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2008/05/17のBlog
[ 15:23 ]
[ 日記 ]
昨日のアクセス数が600件を超えたので、これはDoblogランキングのどの辺にいるのか?と見てみた、31位であった。
もちろん(笑)ぼくはアクセ数を取るためにブログを書いてはいない。
ただどういうブログが、今、アクセ数を取っているのかは、時々みる。
それはアクセス数を取るブログを書くためではない。
ランキング上位には、“あいかわらず”ブログが並ぶ。
その中に(3位に)“ちょっと普通”の(笑)タイトルのブログ(つまり金儲けに関係なさそな)ブログがあったので見てみた。
ぱっと見ただけで、丁寧に読んだわけではないことをあらかじめお断りしておく。
こう書いてある;
《それにしても四川省の地震の様子はひどい。
ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》
この文章にある《前書いた美意識ってヤツだ》という言葉が気になって、この人の前のブログも見ると、あった。
ある日この人はブログにこう書いた;
《問題は現実の方がみんな薄汚いんだよね。リアルに権力とお金を欲しがるんだよね。そう…下衆なんだよねぇ。それが一番問題なのだ》
そして次の日、そのブログを反省してこう書いた;
《人間だって同じだ。
お金が欲しい。
異性とセックスしたい。
権力を得たい。
みんなからチヤホヤされたい。
別に悪いことじゃないはずだ。
この社会の人間の価値はお金で量れると言い切れるオイラの中で完全に矛盾しているわけだ。そう、オイラが言いたいのは美学だ。そこに美しさがない。だからオイラは「下衆」という。美学なき欲望をオイラは下衆と呼ぶ。これは分かりやすい。
では、美学と欲望が相反したらどうなるのだろう?
オイラのような状況になる。どうしようもない。現実は理解している。でも、それを受け入れらない。美学があるから…。
矛盾なのだ。だからオイラは死ぬしかないと思う》
(以上引用)
つまり、このひとの言っていることは、矛盾していると自分で認めているのだ(笑)
ぼくも自分でブログを書いていて“矛盾している”ことに気づく。
そしてブログを書くことで、自分の矛盾を読者に見せることも、自分でそれに気づくことも“良いこと”だと考える。
つまり“ひとが考える”というのは、そういうプロセスである(プロセスでしかない)
いや、“考える”だけではない、“そのように生きる”のである。
だから死ぬ必要はない。
もちろんここで、このひとが《オイラは死ぬしかない》と言っているのも、このひとのレトリックであり“美学”でもあろう。
しかし問題は、<矛盾>ではなく<美学>の方である。
《ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》
ぼくは、こういう文章と、こういう文章を書くひとに<美意識>や<美学>があるとは、とうてい認めがたい。
この程度の<矛盾>や<美意識>や、その<自己美学の自意識の矛盾>に酔っていてはだめだ。
もっと考えろ。
この筆者だけではなく、この“美意識ブログ”を読んでいる<多数>に言っている。
もちろん(笑)ぼくはアクセ数を取るためにブログを書いてはいない。
ただどういうブログが、今、アクセ数を取っているのかは、時々みる。
それはアクセス数を取るブログを書くためではない。
ランキング上位には、“あいかわらず”ブログが並ぶ。
その中に(3位に)“ちょっと普通”の(笑)タイトルのブログ(つまり金儲けに関係なさそな)ブログがあったので見てみた。
ぱっと見ただけで、丁寧に読んだわけではないことをあらかじめお断りしておく。
こう書いてある;
《それにしても四川省の地震の様子はひどい。
ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》
この文章にある《前書いた美意識ってヤツだ》という言葉が気になって、この人の前のブログも見ると、あった。
ある日この人はブログにこう書いた;
《問題は現実の方がみんな薄汚いんだよね。リアルに権力とお金を欲しがるんだよね。そう…下衆なんだよねぇ。それが一番問題なのだ》
そして次の日、そのブログを反省してこう書いた;
《人間だって同じだ。
お金が欲しい。
異性とセックスしたい。
権力を得たい。
みんなからチヤホヤされたい。
別に悪いことじゃないはずだ。
この社会の人間の価値はお金で量れると言い切れるオイラの中で完全に矛盾しているわけだ。そう、オイラが言いたいのは美学だ。そこに美しさがない。だからオイラは「下衆」という。美学なき欲望をオイラは下衆と呼ぶ。これは分かりやすい。
では、美学と欲望が相反したらどうなるのだろう?
オイラのような状況になる。どうしようもない。現実は理解している。でも、それを受け入れらない。美学があるから…。
矛盾なのだ。だからオイラは死ぬしかないと思う》
(以上引用)
つまり、このひとの言っていることは、矛盾していると自分で認めているのだ(笑)
ぼくも自分でブログを書いていて“矛盾している”ことに気づく。
そしてブログを書くことで、自分の矛盾を読者に見せることも、自分でそれに気づくことも“良いこと”だと考える。
つまり“ひとが考える”というのは、そういうプロセスである(プロセスでしかない)
いや、“考える”だけではない、“そのように生きる”のである。
だから死ぬ必要はない。
もちろんここで、このひとが《オイラは死ぬしかない》と言っているのも、このひとのレトリックであり“美学”でもあろう。
しかし問題は、<矛盾>ではなく<美学>の方である。
《ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》
ぼくは、こういう文章と、こういう文章を書くひとに<美意識>や<美学>があるとは、とうてい認めがたい。
この程度の<矛盾>や<美意識>や、その<自己美学の自意識の矛盾>に酔っていてはだめだ。
もっと考えろ。
この筆者だけではなく、この“美意識ブログ”を読んでいる<多数>に言っている。
[ 13:08 ]
[ 日記 ]
おそい朝昼兼用食事もすませたので、やっぱ書くか。
昨夜はテレビで映画を3時過ぎまで見ていて寝たのが遅かった。
この映画とは『Shall We ダンス?』(1996)という。
もちろん公開当時見ているし、結構話題になった映画だったと思う。
ネットで調べたら主演の草刈民代さんは主演女優賞をとっている。
この映画を、“ふつーに見ていると”、結構良い映画なのである。
役所広司もまだいまほどイヤミでもないし(笑)
柄本明や名前をわすれたがエグイ“ラテン系”ダンス男や、その他の脇役陣もわりと自然である。
まあ40過ぎて、真面目に仕事し、真面目に結婚し、真面目に子供をつくり、真面目にマイホームを手に入れたサラリーマン男の、“突発的情熱”が、比較的自然に描かれて、“普通の人々”の共感を得た。
上記のように書くと、するどい読者は、“またwarmgunは、普通の人々を罵倒したいんだ”と思われるだろう。
そうでもない、実はぼくはいくつかのシーンで涙さえ滲んだ(まあ、初老期になると涙腺もゆるむのだ)
けれども(笑)“批判”がある。
ぼくの一番の疑問は、この主人公男の“夫婦生活”である(爆)
わかってる、わかってるって、ぼくもそれほど“世間”にうとくはないのである。
ぼくも“一応”夫婦生活の経験者であるが、ぼくが経験してないのは“子供の存在”である。
当然、この映画でも子供は重要なポイントとなっている。
この主人公の“情熱”のハイライトのダンス大会で、彼を失敗させるのは彼の娘の客席からの声援であった。
しかし、この“夫婦の和解”をもたらすのも、この娘の“お母さんにダンスを教えて”のひとことであった。
“こんなに自分の子供に依存してよいのだろうか?”などという皮肉は言うまい。
子供のいないぼくにとっては、子供の存在は“神の声”のように思える。
しかしぼくがこの映画で“考えた”のは、上記のようなことも含むが、“普通の人々”とはだれか?ということだった。
つまりある種の映画が(映画でなくてもいいが)、良い映画とされたり、感動的な作品とされる場合の、“普通の人々”の存在や情感の存在である。
それへの“共感”である。
悪く言えば、“落としどころ”ですよ。
どうも、歳をとるということは、実人生でも、こういう映画体験でも“すれっからし”になっちゃうのよ。
けれどもこれは、“謙遜して”言っているので、ある意味では当然でしょう。
だから年取ると、カンドーしなくなるのよ(涙腺はゆるむが;笑)
“ああこの監督はここで感動させるように映画をつくっている”、ということがわかっちゃう。
つまりその作り手(監督など)が、どのように“普通の人々”をイメージし、その“共通感動を”仕掛けているかの手の内がわかる。
いっきょに“結論”にいきたい(笑)
現在、ぼくを真に感動させる作品(映画)は、上記に書いたようなことを“裏切る”作品である。
そのテーマと表現は多様であっても。
ぼくにとってこの映画で見るべきものは(つまりこの映画を最後までみさせたものは)草刈民代さんの“肉体”(表現)だった。
それはあらゆる意味やイデオロギーを超えて、そこに存在し、息づいていた。
彼女にとってもこの映画は、“一瞬の夏”だったかもしれない。
昨夜はテレビで映画を3時過ぎまで見ていて寝たのが遅かった。
この映画とは『Shall We ダンス?』(1996)という。
もちろん公開当時見ているし、結構話題になった映画だったと思う。
ネットで調べたら主演の草刈民代さんは主演女優賞をとっている。
この映画を、“ふつーに見ていると”、結構良い映画なのである。
役所広司もまだいまほどイヤミでもないし(笑)
柄本明や名前をわすれたがエグイ“ラテン系”ダンス男や、その他の脇役陣もわりと自然である。
まあ40過ぎて、真面目に仕事し、真面目に結婚し、真面目に子供をつくり、真面目にマイホームを手に入れたサラリーマン男の、“突発的情熱”が、比較的自然に描かれて、“普通の人々”の共感を得た。
上記のように書くと、するどい読者は、“またwarmgunは、普通の人々を罵倒したいんだ”と思われるだろう。
そうでもない、実はぼくはいくつかのシーンで涙さえ滲んだ(まあ、初老期になると涙腺もゆるむのだ)
けれども(笑)“批判”がある。
ぼくの一番の疑問は、この主人公男の“夫婦生活”である(爆)
わかってる、わかってるって、ぼくもそれほど“世間”にうとくはないのである。
ぼくも“一応”夫婦生活の経験者であるが、ぼくが経験してないのは“子供の存在”である。
当然、この映画でも子供は重要なポイントとなっている。
この主人公の“情熱”のハイライトのダンス大会で、彼を失敗させるのは彼の娘の客席からの声援であった。
しかし、この“夫婦の和解”をもたらすのも、この娘の“お母さんにダンスを教えて”のひとことであった。
“こんなに自分の子供に依存してよいのだろうか?”などという皮肉は言うまい。
子供のいないぼくにとっては、子供の存在は“神の声”のように思える。
しかしぼくがこの映画で“考えた”のは、上記のようなことも含むが、“普通の人々”とはだれか?ということだった。
つまりある種の映画が(映画でなくてもいいが)、良い映画とされたり、感動的な作品とされる場合の、“普通の人々”の存在や情感の存在である。
それへの“共感”である。
悪く言えば、“落としどころ”ですよ。
どうも、歳をとるということは、実人生でも、こういう映画体験でも“すれっからし”になっちゃうのよ。
けれどもこれは、“謙遜して”言っているので、ある意味では当然でしょう。
だから年取ると、カンドーしなくなるのよ(涙腺はゆるむが;笑)
“ああこの監督はここで感動させるように映画をつくっている”、ということがわかっちゃう。
つまりその作り手(監督など)が、どのように“普通の人々”をイメージし、その“共通感動を”仕掛けているかの手の内がわかる。
いっきょに“結論”にいきたい(笑)
現在、ぼくを真に感動させる作品(映画)は、上記に書いたようなことを“裏切る”作品である。
そのテーマと表現は多様であっても。
ぼくにとってこの映画で見るべきものは(つまりこの映画を最後までみさせたものは)草刈民代さんの“肉体”(表現)だった。
それはあらゆる意味やイデオロギーを超えて、そこに存在し、息づいていた。
彼女にとってもこの映画は、“一瞬の夏”だったかもしれない。
[ 11:35 ]
2008/05/16のBlog
[ 20:32 ]
[ 日記 ]
下記ブログを書いていて、納戸に入っている翻訳小説に何があったか気になった。
何度も書いているように、ぼくは2003年会社を辞めた時に大量に本を処分した。
今考えると“狂気の沙汰”である。
その時、どういう基準で“本”を処分したのかが、自分にも定かでない。
海外翻訳小説もほとんど処分した!
いま見たのは“妻の納戸の本”である。
あった、生き残っていた(笑)
その中にサム・シェパードの2冊の本『鷹の月』と『モーテル・クロニクルズ』があった。
妻は『ライト・スタッフ』や『ロンリー・ハート(クライム・オブ・ザ・ハート)』のサムの熱狂的ファンであった(現在も?)<注>
『鷹の月』の翻訳者の黒木三世というひとは、知らないひとである、女性であろうか?
1992年の‘あとがき’によると訳者は当時、サムとパティ・スミスが同棲したことのあるチェルシー・ホテルから2ブロック離れた所に住んでいた。
彼女はあとがきに書いている;
《かつて60,70年代には、ポップ・カルチャーのスポットだったチェルシー・ホテルは、その後、セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがガール・フレンドを殺したとして逮捕されて(結局、事故死として釈放されるが、やがて本人はヘロインのオーバー・ドースで死亡する)、パンク少年少女のメッカという新しい要素を付け加えた。パティ・スミスはその後結婚してパンクの女王の座を降り、今はニューヨークの郊外で、爽やかに子育てに励んでいるという。“Horses”のジャケット写真を撮ったパティの親友、ロバート・メイプルソープはもはやこの世にいない。かつて彼らが住み、若いエネルギーを爆発させていたイースト・ヴィレッジには、今でも田舎(スモール・タウン)の少年少女たちが集まってくる。そして口の悪い者が、「リトル・トーキョー」とも「ニューヨークの竹下通り」とも呼ぶほど、日本の若者の姿がめっきり増えた。イースト・ヴィレッジは相変わらず、明日を夢見る若者にアーティスティックな夢を与えつづけているが、かつての創造性は薄れ、すべてが商業的になってしまった。サム・シェパードがここに到着してから、すでに30年の歳月が流れようとしている》
この訳者がこう書いたのは、1992年であった。
さらに長い年月が経過した。
ニューヨークが創造性を取り戻したとも、商業的でなくなったとも聞かない(笑)
サムやパティやシドの“前衛性”を、ガキの遊びと嘲笑するひともいるだろう。
かく言うぼくも、ニューヨークを歩いたことさえない。
すべてはオンリィ・イエスタデーであろうか。
『鷹の月HALK MOON』の最初から引用する;
《鷹の月 11月の月 俺の誕生の月 寒くなる月 秘密がメサの高原ホピの古代の聖地に囁く月 不毛の荒野が祈祷をもとめる月 アンテロープ鹿と角の族が兆しを見せる月 はじめて蛇を口にする月 精霊の踊りの蛇踊りの月 絵の具を塗った手と稲妻の月 長い黒髪を洗う月 俺の誕生の月 ― 鷹の月の月》
短い同棲のあいだに(チェルシーの日々に)、サムは“鷹の月”の、パティは“稲妻”のタトゥーを残したそうだ。
<注>
サム・シェパードには、ぼくと似ているところはひとつもない。
<追記>
『モーテル・クロニクルズ』冒頭も引用しよう;
《サウス・ダコタのラピッド・シティで、母が氷をナプキンに包んでぼくにしゃぶらせた。ぼくはそのころ歯が生えはじめたばかりで、歯茎が氷の冷たさで無感覚になった。
その夜、ぼくらはバッドランズを横断した。ぼくはプリマスの後部シートのうしろにある棚に寝そべって星を眺めた。窓ガラスにさわると、凍りつくように冷たかった。
平原の真ん中に、白い石膏でできた大きな恐竜たちが輪になって立っていた。ぼくらはそこで車を停めた。そばに町はない。恐竜たちと地面からそれを照らし出しているライトだけだ。
母はぼくを茶色の軍用毛布に包んで抱き上げ、ゆっくりハミングしながら、そこらを歩き回った。曲は「わが心のペグ」だったと思う。自分に聞かせるように、やさしくハミングしていた。心はどこか遠くをさまよっているようだった。
ぼくらはゆっくりと、恐竜たちの間を出たり入ったりしつづけた。足と足の間を、腹の下を、くぐり抜けた。ブロントザウルスのまわりを一周した。ティラノザウルスの歯を見上げた。恐竜たちはみな、目のかわりに青い小さなライトをつけていた。
そこには誰もいなかった。ただぼくと、母と、恐竜たちだけがいた。
80/9/1 ホームステッド・ヴァレー、カリフォルニア》
何度も書いているように、ぼくは2003年会社を辞めた時に大量に本を処分した。
今考えると“狂気の沙汰”である。
その時、どういう基準で“本”を処分したのかが、自分にも定かでない。
海外翻訳小説もほとんど処分した!
いま見たのは“妻の納戸の本”である。
あった、生き残っていた(笑)
その中にサム・シェパードの2冊の本『鷹の月』と『モーテル・クロニクルズ』があった。
妻は『ライト・スタッフ』や『ロンリー・ハート(クライム・オブ・ザ・ハート)』のサムの熱狂的ファンであった(現在も?)<注>
『鷹の月』の翻訳者の黒木三世というひとは、知らないひとである、女性であろうか?
1992年の‘あとがき’によると訳者は当時、サムとパティ・スミスが同棲したことのあるチェルシー・ホテルから2ブロック離れた所に住んでいた。
彼女はあとがきに書いている;
《かつて60,70年代には、ポップ・カルチャーのスポットだったチェルシー・ホテルは、その後、セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがガール・フレンドを殺したとして逮捕されて(結局、事故死として釈放されるが、やがて本人はヘロインのオーバー・ドースで死亡する)、パンク少年少女のメッカという新しい要素を付け加えた。パティ・スミスはその後結婚してパンクの女王の座を降り、今はニューヨークの郊外で、爽やかに子育てに励んでいるという。“Horses”のジャケット写真を撮ったパティの親友、ロバート・メイプルソープはもはやこの世にいない。かつて彼らが住み、若いエネルギーを爆発させていたイースト・ヴィレッジには、今でも田舎(スモール・タウン)の少年少女たちが集まってくる。そして口の悪い者が、「リトル・トーキョー」とも「ニューヨークの竹下通り」とも呼ぶほど、日本の若者の姿がめっきり増えた。イースト・ヴィレッジは相変わらず、明日を夢見る若者にアーティスティックな夢を与えつづけているが、かつての創造性は薄れ、すべてが商業的になってしまった。サム・シェパードがここに到着してから、すでに30年の歳月が流れようとしている》
この訳者がこう書いたのは、1992年であった。
さらに長い年月が経過した。
ニューヨークが創造性を取り戻したとも、商業的でなくなったとも聞かない(笑)
サムやパティやシドの“前衛性”を、ガキの遊びと嘲笑するひともいるだろう。
かく言うぼくも、ニューヨークを歩いたことさえない。
すべてはオンリィ・イエスタデーであろうか。
『鷹の月HALK MOON』の最初から引用する;
《鷹の月 11月の月 俺の誕生の月 寒くなる月 秘密がメサの高原ホピの古代の聖地に囁く月 不毛の荒野が祈祷をもとめる月 アンテロープ鹿と角の族が兆しを見せる月 はじめて蛇を口にする月 精霊の踊りの蛇踊りの月 絵の具を塗った手と稲妻の月 長い黒髪を洗う月 俺の誕生の月 ― 鷹の月の月》
短い同棲のあいだに(チェルシーの日々に)、サムは“鷹の月”の、パティは“稲妻”のタトゥーを残したそうだ。
<注>
サム・シェパードには、ぼくと似ているところはひとつもない。
<追記>
『モーテル・クロニクルズ』冒頭も引用しよう;
《サウス・ダコタのラピッド・シティで、母が氷をナプキンに包んでぼくにしゃぶらせた。ぼくはそのころ歯が生えはじめたばかりで、歯茎が氷の冷たさで無感覚になった。
その夜、ぼくらはバッドランズを横断した。ぼくはプリマスの後部シートのうしろにある棚に寝そべって星を眺めた。窓ガラスにさわると、凍りつくように冷たかった。
平原の真ん中に、白い石膏でできた大きな恐竜たちが輪になって立っていた。ぼくらはそこで車を停めた。そばに町はない。恐竜たちと地面からそれを照らし出しているライトだけだ。
母はぼくを茶色の軍用毛布に包んで抱き上げ、ゆっくりハミングしながら、そこらを歩き回った。曲は「わが心のペグ」だったと思う。自分に聞かせるように、やさしくハミングしていた。心はどこか遠くをさまよっているようだった。
ぼくらはゆっくりと、恐竜たちの間を出たり入ったりしつづけた。足と足の間を、腹の下を、くぐり抜けた。ブロントザウルスのまわりを一周した。ティラノザウルスの歯を見上げた。恐竜たちはみな、目のかわりに青い小さなライトをつけていた。
そこには誰もいなかった。ただぼくと、母と、恐竜たちだけがいた。
80/9/1 ホームステッド・ヴァレー、カリフォルニア》
[ 14:15 ]
[ 日記 ]
ひところ、村上春樹や柴田元幸が“新しいアメリカ文学”を精力的に紹介した時期があった、村上春樹が今も翻訳を続けていることも知られているだろう。
当時春樹ファンだったぼくもこれに注目、アーヴィング、オブライエン、オースター、エリクソンなどを読んでみたが、あまりピンとこなかった。
(アーヴィング原作の2本の映画『ガープの世界』と『ホテル・ニューハンプシャー』はわりと好きである)
もっと前に読んだサリンジャーやヴォネガットも(あまりピンとこない)。
春樹のインタビューで彼がフィッツジェラルドのファンであることを知ったが、ぼくは“ギャツビー”があまり好きでなかった。
なぜ春樹はフィッツジェラルド好きで、ヘミングウェイのことを言わないのか?と思った<注>
ぼくにとって“アメリカ文学”はヘミングウェイであった(現在はフォークナーに注目)
ただしぼくは、ヘミングウェイの短篇のファンであった。
しかし『武器よさらば』“だけ”は好きな長編である(『日はまた昇る』は読み終わってさえいない)
ぼくはヘミングウェイの短篇を何度も読み返したが、『武器よさらば』は書き出しと第38章の冒頭を時々読んでみる。
この第38章の冒頭をぼくは受験参考書の例文で読んで、感動した。
けれども結局、原書のペーパーバックは買ったが、これ全体を英語で読んだことはない。
昨年パーキンソン患者・関係者の集会で行った北イタリアのマッジョーレ湖畔のストレーザが、『武器よさらば』のイタリアからの脱出の町であることを知った、まったくの偶然である。
そのときから(もはやおぼえていない)この物語を読み返してみたいと思った。
昨日仕事帰りの紀伊国屋書店で、光文社古典新訳文庫新刊を見ていて、前に出ていた『武器よさらば』の新訳を手にした。
主人公の語りは“おれ”である。
《その年、夏も終わりの頃、おれたちはある村の屋敷で暮らしていた。村からは川がみえ、そのむこうには平野が広がり、さらにその先には山が連なっていた。川の浅いところは水面から出た大小の石が日光で白く乾き、澄んだ水が軽やかに流れ、深いところは青くみえた。部隊が次々に屋敷の横の道を通り、まきあげる土埃が木々の葉を白っぽく染めあげた……》
ぼくはこういう描写が好きである。
“ああ幸せな小説”と思う。
ヘミングウェイは“マッチョ”ではないと訳者の金原瑞人氏は言う、“センチメンタル”であると。
ぼくも賛成である。
訳者は《ヘミングウェイは訳していてとても快い》という。
ぼくも読んでいて快い、これが“幸せ”の理由である。
上記を書いていて、この小説と近年ぼくが偏愛する『イギリス人の患者』の“風土的共通性”に気づいた(こちらはイタリア→カイロ→砂漠であるけれど)
かたや第1次大戦、かたや第2次大戦であるけれども。
だから描かれる“恋”も変化したのである。
ぼくはひところ流行のアメリカ現代小説もラテンアメリカ文学も読みそこねた気がする。
いま、納戸からほとんど読んでいないエリクソンの処女作『彷徨う日々』を取り出してきた。
こういう“現代という悪夢”のような小説も読まずばなるまい(笑)
悪夢によって悪夢を鎮めるために。
<注>
ぼくと春樹が”共通に好き”だった作家は、スティーヴン・キングであった!
春樹は”今でも”キングが好きであろうか?
ぼくは今でも、キングが好きである。
アメリカの大学町では、誰も口にしないというキングが。
当時春樹ファンだったぼくもこれに注目、アーヴィング、オブライエン、オースター、エリクソンなどを読んでみたが、あまりピンとこなかった。
(アーヴィング原作の2本の映画『ガープの世界』と『ホテル・ニューハンプシャー』はわりと好きである)
もっと前に読んだサリンジャーやヴォネガットも(あまりピンとこない)。
春樹のインタビューで彼がフィッツジェラルドのファンであることを知ったが、ぼくは“ギャツビー”があまり好きでなかった。
なぜ春樹はフィッツジェラルド好きで、ヘミングウェイのことを言わないのか?と思った<注>
ぼくにとって“アメリカ文学”はヘミングウェイであった(現在はフォークナーに注目)
ただしぼくは、ヘミングウェイの短篇のファンであった。
しかし『武器よさらば』“だけ”は好きな長編である(『日はまた昇る』は読み終わってさえいない)
ぼくはヘミングウェイの短篇を何度も読み返したが、『武器よさらば』は書き出しと第38章の冒頭を時々読んでみる。
この第38章の冒頭をぼくは受験参考書の例文で読んで、感動した。
けれども結局、原書のペーパーバックは買ったが、これ全体を英語で読んだことはない。
昨年パーキンソン患者・関係者の集会で行った北イタリアのマッジョーレ湖畔のストレーザが、『武器よさらば』のイタリアからの脱出の町であることを知った、まったくの偶然である。
そのときから(もはやおぼえていない)この物語を読み返してみたいと思った。
昨日仕事帰りの紀伊国屋書店で、光文社古典新訳文庫新刊を見ていて、前に出ていた『武器よさらば』の新訳を手にした。
主人公の語りは“おれ”である。
《その年、夏も終わりの頃、おれたちはある村の屋敷で暮らしていた。村からは川がみえ、そのむこうには平野が広がり、さらにその先には山が連なっていた。川の浅いところは水面から出た大小の石が日光で白く乾き、澄んだ水が軽やかに流れ、深いところは青くみえた。部隊が次々に屋敷の横の道を通り、まきあげる土埃が木々の葉を白っぽく染めあげた……》
ぼくはこういう描写が好きである。
“ああ幸せな小説”と思う。
ヘミングウェイは“マッチョ”ではないと訳者の金原瑞人氏は言う、“センチメンタル”であると。
ぼくも賛成である。
訳者は《ヘミングウェイは訳していてとても快い》という。
ぼくも読んでいて快い、これが“幸せ”の理由である。
上記を書いていて、この小説と近年ぼくが偏愛する『イギリス人の患者』の“風土的共通性”に気づいた(こちらはイタリア→カイロ→砂漠であるけれど)
かたや第1次大戦、かたや第2次大戦であるけれども。
だから描かれる“恋”も変化したのである。
ぼくはひところ流行のアメリカ現代小説もラテンアメリカ文学も読みそこねた気がする。
いま、納戸からほとんど読んでいないエリクソンの処女作『彷徨う日々』を取り出してきた。
こういう“現代という悪夢”のような小説も読まずばなるまい(笑)
悪夢によって悪夢を鎮めるために。
<注>
ぼくと春樹が”共通に好き”だった作家は、スティーヴン・キングであった!
春樹は”今でも”キングが好きであろうか?
ぼくは今でも、キングが好きである。
アメリカの大学町では、誰も口にしないというキングが。
[ 11:12 ]
[ 日記 ]
今日の天声人語は晩年(といってもはやく死んだわけだが)の正岡子規の話題から以下のように展開する(それにしてもなぜ“子規”なのであろうか、この筆者は江戸や明治が好きらしい);
《▼寝たきりの子規は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、子規の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、子規は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない》
ここに書かれている“事実”は、天声人語氏のせいではない(笑)
《だれもがいつかは老いるし、病む》という事実は“誰もが知っている”はず、なのである。
しかし、そうなのだろうか。
たとえば、やはり年齢により、その人の人生の“条件”により、その“知り方”はちがっている。
もっとはっきり言えば“自分だけは”老いず、病には無縁だと考えたいひとも多いようである。
あるいは、自分と自分の周辺だけは、老いと病から防衛する(できる)となぜか“信じている”ようなひともいる。
あるいは、自分がこの国の人々の《だれもがいつかは老いるし、病む》という条件に責任がある(彼らのためになにかをすることが仕事である)人々に、さっぱりそのような“意識”がみられないのも奇妙なことである。
《平気で生きられる穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない》
しかし“言うまでもない”ことが実現していない(のも言うまでもない)
《手を打つのは今しかない》のである。
しかし誰が手を打つのか。
“自己責任”、“自助努力”なのであろうか。
直接関係ないが先日の松本人志の“硫化水素自殺者はアホ”発言報道への若い人々(とみられる)方々のコメントを読んだ。
ほとんどの人々が松本を擁護している。
かれらは硫化水素自殺は他者に迷惑をかけるから、そんな奴はアホだと罵っている。
これは“正論”であろう。
しかし彼らの大部分が自殺者を“アホ”呼ばわりするのは許せない。
ぼくは自殺を推奨はしない。
しかし自殺者にも様々な条件と理由があったと思う。
また自分が自殺に追い込まれないという確信はどうして得られるのか。
また殺人の場合と同様、なぜ彼らは被害者と自分を同一視しかしないのか。
自分は加害者の家族・親戚や友人にもなりうるし、自殺者の家族・親戚や友人にもなりうる。
それとも、自分の“血筋”や友人にはそうゆう“アホ”はいないと、確信できるのであろうか。
想像力が貧困なのは“為政者”(権力側の人間)だけではないのである、残念ながら。
《▼寝たきりの子規は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、子規の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、子規は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない》
ここに書かれている“事実”は、天声人語氏のせいではない(笑)
《だれもがいつかは老いるし、病む》という事実は“誰もが知っている”はず、なのである。
しかし、そうなのだろうか。
たとえば、やはり年齢により、その人の人生の“条件”により、その“知り方”はちがっている。
もっとはっきり言えば“自分だけは”老いず、病には無縁だと考えたいひとも多いようである。
あるいは、自分と自分の周辺だけは、老いと病から防衛する(できる)となぜか“信じている”ようなひともいる。
あるいは、自分がこの国の人々の《だれもがいつかは老いるし、病む》という条件に責任がある(彼らのためになにかをすることが仕事である)人々に、さっぱりそのような“意識”がみられないのも奇妙なことである。
《平気で生きられる穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない》
しかし“言うまでもない”ことが実現していない(のも言うまでもない)
《手を打つのは今しかない》のである。
しかし誰が手を打つのか。
“自己責任”、“自助努力”なのであろうか。
直接関係ないが先日の松本人志の“硫化水素自殺者はアホ”発言報道への若い人々(とみられる)方々のコメントを読んだ。
ほとんどの人々が松本を擁護している。
かれらは硫化水素自殺は他者に迷惑をかけるから、そんな奴はアホだと罵っている。
これは“正論”であろう。
しかし彼らの大部分が自殺者を“アホ”呼ばわりするのは許せない。
ぼくは自殺を推奨はしない。
しかし自殺者にも様々な条件と理由があったと思う。
また自分が自殺に追い込まれないという確信はどうして得られるのか。
また殺人の場合と同様、なぜ彼らは被害者と自分を同一視しかしないのか。
自分は加害者の家族・親戚や友人にもなりうるし、自殺者の家族・親戚や友人にもなりうる。
それとも、自分の“血筋”や友人にはそうゆう“アホ”はいないと、確信できるのであろうか。
想像力が貧困なのは“為政者”(権力側の人間)だけではないのである、残念ながら。
[ 07:55 ]
[ 日記 ]
ぼくは大澤真幸『逆接の民主主義』の論点の大部分に共感したが、この本の最後の部分に違和感を持った。
それは大澤氏が“日常的な愛”について述べた部分である。
彼は、男がある女を愛する場合、彼女が完璧ではなく、欠点があるから愛するのだという。
つまりその“欠点”は憎悪にも連なりうるものなのである。
ここまでは、まったく納得である(笑)
だが続けて大澤氏は書く、なぜかひとは“欠点”を愛するのか;
《愛さているのは、他者の内にあって、何ものとしても積極的に特徴づけられない「それ以上の何か」なのだ。特異的な性質は、その「それ以上の何か」の代理物にすぎない。それは、「それ以上の何か」との対照において「不足しているもの」として、つまり否定性を帯びて現前することになるわけだ》
ここにおいて、“それ以上の何か”が求められるということは納得できるが、この論理展開(感情の動き)は、ぼくにはすっと入ってこない。
つまり愛しているということが起こる、持続するということは、彼女の内に「それ以上の何か」を求め、それと対照して“不足しているもの”を“欠点として”愛するということになる。
そうだろうか?
ぼくはこんな複雑な愛し方をしていない(笑)
たしかに彼女に欠点を見るのは、“それ以上の何か”をもとめているからであるかもしれない。
しかしその欠点を愛するのは、彼女のその欠点における“特異性”ではないか。
つまり“欠点”というものが、“私”が女性に求める“それ以上の何か”によって生じるとしても(実際にそうだろう)、“彼女の欠点”を愛するのは、彼女が“それ以上の何か”に達し得ないその独自性を愛するのである<追記>
だから“ぼく”にとって、“彼女”は<任意の他者>では、ない。
この大澤氏の論議の文脈では、上記のぼくのような考えでは、“普遍的な愛への潜在的可能性”はなくなってしまう(のだろうか?)
困ったことだが、どうもぼくは普遍的な愛には縁遠いのである(笑)
<追記>
これは”精神的な問題”や”性格的な問題”のみを意味しない。
それは、ルックスの問題や性的な問題も意味する。
大澤氏も”完璧な美人は愛せない”ということも問題にしているのだから、これは”心身問題”である。
それは大澤氏が“日常的な愛”について述べた部分である。
彼は、男がある女を愛する場合、彼女が完璧ではなく、欠点があるから愛するのだという。
つまりその“欠点”は憎悪にも連なりうるものなのである。
ここまでは、まったく納得である(笑)
だが続けて大澤氏は書く、なぜかひとは“欠点”を愛するのか;
《愛さているのは、他者の内にあって、何ものとしても積極的に特徴づけられない「それ以上の何か」なのだ。特異的な性質は、その「それ以上の何か」の代理物にすぎない。それは、「それ以上の何か」との対照において「不足しているもの」として、つまり否定性を帯びて現前することになるわけだ》
ここにおいて、“それ以上の何か”が求められるということは納得できるが、この論理展開(感情の動き)は、ぼくにはすっと入ってこない。
つまり愛しているということが起こる、持続するということは、彼女の内に「それ以上の何か」を求め、それと対照して“不足しているもの”を“欠点として”愛するということになる。
そうだろうか?
ぼくはこんな複雑な愛し方をしていない(笑)
たしかに彼女に欠点を見るのは、“それ以上の何か”をもとめているからであるかもしれない。
しかしその欠点を愛するのは、彼女のその欠点における“特異性”ではないか。
つまり“欠点”というものが、“私”が女性に求める“それ以上の何か”によって生じるとしても(実際にそうだろう)、“彼女の欠点”を愛するのは、彼女が“それ以上の何か”に達し得ないその独自性を愛するのである<追記>
だから“ぼく”にとって、“彼女”は<任意の他者>では、ない。
この大澤氏の論議の文脈では、上記のぼくのような考えでは、“普遍的な愛への潜在的可能性”はなくなってしまう(のだろうか?)
困ったことだが、どうもぼくは普遍的な愛には縁遠いのである(笑)
<追記>
これは”精神的な問題”や”性格的な問題”のみを意味しない。
それは、ルックスの問題や性的な問題も意味する。
大澤氏も”完璧な美人は愛せない”ということも問題にしているのだから、これは”心身問題”である。
[ 06:49 ]
[ 日記 ]
こんどは夢の話じゃありません。
“二項対立”的思考というものがあるね。
しかしこれは、ある“二項”が現実に対立しているというよりも、対立させて考えた方がわかりやすいという“方法”のために用いられる。
しかしそうした“思考”をしているうちに、現実に“二項が”もともと対立しているように思えてしまう。
ぼくが最近気になっている“二項対立”というのは(たとえば)以下のような“概念”である。
A:<感性的(感覚的)>と(論理的=ロジカル=サイエンス>
B:<自由な行為>と<ルールに従った行為>
これらの“2項”がぜんぜん対立していない、というわけでもありません。
つまりこれら概念の“係わり”こそ問題です。
たとえば、概念Bについては、<法>の問題なんじゃないでしょうか。
さらに、<共同性>と<公共性>の問題ではないでしょうか。
逆に言えば、100%の“共同性”の集団も、100%の“公共性”の集団もありえない。
<家族>だって、そこに属している個人が社会的存在である以上(客観的にそうなんですから)、家族内に限り、“共同性”だけで生きられるはずはない。
またいかに“公共性”を装った集団(学校-会社-ナントカ団体-国家)であろうと“公共性”だけの人間の関係があるわけではない。
また“原始的社会”が共同体であり、“近代社会”が公共的社会であるというのも、それほど明瞭ではない、特に後者。
特にこの日本“社会”。
この社会は、ほとんど原始的な“部族社会”ではないのでしょうか。
あらゆる“現代性”を超えて。
やはり“血縁的・呪術的”なものが支配している。
あなたの“内面の秘められた根拠として”、“共同の幻想”として。
“社会学者”さん?(爆)
<追記>
日本に限らないが、現代の<権力関係>というのは、血縁もしくは”偽血縁”関係ではないか。
具体的には”ハバツ”の連合である”政党”。
”天下り”とか”コネ就職”とかも。
なによりも”結婚”(笑)
”結婚”してるから、”不倫”もあるわけで。
“二項対立”的思考というものがあるね。
しかしこれは、ある“二項”が現実に対立しているというよりも、対立させて考えた方がわかりやすいという“方法”のために用いられる。
しかしそうした“思考”をしているうちに、現実に“二項が”もともと対立しているように思えてしまう。
ぼくが最近気になっている“二項対立”というのは(たとえば)以下のような“概念”である。
A:<感性的(感覚的)>と(論理的=ロジカル=サイエンス>
B:<自由な行為>と<ルールに従った行為>
これらの“2項”がぜんぜん対立していない、というわけでもありません。
つまりこれら概念の“係わり”こそ問題です。
たとえば、概念Bについては、<法>の問題なんじゃないでしょうか。
さらに、<共同性>と<公共性>の問題ではないでしょうか。
逆に言えば、100%の“共同性”の集団も、100%の“公共性”の集団もありえない。
<家族>だって、そこに属している個人が社会的存在である以上(客観的にそうなんですから)、家族内に限り、“共同性”だけで生きられるはずはない。
またいかに“公共性”を装った集団(学校-会社-ナントカ団体-国家)であろうと“公共性”だけの人間の関係があるわけではない。
また“原始的社会”が共同体であり、“近代社会”が公共的社会であるというのも、それほど明瞭ではない、特に後者。
特にこの日本“社会”。
この社会は、ほとんど原始的な“部族社会”ではないのでしょうか。
あらゆる“現代性”を超えて。
やはり“血縁的・呪術的”なものが支配している。
あなたの“内面の秘められた根拠として”、“共同の幻想”として。
“社会学者”さん?(爆)
<追記>
日本に限らないが、現代の<権力関係>というのは、血縁もしくは”偽血縁”関係ではないか。
具体的には”ハバツ”の連合である”政党”。
”天下り”とか”コネ就職”とかも。
なによりも”結婚”(笑)
”結婚”してるから、”不倫”もあるわけで。
[ 06:09 ]
[ 日記 ]
下記ブログを書いて2時前に寝たらまた悪夢を見て、さっき5:30に起きた。
この夢は下記の夢とはまったくちがった映画のような(自分が映画の人物であるような)夢。
しかし(今考えると)すべての状況がリアルじゃない。
しかも非常に不思議なのは、妻が登場している(つまり普段の夢に妻が登場することはない)しかも現実の生活のようにかなり密着した距離にいる。
めざめる間際のシーンをいちばんよく覚えているわけだが、ぼくは現実の家とはまったくちがった、かなり広く立派な浴室で風呂に入ろうとしている(ギャングたちが引き上げたからだ)
すると、玄関に(広いマンションのようでも一戸建てのようでもある)誰かが来る。
ぼくは“ギャングがもどってきた”と恐怖に襲われるが、妻はギャングたちがいた時から一貫して強気で(笑)、さっさと応対に出てドアを開けてしまう(妻は病気ではない!)
ぼくは“ああこりゃいかん!”と思う。
しかし訪問者は女である、ぼくはほっとする<追記>
その途端、彼女の声が聞える;“カイフク手術はいかがですか?”
“カイフク手術”?
だがすぐ分かる;“開腹手術”。
もはや細部は明らかでないが、この夢でぼくは“ギャングたち”に家をずっと占拠されていて(メインのギャングとチンピラあわせて10人以上いるようである)、メインのギャング数人に(かれらのキャラクターはあまり明瞭でない)手を変え品を変え脅されてきた。
“脅されてきた”というのは夢がはじまったとき、そういう状況がすでに経過してしばらく経っていたからだ。
事実ぼくは煙草が吸いたいと思うが、ない。
それで“さっき”殴られたとき煙草が入ったジャケット(このジャケットは近年ぼくが買い物に失敗したと思った夏の薄いジャケットである=これだけが現実にある物である)ごとよれよれになったのだと“思い出す”(つまりジャケットがよれよれになるほどぼくも殴られた後なのだ)
そうするとギャングの子分が、煙草をもってくる。
このように彼らは、集団で、ぼくを脅したり、優しい言葉をかけたりを繰り返しているのだ(つまりその状況がこの夢の大部分なのだが、いまその具体的なセリフなどを思い出せない)
しかも不思議なのは、彼らギャングたちの“要求”が明らかでない。
ぼくは手を変え品を変え脅されているのだが、なんで脅されているのかわからない。
そして(なぜか)彼らは引き上げていったのだが、最初に書いたシーンになるわけである。
ぼくはいつもこういう夢を見ているのではないのである(笑)
<追記>
これを書いて、”女が訪ねてくる”ということの意味がわかった。
今日は金曜日で普段はぼくはアルバイトで家にいないが、ヘルパーが来る日なのである。
ぼくは昨日ミーティングで仕事に出たので今日は休み、このヘルパーをぼくは苦手としている(爆)
この夢は下記の夢とはまったくちがった映画のような(自分が映画の人物であるような)夢。
しかし(今考えると)すべての状況がリアルじゃない。
しかも非常に不思議なのは、妻が登場している(つまり普段の夢に妻が登場することはない)しかも現実の生活のようにかなり密着した距離にいる。
めざめる間際のシーンをいちばんよく覚えているわけだが、ぼくは現実の家とはまったくちがった、かなり広く立派な浴室で風呂に入ろうとしている(ギャングたちが引き上げたからだ)
すると、玄関に(広いマンションのようでも一戸建てのようでもある)誰かが来る。
ぼくは“ギャングがもどってきた”と恐怖に襲われるが、妻はギャングたちがいた時から一貫して強気で(笑)、さっさと応対に出てドアを開けてしまう(妻は病気ではない!)
ぼくは“ああこりゃいかん!”と思う。
しかし訪問者は女である、ぼくはほっとする<追記>
その途端、彼女の声が聞える;“カイフク手術はいかがですか?”
“カイフク手術”?
だがすぐ分かる;“開腹手術”。
もはや細部は明らかでないが、この夢でぼくは“ギャングたち”に家をずっと占拠されていて(メインのギャングとチンピラあわせて10人以上いるようである)、メインのギャング数人に(かれらのキャラクターはあまり明瞭でない)手を変え品を変え脅されてきた。
“脅されてきた”というのは夢がはじまったとき、そういう状況がすでに経過してしばらく経っていたからだ。
事実ぼくは煙草が吸いたいと思うが、ない。
それで“さっき”殴られたとき煙草が入ったジャケット(このジャケットは近年ぼくが買い物に失敗したと思った夏の薄いジャケットである=これだけが現実にある物である)ごとよれよれになったのだと“思い出す”(つまりジャケットがよれよれになるほどぼくも殴られた後なのだ)
そうするとギャングの子分が、煙草をもってくる。
このように彼らは、集団で、ぼくを脅したり、優しい言葉をかけたりを繰り返しているのだ(つまりその状況がこの夢の大部分なのだが、いまその具体的なセリフなどを思い出せない)
しかも不思議なのは、彼らギャングたちの“要求”が明らかでない。
ぼくは手を変え品を変え脅されているのだが、なんで脅されているのかわからない。
そして(なぜか)彼らは引き上げていったのだが、最初に書いたシーンになるわけである。
ぼくはいつもこういう夢を見ているのではないのである(笑)
<追記>
これを書いて、”女が訪ねてくる”ということの意味がわかった。
今日は金曜日で普段はぼくはアルバイトで家にいないが、ヘルパーが来る日なのである。
ぼくは昨日ミーティングで仕事に出たので今日は休み、このヘルパーをぼくは苦手としている(爆)
[ 01:25 ]
[ 日記 ]
下記ブログを書いてただちに寝た、下記ブログには[ 更新日時:2008/05/15 21:38 ]とあるので、10時前に寝てしまった。
そしたら、12時に起きてしまった、典型的悪夢を見て、そこから抜け出すために、無理矢理起きたのである。
そして(あいかわらず)ブログを見たら、不破利晴ブログが更新されていて、ぼくの大澤真幸氏に関するブログがリンクされていて、彼の『文明の内なる衝突』への(自己批判を含む)批判が展開されていた。
ぼくは大澤氏の“親戚”ではないが(笑)、これは一種のぼくに対する批判でもあるので、ただちにコメントを二つ書いた、暇な方は参照してほしい。
ぼくはこういう双方向的なコミュニケーションが、ブログの神髄であると考える。
起きた時、“悪夢”について書こうかどうしようか迷った。
書く必要を感じたのは、まさにこの悪夢がブログをテーマにしていることがはっきりわかるものであったから。
しかし“迷った”のは、どんな夢でも、言語化すると夢の実質がどんどん失われてしまうから。
それと夢の話は、聞き手には退屈だろうから。
しかし自分のために、その概略をなんとか言葉にしたい。
この夢では“二つのこと”が同時進行していた。
A:ぼくはある仕事をしている(ブログを書いているのではない)
その仕事は期限も迫っているが、ぼくの能力、体力、神経、根気をはるかに超えるような仕事なのである。
その仕事をやりながら、その仕事をやり遂げられない(期限までに、それどころか期限がなくても)ことがぼくにはわかってしまっている。
だが闇雲にぼくはその仕事を続けている(その負担は具体的には目から脳・胃への重苦しさとなって感受されている)
しかし、これがミソだが、ぼくがしている仕事というのは、“アニメを見ている”(かなり大きなスクリーンで)ことなのである(笑)
それも“アニメをつくっている”とか“アニメを見て批評する”という仕事では、ない。
つまりアニメを見て、“何をする”のかぼくにはわかっていないのである、ただ“義務”だけがある。
B:上記と同時に(笑)、ぼくはブログを“書いている”(しかしその行為は夢の現実にはない、現実は上記の“仕事”である)
しかも、あらゆる読者の顰蹙を買うようなブログを書き続けることが止められない。
現実のブログでは、“これは書きすぎだ”とか、ここまで他人の悪口を書くと自分の品性が疑われるというような反省=判断で書かないことまでも、夢の中のぼくはどんどん書くことを止められない。
レトリックやユーモアで緩和することもできず、ひたすら露骨に書き続ける。
事実このぼくのブログに対する様々な“非難の声”がなんとなく聞こえてくる(その声を発している人々は、“なんとなく”今のぼくの現実生活に関わっている人々なのである;笑)
しかも彼らの(ぼくに対する)非難は、あまり露骨ではなく、非常に“良識的”である。
《ああ、warmgunたら、またあんなこと書いて、あれじゃかえって自分がみじめなのよねぇー》といったような非難なのである。
上記AとBが同時進行し、どんどんエスカレートし、もうたまらん、どうしたらいいかわからん!
というところで、目が覚めた。
あまりにも意味が明瞭な夢ではないか!
ぼくは単純な男なのである(爆)
また、寝よう(笑)
そしたら、12時に起きてしまった、典型的悪夢を見て、そこから抜け出すために、無理矢理起きたのである。
そして(あいかわらず)ブログを見たら、不破利晴ブログが更新されていて、ぼくの大澤真幸氏に関するブログがリンクされていて、彼の『文明の内なる衝突』への(自己批判を含む)批判が展開されていた。
ぼくは大澤氏の“親戚”ではないが(笑)、これは一種のぼくに対する批判でもあるので、ただちにコメントを二つ書いた、暇な方は参照してほしい。
ぼくはこういう双方向的なコミュニケーションが、ブログの神髄であると考える。
起きた時、“悪夢”について書こうかどうしようか迷った。
書く必要を感じたのは、まさにこの悪夢がブログをテーマにしていることがはっきりわかるものであったから。
しかし“迷った”のは、どんな夢でも、言語化すると夢の実質がどんどん失われてしまうから。
それと夢の話は、聞き手には退屈だろうから。
しかし自分のために、その概略をなんとか言葉にしたい。
この夢では“二つのこと”が同時進行していた。
A:ぼくはある仕事をしている(ブログを書いているのではない)
その仕事は期限も迫っているが、ぼくの能力、体力、神経、根気をはるかに超えるような仕事なのである。
その仕事をやりながら、その仕事をやり遂げられない(期限までに、それどころか期限がなくても)ことがぼくにはわかってしまっている。
だが闇雲にぼくはその仕事を続けている(その負担は具体的には目から脳・胃への重苦しさとなって感受されている)
しかし、これがミソだが、ぼくがしている仕事というのは、“アニメを見ている”(かなり大きなスクリーンで)ことなのである(笑)
それも“アニメをつくっている”とか“アニメを見て批評する”という仕事では、ない。
つまりアニメを見て、“何をする”のかぼくにはわかっていないのである、ただ“義務”だけがある。
B:上記と同時に(笑)、ぼくはブログを“書いている”(しかしその行為は夢の現実にはない、現実は上記の“仕事”である)
しかも、あらゆる読者の顰蹙を買うようなブログを書き続けることが止められない。
現実のブログでは、“これは書きすぎだ”とか、ここまで他人の悪口を書くと自分の品性が疑われるというような反省=判断で書かないことまでも、夢の中のぼくはどんどん書くことを止められない。
レトリックやユーモアで緩和することもできず、ひたすら露骨に書き続ける。
事実このぼくのブログに対する様々な“非難の声”がなんとなく聞こえてくる(その声を発している人々は、“なんとなく”今のぼくの現実生活に関わっている人々なのである;笑)
しかも彼らの(ぼくに対する)非難は、あまり露骨ではなく、非常に“良識的”である。
《ああ、warmgunたら、またあんなこと書いて、あれじゃかえって自分がみじめなのよねぇー》といったような非難なのである。
上記AとBが同時進行し、どんどんエスカレートし、もうたまらん、どうしたらいいかわからん!
というところで、目が覚めた。
あまりにも意味が明瞭な夢ではないか!
ぼくは単純な男なのである(爆)
また、寝よう(笑)
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