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2008/08/26のBlog
[ 23:20 ]
[ メール・往復書簡 ]
タケセンへ。
あなたの目は物事を鋭くキャッチし、即座に頭の中が速く回転する。
瞳は今まで生きてきた経験を物語りつつ、純粋な心を映している。
でかい声はどこまでも響き、人々の心の奥底にまで伝わる。優しさと厳しさ、愛情がこもった声がアウトサイダーやまともな人々を引き寄せる。
「気」を入れる手は大きく温かい。
これらの事ができるのは「宇宙人」だからでしょうか~?
(A)
―――――――――――――――――――
Aさんへ。
高く評価して頂き、感謝です。
わたしは、自分の周囲と日本社会の状況を引き受けて生きてきました。徹底的に、と言っていいほどに。
しかし、小学生の終わりころから始まった天文熱ー天体観察と天文学への興味は、いつも自分を人類という生命体のひとつとして意識させ、恐ろしいほど危ういバランスの上に成立している極めて貴重な地球という惑星への愛を育てたのです。
中学生の時(1966年~)、小口径の反射望遠鏡で月面のクレーターをスケッチし写真を撮りながら、いつもわたしは【地球を見て】いました。月面から見れば青い星ー地球は、いま見ている月の4倍ほどの大きさ(面積は16倍)に見えるはず、その美しい惑星の上で一瞬の生を営む自分の存在を想っていました。しかしその一瞬は、言葉にできぬほど貴重なときー絶対的な時間ー至高の一瞬であることを深く強く感じていました。
この奇跡の星・地球の上で人を愛し、すべての生物と自然を愛し生きるーこれほどの善美はない・・・わたしの自我はエゴではなく、はじめから純粋意識でした。
子供~青年であったわたしには、大人社会はエゴの塊=エゴの組織化=エゴの合法化=エゴの言い訳にしか過ぎないと見えました。昔の豪族の一つである天皇家というものを宗教(絶対)化して特別視する政治や文化は、国家規模に拡大されたエゴでしかないと思い、底知れぬ気持ち悪さを感じてもいました。
流行や表層の美ではなく普遍的なよさや美しさを求めるわたしの心は、幼少時に養われたようです。時流や周囲の人々の意思に惑わされず、静かに・深く・熱く自己に問う心は、幼い頃よりの習い性なのです。
いつも地球という惑星に生きるひとりの貴重な「宇宙人」であるという意識を通奏低音のように感じつつ、現実の人間と社会と周囲の状況に関わり引き受ける、それがわたしという存在かもしれません。
武田康弘
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[ ねこ姫 ] [2008/08/27 21:40] [ 削除 ]
初カキコです。初めまして、ねこ姫と申します。
幼い頃からすでに色々な物事を深く強く考えていたのですね。
その感受性は素晴らしいですね。
質問です。
「純粋意識」とは「この奇跡の星・地球の上で人を愛し、すべての
生物と自然を愛し生きる」意識のことでしょうか?
もし違っていれば、例を上げてご説明お願いします。
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[ タケセン ] [2008/08/28 12:26] [ Myblog ] [ 削除 ]
ねこ姫さん、
コメント(質問)ありがとう。
①純粋意識と②エゴの区別は、①ある対象に向かう意識と②それをしていることを意識している自意識の違いです。
人間の意識ないし自我と呼ばれるものは、二重化していて、純粋意識だけがあるということはまずあり得ません(完全にわれを忘れているという瞬間くらい)。
②の方強いか①の方が強いかの違いですが、自意識過剰、などというのは②が強いわけです。それは自他にとってよい状態とは言えないですね。
哲学は、②の自我の拡大や理論による武装のことではなく、逆に、先入見や知識や理論によって曇っている自我意識を絶えず純粋意識の働きで透明にする努力である、わたしはそのように考えています。
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[ ねこ姫 ] [2008/08/29 02:01] [ 削除 ]
返信ありがとうございます。
人間誰しも自我を持っている、と言われていますが
自我よりも純粋意識の方が強い人というのはわかりやすい形で
どのような人のことを言うのでしょうか?(実際活躍されてる方や
歴史上の人物でも構いませんので例をお願いします)
そして、純粋意識を高めるにはどうすればいいのでしょうか?
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[ タケセン ] [2008/08/29 10:11] [ Myblog ] [ 削除 ]
そうですね~
ソクラテスや釈迦では歴史的過ぎますね(笑)。
ツァイス財団の創立者のエルンスト・アッベ、物理学者のアインシュタイン、江戸幕府の御用学者・教師を辞し、郷里に私塾を開いた中江藤樹(近江聖人)、小学校の教科書で長く取り上げられてる田中正造、・・・・・・(きりがないですね)
もっと分かりやすい最近の事例では、自衛艦あたごの事故時の自衛官たちの言動と漁民たちの言動です。テレビで連日報道されていましたので、誰でもが感じたと思いますが、自衛隊員(特に幹部)の自我主義と漁民たちの透明な意識(純粋意識)の違いは鮮明でした。
2008/08/19のBlog
[ 23:40 ]
[ 恋知(哲学) ]
「学」にたずさわる人は、いつも活字中心、というより活字ばかりの生活をしているためなのでしょうか、異なる次元の話を同一次元で語ってしまうことが多いようです。
ふつうの人が十分承知していることが却ってなかなか分からない、ということがよくあります。
物事が「分かる」ためには、言葉による整理以前に全身でよく感じ知ることが必要ですが、活字中心の生活をしていると、【言語観念の現実】が優先するために、「現実」が平面的な活字世界と同列になり、理屈だけの空疎な世界に陥ったり、まったく無用な難問が生みだされることになります。また、言葉によってそれなりの整理が出来ると、「分かった」と思い込むことにもなります。
活字理論=書物が先にあり、それに合わせて現実を見るという「逆立ち」に気付かないので、ふつうの生活者とうまくコミュニュケートできないのですが、それを、一般人より優れているからだと思い込んだのでは救いがありません。それでは「学・オタク」としか言えませんが、ここからの脱出は極めて困難です。周りの人も高学歴者や「学」にたずさわる人を偉い・頭がいいと思いこんでいるために、自己誤認の「ああ勘違い」から容易には抜けられないのです。
わたしは、「民知」という立体的で実践的な知=「ふつうの知」が何よりも大切だと考えています。全身でつかみ、実際・現実を掬い取るように知るためには、活字が「先立つ」のではなく「後立つ」必要があるのです。
例えば、深く豊かな音楽体験を持っていなくても、言葉で音楽を上手に語ることができます。
絵や写真や彫刻などの美術体験や創作体験が希薄でも、言葉で分かったようなことは言えます。
昨日今日なにかしらの社会活動に携わった人でも、理論・知識をため込んでいれば、人の上に立つことができます。
子育てや教育の豊富な経験に裏打ちされた思想がなくても、書物の知識で教育哲学を語ることはできます。
活字が特権を与えるのですが、【言語を先立てる】このような手法は、もちろん詐欺でしかありません。この生々しい人間・現実とは無縁の観念遊戯でほんとうのことが分かると思っているのなら、ただオメデタイとしか言いようがありませんが、こういう現代の知は、私たちの社会の現実に計り知れない害を与えているのです。問題を解決せずに、逆に煩雑にし、混乱をもたらすからです。
生活世界に根を張ったほんとうの知、人間の心や社会の「現実」に意味のある有用な知が必要で、それこそがほんとうの知ですが、そのためには、言語観念を先立てるのではなく、心身の全体を使って体験する能力と、日々の体験から多層な意味を汲みだす力を育むことが必要です。ほんとうに言語を大事にし、言語に生きた意味と価値をもたらし、言語に優れた有用性を発揮させるためには、言語を後立てる「民知」という発想が求められるのです。よく見る・よく聴く・よく触れる・よく味わうー五感・全身を使って豊かに感じ、イマジネーションを広げることが何より【先立つ】のです。これは認識と生の原理です。
武田康弘
2008/08/14のBlog
[ 14:48 ]
[ 社会思想 ]
いわゆる「世間」という自分たち【庶民の公共世界】と、
【国=お上という公(おおやけ)の世界】を分けるのは、多くの人の自然な考え方です。
年配者ほどそう考えます。
それは当然のことで、戦前の教育は、小学生の子どもたちに天皇陛下を崇めさせました。生きている神であり、大日本帝国の主権者であり、軍隊の統帥者である天皇陛下とその一族である皇室は絶対の存在で、日本臣民はみな天皇の赤子である、と教えられ、天皇陛下のために戦争に行き戦死すれば、『靖国神社』に国家の神として祀って頂ける、と教え込まれたのです。
「近代国家」でこれほど徹底した洗脳教育を行った例はどこにもありません。【国家の主権者であり、政治的・軍事的支配者であると同時に「神」である】!?これは狂気としか言いようのない思想ですが、それを学校教育で徹底させたわけです。明治の自由民権運動を根絶させた山県有朋や伊藤博文らの超保守主義たちの思想は、人類の歴史上まれにみるおぞましい結果を招来しましたが、その実態はいま、NHKのテレビなどで詳しく報じられています。体験者たちの生々しい証言は、聞くに堪えません。
民主主義社会では、主権者はわたしたち一人ひとりである。わたしたちのお金と意思で政治を行っているのであり、政府や官僚組織は主権者の意思を代行する機関に過ぎず、ふつうの市民に共通する利益(市民的な公共)を確保するためにのみ存在するーという原則は、戦後60年以上経ったいまもなお、残念ながら、明瞭に意識されることがありませんが、それは、上記の近代天皇制の思想教育の徹底が、いまだに「お上=公」と「世間=市民の公共」という分裂した意識を生んでしまうからでしょう。いまなお続く、東大法学部→キャリア官僚支配は、彼らが天皇の官吏として国=公(おおやけ)の特権者だったからなのです。民主主義の思想の徹底と、それに沿った意識・制度改革が急務です。
東大出版会のシリーズ「公共哲学」(全20巻)の編集方針は、この分裂の事実をそのまま理論化したものですが、それではこの現実を掘り、変えることはできません。
「政府にやって頂いてありがたい」!?とか、逆に、「お上の世話にはならない」!?という言い方がよくされますが、これは民主主義の本質を全く理解していない(理解できないように教育されてきた)ことの証左です。この悲しくおぞましい現実を動かさない限り、日本社会に【ふつうの個人が輝く】時代がやってくることは、けっしてないでしょう。
明日は、敗戦記念日。
国家の頂点に立つ者の戦争責任すら問えない無責任体制が戦前の「天皇主権国家」だったわけですが、ここから脱却しない限り、わが日本人は永遠に不幸です。
民主主義は形だけ、民主主義の内実である「自由対話」はなし、これでは人間は人間になれませんからね。
武田康弘
2008/08/03のBlog
[ 12:27 ]
[ 恋知(哲学) ]
ああでもない、こうでもない、
ああしろ、こうしろ、
うじうじ、ねとねと、
悪口、蔭口、
細々小言、
他人をセンサク、
無限のお喋り(笑)。
それでいて、【対話】や【議論】はなし、大学人など「エリート」?と目されている人は、特に「対話」はなし。議論することは、不文律でご法度!受験勉強〈命〉で生きてきた人は、心と頭の幹が弱いので、対等・自由な議論はとても無理。多くは、心理的にまた実際的に「外国」に逃げるー欧米か(笑)。そういう人が「頭がいい」のですかね~!?
どうも、残念なことに、わが日本人は、ウザイのに(笑)ちゃんとした話や議論はしないーできない人が多いですね。対話の文化、やりあうエロースがなく、すべて一方通行(親→子、教師→生徒、上司→部下・・・)そこでは、丁々発止のやりとり―ことばを身体にまで届かせるための「きつくて面白い」対話文化がないのです。生きることの内実を豊かに膨らませる知恵がなく、ただ、決まっている!?「正解」を示すだけの貧しい人間性が跋扈する。
上位者は、一方通行の正解を下位者に命令・伝達するだけですから、楽でしょうが、それでは、上位者の心も頭も進歩がなく、つまらない存在にしかなれません。つまらない存在であることは、顔や体を見るとすぐ分かります。こわばっているのです。笑顔も脳の指令でそうするので、人工的で魅力がありません。しなやかさ、柔らかさ、自然さ、のびやかさ・・がないのです。硬直してギクシャクしています。観念=言語優先で、スタティックです。生きる悦びがなく、すべてが型どおり、「正解」に怯える脅迫神経症者であり、死んでいるもの・止まっているものしか愛せないネクロフィリアですが、これは「生の失敗」としか言えません。学歴、肩書き、地位、家系、金=外なる価値を目的とする生を歩む不幸に沈んでしまいます。「内的世界」のない底なし地獄を生きるほかなくなります。
上位下達で、自由対話のないところには、人間的なよきもの美しきものーエロース豊かなよろこびは生じないのです。
自分の思いや考えを相手に押し付ける愚かな行為をやめ、きつくて楽しい有意義な対話をしましょう!!わたしはそう思い、もう何十間も、丁々発止のやりとり、忌憚のない対話、ホンネトーク、厳しい議論、自由対話の集い、みなでする哲学の会・・・をず~~~と続けてきましたが、みなさんもぜひ、お仲間に!!できることから始めてみて下さいね。
武田康弘
2008/08/01のBlog
[ 10:39 ]
[ 私の信条 ]
2008/07/26のBlog
[ 12:51 ]
[ 趣味 ]
この16-80mm(フルサイズ換算で24-120mm)は、
さすがにツァイスがデジタル用に新設計しただけのことはあります。
色の抜けのよさ、純白のキャンパスに描かれた絵、とでも言えばいいでしょうか。他社のレンズと比較するまでもなく、一目で色の純度が高いことが分かります。
これは、フィルム時代からのツァイスの特徴で、わたしがテストした国産レンズは、みな白が濁るのです。だから、画像の品位下がり、立体感も得にくくなります。
この特徴は、その場で画像が見られるデジタル時代には多くの人に分かるのではないでしょうか、一目です。
また、色のりがよく、その色が実物よりもわずかに艶っぽく見えるので、見る人の感情を満足させます。
ツァイスのレンズは、画像に豊かなエロースがあるために、その価格を忘れさせます。いくらでもいい!?(笑)という気持ちになるのです。おお、恐っ!(笑)。
こういう色のレンズを一度使うと、まず元へは戻れないでしょう。日本的な侘び寂(わびさび)の世界とは対極の明澄な善・美の世界は、エーゲ海のよう?
☆こういう違いは、客観テスト・評価では出ません=表せません。
自分で撮ると違いは一目ですが、その違いの優劣の評価は、何を価値と考えるかという主観性の領域で決まるからです。結局は、善美の基準=生き方=哲学の問題になります。例えばトヨタの車が売れるのは、それが現代の管理社会の「よい」に合致しているからですが、ツァイスの思想はそれとは大きく異なり、ルネサンス的な「人間性への信頼と肯定のロマン」に通じる善美だと言えましょう。
ただし、これはズームレンズですので、同じツァイスの単焦点レンズ(いまのところ85mmと135mmしかありませんが)と比べれば差があります。
135mmとの違いは、3点です。①まず、色の透明度と忠実度が違います。135mmは透き通るような色で繊細な表現ですが、ズームはこれと比べると細やかさが不足しますし、少し派手でつくられた色に感じます。②次に、解像度はかなり違います。パソコン画面上では拡大されますので、違いは大きく現れます。135mmは極めて線が細くどこまでも解像して恐ろしい程です。一方、ズームの方は、必要にして十分な解像力といえますが、比べれば相当に差があります。ただし、コントラスト重視の設計で見せ方がうまく、プリントした写真は美しく見栄えがします。③最後の違いは、トーン(階調)の滑らかさと豊かさですが、16-80も健闘していますが、これはもともとズームが苦手とする分野で、差がつきます。
総合すれば、135mmは、繊細・緻密・透明でありながら、盤石の安定・強さを示す比較を絶したスーパーレンズですが、16-80mmズームは、ベールを剥がしたような美しさを、分かりやすく、くっきりと示す優秀レンズだ、と言えるでしょう。
ソニーα350とのバランスは、大きさ・重さ・デザインともに良好です(写真を参照)。
おまけ。
ある方のブログをご紹介します。キャノンのLレンズとの比較写真です.
キャノンは、フルサイズ用の24-105mmF4L IS USMで、
重さは670g、定価は、152250円です。
ツァイスの方は、このズームとは違いますが、レンズ一体型のソニーサイバーショットDSC-R1のレンズ(焦点距離は同じ)です。定価は、カメラ一体で99800円ですが、現在は発売されていません。なお、このレンズは、レンズ構成も開放F値も、ここで私が取り上げた一眼レフ用のDT16-80mmズームとは異なります。
武田康弘
2008/07/23のBlog
[ 09:49 ]
[ 私の信条 ]
ふつうの日常の生活には無限のたのしみとよろこびがある。
例えば、背筋を伸ばし、腕を後まで振って歩いてみる、とっても気持ちがいい。心身が生き返る。
フィットするスポーツシューズを履いて、軽くジョギング。自由に好きに飛び跳ねる。ウキウキしてくる。
デジカメ持って、そこらを散歩してみる。ふだんの世界ががぜん色づく、ファインダーは万華鏡だ。
はっきり明瞭な声で話す。
音楽に合わせて、ハミングし、踊る。
感情移入し、情景をイメージし、詩や小説を声に出して読む。
友人と話し込む、本音トークは頭脳の活性化だ。形だけの会話、当たり障りのない無駄話ではなく、真面目に、本気で対話する。まったく違う世界が広がる。
自分を貶めるような他者への迎合ではなく、自分を高める心身の使い方を工夫する。
感覚と心と頭を柔らかくしなやかに。脱力する。
既成の枠組みの中で他者の目と言葉に翻弄されて生きるのは愚かだ。自分の心身の全体を使い、自分の頭で考え、自分が生きる。
ふつうの日常の生活は、よきもの・美しきものの無限の宝庫だ。それに気づくか否か、それを活かすか否か、それが人間の価値を決める。
どこか遠くによきものがある、と思っているうちは貧しさから抜けられない。
魅力ある世界を自分自身の心身と身の回りに発見し、開拓しつつ生きる人こそが魅力的な人だ。それがエロースの生。
武田康弘
2008/07/15のBlog
[ 11:19 ]
[ 趣味 ]
(下のブログのつづき)
ツァイス ゾナー135mm F1.8ZA
まず一目でわかるのは、色の透明度と品位、シャープネスの違いです。
描写は大変きめ細やか、緻密で正確です。恐ろしいほどの解像力ですが、特別な強調感や癖が全くなく実に自然です。
次に色ですが、極めて透明度が高く、少しの濁りもありません。偏りがなく大変忠実な再現ですが、どこか近寄り難いような美しさを感じます。
絞り開放でボケを生かした撮影でも、画像は凛として立っています。
また、階調の幅が広く、なめらかです。これはズームレンズが不得手とする分野です。
ボケは、何がボケたかが分かるような芯のある美しさですが、階調の豊かさとあいまって見事な立体感を生みます。
見るからに高級な光学ガラス、特別なコーティング、ズシリとくる重さ、洗練されたデザインと金属鏡筒が醸す風格、とにかく使う人にも覚悟がいります。おいそれと使いこなせるレンズではありません。
かつて、コンタックス用のプラナー135ミリF2という大口径レンズを、たった5枚のレンズでつくるという離れ業を演じたツァイスですが、今度は、ショット社(ツァイス財団グループ)が開発したEDガラス2枚を含む11枚構成で、徹底的に諸収差を除き、F1.8開放から驚くべきコントラスト再現性と解像力を持つスーパーレンズを出してきたわけです。
これは、デジタル時代に放つツァイスの矢ですが、おそらくこのレンズを見てキャノンやニコンの技術者は心胆を寒からしめたのではないでしょうか。「写真はレンズで決まる!」をこれほどまでにはっきりと示したのは、ツァイスの高邁なプライドかもしれませんが、それにしても、ため息が出るほど美しい写りのレンズです。
武田康弘
2008/07/10のBlog
[ 08:02 ]
[ 趣味 ]
写真・カメラは、小学3年生以来、四十数年の長~~い趣味ですが、デジタルが普及しても、デジカメはコンパクのみ、一眼レフはフィルムで、という状態が続いていました。
わたしは、フィルム版の一眼レフは、ペンタックス、二コンを;中心に主要なものはほとんど使いましたが、レンズのもつ描写性が気になり、1980年ころからは、コンタックスのツァイスレンズだけを使ってきました。ツァイスレンズは、設計に明確なコンセプトの違いがあり、それぞれのレンズは他に代え難い個性・魅力をもっているため、次第に増えて11本にもなってしまいました。
1999年にブローニー版のコンタックス645が出たときもすぐに購入し、レンズは7本(+テレコン)を使ってきました。このブローニー版のツァイスレンズは、ハッセル用のレンズとは全く異なり、すべて新設計のもので、透明で力のある描写性は圧倒的なものです。文字通り世界最高のレンズ群です。
しかし、なんと、その製造・販売をしていた京セラが、3年前に突然カメラ部門をすべて廃止してしまい、コンタックス用のレンズは宙に浮くという異常事態になってしまいました。これほどの反・公共的な会社は、いままでカメラ業界にはありませんでした。大企業でありながら、社会的責任を果たそうとしない京セラの経営姿勢は厳しく批判されなくてはならないでしょう。
話を戻します。
フィルムカメラ用レンズの描写性が気になり、ツァイスに魅かれてきたわたしですが、最近のデジカメの進化を実感し、時代の変化に合わせて、写真・カメラと新しいつき合い方をする必要を強く感じるようになりました。そこで、一眼レフもデジタルを買おうと思い、一年ほど前からいろいろ見てきました。
一眼レフであっても、デジタルカメラの利便性を活かすには、高倍率のズームを使いたい、多少の画質の問題はデジタル処理で乗り越えて、と考え、描写に柔らか味があり、立体感もあるタムロンの18~200、ないし18~250(共にAPSサイズ用)を使うためのボディーとして、ソニーかペンタックスという選択になりました。コンパクトデジカメで手ブレ補正のありがたみを強く感じていましたの、ボディー内手ブレ補正のついたAPSサイズの一眼レフが必需と考えましたが、その条件を満たすのは上記の二つのみなのです(なお、35mmフルサイズ換算で広角28ミリから望遠200ミリ以上という私の希望を満たすレンズ内補正がついたものは、APSサイズではありません。タムロンのレンズ内補正の28-300は、APSにすると広角側が42ミリとなり失格です)。また、フルサイズでなくAPSで、というのは、製品の種類や熟成度の問題もありますが、大きさと重さが尋常ではないフルサイズは嫌だったからです。35mm版なのに大きく重いのはRTSⅢだけで十分!(笑)。
そこでソニーかペンタックスか、ですが、デジタル時代の新しいツァイスレンズが装着できるソニーは魅力です。軽く比較的小型で持ちやすいのもよいですし、α200、350は、見た目も優しい感じなので気に入りました。結局、ライブビューも使えてよりデジタルらしいα350に決定!となったのです(カメラのキムラ沼南店では「価格コム」の全国最安値より安く販売していました。ヨドバシやビックに行く必要はないようです)。
なんだか長くなりましたが、ここからが本題です。レンズの話です。
購入したα350から生情報をパソコンに取り込みRAW現像をしてみると、ビックリ!大変優れた画質であり、自分で画質調整可能なのも気に入りました。わたしは中学生の時から長いこと、モノクロ写真は自分で現像・引き伸ばしをしてきましたが、天体写真(月面)では、覆い焼き・焼き込みをしなければ写真になりませんし、惑星面の写真では複数のネガによるコンポジット作業が不可欠です。一般写真でも、ほとんどの場合覆い焼きをしなければ満足な仕上がりにはなりません。でもカラーはラボに任せるほかなく、いつも不満でした。けれどもデジタルによるRAW現像は、パソコ暗室作業のようであり、カラーも思いのままです。
ウ~ム、これではフィルムカメラの出番はなくなるな、と思い、よし、と決断しました。カメラ保管用のケースから溢れてしまった(笑)35ミリフィルム版カメラとレンズを売ることにして、スリースター商会というお店に電話をしたところ、すぐに来て、高値で買い取ってくれました(RTSⅢは飾りにするので!?残しました)。古くても売れるのはさすがツァイスです。
そのお金の一部で、デジタル用の新設計レンズ、ツァイスのゾナー135ミリF1.8を購入、さっそく撮ってみました。
ウ~、ウエ~、フー、なんだこれは!(下品な言い方で済みません)これはあまりに凄い!凄すぎる。マクロレンズとしてまたポートレート用としても評価の高いタムロン90ミリF2.8が「おもちゃの描写」としか感じられない、のです。あまりの描写力の違いにただ唖然!やっぱり写真はレンズで決まるーーーー。デシタル処理ウンヌンという次元の話ではありませんでした。元がよくなければダメなのです。当り前の話ですね。
詳しくはまた今度書きます。お待ちください。とにかくツァイス財団の恐ろしさ(超~魅力)を改めて感じたのでした。
武田康弘
2008/07/08のBlog
[ 08:39 ]
[ 趣味 ]
「民芸」思想と運動の中心者であった白樺派の柳宗悦の妻、兼子(かねこ)は、日本最高のアルト歌手でしたが、夫の宗悦を物心両面で支え続けた人でした。
当時の常識に反して学生時代からの恋愛による結婚でしたので、兼子は「不良」と目されました。
彼女は、
生活においても、
芸術においても、
天皇制の日本政府によって虐げられた朝鮮の人々との熱い交流においても、
まったく怯(ひる)むことなく闘う人でした。
しかし、というか、それゆえにというか、兼子の顔は、優しさと厳しさが両立し、品のよい美しさに満ちています。
歌も姿勢も筋が通り、実に上質です。
体制に寄り添い、集団に同調し、狭い得を追う「俗人」とは根本的に違います。
人間の品位が高いのです。
その兼子が、晩年に一番尊敬し、敬愛した作曲家が、清瀬保二(きよせやすじ)でした。
清瀬もまた、既存のいかなる組織や団体とも無縁で、白樺派に親近性をもち、独学で音楽を極め、その質において日本最高の作曲家と言われました。世界的に有名になった武満徹は彼の弟子ですが、音楽の健全な強さと品位の高さにおいては師である清瀬保二を越えることはなかった、とわたしは見ます。
清瀬氏は、音楽上でも政治上でもけっして権威、権力に屈せず、闘う人でした。彼の音楽は純粋な強さをもち、極めて品位の高いものです。その顔もまた優しさと厳しさが両立し、品のよい美しさに満ちています。
わたしが見る限り、権力や財力に頭を下げ、地位や肩書きを求める人には、ひとりとして美しい人・品のよい人はいません。ほんとうの上質とは、己の存在を凝視し、その存在を世界に開き賭けるところからしか生じないのでしょう。周囲に迎合せず、深い孤独を引き受ける潔(いさぎよ)さが、よき美しき上質を生むのだと思います。
なんとも嬉しいことに、清瀬保二のピアノ独奏曲全曲(「東北のわらべ歌」は一部カット)が先月発売されました。待望していたCDですが、演奏もまた素晴らしいものです。ここでもまた、ピアニストの花岡千春さんは「美しい人」として知られる人のようです。みなさん、ぜひお聴き下さい(クリック)
以下は、HMVに書いたレビューです。
「健全な強さ、土着的にして洗練の極、その質において、おそらくは日本最高の音楽である清瀬作品は、しかし、権威からも、伝統からも、前衛からも離れた孤高の存在ゆえに、既存の音楽家が手に負えぬものとなっていた。ところが、予期せぬところから素晴らしいCDが出た。花岡千春さんに感謝だ。清瀬保二の最初のピアノ独奏曲の録音としては、この清く手堅い演奏は、とても貴重である。」 (タケセン, 我孫子市)
武田康弘
2008/07/01のBlog
[ 20:03 ]
[ 恋知(哲学) ]
北海道の文化誌『カムイミンタラ』より依頼された原稿を以下に載せます。
2008年07月号/ウェブマガジン第22号 (通巻142号) [ずいそう] (クリックで出ます)
恋知としての哲学=民知について
武田 康弘 (たけだ やすひろ・白樺教育館館長・白樺文学館初代館長)
「白樺教育館」に通う高校生・大学生・一般成人者の方は、哲学を学んでいます。
というと、哲学書を読解し、哲学講義をしているところと思われるでしょうが、少し、いえ、かなり違います。
わたしは、フィロソフィーを「恋知」(れんち)と直訳し、その初心を活かそうと考えているのです。この恋知としての哲学は、ふつうの生活者が、日々の具体的経験に照らして、ものごと・できごと・人生・社会の意味と価値について自分の頭で考えてみることなので、これを「民知」と呼びます。
哲学の本をまったく読まない、というわけではありませんが、本の読解は必要最小限にとどめています。恋知を、哲学書を読むことから解放しないと、ほんとうに「私」が感じ・思うところから自分で考える営みが始まらないからです。自問自答したことをみなで聴き合い・言い合う自由対話こそ「哲学する」醍醐味なのだと思っています。書物はそのための触媒に過ぎません。
このような営みは、事実について調べ覚える勉強・学問(「事実学」)ではなく、意味と価値を問う思考なので、「意味論」と言いますが、この意味論としての知を豊かに広げることがないと、「知」は、他者に優越するための道具にしかなりません。受験知のチャンピョンになるための知は、自他を生かしません。競争の知から納得の知へのチェンジ!!というわけです。
人類は、「国家と文明」成立以降、「競争原理」に支配されてきましたが、いま、文明の大転換をはからなければ、どうにも先が見えません。競争ではなく納得(腑に落ちる)を原理とする生き方がそのための鍵ではないか、そうわたしは考えています。外なる価値を追いかけ、他者との比較や勝ち負けで生きるのではなく、内なる意味充実を基準として「納得原理」による人生を歩む人を恋知者=哲学者と呼ぶわけですから、わたしたちはみな哲学者になるべきだ、と言えるかもしれません。
上位者に盲従する反・哲学的な生ではなく、「私」から出発し「私」の固有のよさを開花させながら生きる人でなければ、シチズンシップに基づくほんらいの公共性・社会性を獲得することもできないでしょう。「一般意思」(公論)の形成という社会生活を営むうえでの一番大事な営みも、「私」の実存の輝きに照らされなければ、意味を持たず、色を失ってしまいます。
わたしは、小中学生の意味論としての学習に取り組んで32年、高大学生と成人者との恋知としての哲学=民知の実践を続けて21年がたちますが、さて、これからが本番です。みなさん、ぜひご一緒に!!
2008/06/28のBlog
[ 11:52 ]
[ 教育 ]
哺乳類、とくに人間は、身体的な接触(スキンシップ)がないと情緒不安となり、心身に変調を起こしキレることはよく知られています。
栄養・睡眠・衛生等に十分に配慮しても、身体的接触がないと幼児の死亡率は異常に高まります。死に至らぬまでも、その心身へのダメージはとても大きなものとして残ります。
わたしは32年間こどもたちを見てきましたが、これは経験から深く納得できることです。
身体的な接触が少なく言葉優先で「躾」を受けてきた子どもは、情緒が安定せず神経質です。場や文脈を無視して「言葉」に異様に反応し、関係性を豊かにする中で生きるのではなく、【言葉がつくる自己観念】の中でその判断を絶対化して自他への攻撃性を発揮します。そうなるといかなる言葉も通じません。人は攻撃性をもつと理性は働かず、自己正当化・絶対化の言動を繰り返すか、逆に自己破壊的な心に支配されるようです。
わたしは長いこと、情報だけを与えられ直接の接触が断たれると攻撃性を強める=キレるのは人間など高等生物に特有のことだと思っていましたが、最近の研究では昆虫のコオロギも同じだそうです。もう9年前ですが、金沢工業大学の長尾隆司さんが「本能行動を調整するホルモンーコオロギの気分を探る」と題した研究成果を発表しました。
そこでは、透明ケース内に隔離し直接的な接触だけを断ち、視覚や聴覚などの情報はふんだんに与えて飼育したコオロギを「インターネットコオロギ」と名づけていますが、このコオロギを他のコオロギと接触させると、異常なまでの攻撃性を発揮し相手が死ぬまで攻撃をやめないとのことです。また一度戦いに負けるとなかなか立ち直れないそうです。 興味深いのは、布で覆いをして視覚や聴覚などの情報も断つと、他のコオロギと接触させなくてもさしたる異常行動は示さず、情報をふんだんに与えた上で接触させないと、相手を殺すまでの激しい攻撃性をもつことです。
コオロギのような昆虫も何より「触れ合い」が大事なのですね。驚きです。
「インターネットコオロギ」は、強い攻撃性を持ち、また、落ち込むコオロギである。ウ~ムですね。
武田康弘
2008/06/24のBlog
[ 10:27 ]
[ 恋知(哲学) ]
自己感情を絶対化する、あるいは特定のイデオロギーを先立てる、それではほんとうの対話は不可能でしょう。
あらかじめ決まった結論に導くための対話は、対話ではありませんから。
結論を隠し持って、そこに誘導するために言葉を紡ぐのでは、話せば話すほど不快になり、迷宮に入り、内容の前進は得られません。
厳しい他者を避け、自分を絶対化してくれる者、全的に肯定してくれる人間を求める人の心には救いがありません。それでは生きた対等な対話は成立せず、非生産的な閉じた円環の中で次第にしぼんでいくしかないでしょう。
なにかしらの自己の優位点をかざして他者を思い通りにしようするのでは、ほんとうの発展、進展は望めないと思います。裸になり・真正面から・正直に・逃げずに話すという基本姿勢を持とうとする努力なしには、対話は成立しないはずです。
人間の生産的な生、豊かなよろこびの生は、【裸の対話】が可能にするのではないでしょうか。計略、隠匿、騙しは、結局のところ不幸しか生まないはずです。人は騙せても自分は騙せないからです。もし自分まで騙せば、自己欺瞞の地獄です。
逃げずに、こころを開いて対話することは、人間問題の打開・進展のためにも、社会問題の解決・発展のためにも、必要不可欠な条件だと思います。
ただし、対話は、自分が上位者になって話そうとすれば対話ではなくなってしまいます。社会的地位や専門知の所持者である自分が上だ、という思いがあると、必ずそれは「絶対」を匂わすような話となり、白けるからです。下位者になって話そうとするのも同じことです。年齢、性別、社会的身分、専門知の有無・・・を問わず、対等な存在でなければ対話は成立しないでしょう。
互いを対等な人間として認め合うことではじめて、丁々発止の面白く生産的な対話が可能です。上意下達の古い日本文化は、対話的精神とは無縁です。「偉がり」の心や「感情絶対化」の心をどう克服するか?それが豊かな対話実現のための一番の課題だと思います。
まずは、親子、友人、恋人、夫婦という関係の中で、よき対話をする。うまく対話が進まないのを相手のせいにしてはいけませんよ~(笑)。
武田康弘
2008/06/21のBlog
[ 08:28 ]
[ 社会思想 ]
主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。
日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。
また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。
だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。
しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。
歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。
理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。
言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。
社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。
公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。
武田康弘
2008/06/19のBlog
[ 19:03 ]
[ 教育 ]
2008/06/16のBlog
[ 21:56 ]
[ 恋知(哲学) ]
「白樺の原理」を見て下さい(クリック)
遊びや楽しみとしての競争ならばよいのですが、そうではなく、
学習や仕事、生きること自体が「競争」としてある社会、
国家と文明の成立以降、「競争原理」」に支配されてきた人類史の転換をはかりたい、それが私の壮大な想いです。
競争を原理とする社会から、納得を原理とする社会へ。
そのために、まず、私自身が「納得(腑に落ちる)原理」で生きることを実践する。
それが恋知(哲学)の初心でもあるわけですから。
タケセン
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タケセンさん
市場原理の本質は、誰かを陥れることですよね。そこから這い上がっても、また競争力のない人間は、蹴落とされます。
いわゆる勝ち組に入れなくても、遊びと楽しみを生きることは、可能だと考えられるでしょうか?
この場所で生きると「納得」できたとしても、です。
YS
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「勝ち負け」というのは、意識の一つの様態ですが、
蹴落とさずに【共生する】方に利があることを学べば、今とはまるで違う生き方が可能です。
相手から得をもらい、相手の得になることを提供するという相互性の倫理で学習もします。教え合うことは自他の力を共につけます。また、納得を求めて激しくぶつかり合うことで、自他が共に成長します。
【納得】を生きる原理におくと、競争は小さな一部分にすぎなくなり、桁違いに豊かで大きな世界をひらくことができると確信しています。
タケセン
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タケセンさん
「納得」は、競争からの離脱であることの方が、現実の場面では多いと感じます。
理想的には、仰る通りだと考えています。
YS
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ええ、
競争を【原理】の次元で否定し、納得を原理と置く、納得を原理とする。競争が原理ではなくなれば、納得をつくるためのあるひとつの手段・道具にすぎなくなる。
そんな感じです。
現実場面でも、生に有用な、生の楽しみが広がるような競争ならば、大いに結構だと思います。よろこびが広がらない、勝ち負けに執着してしまう、となると、それは悪しき競争=競争を原理にしていることになり、ダメというか【損】ですね。
タケセン
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タケセンさん
なるほど!「損」という言葉に「納得」です。が、損得と勝ち負けは、どこかしら構造が似ているような気がします。
YS
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ふつうは、金銭に限らず自分が【得】をすれば嬉しいと思いますが、その単純な心を元にして考えるのが大切だ、わたしはそう思います。
現実の人間同士が、互いに【得】(素直に「気分」よくなれ、心身にプラスになるものが得られる)を広げられるように工夫し、努力し合うことが、ほんらいの【倫理】だと思っています。
競争は、それがゲームの面白さを成立させるためにあるのはいいのですが、それを原理にしてしまうと、得にはならないわけです。もちろんここで言う【得】とは、金銭や目先の得という意味に限定される得ではなく、生の可能性を広げられるようなアイテムすべてのことです。
納得(腑に落ちる)は哲学の命ですが、それは、納得=得をもたらすのです。一番大きな得を。
タケセン
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タケセンさん
なるほど!です。言葉の定義が大切ですね。言葉の定義も哲学にとっては、いのちですね。
YS
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武田康弘
2008/06/09のBlog
[ 21:44 ]
[ 趣味 ]
下のブログのつづきです。
わたしは、メーカー名も知らず、ただ見て履いて、「とてもいい靴だな~」と思いながら長年履き続けてきた靴が古くなって買い換えようとしたとき、
はじめてそれがアメリカの「ロックポート」というブランドであることを知りました。
妻が見たいというので、昨日ロックポートの靴の品揃えが豊富だと思われる恵比寿の三越地下1F.の「レジェンド」に行き、いろいろ見て(買って)来ました。ベテラン店員の話も聞きましたが、わたしが感じていた履きよさは、ロックポートの理念からきていることを知りました。なんと「世界一、履きよい靴をつくる」です。
もらってきたカタログには、APAM(アメリカ足病医師協会)から1984年にシューズメーカーとしてはじめて認定を受けたことも記載されていました。ロックポートの靴にわたしが感じていたデザインのよさは、まさに柳宗悦の民芸思想=「用の美」「用即美」なのでしょう。
履きよさとは、単に物理的な世界の話ではありません。気持ちがよい、接していたい、見ていたい、うれしい、・・・という主観性のよさに達さなければ「よい」とは言えません。この社の素材の掘り下げや構造の研究は徹底しているようですが、そのような物理的な優秀さは背後に隠れて製品の表面には出ていません。見て触れたときにそのよさ・美しさが実感できる、そんな感じです。
ROCKPORTが、「世界一履きよい靴をつくる」という大胆な理念を見事に具体化していることを知り、なんだかとても嬉しくなりました。それに価格も多くが2万円以下で、とても良心的です。
武田康弘
2008/06/06のBlog
[ 22:05 ]
[ 趣味 ]
わたしは、靴がとても気になります。
買うときは、何度も履いて時間をかけて確かめます。
生まれつき足が弱かったわたしは、幼稚園のときから遠足に行くと必ず夜は足が痛くなって眠れず、いつも父に足をさすってもらっていました。
買い物でデパートに行ってもすぐに足が痛くなります。
だから頑張って歩く練習、走る練習をしましたが、生まれつきの「弱さ」までは克服できませんでした。でも中学2年生のときは、毎日ひとりで自宅付近を走り、そのおかげで、駅伝の選手の選ばれました(運動部でないのに代表5人に選ばれたのは、学校=文京区第六中学校始まって以来の快挙!でしたー自慢です)。
そんなわたしがとても気に入っている靴は、ロックポートです。
アメリカ製だそうですが、どのようなメーカーかは知りません。
だいぶ前によい靴に出会い、気に入って毎日履いていましたが、今度新しいのを求めるに際してはじめてブランド名を意識したのです。
とても履きよく、長時間歩いても疲れず、石材や新素材の床でもアウトドアでも滑りません。しかも質感がよく、デザインも優れていて、皮製なのになぜか雨でも大丈夫ですし、シッカリしたつくりなのに軽いのです。見た目も履き心地も最高!です。
価格は13000円~19000円ほど、とってもお勧めです。
最後に、いい靴は、同じ大きさでも小さく見えるものですよ。
武田康弘
2008/06/04のBlog
[ 14:40 ]
[ 社会思想 ]
レトリック、詭弁、論点すり替え、強弁、怒号―石原慎太郎氏の言動は、ほんとうに酷いも
