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思索の日記
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2008/06/28のBlog

哺乳類、とくに人間は、身体的な接触(スキンシップ)がないと情緒不安となり、心身に変調を起こしキレることはよく知られています。
栄養・睡眠・衛生等に十分に配慮しても、身体的接触がないと幼児の死亡率は異常に高まります。死に至らぬまでも、その心身へのダメージはとても大きなものとして残ります。

わたしは32年間こどもたちを見てきましたが、これは経験から深く納得できることです。
身体的な接触が少なく言葉優先で「躾」を受けてきた子どもは、情緒が安定せず神経質です。場や文脈を無視して「言葉」に異様に反応し、関係性を豊かにする中で生きるのではなく、【言葉がつくる自己観念】の中でその判断を絶対化して自他への攻撃性を発揮します。そうなるといかなる言葉も通じません。人は攻撃性をもつと理性は働かず、自己正当化・絶対化の言動を繰り返すか、逆に自己破壊的な心に支配されるようです。

わたしは長いこと、情報だけを与えられ直接の接触が断たれると攻撃性を強める=キレるのは人間など高等生物に特有のことだと思っていましたが、最近の研究では昆虫のコオロギも同じだそうです。もう9年前ですが、金沢工業大学の長尾隆司さんが「本能行動を調整するホルモンーコオロギの気分を探る」と題した研究成果を発表しました。

そこでは、透明ケース内に隔離し直接的な接触だけを断ち、視覚や聴覚などの情報はふんだんに与えて飼育したコオロギを「インターネットコオロギ」と名づけていますが、このコオロギを他のコオロギと接触させると、異常なまでの攻撃性を発揮し相手が死ぬまで攻撃をやめないとのことです。また一度戦いに負けるとなかなか立ち直れないそうです。 興味深いのは、布で覆いをして視覚や聴覚などの情報も断つと、他のコオロギと接触させなくてもさしたる異常行動は示さず、情報をふんだんに与えた上で接触させないと、相手を殺すまでの激しい攻撃性をもつことです。

コオロギのような昆虫も何より「触れ合い」が大事なのですね。驚きです。
「インターネットコオロギ」は、強い攻撃性を持ち、また、落ち込むコオロギである。ウ~ムですね。


武田康弘

2008/06/24のBlog
[ 10:27 ] [ 恋知(哲学) ]


自己感情を絶対化する、あるいは特定のイデオロギーを先立てる、それではほんとうの対話は不可能でしょう。

あらかじめ決まった結論に導くための対話は、対話ではありませんから。

結論を隠し持って、そこに誘導するために言葉を紡ぐのでは、話せば話すほど不快になり、迷宮に入り、内容の前進は得られません。

厳しい他者を避け、自分を絶対化してくれる者、全的に肯定してくれる人間を求める人の心には救いがありません。それでは生きた対等な対話は成立せず、非生産的な閉じた円環の中で次第にしぼんでいくしかないでしょう。

なにかしらの自己の優位点をかざして他者を思い通りにしようするのでは、ほんとうの発展、進展は望めないと思います。裸になり・真正面から・正直に・逃げずに話すという基本姿勢を持とうとする努力なしには、対話は成立しないはずです。

人間の生産的な生、豊かなよろこびの生は、【裸の対話】が可能にするのではないでしょうか。計略、隠匿、騙しは、結局のところ不幸しか生まないはずです。人は騙せても自分は騙せないからです。もし自分まで騙せば、自己欺瞞の地獄です。

逃げずに、こころを開いて対話することは、人間問題の打開・進展のためにも、社会問題の解決・発展のためにも、必要不可欠な条件だと思います。

ただし、対話は、自分が上位者になって話そうとすれば対話ではなくなってしまいます。社会的地位や専門知の所持者である自分が上だ、という思いがあると、必ずそれは「絶対」を匂わすような話となり、白けるからです。下位者になって話そうとするのも同じことです。年齢、性別、社会的身分、専門知の有無・・・を問わず、対等な存在でなければ対話は成立しないでしょう。

互いを対等な人間として認め合うことではじめて、丁々発止の面白く生産的な対話が可能です。上意下達の古い日本文化は、対話的精神とは無縁です。「偉がり」の心や「感情絶対化」の心をどう克服するか?それが豊かな対話実現のための一番の課題だと思います。

まずは、親子、友人、恋人、夫婦という関係の中で、よき対話をする。うまく対話が進まないのを相手のせいにしてはいけませんよ~(笑)。


武田康弘

2008/06/21のBlog

主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。

日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。

また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。

だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。

しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。

歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。

理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。

言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。

社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。

公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。


武田康弘


2008/06/19のBlog


教科の学習をしながら、心身の健康を育てていく。
競争による勉強ではなく、納得できる学習を進める。
それが、『白樺教育館―ソクラテス教室』の32年間続けている実践です。

意味をつかむ学習ー心身全体による会得は、こころの安定とよろこびを生み、同時に思考力を育てる基盤となります。
受験知=パターン認識は、納得をうまないために、心身を蝕んでいくのです。

いま、日本人みながこの簡明な原理を深く自覚することが何より必要だ、私はそう確信しています。


武田康弘

2008/06/16のBlog

白樺の原理」を見て下さい(クリック)


遊びや楽しみとしての競争ならばよいのですが、そうではなく、
学習や仕事、生きること自体が「競争」としてある社会、
国家と文明の成立以降、「競争原理」」に支配されてきた人類史の転換をはかりたい、それが私の壮大な想いです。
競争を原理とする社会から、納得を原理とする社会へ。
そのために、まず、私自身が「納得(腑に落ちる)原理」で生きることを実践する。
それが恋知(哲学)の初心でもあるわけですから。

タケセン

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タケセンさん

 市場原理の本質は、誰かを陥れることですよね。そこから這い上がっても、また競争力のない人間は、蹴落とされます。

 いわゆる勝ち組に入れなくても、遊びと楽しみを生きることは、可能だと考えられるでしょうか?

 この場所で生きると「納得」できたとしても、です。

YS
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「勝ち負け」というのは、意識の一つの様態ですが、
蹴落とさずに【共生する】方に利があることを学べば、今とはまるで違う生き方が可能です。
相手から得をもらい、相手の得になることを提供するという相互性の倫理で学習もします。教え合うことは自他の力を共につけます。また、納得を求めて激しくぶつかり合うことで、自他が共に成長します。
【納得】を生きる原理におくと、競争は小さな一部分にすぎなくなり、桁違いに豊かで大きな世界をひらくことができると確信しています。

タケセン

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タケセンさん

「納得」は、競争からの離脱であることの方が、現実の場面では多いと感じます。

理想的には、仰る通りだと考えています。

YS
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ええ、
競争を【原理】の次元で否定し、納得を原理と置く、納得を原理とする。競争が原理ではなくなれば、納得をつくるためのあるひとつの手段・道具にすぎなくなる。
そんな感じです。
現実場面でも、生に有用な、生の楽しみが広がるような競争ならば、大いに結構だと思います。よろこびが広がらない、勝ち負けに執着してしまう、となると、それは悪しき競争=競争を原理にしていることになり、ダメというか【損】ですね。

タケセン

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タケセンさん

 なるほど!「損」という言葉に「納得」です。が、損得と勝ち負けは、どこかしら構造が似ているような気がします。

 YS

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ふつうは、金銭に限らず自分が【得】をすれば嬉しいと思いますが、その単純な心を元にして考えるのが大切だ、わたしはそう思います。
現実の人間同士が、互いに【得】(素直に「気分」よくなれ、心身にプラスになるものが得られる)を広げられるように工夫し、努力し合うことが、ほんらいの【倫理】だと思っています。

競争は、それがゲームの面白さを成立させるためにあるのはいいのですが、それを原理にしてしまうと、得にはならないわけです。もちろんここで言う【得】とは、金銭や目先の得という意味に限定される得ではなく、生の可能性を広げられるようなアイテムすべてのことです。

納得(腑に落ちる)は哲学の命ですが、それは、納得=得をもたらすのです。一番大きな得を。

タケセン
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タケセンさん

 なるほど!です。言葉の定義が大切ですね。言葉の定義も哲学にとっては、いのちですね。

YS

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武田康弘

2008/06/09のBlog

下のブログのつづきです。

わたしは、メーカー名も知らず、ただ見て履いて、「とてもいい靴だな~」と思いながら長年履き続けてきた靴が古くなって買い換えようとしたとき、
はじめてそれがアメリカの「ロックポート」というブランドであることを知りました。

妻が見たいというので、昨日ロックポートの靴の品揃えが豊富だと思われる恵比寿の三越地下1F.の「レジェンド」に行き、いろいろ見て(買って)来ました。ベテラン店員の話も聞きましたが、わたしが感じていた履きよさは、ロックポートの理念からきていることを知りました。なんと「世界一、履きよい靴をつくる」です。

もらってきたカタログには、APAM(アメリカ足病医師協会)から1984年にシューズメーカーとしてはじめて認定を受けたことも記載されていました。ロックポートの靴にわたしが感じていたデザインのよさは、まさに柳宗悦の民芸思想=「用の美」「用即美」なのでしょう。

履きよさとは、単に物理的な世界の話ではありません。気持ちがよい、接していたい、見ていたい、うれしい、・・・という主観性のよさに達さなければ「よい」とは言えません。この社の素材の掘り下げや構造の研究は徹底しているようですが、そのような物理的な優秀さは背後に隠れて製品の表面には出ていません。見て触れたときにそのよさ・美しさが実感できる、そんな感じです。

ROCKPORTが、「世界一履きよい靴をつくる」という大胆な理念を見事に具体化していることを知り、なんだかとても嬉しくなりました。それに価格も多くが2万円以下で、とても良心的です。

武田康弘

2008/06/06のBlog

わたしは、靴がとても気になります。
買うときは、何度も履いて時間をかけて確かめます。

生まれつき足が弱かったわたしは、幼稚園のときから遠足に行くと必ず夜は足が痛くなって眠れず、いつも父に足をさすってもらっていました。
買い物でデパートに行ってもすぐに足が痛くなります。

だから頑張って歩く練習、走る練習をしましたが、生まれつきの「弱さ」までは克服できませんでした。でも中学2年生のときは、毎日ひとりで自宅付近を走り、そのおかげで、駅伝の選手の選ばれました(運動部でないのに代表5人に選ばれたのは、学校=文京区第六中学校始まって以来の快挙!でしたー自慢です)。

そんなわたしがとても気に入っている靴は、ロックポートです。
アメリカ製だそうですが、どのようなメーカーかは知りません。
だいぶ前によい靴に出会い、気に入って毎日履いていましたが、今度新しいのを求めるに際してはじめてブランド名を意識したのです。

とても履きよく、長時間歩いても疲れず、石材や新素材の床でもアウトドアでも滑りません。しかも質感がよく、デザインも優れていて、皮製なのになぜか雨でも大丈夫ですし、シッカリしたつくりなのに軽いのです。見た目も履き心地も最高!です。

価格は13000円~19000円ほど、とってもお勧めです。
最後に、いい靴は、同じ大きさでも小さく見えるものですよ。

武田康弘


2008/06/04のBlog

レトリック、詭弁、論点すり替え、強弁、怒号―石原慎太郎氏の言動は、ほんとうに酷いものですが、東京都教育委員会は、彼の国家主義的な言動を後ろ盾にして、学校現場で【民主主義原理】を潰す政策を次々と実行してきました。

そのひとつが、二年前に出された「学校の職員会議で、議論・挙手・採決によって教職員の意思を確認することを禁じる」という通達です。

わたしが今年1月の参議院における≪パネルディスカッション≫でも確認した【民主主義の原理】は、現場の人々が【自由対話】により物事を決めていくことですが、それを真っ向から否定するのが、石原都知事の意向を受けた東京都教育会による「通達」であるわけです。

ほんらい学校は、民主主義を学び、練習する場でなければなりません。絶対者のいない民主主義社会では、互いの自由を認め合う哲学の下に、自由対話によりものごとを決定していく以外に社会を運営する方法はありません。異なる意見を闘わせることで「合意」を生みだそうとする営み・努力が何よりも一番大切なのです。

上位下達の環境の中で生きれば、人間は思考力を失い、精神的な自立は得られません。教師自身がまず【自問自答と自由対話】の練習をしなければ、子どもたちの自由の可能性=思考力と対話力を伸ばすことは不可能です。民主主義社会をよく運営していく最大の能力をつけるどころか奪うような教育は、この世の最大の悪だ、と言えましょう。その影響は、世代を超えて受け継がれてしまうからです。現場の教師と子供や親がほとんど全ての決定権を持つ北欧の国々とは180度逆の思想・方法によるこのような教育は、近代市民社会の原理を否定するものとしかいえません。

東京都教育委員会のこの愚かな思想に基づく「通達」に対して、都立三鷹高校の土肥信雄校長は反旗を掲げましたが、彼のようにまっとうな言動をとる校長や教員でなければ、よい人間教育ができるはずはありません。都の教育委員に限らず、自民党文教族の議員や文部官僚は、自分たちの進める従順な教師と子供つくりがどれほどの罪なのかを自覚しなければなりません。個人の思想を鍛え強める教育でなければ、日本社会に未来はないのです。「上位下達」は国を滅ぼす愚か極まる思想であり行為です。猛省を促します。

武田康弘

追伸
なお、土肥校長は、東京都との【公開討論】を呼びかけていますが、ぜひ実現したいものです。討論者として声をかけて頂ければ、わたし(武田康弘)も参加しましょう。


2008/05/28のBlog

人間は、どんなに公共化されても「私」は「私」であり続けるから人間なのです。

いわゆる近代社会を成立させる原理である「一般意思」に吸収されてしまわないから人間=「私」なのです。物の存在とは存在仕方が反対で、私の生きる意味・価値は、「個別意思」をもつ独自の実存であるところにしか生じません。

「一般意思」=公論をつくるための自由対話の営みは、人間を他なるものの中で鍛え、よき社会人として成長するためにはどうしても必要なことですが、そこに「私」が生きる意味を求め、重ねることはできません。それでは実存としての人間ではなく、単なる公共人間に過ぎなくなります。

ソクラテス・プラトンによると、人間の最も高い魂は、知恵を求め、美を愛し、音楽・詩を好み、恋に生きるエロースの人に宿るとされ、それが恋知者(哲学者)の生だと言われます。

社会的・政治的なレベルの活動は、人が市民として共同社会をつくる上で極めて重要ですが、優れた「一般意思」の形成は、人がよく生きるための条件であり、それ自体は人が生きる意味・価値にはなりません。「一般意思」は、「普遍意思」とは次元が異なる世界です。

「一般意思」は、各自の主観から出発しつつ、みなのためを考え・求める意思ですが、それに対して普遍性という次元をめがける意思は、私の「個別意思」を、私の生の現場を掘ることでつくられるのです。優れた芸術家の意識は、みなのため、をめがけるのではなく、己の内部の目に耳に・・心に徹底して従うのです。「一般的」とは逆の発想だというのは、ベートーヴェンやセザンヌや・・・を見れば分かります。

芸術家でなくても誰でも心の一番大事な世界は、私の固有性の領域であり、社会化は不可能です。もちろん固有性のよさを社会に向けて示すことはできますが、「一般化」を先立てれば、固有性のよさは死んでしまいます。「普遍意思」とは「個別意思」の底を破るところから生じる世界であり、「一般意思」をいくら積み重ねても「普遍意思」にはなりません。両者は次元の異なる世界であることを知らないと、混乱をきたし、危険です。

人間をすべて社会化・公共化してしまえばどうなるか?昆虫になります。


武田康弘

2008/05/27のBlog
[ 09:08 ] [ 私の信条 ]

白樺の原理

(恋知としての哲学=民知の立場)


競争による勉強は、心も頭も歪めます。

納得による勉強は、一生の得を生みます。

競争原理は、もう古いのです。

人類は、「国家と文明」以降、競争原理に支配されてきましたが、

それは人間を幸福にしません。

競争原理の廃止、納得原理の導入。

それ以外に人類の生き延びる道はありません。

納得は、生きるよろこびを生みます。

それは、外なる悲惨を超え出るのです。


武田康弘
2008/05/24のBlog
[ 11:40 ] [ 私の信条 ]

あるべき、ではなく、

そうしていきたい、そうしていこう、そうするにはどうしたらよいか?

と考え、行為する。

しかし、それはけっしてうまくはいかないもの。

では、また、そこからどうするか?を考え、行為する。

それでも、うまくはいかないもの。

だったらどうするか?

繰り返すこと。何十回、何百回と繰り返すこと。

繰り返しそのものが人生だと気づくこと、おもったようにいかないのが常であることに気づくこと。

でも、実は、同じに思えるその繰り返しには、限りない力・見えない偉大な前進がある。

それがある日分かる。

そのとき人は限りない力を身にまとう。


2008/05/22のBlog

人間の抱くさまざまな欲望をもし「悪」だと考えれば、人間には救いがありません。

欲望が悪ならば、生き生きとしたもの、よろこびに溢れたものはすべて悪になり、禁欲的な修行僧や修道女のような生き方をしなければならなくなります。欲望の禁圧=人間の生命体としての自然性を否定する、という事態に陥ります。

「欲望の葛藤」が神経症などの精神疾患を起こすのは、ありのままの己の欲望を悪だとしてこれを抑圧しようとするからですが、しかし、もし欲望を肯定することに成功しても、それだけでは、「欲望の葛藤」から逃れることはできません。

肯定された後も、複数の欲望が互いに衝突を起こすからです。ある欲望を満たすためには、別の欲望を抑えなくてはなりません。いくつかの欲望が相乗作用を起こすこともありますが、その逆もあるわけです。

もし、自分の中で、欲望の優先順位、というより欲望の立体視による階層分けができれば、すべての欲望はケンカにならず、自分を活かすことに役立ちます。どんなに荒々しい欲望であっても、それは想像界を豊饒化するのに役立ちますし、また、現実の人間関係をよく豊かに広げるためには、言葉にならぬ激しい想念=欲望が必要です。どのような想い・欲望であってもそれを否定せずに、しかし、それがどのような次元の欲望なのかをよく知ることが大切です。次元を混同し、並列視してしまう意識が「欲望」を葛藤させ、マイナスに作用させるのです。立体視できれば「欲望の葛藤」は葛藤から抜け出て、より豊かな内的世界・より大きなよろこびの具現化・より広く柔らかな秩序の形成に向かいます。

キーワードは、立体化・立体視ですが、現代人にこれが難しいのは、平面的で技術主義の勉強=「学」が支配しているために、平面―面積を広げるのが偉いことと思い込んでいるからです。欲望の立体視-階層の違いが自覚できるか否か?それが、意味充実のよろこびの多い生を得るための条件です。

厳禁の生でも、放蕩・無秩序の生でもなく、柔らかく美しく健全な生は、欲望の肯定とその階層分け=立体視に基づくのです。


武田康弘


2008/05/20のBlog

『日本が「神の国」だった時代』(国民学校の教科書をよむ)
入江曜子著 岩波新書・2001年12月刊 777円


この本は、高校生、大学生には必読書です。
日本の高校生、大学生が「現代の歴史」を自分自身の経験と照らし合わせて知ることは必須の営みですが、いまだにこの基本的な課題が果たせていません。わが国の学校教育の不備・歪みです。

この本の最後で指摘されている戦前・戦中の日本の問題点は、なんとも残念なことですが、今日でも克服されていません。
以下に書き写します。

「この時代、このような教育と訓練の名による超国家思想を刷り込まれた不幸は、
一体感のなかに、横並びの価値観のなかに自己を埋没させる快感―判断停止のラクさを知ってしまったことである。
そしてもう一つの不幸は、全体主義のまえに個人がいかに無力かということを知ってしまったことである。
そしてさらなる不幸は、いかなる荒唐無稽も、時流に乗ればそれが正論となることを知ってしまったことであり、
それ以上の不幸は、思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期をすごしたことであろうと思う。」

2008/05/17のBlog

市民が裁判を行う裁判員制度は、民主主義の理念の具現化=現実化ですが、
これから導入される日本の裁判員制度は、マヤカシというよりも意図的な詐術です。
市民が裁判に関わるほんらいの意味は、行政権力(官の問題)を市民の【常識】に照らして裁くところにあるはずですが、今回の裁判員制度は、刑事裁判にのみに限定されています。

刑事事件(強盗・殺人・強姦 などの個人犯罪)の量刑を決めるのに市民が関与する意味は希薄だと言わざるを得ません。【個人のおぞましさ】を裁判に関わる市民はイヤというほど見せられるわけですが、ほんとうは、個人の持つおぞましさ・悪に比べて、【行政権力が犯す罪】は、桁違いのものです。

【個人の悪】の生々しい提示は、【行政権力の悪】(=検察に悪だと決められたら無実でもまず逃れられないのが現状で、その実態は最近刊行された『冤罪ファイル』に詳しいですが、国連から日本政府に対して改善命令がでる理由がよく分かりますー戦慄!)から目を逸らさせる役割を果たすことになります。

行政権力は、酷い「悪」(例えば薬害で亡くなった方がどれほどか))をなしても裁かれません(行政マンの個人的なハレンチ罪以外は)。冤罪をつくった検事も罪を問われないのです。

このような【民主主義の暗部】(官の絶対化・行政権力の肥大化)を改善するのが、ほんらい裁判員制度の一番の意味なのですが、そこには全く市民を関与させません。刑事事件=個人がどれほど恐ろしいことをするかを生々しく見せることで、【ほんとうの問題】から目をそらさせること、そこに裁判員制度の狙いがある、そう断じても間違いないと思います。形は民主主義の発展、中身は行政による民の支配の拡大。

個人は悪をなす、したがって、行政権力による指導と取り締まりと厳罰化が必要だ。取り締まる側である行政権力は正義だ!?というわけですが、これほどの欺瞞はありません。極めて恐ろしいことです。

【民主主義の原理】の確認がいま何より大切です。あらゆる問題を【詐術・騙しで乗り切る】わが国の現実を変えることは、ふつうの市民みなの得を生みます。真実を生む仕組みをつくることが何よりも求められるのです。


武田康弘


2008/05/14のBlog

以下は、白樺MLです(一部カット)。


武田です。

^^^^^^^^^^^^^^
それにしても【公民連携】!?というような逆立ちした発想・言い方がまかり通るようでは困ります。「官」を「公」と呼び、しかも「公」が先!?という思想の下での「公共」など真っ平ごめんです。インチキ公共性の思想を哲学的土台からきちんと始末しなければ、すべては砂上の楼閣です。

―――――――――――――――――――――――――――――

次に、

わたしが、少し前に、「一般意思」、「普遍意思」、「絶対意思」、とメールに書いたところ、古林さんから解説を依頼されましたので、今日の記念すべき!!『愉しい哲学の会』で、そのことをお話しました。以下に、「一般意思と普遍意思」についてまとめておきましたので、ご意見、ご質問、異論、反論、批判をよろしくお願いします。


☆公共性=一般意思とは、「私」がつくる一つの次元。


社会生活上、こう考えるのがよいー妥当だ、という意思=「一般意思」は、公共的・社会的・政治的な次元においては、絶対的な基準となるものです。

しかし、それは「私」が生きる固有の価値ではないので、そこに人生の意味充実を求めることはできません。「私」と「一般意思」が同じになれば、そこでは「私」が生きる固有の生の意味・価値は消え、私はただの事実としての人=「事実人」=「一般人」になり下がってしまいます。

「私」の世界の中にある一つの次元として「公共的人間」は成立しているわけですが、人間がイコール「公共的人間」になってしまえば、それは固有の生の価値をもった人間ではなくなるわけです。この簡明な存在論的事実を、いわゆる「政治的人間」は自覚できないために、議員は偉い!?というような愚かな想念とりつかれるようです。市民の意思の代行者である議員が「先生」と呼ばれて怪しまないというのは、笑止でしかありませんが、なぜ、こんな当たり前の話が分からない人が多いのか?ほんとうに困ったものです。

私が生きる価値・意味は、私の情緒、私の想い、私の趣味、私の身体、・・・にあります。内的な私の固有のよさ・美しさにあるのです。それは、「個別意思」を普遍化(決して一般化ではありません)させる「私」の努力・営みであり、そこにこそ人生の意味充実のエロースがあるわけです。「一般意思」はこの「普遍意思」の世界を発展させるための基礎条件なのです。

もちろん、社会的・公共的な条件をできるだけよいものにする営為=「一般意思」の形成とそれを実現するための努力には大きな価値がありますが、どこまでもそれは手段です。手段に手段としての価値以上の意味を置けば、「個別意思」の高度化・普遍化という「私」が「私」として生きるエロースは消え、「普遍意思」は形成されにくくなります。「一般意思」しかない、というのでは、単なる「事実人」にすぎなくなりますから、くれぐれもご注意!下さい。


武田康弘


2008/05/13のBlog

書評
『フロイト思想を読む』竹田青嗣・山竹伸二著(NHKブックス)


本書は、平易ですが、内容は類書にない極めて優れたものです。その理由は、フロイトの理論を「事実学・科学」としてではなく、人間の「本質論」(本質的な人間学)として捉えているからです。

事実を事実として定立させているのは人間自身ですから、人間存在を事実学・科学として捉えることはできません。事実学の探求仕方とは方向が逆なのです。これは哲学する者(恋知者)からすれば言わずもがなの原点ですが、心理学の研究者にはそのことがなかなか分からないようで、錯綜した議論に陥り、無意味な理論の山が築かれてきました。フロイト自身も自身の見解を「精神科学」(事実学)だとしたために、余計に混乱をきたしたのです。

本書では、「正しく」この人間存在に対する一つの優れた洞察を、【「エロス的存在」としての本質的な人間学】(竹田)として捉え、そこからフロイト思想を見事に活かす道を示しています。「無意識」という概念によって人間の本質を考えてみたい人にはとてもお勧めです。最終章(第6章)の「無意識とは何か」だけでもよいですので、ぜひ。

「事実学」的な歪み、袋小路に入ることなく 思考をきちんと前に進めるためには、本書のように「本質学」として探究することが絶対的な条件です。人間とは自分自身が「欲望」であり「身体」なのですから、超越者の立場に立って、事実としての人間を見ることは原理的に不可能です。事実学=客観学として人間学に取り組めば、逆立ちした有害な認識しか得られません。


武田康弘
2008/05/11のBlog


オットー・クレンペラー(1885-1973)は、音・音楽の存在そのもの魅力を開示し得た人だ。

わたしが知る限りその点で彼に比べられる指揮者は一人もいない。

たとえば、グルッグの「アウリスのイフィゲニア」序曲を聴く。

存在の美、

キレイさとはまったく異なる存在自体の美しさと深さに満ちている。

それと同時に、

存在することの形容できない悲しみを感じる。

音楽と人間の存在そのものが、深く開き示されていると感じ、涙が出るのだ。

意識は浄化されて、存在の海に沈潜する。

そこから、新たな深い「力」が湧きあがってくる。

存在それ自体が更新され、浄化し、輝き、熱を帯びるのだ。

クレンペラーの指揮する音楽を聴くというのは、わたしにとって特別の体験である。 (クリック)


自分用に5枚のCDから5曲の序曲を入れたCDをつくりました。原盤は、すべてEMIで、オーケストラは、フィルハーモニー管弦楽団です。

1.ベートーヴェン レオノーレ序曲 第3番 (1806)
 14分32秒 録音1964年
2.グルック 「アウリスのイフィゲニア」序曲(1774)
 11分30秒 録音1960年 
3.ウェーバー 「オベロン」序曲 (1826)
 9分33秒 録音1960年
4.ブラームス 大学祝典序曲 (1881)
 10分02秒 録音1957年
5.ワーグナー 「さまよえるオランダ人」序曲(1841)
 10分44秒 録音1960年
2008/05/06のBlog

『靖国神社』の宗教思想を認めない人、厳しく批判する人、嫌悪感を持つ人・・も『靖国神社』に祀られる!?
このようなことは、どのような思想・信条・宗教にある者も決して容認することはできないはずです。

本人や遺族の了解なしに、勝手に祀る!?!?などということが許されるなら、日本は、近代民主主義国家ではなくなります。遺族の「勝手に祀られては困る、名前を消して欲しい」という願いを無視し、「勝手に祀っているのではなく、明治天皇の思し召しで国家が決めたことですから、お名前を消すことはできません」と堂々と主張し、それを実行している「神社」(宗教法人)を、国の機関が認め、政治家や官僚が公式に参拝する。これは、どんな論理を用いても本来できるはずはありません。ストレートな憲法違反で、論を待ちません。

このような宗教思想を実行している神社を政府が認めるには、靖国を「信教の自由」を超越する【超宗教】(明治政府によってつくられた「国家神道」)とするよう憲法を改正するしかありませんが、そうなれば、日本は【近代市民国家】ではなく、時代錯誤の【宗教国家】(天皇を中心とする神の国)となります。

もちろん、現代ではそれは誰も認められない訳ですから、答えは一つ。全戦没者を慰霊する公立の施設をつくることです。


武田康弘



2008/05/03のBlog

今朝の東京新聞社説は、【「なぜ?」を大切に】という哲学そのもののような題名ですが、
内容は、憲法違反の判決にも、「そんなのかんけいねえ」と無視を決め込む【違憲政府】-したがって支持率19パーセントは当然!の政治を「憲法記念日」の今日にふさわしく憲法の立場=民主主義の立場から厳しく批判したものです。

「長い間に「主権在民」が無視され、「主権在官僚」のようなシステムを組み上げてしまったのです。
憲法は、政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦です。
憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第99条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第12条)、いわば砦を守る責任があります。」(社説)

わたしは、小学生のときに「憲法」を勉強して以来、第12条【この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う】にあるように、不断の努力を続けて44年が経ちました。

【国民としての不断の努力】をこれからも続けて行こうと思っていますが、わたしのような何の地位もない一国民が「日本国憲法」の精神を守り活かそうと努力を続ける中で、公権力をもつ官僚は、自分(たち)の身の【保全】のために働き、自民党に多い復古主義の政治家は、日本主義(靖国思想)による【改憲】を叫びます。真の「愛国者」(=ふつうの市民が主役になる日本をつくる)として生きてきたわたしは、現今の官府のありように天を衝くような怒りと憤り=公憤を覚えます。


以下は、ふつうの市民の良識につく「東京新聞」の社説です。


憲法記念日に考える 『なぜ?』を大切に2008年5月3日

 日本国憲法の規範としての力が弱まっています。現実を前に思考停止に陥ることなく、六十年前、廃虚の中で先人が掲げた高い志を再確認しましょう。

 昨年七月、北九州市で独り暮らしの男性が孤独死しているのが発見されました。部屋にあった日記に生活の苦しさがつづられ、最後のページには「おにぎりが食べたい」と書いてありました。

 男性はタクシー運転手をしていましたが肝臓の病気で働けなくなり、四月まで生活保護を受けていました。病気が少しよくなり、福祉事務所の強い指導で保護を辞退したものの働けず、にぎり飯を買うカネさえなかったようです。

 忘れられた公平、平等 
全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶ちません。憲法第二五条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことでしょう。

 国が抱える膨大な借金、将来の社会を支える若者の減少など、日本は難局に直面しています。しかし、最大の要因は弱者に対する視線の変化でしょう。

 行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させました。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、第二五条は規範としての意味が薄れました。

 リストラでよみがえった会社の陰には職を失った労働者がたくさんいます。「現代の奴隷労働」とさえ言われる悪条件で働くことを余儀なくされた非正規雇用の労働者が、企業に大きな利益をもたらしています。

 年収二百万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は一千万人を超えると言われます。

 黙殺された違憲判決 
安い賃金、不安定な雇用で住居費が払えず、インターネットカフェや漫画喫茶に寝泊まりしている人が、昨年夏の厚生労働省調査で五千四百人もいました。これは推計で実際はもっと多そうです。

 憲法には第二五条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第二七条)という規定もあります。

 「なのになぜ?」-ここにもそう問いたい現実があります。

 「戦力は持たない」(第九条第二項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没しました。乗組員二人はいまだに行方が分かりません。「戦争はしない」(同条第一項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸しています。

 市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月十七日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言しました。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示しました。

 しかし、政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の一人は人気お笑い芸人のセリフをまね「そんなのかんけえねえ」と言ってのけました。「判決は自衛隊の活動に影響を及ぼさない」と言いたかったのでしょうが、「憲法なんて関係ねえ」と聞こえました。

 イラク派遣反対のビラを自衛隊官舎に配った東京都立川市の市民は住居侵入容疑で逮捕され、七十五日間も拘置されたすえに有罪とされました。団地の新聞受けにビラを静かに入れて回っただけなのに「他人の住居を侵し、私生活の平穏を害した」というのです。

 ビラ配布は、組織、資力がなくても自分の見解を広く伝えることができる簡便な手段です。読みたくなければ捨てればいいだけでしょう。それが犯罪になるのなら憲法第二一条が保障する「表現の自由」は絵に描いたモチです。

 これでは、民主主義にとって欠かせない自由な意見表明や討論が十分できません。

 国民から集めた税金で職場にマッサージチェアを設置したり豪華旅行をするなど、「全体の奉仕者」(第一五条第二項)である公務員による私益優先のあれこれが次々明るみに出ました。

 長い間に「主権在民」(前文)が無視されて、主権在官僚のようなシステムを組み上げられてしまったのです。

 憲法は政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦(とりで)です。

 国民に砦を守る責任 
憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第九九条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第一二条)、いわば砦を守る責任があります。

 その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたいものです。


2008/05/02のBlog

以下は、今日の「白樺ML」からその一部です。


高城です。

早苗が柏市議選に立候補するとき
市民の代表者という言葉は何かが違うと思い、どうしても使いたくありませんでした。
ですから立候補を勧めた人たちと相談して
「あなたの声、届けます→柏市へ。」というキャッチコピーを作りました。
当選後、タケセンに”市民の代行者”という話を聞き、
自分たちの想定していたものは「これだ!」と感じ、有難く使わせていただいています。
”市民の代行者”という言葉は、タケセンのオリジナルかもしれませんが、
その理念は普遍性を持ち、私たちも深く納得しているので
タケセンは著作権料も請求せずに(笑)使用させてくれているのだと思いますが…。 


高城さん、みなさん、

【代行者】という30年以上前から使っているわたしの術語の出所は、
竹内芳郎氏の『国家と民主主義』(現代評論社・1975年刊)にあります。
以下に抜粋しますので、参考にして下さい。
この本は、「哲学研究会」の初期(1987年)にも一部を取り上げてやりました。

32~33ページ
「・・・もっと事の本質を考えてみても、ルソーの見解の方が理のあることがわかる。実際、かんがえてもみよう。たとえば私が友人に手紙を出す場合、私はその手紙を友人に届けることは郵便配達人に委ねることができるし、それどころか病気の場合、代筆を依頼することもできる。だが、手紙を出すか否か、どんな内容と文体の手紙を出すかは、私以外に決定者はなく、もしそれさえも他人に委ねるならば、もはや、私が友人に手紙を出したことにはなるまい。つまり、行為は他人に代行してもらうことはできても、意思決定は他人に代行してもらうわけにはゆかぬということは、自由な行為というものの本質必然性なのである。

 このことを政治の領野に転位すれば、<行政>は他人に代行させることはできても、<立法>は他人に代行させるわけにはゆかぬ、ということになる。ところが代議制は、まさにこの不可能事をあたかも可能のごとく欺瞞するところに成立しているのである。のみならず、意思決定まで他人に委ねるとなると、本人がその行為の総体にすっかり興味を失うのは当然のなりゆきであって、その意味で、代議制と大衆の政治的無関心とは、本質的な関係があり、実はたがいに悪循環をしているわけである。 

 だからルソーは言うー「イギリスでは人民は自由だと思っているが、これは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員選挙の期間だけであって、議員が選ばれるや否や、彼らはドレイになり、何ものでもなくなってしまう。」と。

 それでは、ルソーは議会制に代って、何を主張していたのであろうか。それが<人民集会>における直接民主主義である。・・・主権を行使する人民は政党を通じてではなく、集会で自分だけの裸の意見を表明せねばならぬ。・・・徒党によってコミュニケーションが妨げられず、みんなが平等に十分な情報をあたえられたうえで審議が行われたるとき、人の意見というものはそう大きくは違わないものだ。また、無記名投票のようなものではなくて人民集会で意見を表明すべきだというのも、前者で表明されるものが集列化され惰性化された意見であるのに反して、後者で表明される意見は、まさに能動態としての人民の意志であり、かつ討論によって理性的に正邪の黒白をつけた上で決定されてゆく意見だからであろう。・・・」


という竹内芳郎氏の記述から、議員を、主権者の意思を代行する者=【代行者】と呼ぶことにしたわけです。【民主主義とは直接民主主義のことである、という理念を、理念次元に置かない限り、議会制民主主義も成立しない】というのが武田の考えです。

武田康弘