関係を廃した自由対話が、哲学と民主主義を成立させる基盤なのです。
武田康弘
2008/01/30のBlog
[ 16:46 ]
[ 恋知(哲学) ]
幼い子供たちを見ていると、「プライド」の塊です。
彼らは、【命の自負心】とでも呼んだらいいようなプライドを持っています。
だから、わたしは子供たちが大好きです。
自負心・矜持・プライドがあるから命が燃え、生き生きと輝いて、個人の自由がぐるぐると渦巻くのです。日々、人間として向上するのは、このプライドの力です。
大人でも精神の健全な発達をやめない人は、みな豊かなプライドを持っています。
ところが、個人を成長させるこのプライドを潰し、外的価値による序列意識に変質させてしまう教育がおこなわれると、プライドは歪んで病的になり、上下意識―序列主義へと変化してしまいます。いわゆるエリート意識です。
エリート意識は、民主主義の思想と社会を土台から破壊してしまう愚かな想念ですが、このことに気付いている人は、少ないように思えます。「エリート」という言葉をプラス価値だと思い込んでいる人が多いようです。驚くべきことに、「公共哲学」運動を進める代表的な学者の一人である桂木隆夫さん(学習院大学法学部教授・法哲学と公共哲学を教授)は、自著(「公共哲学とはなんだろう」)で、これからのあるべき民主主義の姿として、「大衆の中のエリート」とそれとは区別された「エリート」の双方の育成が不可欠だ、と論じていますが、こういう思想が生まれるのは、日本社会が、学歴を信仰する東大病とも呼ぶべき病にかかっているからでしょう。明治の超保守主義(天皇主義)の政治家である山県有朋らがつくった官僚制度(キャリアシステム)もまた、この信仰=病の中で生き延びてきたのです。
もし、公共と民主主義とが背反することになるならば、「公共哲学」とは、詐欺の名称に過ぎないと言わざるをえません(注)。なぜならば、個々人の自由に考える営みに依拠するのが哲学であり、哲学成立のためには、民主主義が必要であり、また逆に民主主義は哲学に支えられなければ形骸化するほかないからです。単なる理論の体系や思想ならば、独裁国家にもありますが、個々人の深い納得に支えられる哲学するという営みは、民主主義社会でなければ成立しないのです。史上はじめて民主制を敷いた古代アテネで哲学が誕生し、キリスト教が国教となった古代ローマで哲学が禁止された{ミラノ勅令により900年以上続いた『アカデメイア』(プラトンが創設した私塾の延長のような自由な学園)が閉鎖―「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」}という歴史的経緯を見てもそれは明らかでしょう。
プライドなくして哲学する営みは成立しませんが、エリート意識に支配されれば、哲学は消え、単なる理論や知の体系による支配が生じてしまいます。健全で豊かなプライドの肯定・育成は個々人を輝かせ、民主的な公共社会を生みますが、病的に歪んだプライド=エリート意識の支配する社会は、序列主義・様式主義・管理主義しか生みません。
(注)もし、民主主義(対等な個々人の「自由の相互承認」に基づくルール社会)ではない公共性や公共社会について語るのであれば、「公共哲学」とは呼ばずに、「公共学」ないし「公共社会学」または「公共理論」とでも言うべきでしょう。
Ps.猫はプライド高き動物として有名ですが、彼らは序列社会をつくりませんし、飼い主とも対等です。犬との大きな違いです。
武田康弘
2008/01/26のBlog
[ 13:07 ]
[ 社会思想 ]
民主主義国家における「官」の本質は?
一言で言えます。
【民主主義を現実化・具現化するための機構・組織である】、これで終わりです。
「民がつくる腑に落ちる考え=公論=一般意思」を具体化するのが官のほんらいの仕事であり、それとは異なる「公=国家」のためというような形而上的なイデオロギーとは無縁でなければいけません。
特定の主義(例えば天皇主義とか共産主義とか○△宗教)によらず、「民の公共」を実現するために主権者によってつくられたのが「官」であり、従って官僚とは、市民サービスマンのことです。公共的なサービスをし、一般意思を実現するための努力・創意工夫をするのが好きだ、というのが官僚の適性です。
官という組織は、特権者のためではなく、ふつうの民のためにある。
官僚とは、特権者のためではなく、ふつうの民のために働く。
それが本質です。
民主主義とは、個々人を対等な存在とみなし、あらゆる価値の源泉を個々人の存在に求め、個々人の良心の自由に依拠して、自由対話によって多くの人が納得できる考えをつくり・従うという思想です。一口でいえば、「自由の相互承認に基づくルール社会」ということができます。それを現実のものにしていくためにつくられたのが「官」なのですから、官が市民的公共と別のものであっていいわけはありません。これは原理です。
武田康弘
2008/01/25のBlog
[ 12:49 ]
22日の参議院でのディスカッションは、丁々発止のやりとりになり、とても面白いものでした。その丁々発止の大元はわたしです(笑)済みません!?
おそらくは、前代未聞の会であったのではないか?と推察されますが、ただ人の話を黙って聞くだけという時代はとっくに終わっています。
「自分で考える」ためのヒントや刺激を得るためでなければ、ディスカッションにせよ、講習会・講演会にせよ、暇人の時間潰しにしかなりませんし、まともな人は、そのような会に出席させられるのは心底「うんざり」でしかないでしょう。
わたしは31年間教育の仕事をしていますが、数学や国語にしても単なる技術として「教える」ー「教えられる」ことほどつまらないものはないと思っています。一緒にその場で頭を使う・回すところにエロースがあるので、わたしは、たとえ講演会であっても、リアルタイムでもう一度考え直すという心で臨みます。
当日も繰り返しお話したように、【「官」は「市民的な公共」とは異なる独自の「公」という世界をもつ】という思想は民主主義の原理に反する、というのがわたしの確信ですが、何にせよ一番必要なのは、自分自身が民主的な人間になることだと思っています。
民主的な人間とは?民主的な倫理とは?民主的な言葉とは?・・・それらについて思索し実践することをわたしは続けてきましたが、その道をこれからもまっすぐに進もうと思っています。
当日の参加者の皆様には、国会開会中にも関わらず出席され、極めて真摯に話を聞いて頂いたことに深く感謝しています。
武田康弘
2008/01/21のBlog
[ 11:59 ]
[ 恋知(哲学) ]
わたしたちの住む21世紀の日本は、民主主義国家ですが、
では、民主主義とはどのような思想なのだろうか?
そのことの自覚が弱いと社会は住みにくくなり、個々人の可能性は小さなものとなり、国は衰退していきます。
明日の参議院の会議室で行われる官の人たちとの交流でもある「パネルディスカッション」のテーマは、「公共哲学と公務員倫理」(クリック)ですが、【哲学】(生の意味・ありようを自己決定する営み)とは、個々人が集団性の縛りから解放された時にはじめて成立する世界で、したがってそれは民主制を必要とし、また民主制を支えるもの、と言えます。
民主主義を単なる手段としてではなく、思想として鍛えることーー社会を大元からよくしていくのは、それ以外にはないはずです。
具体的に何をどう考え、どのように実践したらよいのか?それを探求する旅の始まりです。
この試みが軌道に乗れば、日本社会には、大きな希望が開けるはずです。
武田康弘
2008/01/18のBlog
[ 09:24 ]
[ メール・往復書簡 ]
下のブログに対するミクシィのコメントです。
ヨッシー 2008年01月16日 23:43
タケセンさん
生活世界から立ち上がる匂い、そこにエロスを感じます。
知に恋することの意味は、問いを問い続けることではないかと思っています。
ではでは ヨッシー
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タケセン 2008年01月17日 11:17
ヨッシーさん、
コメントありがとう。
わたしは、生活世界から立ち上がるー立ち上げる、ということを、二次的な言語世界で言うのではなく、ナマの具体的現実を踏まえて、生活世界で通用するような言葉ー思想として語るのが固有名詞としての「公共哲学」ではなく、一般名詞としての公共哲学ー公共思想だと思っています。その点、ヨィシーさんとも共通すると思います。
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ヨッシー 2008年01月18日 00:21
タケセンさん
本来、哲学と命名すると、何れ劣らずアカデミズムに接近すると思います。「立ち上がる匂い」という喩は、ノンバーバルな事象も含む現実へと思いが至ることへの思いからです。
問いを問い続けることの意味は、ノンバーバルな世界へと接近する唯一の方法だと感じています。
語りたい欲求はあっても、語り得ないという焦燥、それが現実だと思うのです。
固有名詞としてではない、一般名詞としての、という感覚は理解できます。多分共通していると思います。
ではでは ヨッシー
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タケセン 2008年01月18日 09:22
言語化できない、あるいは、とてもしずらいことを、なんとか言語化しよう、という無理な努力!?が哲学の営みのように思います。人間の生に関する問題の考察・判断は、広義の感情世界の中でしか成立しないと思いますが、その言語化できない心の赤裸々な思いをどのようにして言葉にするか?ある種文学とも共通する課題ですが、それを全体的な論理=悟性に対して弁証法的理性として行おうという試みです。わたしはそれを日常言語の世界に引きずり降ろして、ふつの言語で語る文化を生む出せないか?と考え、実践しているわけですが、「ドンキホーテ」かもしれません。
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おまけーー
さあ、今日は、今から鎌ヶ谷市公民館で「てつがく講座」です。2008年最初の講座なので、新年会気分(笑)で出かけます。もう10年になりますが、主婦の方中心の会です。何事も長く続けるには、よき理念の強い意識化と持続する意思を支える場の二つが必要です。
何があってもブレないのがわたしですが、煮ても焼いても食えない、とも言われます。これ以上はない最高の賛辞だと感じています。みなさんありがとう!
武田康弘。
2008/01/16のBlog
[ 10:37 ]
[ 恋知(哲学) ]
生活世界における具体的な経験から自分の感覚により自分の頭で考える、という意味でのほんらいの哲学、書物からもしっかりと学ぶが、書物に頼らずに、自身の経験を反省することで哲学する営み--そのような哲学=恋知は、専門の学者よりもふつうの生活者の方がはるかに広く的確に行えるはずです。
哲学を、書物上の営みから解き放ち、ふつうの人の生活世界で生き生きと働くものにしていくことは、人間生活を大きく変える力を持ちます。
「ふつう」の生活には無限の意味が埋蔵されています。家事をし、仕事をし、テレビを見、街を歩き、電車に乗り、散歩をし、音楽を聴き、家族や人と話し、・・・・・生きる現場は、エロースの泉です。ほんらいの哲学とは、自分の心身で感じ知り、そこから考える営みなのです。過去の書物を思考の訓練やヒントのために使うのはよいことですが、それを後生大事にいつまでもありがたがっているようでは、生きた今を呼吸する思想にはならず、未来は開くことなどできるはずがありません。
未来を開き、今を充実させる有用な哲学とは、現実の生の現場に埋蔵されている豊かなエロースの世界を「言語化する」営みなのだと言えますが、そのためには自由に飛翔するイマジネーションが必要です。そのイマジネーションを無意味な空想に陥らずに開発するのがわたしの言う「意味論的な知」なのです(その実践の場が「白樺教育館」です)。
市民社会(互いの自由を認め合うルール社会)に生きるわれわれは、「権威」をありがたがるのではなく、日々の具体的経験の世界からよきもの・美しきものを見出し、それを交換し合うことで、この現実の生活を豊かで魅力あるものにしていく営みに力を注ぐべきでしょう。絶対者がいない民主主義社会で生きるわたしたちにとっては、生の意味は自分で決めざるを得ず、したがって哲学は必然です。
現代の社会においてよく生きる=意味の豊かなエロースの人生を送るには、自問自答と自由対話としての哲学=恋知としての哲学=民知の発想と実践が必要です。【自分で考える面白さ】は、それを体験として一度味わうと、もう後には戻れません。
武田康弘
2008/01/13のBlog
[ 12:34 ]
[ 書評 ]
昨日夕方、「完全読解・ヘーゲル『精神現象学』」(講談社選書メチエ)という怪しげな名の本(笑・失礼!)が著者謹呈で竹田青嗣さんから送られてきました(数日前に「出版社のミスで遅くなってしまった」旨、竹田さんからメールがありました)。
ヘーゲルという人間は、文章が下手で、かつ、自分でつくった術語をたいした定義もなしに使う悪癖のある人なのですが、そのしつこく込み入った文章、しかも後期の神学丸出しのへんてこな「哲学書」に幻惑されずに、よくもまあ、これだけ良心的に読解したな~というのが1時間くらいで速読したはじめのわたしの感想です。「完全読解」!と言いたいのもよく分かりました。
竹田さんとは人間のタイプが異なる西研(にし・けん)さんとの共同作業が素晴らしい成果を上げた!と思います。お二人は共に、現実次元ではなく「哲学世界」で力を発揮するタイプですが、おそらくこれほどのヘーゲル本(「精神現象学」が中心)は空前絶後のような気もします。
こういう本が世に出ると、大学でヘーゲル哲学を講じる先生は大変でしょう。学生にこれを読まれてしまうと立場なし!ですもの~(笑)。禁書、いや焚書かな!?
ヘーゲル哲学の真髄を知りたい方、および、ヘーゲル哲学から現代哲学(ポストモダンという名の知の退廃)を越える思想を汲み取りたい方は、この本を熟読されるといいと思います。1000年もつづき難攻不落と思えたキリスト教の「スコラ哲学」を打ち破った【近代思想】が、脆弱で甘ちゃんの現代思想よりもはるかに優れたものであることが了解されるはずです。
ただし、わたしは、小さい子どもたちから成人者までの「意味論的・対話的な学習・教育」の仕事やいろいろと変化に富む生活の中で、直接経験から書物に拠らずに自分で考えを生み出すタイプの人間(頭脳)ですので、哲学書の解読は、竹田さんや西さんにお任せです。お二人とも実に優れた稀に見る解析者―読解者であることは、わたしが太鼓判を押します。
武田康弘
2008/01/11のBlog
[ 09:14 ]
[ 恋知(哲学) ]
「ふつうに考えることが哲学」(クリック)に対して寄せられたhirominさん、荒井達夫さん、古林治さんのコメントと武田の応答をあわせて記事にします。核心的なコメントを寄せて頂いた3名の方に、深く感謝します。
[ hiromin ] [2007/09/03 08:46]
私はタケセンの考えに深く共感します。かけがえのない命、生きていることの驚きを常に日々連続して意識したり感動しているわけではないのですが、対話をとうしてほりさげて考える営みがなされていてはじめて大元(生きるってなに?自分はどう生きたいのか?)にもどして思考することが可能になるのではないか?と思うのです。今の日本の社会、家庭や教育現場においてあまりにも対話をするということがなされていないがために、「ふつう」ということが多くの場合既成概念の中で生きることに意味づけられて言われ使われてしまっているのではないかと私は感じてるのですが、、。
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[ 荒井達夫 ] [2007/09/03 09:14]
「公共的良識人紙」の武田さんと金さんの対談、本当に楽しみにしておりますが、二回目の8月1日号では、金さんの話がひどく難しくなってしまったように思います。これでは一般市民には通じないでしょう。また、金さんのお話は「他者を尊重し、対話することが大切」という趣旨のようですが、では具体的にどうすれば、それが成り立つのか、がこれからの対談で関心があるところです。一般市民にも理解できる「ふつうに考える」対談を期待しております。
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[ タケセン ] [2007/09/04 01:14]
対話の拒否・考えることの停止・知識と実務に逃げるー「ポストモダン」といわれる現代の人間精神の特徴です。「ふつう」ということが多くの場合既成概念の中で生きることに意味づけられて、というhirominさんのご指摘通り、こどものように自由に考えること=本質的な探求や原理的思考をすることを古いとか宗教的とかと言って嫌い、既成社会の中で既製品を消費するだけの生き方に陥っている人が多いです。それでいい、というかそれしかないと思い込んでいるわけですが、悲しいことです。わたしがこどもたちに「もてる」のは、エロースの人だからでしょう(笑)
もし、金さんが哲学対話ー往復書簡を続けられる意思がおありならば、わたしはますます「ふつう」にを心がけます。エールをどうもありがとう。
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[ hiromin ] [2007/09/04 05:42]
「現代人の人間精神の特徴」
やはりそうなのですね。
タケセンは教育館に通う子供たちみなの「ありのまま」をうけいれひきうけていますよね。だから子供たちは生き生きし、タケセンに心身でぶつかり、よろこび、心の安定がえられるのだと感じています。このような生き方接し方をし続けている大人や場は今の社会の中にはほとんどないように思います。教育現場は無論、家庭の中においてさえも「ありのまま」や、当然すぎて言うのもなんですが「子供の権利」(せまい意味ではないです)すら無いことのほうが多いのだと私は実感しています。子供たちが窮屈な型にはめられ悲鳴がきこえてくるような現状。日本は民主主義国家ということになっていますが、うそでしょって思います。
生きた対話や思考が活発に実践され続けている教育館の価値たるやなんて貴重なのだろうとつくづく思っています。
――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/09/04 10:38]
hirominさん、
武田の想いを深く了解してくれたコメント、感謝です。
わたしも自分で「貴重な場」であると思います(笑)。心も体も頭も、わたしの全実存を賭けてつくりあげてきた場が【白樺教育館】です。日本及びアジアの「公共哲学」運動の第一人者・金泰昌さんのような外国人の目にも、最も注目すべき日本の試みのひとつと評価されたのはとても嬉しいことですが、たえず近くで実践の場を見ているhirominさんの高い評価は、更に深い悦びです。ほんとうに感謝です。
――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/09/04 14:16]
ついでに、ですが・・・・・武田さんと金さんの対談、このHPに掲載されているものと、公共的良識人紙に掲載されているものとが、相当に違っています。金さんの発言の部分です。非常に専門用語も増えてわかりにくくもなっているのですが、これは、どういうことなのでしょうか?
対話になっていないところも、多々あるように思います。
お二人とも、対話が大切という点では共通していますし、そのまま掲載するのが筋ではないでしょうか。後から書き換えては、対談を伝えることになりません。興味半減で、読者としても、面白くないのです。是非、改善をお願いします。
―――――――――――――――――――――――――
[ 古林 治 ] [2007/09/04 22:02]
件の対談、私もキム・テチャンさんが大幅な加筆修正したことで本来の対話のダイナミズムが失われ、モノローグのようになっていると感じます。読者への期待効果を想定し、そのように追加修正したのだと思いますが、そこには危ういものも感じます。なぜなら、『他者性の尊重』を訴えながら、一方的な加筆修正によって、読者と武田さんを自己の内的世界に回収しようとしている、とも取れるからです。
その点で、8月号の『公共的良識人』紙には少々失望しました。対話はまだ続くと思いますが、率直でエキサイティングなものを期待します。それが他者との出会いの醍醐味だからです
――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/09/07 00:20]
荒井さん、古林さん、コメントありがとうございます。
新聞編集の独自の方針があるのでしょうが、わたしとしては、さらに明瞭に平明にを心がけていきます。「ふつう」を貫き続けたら、まだ誰も見ない景色ーいまだ誰も見たことのない世界が開けるような気がしてしかたないのです。不思議な直感が、確かなものとしてわたしの内部にあります。
武田康弘
2008/01/07のBlog
[ 15:17 ]
[ 恋知(哲学) ]
下のブログに対する荒井達夫さんとのコメント問答=哲学です。
とてもよい対話になったと思いますので、記事にします。
荒井達夫 ] [2008/01/05 00:21]
「公共する」とは、徹底した思想良心の自由に基づく行為で、本質的に万人に対し開かれているものと言うべきです。ですから、特定思想や宗教的信念のために、他人に何らかの考えをするよう求める行為は「公共する」ことに真っ向から反することになります。また、そのために集団を作ることも、反公共的です。このようなことは、日々の具体的生活の中で「公共する」とは何かを考えれば、当然のことと思いますが、どうも学問の世界は違うようです。深刻な問題と考えていますが、いかがでしょう?
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[ タケセン ] [2008/01/05 11:20]
荒井さん、コメントありがとう。
学問として「公共哲学」を行い、そこで研究者の見解を出すのは、学問の自由ですから全く問題ありませんが、それが具体的な現実問題に関わってくると、その良否・適否は、現実の場面で試されることになり、その思想にどれだけの普遍性があるか?が問われるわけです。それを決めるのは、ふつうの多くの人の常識・良識ですので、情報公開と自由対話が不可欠なものとして要請されます。それが民主制社会の大原則のはずです。
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[ 荒井達夫 ] [2008/01/05 19:28]
学問としての公共哲学も、現実具体の問題との関わりの中で、その存在意義や有用性が真正面から問われています。この傾向は、今後、ますます強くなるでしょう。民主制社会において「公共する」、「哲学する」とは何か、この一番大事な基本事項を原点に立ち返って、きちんと考える必要があるのではないかと思います。
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[ タケセン ] [2008/01/06 11:42]
荒井さん、
人間の生き方や社会のありように関する思想は、それがもつ社会的な影響について「責任」がある、とわたしは考えています。まして、公共を掲げる思想であれば、なおのことでしょう。
自分の言動に対する厳しい目=【良心】を欠けば、思想は死にます。【良心の自由】というもっとも人間的な営みは、人間性の深い肯定であり、それは、実存の深みから立ち上がる社会的存在としての「私」の価値を表現するもの、と言えるはずです。
「日本国憲法第19条ー思想及び良心の自由」、には深い哲学的意味があります。
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[ 荒井達夫 ] [2008/01/06 14:32]
思想良心の自由は、自分が常に社会的存在であるという意識を持っていなければ、成り立たない。また、それは、最も人間的な営みであるために、人間性に対する深い肯定がなければ、成り立たない。さらに、人間性に対する深い肯定は、実存を深めることからしか得られない。これが憲法19条の哲学的土台であるということですね。公共哲学をはじめる第一歩であり、ふつうの多くの人の常識・良識では何ら違和感がありませんが、学問としての公共哲学に欠けているのは、この認識ではないかと思います。
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[ タケセン ] [2008/01/06 21:30]
荒井さん、その通りでしょう。
己の実存を踏まえて【良心の自由の行使】として公共について思考し実践することは、学としての「公共哲学」には欠けていますが、それは致命傷になりかねません。その点については、『公共的良識人』紙の8月号でも力説したところです(6月14日の書簡ー「自己という中心から公共性は生まれる」)。
最も注意しなければならないのは、順番です。実存が先=出発点であるという原理を曖昧にし、他者や社会を先立てると、途端に不毛な「理念主義」に陥ります。生の現実につく哲学的な思考ではなく、新術語や新理論をつくり、横へ横へと無用な拡大をするはめに陥ります。水面下をよく見ることで新たな世界をひらくという哲学の営みとは逆になります。
この荒井さんとの「コメント問答=哲学」はとても有益で、気持ちがいいですね。
武田康弘
2008/01/04のBlog
[ 19:05 ]
[ 恋知(哲学) ]
民主主義とは、特定の理念を先行させない思想、いわば理念なき理念です。それゆえに、個人が持つ様々に異なる考え方や宗教を共存させることが可能です。
わたしが考える【公共哲学】とは、民主主義をそのような思想として深め・広げる営みです。何をどのように考え・行えば、民主主義をより十全に機能させられるか?に取り組むのが公共哲学の役目でしょう。
例を上げますと、エゴイズムを越えるために特定理念(「他者の優先」「年配者への尊敬」・・・)を持ち出すのは、哲学(公共哲学)としては失格なのです。道徳律を提示し、それに従うべきだ、といったのでは理念主義にしかなりません。例えどんなに進歩的と思われるような考え方でも、特定思想や宗教的信念から発する「理念」を社会の全成員に要請するのは民主主義とは相容れず、哲学にはなりません。
もし、ほんとうに哲学として公共を語る(公共哲学する)のならば、他者の尊重という理念にしても、赤裸々な生の実情につき、そこから段階を踏んで「私」の殻を破り、自分の生を公共世界へ伸ばしていくという「自然なエロースの広がり」として考え・語らなければいけないはずです。そういう順番で考えないと、人は内的につながることができず、【政治的人間】(損得計算や戦略・戦術で生きる人)に陥ってしまいます。そうなると、「公共哲学」からは公共性が消え、民主主義の徹底という役目も果たすことができません。
政治主義になれば、哲学は死にます。そうではなく、わたしは恋知(哲学)的な人間(知恵を求め、美を愛し、音楽・詩を好み、恋に生きるエロースの人)として生きたいと思います。政治から政治の臭みが発生する元を断ち、「直接民主的な市民自治」を可能にするのは、豊かで自由な人間性のみでしょう。
互いの自由を尊重し合うことで、互いのたのしみを広げ合うこと、互いの可能性を伸ばし合うことで、公共世界を発展させること、そのための創意工夫・努力・助け合いこそが民主主義社会における「政治」のはずです。
武田康弘
2008/01/02のBlog
[ 11:25 ]
[ 趣味 ]
昨晩、恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサートで、83才の自由人プレートルの指揮を見、聴くことができたことは、最高の幸せでした。
2ヶ月ほど前に、わたしは、ミクシィ内に【ベルリオーズの世界】というコミュニティーをつくりましたが、そこでの最初のトピックが、「ファウストの劫罰(ごうばつ)」でした。そこで、お勧めCDとして、自由で強靭、フランス的な美感に溢れたプレートルの演奏を紹介したのです。わたしは、学生のとき(35年ほど前)に購入したプレートル指揮・パリ管弦楽団のLP(イギリスからの輸入盤)をずっと愛聴してきましたが、そのトピックには、プレートルについてのよいコメントが寄せられ、わが意を強くしたのでした。
昨晩、プレートルの姿をテレビではじめて見て、その若さ(growing young)と自由な表情・笑顔に2008年が明るく開けゆく感じがしました(嬉)。
彼の選曲・指揮の下、恒例のニューイヤーコンサートに新しい扉が開かれたようです。既成概念に囚われず、若々しく、自由で、とても華やかでしたが、同時に、深い経験による安定があり、土台が大きく、小曲であってもシンフォニックですらありました。強く確かな構成力があるために、安心して思い切りウキウキすることができる、そんな感じの演奏にすっかり満足しました。DVDが出たら早速購入しましょう。
いま、プレートル指揮のベルリオーズ「幻想交響曲」(+レリオ)の名演奏をCD聴きながらこのブログを書いていますが、オペラ指揮者として有名な彼のレコードには、カルメンをマリア・カラスが歌ったビゼーの「カルメン」全曲があります。この曲のベストとして知られているものです。ぜひ、どうぞ。
武田康弘
2008/01/01のBlog
[ 11:01 ]
[ その他 ]
今年2008年は、素晴らしい年、日本の社会が「新しく始まる年」になるでしょう。
白樺・民知が大きく羽ばたき、大収穫をもたらす年になりそうです。
このブログでもその様子をしっかり報告しますので、ぜひ、ご愛読をお願いします。
わたしは、今までにも増して大忙しになりそうですので、「ブレーキ」をかけつつ前進しようと思っています。収穫の大きさに潰されないように注意して。
では、今年も共に悦びの時を過ごしましょう。
武田康弘
2007/12/31のBlog
[ 10:27 ]
[ 趣味 ]
MINIは、「ドキドキ」するクルマです。「華」があります。
わたしは2002年の晩秋、名前も知らずに「出会った」MINIに瞬時にひきつけられ「とりこ」になりました。
後日それが、ドイツBMWが、伝説のイギリス車・ミニクーパーのコンセプトを受け継ぎ、全く新しく創り直したものであることを知りました(from the original,to the original)。
2004年の秋に入手し、2006年にはオープンカーのコンバーチブルに乗り換えましたが、毎日乗っていても、最初の感動は覚めません。
カジュアルなのに高品位、なんとも「粋」なクルマです。
クラス(階級)を超越した普遍的なよさ・美しさをもつ、それがMINIなのです。
☆以前のブログ、MINIのレポートも見て下さい。
武田康弘
2007/12/30のBlog
[ 09:46 ]
[ 教育 ]
以下は、公共哲学MLです(最後の部分を少し書き足しましたが)。
ちょっと、わたしの考えを書きます。
社会主義や共産主義は、内容=具体的な政策に通ずる思想を持ちますし、また、一神教の宗教も同じく、人間の生き方に対する特定の思想(道徳律)を持ちます。
しかし、民主主義は、そのような意味での理念を持たないので、特定のイデオロギーとはならず、さまざまに異なる理念で生きる人が承認できる普遍性を持ちうるわけです。
いわば、民主主義の理念とは、理念ならざる理念であり、社会的な公正を、その社会の構成員の合意(一般意思)によって創られる【ルール】に則ってのみ実現するもの、とします。
教育の理念も民主主義と同じで、通常の意味での理念を掲げれば、洗脳に陥ります。特定の理念を先立てるー「思想」「主義」「宗教」によって教育を行えば、教師がどんなに優れた人であれ、必ず教育は「自分で考える力」を鍛えるものにはならず、イデオロギー化していくでしょう。
教育にあたる者は、権威や思想に頼らず、自分の具体的経験を反省し掘り下げることで、他者(生徒)の具体的経験との重なりを見出し、その時々を「いつも新たに生き直す営み」だと思っています。教育に何より必要なのは、それが「危険で恐ろしい」ものだという自覚でしょう。とても誰か他者の思想に依拠して出来るものではない、というのが31年間ずっとわたしが感じ続けてきたことです。今でも毎日、最初の時間の小学生に会うのは「緊張」します(外からは全くそうとは見えないでしょうが)。どういう態度や表情で、何をどう言うか?いつも新しく「やり直す」わけです。
お上であれ、対抗イデオロギーであれ、そういう外なる思想によっては、この「危険で恐ろしい仕事」はできないというのがわたしの実感です。思想家の書いた本や教育学者が述べる考えを基準としてそれに合わせればいいというような「紋切り型」で「気楽」な仕事ではありません。自身の深い声ー【良心】以外に頼れるものはないのです。日々の具体的経験から「無限の意味」をくみ上げるしなやかで自由な精神を広げること、それなくしては成立しないのが教育という人間の最大の営みです。
武田康弘
2007/12/25のBlog
[ 00:01 ]
[ メール・往復書簡 ]
金泰昌と武田康弘の往復書簡―【楽学と恋知の哲学対話】が、「公共的良識人」紙の7月8月号に続き、12月号に掲載されましたので、その部分を「パート2」として白樺教育館ホームに古林治さんがアップしてくれました。(クリック)
12月号に掲載されたのは、再開された往復書簡の前半(9月5日から10月10日まで)ですが、これは、武田による【言語至上主義】への批判―【想像力次元】への着目という主張からはじまり、「イメージと言語のたえざる往復を心がけつつ対話する」という基本方針を確認した上で、「官」の位置づけの問題を主題としました。
「公」と「公共」の問題―これを分けるのが金泰昌さんの進めてきた「公共哲学」の要諦ですが、武田の考えは、主権在民の民主主義国家においては、「官」独自の「おおやけ」があるとする考え(公と公共の区分け)は、原理上成立しないというものです。
大変重要な論点だと思います。ぜひ、ご覧下さい。
武田康弘
