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思索の日記
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2008/03/21のBlog

白樺派・柳宗悦(やなぎむねよし)と共に「民芸」運動を進めた夫人の柳兼子(かねこ)は、日本最高のアルト歌手であり、孤高の作曲家・清瀬保二(きよせやすじ・武満徹の師としても知られる)の歌曲の初演者、紹介者でもありました。ドイツリートの見事な解釈で日本をリードし、ドイツ本国でもドイツ人歌手以上!との批評を受けた兼子は、
同時に、歌曲としての日本語のよさ・美しさを追求し、新たな歌唱法の確立に至ったのです。
(作曲家の清瀬保二の音楽は、足が地についた健康な精神が生みだすもので、品位が高く、しっかりとした身体性を伴っています。現代の日本人が忘れている心と風土の世界を表していて、なつかしく、且つ新鮮です。心から心へ直接伝わる珠玉の名作は、素朴にして高貴であり、独創にして自然です。)

柳兼子さんは80歳を超えてもなお新たな挑戦を続け、演奏会を開き、幾つものレコード(現在はCD化されています)を出しました。戦中に戦争協力を拒否したために活躍の場を奪われましたが、斎藤秀雄(小沢征爾等「サイトウキネンオーケストラ」に集う人たちの師))をはじめ日本の有力な音楽家には最高の歌手として認められ、韓国では「神」のように尊敬され続けた兼子さんには大勢の弟子がいました。その中でただ一人の内弟子であったのが大島久子さんです。久子さんの親友・松橋桂子さん(清瀬保二のお弟子さん)の大著『柳兼子伝』によれば、亡くなられたご主人の大島恵一さんも若いころは兼子さんに師事していたとのことです(後に東大教授、OECD科学技術工業局長)。

前置きが大変長くなりましたが、昨日、大島久子さん(84歳)から頂いた『十五の心』ー「詩」を奏でる・クラリネットとピアノで綴る日本の歌―という最新録音のCDをご紹介しようと思ったら、歴史を書くはめになりました。

このCDの演奏者の大島文子(クラリネット)さん・直子(ピアノ)さんは、大島久子さんの三女・二女です。わたしは、二女の直子さんの運転するアルファ・ロメオで都内を疾走!(恐怖)したことがあるのです(笑)。脱線しましが、このCDを昨晩から3回通して聴き、とても素晴らしいと思いましたのでご紹介します。以下に、文子さんと直子さんの書かれた一文を載せます。

「二人で演奏をはじめて、かなりの時間が過ぎました。やっと二人とも心の雑念がとれて、素直な気持ちで自分の心表現できるような気がします。・・母は声学を学んでいましたので、遊びほうけていた子供の頃から、歌は私たちにとっては身近なものでした。その母の恩師は柳宗悦夫人の柳兼子です。・・柳兼子が歌った石川啄木の「不来方」(こずかた)を聞いた時、涙が溢れ出た感動を今でも覚えています。・・この啄木の「不来方」の最後の節の言葉である「十五の心」を、私たちのこのCDのタイトルにしました。
楽器でいかに日本の歌を演奏するか?これは、「表現する」とは何なのかということに通じるような気がします。・・同じメロディーでも歌うときに「詩」が違えば、違う表現をしなければいけないのです。・・楽器を演奏しているという雑念があっては、このことは表現しきれない事に気がつきました。どうやって同じメロディーで違う「詩」を、そしてその「詩」の持つ本当の深い意味を表現できるかという事が、私たちが長年取り組んできたテーマです。このことに挑戦するために、全曲、日本歌曲でまとめ、器学のCDではありますが、歌詞を載せました。
私たちの演奏でその歌詞を、そして、日本語の持つ表現の美しさを感じていただければ幸いです。」(大島文子、大島直子)

まことに見事なコンセプトであり、演奏も実に美しく共鳴します。このCDを聴いて心やすまらぬ人はいないでしょう。ただ、ひとつだけ残念なのは、柳兼子さんが晩年もっとも熱心に取り組み、一番高く評価していた清瀬保二さんの曲が入っていないことです。直子さん、文子さんのコンセプトを深め、独創の境地を切り開くことにもなりますので、次回のアルバムにはぜひ入れて下さいね。期待して待っています。

武田康弘

2008/03/14のBlog

いま、参議院予算委員会のテレビ中継を見て、感動しました。

わたしはほとんど知らない人でしたが、自見庄三郎さんが、経済、財政問題を中心に質問しました。自身の大臣経験を踏まえ、本質的・原理的次元の問題と現状の問題を立体的に論じて、大変迫力があり、考えさせられる内容でした。

福田首相をはじめ他の大臣もいくつか説得される場面がありましたが、それだけ真に迫った論議でした。こういう政治家ならば、主権者が税金を出す価値があります。

財務省官僚の思惑で作られた経済見通しと政策をバックに答弁した太田大臣とは異なる考えの経済学者と公開討論することを約束させたのには、ほんとうに感心しました。この問題に限らず、役人も民間人や学者も対等な立場で公開討論を行う事はほんらいの民主主義の原則あり、それがなされれば日本社会に「自由と責任」が生まれます。

久々に対話の持つ面白味を味わいました。現実政治の只中でこのような本質的でかつ具体性を伴った議論が行われることがいま何よりも一番大切なことではないか、わたしはそう確信します。


武田康弘


2008/03/13のBlog

民主主義の思想、手法、生き方とは大きく異なる「自分中心主義の権化」のような権力主義の政治家・石原都知事は、役人が銀行を経営するという意味不明の愚策を強行しましたが(わたしはそれが必ず失敗すると計画段階から断言していました)、案の定、最悪の事態に陥りました。破綻を逃れることは不可能でしょう。

隆盛を極めた石原都政は、あだ花でしかなかったことが誰の目にも明らかになる日も近いと思います。

明治天皇賛歌の「君が代」斉唱と、権威主義的な入学・卒業式を東京都教育委員会の人事を操作することで各学校に強要し(その目に余る横暴は、NHKも批判しました)、国家独裁者のような言動を繰り返してきた(ふつうの民主主義国家ならばとっくに失脚している差別的・侮蔑的暴言の数々)石原都知事は、その教育政策に反対する者には職すら奪うという暴挙に出ましたが、わたしはその「悪行」を断じて許しませんし、公共的な良識をもつ人ならば、誰でも彼のような言動を容認できるはずがありません。

数々の独断専行を繰り返す復古主義の人物を都知事にした都民の責任もまた重いと言わざるを得ませんが、自問自答と自由対話に基づく対話精神を育成する教育がなければ、彼のような独裁的人物をよしとしてしまう風潮がつくられるのも当然かもしれません。

旧・ソビエト崩壊のような事態が、威張った政治を強行してきた石原東京都にいま始まった、わたしはそう見ます。都民もまた、自分自身の問題として政治に対する考え方の甘さ(自治を基本とする民主主義社会であるのに、独裁的な政治家を選び、それに任せるという態度)を深く反省する必要があるはずです。


武田康弘

2008/03/12のBlog

財務省の武藤氏を日銀総裁にすることは、日銀の独立性の観点から民主党その他の野党が反対していたにも関わらず、福田政権は、財務省の強い意向を受けて武藤氏を総裁候補としました。これでは混乱は必至です。

このような福田政権の行為は、参議院での民主党の多数という現実を無視した政権党のおごりという以外にはありません。選挙の結果を無視して、従来通り自民党の思惑を通せると思うならば、まったく民主主義を理解していないことの証としか言えません。

日銀総裁を空白にすれば、それは政権党に責任であることは火を見るより明らかですが、反対されるのがはじめから分かっている財務省の武藤氏を出して、それが通らなければ野党の責任だというのでは、あまりにお粗末な話です。こんな簡明な事も分からないようでは政権担当の基本的な能力が欠落していると言わざるをえません。どうしてこうも今の日本の政治家はテイタラクなのか、ほんとうに呆れ返ります。

「主権者の厳粛な信託による」という感覚がまるでなく、緊張感に乏しい言説を日々テレビで見せられ、聞かされていると、公共的な怒り、憤りを覚えます。政権党が自らの問題を野党のせいにして済まそうという精神では、政権を担う基本の資格がないと断ずるほかありません。これには誰も反論できないでしょう。

武田康弘



2008/03/08のBlog


民主制国家のほんらいの最大の仕事は、人権(自由と平等)を担保することです。
したがって、国家主義等の特定のイデオロギーを強要するような政治や教育=自民党右派の言動は、国家機関を使った許しがたい悪行としかいえません。安倍前首相の本―『美しい国へ』はその見本です。「自由の相互承認に基づくルール社会」という近代民主主義の前提を壊すことは、最も罪深い行為なのです。「日本は天皇を中心とした国であるーその悠久の歴史という大義に殉じたのが特攻隊員だ」「政府が、あるべき家族像を教育によって国民に示す必要がある」「負の歴史(日本の戦争犯罪)を教えるのは自虐史観だからよくない」という考えに基づく政治・教育を国家権力によって実現しようとするのは、近代市民社会―民主主義原理への挑戦としか言えません。

こういう原理違反の思想は、日本のエリート層には都合がよいためか、いまもなお、政界の大物や財界人などには支持されているようですが、この種のイデオロギーをきちんと退治しない限り、日本社会を市民主権の民主主義にすることはできません。現今のさまざまな社会問題―「病院がなくなるー医療の現場の混乱」「点数優先の受験教育で考える力が育たないー東大病」「国家公務員による不祥事の続出」「検察・警察による冤罪の数々―人権蹂躙」、「農業壊滅の政策―食料自給率最低」「生活道路がないー基幹整備の不足」・・・・これらの【出口なし】のような問題の大元は、民主主義―現場の人間が決定するという【自治】の否定=中央でコントロールするという発想・想念・思想にあります。

いま世界中の注目を集めているフィンランドの教育改革、それが大成功したのは、子どもを中心にし、決定権をすべて現場に委ねたところあるのですし(石原都知事とは真逆な方法)、日本でも成功している公立学校は、豊かな人生経験を持つ校長がリーダーシップを発揮し、文部省やその出先機関=教育委員会の意向ではなく、子ども自身の内的な発達を重んじる教育を実践したからです。道路を住民自身でつくる町の試みが大成功を治めているのも、「現場が決める」威力ですし、農業の自立に成功している地域では、消費者と一体となり各農家が直接経営をしています。

【現場が決定する】、これが市民自治=直接民主主義です。エネルギーもすでに太陽光発電を使えば(屋根にソーラーパネル)家庭用の大部分は賄えるわけですし、自動車も燃料電池になればスタンドも要りません。いま何より必要なのは、【発想の大転換】なのです。古い発想に縛られ、中央集権的な遅れた思想をもつ政府機関の要人よりも、一人ひとりのふつうの市民の方にはるかに大きな力があります。可能性としては「ふつうの市民」以上の存在はない、という人類が到達した深い知恵による思想・制度―それが民主主義ですが、それを現実のものとするのが、自問自答と自由対話を方法とする対話的精神の育成です。教育の眼目もそこに置かれなければなりません。これは原理です。


武田康弘

2008/03/03のBlog

どのような言説も「主観」であることー「客観」とは背理であることを明らかにしたのはフッサールの偉大な業績で、これが深く了解されれば、いかなる宗教的回心をも上回る人類の実存的回心が起こる、という彼の言葉は、21世紀の現代なお貴重な「予言」だとわたしは確信します。

日本の教育が、教育ではなく馴到・誘導・強制でしかないという事態が、おぞましい近代天皇制=天皇教による圧政が敗戦によって終わった後もなお残ってしまったのは、日本的な「型の文化」が「客観学」と融合させられてきたために「主観性の知」が育たず、単純な「事実学」の累積が勉強であり学問である、という非生産的で非人間的なエロースに乏しい知の支配が続いているからです。

人間や社会問題という部分ではなく、全体的判断・理性が求められる領域においても、どこかに正解がある・「よい」のひな形がある・あるべき型が決まっている、という想念に深く囚われているために、権威者の意向に従い集団同調する他なく、自分の頭で考えるという営みが始まりません。心身が丸ごと客観神話の中で眠りこまされているために、情報を集め整理し記憶するというレベルを超えて自分で考える=主観を鍛えるという作業が「恐ろしくて」出来ない=脅迫神経症に陥る他ないのです。これは「国民病」ですが、これでは自分の生の内側から悦び・充実が来ることはなく、いつも他者の目を気にしてビクビク生きる不幸から抜けられません。それに耐えられなくなって今度は自分の世界に閉じこもりオタクになる、なんとも酷い話でしかありませんが、これは哲学的には、「客観」とは背理であることが了解できない問題と重なります。

したがって日本の教育とは、本質的にはいつも「洗脳」でしかないわけで、教師は「客観的な正解」を言う人、人間ではなくマシーンに過ぎなくなります。頭の使い方―自分で考える方法を教えるのではなく、「ひな形」に誘導する役割を担うのです。教場に主語はありません。学校が主語になり、抽象的で非人格的な教師が主語になります。家庭でも事情は同じで、子どもたちは、世間や社会一般が主語となる言説に取り囲まれてしまうために、個人として、自分自身として生きる術と能力を奪われるのです。主語にはならないものが主語となる倒錯した世界に住めば、「私」は消えるわけですが、人間である限りほんとうに「私」を消すことはできませんから、その隠れた「私」は鍛えられることなく、幼児的なまま形だけが大人になり、「お上手」で内容の貧しい人間に育ってしまいます。全教科100点を取る優秀な「事実人」(人間ではなくただの人)が誕生しても、害あって益なしです。

こういう「型はめ」ではないエロース豊かな教育を生むための基本条件は、大人が「私は、」と語ること、主語=言説の責任主体を明瞭にして、はっきりと自分の感じ思うことを述べることです。

もう20年ほど前のことですが、
小学5年生からの教え子であった木村健君が大学生の時に次のような発言をしました。
わたしの主宰する「哲学研究会」でのひとこまですが、まだ通いはじめて日の浅かった佐野力さん(当時IMB営業部長・後に日本オラクルの初代社長)は、「タケセンは、いつも自分の意見を強く言うが、それでは他の人が圧迫されて、強制のようになるのではないか」と言ったところ、
木村君は、「ぼくは小学5年生の時にはじめて武田先生に出会って、声が大きくはっきり自分の考えを言うので最初ビックリしたが、それはすぐに慣れた。僕はその時、【僕を自由にしてくれる人に初めて出会った】と思った。僕の周りの大人はみな意見を言わなかったが、僕は彼らの暗黙の考えに縛られてそこから抜けられず、苦しかった。自分の考えを説明しながら、はっきり主張する武田先生は、「私は、」と言うことで、他の人やこどもたちにも「自由に考える」ことを可能にした。自分の考えを絶対だと思って人に押し付けるのは黙っている大人の方だ。「私の意見」をきちんと言わなければ、他人の意見を尊重することもできない。だからおじさん(佐野さんのこと)の言うのとは逆だ」と。
わたしは木村君の話を聞いてすっかり感心し、感激したことを今でも鮮明に覚えています。

日本社会の主観性を消去する詐術については以前書きましたが、ここからの脱却は、「私は、」と語ることによって可能になります。【自問自答と自由対話を方法とする対話精神】の育成こそが何よりも一番に求められるのです。それなくしては何事も成就しません。繰り返しますが、客観とは背理である限り、主観性を開発し深め鍛える【自問自答と自由対話を方法とする対話精神】に依拠する以外には、よき人間と社会を生む方法はないのです。誘導や型はめー洗脳ではなく、教育(問答的思考法)が必要です。

武田康弘

2008/03/01のBlog

【主権者は市民である】という「近代民主主義の原則」を貫き、それを具体的現実にもたらすためには、強く大きな意思と、持続する志と、権力者や権威者に寄り添う弱い精神からの脱却が必要でしょう。

【ふつうの生活者としての意識を深め鍛える】という方法以上のものはない、という最良の哲学実践が、いま大きくその歩を進めつつあります。
個々人の自由を相互に承認し合い、生活世界こそがあらゆる「知」の大元であることを深く自覚し、その上に魅力あるルール社会をつくろうというのが民主主義という思想です。

国体思想のような権威主義的国家主義をその発生源から断ち、一人ひとりの自由と可能性を広げることで、楽しく豊かな社会を築こうという試みは、深く大きな普遍性を持つはずです。

参議院のホームページに載った『立法と調査』―1月22日のディスカッション「公共哲学と公務員倫理」の紙上での再現をぜひご覧になって下さい(クリック)。話言葉そのままの活字化ですので、読みにくいところ、文字で見ると不要と思える繰り返し、舌足らずな個所、言い間違えもありますが、かなり面白い「激論」だと自負していますので。

武田康弘


2008/02/28のBlog

【法律】とは、元来弱い立場=権威や権力の保持者ではないほとんどすべての人を守るために、主権者の意思でつくられるものです。この原則は近代市民社会においては絶対であり、これに異議を挟むことはできません。

 ところが昨今は、力を持った者や組織が、憲法と法律を無視して勝手にふるまうという【超法規の蛮行】がまかり通っています。自衛隊が犯した過ちの責任者を、警察(海の場合は海上保安庁)が取り調べる前に基地に連れて帰ってしまうということが許され(もちろん許されるはずはありませんが)、また、以前ブログに書いたように鹿児島県警と検察の反法と明らかな違憲があり、しかもそれに対しては、処分らしい処分すら行われないというのは、自由と民主主義の政治体制そのものの危機です。

 個々人は政治や官の権力者のために存在する!?ついでに言えば、「学」もまた、学者の権威に従うのが民であると言わんばかりの逆立ちがまかり通るようでは、人類に未来はありませんね。群畜としての民!?!?一人ひとりのふつうの人間―市民こそが一切の価値の源泉である、というあまりに当然の前提が崩れれば、この社会の全ての機構・組織の正当性は大元から崩壊します。公共性は成立しません。

本質的に思考し、土台に戻り、民主制社会に生きる人間としてまっとうに考え・行為し・生きなければなりません。

武田康弘



2008/02/27のBlog


最初にロス疑惑の三浦氏逮捕というニュースを聞いて、なんとも不思議な気持ちがしました。日本人である三浦氏は日本の最高裁判所で無罪が確定したにも関わらず、アメリカの検察・警察が逮捕できる!?といのは、どういう法的根拠によるのか?わたしには理解できませんので、どなたか教えて頂けませんか?
わたしが小学生の時に暗記した日本国憲法の39条には、 「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。 」と書かれていますが、
どうして、今回の逮捕が可能なのか?
アメリカは軍事力が世界一だから、アメリカの法は日本の憲法を超越し、無罪が確定した日本人でも逮捕し、刑を課することができるのか?(笑)
もし、この点で明瞭な法的根拠がないのならば、これは、アメリカ国家による日本国家の主権の侵害になるはずで、大問題だと思いますが、どうしてその点についてマスコミは報じないのでしょうか?それともわたしの疑問は愚問なのでしょうか?
どなたかご教示願えませんでしょうか?

武田康弘


[ 16:50 ] [ 私の信条 ]

今日は、おやすみなので、机の片付けをしていたら、ノートに挟んであった紙きれが落ちた。
ずいぶん昔に書いたもののようだが、せっかくなので、ブログに載せることにした。

僕の人生

僕は、死の瞬間まで、情熱的に生きる人間でありたい。
精神と肉体の輝きをもって、エロースの生を紡ぎ出す。
僕は、その同伴者を増やしていけたらいいな、と思っている。
しかし、現代の管理社会の中で、みなは重たい日常に縛られ、はつらつとした命、心身の輝きが失せ、多くの人は、惰性態に陥っている。
自分で自分の首を絞め、悦びから遠ざかる。
いろいろ言い訳をしながら。
僕が子どもたちが好きで、子どもたちを愛するのは、彼ら・彼女らの多くがまだ惰性態になっていないからだ。
大人ではそういう人はほとんどいない。
僕は僕の発する光を受け止め、生かし、高めてくれる同伴者を求めている。僕の光が同伴者にもよき世界をもたらせたら素敵だ、と思う。
これは奇跡のような出来事―夢だ。
でも、僕はその夢を生きてみたいのだ。

武田康弘


2008/02/25のBlog

主権者であるわれわれ市民が雇っている自衛隊という名の軍隊が市民=民間人の上に立ち、大手をふるっていいいはずはありません。
昨日の新聞には自衛艦は「治外法権」で、法律(船舶法など)の適用を受けない!?という恐るべき記事が載っていますが、これが本当なら日本という国は、戦前・戦中のままということになります(いつも有事!?-狂気の沙汰です)。
そういえば、海上自衛隊の正式な行進曲は、いまだに「軍艦マーチ」(正式名は「軍艦行進曲」)なのだそうです。その歌詞は、

歌詞

守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の
皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇なす国を攻めよかし

石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾撃つ響きは雷(いかづち)の
声かとばかり響(どよ)むなり
万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光輝かせ

驚くなかれ、【皇国】(天皇の国)を守る!!!というのです。

明治天皇賛歌として明治天皇に捧げられた「君が代」を現代日本の【国歌】にしてしまうという感覚は、江戸っ子(なぜ、京都が本家の天皇家を敗戦後も江戸城に住まわせておくのか?不思議だな~と思うのが東京人です)のわたしには全く理解不能ですが、
それと同じく、海上自衛隊の正式の行進曲の歌詞が「皇国を守る」ですから、これはもう、やはり日本は「天皇を中心とした神の国」!?(森元首相)なのかな~(笑)と思ってしまいます。仰天するほかありません。

ついでに言えば、せっかく国の花である「さくら」という日本的な名曲があるのに、この国花をうたった曲を国歌にせず、わざわざ国論を二分する歌―歌詞の内容もまったく意味不明の「君が代」を国歌にして教育現場で強要する、こういう想念や感覚を変えなければ、わが国が明るく楽しい国になることはないでしょうね。

そこのけそこのけ自衛隊と米軍が通る、では嫌になります。「戦争の脅威」なる神話をねつ造して市民生活を圧迫する自由はないはずです。何のための自衛隊なのか?誰に雇われている自衛隊なのか?深い自覚が必要です。

武田康弘



2008/02/23のBlog

君の存在は、○○君の存在より優れている。
あなたの存在は、○○さんの存在より劣っている。
そんなことを言える人は、この世の誰ひとりとしていません。

100メートル走の優劣や、計算能力の優劣は言えても、その人の存在価値の優劣は誰にも分からない、と言うより、元来決めることが不可能な領域の話です。

天皇家に生まれた人間は、あなたより価値が上だ、ということももちろんありません。どこの生まれ、などで存在を規定するのは、最も下劣な想念です。

土台、ある特定の人間が他の人間すべてを「象徴」するなどということが出来るはずがないのは、誰にでも分かることで、子どもたちはみな、そんな話がデタラメだ、ということを知っています。特定の思想教育を受けていないふつうの子どもは、赤ちゃんの時から「○○さま」と敬語で呼ばれる特別な存在がいることを訝(いぶか)しく思います。

話が脱線しましたので、戻しますが、
人間の存在、いま、わたしがここに生きてあること、それ以上の価値はないのです。わたしの存在、あなたの存在、存在していることの驚異・輝きは一切の基盤であり、価値論として考えても、一人ひとりが「生きてある」こと以上の価値はどこにもありません。至上の価値とは、一人ひとりの存在にあるのであり、したがって、わたしの心の想いや良心は、何よりも貴重な宇宙なのです。

人間が類的存在であること・関係性の存在であることの深い意味と価値は、個々人の何よりも貴重な存在の輝きに照らされてはじめて現実に価値あるものとなるのであり、その実存の価値を少しでも減じるようなシニカルなものの見方は、必ず人間的なよきものを潰します。自分の命や存在を軽視する思想は、実り豊かな関係性をつくらず、あだ花を咲かせるに過ぎません。

己の存在の価値を深く自覚するに比例して、公共性=関係性は豊かな内容を持つよきものとして広がるのであり、形式的・儀式的思考や、要請や命令の言説は、形だけ・うわべだけのエロースのない「関係・間・あわい」しか生まないのです。これは原理です。


武田康弘

2008/02/19のBlog

「公共的良識人」紙の2007年12月号、及び、2008年1月22日の参議院でのパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」における私(武田康弘)と金泰昌氏との論争の核心点である【公と公共の区分け】の問題について、再度簡明に記します。



官庁が、民間の組織とは異なるものであることは当然です。
①官庁の組織があり、②民間会社があり、③NPOなどの市民団体があり、④趣味の集まりがある。それぞれは大きく異なっています。

では、官庁は、みなに共通する利益(市民的な公共性)とは異なる独自の「公」(おおやけ)という世界をつくっていいのか?となれば、当然、市民主権の民主主義社会では許されないことです。近代市民社会では、官とは、主権者の共通の利益を実現するものとして主権者のお金=税金でつくられたのであり、主権者の利益とは異なる独自の世界(官が考える国家!?)を持つことはできないからです。
これは、原理・原則に属する話であり、ほんらい意見の違いが出るような場面ではないはずです。公私二元論だの、三元論だのというようなことではなく、基本的な近代社会の常識に属する話でしょう。

④の「私の趣味の集まり」が、社会人みなの共通利益とは無関係に独自の世界を持つことには何の問題もありませんが、官庁が「市民的公共」とは異なる独自の「国家のため」という世界をもつことは許されないはずです。【「公共」(市民)と「公」(官)を自立・分立させることが必要だ】という金泰昌氏(「公共哲学」運動推進の第一人者)の主張を受け入れることは、近代市民社会の原理からの逸脱であり、到底できません。

どうも、ここでは、金泰昌氏が理論の次元・位相の混同を起こしているために、極めて錯綜した話に陥るのだと思います。公や公共という言葉の意味は、実体=具体的な組織を指すのではなく、性質やありようを示すものですが、それを実体化させた官や民や私に対応させるために、異なる位相の話が一緒になり、話が混乱してしまうのです。

官であれ民であれ、異なる組織や団体や個人がそれぞれの特性を生かし・協力しながら、【公共世界】をより豊かに開くことが必要なのであり、官は「公」をめがけ、市民は「公共」をめがける、というのでは訳が分かりません。【官という組織は、市民の利益=公共を実現するために、市民の意思とお金でつくられたもの】、という原則を曖昧にしては、わたしたちの「近代市民社会」(民主主義国家)は成立しようがありません。もう一度、「天皇制国家」(天皇に仕える官吏としての公務員)に戻すのでない限りは。

武田康弘
2008/02/18のBlog

わたしは、下のブログに書きましたように、鳩山法務大臣(この人は文部大臣も務めた)の発言を生む想念は、自由・民主主義とは根本的に異なるもので、その言動は、お気軽な【お坊ちゃんの政治遊び】としか思えません。市民が主権者であり、政治家とは「代行者」でしかないはずの民主主義の思想・制度とは相いれない人物、と評する他ないようです。

検察と警察に対する厳重・厳格な処分】をしなければ、主権在民の民主主義は崩壊します。これは絶対的な要件です。

以下に、毎日新聞の記事を貼り付けます。

武田康弘


<鳩山法相発言>志布志事件の元被告ら反発 「謝罪も形式」
(毎日新聞 - 02月18日 )

 12人全員の無罪が確定した鹿児島県議選の選挙違反事件(志布志事件)を巡り、鳩山邦夫法相(衆院福岡6区)が「冤罪(えんざい)と呼ぶべきではない」と発言した問題で、元被告や支援者らから批判と反発が強まっている。鳩山法相は「おわび」の言葉を繰り返す一方で、 「法務省や検察が常日ごろ言っていることをそのまま言った」とも発言。大臣の資質を問う声も上がる。12人のうち最高齢の永山トメ子さん(78)は理不尽な事件を振り返りながら、法相発言への憤りを語った。

 「巻き込まれた一人一人の気持ちに立っておらず、謝罪も形式的なものにしか感じられない」。無罪判決(07年2月23日)から間もなく1年。少しずつ心の傷が癒やされつつあった中での鳩山法相発言に、永山さんは憤りを隠せない。

 夫東(あずま)さん(84)の手元にたくさんのノートがある。妻の無実を信じて事件の記事をスクラップし続けたものだ。永山さんの拘置中、病床にいた東さんはそこに自作の詩を記した。「何糞(なにくそ)頑張れ 吾(わ)が家族 何時か微笑む 春は訪る」--。最近ようやく、ノートを見ながら夫婦で笑い合えるようになった。

 半年に及んだ拘置生活。否認を貫いたため、朝から晩まで刑事に怒鳴られ続けた。一番の気がかりは、足が不自由で「自分では何もできない」夫のことだった。

 03年4月20日正午過ぎ、志布志署に任意出頭を求められた。理由は聞かされなかった。「すぐに済むだろう」と食事もせずに応じたが、取り調べ中は水さえ口にできず「お前はうそをついている」と責め立てられた。帰宅が許されたのは午後10時。翌日、自宅トイレで倒れ、救急車で病院へ。その後も再三、出頭を求められたが、簡易郵便局長の仕事や夫の介護を理由に拒み続けた。

 同年5月13日朝、職場に刑事が来た。示されたのは、同4月の県議選で当選した中山信一氏派から現金を受け取った容疑の逮捕状。身に覚えがなく「でたらめ、でたらめ」と叫んだが一方的に逮捕され、介護者を失った東さんは入院せざるをえなかった。

 接見禁止が続き、手紙を書くことも許されない日々。「50年近い結婚生活で、これほど長い間離れたことはなく本当に不安だった」。だが弁護士を通じて夫の詩を聞き、頑張ろうと決意したという。

 「無罪判決を受けたことで精神的に楽になった」と永山さん。全国各地から、励ましや応援の手紙が今も届く。鳩山法相の「あまりにも軽すぎる」発言。「苦しみは、体で味わった人にしか分からない」と永山さんはつぶやいた。
2008/02/14のBlog

わたしは、自由でやわらかな子どもたち、何の特権的な力も持たないふつうの人たちこそがほんものの人間だ、という不動・絶対の確信をもって、小学生以来、ずっと生きてきました。小学5年~6年生のとき先生に頼んでつくってもらった「政治クラブ」で学んだ日本国憲法の人権思想は、まさに人類普遍の原理であり、これに反する思想を持つことは許されない、と深く・強く確信したのです。
「職業に貴賎はない」という考えを持ち・実践する人間ではない人、いわゆる「「エリート」という意識を持つ人は、もっとも恥ずべき人間で、そういう人は犯罪者よりもはるかに悪い=【反・倫理的人間】だ、と強く思い続けてきました。
だから、まだ自分の家の宗教(浄土真宗)については何の興味もなかった高校生の頃に、神田の書店で偶然立ち読みした『歎異抄』に身が震えるような感動を覚えたのです。

学歴や履歴が「立派」で、哲学的=人間的=本質的に劣っている人は、必ず「エリート風」を吹かせるものです。

鳩山法務大臣の発言―【鹿児島県の選挙違反事件】(手柄をあげるために警察官がでっち上げた事件で、これに検察も同調し、違法な脅しによる取り調べで村人を逮捕・起訴・抑留したおぞましい事件。わたし(武田)は、自国民を拉致するような【警察と検察=公(おおやけ)】による犯罪で、北朝鮮を非難する資格はない、とブログに書きました)での無罪判決を「冤罪(えんざい)と呼ぶべきではない」と述べたとのことですが、愚かな発言と言うほかありません。

ただ、「被告にされた方々に大変なご迷惑をおかけした痛切な気持ちはもっている」と補足したと新聞には書かれていますが、無実の罪で(明白なアリバイがあったにも関わらず)1年間も刑務所に入れられていた人に対して、「ご迷惑をかけた」で済むと思うのは、まさに特権階級者の意識=民主主義国家では許されないおぞましき意識という他ありません。証拠もないのに起訴した【鹿児島県の検察と警察】に対して処分らしい処分は何も行わないという法務大臣は、法務大臣としての最低限の資格すらない、と言えます。法律とは、市民を守るために存在する(それが法律の本質)という基本さえ知らず、【市民的公共】とは別に【「公」という名の国家権力】が存在するかのような妄想にとりつかれている人には、市民の代行者としての政治家の資格はありません。現代の日本は、「天皇の下での臣民」の時代ではないのです。

どうも政治家にしても検察官にしても、自分が「主権者のサービスマン」であることを忘れて、人の上にたつ「エリート」とでも思っているふしがあります。
対等な個人という近代民主主義の大原則さえわきまえない人物は、一刻も早く辞めてもらわなければなりません。

武田康弘

追伸・
ニュースを見ていたら、鳩山法務大臣が的外れな物言いで「おわび」をしていましたが、誰が考えてもそれで済むはずはありません。検察と警察への【厳しい処分】が行われなければ、【法治国家】とは言えません。無実の人間に罪を被せ、長いこと監獄へ閉じ込めた罪は極めて重いものであり(その人の立場になって考えてみなさい!)、そのことへの言及がない不見識な人に「法の番人」が務まるはずがありません。検察や警察という官僚組織への厳しい目がないならば、一般国民の利益をはかる代行者としての政治家ー法務大臣の役割は果たせないのです。また、町村官房長官の人ごとのようないい加減な発言も極めて不愉快です。



2008/02/13のBlog

改憲論者であった小林節慶応義塾大教授は、自民党の憲法改正案が出た後では、護憲派になりましたが、それは、近代市民社会の原理(民主主義原理)を踏まえれば、あまりに当然の帰結です。
為政者を主権者である市民の意思で縛るのが「近代憲法」の立憲主義ですが、主権者である天皇が臣民に与えた「欽定憲法」も、名前が「憲法」だから同じ、というのでは、あまりにお粗末です。
その根本的な違いもわきまえずに新憲法をつくろう、というのだから、小林教授に限らず、主権在民の民主主義思想を理解する人ならば、誰であれ呆れ返ることでしょう。自民党の憲法改正案は、主権者である国民の方を管理するような発想で憲法をつくろうとするもので、これでは「近代憲法」にはなりません。
近代市民社会(自由の相互承認に基づくルール社会)の【良識】とは異なる考えを現代に持ち込むことは、明らかに間違いです。
いまもテレビを見ていたら、宮内庁長官が、天皇に皇太子が会いに行く回数が少ない、と苦言を呈していましたが、家族問題まで政府の役人が口を挟み、管理しようとするー論評するのも厭になるほど愚かな話です。
これは、個々人からエロースを奪う人間管理主義の【象徴】のような話ですが、この問題については、以前わたしは、『皇族の人権と市民精神の涵養』という文を書きましたので、よろしければご覧ください。

武田康弘

2008/02/11のBlog

去る1月22日に行われた参議院調査室主催のパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」は、大変白熱した議論となりました。
この催しの形式も内容も全てが【前代未聞】であったようですが、今後は、こういう丁々発止の本音トークが「あたりまえ」になれば、日本の社会も大きく開けるはず、そう私は確信します。

「真理の保持者はいない」、それが民主制の社会です。この社会・国家をつくっているのは、われわれ一人ひとりの市民であり、代行者(政治家)やサービスマン(行政職員)はいても、特権者はいないー認めないのが近代民主制の政治と社会の原理です。それを現実のものにするためには多くの努力ー意識と制度の改革が必要ですが、その営みには大きなよろこびがあると思います。

人間の生き方や社会のありように関しての専門家は存在せず、生活者の日々の具体的経験についた「よい・美しい・ほんとう」への試行錯誤があるだけだ、という原理を踏まえ、【自問自答と自由対話】によって物事を進める、それを私たちの社会の大原則としなければなりません。

1月22日の模様は、白樺教育館のホームページで見ることができます(クリック)。
また、無修正の音声ファイルも公開されています(クリック)ので、興味がおありの方は、ぜひ見て(聞いて)みてください。

また、このディスカッションの激論をそのまま活字化した『立法と調査』も発刊されるとのことです。国会職員と衆参の国会議員に配布されるそうですが、発刊後に参議院のホームページで公開されるとのことです。


武田康弘



2008/02/08のBlog

マイケル・テルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団によるベルリオーズの『幻想交響曲』は、現代的でシャープ、同時に緻密で細やかな演奏ですが、聴く込むほどに味わいが増し、繰り返し聴きたくなる名演です。

音色の美しさや華麗さはありませんが、明晰でリズム感がよく、しっかりとした構成力が抒情性の表出を支えています。ロマン主義の権化とも目される曲ですが、全体に古典的とも言える落ち着きがあります。

パッと面白く聴かせる演奏ではないのですが、終楽章の迫力は怖くなるほどで、サンフランシスコ響の巧さにも舌を巻きます。余白には、声楽付きの「レリオー生への帰還」の抜粋が入っていますが、これが選曲もよくとても聴きごたえがあります。

録音も分解能とバランスがよく、ダイナミックレンジが大変広く、強奏時に大音量にしてもまったく歪まず、極めて優秀です。

ぜひ、みなさんお聴きになってみて下さい。

以上は、わたしが管理人を務めるmixiのコミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックとして書いたものです。


武田康弘
2008/02/03のBlog

敗戦後すぐの東大総長であった南原繁は個人と共同体との調和をめがけた「理想主義的現実主義者」であったわけですが、
キリスト者であった南原の「真の神が発見されない限り、人間や民族ないし国家の神格化は跡を絶たないだろう」という言を貴重な真実として語る宗教学者の稲垣久和さんの「公共哲学メール」に、わたしは批判的なメールを出しました。
しかし稲垣さんの返信がないうちにわたしの友人の山脇直司(東京大学教授)さんが介入ましたので、山脇さんとの10回以上にわたる長いやりとりに変わってしまいましたが、それが一段落した時点で、稲垣さんからMLのみなに宛てたメールがありました。
稲垣メールは、山脇さんへの最後のメールでわたしが確認した「近代市民社会の常識」を批判する趣旨のものでしたので、それに応える必要を感じ、メールを出しました。

これは、とても深い哲学上の論争だと思います。
「公共的霊性」「公共的宗教」の必要性を強く訴える稲垣さんの思想は、
宗教や霊性を個人の自由の範囲で十分に認めつつ、しかしそれは現実政治の世界とは次元を異にするものという原則を徹底させる必要がある、というわたしの考えとは大きく異なります。
わたしは、「近代民主制」の思想の本質をしっかり見据え、それを深め広げることが何よりも重要な現代社会の課題であると考えていますので、以下に稲垣さんに宛てたメールをコピーします。



稲垣さん 、みなさん、

「宗教心を克服して人間の理性・感性から近代の人権や自由等の問題を考えてきたのがこれまでの常識的な近代化論でしょう。しかし、そんな常識論が、うまくいっていないことがありありと出てきているのが現代世界であり、」(稲垣)

わたしは、【近代の社会原理】(稲垣さんの言う常識的な近代社会論)が、①政治世界において哲学・思想的意味として理解→了解されていないこと、②政治家を含むふつうの多くの人の意識として、まだ極めて不十分な認識しか持たれていないこと、③それは民主主義をほんとうに実現するための「考える(覚えるではなく)教育」と自由対話の実践が学校と家庭教育の双方でほとんど行われていない!!ことが問題の核心だと思っています。

要するに、近代の原理が極めて不徹底・不十分(意識としても制度としても教育としても)であるところに現代社会の問題の根を見ているわけですので、稲垣思想と武田思想は大きく異なります。「公共宗教」がないことが原因だ、という考えは持ちません。

そこで、ひとつ整理しておかねばならぬ問題について書きます。

わたしの師であった竹内芳郎氏(哲学者でサルトルの『弁証法的理性批判』ポンティの『知覚の現象学』その他の翻訳者かつ解説者、また、独自の「宗教論」「文化論」「言語論」を生み、現代思想の批判的紹介者でもあった)は、普遍宗教、中でもキリスト教のもつ「超越性原理」を高く評価し、個人の自立の思想だけではエゴイズムに陥る危険性があり、また世俗の価値を相対化するためには、超越性の原理はなくてはならぬものと考えていました。

しかし、わたしは、ふつうの多くの人(幼い子どもから成人者・高齢者まで)との数知れぬ(日常的な)会話・対話・議論・交際を通して、氏の超越性原理の思想は、現代の日本社会ではほとんどリアリティを持たないと確信しました。世俗の雑駁な日々の生の中から「よいや美しいや真実」の世界(理念やロマン)を見出すこと、そこから飛躍せずに自・他・世界の課題とその解決策を見出すこと、要するに内在的に思考し「超越項」をつくらずに自他のふつうの人の生の実情に沿って深い納得が得られるように考えること。理論の体系や累積的な知識ではなく、恋知(深い納得)する営みが何より大きな価値があると思うに至ったのです。(「生活」は「学」よりも価値的に上位であり、これは原理中の原理です。)

そこで、整理しますと、①なんらかの超越的な原理をもって思考し生きること(宗教者の生)と、
そうではなく、②「至高のもの」を内在化させて(日常生活のふつうの体験につき)生きること、従って、至高のよきもの・美しきものは、具体的な経験(恋や音楽や民芸や美術や自然・よきもの美しきものとの出会い)から得ること(世俗者の生)、
この両者をともに認め合うことが必要だと思います。
自分の信念が他に優越するという考えを心の深部に隠し持てば、生きた意味ある対話はけっして成立しませんし、民主的な分け隔てのないしなやかで柔らかな人間性ー上下意識を廃した自由で気持のよいざっくばらんさ・明るさは生まれようがありません。

市民の自立ー個人の自由を阻む国家主義のイデオロギーと教育は共通の敵だと思います。国民国家としての近代国家を、市民(シチズン)国家としての近代国家へと変えていくことが必要であり、それは十分可能であるし、そうすることが日本という国をよくすること・強くすることであり、またそれはそのまま世界平和ー友好につながるはずだと思っています。
わたしは広義の「愛国者」です。ゆえに、従来の日本文化(政治等も含む広義の文化)をエロース豊かなものに変革しようとしているわけです。

武田康弘


2008/01/31のBlog

矜持(きょうじ)・プライドとは、自分の存在の肯定・誇りであり、一人ひとりの比較することのできない、存在の独自の輝きを生む意識です。内側から湧き上がるものであり、特定能力の比較によって生じる上下意識ではありません。

個々人が異なる色・形・力を持ち、それぞれのユニークさを肯定し合うことで成立する社会を民主制と呼ぶわけですので、特定の能力を基準にしてその優劣で人間を評価する思想から生じる「エリート」という意識は、民主主義とは背反します。

具体的な個々の能力に優劣があるのは当然で、その優秀者が評価