Blog
2008/05/11のBlog
[ 16:57 ]
[ 趣味 ]
オットー・クレンペラー(1885-1973)は、音・音楽の存在そのもの魅力を開示し得た人だ。
わたしが知る限りその点で彼に比べられる指揮者は一人もいない。
たとえば、グルッグの「アウリスのイフィゲニア」序曲を聴く。
存在の美、
キレイさとはまったく異なる存在自体の美しさと深さに満ちている。
それと同時に、
存在することの形容できない悲しみを感じる。
音楽と人間の存在そのものが、深く開き示されていると感じ、涙が出るのだ。
意識は浄化されて、存在の海に沈潜する。
そこから、新たな深い「力」が湧きあがってくる。
存在それ自体が更新され、浄化し、輝き、熱を帯びるのだ。
クレンペラーの指揮する音楽を聴くというのは、わたしにとって特別の体験である。 (クリック)
自分用に5枚のCDから5曲の序曲を入れたCDをつくりました。原盤は、すべてEMIで、オーケストラは、フィルハーモニー管弦楽団です。
1.ベートーヴェン レオノーレ序曲 第3番 (1806)
14分32秒 録音1964年
2.グルック 「アウリスのイフィゲニア」序曲(1774)
11分30秒 録音1960年
3.ウェーバー 「オベロン」序曲 (1826)
9分33秒 録音1960年
4.ブラームス 大学祝典序曲 (1881)
10分02秒 録音1957年
5.ワーグナー 「さまよえるオランダ人」序曲(1841)
10分44秒 録音1960年
2008/05/06のBlog
[ 15:18 ]
[ 社会思想 ]
『靖国神社』の宗教思想を認めない人、厳しく批判する人、嫌悪感を持つ人・・も『靖国神社』に祀られる!?
このようなことは、どのような思想・信条・宗教にある者も決して容認することはできないはずです。
本人や遺族の了解なしに、勝手に祀る!?!?などということが許されるなら、日本は、近代民主主義国家ではなくなります。遺族の「勝手に祀られては困る、名前を消して欲しい」という願いを無視し、「勝手に祀っているのではなく、明治天皇の思し召しで国家が決めたことですから、お名前を消すことはできません」と堂々と主張し、それを実行している「神社」(宗教法人)を、国の機関が認め、政治家や官僚が公式に参拝する。これは、どんな論理を用いても本来できるはずはありません。ストレートな憲法違反で、論を待ちません。
このような宗教思想を実行している神社を政府が認めるには、靖国を「信教の自由」を超越する【超宗教】(明治政府によってつくられた「国家神道」)とするよう憲法を改正するしかありませんが、そうなれば、日本は【近代市民国家】ではなく、時代錯誤の【宗教国家】(天皇を中心とする神の国)となります。
もちろん、現代ではそれは誰も認められない訳ですから、答えは一つ。全戦没者を慰霊する公立の施設をつくることです。
武田康弘
2008/05/03のBlog
[ 10:27 ]
[ 社会思想 ]
今朝の東京新聞社説は、【「なぜ?」を大切に】という哲学そのもののような題名ですが、
内容は、憲法違反の判決にも、「そんなのかんけいねえ」と無視を決め込む【違憲政府】-したがって支持率19パーセントは当然!の政治を「憲法記念日」の今日にふさわしく憲法の立場=民主主義の立場から厳しく批判したものです。
「長い間に「主権在民」が無視され、「主権在官僚」のようなシステムを組み上げてしまったのです。
憲法は、政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦です。
憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第99条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第12条)、いわば砦を守る責任があります。」(社説)
わたしは、小学生のときに「憲法」を勉強して以来、第12条【この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う】にあるように、不断の努力を続けて44年が経ちました。
【国民としての不断の努力】をこれからも続けて行こうと思っていますが、わたしのような何の地位もない一国民が「日本国憲法」の精神を守り活かそうと努力を続ける中で、公権力をもつ官僚は、自分(たち)の身の【保全】のために働き、自民党に多い復古主義の政治家は、日本主義(靖国思想)による【改憲】を叫びます。真の「愛国者」(=ふつうの市民が主役になる日本をつくる)として生きてきたわたしは、現今の官府のありように天を衝くような怒りと憤り=公憤を覚えます。
以下は、ふつうの市民の良識につく「東京新聞」の社説です。
憲法記念日に考える 『なぜ?』を大切に2008年5月3日
日本国憲法の規範としての力が弱まっています。現実を前に思考停止に陥ることなく、六十年前、廃虚の中で先人が掲げた高い志を再確認しましょう。
昨年七月、北九州市で独り暮らしの男性が孤独死しているのが発見されました。部屋にあった日記に生活の苦しさがつづられ、最後のページには「おにぎりが食べたい」と書いてありました。
男性はタクシー運転手をしていましたが肝臓の病気で働けなくなり、四月まで生活保護を受けていました。病気が少しよくなり、福祉事務所の強い指導で保護を辞退したものの働けず、にぎり飯を買うカネさえなかったようです。
忘れられた公平、平等
全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶ちません。憲法第二五条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことでしょう。
国が抱える膨大な借金、将来の社会を支える若者の減少など、日本は難局に直面しています。しかし、最大の要因は弱者に対する視線の変化でしょう。
行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させました。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、第二五条は規範としての意味が薄れました。
リストラでよみがえった会社の陰には職を失った労働者がたくさんいます。「現代の奴隷労働」とさえ言われる悪条件で働くことを余儀なくされた非正規雇用の労働者が、企業に大きな利益をもたらしています。
年収二百万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は一千万人を超えると言われます。
黙殺された違憲判決
安い賃金、不安定な雇用で住居費が払えず、インターネットカフェや漫画喫茶に寝泊まりしている人が、昨年夏の厚生労働省調査で五千四百人もいました。これは推計で実際はもっと多そうです。
憲法には第二五条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第二七条)という規定もあります。
「なのになぜ?」-ここにもそう問いたい現実があります。
「戦力は持たない」(第九条第二項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没しました。乗組員二人はいまだに行方が分かりません。「戦争はしない」(同条第一項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸しています。
市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月十七日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言しました。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示しました。
しかし、政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の一人は人気お笑い芸人のセリフをまね「そんなのかんけえねえ」と言ってのけました。「判決は自衛隊の活動に影響を及ぼさない」と言いたかったのでしょうが、「憲法なんて関係ねえ」と聞こえました。
イラク派遣反対のビラを自衛隊官舎に配った東京都立川市の市民は住居侵入容疑で逮捕され、七十五日間も拘置されたすえに有罪とされました。団地の新聞受けにビラを静かに入れて回っただけなのに「他人の住居を侵し、私生活の平穏を害した」というのです。
ビラ配布は、組織、資力がなくても自分の見解を広く伝えることができる簡便な手段です。読みたくなければ捨てればいいだけでしょう。それが犯罪になるのなら憲法第二一条が保障する「表現の自由」は絵に描いたモチです。
これでは、民主主義にとって欠かせない自由な意見表明や討論が十分できません。
国民から集めた税金で職場にマッサージチェアを設置したり豪華旅行をするなど、「全体の奉仕者」(第一五条第二項)である公務員による私益優先のあれこれが次々明るみに出ました。
長い間に「主権在民」(前文)が無視されて、主権在官僚のようなシステムを組み上げられてしまったのです。
憲法は政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦(とりで)です。
国民に砦を守る責任
憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第九九条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第一二条)、いわば砦を守る責任があります。
その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたいものです。
2008/05/02のBlog
[ 20:08 ]
[ 社会思想 ]
以下は、今日の「白樺ML」からその一部です。
高城です。
早苗が柏市議選に立候補するとき
市民の代表者という言葉は何かが違うと思い、どうしても使いたくありませんでした。
ですから立候補を勧めた人たちと相談して
「あなたの声、届けます→柏市へ。」というキャッチコピーを作りました。
当選後、タケセンに”市民の代行者”という話を聞き、
自分たちの想定していたものは「これだ!」と感じ、有難く使わせていただいています。
”市民の代行者”という言葉は、タケセンのオリジナルかもしれませんが、
その理念は普遍性を持ち、私たちも深く納得しているので
タケセンは著作権料も請求せずに(笑)使用させてくれているのだと思いますが…。
高城さん、みなさん、
【代行者】という30年以上前から使っているわたしの術語の出所は、
竹内芳郎氏の『国家と民主主義』(現代評論社・1975年刊)にあります。
以下に抜粋しますので、参考にして下さい。
この本は、「哲学研究会」の初期(1987年)にも一部を取り上げてやりました。
32~33ページ
「・・・もっと事の本質を考えてみても、ルソーの見解の方が理のあることがわかる。実際、かんがえてもみよう。たとえば私が友人に手紙を出す場合、私はその手紙を友人に届けることは郵便配達人に委ねることができるし、それどころか病気の場合、代筆を依頼することもできる。だが、手紙を出すか否か、どんな内容と文体の手紙を出すかは、私以外に決定者はなく、もしそれさえも他人に委ねるならば、もはや、私が友人に手紙を出したことにはなるまい。つまり、行為は他人に代行してもらうことはできても、意思決定は他人に代行してもらうわけにはゆかぬということは、自由な行為というものの本質必然性なのである。
このことを政治の領野に転位すれば、<行政>は他人に代行させることはできても、<立法>は他人に代行させるわけにはゆかぬ、ということになる。ところが代議制は、まさにこの不可能事をあたかも可能のごとく欺瞞するところに成立しているのである。のみならず、意思決定まで他人に委ねるとなると、本人がその行為の総体にすっかり興味を失うのは当然のなりゆきであって、その意味で、代議制と大衆の政治的無関心とは、本質的な関係があり、実はたがいに悪循環をしているわけである。
だからルソーは言うー「イギリスでは人民は自由だと思っているが、これは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員選挙の期間だけであって、議員が選ばれるや否や、彼らはドレイになり、何ものでもなくなってしまう。」と。
それでは、ルソーは議会制に代って、何を主張していたのであろうか。それが<人民集会>における直接民主主義である。・・・主権を行使する人民は政党を通じてではなく、集会で自分だけの裸の意見を表明せねばならぬ。・・・徒党によってコミュニケーションが妨げられず、みんなが平等に十分な情報をあたえられたうえで審議が行われたるとき、人の意見というものはそう大きくは違わないものだ。また、無記名投票のようなものではなくて人民集会で意見を表明すべきだというのも、前者で表明されるものが集列化され惰性化された意見であるのに反して、後者で表明される意見は、まさに能動態としての人民の意志であり、かつ討論によって理性的に正邪の黒白をつけた上で決定されてゆく意見だからであろう。・・・」
という竹内芳郎氏の記述から、議員を、主権者の意思を代行する者=【代行者】と呼ぶことにしたわけです。【民主主義とは直接民主主義のことである、という理念を、理念次元に置かない限り、議会制民主主義も成立しない】というのが武田の考えです。
武田康弘
2008/04/30のBlog
[ 11:47 ]
[ 社会思想 ]
【立憲主義で権力監視を】 という題で、『司法試験塾』を開いている伊藤真さんのインタビュー記事が昨日の東京新聞朝刊(29日4面)に載っています。
「見出し」にある通り、「当然」のことをきちんと堂々と言い、実践している人で、感心しました。
「日本国憲法の中で一番の価値は、個人の尊重、個人の尊厳です。一人ひとりの人間が個として尊重されること、お互いの違いを認め合って共生できる社会を築いていくことを憲法は目指している。」
「日本国憲法の優れている点は、個人の尊重と平和主義です。フランス革命やアメリカ独立宣言など数百年にわたって引きついできた人類の英知が日本国憲法の個人の尊重に基づく立憲民主主義という考え方です。一人ひとりの国民が主体となって。政府を監視していくということです。国民は憲法を守る側ではなく、政府に守らせる側ということです。」
「平和主義、非暴力主義は、どんな名目の戦争も一切しない、何より、平和を人権としてとらえている。世界の英知を引き継ぐと同時に、日本の素晴らしい英知の結晶です。」 「本来、あるべき日本や世界はどういうものか?理想と現実が違うからこそ、大いに理想を語るべきです。」
「生活する市民が自分のこととして憲法を考えることです。きっかけは山ほどあります。問題のなっていることを憲法の視点から見るとどうなんだろう、と考えることが大切です。国会の中ではなく、市民の間で憲法を議論できたらいいと思います。」
ここに書かれている立憲主義は、「近代憲法」の常識ですし、
また、個人の尊重(19条ー「思想及び良心の自由」を核とする)と平和主義の日本国憲法の基本理念は、日本に住む多くの人が当然のこととして承認しているわけですから、とりたてて言うほどのことではないかもしれませんが、下のブログに書きましたように、元総理大臣でさえ、呆れ返る発言を大新聞でするのですから、伊藤さんのように、原理・原則をしっかり確認し、実践するのはとても大切なことです。
【復古主義】の政治家が跋扈する「危険」な状況にあるいま、戦後の新憲法の基本理念=天皇主権から国民主権への転回=【皇室を特別扱いする天皇中心主義】の国から【民こそが社会の主役・中心である民主主義】の国への転回を再度確認することには大きな意義があります。「当たり前」の意識化・自覚化が何より大事です。
武田康弘
2008/04/28のBlog
[ 10:11 ]
[ 社会思想 ]
27日(日)の朝日新聞での中曽根康弘元首相の発言(国家主義)を批判して行こう!というメールが友人の*山脇直司さんから来ましたので、朝日を取りよせて読みました。朝日の前論説主幹・若宮啓文さんの質問に応える記事で、7面の全部を使ってのものです。
一読、わざわざ批判するのも愚かなほどの内容だと思いました。「日本とアメリカとの共同の価値観は、人道と民主主義で、それは、明治天皇が作られた五箇条の御誓文からも発生している、」という主張は、ほとんどマンガでしかありません。
言うまでもなく、大日本帝国憲法(明治憲法)は、主権者である明治天皇から国民に与えられた【欽定憲法】なのであり、人民主権を基本原理とする【民主主義】とは、原理からして異なるものです。
近代の立憲主義における憲法(主権者が代行者である為政者に課する憲法)と、それ以前の国家が国民に上から与える「憲法」(支配者としての国王が臣民に与える恩寵)とは、言葉は同じでもまったくその意味が異なるわけであり、これは日本の義務教育(「公民」)で勉強するものです。
このような基本レベルで間違っているようでは、哲学(=原理的思考)としては、全く失格であり、論評以前ですが、中曽根さんは、戦前の教育(天皇現人神)を幼い頃に叩き込まれたわけですから、同情すべきかもしれません。「教育」とは怖いものですが、この発言を問題にしない朝日新聞の元・論説主幹にも呆れました。若宮さんは戦後教育のはずなのに~です。
それにしてもこのような思想の持ち主が、哲人を気取る、というのでは、哲学が泣きますね。
(*山脇直司さんは、「公共哲学」運動を進める東京大学教授で、国連・ユネスコ
「哲学会議」のメンバーです)
武田康弘
2008/04/25のBlog
[ 10:48 ]
[ 社会思想 ]
民主制の国家とは、それ以前の王制(天皇制)や貴族制の国家とは根本的に異なるものです。
「公権力」という言い方は、民主制以前の国家を指す言葉としては適切です。それはふつうの市民の上にたつという意味を持ち、「公権力としての国家」vs「市民」という図式を想起させます。
しかし、市民が主権者(市民の合意=公共意思を超える意思はない)である民主制の国家には原理上「公権力」は存在しません。民主制国家における権力とは【公共権力】なのです。
市民の集合意思によりつくられる民主制国家とは、個々人の自由を守り、個々人の生の可能性広げ、個々人の安全を守るためのシステムです。それを担保するためになくてはならぬ力が、公共権力としての国家権力なのです。したがって、本来は、「国側vs住民側」という図式は生じません。そういう図式がリアリティを持つのは、日本の国家システムがまだ民主主義の国家になっていない証拠です。
権利として対等な市民がつくる民主主義国家とは、市民が税金を出し合ってつくる【共同経営】の国であり、王制(天皇制)としての国家=公権力が市民の上に立つ国家とは、国家原理が全く異なります。
したがって、民主主義国家においては、国家の諸機関それ自体には価値はありません。それがふつうの市民の利益(個人の自由の現実化ー自由の確保と調整)のために働くところにはじめて価値が生じるのです。従って、本来は、民主制国家の権力は、「国家権力」という名称よりも【公共権力】という名称の方が適切で、そうすればおかしな想念が生じにくくなる、とわたしは考えています。
「個人の上に国家がある」とか「国家の側に立つ」という言い方、あるいは逆に「国家とは悪である」という言い方は、ともに民主主義国家の基本原理(社会契約論)を理解していない人の言うことです。
武田康弘
2008/04/22のBlog
[ 11:40 ]
[ 社会思想 ]
「白樺ML」の公開です。
----- Original Message -----
From: 武田 康弘
To: shira_freeml.com
Sent: Tuesday, April 22, 2008 10:57 AM
Subject: [shira_2878] Re: 国事行為に関する内閣法制局見解
武田です。
杉山さんの危惧は、金泰昌さんの危惧と似ている(天皇の存在についての評価は異なりますが)と思います。
【公権力の解釈=力】の前には一市民は無力で、違和を感じてもどうしようもない、いくら抗っても風の前のチリに同じ、という実感が、
公権力とは異なる【市民の自治としての公共】という概念を生んだのです。
惰性態としての「自民党永久政権+お役所」の現実は誰でもが知っているわけで、このおぞましい【日本の官僚政府】に対してどうしたら【市民がつくり拓く公共領域】を確保できるか?という課題が「公共哲学」を要請したのです。
だから、その意図するところ(市民的な公共という領域を確保してそれを広げていく)は、金泰昌さんや山脇直司さんや稲垣久和さんや小林正弥さんとも一緒(その意味では彼らは同志)なのですが、ただ、それを実現するための基本思想=哲学に違いがあるわけです。
わたしは、国家や政府や官僚組織の位置づけとありようそのものの変革なくしては、ほんとうの改革にはならない、と考えています。「市民の上に国家がある」という想念・思想・価値意識を大元から断つ、そういう意識が生じる人間の意識の深層を抉り出し、それを白日の下に晒すことでその愚劣さを誰の目にも見えるようにすることが必須の営み=核心だと思っています。
だから、「東大病」の具現化であるキャリアシステムを問題にするのですし、更に大きく深い問題である「知」のありようそのもの(事実学の支配とそれを生む言語至上主義)の変革=「根源的な教育改革」に己のすべて、全実存を賭けているわけです。生の現場から撃て!!というわけです。国家の公権力や現実政治をはるか下に見下ろすもの、それが哲学する者の生であり、したがって民主主義社会においては全員が哲学者(恋知者)であるべきだ、というわけです。
政治家とは市民の代行者であり、官僚とは市民サービスマンであり、国家とは国民のためのみに存在していて、それ自身が自立した価値を持たないのです。一人ひとりの市民(=哲学者)による共同経営社会が民主主義国家です。名実ともに主権者である個々の市民の上にたつものは存在しない、この原理を「民主主義の原理」と呼ぶわけで、したがって民主主義社会における国家とは、国民国家でななく、市民国家なのです。
市民国家においては、天皇とは、市民の一般意思を、代行者である為政者に示す儀式を司る者、と位置づけられるでしょう。市民主権の民主主義国家においては、天皇とは市民のしもべ=一般意思を象徴する者としてのみ存在を許されるわけです。主権者の上は存在しないのですから、これは当然の話です。日本国憲法にも、「この地位(象徴)は主権の存する日本国民(The Japanese people)の総意に基づく」と明記されています。文字通りの【君主】はすでに存在せず、象徴としてその名残を留めるに過ぎないのですから、儀礼のみを行う元「君主」のいる国の政治体制は、【立憲象徴君主制】と呼ぶべきでしょう。
また、議員や政府人や官僚は、市民主権を具現化するために働く人であり、もしそうでないならば、彼らには存在する理由・価値はない、これまた原理中の原理です。
杉山さん、みなさん、どうでしょうか?
2008/04/19のBlog
[ 00:19 ]
[ 社会思想 ]
なぜ、自分の仕事に誇り=倫理感を持てないのか?
わたしはほんとうに不思議です。
裁判官であれば、司法の独立を誇り高く己の心に刻む、それによって民主主義の原理を守り活かす、という生き方が自己の存在を深く肯定できる条件でしょう。
しかし、現状は、政府という行政権力に頭を下げ、検察庁という行政権力に追随するだけ(有罪率99パーセントという民主主義国家は日本以外にはありません)です。
これでは民主主義の基本である権力分立(三権分立)が無いに等しく、【行政権力による独裁的な政治】と言われてもまったく抗弁できないでしょう。
このような悲しい現実がつくられるのは、もちろん裁判官個人の問題だけではなく、システム上の欠陥と官府の巧妙な詐術によるものですが、これを正すためのはじめの一歩=基本条件は、民主主義の原理を明晰に自覚することです。
航空自衛隊のバクダット(戦闘地域)への米軍の輸送が「イラク特措法」に違反し、それは武力行使を禁じた憲法9条の一項に違反する、という名古屋高裁の青山裁判長(3月で退官)の判決は、普通の人の常識で考えればそれ以外の答えは論理上導けないわけで、あまりに当然の判決ですが、こういう裁判官の良心に従ったふつうの判決が「画期的」とされるところに、日本の司法の危機があります。
また、【違憲】という判決が下されても、なにも変えようとしない日本国政府は、民主主義国の政府として失格であることはこれまた当然の話でしょう。
武田康弘
2008/04/14のBlog
[ 14:11 ]
[ その他 ]
NHK「みんなの歌」でとても素敵なメッセージソングを流していました。
【全てを愛に代える勇気】
以下は、「みんなの歌」のホームページのコピーです。
ぜひ、お聴きください。
CDかDVDが出ないかな~と期待しています。
作詞:めけてとにせん
作曲:めけて
編曲:めけてとみみ
映像:Chris&Patty
アニメーション:ホッチカズヒロ
振付:CHIHARU・ETSU(TRF)
クリスタルのようにどこまでも透明で、強い光を放つ心を持つこども達が、自らの言葉で「全てを愛に代える勇気」を歌う直球勝負の作品を届けたい。その想いを胸に、実力派ソングライターの“めけて”が、自らの娘(当時4歳)が母親を勇気付けるために何気なくつぶやいた日々の言葉を下地に、書き下ろした。学級崩壊、非常識、学力低下、減らないイジメ・・・ 様々な問題が大人たちによって叫ばれ、こども達が不安と焦りを募らせている日本。世界に目を向ければ、終わりのない憎しみの連鎖・・・遠のく平和への道・・・。この現実を真正面から見つめ「戦わなくていいんだよ、好きになっちゃえばいいんだよ」「憎しみも涙に代えて、許せる勇気持って生まれてきたんだ!」「この地球を光で満たす、心の愛を持って生まれたんだ!」と、こども達が自らの言葉で力強く歌う曲を通して、混沌とした世界で進むべき道を模索し続ける大人たちにも多くを感じてもらえる作品としたい。
歌うは、本作の為のオーディションで、全国各地から選抜された618歳までの特別ユニット「クリスタルズ」。振付に「みんなのうた」初参加となるTRFのCHIHARU・ETSUを迎え、本格的なダンス(実写)と、夢溢れる映像(アニメ)の合成で綴る。
2008/04/13のBlog
[ 17:18 ]
[ 社会思想 ]
「疑わしい場合は、証拠がなくとも有罪とする」、どこの国の話かと思ったら、日本の裁判所の話でした。
なんとも呆れ返る(恐ろしい)ことですが、午前中、テレビ朝日の「サンデーモーニング」を見ていたら、【有罪判事】と呼ばれる上記のような裁判官が拡大再生産され、いまやそれが多数派となっている実態が詳細にレポートされていました。
司法研修所の教育でも、有罪の判決文しか書かせないという凄まじい証言がありましたし、元判事で、最高裁判所の調査官でもあった法政大学教授の木谷さんは、「裁判官(有罪判事)は詭弁を弄している」と批判していました。
白を黒と言いくるめるー言葉はどうとでも使える、というソフィストの態度で裁判に臨んでいる?というより、思考停止・自分の頭では考えない、といか言えない判事は、どのようにしてつくられるのか?警察や検察の証言を鵜呑みにして、被告や弁護人の言をあっさり退ける「法の番人」とは、ブラック・ジョークにしかなりませんが、丸暗記の受験勉強、単なる事実学だけを詰め込んできた頭では、人権も民主主義も意味論・本質論としては、まったく理解できない=自分のものにできないということでしょう。
これは、ほんとうに恐ろしい話ですが、昨日の最高裁判所のとんでもない判決とも符合することで、【公務員倫理】が低下しているというより、無いに等しいという話です。
武田康弘
2008/04/12のBlog
[ 11:25 ]
[ 社会思想 ]
イラク派兵反対のビラを自衛隊員の宿舎に入れた市民グループの3人が逮捕され、75日間も拘置されましたが、この処罰は合憲、という判決が昨日最高裁判所で出ました。
わたしはこのビラの内容には賛同する者ではありませんが、ビラをポストに入れただけで逮捕され、2か月半も拘置される国は、軍事独裁政権や共産主義政権など国家が国民を下に置くような政治体制をとっている国以外にはありえません。
いうまでもなく、民主主義の核心・原理中の原理は、日本国憲法第19条にある「思想及び良心の自由」ですが、しばしば警察は、この原理から逸脱する行動をとることがあります。右翼の行動には甘い対応をし、左翼の行動は厳しく取り締まる、というのは、戦前の「治安維持法」下の思想警察の名残りかもしれませんが、これでは民主主義を守ることが使命の現代の警察とは言えません。その間違いを正すのがほんらいの司法の役割であるにも関わらず、最高裁判所が警察や検察の判断を追認するだけというのでは、わが日本は、戦後60年以上たってもいまだに「お上」に従うという後進国でしかないことになります。
国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、彼らを日本ではじめて「良心の囚人」に指定しました。ミャンマーの軍事政権下で民主化を訴え、自宅監禁されているスーチーさんもこの「良心の囚人」に指定されていますが、その「良心の囚人」を救うはずの裁判所が、彼らを「囚人」として罰する!!これは、知的にも道徳的にも許し難い「堕落」であり、最高裁判所の裁判官は、日本の【公務員倫理】の低下を世界に向けて発信したとしか評しようがありません。
もし、真の愛国者がいるならば、このような事態に憤慨しなければならないでしょう。
武田康弘
2008/04/11のBlog
[ 14:40 ]
[ 恋知(哲学) ]
公共哲学とは、「私」の考えや行為を公共的な広がりを持つものにしようとする営みです。「私」はどこまでも「私」であることをやめないで、同時にふつうの多くの人の利益になる世界を拓こうとする努力ですが、それは、「私」自身の世界を深め豊かにすることでもあります。
公共哲学は、哲学と名乗る限り、法学や経済学や政治学などの個別の知を総合した学際的学問を指すのではありません。もしそうならば、単に「公共学」あるいは「公共社会学」とでも言うべきです。
私が私の生の可能性を広げるには、狭い自我の世界から抜け出なくてはなりませんが、そのためには、「私」をよく見つめ、「私」をよくフルイにかけることが必要です。「私」の存在のありようへの浄化的反省が「公共」世界を開くのです。外なる世界を「私」のものとする営みが「公共哲学」なのです。
その意味では、公共哲学は、皆にとってなくてはならぬものです。狭いエゴの世界に閉じこもり、いまある自分に拘れば、自我を武装し肥大化させる人生を歩むしかなくなりますが、それでは永遠に不幸です。実際的・現実的に自分自身の生の悦び・可能性を広げるには、極めて個人的な領域以外の「私」を公共世界に開くこと=公共哲学が必要です。オープンマインドは、公共世界を生むと同時に「私」をよく活かすのです。
武田康弘
2008/04/10のBlog
[ 14:18 ]
ある言説に他より大きな説得力があれば、それまで違うことを言っていた人もその考えに従わざるをえないわけで、その場合、従うのは「人」ではなく、その言説内容です。
より優れていると思える考え・言説に従うのが民主主義です。
もし、「既得権益を廃棄する」という思想が、他の言説よりも上位であれば、それに従うのが民主主義というものです。
自問自答と自由対話がなければ成立しないのが民主主義ですから、民主主義は教育とセットですが、自治を可能とする自由対話の教育がないわが国は先が見えません。
武田康弘
2008/04/08のBlog
[ 12:18 ]
[ 恋知(哲学) ]
沢山知ろうとすると、自分の頭で考えることができなくなります。
これは、誰でも自分の経験を振り返ると分かることでしょう。
哲学とは考える作用・力ですから、現代のように情報や技術が思考の代わりをしてしまうと、ほんらいの≪哲学すること≫は、なくなっていきます。
知的作用のうちで、考えること・考えを交換し合うことほど面白いものはないのに、受験知・試験知が優先し、それを強要される社会では、一番人間的なエロースに満ちた「自分で感じ・思い・考える」ことが奪われ、事実学・技術知・情報知の量の多さを競うツヤ消しの知が大手を振るうことになります。
博識ではなく、考えることで生きたソクラテスや、落第生だったが、宇宙の不思議を考えつづけ、相対性理論を生みだしたアインシュタインや、己の煩悩に悩まされ、朝廷から迫害されても愚直に考え続けて新世界を開いた親鸞や、学業成績はビリに近かったが、己の頭を信じ続けた志賀直哉や武者小路実篤(白樺派)には魅力がありますが、【受験秀才】には、魅力がありません。
自分で考えるのではなく、知識に逃げることで多くを得ようとする精神は、よきものを生まないからです。彼らの求めるのは、自我の満足だけです。
考えない人に魅力がないのは、皆の役に立たないからでしょう。皆にとってのよきもの・面白いもの・楽しいもの・有益なものを生まず、自分の得・満足だけが優先する事実人=思考しない優等生が優遇される社会は、本質的に不幸です。
情報をため込むのではなく、考えることをする。「知る」ことは必要に応じてでいい。わたしはそう考えています。エロース豊かな知=考える世界を共に。
武田康弘
2008/04/04のBlog
[ 21:55 ]
[ 趣味 ]
ヘクトール・ベルリオーズ(1803~1869)
歌劇「トロイ人」全曲
コリン・デイヴィス指揮 コヴァントガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団
「トロイ人」は、ベルリオーズ畢生の大作で、上演時間4時間、音楽があまりにも想像力を刺激するために舞台化が難しく、ベルリオーズ死後100年記念の年にようやく完全な全曲録音が実現しました。それが1969年録音のこのCD(71年の発売時はLP5枚組・一万円)です。
1971年の発売時に購入したLPは、繰り返し聴き、私の宝物となりました。その後発売されたのは、ジェイムズ・レヴァイン指揮のLD、その後にデュトワ指揮のCDが出て、最近ではベルリオーズ生誕200年記念で、再びデイヴィス指揮の全曲盤がロンドン交響楽団の自主制作盤(ライブ)として出ました。
わたしはすべて聴きましたが、総合的にこの最初の全曲盤を凌ぐものはありません。時代(1969年)の影響もあるでしょうが、この演奏の熱さ・迫力・鋭さは、「トロイ人」に必須の要素です。
オペラの範疇を超えてしまったような音楽・劇的な音楽世界創造のためにオペラという外皮を借りただけのようなこの恐るべき作品=想像的創造力そのもののような音楽をぜひ多くの方に聴いてほしいと長年願ってきました。しかしCDにしても4枚組みで高価であり、なかなか勧めづらかったのですが、いまは、デイヴィスの最高の演奏が比較的廉価で求めることが出来ます。ぜひ時間をかけて聴いてみて下さい。ただし国内盤ではないので、歌詞対訳は付きません。
武田康弘
2008/03/28のBlog
[ 12:28 ]
[ 社会思想 ]
「愛する」ことを保守主義の政治家と一体化した文部官僚が、権力を使って教えこむーこれほど愚かな話はありません。それは、一人ひとりの内的な秩序という人間の最大の価値を元から歪める=イデオロギー化してしまう所業でしかないのです。
愛は、強制や誘導や洗脳によっては決して得られません。【愛をイデオロギー化する】のは、これ以上はない悪=根源悪というほかありませんが、このような思想をもつ政治家や役人は、自身が「ほんとうの愛」とは無縁の人生を歩んできたために、愛の形骸を他者に強要することを平然と行うおぞましい人間となるのです。
それを政治と官の権力を使って強制するのですから、まさに【公共悪】です。自分の想念を権力を使って他者に強要する、そうすることで、不幸な己の生への復讐を果たす、それが彼らの深層心理ですが、そのような人間の言動をきちんと批判することが、よき健全な公共社会を生むための基本条件です。それが民主主義哲学の役割です。
明治政府が極めて意図的につくった「近代天皇制」の下で、明治天皇に捧げられた歌=「君が代」を国歌として、それを全国民に教育せよ!というのがどれほど愚かなことか! 敗戦によって、「天皇主権」から「国民主権」へと日本の政治は根本的に変わったにも関わらず、明治天皇に捧げられた「君の時代は苔が生えるまで永遠なれ」という意味不明の歌をどうやって教えるのか?答えられる人がいるのなら答えて頂きたいものです。「さくら」など分かりやすく誰も積極的には反対しない曲はいくらでもあるのに、わざわざ物議を醸し出す「君が代」を国会の多数の力で国歌とするという行為・思想は、ほんとうに「愚か」としか言いようがありません。
保守主義の為政者は、伊藤博文や山県有朋らの明治の超保守主義者がつくった天皇主義・国家主義の想念にいまだに呪縛されているために、こういう意味の通らないことを元にして、愛国心教育をしようなどとしか考えられないのですが、これでは人間の生のよろこびに基づくよき未来は開けません。
豊かで強い社会は、一人ひとりの華・エロースが咲き乱れることではじめて生まれるのであり、上からの愛国心の教育は、国をダメにする施策でしかなのです。歴史から何も学ばすに、こんなことも分からない愚かな政治家や役人は、健全な市民社会の阻害者でしかありません。
納得―了解をうまない強制という手段は、人間の精神の大元を壊してしまいます。秩序の形成=人間の内的な統一を阻害するのです。≪何よりも国を滅ぼすのは、愛国心教育です。≫この逆説が分からぬようでは政治を行う基本能力がない、と断罪するしかありません。人間とは何か?という哲学的探求がないところにはよきもの・美しきもの何も生まれないのです。これは原理です。
武田康弘
2008/03/27のBlog
[ 11:18 ]
[ 社会思想 ]
都議会の予算特別委員会で、新銀行東京への400億円もの巨額追加出資が自民党と公明党の賛成で可決されました。
今朝の東京新聞の社説ー『石原銀行増資・都民の意に背く独善だ』は、まことに正鵠を射る内容です。
この一ヶ月間の審議は、第三者の意見聴取を排除する異様なものであったこと。
わずか三年で一千億という巨額な損失を出すに至った経緯説明、調査報告書は、すべて石原慎太郎の側近が書いたものであること。
店舗を六か所から一か所にし、信用金庫なみに規模を縮小するという再建案は、金融専門家の意見を排除し、都の役人OBの津島隆一氏らが作成したものであること。
そこでつくられた報告書は、最大株主であり、基本コンセプトを作成した東京都の責任には言及せず、旧経営陣にのみ責任を被せるものであったこと。
以上が指摘されていますが、
これはもう、わたしが先のブログで書いたとおり、旧社会主義圏の崩壊前夜と同じで、権力の保持者が好きなようにやる、しかも都知事の石原慎太郎と与党と役人が一体化し、責任は負わず、困れば税金を使えばいい、という「唖然」とする話です。
社説では、
「清算も含め事業撤退に追い込まれることが目に見えている。もはや損出最小化の選択をためらってはならない。」と結論づけていますが、その通りです。
さらに、「困ったときには税金頼みというのでは【倫理感の欠如】の極みではないか。責任は免れまい」と書かれています。倫理感のかけらもない【自我主義】による強圧的な政治を続ける石原慎太郎を支持し続けてきた都議会自民党と公明党に明日はない、わたしはそう思います。
言わずもがなですが、民主主義社会とは、主権者がお金=税金を出し合って【共同経営】をする社会です。【代行者】は、主権者の共同利益を守り、発展させるのが仕事であり、自分のもつ特定思想や趣味で政治を行うことはできないのです。
武田康弘
2008/03/25のBlog
[ 12:58 ]
[ 社会思想 ]
今朝の東京新聞には、都立南大沢学園養護学校の根津公子教諭(57)が「君が代」斉唱時に起立しなかったことで、懲戒免職となる可能性が高くなった、という記事(こちら特報部)が載っています。
石原都知事の強い意向を受け(実質的に破たんした「新銀行東京」の場合と同じ)、東京都教育委員会は、2003年に、「教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」「従わない場合は、服務上の責任を問われる」という通達を出しましたが、それにより処分を受けた教員は、約390名、生徒が起立しなかったことでも教員の責任が追求され、70名が厳重注意を受けたとのことです。
なんだかすっかり戦前に回帰したような国家主義ですが、「愛国心」を国旗や国歌に従わせるという「形」にすること=「フェティシズム」(物神崇拝・衣服などを性的対象とする精神異常)の強要というおぞましい政治が21世紀の今もまかり通っているというのは、わが日本人の知的退廃以外のなにものでもありません。「思想及び良心の自由」(19条)という憲法の根本理念=近代民主主義の原理に挑戦することで得られるものは何もないはずです。
土台、入学式や卒業式までも上からの指令で行うということがどれ程異様なことか!!生徒や先生や親たちが決められないという学校に教育はありません。これは原理です。教育内容にいたるまですべてを現場の決定に委ねることで世界一の教育先進国となったフィンランドなどの例を見ても分かるとおり、自治という民主主義の原則がなにより必要なのは、これからのよき社会人=公民=公共人=市民を育てる教育の現場です。自分の意見が言える手強い人間=集団同調・付和雷同しないしっかりとした個人=意味をつかめる頭と心の自立をもつ人間を育てなければよい国は生まれません。
新聞によると、自分の信念を貫いてきた根津公子先生は、「わたしを含めて大人の言うことを鵜呑みにせず、自分で考えることのできる人間を育てたい」と考え、その通りに実行してきた大変立派な先生です。教え子たちから慕われ尊敬されてきた現代まれに見る先生のようです。
「自分をさらけ出せる唯一の先生」「障害のある私の相談にのってくれ、いじめた生徒を怒るのではなく、双方を話し合わせて解決してくれた。生徒のことを本当に考えてくれる先生」「君が代問題も、生徒にある考えを押し付けるのではなく、どう思うかを問いかけられ、自分で考えるきっかけをもらった」「強制で国への誇りが生まれるはずはない」「どの生徒にも平等に接してくれる先生」「意見が言えない学校で育つと、社会へ出ても理不尽なことにも我慢するしかない生き方になる」 ・・・・と口々に生徒たちは、根津先生を支持する発言をしています。
そういう先生を何より嫌うのが権力主義=国家主義の政治家であることは、戦前も戦後も変わらないようです。一人ひとりの「市民のため」ではなく、「国家のため」という【幻想】(フェティシズム)に囚われている人たちこそ公共社会にとって最も危険な人物だと言えるでしょう。
石原慎太郎をはじめとする権力主義の政治家は、自分が上に立ち他を従わせることに「快感」をもつ人間ですが、そのような人間に政治を任せるのは極めて危険です。現場が決めるという自治政治=民主主義を破壊し、公共精神を育てず、よき社会人=公民==公共人=市民を生みません。
武田康弘
2008/03/21のBlog
[ 12:32 ]
[ その他 ]
白樺派・柳宗悦(やなぎむねよし)と共に「民芸」運動を進めた夫人の柳兼子(かねこ)は、日本最高のアルト歌手であり、孤高の作曲家・清瀬保二(きよせやすじ・武満徹の師としても知られる)の歌曲の初演者、紹介者でもありました。ドイツリートの見事な解釈で日本をリードし、ドイツ本国でもドイツ人歌手以上!との批評を受けた兼子は、
同時に、歌曲としての日本語のよさ・美しさを追求し、新たな歌唱法の確立に至ったのです。
(作曲家の清瀬保二の音楽は、足が地についた健康な精神が生みだすもので、品位が高く、しっかりとした身体性を伴っています。現代の日本人が忘れている心と風土の世界を表していて、なつかしく、且つ新鮮です。心から心へ直接伝わる珠玉の名作は、素朴にして高貴であり、独創にして自然です。)
柳兼子さんは80歳を超えてもなお新たな挑戦を続け、演奏会を開き、幾つものレコード(現在はCD化されています)を出しました。戦中に戦争協力を拒否したために活躍の場を奪われましたが、斎藤秀雄(小沢征爾等「サイトウキネンオーケストラ」に集う人たちの師))をはじめ日本の有力な音楽家には最高の歌手として認められ、韓国では「神」のように尊敬され続けた兼子さんには大勢の弟子がいました。その中でただ一人の内弟子であったのが大島久子さんです。久子さんの親友・松橋桂子さん(清瀬保二のお弟子さん)の大著『柳兼子伝』によれば、亡くなられたご主人の大島恵一さんも若いころは兼子さんに師事していたとのことです(後に東大教授、OECD科学技術工業局長)。
前置きが大変長くなりましたが、昨日、大島久子さん(84歳)から頂いた『十五の心』ー「詩」を奏でる・クラリネットとピアノで綴る日本の歌―という最新録音のCDをご紹介しようと思ったら、歴史を書くはめになりました。
このCDの演奏者の大島文子(クラリネット)さん・直子(ピアノ)さんは、大島久子さんの三女・二女です。わたしは、二女の直子さんの運転するアルファ・ロメオで都内を疾走!(恐怖)したことがあるのです(笑)。脱線しましが、
