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2008/07/23のBlog
[ 09:49 ]
[ 私の信条 ]
ふつうの日常の生活には無限のたのしみとよろこびがある。
例えば、背筋を伸ばし、腕を後まで振って歩いてみる、とっても気持ちがいい。心身が生き返る。
フィットするスポーツシューズを履いて、軽くジョギング。自由に好きに飛び跳ねる。ウキウキしてくる。
デジカメ持って、そこらを散歩してみる。ふだんの世界ががぜん色づく、ファインダーは万華鏡だ。
はっきり明瞭な声で話す。
音楽に合わせて、ハミングし、踊る。
感情移入し、情景をイメージし、詩や小説を声に出して読む。
友人と話し込む、本音トークは頭脳の活性化だ。形だけの会話、当たり障りのない無駄話ではなく、真面目に、本気で対話する。まったく違う世界が広がる。
自分を貶めるような他者への迎合ではなく、自分を高める心身の使い方を工夫する。
感覚と心と頭を柔らかくしなやかに。脱力する。
既成の枠組みの中で他者の目と言葉に翻弄されて生きるのは愚かだ。自分の心身の全体を使い、自分の頭で考え、自分が生きる。
ふつうの日常の生活は、よきもの・美しきものの無限の宝庫だ。それに気づくか否か、それを活かすか否か、それが人間の価値を決める。
どこか遠くによきものがある、と思っているうちは貧しさから抜けられない。
魅力ある世界を自分自身の心身と身の回りに発見し、開拓しつつ生きる人こそが魅力的な人だ。それがエロースの生。
武田康弘
2008/07/15のBlog
[ 11:19 ]
[ 趣味 ]
(下のブログのつづき)
ツァイス ゾナー135mm F1.8ZA
まず一目でわかるのは、色の透明度と品位、シャープネスの違いです。
描写は大変きめ細やか、緻密で正確です。恐ろしいほどの解像力ですが、特別な強調感や癖が全くなく実に自然です。
次に色ですが、極めて透明度が高く、少しの濁りもありません。偏りがなく大変忠実な再現ですが、どこか近寄り難いような美しさを感じます。
絞り開放でボケを生かした撮影でも、画像は凛として立っています。
また、階調の幅が広く、なめらかです。これはズームレンズが不得手とする分野です。
ボケは、何がボケたかが分かるような芯のある美しさですが、階調の豊かさとあいまって見事な立体感を生みます。
見るからに高級な光学ガラス、特別なコーティング、ズシリとくる重さ、洗練されたデザインと金属鏡筒が醸す風格、とにかく使う人にも覚悟がいります。おいそれと使いこなせるレンズではありません。
かつて、コンタックス用のプラナー135ミリF2という大口径レンズを、たった5枚のレンズでつくるという離れ業を演じたツァイスですが、今度は、ショット社(ツァイス財団グループ)が開発したEDガラス2枚を含む11枚構成で、徹底的に諸収差を除き、F1.8開放から驚くべきコントラスト再現性と解像力を持つスーパーレンズを出してきたわけです。
これは、デジタル時代に放つツァイスの矢ですが、おそらくこのレンズを見てキャノンやニコンの技術者は心胆を寒からしめたのではないでしょうか。「写真はレンズで決まる!」をこれほどまでにはっきりと示したのは、ツァイスの高邁なプライドかもしれませんが、それにしても、ため息が出るほど美しい写りのレンズです。
武田康弘
2008/07/10のBlog
[ 08:02 ]
[ 趣味 ]
写真・カメラは、小学3年生以来、四十数年の長~~い趣味ですが、デジタルが普及しても、デジカメはコンパクのみ、一眼レフはフィルムで、という状態が続いていました。
わたしは、フィルム版の一眼レフは、ペンタックス、二コンを;中心に主要なものはほとんど使いましたが、レンズのもつ描写性が気になり、1980年ころからは、コンタックスのツァイスレンズだけを使ってきました。ツァイスレンズは、設計に明確なコンセプトの違いがあり、それぞれのレンズは他に代え難い個性・魅力をもっているため、次第に増えて11本にもなってしまいました。
1999年にブローニー版のコンタックス645が出たときもすぐに購入し、レンズは7本(+テレコン)を使ってきました。このブローニー版のツァイスレンズは、ハッセル用のレンズとは全く異なり、すべて新設計のもので、透明で力のある描写性は圧倒的なものです。文字通り世界最高のレンズ群です。
しかし、なんと、その製造・販売をしていた京セラが、3年前に突然カメラ部門をすべて廃止してしまい、コンタックス用のレンズは宙に浮くという異常事態になってしまいました。これほどの反・公共的な会社は、いままでカメラ業界にはありませんでした。大企業でありながら、社会的責任を果たそうとしない京セラの経営姿勢は厳しく批判されなくてはならないでしょう。
話を戻します。
フィルムカメラ用レンズの描写性が気になり、ツァイスに魅かれてきたわたしですが、最近のデジカメの進化を実感し、時代の変化に合わせて、写真・カメラと新しいつき合い方をする必要を強く感じるようになりました。そこで、一眼レフもデジタルを買おうと思い、一年ほど前からいろいろ見てきました。
一眼レフであっても、デジタルカメラの利便性を活かすには、高倍率のズームを使いたい、多少の画質の問題はデジタル処理で乗り越えて、と考え、描写に柔らか味があり、立体感もあるタムロンの18~200、ないし18~250(共にAPSサイズ用)を使うためのボディーとして、ソニーかペンタックスという選択になりました。コンパクトデジカメで手ブレ補正のありがたみを強く感じていましたの、ボディー内手ブレ補正のついたAPSサイズの一眼レフが必需と考えましたが、その条件を満たすのは上記の二つのみなのです(なお、35mmフルサイズ換算で広角28ミリから望遠200ミリ以上という私の希望を満たすレンズ内補正がついたものは、APSサイズではありません。タムロンのレンズ内補正の28-300は、APSにすると広角側が42ミリとなり失格です)。また、フルサイズでなくAPSで、というのは、製品の種類や熟成度の問題もありますが、大きさと重さが尋常ではないフルサイズは嫌だったからです。35mm版なのに大きく重いのはRTSⅢだけで十分!(笑)。
そこでソニーかペンタックスか、ですが、デジタル時代の新しいツァイスレンズが装着できるソニーは魅力です。軽く比較的小型で持ちやすいのもよいですし、α200、350は、見た目も優しい感じなので気に入りました。結局、ライブビューも使えてよりデジタルらしいα350に決定!となったのです(カメラのキムラ沼南店では「価格コム」の全国最安値より安く販売していました。ヨドバシやビックに行く必要はないようです)。
なんだか長くなりましたが、ここからが本題です。レンズの話です。
購入したα350から生情報をパソコンに取り込みRAW現像をしてみると、ビックリ!大変優れた画質であり、自分で画質調整可能なのも気に入りました。わたしは中学生の時から長いこと、モノクロ写真は自分で現像・引き伸ばしをしてきましたが、天体写真(月面)では、覆い焼き・焼き込みをしなければ写真になりませんし、惑星面の写真では複数のネガによるコンポジット作業が不可欠です。一般写真でも、ほとんどの場合覆い焼きをしなければ満足な仕上がりにはなりません。でもカラーはラボに任せるほかなく、いつも不満でした。けれどもデジタルによるRAW現像は、パソコ暗室作業のようであり、カラーも思いのままです。
ウ~ム、これではフィルムカメラの出番はなくなるな、と思い、よし、と決断しました。カメラ保管用のケースから溢れてしまった(笑)35ミリフィルム版カメラとレンズを売ることにして、スリースター商会というお店に電話をしたところ、すぐに来て、高値で買い取ってくれました(RTSⅢは飾りにするので!?残しました)。古くても売れるのはさすがツァイスです。
そのお金の一部で、デジタル用の新設計レンズ、ツァイスのゾナー135ミリF1.8を購入、さっそく撮ってみました。
ウ~、ウエ~、フー、なんだこれは!(下品な言い方で済みません)これはあまりに凄い!凄すぎる。マクロレンズとしてまたポートレート用としても評価の高いタムロン90ミリF2.8が「おもちゃの描写」としか感じられない、のです。あまりの描写力の違いにただ唖然!やっぱり写真はレンズで決まるーーーー。デシタル処理ウンヌンという次元の話ではありませんでした。元がよくなければダメなのです。当り前の話ですね。
詳しくはまた今度書きます。お待ちください。とにかくツァイス財団の恐ろしさ(超~魅力)を改めて感じたのでした。
武田康弘
2008/07/08のBlog
[ 08:39 ]
[ 趣味 ]
「民芸」思想と運動の中心者であった白樺派の柳宗悦の妻、兼子(かねこ)は、日本最高のアルト歌手でしたが、夫の宗悦を物心両面で支え続けた人でした。
当時の常識に反して学生時代からの恋愛による結婚でしたので、兼子は「不良」と目されました。
彼女は、
生活においても、
芸術においても、
天皇制の日本政府によって虐げられた朝鮮の人々との熱い交流においても、
まったく怯(ひる)むことなく闘う人でした。
しかし、というか、それゆえにというか、兼子の顔は、優しさと厳しさが両立し、品のよい美しさに満ちています。
歌も姿勢も筋が通り、実に上質です。
体制に寄り添い、集団に同調し、狭い得を追う「俗人」とは根本的に違います。
人間の品位が高いのです。
その兼子が、晩年に一番尊敬し、敬愛した作曲家が、清瀬保二(きよせやすじ)でした。
清瀬もまた、既存のいかなる組織や団体とも無縁で、白樺派に親近性をもち、独学で音楽を極め、その質において日本最高の作曲家と言われました。世界的に有名になった武満徹は彼の弟子ですが、音楽の健全な強さと品位の高さにおいては師である清瀬保二を越えることはなかった、とわたしは見ます。
清瀬氏は、音楽上でも政治上でもけっして権威、権力に屈せず、闘う人でした。彼の音楽は純粋な強さをもち、極めて品位の高いものです。その顔もまた優しさと厳しさが両立し、品のよい美しさに満ちています。
わたしが見る限り、権力や財力に頭を下げ、地位や肩書きを求める人には、ひとりとして美しい人・品のよい人はいません。ほんとうの上質とは、己の存在を凝視し、その存在を世界に開き賭けるところからしか生じないのでしょう。周囲に迎合せず、深い孤独を引き受ける潔(いさぎよ)さが、よき美しき上質を生むのだと思います。
なんとも嬉しいことに、清瀬保二のピアノ独奏曲全曲(「東北のわらべ歌」は一部カット)が先月発売されました。待望していたCDですが、演奏もまた素晴らしいものです。ここでもまた、ピアニストの花岡千春さんは「美しい人」として知られる人のようです。みなさん、ぜひお聴き下さい(クリック)
以下は、HMVに書いたレビューです。
「健全な強さ、土着的にして洗練の極、その質において、おそらくは日本最高の音楽である清瀬作品は、しかし、権威からも、伝統からも、前衛からも離れた孤高の存在ゆえに、既存の音楽家が手に負えぬものとなっていた。ところが、予期せぬところから素晴らしいCDが出た。花岡千春さんに感謝だ。清瀬保二の最初のピアノ独奏曲の録音としては、この清く手堅い演奏は、とても貴重である。」 (タケセン, 我孫子市)
武田康弘
2008/07/01のBlog
[ 20:03 ]
[ 恋知(哲学) ]
北海道の文化誌『カムイミンタラ』より依頼された原稿を以下に載せます。
2008年07月号/ウェブマガジン第22号 (通巻142号) [ずいそう] (クリックで出ます)
恋知としての哲学=民知について
武田 康弘 (たけだ やすひろ・白樺教育館館長・白樺文学館初代館長)
「白樺教育館」に通う高校生・大学生・一般成人者の方は、哲学を学んでいます。
というと、哲学書を読解し、哲学講義をしているところと思われるでしょうが、少し、いえ、かなり違います。
わたしは、フィロソフィーを「恋知」(れんち)と直訳し、その初心を活かそうと考えているのです。この恋知としての哲学は、ふつうの生活者が、日々の具体的経験に照らして、ものごと・できごと・人生・社会の意味と価値について自分の頭で考えてみることなので、これを「民知」と呼びます。
哲学の本をまったく読まない、というわけではありませんが、本の読解は必要最小限にとどめています。恋知を、哲学書を読むことから解放しないと、ほんとうに「私」が感じ・思うところから自分で考える営みが始まらないからです。自問自答したことをみなで聴き合い・言い合う自由対話こそ「哲学する」醍醐味なのだと思っています。書物はそのための触媒に過ぎません。
このような営みは、事実について調べ覚える勉強・学問(「事実学」)ではなく、意味と価値を問う思考なので、「意味論」と言いますが、この意味論としての知を豊かに広げることがないと、「知」は、他者に優越するための道具にしかなりません。受験知のチャンピョンになるための知は、自他を生かしません。競争の知から納得の知へのチェンジ!!というわけです。
人類は、「国家と文明」成立以降、「競争原理」に支配されてきましたが、いま、文明の大転換をはからなければ、どうにも先が見えません。競争ではなく納得(腑に落ちる)を原理とする生き方がそのための鍵ではないか、そうわたしは考えています。外なる価値を追いかけ、他者との比較や勝ち負けで生きるのではなく、内なる意味充実を基準として「納得原理」による人生を歩む人を恋知者=哲学者と呼ぶわけですから、わたしたちはみな哲学者になるべきだ、と言えるかもしれません。
上位者に盲従する反・哲学的な生ではなく、「私」から出発し「私」の固有のよさを開花させながら生きる人でなければ、シチズンシップに基づくほんらいの公共性・社会性を獲得することもできないでしょう。「一般意思」(公論)の形成という社会生活を営むうえでの一番大事な営みも、「私」の実存の輝きに照らされなければ、意味を持たず、色を失ってしまいます。
わたしは、小中学生の意味論としての学習に取り組んで32年、高大学生と成人者との恋知としての哲学=民知の実践を続けて21年がたちますが、さて、これからが本番です。みなさん、ぜひご一緒に!!
2008/06/28のBlog
[ 11:52 ]
[ 教育 ]
哺乳類、とくに人間は、身体的な接触(スキンシップ)がないと情緒不安となり、心身に変調を起こしキレることはよく知られています。
栄養・睡眠・衛生等に十分に配慮しても、身体的接触がないと幼児の死亡率は異常に高まります。死に至らぬまでも、その心身へのダメージはとても大きなものとして残ります。
わたしは32年間こどもたちを見てきましたが、これは経験から深く納得できることです。
身体的な接触が少なく言葉優先で「躾」を受けてきた子どもは、情緒が安定せず神経質です。場や文脈を無視して「言葉」に異様に反応し、関係性を豊かにする中で生きるのではなく、【言葉がつくる自己観念】の中でその判断を絶対化して自他への攻撃性を発揮します。そうなるといかなる言葉も通じません。人は攻撃性をもつと理性は働かず、自己正当化・絶対化の言動を繰り返すか、逆に自己破壊的な心に支配されるようです。
わたしは長いこと、情報だけを与えられ直接の接触が断たれると攻撃性を強める=キレるのは人間など高等生物に特有のことだと思っていましたが、最近の研究では昆虫のコオロギも同じだそうです。もう9年前ですが、金沢工業大学の長尾隆司さんが「本能行動を調整するホルモンーコオロギの気分を探る」と題した研究成果を発表しました。
そこでは、透明ケース内に隔離し直接的な接触だけを断ち、視覚や聴覚などの情報はふんだんに与えて飼育したコオロギを「インターネットコオロギ」と名づけていますが、このコオロギを他のコオロギと接触させると、異常なまでの攻撃性を発揮し相手が死ぬまで攻撃をやめないとのことです。また一度戦いに負けるとなかなか立ち直れないそうです。 興味深いのは、布で覆いをして視覚や聴覚などの情報も断つと、他のコオロギと接触させなくてもさしたる異常行動は示さず、情報をふんだんに与えた上で接触させないと、相手を殺すまでの激しい攻撃性をもつことです。
コオロギのような昆虫も何より「触れ合い」が大事なのですね。驚きです。
「インターネットコオロギ」は、強い攻撃性を持ち、また、落ち込むコオロギである。ウ~ムですね。
武田康弘
2008/06/24のBlog
[ 10:27 ]
[ 恋知(哲学) ]
自己感情を絶対化する、あるいは特定のイデオロギーを先立てる、それではほんとうの対話は不可能でしょう。
あらかじめ決まった結論に導くための対話は、対話ではありませんから。
結論を隠し持って、そこに誘導するために言葉を紡ぐのでは、話せば話すほど不快になり、迷宮に入り、内容の前進は得られません。
厳しい他者を避け、自分を絶対化してくれる者、全的に肯定してくれる人間を求める人の心には救いがありません。それでは生きた対等な対話は成立せず、非生産的な閉じた円環の中で次第にしぼんでいくしかないでしょう。
なにかしらの自己の優位点をかざして他者を思い通りにしようするのでは、ほんとうの発展、進展は望めないと思います。裸になり・真正面から・正直に・逃げずに話すという基本姿勢を持とうとする努力なしには、対話は成立しないはずです。
人間の生産的な生、豊かなよろこびの生は、【裸の対話】が可能にするのではないでしょうか。計略、隠匿、騙しは、結局のところ不幸しか生まないはずです。人は騙せても自分は騙せないからです。もし自分まで騙せば、自己欺瞞の地獄です。
逃げずに、こころを開いて対話することは、人間問題の打開・進展のためにも、社会問題の解決・発展のためにも、必要不可欠な条件だと思います。
ただし、対話は、自分が上位者になって話そうとすれば対話ではなくなってしまいます。社会的地位や専門知の所持者である自分が上だ、という思いがあると、必ずそれは「絶対」を匂わすような話となり、白けるからです。下位者になって話そうとするのも同じことです。年齢、性別、社会的身分、専門知の有無・・・を問わず、対等な存在でなければ対話は成立しないでしょう。
互いを対等な人間として認め合うことではじめて、丁々発止の面白く生産的な対話が可能です。上意下達の古い日本文化は、対話的精神とは無縁です。「偉がり」の心や「感情絶対化」の心をどう克服するか?それが豊かな対話実現のための一番の課題だと思います。
まずは、親子、友人、恋人、夫婦という関係の中で、よき対話をする。うまく対話が進まないのを相手のせいにしてはいけませんよ~(笑)。
武田康弘
2008/06/21のBlog
[ 08:28 ]
[ 社会思想 ]
主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。
日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。
また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。
だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。
しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。
歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。
理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。
言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。
社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。
公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。
武田康弘
2008/06/19のBlog
[ 19:03 ]
[ 教育 ]
2008/06/16のBlog
[ 21:56 ]
[ 恋知(哲学) ]
「白樺の原理」を見て下さい(クリック)
遊びや楽しみとしての競争ならばよいのですが、そうではなく、
学習や仕事、生きること自体が「競争」としてある社会、
国家と文明の成立以降、「競争原理」」に支配されてきた人類史の転換をはかりたい、それが私の壮大な想いです。
競争を原理とする社会から、納得を原理とする社会へ。
そのために、まず、私自身が「納得(腑に落ちる)原理」で生きることを実践する。
それが恋知(哲学)の初心でもあるわけですから。
タケセン
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タケセンさん
市場原理の本質は、誰かを陥れることですよね。そこから這い上がっても、また競争力のない人間は、蹴落とされます。
いわゆる勝ち組に入れなくても、遊びと楽しみを生きることは、可能だと考えられるでしょうか?
この場所で生きると「納得」できたとしても、です。
YS
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「勝ち負け」というのは、意識の一つの様態ですが、
蹴落とさずに【共生する】方に利があることを学べば、今とはまるで違う生き方が可能です。
相手から得をもらい、相手の得になることを提供するという相互性の倫理で学習もします。教え合うことは自他の力を共につけます。また、納得を求めて激しくぶつかり合うことで、自他が共に成長します。
【納得】を生きる原理におくと、競争は小さな一部分にすぎなくなり、桁違いに豊かで大きな世界をひらくことができると確信しています。
タケセン
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タケセンさん
「納得」は、競争からの離脱であることの方が、現実の場面では多いと感じます。
理想的には、仰る通りだと考えています。
YS
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ええ、
競争を【原理】の次元で否定し、納得を原理と置く、納得を原理とする。競争が原理ではなくなれば、納得をつくるためのあるひとつの手段・道具にすぎなくなる。
そんな感じです。
現実場面でも、生に有用な、生の楽しみが広がるような競争ならば、大いに結構だと思います。よろこびが広がらない、勝ち負けに執着してしまう、となると、それは悪しき競争=競争を原理にしていることになり、ダメというか【損】ですね。
タケセン
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タケセンさん
なるほど!「損」という言葉に「納得」です。が、損得と勝ち負けは、どこかしら構造が似ているような気がします。
YS
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ふつうは、金銭に限らず自分が【得】をすれば嬉しいと思いますが、その単純な心を元にして考えるのが大切だ、わたしはそう思います。
現実の人間同士が、互いに【得】(素直に「気分」よくなれ、心身にプラスになるものが得られる)を広げられるように工夫し、努力し合うことが、ほんらいの【倫理】だと思っています。
競争は、それがゲームの面白さを成立させるためにあるのはいいのですが、それを原理にしてしまうと、得にはならないわけです。もちろんここで言う【得】とは、金銭や目先の得という意味に限定される得ではなく、生の可能性を広げられるようなアイテムすべてのことです。
納得(腑に落ちる)は哲学の命ですが、それは、納得=得をもたらすのです。一番大きな得を。
タケセン
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タケセンさん
なるほど!です。言葉の定義が大切ですね。言葉の定義も哲学にとっては、いのちですね。
YS
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武田康弘
2008/06/09のBlog
[ 21:44 ]
[ 趣味 ]
下のブログのつづきです。
わたしは、メーカー名も知らず、ただ見て履いて、「とてもいい靴だな~」と思いながら長年履き続けてきた靴が古くなって買い換えようとしたとき、
はじめてそれがアメリカの「ロックポート」というブランドであることを知りました。
妻が見たいというので、昨日ロックポートの靴の品揃えが豊富だと思われる恵比寿の三越地下1F.の「レジェンド」に行き、いろいろ見て(買って)来ました。ベテラン店員の話も聞きましたが、わたしが感じていた履きよさは、ロックポートの理念からきていることを知りました。なんと「世界一、履きよい靴をつくる」です。
もらってきたカタログには、APAM(アメリカ足病医師協会)から1984年にシューズメーカーとしてはじめて認定を受けたことも記載されていました。ロックポートの靴にわたしが感じていたデザインのよさは、まさに柳宗悦の民芸思想=「用の美」「用即美」なのでしょう。
履きよさとは、単に物理的な世界の話ではありません。気持ちがよい、接していたい、見ていたい、うれしい、・・・という主観性のよさに達さなければ「よい」とは言えません。この社の素材の掘り下げや構造の研究は徹底しているようですが、そのような物理的な優秀さは背後に隠れて製品の表面には出ていません。見て触れたときにそのよさ・美しさが実感できる、そんな感じです。
ROCKPORTが、「世界一履きよい靴をつくる」という大胆な理念を見事に具体化していることを知り、なんだかとても嬉しくなりました。それに価格も多くが2万円以下で、とても良心的です。
武田康弘
2008/06/06のBlog
[ 22:05 ]
[ 趣味 ]
わたしは、靴がとても気になります。
買うときは、何度も履いて時間をかけて確かめます。
生まれつき足が弱かったわたしは、幼稚園のときから遠足に行くと必ず夜は足が痛くなって眠れず、いつも父に足をさすってもらっていました。
買い物でデパートに行ってもすぐに足が痛くなります。
だから頑張って歩く練習、走る練習をしましたが、生まれつきの「弱さ」までは克服できませんでした。でも中学2年生のときは、毎日ひとりで自宅付近を走り、そのおかげで、駅伝の選手の選ばれました(運動部でないのに代表5人に選ばれたのは、学校=文京区第六中学校始まって以来の快挙!でしたー自慢です)。
そんなわたしがとても気に入っている靴は、ロックポートです。
アメリカ製だそうですが、どのようなメーカーかは知りません。
だいぶ前によい靴に出会い、気に入って毎日履いていましたが、今度新しいのを求めるに際してはじめてブランド名を意識したのです。
とても履きよく、長時間歩いても疲れず、石材や新素材の床でもアウトドアでも滑りません。しかも質感がよく、デザインも優れていて、皮製なのになぜか雨でも大丈夫ですし、シッカリしたつくりなのに軽いのです。見た目も履き心地も最高!です。
価格は13000円~19000円ほど、とってもお勧めです。
最後に、いい靴は、同じ大きさでも小さく見えるものですよ。
武田康弘
2008/06/04のBlog
[ 14:40 ]
[ 社会思想 ]
レトリック、詭弁、論点すり替え、強弁、怒号―石原慎太郎氏の言動は、ほんとうに酷いものですが、東京都教育委員会は、彼の国家主義的な言動を後ろ盾にして、学校現場で【民主主義原理】を潰す政策を次々と実行してきました。
そのひとつが、二年前に出された「学校の職員会議で、議論・挙手・採決によって教職員の意思を確認することを禁じる」という通達です。
わたしが今年1月の参議院における≪パネルディスカッション≫でも確認した【民主主義の原理】は、現場の人々が【自由対話】により物事を決めていくことですが、それを真っ向から否定するのが、石原都知事の意向を受けた東京都教育会による「通達」であるわけです。
ほんらい学校は、民主主義を学び、練習する場でなければなりません。絶対者のいない民主主義社会では、互いの自由を認め合う哲学の下に、自由対話によりものごとを決定していく以外に社会を運営する方法はありません。異なる意見を闘わせることで「合意」を生みだそうとする営み・努力が何よりも一番大切なのです。
上位下達の環境の中で生きれば、人間は思考力を失い、精神的な自立は得られません。教師自身がまず【自問自答と自由対話】の練習をしなければ、子どもたちの自由の可能性=思考力と対話力を伸ばすことは不可能です。民主主義社会をよく運営していく最大の能力をつけるどころか奪うような教育は、この世の最大の悪だ、と言えましょう。その影響は、世代を超えて受け継がれてしまうからです。現場の教師と子供や親がほとんど全ての決定権を持つ北欧の国々とは180度逆の思想・方法によるこのような教育は、近代市民社会の原理を否定するものとしかいえません。
東京都教育委員会のこの愚かな思想に基づく「通達」に対して、都立三鷹高校の土肥信雄校長は反旗を掲げましたが、彼のようにまっとうな言動をとる校長や教員でなければ、よい人間教育ができるはずはありません。都の教育委員に限らず、自民党文教族の議員や文部官僚は、自分たちの進める従順な教師と子供つくりがどれほどの罪なのかを自覚しなければなりません。個人の思想を鍛え強める教育でなければ、日本社会に未来はないのです。「上位下達」は国を滅ぼす愚か極まる思想であり行為です。猛省を促します。
武田康弘
追伸
なお、土肥校長は、東京都との【公開討論】を呼びかけていますが、ぜひ実現したいものです。討論者として声をかけて頂ければ、わたし(武田康弘)も参加しましょう。
2008/05/28のBlog
[ 11:20 ]
[ 恋知(哲学) ]
人間は、どんなに公共化されても「私」は「私」であり続けるから人間なのです。
いわゆる近代社会を成立させる原理である「一般意思」に吸収されてしまわないから人間=「私」なのです。物の存在とは存在仕方が反対で、私の生きる意味・価値は、「個別意思」をもつ独自の実存であるところにしか生じません。
「一般意思」=公論をつくるための自由対話の営みは、人間を他なるものの中で鍛え、よき社会人として成長するためにはどうしても必要なことですが、そこに「私」が生きる意味を求め、重ねることはできません。それでは実存としての人間ではなく、単なる公共人間に過ぎなくなります。
ソクラテス・プラトンによると、人間の最も高い魂は、知恵を求め、美を愛し、音楽・詩を好み、恋に生きるエロースの人に宿るとされ、それが恋知者(哲学者)の生だと言われます。
社会的・政治的なレベルの活動は、人が市民として共同社会をつくる上で極めて重要ですが、優れた「一般意思」の形成は、人がよく生きるための条件であり、それ自体は人が生きる意味・価値にはなりません。「一般意思」は、「普遍意思」とは次元が異なる世界です。
「一般意思」は、各自の主観から出発しつつ、みなのためを考え・求める意思ですが、それに対して普遍性という次元をめがける意思は、私の「個別意思」を、私の生の現場を掘ることでつくられるのです。優れた芸術家の意識は、みなのため、をめがけるのではなく、己の内部の目に耳に・・心に徹底して従うのです。「一般的」とは逆の発想だというのは、ベートーヴェンやセザンヌや・・・を見れば分かります。
芸術家でなくても誰でも心の一番大事な世界は、私の固有性の領域であり、社会化は不可能です。もちろん固有性のよさを社会に向けて示すことはできますが、「一般化」を先立てれば、固有性のよさは死んでしまいます。「普遍意思」とは「個別意思」の底を破るところから生じる世界であり、「一般意思」をいくら積み重ねても「普遍意思」にはなりません。両者は次元の異なる世界であることを知らないと、混乱をきたし、危険です。
人間をすべて社会化・公共化してしまえばどうなるか?昆虫になります。
武田康弘
2008/05/27のBlog
[ 09:08 ]
[ 私の信条 ]
白樺の原理
(恋知としての哲学=民知の立場)
競争による勉強は、心も頭も歪めます。
納得による勉強は、一生の得を生みます。
競争原理は、もう古いのです。
人類は、「国家と文明」以降、競争原理に支配されてきましたが、
それは人間を幸福にしません。
競争原理の廃止、納得原理の導入。
それ以外に人類の生き延びる道はありません。
納得は、生きるよろこびを生みます。
それは、外なる悲惨を超え出るのです。
武田康弘
2008/05/24のBlog
[ 11:40 ]
[ 私の信条 ]
あるべき、ではなく、
そうしていきたい、そうしていこう、そうするにはどうしたらよいか?
と考え、行為する。
しかし、それはけっしてうまくはいかないもの。
では、また、そこからどうするか?を考え、行為する。
それでも、うまくはいかないもの。
だったらどうするか?
繰り返すこと。何十回、何百回と繰り返すこと。
繰り返しそのものが人生だと気づくこと、おもったようにいかないのが常であることに気づくこと。
でも、実は、同じに思えるその繰り返しには、限りない力・見えない偉大な前進がある。
それがある日分かる。
そのとき人は限りない力を身にまとう。
2008/05/22のBlog
[ 12:14 ]
[ 恋知(哲学) ]
人間の抱くさまざまな欲望をもし「悪」だと考えれば、人間には救いがありません。
欲望が悪ならば、生き生きとしたもの、よろこびに溢れたものはすべて悪になり、禁欲的な修行僧や修道女のような生き方をしなければならなくなります。欲望の禁圧=人間の生命体としての自然性を否定する、という事態に陥ります。
「欲望の葛藤」が神経症などの精神疾患を起こすのは、ありのままの己の欲望を悪だとしてこれを抑圧しようとするからですが、しかし、もし欲望を肯定することに成功しても、それだけでは、「欲望の葛藤」から逃れることはできません。
肯定された後も、複数の欲望が互いに衝突を起こすからです。ある欲望を満たすためには、別の欲望を抑えなくてはなりません。いくつかの欲望が相乗作用を起こすこともありますが、その逆もあるわけです。
もし、自分の中で、欲望の優先順位、というより欲望の立体視による階層分けができれば、すべての欲望はケンカにならず、自分を活かすことに役立ちます。どんなに荒々しい欲望であっても、それは想像界を豊饒化するのに役立ちますし、また、現実の人間関係をよく豊かに広げるためには、言葉にならぬ激しい想念=欲望が必要です。どのような想い・欲望であってもそれを否定せずに、しかし、それがどのような次元の欲望なのかをよく知ることが大切です。次元を混同し、並列視してしまう意識が「欲望」を葛藤させ、マイナスに作用させるのです。立体視できれば「欲望の葛藤」は葛藤から抜け出て、より豊かな内的世界・より大きなよろこびの具現化・より広く柔らかな秩序の形成に向かいます。
キーワードは、立体化・立体視ですが、現代人にこれが難しいのは、平面的で技術主義の勉強=「学」が支配しているために、平面―面積を広げるのが偉いことと思い込んでいるからです。欲望の立体視-階層の違いが自覚できるか否か?それが、意味充実のよろこびの多い生を得るための条件です。
厳禁の生でも、放蕩・無秩序の生でもなく、柔らかく美しく健全な生は、欲望の肯定とその階層分け=立体視に基づくのです。
武田康弘
2008/05/20のBlog
[ 21:50 ]
[ 書評 ]
『日本が「神の国」だった時代』(国民学校の教科書をよむ)
入江曜子著 岩波新書・2001年12月刊 777円
この本は、高校生、大学生には必読書です。
日本の高校生、大学生が「現代の歴史」を自分自身の経験と照らし合わせて知ることは必須の営みですが、いまだにこの基本的な課題が果たせていません。わが国の学校教育の不備・歪みです。
この本の最後で指摘されている戦前・戦中の日本の問題点は、なんとも残念なことですが、今日でも克服されていません。
以下に書き写します。
「この時代、このような教育と訓練の名による超国家思想を刷り込まれた不幸は、
一体感のなかに、横並びの価値観のなかに自己を埋没させる快感―判断停止のラクさを知ってしまったことである。
そしてもう一つの不幸は、全体主義のまえに個人がいかに無力かということを知ってしまったことである。
そしてさらなる不幸は、いかなる荒唐無稽も、時流に乗ればそれが正論となることを知ってしまったことであり、
それ以上の不幸は、思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期をすごしたことであろうと思う。」
2008/05/17のBlog
[ 10:05 ]
[ 社会思想 ]
市民が裁判を行う裁判員制度は、民主主義の理念の具現化=現実化ですが、
これから導入される日本の裁判員制度は、マヤカシというよりも意図的な詐術です。
市民が裁判に関わるほんらいの意味は、行政権力(官の問題)を市民の【常識】に照らして裁くところにあるはずですが、今回の裁判員制度は、刑事裁判にのみに限定されています。
刑事事件(強盗・殺人・強姦 などの個人犯罪)の量刑を決めるのに市民が関与する意味は希薄だと言わざるを得ません。【個人のおぞましさ】を裁判に関わる市民はイヤというほど見せられるわけですが、ほんとうは、個人の持つおぞましさ・悪に比べて、【行政権力が犯す罪】は、桁違いのものです。
【個人の悪】の生々しい提示は、【行政権力の悪】(=検察に悪だと決められたら無実でもまず逃れられないのが現状で、その実態は最近刊行された『冤罪ファイル』に詳しいですが、国連から日本政府に対して改善命令がでる理由がよく分かりますー戦慄!)から目を逸らさせる役割を果たすことになります。
行政権力は、酷い「悪」(例えば薬害で亡くなった方がどれほどか))をなしても裁かれません(行政マンの個人的なハレンチ罪以外は)。冤罪をつくった検事も罪を問われないのです。
このような【民主主義の暗部】(官の絶対化・行政権力の肥大化)を改善するのが、ほんらい裁判員制度の一番の意味なのですが、そこには全く市民を関与させません。刑事事件=個人がどれほど恐ろしいことをするかを生々しく見せることで、【ほんとうの問題】から目をそらさせること、そこに裁判員制度の狙いがある、そう断じても間違いないと思います。形は民主主義の発展、中身は行政による民の支配の拡大。
個人は悪をなす、したがって、行政権力による指導と取り締まりと厳罰化が必要だ。取り締まる側である行政権力は正義だ!?というわけですが、これほどの欺瞞はありません。極めて恐ろしいことです。
【民主主義の原理】の確認がいま何より大切です。あらゆる問題を【詐術・騙しで乗り切る】わが国の現実を変えることは、ふつうの市民みなの得を生みます。真実を生む仕組みをつくることが何よりも求められるのです。
武田康弘
2008/05/14のBlog
[ 20:33 ]
[ 社会思想 ]
以下は、白樺MLです(一部カット)。
武田です。
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それにしても【公民連携】!?というような逆立ちした発想・言い方がまかり通るようでは困ります。「官」を「公」と呼び、しかも「公」が先!?という思想の下での「公共」など真っ平ごめんです。インチキ公共性の思想を哲学的土台からきちんと始末しなければ、すべては砂上の楼閣です。
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次に、
わたしが、少し前に、「一般意思」、「普遍意思」、「絶対意思」、とメールに書いたところ、古林さんから解説を依頼されましたので、今日の記念すべき!!『愉しい哲学の会』で、そのことをお話しました。以下に、「一般意思と普遍意思」についてまとめておきましたので、ご意見、ご質問、異論、反論、批判をよろしくお願いします。
☆公共性=一般意思とは、「私」がつくる一つの次元。
社会生活上、こう考えるのがよいー妥当だ、という意思=「一般意思」は、公共的・社会的・政治的な次元においては、絶対的な基準となるものです。
しかし、それは「私」が生きる固有の価値ではないので、そこに人生の意味充実を求めることはできません。「私」と「一般意思」が同じになれば、そこでは「私」が生きる固有の生の意味・価値は消え、私はただの事実としての人=「事実人」=「一般人」になり下がってしまいます。
「私」の世界の中にある一つの次元として「公共的人間」は成立しているわけですが、人間がイコール「公共的人間」になってしまえば、それは固有の生の価値をもった人間ではなくなるわけです。この簡明な存在論的事実を、いわゆる「政治的人間」は自覚できないために、議員は偉い!?というような愚かな想念とりつかれるようです。市民の意思の代行者である議員が「先生」と呼ばれて怪しまないというのは、笑止でしかありませんが、なぜ、こんな当たり前の話が分からない人が多いのか?ほんとうに困ったものです。
私が生きる価値・意味は、私の情緒、私の想い、私の趣味、私の身体、・・・にあります。内的な私の固有のよさ・美しさにあるのです。それは、「個別意思」を普遍化(決して一般化ではありません)させる「私」の努力・営みであり、そこにこそ人生の意味充実のエロースがあるわけです。「一般意思」はこの「普遍意思」の世界を発展させるための基礎条件なのです。
もちろん、社会的・公共的な条件をできるだけよいものにする営為=「一般意思」の形成とそれを実現するための努力には大きな価値がありますが、どこまでもそれは手段です。手段に手段としての価値以上の意味を置けば、「個別意思」の高度化・普遍化という「私」が「私」として生きるエロースは消え、「普遍意思」は形成されにくくなります。「一般意思」しかない、というのでは、単なる「事実人」にすぎなくなりますから、くれぐれもご注意!下さい。
武田康弘
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